近頃、金凌にはどうしても気になることがあった。
用事があって蓮花塢の叔父を訪ねると何故か度々、姑蘇藍氏宗主の藍曦臣と鉢合わせてしまうのだ。
まだあの偏屈な弟、藍忘機でないだけマシではあるが、それにしてもおかしい。
姑蘇藍氏と雲夢江氏はかねてよりさほど親交が深いわけでもなく、両家の接点と言えばかつて雲夢江氏を追放された魏無羨ぐらいだ。
だが、その魏無羨にしても藍忘機の静室に居座っているだけで、姑蘇藍氏の弟子になったわけでも、ましてや食客として招かれているわけでもない。
疑問に思うのなら江澄に直接聞けば良いのだが、どうせ教えてくれない上に、余計なお小言を付け足されるだけだ。
「と言うわけだ。藍思追、姑蘇藍氏のお前なら何か気がついたことがあるのではないか?」
金凌にそう問われた思追はお人好しそうな顔に困惑を浮かべ、「さあ」と首を傾げた。
困る藍思追を見かねて、常に彼と行動を共にする小双璧の片割れ、藍景儀が横やりを入れる。
「思追を困らせないでくれ、金公子。私たちは藍氏の内弟子なんだぞ。宗主の私的な交流について詮索したり、吹聴なんて出来る筈がないじゃないか」
確かにそれもそうだと金凌も不承不承納得し、少年たちは金凌の言葉が正しいかを見定めるべく、進路を雲夢江氏の仙府がある蓮花塢へと向けた。
三人が雲夢の片田舎に入った時、奇妙な噂を聞いた。
夜な夜などこぞで猫が鳴き、その声がとても不気味な為、後をつける者が多いのだが、誰もその姿を目にした者は居らず、そして探しに行った全員がことごとく帰らぬ人となっているのだ。
捜索者が帰還せず、行方不明のままなのは、陳腐な怪談話には付き物の胡散臭い尾ひれに過ぎない。
生還者がいないのに、いつ、どこで、誰が死体を確かめたのか、それすら不明。
しかし摩訶不思議な現象の真相究明ほど、若い血潮を掻き立ててくれるものもない。
常に活躍の場を探し求めていると言っても過言ではない彼ら未熟な修士たちには打ってつけの怪異、そして修練の機会だった。
しかし一つ問題がある。
行こうぜと誘う金凌に、乗り気ではない小双璧は揃って頭を振った。
「どうして!」
と大きな声で金凌が彼らに問う。
その声にいかにも不満たらたらな様子で景儀が乗り気でない事情を説明した。
「だって金公子。ここはきみの叔父上、雲夢江氏の管轄だ」
「そんなの、雲夢目指して来たんだから、当然、私だって知っているさ」
「あのさぁ……」
思追と景儀の二人は呆れ果てて溜息をつく。
実は修真界には守らねばならない暗黙の、そして鉄則の規律があるのだ。
「他家の領地で、他の世家が夜狩りをするのは好ましくない。金公子はそんなのお構いなしだろうけど、私たちのせいで藍氏と江氏が揉めるのはごめんだよ」
景儀の言い方に金凌が「なんだよその言い方」と不満げにこぼす。
「叔父上なら平気さ。いつも足を折るとか脅すけど、実際は叩かれたことだってないし」
それは金凌だからその程度で済んでいるのだ。
藍氏の内弟子二人はそうはいかない。
「絶対行かない」
頑なに同行を拒否する彼らに拗ねた金凌は、仙子を連れて一人で猫が出たと言う界隈に向かってしまった。
困り果てた二人は顔を見合わせ、
「どうしよう」
と嘆息する。
普段は景儀がのんびり屋の思追を急きたてる立場だが、こう言う場面で冷静に知恵を働かせるのは思追だった。
「金公子は私が追うから、景儀、きみは蓮花塢に向かって江宗主に報告してくれ」
「分かった!」
思追の案を受けて早速蓮花塢へ向かおうとする景儀を思追は止める。
「景儀、分かっていると思うけど、私たちはあくまでも金公子について来ただけで、雲夢で夜狩りをするつもりは毛頭ないことを、ちゃんと江宗主に伝えるんだ」
そうしないと彼らの家に迷惑をかける。
景儀は「分かった、任せろ」と二つ返事で引き受けると瞬く間に御剣で飛び立って行った。
思追ものんびりはしていられない。
金凌は江澄の甥であるだけでなく、蘭陵金氏の宗主なのだ。
そんな彼に万が一のことがあれば、彼らが負える責任の範疇を超えてしまう。
藍忘機、藍曦臣の二人に迷惑をかけるなんて想像するだけで震えが来てしまう。
「金公子、待つんだ! 私も向かうから」
金凌の姿は既に見えなかったが、彼の賢い愛犬が遠吠えで思追に位置を教えてくれていた。
息を切らせて蓮花塢の門をくぐり抜けた景儀は、出迎えた門下生の制止も聞かず、一直線に試剣堂へと駆け込んだ。
「江宗主! 一刻を争う報告が――っ!?」
勢いよく扉を開け放った景儀の言葉が、ひゅうと喉を鳴らして飲み込まれる。
部屋の奥、江家の鮮やかな紫の長袍を纏った江澄が不機嫌そうに座っている。……そこまでは予想通りだった。
問題はその席で優雅に茶を飲む彼らの宗主、藍曦臣の姿もあったせいである。
彼は景儀の姿を認めると、柔らかな笑みを浮かべ、
「景儀。我が藍氏の家訓を忘れたか」
と静かに問いかける。
勿論忘れてはいない。
姑蘇藍氏たる者、いつ如何なる時も冷静沈着でなくてはならぬ。
「藍景儀が宗主と江宗主にご挨拶致します!」
と丁重に拱手で拝礼したが、頭の中は
(な、なんで宗主がこんなところに!?)
の疑問でいっぱいだった。
一瞬、金凌の言っていた「なぜか度々鉢合わせする」という言葉が頭をよぎり、景儀の思考は混乱しかけたが、またもや藍氏家訓を思い出し、居住まいを正す。
思追と約束した重大なことを江澄と藍曦臣に告げねばならない。
「宗主、江宗主。大変なのです。金公子が一人で魔物退治に向かってしまいました!」
「なに……!?」
金凌の名を聞き、江澄の眉間が険しく寄せられる。
苛烈と評判の高い彼の眼光の鋭さに、若い景儀は簡単に気圧されたが、頑張って伝えねばならないことをすべて吐き出した。
「江宗主、私と思追は、ここは雲夢江氏の管轄なのだから、まずは江宗主にお伝えするべきだと金公子を諌めたのです。でも彼は気がはやってしまい、私たちの制止も聞かず、行ってしまいました。二人で後を追うよりも、思追が金公子を追い、私が江宗主に連絡したほうが良いだろうと思って我々は二手に分かれました。どうかお咎めなきようお願いします」
勿論江澄とて年端もいかない景儀の様な若者を捕まえて頭ごなしに怒鳴るつもりはない。
「まったく、あの我がまま姫様にも困ったものだ……」
と独り言の様に呟いただけだ。
「万が一のことがあったらどうするつもりだ、あのバカ。自身が蘭陵金氏の宗主であることを忘れたか」
金凌の身を心配する江澄に、藍曦臣は気遣いの目を向けると、
「江宗主、落ち着きなさい。怒気で霊力を乱しては元も子もありませんよ」
と静かに宥める。
彼は優雅に立ち上がると景儀に向かって優しく頷いた。
「景儀、よく知らせてくれた。思追がついていれば大事には至らないだろうが、魔物の正体も分からぬ以上、急いだほうがよさそうですね」
「は、はい! ご案内します!」
江澄は忌々しそうに舌打ちをし、剣立てに置かれていた愛剣「三毒」を手に取る。
「追いついたらあのガキの脚を折ってやる!」
「あ、脚を!?」
青白くなる景儀の隣で藍曦臣は困ったように微笑みながら、彼もまた縦笛の裂氷を手にする。
「では参りましょうか。金公子に何かあっては大変ですし、我が弟子も放っておけません」
「当然だな」
尊大に言い放つ江澄に驚かされた景儀だが、
「私がここに居合わせたのも何かの縁です。行きましょう」
と素直に頷く藍曦臣に更に仰天させられてしまった。
(えっ、宗主も行くの……!?)
景儀の頭は混乱していたが、藍曦臣は元々こう言う性格だ。人一倍優しく寛容な彼だが、まさか他家の領内の騒動にここまで快く同行するとは。
「行くぞ」
景儀でさえ、惚れ惚れする侠気を漲らせ、先頭に立つ江澄の後へ続く藍曦臣はどこかうきうきしている様に見え、景儀は自分の頬を抓りたくなった。
とは言え、今は放心している場合ではない。
すぐに金凌と藍思追を追わねば。
✳ ✳ ✳
鬱蒼と茂る竹林の奥深く、月光すら届かぬ暗がりの中で金凌は前方を見据え、剣を構えていた。
暗闇しか見えないが彼の相棒の仙子が低く唸り、金凌を守るように前へと出て、狭い範囲を行ったり来たりしている。
地面を這うような低姿勢は、完全に敵を迎え撃つ戦闘態勢だった。
「姿を隠していないで出てこい! 蘭陵金氏、金如蘭が成敗してやる!」
闇へと放つ金凌の呼びかけに応える様に、腐肉の臭いが増し、そして闇の中から、爪音が近づいて来た。
「金公子!」
魔物の正体より、背後から掛けられたその声に驚かされてしまった。
息を切らせ、追いついた藍思追が愛剣を手に金凌の隣へと滑り込む。
「思追! やっぱり来たのか!」
「仕方ありませんよ。あなたに何かあれば同行していた我々、姑蘇藍氏の責任が問われます。それより金公子、油断しないでください。この気、ただの野良猫や低級霊ではありません」
「ああ、分かってるさ」
二人が警戒を強めたその時、闇の中から「それ」が姿を現した。
夜な夜な響き渡り、人々を惑わせた鳴き声の主――それは、一匹の小柄で痩せた猫だった。
ミャア、と愛らしい声で鳴き、翡翠色に光る瞳で金凌らを睨みつけるが、立ちこめる臭気は腐った肉の臭いを放ち、この猫が既に生きていないことを如実に物語っていた。
「これは……『
「妖魔にただのとか、特別とかあるのかよ」
「ふざけないで」
思追が目を見張る。
どうやらここは誰かの墓陵のようだ。
しかもなかなかに大きい。
墓は荒らされ、周辺には泥がこびりつき、錆び付いた装飾品などが打ち捨てられていた。
一体、この魔物の正体は───
「たかが猫の怨念が化けた邪祟だ! 私の歳華で切り伏せてやる!」
金凌が霊力を込め、金色の剣光を走らせる。
しかし、剣撃が届く直前、猫魅は耳をつんざくような悲痛な泣き声――赤ん坊の泣き声にも似た不気味な妖音を響かせた。
「くっ……!?」
その声を正面から浴びた金凌と思追は、激しい頭痛と眩暈に襲われ、膝をつきそうになる。頭の中に、悲しみと憎悪に満ちた記憶が直接流れ込んでくるかのようだった。
「金公子、耳を塞いでください! 精神を揺さぶる幻術です!」
思追が藍忘機から伝授された琴を取り出し、弦を弾いて、魔を払う音律を響かせるが、猫魅の放つ邪気は予想以上に強く、押し返されそうになる。
猫魅の影が押し寄せ、鋭い爪が二人に迫ったその瞬間――。
紫の閃光が、闇を鋭く切り裂いた。
「――失せろ、卑賤の身で、我が甥に触れるな!」
バチバチと光る紫の火花が周囲を照らす。
ビュウと肌をも切りそうな鋭い音を立て、鞭の一撃が猫魅の影を吹き飛ばす。
「叔父上……!」
目を見開いた金凌の視界には、紫の長袍を翻し、冷酷なまでに鋭い眼光を放つ江澄が立っていた。
「金凌! 仕置きを受ける覚悟は出来てるんだろうな! 後でたっぷり脚を折ってやるから覚悟しておけ!」
「なっ……! ちゃんと戦えてたし!」
言い返す金凌の背後から仙子が飛び出し、黒い影へと突進する。
攻撃を受けた猫魅は再び、霞となって、江澄を飲み込もうと頭から黒い靄が降りかかって来た。
「ちぃ……っ! 」
金凌を抱えて跳躍した為、均衡を崩した江澄の姿勢が乱れる。
寸分も遅れず、柔らかで、とても暖かい、しかし清廉な力を秘めた笛の音が降り注いだ。
藍曦臣がいま追いついたのだ。
「阿澄、今のは減点ですよ。油断は禁物です」
「喧しい。口を動かす暇があるなら手を貸せ」
微笑む藍曦臣は再び、優雅に裂氷を持ち直し、澄み渡る音律を奏で出す。
どこか哀愁漂う音色に惹かれたのか、猫魅はそれまで放っていた禍々しい妖音を止め、裂氷の音に耳を澄ませると、愛らしい声で「ミャア」と鳴いた。
ぼんやりと豪奢な衣装に身を包んだ若い女の姿が闇夜に浮かぶ。
少女を見た瞬間、猫魅はもう一度「ミャア」と鳴いて、霧のように霧散して行った。
「すごい、さすがに宗主の音律術は桁外れですね!」
後から息を切らせて駆けつけた景儀が、曦臣の圧倒的な霊力に思わず圧倒されて呟く。
藍曦臣が奏でる鎮魂の笛音により、少女は徐々に形を取って、愛らしい丸顔の美貌まで手に取る様にはっきりと見えだした。
「どうやら彼女は古代にこの地に存在した王朝の姫君の様ですね」
猫魅も消えたことだし、江澄と藍曦臣の二人で墓碑銘を確かめに行くと、かすれた文字で女性の名が記されていた。
盗掘のせいで墓の蓋も開いてしまった様で、どうやら空いた隙間から邪念を吸い込み、悪霊と化してしまったようだった。
「これは……」
思わず絶句した江澄の声に、他の者たちも棺の中を覗きに行く。
中には女性と思しき衣服を身に着けた骸骨と、猫の死骸が転がっていたのだが、彼らはその遺体よりも棺の蓋に付いた無数の引っかき傷の方に驚かされた。
江澄が絶句したのも当然である。
棺の内蓋には爪で掻きむしられた痛々しい痕が無数に残されていた。
絶望の中、命が尽きる瞬間まで外へ出ようともがいた証拠だった。
言葉を失う少年たちの横で、江澄は苦々しく眉をひそめると静かに視線を逸らした。
「……藍曦臣、弔ってやってくれ」
「ええ、任せてください」
藍曦臣は静かに頷くと、裂氷を唇にあてた。
星屑の降る夜空の下、哀悼の澄んだ音色が静寂へと溶けていく。
「それはともかく──」
江澄は三毒を鞘に納めると、苦々しい顔で金凌の首根っこを掴み上げた。
「痛い! 痛いってば、叔父上」
「当たり前だ! お前の様な愚か者でも分かるように痛くしてやってるんだからな! 無断で他家の領地を乱し、挙句に危険に晒されるとは何事だ! 雲夢だから許されるが、人の領地で勝手な真似をするなと前にも注意しただろう! 帰ったら反省文だ!」
「えぇーっ!?」
絶望的な声を上げる金凌を余所に、藍曦臣は静かに笛を収め、穏やかな笑みを浮かべ思追と景儀に向ける。
「二人とも怪我などしていないか? 金公子を制止し、江宗主の判断を仰いだ選択は良く出来た」
「はい! 澤蕪君、未熟な私たちを助けていただき、ありがとうございました! 江宗主にも感謝致します!」
思追と景儀が揃って深く拱手する。
江澄は二人の利口な弟子達を見、自分の不甲斐ない甥と比較し、しみじみと溜息をはき出した。
荒らされた墓を元通り埋め、猫騒動は一件落着となった。
しかし新たな疑問が確信となった金凌は、首をかしげながら思追の隣に歩み寄る。
「……なぁ、思追」
「なんですか、金公子?」
「叔父上たちの助けはありがたいが……、やっぱりおかしくないか? なんで藍宗主が叔父上と一緒にいたんだ。まるで最初から一緒に夜狩りの約束を交わしていたみたいじゃないか」
「それは……」
思追は困ったように微笑み、そっと言葉を濁した。
猫魅を封じ込める最中、藍曦臣が「阿澄」と呼んだのを思追は聞こえていたが、金凌は聞いていなかった様だ。
「……宗主方はきっと、私たちが思う以上に深い友情で結ばれている、ということではないでしょうか」
遠くでは、まだ怒りが収まらない江澄に対し、藍曦臣が「まあまあ」と楽しそうに宥める声が聞こえていた。
藍忘機と一緒の時もあんな顔は見せたことがない。
しかしやはり金凌には秘密にしておいた方が良さそうだと判断した思追は自分の胸にしまっておくことにした。
終
20260925