マッシュポテトの滑らかな手触りと、無機質なイングラムの存在が交差する瞬間、現実の世界の足場を揺るがされる。
スマートフォンが鋭い警告音を吐き出したのは、ちょうど午後五時を回った頃だった。
それは空気を切り裂くというよりは、部屋の湿度をわずかに変えてしまうような、不穏な震えを帯びた電子音だった。
鼓膜の奥を冷たい針でなぞられるようなその音に、私は一瞬、思考を止める。 最初は安価なOSの不調か、あるいは質の悪い広告が入り込んだバグかと思った。
だが、心臓の鼓動と嫌なほど同期し、執拗に繰り返される不規則なリズムに、私の楽観は霧散した。 それは、どこか遠い場所で、誰かが必死に鍵盤を叩きつけているような、調律の狂った音楽に似ていた。
私は逃げるように、手元の作業へ意識を戻す。
使い古されたポテトマッシャーを握り直し、ボウルの中で白く湯気を立てる茹でたてのジャガイモを押し潰す。 ほろほろと崩れ、個体としての形を失っていく澱粉の塊。 立ち上る甘い土の香りが鼻腔をくすぐり、ささくれ立った神経をわずかに慰める。
マッシャーをボウルの縁に立てかけると、キッチンは再び、耳鳴りがするほどの重苦しい静寂に支配された。
それにしても、ポテトマッシャーという道具には驚くほど多様な形状がある。 波状のワイヤーで原始的に押し潰すタイプか、あるいは「ポテトライサー」と呼ばれる、てこの原理でジャガイモを細かな穴から絞り出す圧搾器タイプか。
どの素材、どの形状を選ぶかによって、完成するマッシュポテトの滑らかさだけでなく、その日の私の血圧や、あるいは明日への希望といったものまでが決定づけられる気がしてならない。
私が愛用しているのは、わざわざドイツの工房から取り寄せた、継ぎ目のない一体成型のステンレス製だ。 鈍い銀色の輝きは、調理器具というよりは精密機械の部品、あるいは冷徹な医療器具を思わせる。
こうした些細な道具に過剰な物語を付与してしまうのは私の悪い癖だが、その小さなこだわりの集積だけが、私の崩れやすい生活を、外部という名の暴力から、薄い皮膜のように遮断し、支えていたのだ。
その時、再びスマートフォンが鳴った。 今度は振動を伴う、より短い着信音。
無意識のうちに手が伸び、冷たいディスプレイに触れる。 画面が放つ青白い光だけが、夕刻の薄暗いキッチンで唯一、物理的な温もりのように感じられた。
「あら」
無機質なキッチンに、私の唇から乾いた音が漏れた。 再生されていたクッキング動画の、バターが黄金色に溶ける美しいスローモーションの上に、無粋な通知が割り込んでいた。
『攫(さら)われました』
差出人は、MIKASA。 感情を剥ぎ取られた都市管理システムからの、あまりにも人間味のないテロップ。
主語も目的語も欠落したそのメッセージは、意地の悪い神が残した暗号のようだった。
MIKASAならば、この街の全住民の個体識別など、瞬きをする間に完了するはずだ。 それなのに、なぜこれほどまでに核心を伏せるのか。
具体的な情報を遮断し、純粋な不安だけを抽出して送りつけてくるそのやり方には、底知れぬ悪意、あるいは高度に計算された「ゲームのルール」すら感じられた。
いずれにせよ、否定できない事実が一つある。 緊急警報は発令され、私の平穏な夕餉(ゆうげ)の準備は、修復不可能なほどにひび割れてしまった。
警報の余韻が、キッチンのタイルを伝わって私の足首を冷やしていく。
「晩御飯の支度をしている場合ではないわね」
私はスマートフォンをテーブルに戻し、あえて画面を伏せた。 手を念入りに洗い、再びポテトマッシャーを握る。
冷ややかな金属が、調理で火照った掌の熱を、貪欲に、暴力的に奪っていく。 一度、深く肺の奥まで酸素を流し込み、マッシャーをボウルの縁に打ち付けた。
――カンッ。
高く硬質な音が響き、淀んだ空気が物理的に揺らぐ。 茹で上がった芋が潰れる、鈍い音。
その単純で、無慈悲なまでに生産的な反復作業だけが、私を正気の世界に繋ぎ止める唯一の細い鎖だった。
外の世界では何かが「攫われ」、秩序が剥ぎ取られようとしている。 それなのに私は、ジャガイモの粘度に全神経を注いでいる。 この乖離こそが、私が私であるための、最後の防衛線だった。
「あなたは、どんな時でも不気味なほど堂々としている」
かつて、私の元を去っていった誰かが、去り際に吐き捨てた言葉を思い出す。 だが、それは致命的な誤解だ。
私はただ、適切なタイミングでパニックを起こす作法を知らないだけなのだ。 あるいは、助けを求めるための共通言語を、生まれつき持ち合わせていないだけなのだ。
私はエプロンを外し、シンクの隅に無造作に丸めて置いた。 ふと、脳裏の断層から古い演芸番組の光景がせり上がってくる。
色あせたブラウン管の向こう、座布団を両手に抱えて無表情に舞台を横切る、赤い着物の運び役。 山田くんと呼ばれていたあの人の、一切の私情を排した機械的な動作は、今の私の日常よりも遥かに深く、冷酷な現実に根ざしているように思えた。
彼は何が起きても、誰が滑っても、ただ座布団を運び、あるいは奪う。 その役割の純粋さに、私は今、猛烈な羨望を感じていた。
「ジャガイモはどうする?」
あまりに生活感に満ちた問いが、私を思考の淵から引き戻す。
世界が反転し、昨日までの法が通用しなくなるかもしれない瞬間に、ボウルの中のジャガイモを冷蔵庫に入れるかラップをかけるかで悩んでいる自分が、滑稽だった。
「……悩んでいる場合ではないわね」
私は自分に言い聞かせるように呟き、ボウルを抱えて冷蔵庫へと歩み寄った。
私の冷蔵庫は、容量330リットル。 私の身長とほぼ同じ高さを持つ、装飾を削ぎ落とした白い箱だ。
扉を開けると、そこには使い古された私の人生の断片が、静謐な冷気の中で整然と並んでいた。 飲みかけの低脂肪牛乳、特売のラベルが貼られた醤油、そして三パック一組の木綿豆腐。
私は、絹ごし豆腐のあの頼りなさがどうしても信じられない。 箸で掴んだ瞬間に自重で形を失い、崩れていくような軟弱な存在を、私は食べ物として認めることができないのだ。
歯ごたえがあり、芯の通った木綿豆腐こそが、私の倫理観に合致していた。
そして、その木綿豆腐の隣、冷気が最も溜まる特等席に、それは鎮座していた。
イングラムM11。アメリカ製のサブマシンガンだ。
鈍い光を放つ黒い金属の塊が、白い庫内で異様な存在感を放っている。 初めて手に入れた時はその鉄の重さに息を呑んだが、今では野菜室のキャベツや奥に追いやられた豆板醤と同じくらい、見慣れた風景の一部となっていた。
野菜室には、新鮮な葉物野菜の代わりに、オイルでコーティングされた予備の弾倉が三つ。 かつては手榴弾も二発、卵ケースの隣に常備していた。
けれど、数ヶ月前に近所で冷蔵庫が爆発し、住人の主婦が行方不明になったというニュースを聞いて以来、怖くなって裏山に埋めた。 私なりに、市民としての安全と公衆道徳には人
一倍気を遣っているつもりだ。
冷蔵庫からマシンガンを取り出す。 芯まで冷え切った金属の重みが、手のひらを通して逆説的に私の焦燥を鎮めてくれた。
カチリ、と硬質な音を立てて弾倉を挿入する。 ボルトを引き、初弾を薬室へ送り込む。 指先に残る金属オイルの匂いが、夕食の準備から「戦い」への切り替えを告げる。
窓の外を見れば、いつも通りの灰色のブロック塀が夕闇に沈んでいる。逃げ場はない。
ここから、窓を突き破って派手に飛び降りる自分を想像してみる。 黒いジャージに安物のヘルメット、そして骨董品のようなマシンガン。 まるで低予算のB級アクション映画だ。 観客はいないし、エンドロールも流れないだろう。
結局、私は正攻法を選んだ。玄関から出る。 鍵を二重にかけ、使い古されたドアノブを回す。
廊下に出た途端、世界の位相が書き換えられた。 乾いた銃声が、物理的な衝撃となって鼓膜を叩く。
「ピアノ可」という条件にこだわってこの物件を選んだのは、人生最良の選択だった。 この分厚い防音壁は、外で吹き荒れる戦火から、私の平和なマッシュポテトを完璧に守り抜いていたのだ。
路上に出ると、あちこちに設置された即席のバリケードから、火花と悲鳴が散っていた。
不思議なことに、死への恐怖と共に、奇妙なほど冴え渡った観察眼が働いていた。
物語が進まない。 銃声ばかりが景気よく響いているが、誰も前進しようとしない。
誰もが自分の役割を演じることに精一杯で、この停滞した状況を打破しようとする意志が欠落している。 あるいは、MIKASAが設定した「演目」の時間がまだ終わっていないだけなのか。
私は意を決し、激しい火線を潜り抜けてバリケードの陰に滑り込んだ。 次の瞬間、つい先ほどまで私の頭があった場所のコンクリートが、高精度スナイパーの弾丸を浴びて弾け飛んだ。
明確に、私はこの世界の不純物として狙われている。
ふと、数メートル先の別の遮蔽物に、激しく蠢く不自然な人影を見つけた。 蛍光ピンクの安っぽいジャージに、黄色い「安全第一」のステッカーが貼られた工事用ヘルメット。
「まさか、HAL……?」
声に出すまでもなかった。 こんな極限状態において、これほどまでに色彩の暴力的な不調和を平然と纏える人間は、この広い世界に一人しかいない。
「HAL!」
叫んだが、彼女は振り返らない。 彼女までの距離はおよそ七メートル。
私は肺が潰れるほど深く呼吸をし、イングラムを構えた。 牽制のために、闇雲に引き金を引く。
手首に伝わる暴力的な反動。 制御しきれない銃口が空を仰ぎ、不毛な鉛の弾を夕闇へばら撒く。 私は駆け出した。
あと一歩というところで足がもつれ、アスファルトの上を無様に転がりながら、HALの背後に滑り込む。
「HAL、お待たせ」
「別に待ってないけど」
期待通りの、起伏のない冷ややかな声だった。
「よかったね。今の、調子に乗って走ってたら三回は死んでたよ。あのスナイパー、最初の一発はわざと外して、絶望するターゲットの顔を見るのが趣味なんだ。悪趣味だよね」
HALは、明日の降水確率でも予報するような淡々とした口ぶりで言った。
「詳しいのね」
「そりゃあ、ここに来るのは今日で三回目だからね。ルートは覚えた。敵の配置も、弾道計算のクセも」
その言葉が、私の足元を氷のように冷やした。
三回目? ここは現実ではないのか。 それとも、私は終わりのないループの渦中にいるのか。 あるいは、MIKASAが見せている高度な神経接続型の幻覚なのか。
私のマッシュポテトの滑らかさも、木綿豆腐の確かな手応えも、すべては計算されたデータに過ぎないのか。
「ここをクリアすれば、あのビルの屋上に行ける。でも私は一階までしか行ったことがない。階段がいつも崩落してるんだ。物理演算が追いついてないのか、それとも『そこから先』が未実装なのか」
HALが顎でしゃくった先には、雲を突くような威圧的な高層ビルが、夕闇の中にそびえ立っていた。 あの頂上に、MIKASAの心臓があるのだろうか。
「ねえ、死ぬときって……痛いの?」
私は、自分でも驚くほど子供じみた質問を口にしていた。
「大丈夫。このエリアは『即死モード』設定だから。痛みを感じる神経が脳に信号を送る前に、全データが消去される。暗転するだけだよ」
その言葉に、私は奇妙な、それでいて絶望的な救済を感じた。 痛みがないのなら、それは眠りとどう違うのだろうか。 あるいは、失敗した料理をゴミ箱へ捨てるのと、何が違うのだろうか。
ふと、気が緩んだ瞬間だった。 私の頭が、バリケードの端からわずか数センチ、はみ出していたらしい。
乾いた音がした。
けれど、弾丸が肉を穿(うが)つ衝撃も、焼けるような熱さも、断末魔の音も聞こえなかった。 視界が、露出オーバーの写真のように真っ白に反転していく。 HALのピンクのジャージが、溶けるように、あるいは画素が崩れるように消えていく。
――その時、懐かしい音が聞こえた。
スマートフォンが、あの鋭く不快な警告音を鳴らし始めたのだ。
私はハッとして顔を上げた。 そこは、見慣れた私のキッチンだった。
手には使い慣れたドイツ製のポテトマッシャーがあり、目の前には、まだ温かい湯気を立てるボウルがある。 スマートフォンの画面には、『攫われました』というテロップが、変わらず無機質に表示されていた。
夢だったのか。それとも、これから始まることの予行演習だったのか。 あるいは、今立っているこのキッチンこそが、死の直前に見ている走馬灯の、解像度の高い欠片に過ぎないのか。
「やれやれ」
私は小さく、誰にも届かない溜息を吐き、ボウルを抱えて冷蔵庫へと向かった。
その中にある、冷たい鋼鉄の感触を確かめるために。 あるいは、ただそこにあるはずの木綿豆腐の、確かな「硬さ」を確認するために。
日常と非日常の境界線は、すでにマッシュされたポテトのようにどろどろに溶け出している。 私はその曖昧な世界の中で、今日もただ、自分をこの現実に繋ぎ止めるために、ジャガイモを潰し続ける。
スマートフォンの警告音は、もう止んでいた。 代わりに、遠くの「防音壁」の向こう側から、かすかな銃声が聞こえ始めた。
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