学園都市では、中高生が親元を離れて生活すること自体は珍しくなく、学校や学区ごとに学生向けの寮が数多く用意されている。
相沢由良が暮らしているのもその一つで、柵川中学の生徒を中心に利用されている女子学生寮だった。寮とはいっても常盤台中学のそれほど格式張った造りではなく、外観だけを見ればごく普通の低層マンションに近い。各部屋には小さなベランダがあり、一階には管理人室、敷地の周囲には申し訳程度の植え込みが配置されている。
その寮へ向かう道を、御坂美琴と白井黒子が並んで歩いていた。
「お姉様、本当に黒子もご一緒してよろしかったので?」
「別にいいわよ。本返して、ちょっと話したら帰るだけだし」
美琴は片手に文庫本を持っている。少し前、雑談の中で由良から勧められて借りたものだったが、読み終えたので返すことになり、由良が帰宅する時間に合わせて寮の前で待ち合わせをしていた。
「それに相沢さん、佐天さんと一緒に帰ってくるって言ってたから、アンタがいても別に変じゃないでしょ」
「なるほど。確かに佐天さんがおられるのでしたら、黒子が同行しても自然ですの」
「佐天さんいなくても別に不自然じゃないけどね」
「まあ! ではこれは、お姉様と黒子がお二人で他校のご友人を訪ねるという、一種の夫婦外交――」
「違う」
「まだ最後まで申しておりませんの!」
「聞かなくても分かる」
美琴が面倒そうに返し、黒子が不満そうに頬を膨らませる。
そんなやり取りをしながら角を曲がると目的の学生寮が見えてきたが、約束の時間まではあと五分ほどあり、由良はまだ帰ってきていないらしい。
「少し早かったわね」
「でしたら、お姉様。こちらの時間を利用して二人きりで――」
「ん?」
美琴の足が止まり、黒子も反射的にその視線を追った。
寮の入口から少し離れた道路脇、植え込みと街路樹の間に、明らかに周囲の景色から浮いた金髪の少女がいた。本人としては身を隠しているつもりなのだろうが、常盤台中学の制服に白い手袋、さらにその特徴的な金髪という時点で、隠密行動には絶望的なほど向いていない。
しかも手には、かなり高価そうなデジタルカメラが握られている。
美琴の目が細くなり、その隣で黒子も同じように目を細めたが、理由はまったく違った。美琴は純粋に不審者を見つけた顔をしている一方、黒子は数日前に常盤台中学の資料準備室で見た、机いっぱいに並べられた由良の写真を思い出していた。
まだこちらに気づいていない食蜂は、植え込みの陰から由良の住む寮を窺い、時折カメラを持ち上げては何かの構図を確かめている。事情を知らなくても十分に怪しいが、事情を知ってしまっている黒子には、その数倍は怪しく見えた。
「……あんた、何してんのよ?」
「ひゃあっ!?」
美琴が声をかけた瞬間、食蜂操祈は文字通り飛び上がり、慌てて振り返るとカメラを背中へ隠した。
「み、御坂さん!?」
「何でそんな驚くのよ」
「べ、別に驚いてないわよぉ?」
「いや、今『ひゃあっ』って言ったでしょう」
「言ってない」
「言ったわよ」
「気のせいじゃなぁい?」
「じゃあ、その後ろに隠してるもの何?」
「…………」
食蜂の顔が固まり、美琴が半眼になる。
「食蜂」
「何かしらぁ?」
「後ろ」
「…………」
「見せなさい」
「嫌」
「即答!?」
食蜂はカメラを背中へ隠したまま一歩だけ後退すると、ちらりと黒子へ視線を飛ばした。
黒子と目が合う。
食蜂は一度だけ美琴を見て、それからもう一度黒子へ目を戻し、妙に意味ありげな瞬きをパチパチと二度ほど繰り返した。
「…………!」
黒子の眉間に深い皺が寄った。
――この女、黒子に助けを求めてやがりますの……!
間違いない。
先日の資料準備室で互いの秘密を共有してしまった結果、食蜂操祈は完全に白井黒子を「同好の士」として認識している。そして今、由良の寮をカメラ片手に窺っているところを美琴に見つかった食蜂は、その同志とやらへ、言葉を使わず必死に救援を要請しているのだ。
冗談ではない。黒子がお姉様の写真を秘密の部屋へ並べて「むふふ」と笑う行為と、この女が相沢由良の寮を高級カメラで監視する行為など、本人の認識においては天と地ほども違うのであって、ここで同類として扱われる筋合いなど一切ない。
「黒子?」
美琴が振り返る。
「どうしたの?」
「い、いえ」
「食蜂、何か怪しくない?」
「…………」
再び食蜂と目が合った。
今度の視線は先ほどよりさらに切実で、目だけで「お願い」と訴えている。黒子も目だけで「知るか」と返すと、食蜂は露骨に眉尻を下げ、今度は「何でそこで見捨てるのよぉ」とでも言いたげな顔になった。
黒子のこめかみが引きつる。
ここで全面的に食蜂を切り捨てれば、この女が追い詰められた末に『白井さんだって御坂さんの写真を――』などと言い出す可能性もないとは言い切れない。そこまで想像した瞬間、黒子の背筋を冷たい汗が流れた。
「まあ、お姉様」
「ん?」
「食蜂さんとて、たまたまこちらを通りかかっただけという可能性もございますの。最初から犯罪者を見るような目を向けるのはいかがなものかと」
「え?」
美琴が驚いた顔で黒子を見る。
食蜂も驚いた顔で黒子を見る。
黒子は美琴から自分の表情が見えない位置を選び、食蜂だけへ釘を刺すような鋭い視線を向けた。
――感謝しやがれですの。
食蜂は一瞬きょとんとしたあと、黒子にだけ分かる程度に口元を緩め、明らかに礼を伝える小さな笑みを浮かべた。
――ありがとう、同志。
声など聞こえていないのに、黒子にはそう言われたようにしか思えない。
こめかみがさらに引きつった。
「アンタが食蜂を庇うって珍しいわね」
「黒子は常に公平公正な判断を心がけておりますの」
「そう?」
「そうですの」
「まあ……いいけど」
美琴は納得しきれない様子ながら、改めて食蜂へ顔を向ける。
「それで? 本当に何してたのよ」
「だからぁ、たまたま通りかかって――」
「カメラ持って?」
「…………」
食蜂の目がまた黒子へ飛んだ。
今度はカメラを背中へ隠したまま、視線だけで「何とかして」と訴えてくる。
黒子は無言で目を細めた。
「写真撮影力を磨こうかと」
「何撮るつもりだったのよ」
「街並み?」
「疑問形になってんじゃない」
また食蜂が黒子を見る。
黒子は無視する。
それでも食蜂が諦めず、二度、三度と視線を送り続けるため、ついには黒子の方が耐えきれなくなった。
「……まあ、新しい撮影機材を入手したのであれば、性能を確かめたくなる気持ちそのものは理解できなくもありませんの」
「黒子、今日どうしたの?」
「公平公正ですの!」
「さっきからそれしか言ってないじゃない」
美琴が呆れて前へ向き直った隙に、食蜂は黒子へだけ見えるよう、目元を柔らかくして小さな感謝の笑みを作った。
そこには「助かったわぁ」という感情があまりにも分かりやすく表れており、黒子は無言のまま冷たい視線を返す。
――あとで覚えてやがれですの。
「最近のカメラって高性能なのよぉ?」
「聞いてない」
どう考えても逃げ切れていなかった。
黒子が額へ手を当てたくなった、その時だった。
建物の間を抜ける少し強めの風が由良の住む寮の側面を撫でるように通り抜け、上階のどこかで干されていた洗濯物を大きく揺らした。そのうち白っぽい小さな布が一枚だけ手すりを越えて宙へ舞い、風に煽られながら右へ左へと流された末、食蜂と美琴・黒子のほぼ中間にある舗装された歩道へ、ぽす、と軽い音を立てて落ちる。
「靴下?」
美琴が呟いた。
女物の短い靴下で、見たところ、ごく普通のものにしか見えない。
しかし食蜂操祈だけは、何かまったく別種のものを目にしたかのように硬直し、カメラを持つ手を小刻みに震わせ始めた。
「しょ、食蜂?」
美琴が訝しむ。
食蜂の瞳は、落ちた靴下へ釘付けになっている。
「ふ……」
「ふ?」
「ふおぉぉぉぉぉぉぉ……!」
「何よ!?」
美琴が反射的に一歩引く。
食蜂は震える指で地面の靴下を示した。
「こ、これは……!」
「だから靴下でしょう?」
「由良ちゃんが昨日履いていた靴下……!」
「…………」
美琴の顔から表情が消え、黒子も言葉を失った。
食蜂はそこで一瞬だけ黒子を見る。その目は明らかに「白井さんなら分かるでしょう?」と訴えていたが、黒子は即座に視線を逸らし、心の中で全力の拒絶を返した。
――分かりませんの。絶対に分かりたくもありませんの。
「昨日、右足に履いてた方よ……! 間違いないわぁ!」
美琴がゆっくり食蜂を見る。
「……あんた」
「何?」
「昨日どっちの足に履いてたかまで覚えてるの?」
「当然でしょう!?」
「何が当然なのよ!」
「由良ちゃんのなんだから!」
「意味分かんない!」
食蜂は美琴の叫びをほとんど聞いておらず、地面に落ちた靴下を凝視しながら、本気で拾うべきか否かを考え始めていた。
由良本人はいない以上、勝手に所有物へ触れるのは問題かもしれない。しかし、このまま地面へ放置すれば汚れるうえ、もう一度強い風が吹けばどこかへ飛ばされる可能性もある。それならば拾って保護する方が、むしろ本人のためではないか。
靴下一枚を巡っているとは思えないほど真剣な審議が、食蜂の中で猛烈な勢いで進行する。
「こ、こんなピンポイントで私の前に落ちてくるなんて……わ、私の理性力が試されてるのぉ……!?」
黒子は静かに目を閉じた。
――やはり、黒子とは違いますの。
少なくとも、そう信じていたかった。
「もういいわよ」
美琴は心底付き合いきれないという顔をすると、落ちている靴下へ歩み寄る。
「落とし物なんだから、とりあえず拾っとけばいいでしょ」
「待って」
食蜂の声が変わった。
美琴が足を止める。
「……何よ」
「御坂さん」
食蜂は笑っていなかった。先ほどまで「理性力」などと言って震えていた少女とは思えないほど真剣な顔になり、まっすぐ美琴を見据える。
「あなたがその靴下を拾うというのなら、私は自分の限界を超えてでも、《心理掌握》をあなたに通してみせる……!」
美琴も黒子も無言になった。
数秒後、美琴のこめかみに青筋が浮かぶ。
「アンタ、頭沸いてんじゃないの!?」
怒鳴り声が住宅街へ響いた。
「何で靴下一枚でレベル5同士が能力ぶつける話になるのよ!」
「だって由良ちゃんの靴下よ!?」
「だから何なのよ!」
「御坂さんには分からないの!」
「分かりたくもないわよ!」
「これは――」
「もういい!」
美琴は本気で変態を見る目になった。先ほどまでの警戒や呆れとも違う、見てはいけないものを見てしまった人間の目だった。
「分かった。分かったから。アンタが拾いなさい」
「…………え?」
「触りたいんでしょう?」
「そ、そういう言い方しないで!」
「知らないわよ! ほら、風でまた飛ぶ前に拾って!」
食蜂は靴下を見て、美琴を見て、それからまた黒子を見る。
今度の視線には、先ほどまでの「助けて」とは別の意味が混じっていた。
――白井さん、こういう時どうすればいいの?
そんな相談まで持ちかけられているような気がして、黒子は静かに顔を逸らした。
「白井さん」
「黒子を巻き込まないでくださいまし」
「同志でしょう?」
「今すぐその認識を捨ててくださいまし!」
とうとう声に出して救援を求められたものの、今度ばかりは黒子にも助ける気はなかった。
食蜂はやがて覚悟を決めたように息をのみ、靴下へ近づいてしゃがみ込むと、恐る恐る右手を伸ばす。しかし、由良本人の所有物へ触れるという事実を意識するたびに指先が止まり、地面まで残り数センチというところで何度も躊躇していた。
「早くしなさいよ」
「急かさないで御坂さん!」
「ただの靴下でしょうが!」
「由良ちゃんのよ!」
「余計悪いわ!」
美琴の一喝に押されるように食蜂の指先がついに布地へ触れ、その瞬間びくりと肩を跳ねさせたものの、そのまま意を決して靴下を拾い上げた。
立ち上がった食蜂の表情は、なぜか大きな試練を乗り越えた人間のように凛々しかった。
「何なのよその顔……」
美琴が引いている。
しかし食蜂は気にする様子もなく、靴下の端を両手で持ってゆっくり広げると、午後の日差しへ透かすように空へ掲げた。
白い靴下の輪郭が日の光の中へ浮かび上がり、美琴と黒子が何とも言えない表情で見守る中、食蜂だけが感無量とでも言いたげに目を細める。
「由良ちゃん……」
「何で空にかざすのよ」
「確認力よ」
「何を確認してんのよ!」
「繊維の状態とか」
「絶対嘘でしょう!」
「違うわよぉ」
食蜂が反論しかけた、その時だった。
「……食蜂さん。何してるんですか?」
背後から届いたのは、明らかに引きつった佐天の声だった。
食蜂の動きがぴたりと止まり、美琴も口を閉ざす。黒子だけは、声の主を確認する前から何が起きたのか悟ったように、非常にゆっくりと目を閉じた。
――終わりましたの。
三人が振り返ると、寮の入口前には佐天涙子と相沢由良が並んで立っていた。どうやら買い物か何かをしてきたらしく、佐天は小さな袋を手に提げている。
由良は普段通りの顔だったが、佐天は違った。
佐天の視線は、まず食蜂の顔へ向かい、次にその両手、空へ掲げられている靴下、美琴、黒子へと順番に移り、最後にもう一度食蜂へ戻る。
完全に引いていた。
「しょ、食蜂さん……?」
佐天は自分が見ている光景を確かめるように、もう一度呼びかけた。
「それ……何してるんですか?」
「ち、違うのよ!」
食蜂が即座に叫んだ。
「え?」
「これは違うの! あなたが今考えてることとは全然違うわぁ!」
「私、まだ何も言ってませんけど」
「顔が言ってるでしょう!」
「いや、でも……」
「違うから!」
食蜂は靴下を持ったまま必死に首を振る。
「これはたまたま! 偶然! 事故! そう、事故力なのよぉ!」
「事故力……?」
「由良ちゃんの部屋から風で飛んできて、たまたま私の目の前に落ちただけなの! だから拾っただけ! それ以上でもそれ以下でもなくて、あなたが想像しているような変な意味なんて一切ないのよぉ!」
「……たぶん私が考えてることより、説明の方が怪しくなってます」
「違う!」
食蜂は必死だった。
「これは完全な誤解! あなた今ものすごい誤解力を発揮してるから!」
「誤解力って何ですか」
「とにかく違うの!」
その横で、由良が少し首を傾げながら食蜂の持っているものへ目を向けた。
「……あ」
食蜂の声が止まる。
由良は一歩近づき、少しだけ目を細めた。
「あれ、私の靴下です」
食蜂が固まった。
「ああ、やっぱり相沢さんのだったのね」
美琴が言う。
「さっきベランダから飛んできたのよ」
「そうだったんですか」
由良はごく普通に納得し、食蜂を見る。
「食蜂さんが拾ってくれたんですね」
「…………」
食蜂は動かない。
由良は何も疑っていなかった。洗濯して干していた靴下が風で飛ばされ、たまたまそこにいた食蜂が拾った――ただそれだけだと思っているから、当然のように礼を言おうとする。
「ありがとうございます、食蜂さ――」
「ち、違うのよぉぉぉぉぉぉぉ!」
「え?」
食蜂が走り出した。
「ちょ、食蜂!?」
美琴が叫ぶ。
「違うの! 違うからぁぁぁぁ!」
金髪を揺らして全力で道路を駆けていく速度は、運動が得意とは到底思えない食蜂操祈とは思えないほど速く、美琴の「待ちなさい食蜂! 何で逃げるのよ!」という声にも一切反応しないまま、その姿はあっという間に角の向こうへ消えた。
「食蜂さん!?」
佐天が唖然としている。
黒子は追わなかったし、追う理由もなかった。むしろ今の食蜂の心情だけは少し理解できてしまう自分自身が、どうしようもなく腹立たしかった。
由良だけが遠ざかっていく食蜂の背中を見送り、姿が完全に消えてから数秒ほどして、小さく口を開く。
「……あの人」
「ん?」
佐天が由良を見る。
由良は食蜂の姿が消えた方向を指した。
「私の靴下持ったまま、いなくなりましたね」
その指摘に、佐天、美琴、黒子の三人は揃って黙り込んだ。誰にも否定の余地がなく、完全な事実だった。
「返してもらわないと、片方だけになっちゃうんですけど」
「……そうね」
美琴がようやく答える。
「連絡して返してもらいなさい」
「そうします」
由良がスマートフォンを取り出したのを見て、黒子の脳裏には猛烈に嫌な想像が浮かんだ。
今この瞬間、全力で逃げている食蜂の端末へ、由良本人から『靴下返してください』というメッセージが届く。その時、あの女がどんな反応をするのか。
黒子は途中で考えるのをやめた。
「白井さん?」
「何でもありませんの」
由良は不思議そうにしながらも食蜂へメッセージを入力し始め、その隣で佐天は、先ほどまで食蜂が立っていた場所と、彼女が逃げ去った道を交互に見ながら何とも言えない表情を浮かべる。
「……由良ちゃん」
「何ですか」
「やっぱり食蜂さん、今日も結構ひどいね」
「そうですね」
「前に『いつもはもう少し良識がある』って言ってなかった?」
由良は少し考えた。
「……訂正した方がいいかもしれません」
「うん。私もそう思う」
美琴が深いため息を吐く横で、黒子だけは何も言わなかった。
言えるはずがない。
自分だけは、全力で逃走していった食蜂操祈が由良の靴下を握ったままであること以上に、あの女がそもそも今日この場所へ何をしに来ていたのかを知っている。しかも、その事情を知りながら美琴の前で二度も庇ってしまった。
「……黒子は」
「何?」
「何でもありませんの、お姉様」
黒子は静かに目を逸らした。
秘密協定というものは、結んだ瞬間よりも、その後の方がよほど厄介らしかった。
当初妄想していたシーンに到達しました!
ここまで読んでいただきありがとうございました!