次世代型改造人間第一号《Spider》   作:fais

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《 Choice 前編 》

さて。ようやく時計の針が現在へ戻ってきた。

 

僕の名前はピーター・パーカー。そして今はSpider-Manだ。

 

あれから十年。僕は二十六歳になった。十年という時間は、思っていたより長い。高校生だった僕は大学へ進み、学部を卒業し、そのまま大学院へ進んだ。今では博士課程に在籍して、生体材料について研究している。昼間は研究室と実験室を往復し、論文を書き、学会発表の準備をして、時々学部生の実験実習を手伝っている。

 

そして夜になれば、赤と青のスーツを着る。

 

十年前と比べれば、随分とこの身体にも慣れた。朝起きた拍子に天井へ張り付くことはないし、コップを握り潰すこともない。人と握手をする時にどれくらい力を抜けばいいのか、椅子へ座る時にどこまで気を付けるべきか、何階くらいの高さなら受け身を取れば怪我をしないのかも、今では大体分かる。僕の筋力は人間のそれを遥かに超えている。傷は異常な速度で治り、普通なら致命傷になりかねない衝撃にも耐えられる。手首からは今でも有機ウェブが出るし、危険が近づけば蜘蛛感覚(スパイダーセンス)が頭の奥で警告してくれる。

 

それでも外見だけなら、ごく普通の二十六歳の男だ。Shockerが十年前に目指していた「次世代型改造人間」は、少なくともそういう意味では成功してしまった。幸いだったのは、僕を作るための技術が僕一人で途絶えたことだ。

 

あの日、本郷さんと僕が脱出した研究施設は炎に包まれた。僕の手術記録、遺伝子調整の詳細、使われた薬剤、手術を担当した技術者たち。次世代型改造人間を再現するために必要な資料の大半は、あそこで失われた。

 

Shockerはその後も僕を追った。捕獲命令を受けた改造人間とも何度も戦った。それでも僕と同じ方式で作られた改造人間が現れたことは、この十年間、一度もない。

 

だから僕は、いつしか少しだけ安心するようになっていた。少なくとも、僕と同じ被害者が生まれることだけは防げているのだと。もちろん、Shockerそのものが消えたわけじゃない。

 

世界のどこかでは今でも人が攫われ、身体を改造され、元の名前とは無関係なコードネームを押し付けられている。本郷さんと僕は、この連鎖を止めるために戦っている。だから僕が研究者になったことを、意外に思う人もいるかもしれない。

 

でも僕にとって、これはかなり自然な選択だった。

 

父さん――リチャード・パーカーは遺伝子工学と生体材料の研究者だった。特に有名なのは、遺伝子操作した蜘蛛が作る糸を高性能繊維として利用する研究だ。だから僕が研究しているのも、生物由来の高性能材料だ。父さんとまったく同じ研究をしているわけじゃない。それでも、気が付けば似た場所へ来ていた。

 

理由はもう一つある。自分自身を知りたかった。僕は十年間、自分の身体についてほぼ独学で調べてきた。一日にどれくらいのカロリーが必要なのか。筋肉がどれほどの荷重に耐えられるのか。怪我の治癒速度は普通の人間と比べてどれほど違うのか。疲労時に蜘蛛感覚の精度がどこまで落ちるのか。

 

本来なら病院や研究機関で検査すべきことだ。でも、それだけはできなかった。僕の血液一滴、細胞一つでもShockerの手に渡れば、十年前に失われた技術を再構築する手掛かりになるかもしれない。だから病院には行かない。特に採血は避ける。健康診断なんて、怪人との戦闘より緊張する。

 

……本当に。

 

――――――――――――――

 

「パーカー」

 

研究室で解析結果を眺めていると、背後から教授に呼ばれた。

 

「はい」

 

振り向くと、教授は書類の束を抱えていた。表情を見る限り、あまり良い知らせではなさそうだった。

 

「午後の材料試験実習、少し見てもらえるか?」

 

「またですか?」

 

「まただ。学部生が引張試験機を止めた」

 

「先週も止めてませんでした?」

 

「止めた。今度は治具の設定を間違えたらしい」

 

思わずため息が出る。僕自身の研究も進めたい。でも博士課程になってからは、研究室の後輩や学部生を指導する機会も増えた。TAとして実験実習に入るのも、その一つだ。教授は僕の返事を待つまでもなく、書類を差し出した。

 

「お前の方が説明が分かりやすい。頼む」

 

「それ、褒めてます?」

 

「働けという意味だ」

 

「ですよね」

 

教授が去っていく。僕はモニターへ戻り、途中だったデータを保存した。昼間の僕はこんな感じだ。研究して、論文を書いて、人に教える。夜になれば犯罪者を蜘蛛の巣で壁へ貼り付ける。博士論文の業績欄に後者を書けないのが、少し残念だ。

 

「ねえ」

 

後ろから女性の声がした。今度は教授じゃない。振り返ると、一人の女性が立っていた。金髪。白衣。年齢は僕と同じくらい。顔は知っている。

 

グウェン・ステイシー。

 

同じ大学院の博士課程で、再生医療と遺伝子工学を専門にしている。研究科内ではかなり有名な学生だ。僕も彼女の名前くらいは知っていた。ただ、これまで直接話したことはほとんどない。彼女は僕の顔と、胸元の名札を交互に確認した。

 

「ピーター・パーカー……よね?」

 

「そうだけど」

 

少し妙な聞き方だった。彼女は何かを確かめるように、もう一度名札を見る。

 

PETER PARKER。

 

それから、少し遠慮がちに口を開いた。

 

「いきなり変なことを聞いてもいい?」

 

「内容によるかな」

 

「リチャード・パーカー博士って、知ってる?」

 

指が止まった。十年経っても、父さんの名前を突然出されると胸の奥が僅かに強張る。

 

「……どうして?」

 

僕の声が少し警戒したものになったのを感じたらしい。彼女は慌てて手を振った。

 

「あ、ごめんなさい。別に変な意味じゃないの。私、グウェン・ステイシー」

 

「それは知ってるよ」

 

「知ってるの?」

 

「同じ研究科だからね。それに再生医療の発表、去年聞いた」

 

「あれ見てたんだ」

 

少し嬉しそうな顔をする。

 

「じゃあ話が早いわね。私、リチャード・パーカー博士の研究に凄く関心があるの」

 

「父さんの?」

 

言った瞬間、しまったと思った。彼女が目を見開く。

 

「……父さん?」

 

ここまで言ってしまったら誤魔化す意味はない。

 

「うん。リチャード・パーカーは僕の父親だよ」

 

「本当に!?」

 

研究室中に響く声だった。何人かがこちらを見る。僕は思わず口元へ指を当てた。

 

「ステイシーさん、声」

 

「あっ……ごめんなさい」

 

声を落とした。でも興奮は全然隠れていない。

 

「じゃあ本当に、あのリチャード・パーカー博士の息子なの?」

 

「そんなに驚く?」

 

「驚くわよ。蜘蛛の遺伝子を利用したスーパー繊維を実用化した人でしょう?」

 

「まあ、それが一番有名だね」

 

父さんの研究は、僕が子供だった頃より今の方が有名になっている。遺伝子調整された蜘蛛が生み出す繊維。軽量で、引張強度が高く、柔軟性にも優れている。製造技術が確立してからは宇宙開発用途でも採用されるようになった。だから研究者である彼女が知っているのは当然だ。彼女は近くの椅子を引き寄せ、僕の机の横へ座った。

 

「でも、私が一番興味あるのは繊維そのものじゃないの」

 

「というと?」

 

「パーカー博士って、その後もっと踏み込んだ研究をしてたでしょう?」

 

一瞬、心臓が速くなった。彼女は気付かずに続ける。

 

「異種間遺伝子交配。例えばトカゲの再生能力を、人間の組織再生に利用できないかとか。生物が持っている優れた形質を別の生物へ移す研究」

 

そこまで読んでいるのか。父さんが死ぬ前に進めていた研究。そしてShockerが目を付けて、最終的には僕自身の身体へ使われた。

 

「詳しいんだね」

 

「専門に近いから。今なら似た研究も増えたけど、十年以上前にあそこまで考えてたのはすごいと思う」

 

彼女は心から感心しているようだった。

 

「もし研究が続いていたら、再生医療の分野でもかなり大きな成果を出してたと思う」

 

父さんを褒められる。それは、思っていた以上に嬉しかった。十年前から、父さんの名前を聞く時はいつもShockerや事件と一緒だった。純粋に研究者として父さんを評価する人と話したのは、本当に久しぶりだった。

 

「……ありがとう」

 

「どうしてあなたがお礼言うの?」

 

「息子だから」

 

「そういうもの?」

 

「多分」

 

ステイシーさんは笑って少し間を置いてから、期待するような顔で尋ねる。

 

「その後の研究資料って、何か残ってない?」

 

やっぱりそこへ来るか。

 

「残念だけど、ほとんどないよ。父さんが死んだ時にかなり失われた」

 

「そう……」

 

本当に残念そうな顔をする。嘘ではない。父さんの研究資料の大半は、あの研究施設と一緒に失われた。

 

ただし、一つだけ例外がある。僕。父さんの研究成果を利用して作られた、歩く実験結果。もちろん言えるわけがない。

 

「もっと読んでみたかったんだけどな」

 

彼女は少し肩を落とした。僕はしばらく迷った。でも、彼女なら父さんの話を面白がってくれる気がした。

 

「研究資料はないけど、父さんの話ならできるよ」

 

「え?」

 

「僕が覚えている範囲でよければね。研究のことも、父さん本人のことも」

 

彼女の表情が明るくなる。

 

「本当?」

 

「うん」

 

「じゃあ、ぜひ聞きたい」

 

そこで会話は終わると思っていた。ところが彼女は立ち上がったあと、数歩進んでから振り返った。

 

「そうだ。連絡先、教えて」

 

「……え?」

 

「研究のこと聞きたいのに、毎回あなたの研究室を探し回るの面倒でしょう?」

 

「ああ、そういう意味ね」

 

「どういう意味だと思ったの?」

 

「何でもない」

 

スマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。その日の夜、彼女から最初に届いたメッセージは、挨拶でもなければ世間話でもなかった。

 

『パーカー博士が一九〇何年の学会で出した再生組織の発表、正式な題名覚えてる?』

 

研究者らしい。僕は少し笑いながら返信した。それが、グウェン・ステイシーと僕が研究室の外でも話すようになった最初の日だった。

 

――――――――――――――

 

その日の夜、僕はいつものようにニューヨークを巡回していた。

強盗一件。路地裏の喧嘩一件。あと、木から降りられなくなった猫一匹。

最後のはSpider-Manじゃなくてもいい気がしたけど、飼い主の女の子が泣いていたので仕方ない。

 

日付が変わる頃、人気のないビルの屋上へ降りた。

給水塔の影へ入り、周囲を見る。向かいの窓に人影なし。隣のビルにも誰もいない。

 

顎の固定部分へ手をかける。

 

――カシャン。

 

マスクを外した。

 

マスクを脱ぐと、冷たい夜風が汗ばんだ顔に直接当たった。十年間使っていても、これだけは気持ちがいい。

 

「ふぅ……」

 

今日は大学も長かった。帰ったらシャワーを浴びて、残っている論文を少し読んで、それから――。

 

ポケットのスマートフォンが震えた。彼女だった。

 

『さっきの発表見つけた。私が年を一年間違えてた』

 

続けて、

 

『それと明日、蜘蛛糸のタンパク質構造と遺伝子の関係について話したい』

 

初日から完全に研究の話しかしていない。返信しようとしたところで、背後から声がした。

 

「なるほどな」

 

背後から男の声がした。

 

「――っ!」

 

全身が一瞬で緊張した。誰もいないはずだった。振り返ると屋上の端に男が立っている。派手な柄のシャツにジャケット。深夜の屋上へ忍び込む人間の格好には見えない。僕はマスクを片手に持ったまま身体を構えた。

 

「誰だ!」

 

男は僕の警戒を気にする様子もなく、頭から足元まで眺めた。

 

「本当に普通の人間にしか見えねえな」

 

「夜中の屋上でSpider-Manがマスクを脱ぐのを待ってた人に『普通』って言われても、全然安心できないんだけど」

 

男が大笑いした。

 

「ハハハ! そりゃそうだ」

 

蜘蛛感覚(スパイダーセンス)は鳴っていない。敵意はない。少なくとも、今すぐ襲ってくるつもりはなさそうだ。

 

「何者だ?」

 

「一文字 隼人。日本から来た」

 

「日本?」

 

「そうだ。ピーター・パーカー」

 

男――一文字さんは、僕の名前を当然のように口にした。身体が僅かに強張る。

 

「どうして僕の名前を?」

 

「本郷 猛」

 

その名前を聞いた瞬間、警戒が少しだけ薄れた。

 

「本郷さん?」

 

「ああ。お前のことは、あいつから聞いてる」

 

一文字さんはゆっくり近づいてくる。

 

「十年前、Shockerの研究施設から逃げ出した次世代型改造人間。コードネーム――Spider」

 

「……その名前で呼ばないでください」

 

一文字さんが足を止めた。

 

「ん?」

 

僕は手に持っていた赤いマスクを少し持ち上げた。

 

「僕はSpider-Manです」

 

数秒。一文字さんは黙って僕を見た。それから、急に笑い出した。

 

「ハハハハ! なるほどな」

 

「何です?」

 

「いや。本郷がお前を気に入った理由が、ちょっと分かった」

 

「どういう意味です?」

 

「そのうち分かる」

 

分からない。というか、この人は最初からずっと説明が足りない。

 

「あなた、本郷さんの何なんです?」

 

「友達」

 

思わず首を傾げた。

 

「本当に?」

 

「お前、失礼だな」

 

「だって、全然タイプが違うから」

 

「それはよく言われる」

 

本郷さんは必要なことだけを話す。目の前の人は、必要じゃないことまで話しそうだ。

一文字さんはジャケットを少し持ち上げた。

 

腰にあるモノに僕はすぐに気付いた。中央に風車が付いた特殊なベルト。

 

「俺も改造人間だ」

 

「Shockerに?」

 

「ああ。Hopper 2号」

 

聞いたことがある。本郷さん以外にも、Shockerから脱走した改造人間がいる。

その一人。一文字隼人。

 

「本郷さんが言ってた人か……」

 

「なんて言ってた?」

 

「もう一人いる、とだけ」

 

「相変わらず説明が足りねえ奴だな」

 

それはあなたもだと思う。一文字さんは再び僕を眺めた。

 

「それで日本からわざわざ見に来たんだよ。十年間も血液交換なし。外見は完全に人間。機械化もほとんどなし。それで身体能力は旧世代型以上」

 

「見世物じゃないんですけど」

 

「分かってるって。ただ興味はある」

 

僕の周囲を一周しそうな勢いで見ている。

 

「本当に何も分からねえな」

 

「珍獣みたいに見ないでください」

 

「似たようなもんだろ」

 

「帰ります」

 

「待て待て待て。わざわざ日本から来たんだぞ」

 

「僕が呼んだわけじゃないでしょう」

 

「可愛くねえな、お前」

 

「二十六歳の男に可愛さを要求しないでください」

 

しばらく僕を見たあと、一文字さんは笑いながら屋上の縁へ腰を下ろした。

 

「そういや大学院生なんだって?」

 

「そうですけど」

 

「彼女は?」

 

「……はい?」

 

「女だよ。恋人」

 

突然何を聞いているんだ、この人は。

 

「いません」

 

一文字さんが本気で驚いたような顔をする。

 

「二十六にもなって?」

 

「余計なお世話だ!」

 

真夜中のニューヨークに、一文字さんの笑い声が響いた。僕はその時、本気で思った。

本郷さん。この人、本当に信用していい人なんですか?

 

――――――――――――――

 

翌日の昼休み、彼女は予告通り僕の研究室へやってきた。手にはタブレットと、分厚いノートがある。質問を一つするだけだと思っていた。甘かった。父さんが蜘蛛糸の強度を上げるために試していた遺伝子の組み合わせの話から始まり、タンパク質配列、紡糸条件、遺伝子発現制御と話が広がった。結局、昼休みだけでは終わらなかった。

 

「ねえ、午後は?」

 

「僕、学部生の実験を見るんだけど」

 

「何時まで?」

 

「四時くらい」

 

「じゃあ四時半にまた来る」

 

「まだやるの?」

 

「嫌?」

 

「いや。僕も面白いけど」

 

そう答えると、彼女は満足そうに自分の研究室へ戻っていった。それから本当に四時半に戻ってきて二時間後、気付けば僕のホワイトボードの半分には高性能繊維の式が並び、もう半分には彼女が書いた細胞再生の模式図が並んでいた。

父さんについて話しているはずだったのに、途中から完全に僕たち自身の研究の議論になっていた。彼女は頭の回転が速い。僕が力学的な視点から材料を見ると、彼女は細胞や遺伝子の側から同じ問題を見る。専門分野が少し違うからこそ、僕には思いつかない方向から質問が飛んでくる。研究者として話していて、単純に楽しかった。

その日は八時を過ぎたところで、ようやく彼女が時計を見た。

 

「……こんな時間」

 

「二時間くらい前に気付くべきだったね」

 

「ピーターも言わなかったじゃない」

 

「僕も面白かったから」

 

研究室には僕ら以外、ほとんど残っていなかった。彼女のお腹が小さく鳴った。彼女が止まる。僕も聞かなかったことにしようとした。

 

数秒。

 

「……聞いた?」

 

「何を?」

 

「今の」

 

「空調じゃない?」

 

「下手ね、嘘」

 

仕方なく二人で笑った。結局、そのまま大学近くの店へ夕食を食べに行った。デートなんて雰囲気じゃない。本当にただ、研究が長引いたから一緒に食事をしただけだ。でも帰宅してから、彼女からメッセージが届いた。

 

『今日はありがとう。久しぶりに研究の話であんなに盛り上がった』

 

少しして。

 

『あと、夕飯も』

 

僕は返信した。

 

『こっちこそ。次は僕の研究室じゃなくて、君の方も見せてよ』

 

返事はすぐだった。

 

『いいよ。明日の午後なら培養室以外は見せられる』

 

そうして翌日は、僕が彼女の研究室へ行くことになった。

 

――――――――――――――

 

彼女の研究室は、僕のところとはかなり雰囲気が違った。

 

僕の研究室には試験片や繊維、機械式の試験装置が多い。一方、彼女のところでは培養装置や顕微鏡、遺伝子解析用の機器が並んでいる。生きたものを扱う研究室。父さんの研究室を少し思い出した。

 

「これが今やってる実験」

 

彼女が画面を見せる。損傷した筋組織の再生を促進するため、特定の遺伝子発現を制御する研究だった。説明を聞きながら、僕は少し複雑な気持ちになる。

 

僕の身体では、それが自然に起きている。普通の人間なら何週間もかかる傷が、僕なら数日で治る。父さんが本来、医療へ使おうとしていた能力。Shockerはそれを兵士を作るために利用した。

 

「ピーター?」

 

気付けば、彼女が僕の顔を見ていた。

 

「ごめん。ちょっと考えてた」

 

「何を?」

 

「父さんが、こういう研究を見たら喜んだだろうなって」

 

彼女は画面を見る。

 

「パーカー博士も再生能力を医療へ使おうとしてたものね」

 

「うん」

 

「だったら、私が続きをやってみようかな」

 

冗談っぽい口調だった。でも僕は少し驚いた。

 

「続きを?」

 

「そのまま再現するって意味じゃないわよ。博士が目指していたものを、今の技術で別の方法からやってみるってこと」

 

そして笑う。

 

「成功したら、あなたにも自慢できるでしょう?」

 

「どうして僕に?」

 

「博士の息子だから」

 

――――――――――――――

 

ある夕方、グウェンの実験が失敗した。培養していたサンプルの一部に異常が出て、数日分のデータが使えなくなったらしい。僕が研究室へ行くと、彼女はモニターの前で腕を組んでいた。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない」

 

珍しく即答だった。

 

「四日分」

 

「それはきついね」

 

「原因も分からない」

 

僕は隣の椅子へ座った。本当なら専門外だ。でも二人で記録を最初から追った。

 

温度。時間。培養液。担当者。装置の履歴。

一時間くらいして、僕が一つ気付いた。

 

「グウェン、これ」

 

「何?」

 

「ここの時間だけ温度が少し落ちてない?」

 

「この程度なら誤差でしょう?」

 

「普段ならね。でも、その直後からだけ異常が出てる」

 

グウェンが記録を開く。装置側のログと照合する。数分後。

 

「……冷却装置」

 

「多分」

 

「瞬間的に再起動してる」

 

グウェンは画面を見たまま黙った。そして突然、机に突っ伏した。

 

「良かったぁ……」

 

「まだ確定じゃないよ」

 

「原因不明より百倍いい」

 

顔だけこちらへ向ける。

 

「ありがとう、ピーター」

 

「どういたしまして」

 

「私が『大丈夫』って言った時に『大丈夫じゃない』って言ってたでしょう?」

 

少し笑う。

 

「普通なら、専門も違うんだから帰るでしょう?」

 

「困ってたから」

 

グウェンが僕を見る。何秒か。いつもより長い。

 

「あなたって、そういう人なのね」

 

「どういう?」

 

「困ってる人を見ると放っておけない人」

 

「買いかぶりだよ」

 

「そうかな」

 

その日は、原因候補が見つかった祝いという名目で夕食を食べた。その頃になると、もう「研究が長引いたから」という理由すら必要なくなっていた。

 

どっちかが。

 

「食べて帰る?」

 

と言えば、もう一人が。

 

「いいよ」

 

と答える。それだけ。

 

――――――――――――――

 

そして、ある日の昼。いつもの店で僕の前にはサンドイッチ。グウェンの前にはサラダとコーヒー。彼女が突然言った。

 

「ねえ。最初に話しかけた時のことなんだけど」

 

「うん」

 

「私、結構失礼だったと思う」

 

「どうして?」

 

「リチャード・パーカー博士の息子だから話しかけたでしょう?」

 

「まあ、そうだね」

 

グウェンは少し申し訳なさそうな顔をした。

 

「正直に言うと、最初はあなた本人にはほとんど興味なかったの」

 

「本当に正直だね」

 

「ごめん」

 

「別に怒ってないよ」

 

むしろ当然だった。父さんを知らなければ、グウェンが僕に話しかける理由はなかった。でも彼女は、そこで少し表情を変えた。

 

「でも、今は違う」

 

「……」

 

「最初は『リチャード・パーカー博士の息子』だった。次に、研究の話をするとすごく面白い人だと思った」

 

指を一つ立てる。

 

「それから、意外と面倒見が良くて」

 

二つ。

 

「ご飯を異常に食べて」

 

「それ必要?」

 

「必要」

 

三つ。

 

「映画の趣味がちょっと古くて」

 

「ちょっと?」

 

「かなり」

 

「酷いな」

 

グウェンは笑った。そして、少しだけ声を柔らかくする。

 

「今はピーター・パーカーと話すのが楽しい」

 

僕は一瞬、何を言えばいいのか分からなかった。この数週間。研究室で話した時間。夜まで一緒に残った日。映画。夕食。メッセージ。僕のコーヒーの好みを覚えていたこと。全部。

 

「……ありがとう」

 

グウェンが吹き出した。

 

「何、その返事」

 

「じゃあ何て言えばいいの?」

 

「知らない」

 

二人で笑った。でも、その言葉は僕の中へ強く残った。リチャード・パーカーの息子だからじゃない。Shockerが作ったSpiderだからでもない。Spider-Manだからでもない。

 

ピーター・パーカーと一緒にいるのが楽しい。

 

それが単純に嬉しかった。

 

――――――――――――――

 

研究室へ戻る途中、僕は少し前を歩くグウェンの背中を見ていた。いつからだろう、研究室へ入ると、無意識に彼女がいるか探すようになった。メッセージが来ればすぐ確認する。笑っていると嬉しい。落ち込んでいれば気になる。そして最近では、他の男と楽しそうに話していると少しだけ面白くない。

 

「なるほどな」

 

突然横から声がした。

 

「うわっ!」

 

壁にもたれて一文字さんが立っている。

 

「何してるんですか!」

 

「観光」

 

「大学で?」

 

「若い女が多い」

 

「最低だ!」

 

「冗談だ」

 

……本当か?

一文字さんは僕の肩越しに、遠ざかるグウェンを見る。

 

「あれか?」

 

「何がです?」

 

「グウェンって女」

 

「どうして名前を知ってるんです?」

 

「前にも聞いただろ」

 

「言ってませんし、僕の周りを調査してません?」

 

「してねえよ」

 

その返事が微妙に怪しい。一文字さんは僕の顔を見て、すぐに笑い始めた。

 

「お前、惚れてるだろ」

 

「……は?」

 

「惚れてるな」

 

「何でそうなるんです?」

 

「顔」

 

「顔?」

 

「あの女を見る時だけ違う」

 

「そんなわけないでしょう」

 

「ある」

 

「ないです」

 

「ある」

 

子供みたいな言い合いになった。一文字さんは楽しそうだ。

 

「付き合ってるのか?」

 

「付き合ってません」

 

「映画行った?」

 

「……行きましたけど」

 

「飯は?」

 

「何度か」

 

「二人で夜まで研究?」

 

「あります」

 

「連絡は?」

 

「毎日……」

 

言いながら。止まる。一文字さんのにやにやした顔。

 

「……何です?」

 

「いやぁ」

 

「何ですか」

 

「それで『付き合ってません』か」

 

「研究仲間です!」

 

「映画は研究か?」

 

「……違います」

 

「二人で飯は?」

 

「研究の話もします」

 

「苦しいな」

 

「うるさい!」

 

一文字さんが声を上げて笑う。でも僕は少し前を歩くグウェンを見る。

 

一緒にいると楽しい。もっと話したい。もっと知りたい。笑っていてほしい。姿を見つけると嬉しい。その結論はもう、ほとんど出ていた。

 

「……多分」

 

一文字さんが笑うのを止める。

 

「何だ?」

 

「多分、好きです」

 

口にした瞬間。自分でも妙に納得した。一文字さんは、今度はからかわなかった。

 

「そうか」

 

「……はい」

 

でも、そこで僕の気持ちは少し沈んだ。

 

「でも、無理ですよ」

 

「何が?」

 

僕は自分の手を見る。見た目は普通の人間と変わらない。でも、この手なら鉄板を曲げられる。ほんの少し力を間違えれば、人間の骨なんて簡単に折れる。

 

「グウェンは普通の人間です。僕と一緒にいれば、Shockerに狙われるかもしれない」

 

一文字さんの表情から笑いが消えた。

父さん。ベンおじさん。僕と関わった人間がShockerに殺された。

 

十年経っても、その恐怖だけは消えていない。

 

「それに僕は……人間じゃない」

 

少しの沈黙。一文字さんが呆れたように言った。

 

「馬鹿か」

 

「……え?」

 

「誰が決めたんだ。お前が人間じゃないって」

 

「身体が――」

 

「身体がどうした」

 

一文字さんは僕の胸を指で軽く突いた。

 

「頭は? 心は? ピーター・パーカーって名前は?」

 

言葉が出ない。十年前の父さんの声が蘇る。

 

『Shockerに何をされても。お前はピーター・パーカーだ』

 

一文字さんは、今度は少し静かな声で続けた。

 

「身体を改造された。それは事実だ。俺たちはもう元の身体には戻れない。俺もそうだ。本郷もそうだ」

 

彼は自分の手を見る。

 

「でもな。身体をShockerに奪われたからって、人生までShockerにくれてやる必要はねえだろ」

 

「……」

 

「惚れた女がいるなら、手に入れろ」

 

「言い方」

 

「細けえな」

 

「グウェンが聞いたら絶対怒りますよ」

 

「じゃあ言い直す」

 

一文字さんは咳払いした。

 

「好きな女がいるなら、ちゃんと自分から掴みにいけ」

 

僕の肩を叩く。

 

「お前は十年間、何のために戦ってきた?」

 

答えはすぐに出た。

 

「普通に生きられる人たちを守るためです」

 

「だったら」

 

一文字さんは笑った。

 

「お前も少しくらい、普通に生きろ」

 

僕は何も言えなかった。戦うことしか考えていなかった十六歳の僕に、本郷さんは戦い方を教えてくれた。二十六歳になった僕には、一文字さんが別のことを教えようとしているらしい。

 

自分の人生を生きること。誰かを好きになること。その気持ちを相手へ伝えること。

怪人を倒すより難しい。少なくとも僕にとっては。

 

――――――――――――――

 

数日後。

グウェンが僕の机へやってきた。

 

「ピーター。今度の日曜日、空いてる?」

 

「今のところは」

 

「今のところ?」

 

「急に用事が入る時があるから」

 

Spider-Manとして、とは言えない。

 

「だったら、科学博物館へ行かない? 再生医療の特別展が始まったの」

 

「新しい培養技術が展示されてるやつ?」

 

「そう」

 

「行きたい」

 

即答した。グウェンが少し笑う。

 

「良かった」

 

その日の夜、巡回を終えた僕は、以前一文字さんと初めて会ったビルの屋上へ降りた。

 

あれ以来、一文字さんとは何度かここで顔を合わせている。僕が約束したわけではない。一文字さんが勝手に僕の巡回ルートを覚えて、時々ここで待っているだけだ。本人に言わせれば「ニューヨークを見渡すにはちょうどいい場所」らしいけれど、多分それだけではないと思う。

 

給水塔の陰へ入り、周囲に人がいないことを確認してからマスクを外した。顎の固定が外れる音がして、夜の冷たい空気が顔に触れる。

 

「今日は随分機嫌がいいな」

 

やっぱりいた。

 

振り返ると、一文字さんは屋上の縁に腰を掛けていた。片手には紙コップのコーヒーを持っている。地上からここまで普通に上がってきたとは思えないけれど、どうやって来たのか聞くのはもうやめた。

 

「そんなに分かります?」

 

「分かる。いつもはもっと疲れた顔してる」

 

「失礼ですね」

 

「で、何かあったのか?」

 

少し迷った。

 

別に報告するようなことでもない。でも、一文字さんにはグウェンのことを何度か話しているし、黙っていてもそのうち聞かれる気がした。

 

「日曜、科学博物館へ行くことになりました」

 

「へえ」

 

一文字さんは特に興味もなさそうにコーヒーを飲んだ。

 

「研究か?」

 

「まあ、そんな感じです。再生医療の特別展が始まったらしくて」

 

「一人で?」

 

「グウェンと」

 

一文字さんの手が少し止まった。

 

「……グウェンと?」

 

「はい」

 

「二人で?」

 

「そうですけど」

 

一文字さんは何も言わず、続きを促すようにこちらを見た。

 

「はい。新しい培養技術とか人工組織の展示もあるみたいで、グウェンの研究にも近いんですよ」

 

「なるほどな。で、研究室の連中も一緒に行くのか?」

 

「いえ。僕とグウェンだけです」

 

一文字さんはこちらを見た。

 

「二人だけ?」

 

「そうですけど」

 

「……日曜に?向こうから誘われた?」

 

「そうですよ。急に机まで来て、今度の日曜日空いてるかって。普通に展示を見るだけですよ」

 

一文字さんは何も言わなくなった。最初は確認するような顔だった。それが途中から呆れたような顔になった。

 

「ピーター」

 

「何です?」

 

「お前、頭いいんだよな?」

 

「一応博士課程ですけど」

 

「じゃあ何で分かんねえんだ」

 

「何が?」

 

深いため息。

 

「日曜はちゃんとした服で行け」

 

「科学博物館ですよ?」

 

「髪も整えろ」

 

「研究展示を見るだけなのに?」

 

「頼むから俺を信じろ」

 

まったく意味が分からなかった。

 

――――――――――――――

 

日曜日、僕は待ち合わせの三十分前に科学博物館へ着いていた。

 

早すぎる。

 

普段なら時間ぎりぎりまで研究室にいるか、Spider-Manとして何かに巻き込まれて遅れそうになるかのどちらかだ。それなのに今日は三十分前。自分でも分かりやすいと思う。腕時計を確認し、それからスマートフォンの時刻も確認する。当然、同じ時間だった。周囲には家族連れが多い。それから、僕と同じくらいの年齢の男女が二人で歩いている姿も目についた。

 

そこで、ふと一文字さんの言葉を思い出した。

 

『日曜はちゃんとした服で行け』

 

その時は意味が分からなかった。でも改めて考えてみる。休日。男女二人。待ち合わせ。科学博物館。

……これ、もしかして。

 

「ピーター?」

 

考えがまとまる前に声をかけられた。振り返ると、グウェンが立っていた。

普段は白衣姿ばかり見ているから、一瞬だけ別人に見えた。明るい色のコートに細身のパンツ。髪も研究室にいる時より丁寧に整えている。

 

毎日のように顔を合わせている相手なのに、どうして今日はこんなに違って見えるんだろう。

グウェンが首を傾げた。

 

「どうしたの?」

 

何か言わないといけない。こういう時、一文字さんなら迷わず褒めるんだろう。

僕にはそこまで器用なことはできない。

 

「……その服、似合ってる」

 

グウェンは一瞬だけ目を丸くし、それから少し嬉しそうに笑った。

 

「ありがとう。ピーターも今日はちゃんとしてるのね」

 

「今日は?」

 

「いつも研究室帰りみたいな格好してるでしょう」

 

「研究室にいるんだから仕方ないよ」

 

「今日はどうしたの?」

 

「一文字さんに、ちゃんとした服で行けって言われた」

 

グウェンが吹き出した。

 

「その一文字さんって人、良い人ね」

 

「そうかな」

 

「少なくともピーターよりは分かってる」

 

「何を?」

 

「何でもない」

 

まただ。僕だけ何かを知らない気がする。

 

――――――――――――――

 

特別展は、僕が想像していたより大規模だった。再生医療と一口に言っても対象は広い。幹細胞による組織再生、神経接続、人工臓器、遺伝子治療。損傷した筋肉や骨をどこまで元の状態へ戻せるかという展示もある。グウェンは展示を見るたびに足を止めた。

 

ただ眺めるだけじゃない。説明文を読み、展示データを確認し、気になる部分があれば僕へ意見を求める。僕が材料側から話せば、今度はグウェンが細胞や遺伝子の視点から補足する。気付けば、二人で展示へ来たというより、簡単な研究会を開いているような状態になっていた。

 

「これ、見て」

 

グウェンが一つの展示の前で足を止めた。損傷した骨格筋の再生についての展示だった。大きく損傷した組織へ細胞を移植し、機能をどこまで回復させられるかという研究らしい。

 

グウェンはしばらく黙って模型を見ていた。その表情が、それまでとは少し違う。単に研究者として興味を持っているだけではないように見えた。

 

「こういう研究、もっと進めたいんだ」

 

「グウェンの研究も近いよね」

 

「うん。でも私がやりたいのは、もっと実際に治療へ繋がるところまで」

 

僕は隣へ立った。

 

「どうして再生医療だったの?」

 

今まで彼女の研究内容は何度も聞いた。でも、なぜその分野を選んだのかは聞いたことがなかった。グウェンは少し考えたあと、展示から目を離さずに答えた。

 

「私の父、警察官なの」

 

「警察官?」

 

「うん。ずっと現場に出てる」

 

そう言う時の声には、少し誇らしさが混じっていた。

 

「子供の頃は嫌だった。夜になっても帰ってこない日があるでしょう? ニュースで警察官が撃たれたとか、大きな事件があったとか聞くと、それだけで怖くなった」

 

少し笑う。

 

「一度、父が腕を怪我して帰ってきたことがあったの。今考えれば大した怪我じゃなかったんだけど、子供だった私にはものすごい怪我に見えた」

 

「……怖かった?」

 

「すごく。でも同時に、誇らしかった」

 

僕はグウェンを見る。その答えは少し意外だった。

 

「父は、自分が怪我をするかもしれないのに市民を守る仕事をしてる。誰かが危ない時に、その人の前へ立つのが仕事なの。私は、それをすごいと思ってる」

 

彼女の視線が展示へ戻る。

 

「だから私も警察官になりたい、とは思わなかったけどね」

 

「ならなかったんだ?」

 

「だって私、昔は血を見るの苦手だったもの」

 

「再生医療の研究者が?」

 

「昔の話!」

 

少し睨まれた。僕が笑うと、グウェンも笑った。それから彼女は、もう一度展示を見る。

 

「私は、父みたいな人たちの役に立ちたいと思ったの」

 

「父親みたいな人?」

 

「警察官でも消防士でもいい。誰かを助けようとして傷ついた人。事故に巻き込まれた人。病気で身体の一部を失った人。そういう人が、そのせいで一生何かを諦めなくちゃいけなくなるのは嫌なの」

 

グウェンは再生された筋組織の模型を指した。

 

「だから、これをやってる」

 

僕はすぐには何も言えなかった。

 

今まで何度もグウェンと研究について話してきた。彼女が優秀な研究者なのも知っているし、再生医療に強い関心を持っていることも知っていた。でも、どうしてそこまで熱心なのかを聞いたのは初めてだった。

 

研究が好きだから研究している。それだけじゃない。自分が子供の頃から誇りに思ってきた父親が、市民を守るために危険な場所へ立っている。なら、自分はそんな人たちが傷ついた時に助けられる人間になりたい。

 

グウェンは、ずっとそう考えて研究を続けてきたのだ。僕にはそれが、ひどく真っ直ぐなことに思えた。父さんもそうだった。研究そのものが好きだったのは間違いないけれど、その先にはいつも人がいた。新しいものを作ることより、それを使って何ができるのかを考えていた。

 

目の前にいるグウェンにも、どこか同じものを感じた。方法は違う。でも、自分にできることで誰かの役に立ちたいというところは同じだった。そして僕は、その考え方が好きだと思った。

 

研究者として尊敬できる、というだけじゃない。もっと単純に、こういう人だから、僕はグウェンと話しているのが楽しいんだ。

 

「……すごいね」

 

ようやく出た言葉に、グウェンがこちらを見た。

 

「何が?」

 

「いや、今まで君が再生医療をやってる理由って、ちゃんと聞いたことなかったから」

 

僕はもう一度展示へ目を向けた。

 

「父さんも、似たことを考えてたんだと思う。失った身体を取り戻すとか、今まで治せなかったものを治すとか。父さんが異種間遺伝子の研究を始めたのも、最初は本当に人を助けるためだった」

 

グウェンは静かに僕の話を聞いていた。

 

「だったら、私とパーカー博士って少し似てるのかな」

 

「多分ね」

 

僕は少し笑った。

 

「父さん、君のこと気に入ったと思うよ」

 

「本当?」

 

「うん。多分、研究の話を始めたら二人とも止まらない」

 

「それは楽しそう」

 

「巻き込まれる僕は大変だけどね」

 

グウェンが笑った。その笑顔を見ながら、僕はもう一度思った。

 

やっぱり、僕はこの人が好きなんだと思う。

 

――――――――――――――

 

博物館を出た時には、まだ夕方だった。

グウェンが近くの公園を指して

 

「少し歩かない?」

 

と言ったので、そのまま二人で歩くことにした。

最初は当然のように展示の続きを話していた。再生組織の足場材料に何を使うべきか、臨床応用するなら免疫反応をどう抑えるか、材料工学から何ができるか。僕たちにとって研究の話は、特別な話題というより日常会話に近い。

しばらくして、グウェンが急に笑った。

 

「ねえ、今日ずっと研究の話してない?」

 

「博物館に来たんだから当然じゃない?」

 

「じゃあ十分だけ研究禁止」

 

「禁止?」

 

「そう。普通の話をするの」

 

僕たちは大学で知り合い、父さんの研究をきっかけに話すようになった。研究以外のこともかなり話すようにはなったけれど、それでも会話の中心にはいつも研究がある。それを意識的に禁止されると、何を話せばいいのか一瞬分からなくなる。

 

「普通の話って、例えば?」

 

「子供の頃、何になりたかった?」

 

「研究者かな」

 

「やっぱり?」

 

「父さんみたいになりたかったんだ。子供の頃の僕には、父さんが何でも知ってるように見えたから」

 

今でも覚えている。何か疑問があって父さんへ尋ねると、相手が子供だからと適当には説明しなかった。八歳の僕へ蜘蛛糸の構造を一時間近く説明したくらいだ。その時は途中から後悔したけれど、今思えば、父さんなりに僕を一人の人間として扱っていたのだと思う。

 

「ずっと研究者になりたかったの?」

 

グウェンにそう聞かれて、少しだけ返事が遅れた。

 

「十六歳くらいからは、あんまり考えなくなったかな」

 

あの年から、将来という言葉は急に現実味を失った。父さんが死に、僕自身が改造され、その後にベンおじさんまで失った。大学へ行くか、どんな仕事に就くかと考えるより、その日をどう乗り越えるかで精一杯だった。グウェンは僕の表情から何かを感じ取ったのか、それ以上は聞かなかった。代わりに、僕が質問を返した。

 

「グウェンは?」

 

「医者になりたかった」

 

「さっき言ってたね。血が苦手だったのに」

 

「そこは忘れて」

 

「結構重要な情報だと思うけど」

 

「ピーター」

 

本気で怒ってはいないけれど、これ以上はやめろという顔だった。僕が笑って謝ると、グウェンもすぐ笑った。そこからは本当に研究以外のことを話した。グウェンの父親は現場では厳しい人だけれど、家に帰ると娘には意外に甘いこと。僕が両親を失ったあと、ベンおじさんとメイおばさんに育てられたこと。好きな映画や、本、子供の頃にした失敗、休みの日に何をしているか。

 

ベンおじさんの最期についてだけは話せなかった。

 

あの話をするならShockerのことを避けられない。父さんの死についても、本当のことはまだ言えていない。僕はグウェンへ自分のことを話しているようで、一番大きな部分だけはずっと隠している。それでも、研究とは関係のない話だけで一時間以上歩けたことが嬉しかった。

 

――――――――――――――

 

公園を出る頃には日が沈んでいた。駅へ向かう道を歩きながら、僕は何度も一文字さんの言葉を思い出した。

 

『好きな女がいるなら、ちゃんと自分から掴みにいけ』

 

今日じゃなくてもいい、という考えはすぐに浮かんだ。次に二人で出かけた時でもいいし、その次だっていい。告白を先延ばしにする理由なら、いくらでも考えられる。それ以上に怖いのは、グウェンを自分の生活へ深く入れてしまうことだった。父さんはShockerに殺された。ベンおじさんもそうだ。

 

僕の人生にShockerが関わるようになってから、大切な人を失うことは常に戦いと隣り合わせだった。もしグウェンと付き合えば、いつか彼女まで狙われるかもしれない。でも、その恐怖を理由に誰とも深く関わらないのなら、僕はこれから何十年もShockerに人生の形を決められ続けることになる。

 

身体だけじゃない。誰を好きになるか。誰と一緒に生きるか。そこまでShockerに決めさせるのか。一文字さんが言いたかったのは、多分そういうことだった。

 

僕は足を止めた。

 

「グウェン」

 

グウェンも立ち止まり、こちらを向いた。

 

「何?」

 

悪人を前にした時なら、こんなに緊張しない。相手が殴ってくるのか蹴ってくるのかなら蜘蛛感覚(スパイダーセンス)が教えてくれる。でも今は、何を言えば正解なのかを教えてくれる感覚なんて一つもない。

 

「その....今日、すごく楽しかった」

 

「私も」

 

「それだけじゃなくて。研究室で話すのも、夜まで一緒に研究するのも、夕飯を食べるのも、映画を見るのも、今日みたいに出かけるのも、全部楽しい」

 

グウェンは何も言わずに聞いている。

 

「僕、もっとグウェンと一緒にいたい。だから……好きだ」

 

言ってしまうと、驚くほど簡単だった。その直後に来た沈黙の方がずっと辛かった。数秒しか経っていないはずなのに、蜘蛛感覚(スパイダーセンス)が危険を知らせてから攻撃を避けるまでより何倍も長く感じる。耐えられなくなって、僕は余計なことを言い始めた。

 

「ごめん。急に言われても困るよね。返事は今じゃなくてもいいし――」

 

「ピーター」

 

「はい」

 

「少し黙って」

 

「……はい」

 

グウェンは一歩こちらへ近付いた。怒っているようには見えない。むしろ、少し呆れているようだった。

 

「私、今日デートのつもりだったんだけど」

 

「……え?」

 

今度は本気で驚いていた。グウェンは額へ手を当てた。

 

「本当に気付いてなかったのね」

 

「科学博物館だったから、研究仲間として誘われたんだと思ってた」

 

「休日に男女二人で待ち合わせして、いつもと違う服で出かけて、博物館を見て、一緒に食事して、公園を歩いて、夜まで二人でいるのよ?」

 

そこまで順番に説明されると、確かにものすごく分かりやすい。

 

「何だと思ってたの?」

 

僕は少し考えてから答えた。

 

「……研究交流?」

 

グウェンが深いため息をついた。

 

「信じられない」

 

「ごめん」

 

グウェンは呆れたように首を振ったあと、今度はちゃんと僕を見た。

 

「私も好きよ」

 

意味を理解するまで、一瞬だけ時間がかかった。

 

「……もう一回言って」

 

「嫌」

 

「そこを何とか」

 

「嫌」

 

「お願い」

 

「絶対に嫌」

 

グウェンが笑い、僕も笑った。それだけで、さっきまで胸の中にあった重たいものが少し軽くなった。彼女が手を差し出す。

 

「これからよろしくね」

 

「共同研究みたいだね」

 

「あら。嫌?」

 

「まさか」

 

僕はその手を取った。人に触れる時は、いつも無意識に力を抜く。十年前から身についた習慣だ。ほんの少し力加減を間違えれば、僕は相手を傷つけられる。だから握手でも肩を叩く時でも、普通の人間が考える必要のないことを僕は常に考えている。

 

でも、その日はほんの少しだけ強く握った。グウェンも握り返した。温かい手だった。

その温度を感じながら、僕はこの関係を大切にしたいと思った。

 

 




二話で終わろうと思ったんですけど、グウェンとの恋愛を書こうと思ったら長すぎたので分割しました。トビー版のMJはビッチだったけど、ガーフィールドのグウェンが好きで、定期的にアメイジング・スパイダーマン見たくなるんですよ。てか知識不足だったんですけど、ピーター・パーカーの彼女歴でグウェンて3番目なんですね。
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