魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~ 作:龍改二
白玉楼から解放された春の奔流は、滞っていた時間を一気に押し流すようにして、幻想郷の隅々へと行き渡っていった。
あれほど大地を白く閉ざしていた雪は、わずか数刻の間に柔らかな水音を立てて解け去り、黒々とした土が春の温もりを吸い込んで湯気を立てていた。標高の高い博麗神社の境内でも、長い冬を耐え忍んだ古木が一斉に息を吹き返し、見渡す限りの淡い薄桃色の花弁を、青空に向かって惜しげもなく咲き誇らせている。時折吹き抜ける春風が梢を揺らすたび、無数の花びらが雪の代わりに舞い散り、清々しい木の香りが鼻腔をくすぐった。
境内の縁側では、異変の解決を名目にしたささやかな宴が、いつの間にか始まっていた。
「ちょっと魔理沙、あんた食べ散らかさないの! 煎餅の粉をボロボロ零すんじゃないわよ」
「堅いこと言うなよ霊夢。春が戻ってきたんだ、めでたいじゃないか。ほらこの団子、人里の老舗のやつだぜ。うまいぞ」
霊夢が袖を揺らして小言を並べ立て、その横で魔理沙が口いっぱいに茶菓子を頬張りながら笑っている。縁側の端には、持参した茶器を並べて静かにお茶を淹れ直しているアリスの姿もあった。先ほどまでの死線が嘘であったかのように、そこにはどこまでも平穏で、少しばかり騒がしい日常の空気が流れていた。
フリーレンは輪から少し離れた日陰の縁側に腰を下ろし、両手で包み込んだ湯呑みを見つめていた。
湯気の向こうで舞い踊る桜の花びらは、冥界の西行妖が放っていた狂おしい死の香気とは異なり、ただ純粋に、暖かな季節の訪れを祝うように柔らかい。
「……ふう」
小さく息を吐き、茶をすする。
長かったような、ほんの一瞬であったような奇妙な時間だった。
魔力の痕跡すら残さずに空を滑る巫女。短命を呪うこともなく、今この瞬間の火力に全てを賭ける魔法使い。魔法の高みに至るため、躊躇なく人間であることを捨て去った人形遣い。そして、自らを滅ぼす桜の封印すら忘れ、ただ咲かぬ花を希求し続けた亡霊の姫。
自分の生きてきた世界では決して出会うことのなかった、理屈の通らない者たち。
だが、その誰もが確かに息づき、それぞれの在り方を肯定しながらこの閉ざされた楽園に留まっている。
「……お茶のお味はいかがかしら、異界の魔法使いさん」
頭上から、落ち葉を踏むような気配すらなく、艶やかな声が落ちてきた。
フリーレンが視線を上げると、神社の大きな注連縄の陰、満開の桜の枝のすぐ下に、空間の裂け目が静かに口を開けていた。
紫色の豪奢な道士服を纏った八雲紫が、日傘を優雅に傾けながら、その境界の縁に腰掛けていた。金色の髪が春の光を受けて淡く輝いている。
紫は日傘の先を軽く回し、遠くを見つめるような涼やかな眼差しでフリーレンを見下ろした。
「フリーレンといったかしら。……あなた、死者の魂が集う場所を目指しているそうね」
唐突な問いかけだったが、フリーレンの表情は動かなかった。湯呑みを縁側に置き、翡翠の瞳を静かに紫へと向ける。
「……知っていたんだ」
紫はふっと唇の端を吊り上げ、日傘を閉じて手元で弄んだ。
「白玉楼は本来、死者のみが立ち入りを許される地よ。命ある生者がその庭園に足を踏み入れることができたのは、私の能力で幽明結界に穴を開けてあげたから。……あの冥界の主ですら、その理を覆すことはできないわ」
その紫紺の双眸が、鋭く細められた。その瞳は観察者のそれであり、同時に悠久の時を生きる者特有の、冷徹な忠告の色を帯びていた。
「もしもあなたが、あなたの世界で似たような場所を目指しているというのなら……そこは、生者を拒絶するかもしれないわよ。死者の領域とは本来、生者が生きたまま踏み越えてよい場所ではないの」
紫の言葉は、静かにフリーレンの胸の奥底を突いた。
大陸の最北端、エンデの地に眠るとされるオレオール。
師フランメが手記に遺し、ヒンメルと再び言葉を交わすために目指しているその地もまた、この世界の白玉楼と同じように、生者にとっては踏み込んではならない禁域である可能性がある。もしそこが完全な死の国であるならば、生きている肉体を持ったまま辿り着くことなど、初めから許されていないのかもしれない。
「あなた自身の『死』というものに、もう少し考えを巡らせておくことね」
紫は静かに告げた。
「悠久の時を生きる私たちみたいな妖怪には……それはひどくボヤけていて、曖昧なものなのだから。終わりを意識しない長命者ほど、いざ死の境界に直面したとき、呆気なくその深淵に呑み込まれてしまうものよ」
永遠に近い生を享受するがゆえに、自らの命の輪郭を見失ってしまう。かつて自らを犠牲にして西行妖を封じた幽々子が、その記憶すら忘却の底に沈めてしまったように。
フリーレンは自らの小さな手のひらを見つめた。
指先を曲げ、皺を確かめる。確かに自分は千年以上を生きてきたし、これからも人間の寿命を遥かに超えて生き続けるだろう。死などという概念は、身近にありながら、自分自身にとってはあまりにも遠く、希薄なものだった。
「……考えておくよ」
フリーレンは静かに答えた。
「私の仲間だった勇者は、人間だった。彼は自分の命が短いことを知っていて、だからこそ、未来に生きる人たちのためにたくさんのものを遺していったんだ。……私にはまだ、死の重みはよく分からないけれど。でも、彼が遺したものは、忘れたくないと思っているよ」
その返答を聞いた紫は、一時だけフリーレンの翡翠の瞳をじっと見つめ、やがて満足したように小さく息を漏らした。
「そう。なら、余計な心配だったかしらね」
紫が袖を払うと、彼女の背後の空間が大きく歪み、人ひとりが優に通れるほどの巨大な裂け目が、漆黒の闇を孕んで口を開けた。その裂け目の向こう側からは、懐かしい草木の匂いと、冷涼な夜の風の気配が微かに漂い始めていた。
「準備は整ったわ。境界の門を開いておいた。この穴をくぐれば、あなたが元いた場所へとそのまま繋がっているわ」
「おいおい、もう帰っちまうのか?」
境内から、騒がしい足音が駆け寄ってきた。
八卦炉を腰にぶら下げた魔理沙が、名残惜しそうにとんがり帽子の鍔を押し上げながら縁側に飛び乗ってきた。その手には、布で無造作に包まれた奇妙な塊が握られている。
「ほらよ、これを持って行きな」
魔理沙がフリーレンの膝の上へ、それを放り投げるようにして押し付けた。
包みを開けると、中から現れたのは、奇妙な斑点模様の浮かぶ乾燥したキノコの標本だった。微かに魔力の残滓を帯びており、独特のツンとした刺激臭を放っている。
「魔法の森で採れた特製のキノコだ。煮出せば魔力回復の妙薬になるし、砕いて火にくべれば派手な煙幕にもなるぜ。……退屈したらまた来いよ。次はもっと派手な弾幕ごっこをしようぜ」
魔理沙は悪戯っぽく白い歯を見せて笑った。
短命である己の生を全力で疾走する人間の、裏表のない純粋な好意。フリーレンは手の中の乾燥キノコを見つめ、小さく口元を緩めた。
「ありがとう。……煮出して飲むのは、少し勇気が要りそうだけどね」
「はは、失礼だな!」
魔理沙が肩をすくめて笑う背後から、静かな足取りでアリスが歩み寄ってきた。
彼女の手の中には、陶磁器のパーツを組み合わせた小さな人形が抱えられていた。青いリボンで丁寧に髪を結い、精巧なレースのドレスを纏った、掌にすっぽりと収まるほどの可愛らしい上海人形だった。
「これを持っていきなさい」
アリスは人形を両手で差し出した。
「私の魔力の糸は切ってあるから、今はただの精巧な人形よ。でも、魔力を通すための回路はそのまま残してあるわ。あなたの技術なら、遠隔操作の練習台くらいにはなるでしょう」
「……いいの? 君の大切な作品だろうに」
「構わないわよ。でも、少し残念だわ。……常識人の魔法使いは、この幻想郷じゃ貴重だから」
アリスは小さく息を吐き、傍らで笑う金髪の少女――魔理沙の横顔へと、一瞬だけ静かな視線を投げかけた。
その青い瞳の奥に宿っていたのは、人間をやめて妖怪となった者が、有限の命を駆け抜ける友を見つめる、痛切なまでの慈愛と諦念だった。
アリスは視線をフリーレンへと戻し、声音を落として囁いた。
「……忘れないでね。人間の仲間との時間を、大切にしてあげるのよ。私たちと違って、瞬きをする間に消え去ってしまうのだから」
「……うん。ちゃんと覚えておくよ。ありがとう、アリス」
不器用な魔法使いが人形に込めた、静かで温かな想い。フリーレンはその掌の重みを確かめるように、小さな上海人形を胸元へと引き寄せた。
「まったく、湿っぽいのは性に合わないわね」
お祓い棒を手にした霊夢が、面倒そうに首を鳴らしながら歩み寄ってきた。
緋色のリボンを風になびかせ、いつものジト目でフリーレンを見下ろす。
「今度来るときは、ちゃんとお賽銭箱にお金入れなさいよ。小銭の一枚も持ってないなんて、みっともない真似はナシなんだから」
「……善処するよ。フェルンがお小遣いをくれたらね」
「情けない魔法使いねえ」
霊夢は呆れたように息を吐き出したが、すぐにその表情をわずかに和らげ、どこかぶっきらぼうに言った。
「それと……あんまり長生きして、世捨て人みたいになるんじゃないわよ」
その言葉には、理屈を超越した力で世界から浮かび続ける博麗の巫女なりの、不器用な気遣いが込められていた。人間と妖怪の狭間に立ち、数多の怪異を見送ってきた彼女だからこそ言える、生者へのはなむけ。
フリーレンは赤褐色の杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
白銀のツインテールが、春風に吹かれてふわりと揺れる。
「うん。君たちの魔法、とても面白かったよ」
フリーレンは霊夢、魔理沙、アリス、そして頭上の紫を順に見つめ、穏やかに翡翠の瞳を細めた。
「また、百年後くらいに、ふらっと寄るかもしれないな」
エルフにとっては、ほんの少しの散歩に出かけるような感覚の言葉。
だが、それを聞いた霊夢は、眉をひそめて心底おかしそうに吹き出した。
「はっ。その頃には私らみんな死んでるっつーの」
「あはは、違いないぜ! 私の墓でも拝みに来てくれよな!」
魔理沙が快活に笑い、アリスも困ったように苦笑いを浮かべた。
有限の生を駆け抜ける人間と、それを笑って見届ける妖怪たち。そのあまりにもあっけらかんとした死生観に、フリーレンは再び、かつて仲間たちと交わした他愛のない会話の数々を思い出していた。
百年後、彼女たちはここにはいないかもしれない。
だが、今日ここで交わした言葉や、手渡された他愛のない品々は、千年の時を越えて自分の中に残り続ける。ヒンメルが遺してくれた思い出と同じように。
去りゆく者たちを見送り、その記憶を抱えて歩み続けること。それが、この長すぎる時を生きる魔法使いにできる、静かな手向けなのだから。
「……それじゃあ、またね」
フリーレンは背を向け、紫の開いた空間の裂け目へと、迷いのない足取りで踏み出した。
闇が視界を包み込み、幻想郷の春の光が背後で小さくなっていく。
その境界の狭間へと意識が沈み込む直前――フリーレンの意識の端に、遠く離れた冥界の光景が、陽炎のように一瞬だけ去来した。
* * *
冥界、白玉楼。
吹き抜ける春風は、現世と同じように暖かな日だまりの匂いを運んでいた。
どこまでも続く広大無辺な庭園は、あの時フリーレンが放った『花畑を出す魔法』の名残を留め、見渡す限りの蒼い絨毯――『蒼月草』の花々で満ち溢れていた。白砂の上に散り敷かれた青い花弁が、風に乗ってふわりと舞い上がり、青空へと溶けていく。
庭園の中央に聳え立つ西行妖は、花を開くことなく、静寂の中で深い眠りについていた。
狂気的な死の呪詛は完全に沈静化し、ただの巨大な老木として、静かに冥界の空を支えている。
その幹に背を預け、根本へと腰掛けた西行寺幽々子は、青い花弁が舞い散る庭を穏やかな瞳で見つめていた。
手にした扇をゆっくりと閉じ、自らの足元に寄り添うように控える庭師へと視線を落とす。
二振りの刀を佩いた魂魄妖夢が、名残惜しそうに空を見つめながら口を開いた。
「幽々子様。……行かなくて、よかったのですか? あの方、もう元の世界へお帰りになられる頃ですが」
幽々子は薄桃色の髪を風に遊ばせながら、春の陽だまりのように柔らかく微笑んだ。
「いいのよ」
鈴を転がすような、透き通った声が青い花畑に染み渡る。
「出会いや別れは……生きている人の特権なんだから」
幽々子は舞い落ちてきた一輪の蒼月草の花を掌で受け止め、愛おしそうに胸元へと引き寄せた。
死者の記憶は失われても、手向けられた花の温もりは、確かにその魂の底に刻まれている。
吹き抜ける柔らかな春風が、庭一面の蒼い絨毯を、静かに、静かに揺らしていた。
* * *
ふっと、浮遊感が途切れた。
足の裏に伝わってきたのは、雪の冷たさでも、白砂の滑らかさでもない。踏み慣らされた湿った土と、幾重にも重なり合った枯れ草の確かな感触だった。
パチ、パチ、と。
静まり返った夜の帳を破る、乾いた薪の爆ぜる音が耳を打った。
フリーレンがゆっくりと瞼を持ち上げると、視界を満たしたのは、見慣れた暗がりと、赤々と燃え盛る小さな焚き火の炎だった。
鬱蒼とした針葉樹の巨木が夜空を覆い、枝の隙間から冷たい星々が覗いている。
北側諸国の、いつもの野営地の光景。
「――フリーレン様!!」
唐突に、鼓膜を突き破らんばかりの怒声が正面から飛んできた。
フリーレンが瞬きをすると、目の前には、両手を腰に当てて仁王立ちになったフェルンの姿があった。
いつもの黒いローブを纏い、紫色の長い髪を夜風に揺らしながら、その丸い顔を限界までぷくっと膨らませている。その瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの涙と、烈火のごとき怒りが宿っていた。
「急にいなくなったと思ったら、いったいどこへ行っていたのですか! 朝起きたら毛布だけ残されていて……私たちがどれほど心配したと思っているのですか! バカです! フリーレン様のバカ!」
魔法弾の速射のように浴びせられるお小言に、フリーレンは思わず半歩後ずさった。
「フェルン、落ち着いて……」
「落ち着いていられません! シュタルク様も、フリーレン様が魔物に連れ去られたんじゃないかって、森中を走り回っていたんですよ!」
焚き火の向こう側で、地面にへたり込んでいたシュタルクが、泥だらけの顔を上げた。
「無事でよかったぜ、本当に……。心臓が止まるかと思ったぞ……」
肩を落として心底安堵の息を吐き出す戦士の少年と、なおも怒りが収まらずに腕を組んで眉を吊り上げている弟子の少女。
いつも通りの、騒がしくて、少しばかり耳が痛い、けれど何よりも大切な日常の風景。
フリーレンは胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じていた。
白玉楼の冷たい静寂の中で抱いた、あの焦燥と寂寥。忘却に呑まれることなく、今この場所で、自分を待っていてくれた生者たちの温もりが、身体の芯へと染み渡っていく。
「……ごめんね、フェルン。心配をかけたね」
フリーレンが素直に頭を下げると、フェルンは虚を突かれたように言葉を詰まらせ、それから気まずそうに視線を逸らした。
「……分かればいいのです。本当に、無事でよかったです……」
フェルンは小さく呟き、焚き火の上の鍋をかき混ぜるために背を向けた。その背中には、まだ微かな震えが残っていた。
フリーレンは焚き火の傍らに腰を下ろし、白いケープの懐へとそっと手を差し入れた。
指先に触れたのは、三つの確かな感触だった。
取り出してみる。
掌の上には、魔理沙から押し付けられた、独特の匂いを放つ奇妙な乾燥キノコ。
アリスから手渡された、静かに眠る小さな上海人形。
そして――いつの間にか紛れ込んでいた、たった一枚の淡い桜の花びら。
幻想の如き世界で出会った、理屈を超えた魔法使いたちの記憶の欠片。
「フリーレン様? それ、何ですか? ……見たことのない花びらですね」
木椀に温かいスープを注ぎ分けたフェルンが、不審そうにフリーレンの手元を覗き込んできた。
シュタルクも焚き火にあたりながら、怪訝そうに首を傾げている。
「なんだその人形……それに、すげえ変なキノコだな。どっかで拾ってきたのか?」
二人の問いかけに、フリーレンは手の中の宝物を愛おしそうに見つめ直した。
それから、白いケープの懐へと大切にしまい込み、フェルンから差し出された木椀を両手で受け取る。
じんわりと掌に広がるスープの温もりに、翡翠の瞳を細めた。
千年の時を歩むエルフの口元に、春の陽だまりのような、穏やかで優しい微笑みが浮かぶ。
「ちょっとね」
パチパチと爆ぜる炎を見つめながら、フリーレンは静かに言った。
「珍しい魔法使いに、会ってきたんだ」
あとがき
これにて、『魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~』は完結となります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
初めてのクロスオーバーへの挑戦でしたが、大好きな『葬送のフリーレン』と、東方シリーズ屈指の情緒を持つ『東方妖々夢』の世界を交差させることができて、作者としても胸がいっぱいになる執筆期間でした。
あの冥界の美しさや二つの作品の魅力が、少しでも伝わるものになっていれば幸いです。
もし本作を少しでも気に入っていただけましたら、ページ下部より評価をいただけますと大変励みになります!
改めまして、最後までお読みいただき本当にありがとうございました!