公式スピンオフ小説『遥か先』の二次創作でもあります。
https://note.com/helloworld0920/n/n66a405b741cb
いわゆる「へそ行さん」(映画のエンドロールで出てくる、へそ出し一行さん)の話です。非常に短期間で書いたので稚拙なところがありますが、ご容赦ください。
ヲさんのこちらのイラストも大いに参考にさせて頂きました。
https://www.pixiv.net/artworks/77660384
書架に面陳された真新しい表紙に、
この『推理マガジン』は、北図書館ではいつも争奪戦になる。夏休みの今は尚更だ。貸出中ではないことを事前に確認してはいたが、実物を見るまでは不安を拭えずにいた。暑い中、自転車を飛ばしてはるばる来館した甲斐はあったと思う。
配本ほやほやの最新号を手に取る。ずしりとした重さが心地よい。
──今月は先に、
目次を眺めてニヤニヤしていると、
「堅書、さん」
聞き慣れた涼やかな声に、どくんと心臓が大きく跳ねた。
焦りが湧き起こる。待ち合わせの時間はまだのはずだ。最新号をスマートに一行さんに渡そうと、早く来たつもりだったのに。何より、心の準備が。
振り返って声の主に焦点を合わせる。
ばさり、と直実の手から雑誌が落ちる。
私服の一行
へそを、出した姿で。
* * *
目の前の光景を、直実は必死に解釈しようとする。
瑠璃が着ているのは、直実の約十六年の人生でついぞお目に掛かったことのないデザインの服だった。
薄紅色のトップスは、一見長袖なのに肩から肘近くまで大きな穴が空き、肌が見えている。真っ先に直実が思ったのは、注射の時に便利そうだということだった。
さらに服の前面、前立ての下半分が開いている。ボタンをかけ忘れたのかと思ったが、よく見るとボタン自体がついていない。彼女は両腕を組んで必死に隠しているが、空隙からは陶磁のような白い肌が覗いている。
その中央に鎮座する、慎ましやかな小さな窪み。
初めて目にする、一行さんの──
「あの、堅書さん」
「はっ、はいぃぃぃぃ」
素っ頓狂な声が出てしまった。
ろくに挨拶もせずに彼女をガン見してしまっていたことに気づく。冷や汗が背中を流れる。
「どう、でしょうか」
「え、ど、どうって」
どう。
銅。
原子番号29。元素記号Cu。遷移金属。
条件反射がかつての特訓の成果を容赦なく脳内展開する。一拍遅れてhowの意味だとわかり、慌てて彼女をあらためて見る。
目が泳ぐ。視界に肌色が多い。どこを見ればいいのかわからない。へそから目を逸らすと今度はショートパンツから覗く眩しい太ももが視野に飛び込んできて、急カーブで視線を斜め下にドリフトさせギリギリで回避した。床に落ちた推理マガジンに手を伸ばすと、瑠璃のサンダルがずいと一歩踏み出すのが見えた。足の爪に何か綺麗な色が塗られているのに気づき、どきりとする。
「まさか、お忘れではありませんよね」
低い声に、圧を感じた。
「堅書さんが、見たい、と」
記憶が稲妻のようにフラッシュバックする。
先週、
確か
そうだった。
あの時の僕は全力で、人生の踏み切り板を跳んだんだ。その帰結が、これだ。
緊張まで脳内再生されて、暑さのせいだけではない汗が、額に浮かぶ。
雑誌を拾い、顔を上げる。恐る恐る彼女を見据える。
ドスの利いた声とは裏腹に、その頬が紅潮していることに、ようやく直実は気づく。
切れ長の瞳の奥に、不安げな光が揺れている。固唾を呑んで、彼女は問うている。
言わなければいけない言葉がある、と悟った。もう一度、踏み切り板を蹴って、直実は跳んだ。
「か」
まるで言い慣れていないその単語を、口にする。
「かわいい……です」
今度は瑠璃が動揺する番だった。真っ赤になって口をぱくぱくさせている。
ああ、ほら、だから、そういうとこですよ、一行さん。
そんな表情を見せられて、やけくそになって、直実はさらに跳ぶ。
「かわいいですよッ」
連呼していると変な度胸が湧いてくる。
「めちゃくちゃかわいいですし、それに、その、あの」
正直言って、かわいいなんていう生易しいものではない気がする。免疫のない直実には、少々刺激が強い服装と言っていい。
図書委員会のホワイトボードに書かれた《不純異性交遊禁止》の一文が脳裏をかすめ、いや、これは断じて不純とかそういう類のものではない、と思い直す。
だが、続く適切な単語が思いつかない。失礼なことは絶対に言えない。語彙力は自信があったはずなのに。必死に脳内辞書をサーチしていると、瑠璃の口から予想もしない言葉が飛び出した。
「確かにこれは、相当に扇情的な衣服です」
「えっ」
心を読まれたのだろうか。肝を冷やすと同時に、戸惑いを覚える。肯定と否定が、脳内で衝突する。
「買わされた時には、これほど面積の小さい端切れのような服を、果たしてどこの誰が着るものかと」
強い言葉に思わず縮み上がる。直実から見ても、端切れだと認めざるを得ない。
「ですが先週、堅書さんが」わずかに言い淀む。「ああ仰って下さいましたので」
瑠璃は、まっすぐにこちらを見た。
「やって、やりました」
その真剣な表情には、既視感があった。
古本市の日。
夕日が差し込む図書準備室で、アリスの格好をした彼女が見せてくれた、あの顔。
──本をたくさん売ると決めましたので、やってやりました。
二ヶ月前のことなのに、もうずっとずっと昔のことのようにも思えた。
「それに、家で姿見を見て、あらためて思ったのです」真面目な顔で瑠璃は続けた。「着るべき人が着れば扇情的になるでしょうが、私ごときが着たところで、別にどうということはない、と」
いや、それは違います、と直実は思う。どうということは、あります。いや、ありまくりです。
けど、とても口には出せない。というより、肯定しても否定しても不正解な気がする。必死に返答をシミュレートしていると不意に、隣の棚から咳払いが聞こえた。
直実は周囲を見回し、慌てて声を潜めた。
* * *
炎暑の日差しが、
北図書館で借りた本をカゴに入れ、自転車を押して歩く。川向こうの
だが、直実の足取りは、どうにも落ち着かない。
ちらりと隣を盗み見る。
いつもの仏頂面の瑠璃が、並んで歩いている。へそ出しトップスにもショートパンツにも、臆する様子がない。
あらためて彼女の度胸に感心してしまう。それにひきかえ僕は、と思う。むしろ自分のほうが気恥ずかしくなってきた。なんだか道行く人達が皆、彼女のことを見ているような気がする。
知らない高校の男子生徒の一団が、すれ違いざまに無遠慮な視線を投げてきたように見えた。
なんだ、あいつら。
反射的に睨み付けてから、あれ、と思う。
──なんで僕は、さっきから腹を立てているんだ?
一行さんがかわいい服を着てくれて、すごく嬉しいはずなのに。
見たいですと言ったのは、僕のほうなのに。
どうしてこんなに、もやもやしているんだろう。
彼女に嫌な思いをしてほしくないから? それはある。けど、たぶん、それだけじゃない──
「どうかしましたか」
トウカエデの木陰で立ち止まった瑠璃が、心配そうにこちらを見ていた。
直実も足を止める。蝉時雨と熱気が、肌にまとわりつく。汗が噴き出す。
「あ、いえ……なんでも」
だが瑠璃は無言のまま、探るような目を向けてきた。琥珀色の瞳に、すべて見透かされているような気がする。誤魔化せない、と直感が告げている。
少し躊躇してから、口を開いた。
「あの、一行さん」
「はい」
「ええと、今日、その服を着てくれて……めちゃくちゃ、嬉しかったです」
「そうですか」
能面のような表情の瑠璃。何を考えているのか、まったく読めない。
「でも、ええと、ちょっと参ったなっていうか」
瑠璃は無表情のまま、かすかに首をかしげた。
「その、僕……さっきから何だか、変なこと考えちゃって」
「変なこと」
「あ、ち、違うんです。変な意味じゃなくて」慌てて弁解する。「あの、何ていうか……こうやって外を歩いてると落ち着かないっていうか。一行さんのこと、じろじろ見られてる気がして、なんか、もやもやしちゃって」
好きな人のかわいい姿を、見たい。
けど、他人には、見られたくない。
生まれて初めての相反する感情に、直実はまだ名前を付けられずにいる。
「……ごめん。着てほしいって、僕が言ったのに。すごく勝手なこと言って……ます、よね」
自覚はあった。それがとても、情けなかった。
自転車のハンドルを押す右手に目をやる。
二ヶ月前までそこにあった
だけど次の瞬間、それは詭弁だともう一人の自分が言う。守りたいんじゃなくて、ただ一行さんを自分のものにしたいという、自分勝手な欲望でしかないんじゃないか。
少し怖くなった。素手で虚しく、ブレーキを握り締める。
「ならば」やや呆れた調子の瑠璃の声がした。「何か羽織るものでも買いましょうか」
え、と直実は驚いて顔を上げる。
「私自身、少々落ち着かなかったのは事実です。お気遣いいただき、すみません」
瑠璃は布地の裾を握り、小さく俯いた。
彼女の優しさに少しだけ気が楽になる。だが同時に、猛烈な申し訳なさが湧き上がってきた。これで良かったのだろうか、と自問自答する。
これじゃ、一行さんの心意気を全否定してしまってるじゃないか、と思う。燃やすとまで言っていた服を、勇気を出して着てくれたのに。
──僕の、為に。
その事実に、あらためて身が引き締まる思いがした。
ハンドルをぎゅっと握り、顔を上げた。彼女をじっと見据える。蝉の声がフェードアウトする。考えがまとまらないまま、直実は話し出した。
「一行さん、すいません。言葉、足りてなかったです、全然」
足りない言葉をどう埋めれば良いか、わからない。だが、とにかく言葉を尽くすしかない。
「その服、着てほしくないとかじゃ全然なくて。ほんとに嬉しいんです。めちゃくちゃかわいいし、それ以上に……着てくれたこと自体、なんていうか、ちょっとじーんと来ちゃって」
瑠璃は、黙っている。
「けど、一行さんに危ない思い、してほしくないし…………いや、やっぱ、正直に言います」
彼女の前でプライドは無意味だ。自分の中のエゴイズムと対峙する。
「他の人に、見せたくないなって」
独占欲という人生初の厄介な感情の輪郭を、直実はようやく掴みかけていた。
こんな粗野で自分勝手な心境を、彼女にぶつけていいんだろうか。
だが、一度走り出した勢いは止まらなかった。
「ていうか、ええと、こんなこと言っちゃなんですけど、すごい身勝手なこと言ってますけど、つまりその、僕だけが知ってたいなってことで、その、一行さんの、お、おへ、そ…………あっ、いや、あの、すいません、今すごく気持ち悪いこと言いました、ごめん」
途中で猛烈な自己嫌悪が襲ってきた。だらだらと汗が流れる。ダメだ。完全にやらかした。最悪、振られても不思議はない。
この世の終わりのような気分で、じっとスニーカーを見る。夏の一陣の風が、二人の間を通り抜けた。
「そうですか」
身を固くする。
「その気持ち、私も分かる気がします」
えっ。
「ならば、これは……私と堅書さんだけの秘密、ということで」
穏やかな口調に拍子抜けした。おずおずと、上目遣いに彼女を見上げる。薄い微笑みが浮かんでいた。
遅れて意味が頭に入ってくる。
「これ、とは」
「……っ!」
いきなり睨まれた。
瑠璃は華奢な手をお腹に当てた。小さなへそが、そっと隠される。
「こ、ここ……です」
打って変わって、消え入りそうな声で瑠璃は呟いた。
無表情を貫くその顔は、しかし、耳まで朱に染まっていた。
* * *
予定を少し変更して、北大路の大型ショッピングモールに寄る。GUなら小遣いで賄えそうだと判断して三階に上がると、薄手のオーバーサイズパーカーが目に入った。同じ服が目に留まったらしい瑠璃と、二人で頷き合う。腰まで隠れそうな丈に、瑠璃は幾分ほっとした表情を見せる。
「堅書さんは、どの色が良いと思いますか」
直実は面食らう。困った。女子の服のことなんて、何もわからない。自分の決断力のなさも、痛いほど自覚している。
これはもう、直感で選ぶしかない。
直実は、白を手に取った。
「白とか……どうですかね」
「涼しげで、良いと思います。他の服とも合わせやすそうですし」
なるほどと思う。なんかいいなという程度の頼りない理由が補強されて、直実は安心感を覚えた。
レジでタグを切ってもらい、そのまま羽織った瑠璃と四階に上がる。
外に出て、他愛ない話をしながら
「ここからは、川沿いが近道です」
言い終わらないうちに、すたすたと河川敷の歩道へ降りていく。直実も慌てて自転車を押して続いた。下鴨の地理は、彼女に任せたほうが早い。
川べりをしばらく歩いたところで、再び瑠璃が足を止めた。きょろきょろと周囲を見回している。
「一行さん、少し、休みます?」
「今なら、人もほとんどいません」
直実に向き合った瑠璃は、突然パーカーの前を、そっと開けた。
ちらりと、へそが見えた。
「……!?」
え、と思った次の瞬間にはもう、パーカーは閉じられていた。そのまま瑠璃は、何事もなかったかのように歩みを再開する。
な、なんだったんだ、今のは。
頭上に特大の疑問符を浮かべながらも、直実は後をついていく。その十分後、瑠璃が再度へそを見せてきた。
「……あの、一行、さん?」
「ここでしたら人目もないかと」
「!?」
「お楽しみいただけませんでしたか」
「いや、その、ちょっといろいろと限界なので、頻度、少し落としてもらえますか」
何を言ってるんだろう、僕は。
「一理あります。馴化してしまっては元も子もありません。ならば、ここぞという時に」
瑠璃は裾を手で合わせ、へそを隠すようにした。だが、無言でパーカーに目を落としたまま、何やらそわそわと落ち着かない。
ここぞという時って何だ、と思いながら直実が煩悩と戦っていると、不意に瑠璃がすっと背筋を正して川の方を向いた。
「堅書さん」
そう言うと彼女はいきなり、くるりと優雅にターンした。
光る川面をバックに、ツインテールが美しい幾何曲線を描く。白いパーカーの裾がふわりとひるがえり、ちらりとへそが見えた。
「え」
直実は何を見せられたのかわからずにいる。それは、どこか一行瑠璃らしからぬモーションだった。
だが、暑さのせいだろうか。
こんな綺麗な光景が、この世界にあるんだ、と直実は思った。
「ふふ、こんな気持ちになるものなのですね」
かすかに照れを孕んだ口調で瑠璃が言った。意味を掴みかねていると、瑠璃がひょいとパーカーのフードをかぶった。予想外のキュートさに、直実の心臓は鷲掴みされる。
愛おしそうに服の布地を撫でて、瑠璃は続ける。
「堅書さんに選んでいただいた服を着る、というのは」
ほころんだ花のような笑顔が、〝こんな気持ち〟を雄弁に物語っていた。
心の中で、ひたすら連写する。
白いフードの立ち姿を目に焼き付けるうちに、なぜこの服を自分が選んだのか、直実は分かった気がした。
──ほら、ペアルックですよ、先生。
心の中で呼びかける。不思議と涙は出てこなかった。
嬉しさを滲ませる白いフードの背後に、真昼の月がぽっかりと浮かんでいた。
* * *
減圧完了を示す赤いインジケータが、エアロックのモニタに灯った。
ナオミはごくりと唾を呑み込んだ。数値は、小さな減圧室の内部がほぼ真空になったことを示している。体を覆うしなやかな白い布地は、不安になるくらい薄い。かつての世界で知識として知っていた宇宙服とは、あまりにも違う。
「堅書、さん」
聞き慣れた涼やかな声に、心細さがかき消えた。
「準備完了です。ハッチを開けていただいてかまいません」
先にドームの外に出ていた一行瑠璃の声が、耳元で響く。
「その、本当に大丈夫なのか……こんな薄い宇宙服で、プリブリーズも無しで」
ナオミは素直に、懸念を口にした。彼女の前でプライドは無意味だ。
「そのためのアンビリカルです」
瑠璃はきっぱりと答えた。
アンビリカル。
宇宙服のお腹のあたりのコネクタから生えている太いケーブルを、ナオミは訝しげに持ち上げた。
「エアロック周辺からは離れられませんが、アンビリカルタイプの
「ああ。どうせまだ長い距離は歩けないし、外に出られるだけで充分だよ」
ふふ、という彼女の小さな声が聞こえた。「医療チームにはきっと、時期尚早と叱られるでしょう。ですから今日のこれは、私と堅書さんだけの秘密、ということで」
秘密という言葉が胸を熱くする。彼女と小さな共犯者になれることが、少し嬉しかった。
いささか心許ないケーブルを、グローブ越しに軽く握り締める。
信じようと思った。科学を。そして、彼女の言葉を。
ハッチに手を掛ける。
「もちろん」
「ならば、さあ、堅書さん」
教わった通りにハッチを操作すると壁が開いて、〝外〟が見えた。
「あ……」
息を呑む。言葉が出ない。
漆黒の空に浮かぶ強烈な太陽。灰色の荒野に点在する人工物。
ドームの中から窓越しに見える月面とは、まるで別物のような気がした。幾度となく想像したSFの世界を遥かに超える光景が、目の前に広がっている。
指を弾こうとして、やめた。
これは現実だ。そのことを、ナオミは何よりも良く知っていた。
小さな一歩を踏み出す。整地された地面に足跡は残らない。それでも薄く積もったレゴリスがふわりと舞った。
HUDの数字の向こう、数十メートルほど前方に、大きく手を振る人影が見えた。彼女の白いスーツからも、蛇行したアンビリカルがドームまで伸びている。
ナオミも手を振り返し、一歩ずつ慎重に近づいていく。歩容はまだぎこちないが、外を歩ける喜びがじわりと胸を満たした。
あと数メートル、というところまで来たところで。
目の前の白いスーツ姿がいきなり、くるりと優雅にターンした。
モノクロの空と大地をバックに、逆光のアンビリカルが美しく波打つ。低重力下での踊るような所作に、宇宙服の金属部分が時間差できらりと輝いた。
なぜかはわからないけれど。
こんな綺麗な光景が、この世界にあるんだ、とナオミは思った。
「どう、でしょうか」
彼女の声が、アンビリカルを通じて届けられる。
「いつか、SF好きの堅書さんに、見ていただきたかったのです」
その語尾は、ほんの少し震えていた。
「宇宙服を着た、私のこと」
表情は、まったく窺えない。ヘルメットのバイザーには銅とITOの極薄コーティングが施され、太陽の苛烈な光と熱を遮断している。だがナオミには、眼鏡越しに目を潤ませた一行瑠璃の顔が見えた気がした。
「やって、やりました」
高い所が苦手だった彼女が、宇宙服を着て、高度三十八万キロメートルの空の果てに立っている。彼女が費やしたであろう、想像を絶する努力と覚悟に思いを馳せる。
──
その事実に、あらためて身が引き締まる思いがした。
言わなければいけない言葉がある、と悟った。
この場にふさわしいかはわからない。だけど、真っ先に頭に浮かんだ単語は、それだった。圧倒的な情報偏重を吹き飛ばせるであろう、唯一の言葉。
ええい、ままよ。心の中で、思いっきり助走をつける。
人生で何度目かのジャイアントリープを、ナオミは跳んだ。
「かわいい」
アンビリカル越しに、息を呑む音が聞こえた。かすかに、あ、あぅ……という声が続く。何か言い返そうとして、言い淀んでいる時の声。
ああ、ほら、だから、そういうとこだよ、一行さん。
やけくそになって、ナオミはさらに跳ぶ。
「かわいい、です、よッ」
強拍を付けて言い放つ。直後、猛烈な照れが返り討ちしてきた。HUDの心拍数表示は、空気を読まない。
まったく、本当にこの人は。
ヘルメット越しに意味もなく頭をかきながら、全部、相手のせいにした。そのくらいの権利はあるだろう。
わたわたと挙動不審になっている彼女の手をそっと取る。断熱されているはずのグローブがぎゅっと握り返されて、かすかに熱が伝わってくる気がした。言葉はもう不要だった。
手を繋いだまま、背後を振り返る。銀色に輝くドームに向かって、二つの人影と二本のケーブルが、長く尾を曳いている。ドームの上には、少し欠けた地球が浮かんでいる。SF映画のラストシーンにでもありそうな、最高に痺れる眺めだった。
この秘密の光景を、誰にも知られたくない、とナオミは思った。自分の強烈な独占欲は、大学時代にとっくに自覚していた。
ふと、思い返す。SF好きのあいつにだけは、見せてやってもいいかな。
でも、まぁ、あいつなら、いつかきっと自力でここに辿り着くか。
無性にそんな気がして、ナオミはいつまでも二人だけの宇宙を眺めていた。二本のアンビリカルはまるで、二人の軌跡を示す轍のように見えた。
コメント・感想・批評、ブクマ/すき、いいね、マシュマロ、SNSシェアなど、頂けるとうれしいです! 本当に励みになります。
簡単な無記名アンケート・感想フォーム作りました。全問任意なのでご協力頂けるとうれしいです。https://forms.gle/E3GM8VYDLGAJNznb8
Pixivにも同時投稿しています:
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=29180400
PDF・EPUBダウンロードはこちら:
https://a-out.booth.pm/items/8163330
他にも『HELLO WORLD』の二次創作を書いています。だいぶ毛色が違いますが、よろしければ読んで頂けると幸いです。
・2027年7月2日20時57分24秒(3周年記念)
・「一条」さん
・エキセントリシティ(4周年記念)
・今日くらいは
・アルタラセンター26時
・ミッドサマーナイト・レコード(5周年記念)
・二次小説(HELLO WORLD二次創作としても読める)
・本は買うだけでいい(6周年記念)