大魔法使いゼーリエは、弟子の問いに一つの名を挙げる。
勇者ヒンメルでも、南の勇者でもない。歴史に名すら残っていない、ただの片腕の人間「孫悟飯」だと。
絶望の未来で死を迎え、見知らぬ異世界へと流れ着いた孫悟飯。
単独で魔王すら殺せる圧倒的な力を持ちながら、彼は「よそ者が力で世界の未来を勝手に決めること」を拒み、ただ自分の目の届く小さな村だけを守り抜くことを選んだ。
これは、魔法を持たない黄金の戦士と、永遠に近い時を生きるエルフの大魔法使いが織りなす、静かで温かい数十年の記録。
「馬鹿みたいに、人間だったな」
――ゼーリエの記憶に永遠に刻まれた、最強の戦士の物語。
「ゼーリエ様がこれまでに見た中で、最も強かった戦士は誰なのですか?」
その問いは、ほんの気まぐれな暇つぶしから生まれたものだった。
大陸魔法協会の頂点に立つ大魔法使い、ゼーリエの居室には、今日も数人の弟子たちが顔を揃えていた。
北部高原における魔族の動向、新種の魔物の生態、新たに発見された魔法の術式、そして一級魔法使い試験についての経過報告。
そのどれもが人間の世界にとっては決して小さくない話題だったが、ゼーリエにとっては退屈を紛らわせるに足るものではなかった。
数百年どころではない。千年以上――人類がまだ魔法という概念を体系化する遥か以前から、彼女はこの世界の魔法を見つめ続けてきたのだ。
新しいと持て囃される魔法の大半には過去に似通った前例があり、時代を彩った英雄たちも数えきれないほど見送ってきた。国が興り、滅び、その瓦礫の上にまた別の国が産声を上げる。そんな栄枯盛衰の景色を、彼女は気の遠くなるほど反復して眺めてきた。
だからこそ、弟子たちは報告が終わると、時折こうしてゼーリエに昔話をせがむのだった。長命種である彼女しか知り得ない、遠い時代の物語を。
「最も強い戦士、か」
玉座のような椅子で頬杖をついたまま、ゼーリエは退屈そうに呟いた。
「はい」と、質問した若い魔法使いが頷く。すると別の弟子が、得意げに口を挟んだ。
「やはり、南の勇者でしょうか? 未来を見通す魔法を持ち、七崩賢の半数近くを道連れにしたと聞きます。人類最強と謳われたあの男なら――」
「違う」
にべもない即答に、弟子たちが揃って口を閉ざす。
「では……勇者ヒンメル?」
「違う」
「ならば、戦士アイゼンでしょうか」
「違う」
「では、一体誰なのです?」
重ねられた問いに、しかしゼーリエはすぐには答えなかった。ふと、居室の窓の外へと視線を投げる。
今日も空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
長く生きていると、時折不思議に思うことがある。都市の輪郭は変わり、人間の装いも移ろい、言葉遣いさえ数百年を経れば別のものへと変容していく。けれど、頭上に広がるあの空の色だけは、神話の時代からほとんど変わらないままだ。
――あの日も、こんな空だったな。
そんな感傷が胸をよぎったこと自体が、ゼーリエには少しだけ腹立たしかった。何百年という歳月が流れてなお、あの男にまつわる記憶だけは、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってしまうのだ。
「……孫悟飯」
ぽつりと、ゼーリエはその名を口にした。
「……ソン、ゴハン?」
弟子たちが困惑したように顔を見合わせるのも当然だった。歴史書にも、英雄譚の詩篇にも、そんな奇妙な響きの名は一行たりとも記されていない。
「聞いたことがありません。どの国の英雄でしょうか?」
「英雄ではない」
ゼーリエは淡々と切り捨てた。
「勇者でもないし、王でもなければ、軍を率いた将軍でもない」
「では、名もなき傭兵ですか?」
「違う。ただの人間だ」
弟子たちの顔に、いっそう深い戸惑いが浮かぶ。ゼーリエはそれを見て、小さく鼻で笑った。
「だが、あいつなら魔王を殺せた」
部屋の空気が、凍りついたようにピタリと止まった。
「……はい?」
「恐らく、単独でな」
今度こそ、誰一人として言葉を継ぐことができなくなった。
ゼーリエはゆっくりと瞼を閉じる。今から語る話を、この若い弟子たちが信じるかどうかなど、どうでもよかった。
遠い、本当に遠い昔の話だ。勇者ヒンメルが生まれるよりもさらに遥か以前、魔王軍の支配が現在よりもずっと色濃く大地を覆っていた時代。
一人の奇妙な人間が、この世界へと落ちてきた日の記憶である。
◇
孫悟飯は、自分が死んだ瞬間のことをはっきりと覚えていた。
あの日、世界には冷たい雨が降りしきっていた。瓦礫の山と化した都市と、無慈悲に微笑む人造人間17号と18号。失った左腕の疼きと、最後に全身を貫いた灼けるような激痛。
結局、最後まで勝つことはできなかった。自分の力が足りなかったせいで、すべてを守りきれなかった。
――ごめんな、トランクス。
意識が途絶える直前、心の奥底で呼んだ弟子の名前だけが、胸に焼きついて離れない。
だからこそ、次に瞼を開けた時、悟飯は自分が死後の世界に辿り着いたのだとばかり思っていた。
視界いっぱいに広がる抜けるような青空と、風にそよぐ木々の葉音、そして遠くから響く小鳥のさえずり。
そこは、あり得ないほど静かで、穏やかな場所だった。
「……ここは」
草の上にゆっくりと身を起こし、自分の身体を見下ろす。
左腕はないままだ。ボロボロに破れた道着も、身に刻まれた傷跡も、あの日の決戦の時のままだった。けれど、死んではいない。胸の奥では確かに心臓が脈打ち、肺は澄んだ空気を吸い込み、体内の「気」も普段通りに練り上げることができる。
そして何より、周囲にはあの人造人間たちの禍々しい気配がどこにもなかった。それどころか、自分が慣れ親しんだはずの誰の気配も、この大地には一つとして存在していなかった。
「……まさか」
悟飯は呆然と空を見上げ、それから長い間、誰もいない森の中でただ一人座り込んでいた。
生きている。その事実を喜ぶべきなのかどうかさえ、彼には分からなかった。自分がこんな見知らぬ場所にいるのなら、残されたトランクスはどうなったのか。母さんは。あの絶望に満ちた世界は。
自分はまた、守るべき人たちを置いて、一人だけ取り残されてしまったのだろうか。あの日、雨の中で死を迎えた瞬間よりもなお重たい鉛のような感情が、胸の奥底へと深く沈んでいった。
それでもやがて、悟飯は草を払って立ち上がった。
立ち止まって悔やんでいるだけでは、何も始まらない。まずはここがどこなのかを知る必要があった。
それから数日の間、悟飯はあてもなく森を歩き続けた。舞空術で空を飛べば森を抜けるなど一瞬だっただろうが、この見知らぬ世界で空を飛ぶ人間がどう見られるのか分からなかったし、何より、今の彼には急いで向かわなければならない場所などどこにもなかった。
目的もなくただ歩くなど、一体何年ぶりのことだろう。
渇けば澄んだ川の水を掬って飲み、腹が減れば木の実を採り、時折茂みから顔を出す小さな動物を眺めて過ごした。ただそれだけの平穏な時間が、悟飯には妙に居心地が悪かった。
どこからも敵が襲ってこない。地平線を揺らす爆発音もなければ、黒煙を上げて燃える街もなく、助けを求める人々の悲鳴も聞こえてこない。その圧倒的なまでの静けさが、かえって彼の神経をざわつかせていた。
――僕はいつから、平和を怖がるようになってしまったんだろう。
そんな自嘲めいた思いを抱えながら森を抜け、やがて悟飯は、開けた土地に佇む小さな村へと辿り着いた。
人口は百人にも満たないだろう。素朴な木造の家々が肩を寄せ合い、その周囲には丁寧に耕された畑が広がっている。のどかな家畜の鳴き声と、土の上を駆け回る子供たちの笑い声。
しかし、悟飯の姿が村の入り口に現れると、その穏やかな空気は一変した。
失われた片腕に、乾いた血の跡がこびりついた奇妙な異国の服。武器こそ携えていないものの、ただならぬ雰囲気を纏った得体の知れない青年を前に、鍬や槍を手にした村の男たちが険しい顔で彼を取り囲んだ。
「何者だ、お前は。どこから来た」
「……孫悟飯といいます。遠いところから、迷い込んでしまって……」
自分で口にしておきながら、これでは怪しまれて当然だと悟飯は苦笑した。後に現れた村長らしき老人にも事情を説明しようと試みたが、自分が別の世界から来たらしいなどという荒唐無稽な話を信じてもらえるはずもなく、彼は途中で言葉を濁すしかなかった。
だが、警戒の視線が交錯する中で、一人の老婆が歩み出て、悟飯の前に木の器に盛られたパンと温かいスープを差し出した。
「ほら、食べな」
「え……でも、お金も何も……」
「いいから。腹が減ってるんだろ」
立ち昇る湯気と、小麦の香ばしい匂い。誰かの手で丁寧に作られた温かい食事など、本当にいつ以来か思い出せないほどだった。
「……ありがとうございます」
悟飯は何度も深く頭を下げ、右手でスプーンを握り、スープを一口すくって口へと運んだ。
じんわりと五臓六腑に染み渡る、優しく素朴な味がした。ただ、本当に美味しかった。それだけのことだったのに、気がつけば頬を伝った一滴の涙が、ぽたりとスープの器へと落ちていた。
自分がどうして泣いているのか、悟飯自身にも分からなかった。
◇
大魔法使いゼーリエがその村へと向かうことになったのは、それから数日後のことだった。
「たかが魔族一体のために、この私を引っ張り出したのか?」
空をゆくゼーリエの機嫌は、すこぶる悪かった。後ろに付き従う弟子たちが、気まずそうに視線を逸らす。
「し、しかしゼーリエ様、既に三度にわたって討伐隊を送り込んだのですが……」
「三度とも失敗したというのか。情けない」
討伐対象である魔族の名はヴァルドといった。数百年を生きた老獪かつ強力な個体であり、人間が放つ魔法の術式そのものを乱し、構築を崩壊させる特異な魔術に長けていた。魔法使いが通用しないならばと送り込まれた屈強な戦士たちの部隊も、ヴァルド自身の圧倒的な膂力と攻撃魔法の前に為す術もなく蹂躙されたという。
すでに周辺の集落がいくつも地図から消えていた。人間を喰らうためだけではなく、腹を満たした後も逃げ惑う人々を森へ追い立て、嬲り殺すために。
『だって、人間は面白いからな』
見せしめにわざと逃がした捕虜に、ヴァルドはそう笑って語ったという。ゼーリエからすれば、別段珍しくもない典型的な魔族の生態だった。
「まあいい。私でなければ殺せないというのなら、手を下してやるまでだ」
言葉だけを取れば傲岸不遜極まりないが、事実その通りなのだから誰も反論できない。
やがて眼下に、目的の村とそれを囲む森が見え始めた――まさに、その時だった。
ドォンッ!! と、大気を裂くような轟音が響き渡り、大地そのものが大きく揺れた。
「ゼーリエ様!」
「分かっている」
ゼーリエは鋭く目を細め、森の奥へと魔力探知を広げた。
ヴァルドの魔力反応はある。だが、その波長が明らかに激しく乱れ、狼狽していた。あの魔族が苦戦している? 一体、何に対してだ?
さらに不可解なことに、ヴァルドのすぐ至近距離にもう一つ、人間らしき魔力反応があった。しかしそれは、魔法使いと呼ぶことすら憚られるほど微弱で、ありふれた村人と何ら変わらない程度の反応でしかなかった。
「……何だ、これは?」
再び轟音が轟き、森の一角から噴火のような土煙が天へと立ち昇った。
ゼーリエは即座に加速し、弟子たちを引き連れて現場の上空へと降り立った。
そして、彼女は見た。
自分がわざわざ討伐するために呼び出されたはずの凶悪な魔族が、見慣れぬ橙色の服を着た片腕の青年に顔面を鷲掴みにされたまま、凄まじい勢いで大地へと叩きつけられている光景を。
衝撃で地面がクレーター状に大きく陥没し、森の木々が暴風に煽られて一斉に軋みを上げた。
◇
その時、悟飯は怒っていた。この見知らぬ世界へ来てから初めて、腹の底から本気で怒っていた。
自らを「魔族」と名乗ったその異形の生物は、村の入り口でいとも容易く人を殺したのだ。
最初は、生きるために捕食する野生の獣のような存在なのかと思った。だが、違った。その魔族は背を向けて逃げようとした男を背後から魔法で撃ち抜き、倒れた女性を愉悦に歪んだ笑顔で踏み潰し、さらには泣き叫ぶ子供にまでその手を伸ばした。
その冷酷な横顔を見た瞬間、悟飯の脳裏に、かつて未来の世界を地獄へと変えた17号と18号の姿が鮮烈にフラッシュバックした。
「……やめてください」
子供を庇うように立ち塞がり、最初は静かにそう制止した悟飯に、魔族ヴァルドは心底不思議そうな顔で笑った。
「何故だ? お前たち人間も、森の獣を殺すだろう? それと全く同じことだ」
悪意すら感じさせない、あまりにも自然な言葉だった。それを聞いた瞬間、悟飯は直感した。こいつは、言葉を交わして分かり合える相手ではない、と。
だから、殴った。
殺してしまわないよう、かなり力を抑えた一撃のつもりだった。それでもヴァルドの巨体は砲弾のように森の木々を薙ぎ倒して吹き飛び、はるか後方の岩壁へとめり込むように叩きつけられた。
「……あ。少しやりすぎたかな」
思わず呟いた悟飯の前で、しかし瓦礫を撥ね除けてヴァルドが立ち上がった。普通の人間よりは遥かに頑丈で、強い。
血を拭ったヴァルドが、忌々しげに両手を広げて何かを発動させた。周囲の空間が奇妙に歪み、魔法の術式を強制的に崩壊させる妨害フィールドが展開される――だが、そもそも魔法など使っていない悟飯には、痛くも痒くもなかった。
「な、何故だ……!? 術が乱れないだと!?」
「……?」
相手が何を驚いているのかすら分からないまま、悟飯は迫り来る攻撃魔法の奔流を右腕一本で無造作に薙ぎ払った。轟音と黒煙が弾けるが、その肌には擦り傷一つ付かない。
そのまま懐へと踏み込み、拳を叩き込み、蹴り上げ、空中で顔面を掴んで地面へと叩きつけた。
ほんの数合の打ち合いで、数百年を生きた魔族は指一本動かすことすらできなくなっていた。
悟飯は倒れ伏すヴァルドへ右手を向け、その掌に眩い気の光を収束させた。
「あなたは人を殺した。食べるためだけじゃなく、まるで遊びのように命を奪った」
静かだが、揺るぎない声だった。
「もう、生かしてはおけません」
脅しではなく、本気で葬るつもりだった。かつての未来で、彼は人造人間を殺す覚悟で幾度も死線を潜り抜けてきた。命を奪う行為そのものに抵抗がないわけではないが、ここで見逃せばまた誰かが理不尽に殺されるのなら、迷わず引き金を引く覚悟はできていた。
「ま、待て! 待ってくれ!」
死の気配を肌で悟ったヴァルドが、泥にまみれたまま悲鳴のような声を上げた。悟飯の掌で膨れ上がっていた光が、ピタリと止まる。
「もう人間は殺さない! すぐにこの土地から出ていく! だから命だけは……!」
ガタガタと小刻みに震える巨体。悟飯の掌の気が、迷うように僅かに揺らいだ。
「……本当に? 二度と人を襲わないと誓えますか?」
「ああ、誓う! 約束する!」
死への純粋な恐怖と、生への執着。必死に命乞いをするその表情は、悟飯の目には人間と何ら変わらないものに見えた。あの17号や18号なら、たとえ殺される間際であっても決してこんな人間らしい弱さは見せなかっただろう。
悟飯の右手に集まっていた気が、すうっと霧散していく。
「……分かりました。その約束を――」
言いかけた瞬間、地面に伏せていたヴァルドの瞳が、嘲るように細められた。
だが、悟飯がそれに気づくよりも早く――横合いから走った一条の白い閃光が、音もなくヴァルドの胸を貫いていた。
「え……?」
声すら上げられず、魔族の巨体が黒い塵となって崩れ落ちていく。
悟飯は弾かれたように振り返った。そこには、いつの間にか一人の小柄な女が立っていた。
足元まで届く長い金髪に、横に伸びた尖った耳。幼い少女のようにも、達観した大人の女性のようにも見える不思議な風貌だった。そして何より、彼女が纏う存在感そのものが尋常ではなかった。魔力という概念を知らない悟飯にも、長年死線を越えてきた戦士の勘がはっきりと警鐘を鳴らしていた。――この人は、とてつもなく強い、と。
「あなたが……やったんですか?」
「そうだ」
「どうしてですか! 彼は今、もう誰も殺さないって約束したのに!」
思わず声を荒らげた悟飯を見上げ、しかし金髪の女――ゼーリエは、表情一つ変えずに言い放った。
「だから何だ」
氷のように冷徹なその一言で、悟飯は直感的に「ああ、僕はこの人が苦手だ」と思った。
◇
「お前、魔族を見るのは初めてか?」
ゼーリエが尋ねると、片腕の青年は気まずそうに唇を噛んだ後、小さく頷いた。
「……はい。今日、初めて見ました」
背後に控えていた弟子たちが、信じられないというようにざわめく。魔王の脅威が日常にあるこの時代において、魔族の存在を知らない人間などまずあり得ないからだ。
ゼーリエは消えゆくヴァルドの残骸を一瞥し、淡々と口を開いた。
「魔族は人間を食う。腹が満たされていても、必要がなくても殺す。そして何より――奴らは人間の言葉を使う」
「言葉……?」
「人間を騙すためにな」
ゼーリエの声には、怒りも憎悪も混じっていなかった。ただ、雨が空から降るのと同じくらい自明な自然の摂理を説明しているだけの響きだった。
「奴らにとって言葉とは、互いの意思や心を理解し合うための道具ではない。人間は『助けて』と請われれば刃を鈍らせ、『もう殺さない』と誓われれば信じようとする。だから奴らは、生き延びるためにその言葉を模倣するのだ」
「でも……あの人は、本当に死ぬのを怖がっていました」
「当然だ。魔族とて死は恐れる。だが、死を恐れる本能があることと、人間と同じ心を持っていることは全くの別問題だ」
ゼーリエは小さく肩を竦めた。悟飯はしばらく俯き、苦い顔で問い返した。
「……それでも、殺すしかなかったんですか?」
「違うな。殺すべきだった」
言い切るゼーリエに、悟飯の顔にはっきりとした不快感が浮かぶ。それを見て取りながら、彼女は冷ややかに付け加えた。
「次に他の魔族と会えば嫌でも分かる。その時までお前が生きていればの話だがな」
それ以上、悟飯は何も言い返さなかったが、到底納得していないことくらいゼーリエには手に取るように分かった。
――甘い男だ。
そう呆れると同時に、その救いようのない甘さを決して嫌悪していない自分自身に気づき、ゼーリエは内心で少しだけ驚いていた。
「あの、それよりも……ゼーリエ様」
緊迫した空気の中、弟子の一人が遠慮がちに割って入った。
「何だ」
「この周囲の状況は、一体……」
弟子が指さす通り、周辺の森はまるで巨大な嵐が通り過ぎたかのように広範囲にわたって吹き飛んでいた。大地には無数のクレーターが穿たれ、遠くの岩壁には人間大の深い穴が陥没している。そして、ゼーリエがとどめを刺す直前のヴァルドの肉体には、炎で焼かれた跡も、刃物による裂傷も、魔法を行使された痕跡すら一切残っていなかった。あるのはただ、圧倒的な質量で殴りつけられたような打撃の痕だけだったのだ。
「まさか、あなたが一人でヴァルドを追い詰めたのですか?」
弟子が信じがたいものを見る目で悟飯に詰め寄る。
「あ、はい。そうですけど……」
「どのような魔法を?」
「いえ、僕は魔法なんて使えません」
一瞬の沈黙が落ちた。弟子は悟飯の失われた左腕と、何も握られていない右手を交互に見る。
「では、武器は? 身体強化の魔導具か何かを……」
「持ってません。ですから、魔法の類は何も使えないんです」
「なら、どうやってあのヴァルドを!?」
「えっと……」
悟飯は本気で困ったように頬を掻き、至極真面目に答えた。
「普通に、素手で殴って……」
弟子の一人が、理解の限界を超えて頭を抱えた。
そこで初めて、ゼーリエは値踏みするように真正面から悟飯を見据えた。嘘をついている様子はない。そもそも彼の体内にある微弱な魔力は最初からピクリとも動いておらず、身体強化魔法の痕跡など微塵もなかった。
「おい。先ほど、お前がヴァルドを前にして右手に集めていたものは何だ。あの光だ」
「ああ、あれですか。あれは『気』です」
「気?」
「はい。誰の身体の中にもある、生命のエネルギー……みたいなものです。修行すれば誰でも使えますよ」
ゼーリエの金色の瞳が、わずかに細められた。
「見せろ。その気とやらを、今ここでだ」
悟飯は少し迷う素振りを見せたが、やがて右の人差し指を立て、その先端に小さな温かい光をぽっと灯してみせた。
その瞬間、ゼーリエは思わず息を呑んだ。
魔力ではない。本当に、魔力ではなかった。大気中に満ちるマナも、悟飯自身が持つ微弱な魔力も、何一つとして干渉していない。それなのに、指先に揺れるその小さな光からは、空間そのものを震わせるような純粋で高密度なエネルギーの塊が確かに感じ取れるのだ。
――知らない。
数千年を生き、この世のほぼすべての魔法を網羅してきた自分が、全く知らない未知の力。
「……面白い」
無意識のうちに、唇から熱い吐息のような言葉が漏れていた。
「え?」
「何でもない」
ゼーリエは踵を返し、弟子たちに向かって宣言した。
「しばらく、この村に滞在する」
「えっ!? し、しかしヴァルドは既に討伐されましたし、協会での政務が――」
「奴が単独犯とは限らんだろう。周辺の残党を確認する必要がある」
あながち嘘ではなかったが、ゼーリエの興味の矛先がすでに魔族ではなく、孫悟飯という不可解な人間に向けられていることは誰の目にも明らかだった。
◇
ゼーリエの口実が現実となったのは、それから四日後のことだった。
連絡の途絶えたヴァルドの行方を追って、三体の魔族が村の入り口へと姿を現したのである。
「我々は争うつもりはない。ただ、はぐれた仲間を探しているだけだ」
先頭に立つ貴族風の魔族が、穏やかな笑みを浮かべて両手を広げてみせる。
四日前の悟飯であれば、その紳士的な態度を信じていたかもしれない。ゼーリエの忠告を頭ごなしに鵜呑みにしたわけではなかったからこそ、悟飯は自分の目で相手を見極めようと一歩前に出た。
「帰ってください。この村には、あなたたちの仲間はいません」
「……そうか。それは残念だ」
魔族が柔和に微笑んだ、まさにその瞬間だった。
奴の指先に圧縮された黒き魔力が閃き、殺人光線となって放たれた。その狙いは目の前の悟飯ではなく、遥か後方の物陰から様子を覗いていた村の子供だった。
だが、光線が子供の胸を貫くよりも早く、悟飯の姿が掻き消えた。
次の瞬間には子供の前に立ち塞がり、右腕の甲一つで魔力の奔流を完全に弾き飛ばしていた。爆煙が風に流れて晴れると、そこには無傷のまま静かに佇む悟飯の姿があった。
「……そういうことなんですね」
低く呟いた悟飯の瞳に、深い哀しみと冷徹な光が宿る。
初めて、ゼーリエが語っていた言葉の本当の意味を骨の髄から理解した。彼らにとって、言葉は心を通わせるためのものではない。油断を誘い、弱者を効率よく蹂躙するための擬態に過ぎないのだと。
「あなたたちは、本当に――」
悟飯が地を蹴った瞬間、大気が爆ぜた。
目にも止まらぬ神速の踏み込みから放たれた裏拳が、一体目の魔族を森の彼方まで吹き飛ばし、返す刀で繰り出した前蹴りが二体目の腹部を貫いて大地を深く陥没させる。恐怖に駆られた三体目が翼を広げて上空へと逃れようとしたが、悟飯はただ軽く跳躍しただけでその背後に追いつき、襟首を掴んで流星のごとく地面へと叩き落とした。
開戦から決着まで、十秒すら必要なかった。
少し離れた木陰で腕を組み、その圧倒的な蹂躙劇を黙って見届けていたゼーリエのもとへ、悟飯がゆっくりと歩み寄ってきた。
「……分かりました。あなたの言っていた意味が」
「そうか」
「でも……」
悟飯は少しだけ視線を落とし、寂しそうに微笑んだ。
「たぶん僕は、これからも最初は相手の話を聞いてしまうと思います」
弟子たちが呆気にとられて顔を見合わせる中、ゼーリエだけは呆れたように鼻を鳴らした。
「つくづく馬鹿だな、お前は。いつかその甘さで死ぬぞ」
「そうかもしれません。……まあ、一度死んでますから」
「何?」
「……あ」
うっかり口を滑らせた悟飯の表情が固まり、ゼーリエの目が鋭く細められた。
その夜、二人は村外れの焚き火を囲み、初めて長い時間をかけて言葉を交わした。
◇
パチパチと爆ぜる薪の音を聞きながら、悟飯は自身の過去をぽつりぽつりと語った。
すべてを洗いざらい話したわけではない。それでも、自分がここではない別の世界、別の星から来たこと。偉大だった父・孫悟空のこと。突如現れた人造人間によって仲間たちが次々と殺され、世界が滅びかけたこと。そして最後には、たった一人で戦いに挑み、冷たい雨の中で命を落としたことまでを静かに打ち明けた。
「つまり、お前は死んだはずが異界へと落ちてきたと?」
揺れる炎を見つめたままゼーリエが尋ねると、悟飯は困ったように笑った。
「たぶん、そうとしか考えられなくて。僕にも詳しい理屈は分からないんです。気がついたら、この近くの森に倒れていましたから」
他の誰かがそんな話をすれば、ゼーリエとて戯言だと一蹴していただろう。だが、彼が操る『気』という未知の力体系と、魔族の存在すら知らなかった無知、そして何よりその瞳に宿る戦火の記憶の重みが、彼の言葉が真実であることを雄弁に物語っていた。
「お前のその父親というのも、強かったのか?」
問いかけに、悟飯の表情がふっと柔らかく綻んだ。
「はい。僕なんかより、ずっと」
迷いのない即答に、ゼーリエはわずかに眉を上げた。これほどの力を秘めた男が、一点の曇りもなく自分より上だと言い切る存在。
「どんな男だったんだ?」
「そうですね……普段はのんきで、戦うことと食べることばかり考えている、ちょっと変な人でした」
「お前にだけは変人呼ばわりされたくないだろうがな」
「あはは、よく言われます」
夜風の中で、二人は小さく声を合わせて笑った。悟飯がこの世界へ来てから、かつての故郷の思い出を笑顔で語ることができたのは、それが初めての夜だった。
◇
それから数日後、村の復興を手伝っていた悟飯の背中に向かって、ゼーリエが唐突に言った。
「おい、悟飯。魔王を殺せ」
あんまりな切り出し方に、悟飯は右手で抱えていた建築用の丸太を危うく取り落としかけた。
「……はい?」
「聞こえなかったのか。魔王を殺しに行けと言ったのだ」
困惑して振り返る悟飯に、ゼーリエは至極真面目な顔で言葉を継いだ。
「お前の力ならば可能だ。少なくとも、お前はヴァルドや先日の魔族どもを相手にした時、自分の力の半分も出していなかっただろう」
「……それは、まあ、周囲を壊さないようにかなり抑えていましたけど」
「やはりな」
ゼーリエは満足げに口角を上げた。
「お前が本気を出せば、魔王の首を取るどころではない。その気になれば、この大陸から魔族という種そのものを根絶やしにすることすら出来るはずだ」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、悟飯の顔から穏やかな笑みがすっと消えた。
「……やりません」
今度はゼーリエが目を丸くする番だった。
「即答か。何故だ?」
悟飯は丸太を地面に下ろし、作業着の埃を払いながら、村の風景へと視線を向けた。そこには、畑を耕す大人たちの背中と、無邪気に駆け回る子供たちの笑顔、新しく組み上げられた家の屋根があった。
「僕は、この星の人間じゃありませんから」
静かな声だった。ゼーリエは言葉を挟まず、彼の横顔を見つめる。
「僕の故郷にも……昔、父さんから聞いた話があるんです。僕たちのルーツである『サイヤ人』という戦闘民族や、宇宙のあちこちの星を襲って住民を滅ぼし、支配してきた侵略者たちの話が」
悟飯の右手が、ゆっくりと強く握り締められた。
「たとえ相手が悪だったとしても、外からやってきたよそ者が、自分より弱い星に介入して、圧倒的な力だけでその世界の未来や歴史を勝手に塗り替えてしまったら……」
「魔族は今も人間を殺しているぞ。放置すれば、これから先も多くの血が流れる」
「分かっています。見殺しにするようで苦しいのも、本当です」
悟飯は痛ましげに目を伏せた。決して無関心で切り捨てているわけではない、その胸の内でどれほどの葛藤が渦巻いているかは、ゼーリエにも痛いほど伝わってきた。
それでも、やがて顔を上げた悟飯の瞳は、澄み切って真っ直ぐだった。
「でも、もし僕が力ずくで魔王や魔族を全滅させてしまったら、僕のやっていることは、昔僕の星にやってきた侵略者たちと本質的には変わらなくなってしまう。僕はこの世界のこれまでの歴史を知りません。人間と魔族がどう戦い、これからこの世界の人たちがどんな未来を選び取っていくのかも」
そこで悟飯は、小さく穏やかに微笑んだ。
「この世界の未来は、この世界に生きる人たちが自分たちの手で掴み取るべきものです。それを、通りすがりの僕が奪っちゃいけないと思うんです」
ゼーリエはしばらくの間、何も言わずに彼を見つめ返していた。やがて、呆れたような、それでいてどこか感嘆を含んだ吐息を漏らす。
「……どこまでも愚かだな、お前は。お前が一度拳を振るえば救える命が万とあるというのに」
「はい。それでもです」
「ならば、お前はここで一生何もしないつもりか?」
問われた悟飯は、自分が立つ小さな村をぐるりと見渡し、それから力強く首を振った。
「いいえ。僕の目に見える範囲は、必ず守ります」
「見える範囲、だと?」
「はい。世界全部は背負えなくても、僕の手が届く人たちだけは、絶対に誰一人失わせません」
この世界へ落ちてきて以来、初めて迷いなく言い切ったその横顔は、どんな英雄よりも眩しく見えた。
そしてその誓いの言葉通り、孫悟飯は生涯を通じて、その小さな村と人々を守り抜くことになる。
◇
それから三年後、ゼーリエが気まぐれに再びその村を訪れた時のことだ。
「悟飯はどこだ?」
通りかかった村人に尋ねると、相手は親しげな笑顔で畑の方角を指さした。
「ああ、自警団長ならあっちの畑を手伝ってますよ」
「……自警団長?」
さらに五年後。
「悟飯はいるか」
「村長代理なら、集会所で書類仕事をしてますよ」
「……何故だ?」
七年後にはとうとう「村長」になり、十年後には周辺の開拓村まで束ねる「長老会のまとめ役」に祭り上げられていた。
「お前、まだ出世するつもりか?」
呆れ果てて問うゼーリエに、悟飯はいつも困り果てたような苦笑いを浮かべて「いやあ、文字や計算が少しできたもので、なんとなく流れで……」と頭を掻くのだった。
その頃には、大陸魔法協会の最高峰であるはずのゼーリエがこの辺境の村へふらりと姿を現すことも、村人たちにとってはすっかり見慣れた日常の風景になっていた。
数年に一度、三年で顔を出すこともあれば、七年ほど間が空くこともある。彼女が口にする理由は毎回違っていた。付近の魔族の調査、新しい民間魔法の収集、弟子たちの実地訓練、あるいは「たまたま近くを通りかかっただけだ」という見え透いた口実。
ただ、悟飯は決してそれを茶化すような真似はしなかった。
――本当は、僕に会いに来てくれているんですよね?
そんな野暮な一言を口にしようものなら、この誇り高く素直じゃない大魔法使いは、臍を曲げてその後数十年は本当に姿を見せなくなるだろうと分かっていたからだ。
その代わり、ゼーリエが滞在している間、悟飯は彼女に『気』の扱い方を手ほどきすることになった。
「違いますゼーリエさん、魔力を使わないでください」
「使っていない」
「いえ、今めちゃくちゃ魔力が漏れてます」
「使っていないと言っているだろう。そもそも私は魔法使いだぞ、魔力を切り離せという方が無理難題だ」
「だからこそ難しいんじゃないですか。もっとこう、身体の内側にある生命力そのものに意識を向けて……」
「内側など分からん。そんなものはない」
「ありますってば」
「つくづくお前は教師に向いていないな!」
何千年もの間、呼吸をするよりも自然に魔力を支配してきたゼーリエにとって、魔力とは全く異なる回路で練り上げる『気』の概念を掴むことは、どんな高度な神話の魔法を習得するよりも困難を極めた。
それでも二人の奇妙な師弟ごっこは続き、ふとした休憩の折に、悟飯がぽつりと呟いたことがあった。
「でも、昔は僕にも一人だけ弟子がいたんですよ。トランクスっていうんですけど」
彼が自分からその名前を口にしたのは、それが初めてだった。
「……そいつはどうなった」
ゼーリエが静かに尋ねると、悟飯は遠い空を見上げて少しだけ黙り込んだ。
「さあ……どうなったんでしょうね。あの子だけでも、平和な未来を生きられていたらいいんですけど」
それ以上、ゼーリエは深く踏み込まなかった。
そうして何ヶ月も、何年も、彼女が村を訪れるたびに断続的な修練が重ねられた。
そしてある晴れた日の午後、ついにゼーリエの白く細い指先に、魔力とは異なる温かな『気』の光が、ほんの小さな蛍火のようにぽっと灯った。
それを見た瞬間、悟飯は自分のことのように顔を輝かせ、まるで無邪気な子供のように声を弾ませた。
「あっ、出来ましたね! すごいですよ、ゼーリエさん!」
「……当然だ。私を誰だと思っている」
「いやあ、本当にすごい! やっぱり飲み込みが早いなぁ!」
「当然だと言っているだろう、うるさい!」
手放しで褒めちぎる悟飯からぷいと顔を背けたゼーリエの尖った耳が、ほんの少しだけ赤く染まっていたことに、悟飯が気づいていたかどうかは定かではない。
◇
悟飯がその村に根を下ろしてから、三十数年の歳月が流れた頃だった。
本来、個人主義で群れることを嫌うはずの魔族たちが、かつてない規模の軍勢を編成して村へと進軍を開始したのである。
強力な個体であればあるほど他者に関心を持たない魔族たちの間に、一つの看過できない「例外」が生まれていた。あの辺境の村へ足を踏み入れた魔族が、誰一人として生きて帰ってこないのだ。凶暴な魔獣も、誇り高き竜種ですら、その村の周囲だけは本能的な恐怖から避けて通るようになっていた。
やがて魔族たちの間に、忌まわしい噂が広まった。
あの村には、魔法を一切使わずに大魔族すら素手で捻り潰す「黄金の怪物」が棲んでいる、と。
捨て置けばいずれ魔王軍の根幹を揺るがしかねない危険因子を排除すべく、二体の大魔族が指揮を執り、千を超える魔族の軍勢が集結した。押し寄せる軍勢が放つ瘴気によって、村の上空は昼なお暗く黒く染め上げられた。
村の境界線に、悟飯はただ一人で立っていた。
この世界へ来て三十年以上が経つが、半分サイヤ人の血を引いているためか、その外見はようやく青年から精悍な壮年へと差し掛かった程度にしか老いていなかった。
「悟飯さん! 本当に一人で大丈夫なのか!?」
「はい、大丈夫です。皆さんは奥の避難壕へ入っていてください」
不安そうに振り返る村人たち――かつて自分を温かく迎え入れてくれた人々の子供や孫の世代へと、悟飯は安心させるように穏やかに微笑みかけた。
「約束しましたから。この村は僕が必ず守ります」
村人たちが避難したのを見届けてから、悟飯は黒く染まった空を見上げた。千を超える殺意の奔流と、その中心に鎮座する二つの巨大な魔力。これまで相手にしてきたどの魔族よりも桁違いに強い気配を前に、悟飯が静かに息を吐き出した、その時だった。
「これを一人で片付けるつもりか、欲張りな奴め」
背後から落ちた聞き慣れた声に、悟飯は目を丸くして振り返った。そこには、いつもと変わらぬ涼しい顔で杖を手にしたゼーリエが立っていた。
「……ゼーリエさん。どうしたんですか?」
「偶然、近くを通りかかっただけだ」
「はは、さすがに今回はその言い訳は無理がありますよ」
「黙れ。私の勝手だろう」
憎まれ口を叩き合うのも、すっかり長年の習慣になっていた。悟飯が「ありがとうございます、助かります」と素直に頭を下げると、ゼーリエは忌々しげに空の軍勢を睨みつけた。
「勘違いするな。私の庭先で、下等な魔族どもが我が物顔で群れているのが気に食わんだけだ」
悟飯は何も言い返さず、ただ心から嬉しそうに笑った。
◇
軍勢を率いる二体の大魔族は、数十年の歳月をかけて「孫悟飯」という異常個体を徹底的に研究し尽くしていた。
一体は、攻撃が当たる直前に自らの座標をずらす「空間転移」の使い手。悟飯の常識外れの速度と物理攻撃を無効化するための切り札だった。そしてもう一体は、避難している村人たちの生命線と自らの心臓を強制的に連結させる「人質の呪い」を完成させていた。悟飯がどれほど強かろうと、村人の命を盾に取れば手出しはできないと計算し尽くしての布陣だった。
「ほう、随分と小賢しく調べ上げたものだな」
空中に浮かぶ大魔族たちの意図を一瞬で見抜き、ゼーリエが嘲笑う。大魔族の一体が厳かに言い放った。
「当然だ。孫悟飯は危険すぎる。今ここで排除しなければ、いずれ我々魔族すべてを滅ぼす災厄となる」
ゼーリエが横目でちらりと悟飯を見ると、当の本人は苦笑いすら浮かべず黙っていた。彼にそんなつもりは最初から毛頭ないというのに、皮肉なものだ。
「悟飯。村人にかけられた魔法は私が解く。空間転移も封じてやる」
「分かりました。お願いします」
短い言葉の交錯と共に、ゼーリエの小柄な身体から、天を衝くような莫大な魔力が解き放たれた。黄金色の魔力の奔流が瞬く間に広がり、森と、村と、空を埋め尽くす魔族の軍勢そのものをすっぽりと覆い尽くす超広域結界へと昇華される。
「ば、馬鹿な……!? これほどの範囲の空間を完全に固定しただと!?」
「私を誰だと思っている。貴様らの浅知恵など、神話の時代から見飽きているわ」
転移による逃走も、空間の歪曲も完全に封殺された檻の中で、ゼーリエは軽く杖を振った。
「――やれ、悟飯」
その合図と共に、悟飯が静かに一歩前へと踏み出した。
そしてその日、ゼーリエは初めて目にすることになる。孫悟飯という男が心の奥底に封印し続けていた、本当の力の一端を。
「はああああああああああ――ッ!!」
裂帛の気合と共に、大地が激しく隆起し、大気が悲鳴を上げて震えた。
悟飯の全身から噴き上がったのは、太陽をそのまま地上へ引きずり下ろしたかのような眩い黄金のオーラだった。風に揺れていた黒髪が逆立ちながら煌めく金色へと染まり、穏やかだった瞳が氷のように鋭い翠緑色へと変貌する。
爆発的に膨れ上がった『気』の奔流に、さすがのゼーリエも言葉を失って目を見開いた。
魔力ではない。この数十年、彼女自身も彼から気の基礎を学んできたからこそ、その異常性が痛いほど理解できた。理解できるからこそ、信じられなかった。何だ、この底知れない気の総量と密度、荒れ狂う嵐のような生命力の塊は。
「……悟飯。何だ、その姿は」
「超(スーパー)サイヤ人です」
「まるで説明になっていないぞ」
「はは、僕も詳しい理屈はよく分からなくて……」
神々しいまでの黄金の闘気を纏いながら、しかし悟飯はいつもの少し困ったような顔で笑った。
次の瞬間、彼の姿が視界から完全に消失した。
遅れて空気の壁が破裂する轟音が響いた時には、空間転移を封じられた大魔族の腹部に、黄金の右拳が深々とめり込んでいた。
ゼーリエの目をもってしても捉えることが困難なほどの超高速の連撃。二撃、三撃、四撃と叩き込まれるたびに大魔族の肉体が面白いように宙を舞い、最後に距離を取った悟飯が、右手を額の前へと構えた。
「魔閃光――ッ!!」
放たれた極光の奔流が、大魔族を呑み込んで空の彼方へと突き抜ける。光が収まった時、そこには塵一つ残されてはいなかった。
それを見たゼーリエは、背筋に走る熱い戦慄と共に改めて確信した。――ああ、やはりこいつなら、本当に魔王を一人で殺せる、と。
一方、もう一体の大魔族は、村人たちの命を繋いだ魔法の術式を盾に必死の抵抗を試みていたが、ゼーリエの前では赤子の手遊びにも等しかった。
「くだらんな」
「く、くだらんとは何だ! これは私が数百年もの歳月を費やして編み出した究極の魔法だぞ!」
「だからどうした。私は、お前が生きるより遥かに長く魔法の深淵を見ている」
ゼーリエが指先を軽く一閃させただけで、複雑怪奇に絡み合っていた呪いの術式がガラス細工のように呆気なく砕け散った。絶望に顔を歪める大魔族から視線を外し、ゼーリエは声をかける。
「悟飯、もういいぞ」
「はい!」
黄金の閃光が走り、大魔族は恐怖の悲鳴を上げる間もなく一撃で葬り去られた。
指揮官を失い、恐慌状態に陥った千を超える魔族の軍勢が空を埋め尽くしている。悟飯はゆっくりと上空へと舞い上がると、天に向かって右手を高く掲げた。
その周囲の空間に、無数の光の弾が出現する。十、百、五百、千――まるで夜空の星々をそのまま呼び寄せたかのような圧倒的な数の気弾に、地上から見上げるゼーリエが呆れ顔を浮かべた。
「……また妙な技を。一体ずつ相手にするのが面倒になったか」
「数が多くて、追いかけていると日が暮れてしまいますから」
「ならば最初からそれをやれ」
「下に村がありますからね、加減が難しかったんです」
直後、黄金の光の雨が空から一斉に降り注いだ。
それは文字通りの絨毯爆撃だったが、驚くべきことに、眼下の村にはただの一発たりとも被害は及ばず、森の木々すら必要以上に傷つけることはなかった。千を超える光の矢は、ただ魔族の肉体だけを寸分の狂いもなく正確に穿ち、浄化していったのだ。
やがて光の雨が止み、辛うじて生き残った数体の魔族が蜘蛛の子を散らすように地平線の彼方へと逃げ去っていく。
地上へ舞い降りた悟飯は、それを追おうとはしなかった。黄金のオーラが解け、髪と瞳が元の穏やかな黒色へと戻る。
「逃がしていいのか? 生き残りがいれば、またいつか軍勢を連れて来るやもしれんぞ」
ゼーリエの問いに、悟飯は背後の無傷の村を振り返り、静かに微笑んだ。
「その時は、また守りますよ」
どこまでもブレないその答えに、ゼーリエは「違いない」とばかりに鼻で笑い、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。
◇
その大戦以降、魔族たちはその村の周辺へ二度と近寄らなくなった。
命からがら逃げ帰った生き残りたちが、恐怖と共に語り継いだのだ。あの村には絶対に手を出してはならない黄金の怪物が棲んでおり、あまつさえ気まぐれに大魔法使いゼーリエまでが姿を現す、魔族にとって地上最悪の死地なのだと。
だが、千の魔族軍が一夜にして壊滅したという歴史的偉業が、人間側の世界に広く知れ渡ることはついになかった。他ならぬ悟飯自身が、それを望まなかったからだ。
「英雄になるつもりはありませんよ。目立てば色々と面倒ですしね」
ゼーリエに問われた時、悟飯はそう言って軽く笑っていたが、彼女にはその言葉の裏にある本当の理由が何となく分かっていた。
この男は、かつての自分の世界で、すでに一度「世界の命運」という重すぎる荷物をたった一人で背負い抜いたのだ。だからもう、名声も称賛も必要としない。ただ静かに、目の前の日常を愛し抜くことだけを選んだのだと。
そうして、穏やかな歳月が流れていった。
四十年、五十年、六十年。普通の人間ならばとっくに老境に入る年月が過ぎても、半分サイヤ人である悟飯の姿は壮年のままほとんど変わらなかった。
「おい、お前は一体いつになったら老いるんだ? 本当に人間か?」
「僕に聞かれても困りますよ。半分だけですけど、ちゃんと人間ですって」
「つくづく面倒でデタラメな種族だな」
しかし、七十年、八十年と時を重ねるうちに、あの黒髪にも少しずつ白いものが混じり始めた。九十年が経つ頃には目尻に深い皺が刻まれ、百年を超える頃には、あれほど神速を誇った歩みも少しずつ穏やかなものへと変わっていった。
一方で、長命種のエルフであるゼーリエの姿は、出会ったあの日から何一つ変わらない。
「ゼーリエさんは、本当に全然変わりませんね」
「当然だ」
会うたびに交わされる、お決まりのやり取りだった。
平和になった村で、老いた悟飯はもう拳を振るうことはなくなり、代わりに村の子供たちを集めて文字や算術、星の巡りや自然の摂理を教えるようになっていた。
「……実は僕、本当は昔、学者になりたかったんです」
ある暖かい昼下がり、木陰で子供たちの勉強を見守りながら、悟飯がふとそんなことを口にした。隣に立っていたゼーリエは、意外そうに目を瞬かせた。
「お前がか? 魔王すら殺せるほどの力を持った戦士が、学者だと?」
「はは、失礼ですね。これでも子供の頃は、母さんに言われて一生懸命勉強してたんですよ」
「ならば、最初からなればよかっただろう」
ゼーリエの言葉に、悟飯はかつての戦火に塗れた故郷を思い返すように少しだけ黙り込み、それから優しく目を細めた。
「……向こうの世界では、その夢を叶える余裕はありませんでした。でも」
悟飯は、板書を囲んで楽しそうに議論する村の子供たちへと愛おしげな視線を向けた。
「こっちの世界では、少しだけ夢が叶いましたよ」
ゼーリエは何も応えなかった。ただ、何故かは分からないが、その時の悟飯の穏やかな横顔と声の響きを、自分はこの先もずっと忘れないのだろうと思った。
◇
孫悟飯がこの世界で成し遂げた最後の仕事は、村を囲む「結界」の構築だった。
村の中央の広場で、すっかり白髪となった老いた悟飯が、残された右腕を静かに天へと掲げている。
「……何をしている、悟飯」
「結界を張っているんです。ゼーリエさんに教わった魔法と、僕の『気』を混ぜ合わせて」
正直なところ、悟飯に魔法使いとしての天賦の才があったかと言えば、決してそうではなかった。何十年もの間、最高峰の師であるゼーリエが手ほどきしても、彼が扱える魔法はせいぜい中級程度が関の山だったのだ。
だが、その日に彼が編み上げた結界は、ゼーリエが知るどの魔導師の術式とも異なっていた。
ゼーリエが悟飯へ授けた「魔法」の理と、悟飯がゼーリエへ伝えた「気」の生命力。二つの異なる世界の力が完全に融け合い、目に見えない温かな光のドームとなって村全体を優しく包み込んでいく。それは、術者がこの世を去った後も、何百年という長い歳月にわたって村を外敵から守り続けるための祈りの結界だった。
「……いつ、こんな術式を完成させた」
「ここ最近ですよ。全部、ゼーリエさんが根気よく教えてくれたおかげです」
深く刻まれた皺を寄せて笑う悟飯に、ゼーリエは少しだけ眉をひそめた。
「私に言えば、もっと強固で優れた結界を張ってやったものを」
「そうでしょうね。でも――これは、僕自身の手で作りたかったんです。この村をずっと守るっていうのは、僕の約束ですから」
自分が死んだ後もなお、手の届く範囲を守り続けようとするその執念に、ゼーリエは言葉を飲み込んだ。
「……最後まで頑固な奴だな」
「はは、よく言われます」
誰にだ、と尋ねようとして、ゼーリエはやめた。彼の胸の中にいる懐かしい人たちの顔が、その笑顔の向こうに見えた気がしたからだ。
◇
その日の夜、孫悟飯は静かに息を引き取った。
激しい戦いの果ての死ではない。魔族や魔物に討たれたわけでもなければ、病に侵されたわけでもなかった。ただ、百年を超える天寿を全うしての、穏やかな老衰だった。
かつての絶望の未来では、若くして冷たい雨の降る瓦礫の中で、誰にも看取られず一人きりで死んでいった男が、この世界の最期には数えきれないほど大勢の人々に囲まれていた。彼が守り抜き、育て上げた村人たち。孫やひ孫のように彼を慕う子供たちのすすり泣く声。
そしてその枕元には、出会ったあの日と変わらぬ姿のゼーリエが立っていた。
「……ゼーリエさん」
ベッドの上から見上げる悟飯の声は、もう今にも消え入りそうなほど細かった。
「何だ」
「……長かったですね」
「短い。瞬きする間のようなものだ」
ゼーリエの即答に、悟飯はかすかに喉を鳴らして笑った。
「そうですか……? でも、僕にとっては……十分すぎるくらい、長くて贅沢な時間でした」
ゆっくりと、その瞼が重たげに落ちていく。
「父さんよりも……ずっと長く、生きちゃいました。これなら、向こうでトランクスにも……少しは自慢、できるかな……」
途切れ途切れになる声に、ゼーリエはすぐには答えなかった。ただ、その乾いた右手にそっと視線を落とし、ぶっきらぼうに言った。
「好きにしろ」
悟飯の口元が、ふっと子供の頃のように無邪気に綻んだ。
「はい。……本当に、楽しい人生でした」
それが、孫悟飯という人間の最後の言葉となった。
ゼーリエは泣かなかった。ただ、窓の外の夜空が白み始め、新しい朝の光が部屋を満たすまで、一度もその場を離れることなく彼の傍らに立ち続けていた。
◇
「――そして、今日に至るというわけだ」
ゼーリエの静かな声と共に、居室の空気は遠い過去から現在へと引き戻された。
あまりにも壮大で、それでいてひどく個人的な物語を聞かされた弟子たちは、誰一人としてすぐに口を開くことができなかった。
沈黙の中、ゼーリエがゆっくりと椅子から立ち上がる。
「行くぞ。今日は、その馬鹿な男の命日だ」
「……命日、ですか? もしかしてゼーリエ様は、毎年その村へ行かれているのですか?」
驚きに目を見張る弟子を、ゼーリエがじろりと睨みつけた。
「悪いか?」
「い、いえ! 滅相もございません!」
あれから何百年もの間、彼女は毎年この日になると、誰にも告げずに一人でその村を訪れていた。一度たりとも欠かしたことはない。
なのにどうして今年に限って、弟子たちに昔話を聞かせ、こうして連れ立って歩いているのか――その理由は、ゼーリエ自身にもよく分からなかった。
辿り着いた村は、ちょうど賑やかな収穫と追悼の祭りの真っ最中だった。
通りには香ばしい料理と酒の匂いが満ち、軽快な音楽に合わせて子供たちが笑いながら駆け回っている。偉大な守護者の死を悲しむ時代はとうの昔に終わり、今ではこの日は、一人の男がこの村を愛し、幸せに生き抜いたことを祝う感謝祭となっていた。
村の中央広場には、一体の大きな銅像が建てられている。
そこに象られているのは、剣も、魔法の杖も、いかめしい鎧も身につけていない、ただの片腕の青年だった。少し困ったように眉を下げ、それでも見る者の心を解きほぐすように穏やかに微笑みながら、村を見守るように立っている。
「これが……孫悟飯、ですか」
弟子の一人が、銅像を見上げて感嘆の息を漏らした。
「随分と若い頃の姿なのですね。やはり、ゼーリエ様が記憶しておられる実物とは少し違いますか?」
問われたゼーリエもまた、眩しそうに目を細めて銅像の顔を見上げた。
優しい目元も、少し癖のある髪も、人を疑うことを知らないようなお人好しな笑い方も、何百年も前に森の中で初めて出会ったあの日のままだった。
「……いや。あんまり変わっていないな」
ぽつりとこぼれた呟きの意味を、弟子たちは理解できなかったが、ゼーリエもそれ以上説明しようとはしなかった。
代わりに彼女は青空を見上げ、静かに意識を研ぎ澄ませる。
何百年という歳月が流れた今でも、この村を包む結界の中には、悟飯が遺した微かな『気』の温もりが消えずに息づいていた。
今のゼーリエは、すでに気を自在に操ることができる。身体強化も、広域の気配感知も、指先から放つ気弾ですら、長い年月の鍛錬によって習得してみせた。
それでもなお、あの黄金に輝いた日の悟飯の領域には遠く及ばない。おそらく、これから先どれほど生き続けようとも、あの背中と肩を並べることは一生できないだろう。
その事実が、少しだけ腹立たしくて――そして何故か、たまらなく誇らしかった。
人間はすぐに死ぬ。どれほど強大な勇者も、名を馳せた戦士も、歴史に刻まれた大魔法使いも、やがて時の流れに風化し、人々の記憶から忘れ去られていく。
いつか遠い未来には、この村すら地図から消え、この銅像も朽ち果て、孫悟飯という名前を知る者が地上から一人もいなくなる日が来るのかもしれない。
けれど、ゼーリエはまだ生きる。これからもずっと、途方もない時間を。
――ならば、せめて私だけは、お前のことを覚えていてやる。
魔王を殺せる力を持ちながら、殺さなかった男。圧倒的な暴力でこの世界の歴史を奪うことを拒み、その代わり、自分の手の届く範囲にある小さな幸せだけを最期まで守り抜いた、ゼーリエが知る限り最も強かった人間。
「ゼーリエ様。せっかくですから、屋台の料理を少しいただいてもよろしいでしょうか?」
弟子の声に、ゼーリエは回想から目を覚ました。
「好きにしろ」
「ゼーリエ様はいかがなさいますか?」
いつもなら「要らん」と一蹴するところだったが、ゼーリエはふと足を止め、遠い昔に悟飯から聞いた、彼が初めてこの村で温かいスープを口にした日の話を思い出した。
「……食べる」
目を丸くする弟子たちを置いて、ゼーリエは先に立って歩き出した。
銅像のすぐ横を通り過ぎた、その時だった。
ふわりと、心地よい風が吹き抜けた。
その風の中に、何百年も前と少しも変わらない、太陽のように温かな『気』の残滓が混じっていた気がした。
ゼーリエは振り返らなかった。ただ、誰にも見えないように小さく鼻で笑い、風の中に消えていくほど微かな声で呟いた。
「ほんとうに、馬鹿みたいに人間だったな、お前は」