ピーター・パーカーは改造人間である。

彼を改造したショッカーは世界征服を企む悪の秘密結社である。

スパイダーマンは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!

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《 Origin 》

OK。

じゃあ、もう一度だけ説明するね。

僕の名前はピーター・パーカー。

 

放射線で突然変異した蜘蛛を使った”改造手術”を受けてから10年間、この世で最後の改造人間だ。

……あとはもう知ってるだろ?

え?

 

そんな話、知らない?

そっか。

じゃあ時計の針を戻そう。

 

十年前。 僕がピーター・パーカーではなく―― 「Spider」にされた日の話まで。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

あれは、そう――父さんの仕事場に連れて行ってもらった時だった。

父さん――リチャード・パーカーは、他の生物が持つ遺伝的な特徴を人間へ移植する「異種間遺伝子交配」の研究をしていた。

 

例えば、事故や災害、それに戦争なんかで身体の一部を失った人がいるとする。

そこへトカゲの再生能力に関わる細胞を移植することができれば、その人自身の再生力で失った身体を元通りにできるかもしれない。

 

研究がもっと進めば、病気や老化だって克服できるかもしれない。

行き着く先には、人間から「寿命」というものさえなくせる。すごい研究だ。

その中で、父さんが研究していたのが蜘蛛だった。

 

もちろん、いきなり人間で実験するわけじゃない。

まずは人間以外の生物を使って、遺伝子を組み替えた時にどんな変化が起きるのかを調べていたんだ。

そうして生まれた蜘蛛が――Leo。

 

蜘蛛の糸って、同じ太さの鋼鉄ワイヤーと比べても、とんでもなく強いって話を聞いたことがあるだろ?

父さんは、そこに目をつけた。

レオの吐く糸は、遺伝子の段階から人の手で設計されている。

 

ものすごく丈夫なのに軽い。

しかも柔軟で、加工もしやすい。

今では宇宙開発の分野でも使われているスーパー繊維だ。

 

そんな父さんの会社では、社会貢献活動の一環として、社員の家族――特に子どもたちを研究施設へ招くオープンカンパニーが定期的に開かれていた。

その日、僕も初めて父さんの仕事場へ連れて行ってもらったんだ。

 

「すごいね、父さん。こんなところで働いてたんだ」

 

「ああ」

 

父さんは、研究室の向こうを見ながら少し誇らしそうに笑った。

 

「ここでは毎日、未来を作っているんだ」

 

「未来?」

 

「ああ。今は治せない病気も、取り戻せない身体も、いつかは治せるようになるかもしれない」

 

父さんは僕の肩に手を置いた。

 

「ピーター。いつかお前も、人の役に立てる人間になりなさい」

 

「父さんみたいに?」

 

父さんは少しだけ笑った。

 

「ああ。父さんみたいに、だ」

 

しばらく父さんと一緒に会社の中を見て回っていたんだけど、途中で父さんは同僚のコナーズさんに呼び止められた。

 

「リチャード、悪いが少し来てもらえるか?明後日の実験に使う機材のチェックをしたいんだ」

 

「分かった。すぐ戻るからピーターは私のデスクで待っていなさい」

 

そう言われて、僕は父さんの席に座って待つことにした。

最初は研究室に置いてあるものを眺めたり、父さんのデスクに積まれていた本を適当にめくったりしていた。

でも、しばらくすると急に眠くなってきた。

 

朝が早かったからかな、なんて思ったのを覚えている。

僕はそのまま机に突っ伏した。

この後、自分がどうなるのかも知らないで。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

「これより、次世代型改造人間への改造手術を開始する」

 

「被験者、ピーター・パーカー。若年であるため機械化処理は最低限に留め、遺伝子交配を主体として処置を行う」

 

「これにより、旧世代型の欠点であった定期的な血液交換を必要としない個体となる予定だ」

 

「では――まず、開腹から始める」

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

最初に感じたのは、凄まじい倦怠感だった。

それから、空腹。

そして――血の匂い。

 

瞼を開けることさえ億劫だった。

それでも何とか目を開ける。

僕を覗き込んでいたのは、薄緑色に顔を塗った、医者のような格好をした人間たちだった。

 

「……っ!?」

 

反射的にそいつらから距離を取ろうとした。

ガシャン、と金属音が鳴る。

そこで初めて気付いた。

 

僕は丸い台座の上に寝かされ、両手両足を鎖で固定されていたんだ。

 

「な、なんなんだ、あんたたちは!」

 

身体を捩る。

鎖はびくともしない。

 

「ここはどこだ! おい、放せよ! 僕を自由にしろ!」

 

僕を覗き込んでいた一人が、興味深そうに顎へ手を当てた。

 

「ふむ。遺伝子交配によって循環系が強化され、麻酔の効きが弱くなったか。実に興味深い」

 

「何言ってるんだ! 僕を放せ!」

 

「安心したまえ、ピーター・パーカー」

 

男はまるで、素晴らしいことでも教えるように言った。

 

「君は選ばれたのだよ」

 

「……選ばれた?」

 

「君は遺伝子交配によって超人となり、我々――ひいては世界の秩序を守る存在となったのだ」

 

「な、遺伝子交配……?」

 

頭がうまく回らない。

それでも、その言葉だけは分かった。

父さんが研究していたものだ。

 

「まだ……人間への実験は、何年も先だって話じゃ……」

 

男は鼻で笑った。

 

「ふん。リチャードは確かに優秀な科学者だ。だが、あまりにも鈍すぎる」

 

「父さん……?」

 

「我々は既にリチャード・パーカーの研究を基に、人間へ特定の生物の能力を付与する技術を完成させている」

 

男は僕を見下ろした。

 

「そして君が、その第一号だ」

 

一拍置いて。

 

「――Spider」

 

「Spider……?」

 

「Leoは知っているだろう?」

 

もちろん知っている。

ついさっきまで、父さんが誇らしげに説明していた蜘蛛だ。

 

「Leoの遺伝子には、リチャードから提供されたものも組み込まれていてね。血縁者である君ならば、非常によく馴染むだろうと考えた。君は蜘蛛の改造人間 ”Spider” となったのだ」

 

「……僕が」

 

喉がひどく乾いていた。

 

「改造……人間……」

 

「さて」

 

男は僕の言葉など聞いていなかった。

 

「これより、脳内へ埋め込んだ小型コンピューターに新たな人格をインストールする」

 

「……え?」

 

「処置が完了すれば、現在の君とはこれでお別れだ」

 

全身から血の気が引いた。

 

「なんだって……?」

 

「麻酔の量を倍にしろ」

 

別の人間が器具へ手を伸ばす。

男が僕を見下ろした。

 

「さらばだ、ピーター・パーカー」

 

「待て……」

 

身体を動かす。

ギギギッと鎖が鳴る。

 

「やめろ!」

 

誰も止まらない。

 

「やめろぉぉぉっ!」

 

――バシュンッ!

 

突然、何かが弾けるような音がした。

同時に照明が消えた。手術室が真っ暗になる。

 

「なんだ!?」

 

「停電か?」

 

「おい、電源を確認するぞ。ついてこい!」

 

慌ただしい足音が手術室から遠ざかっていった。静かになった。

 

「……っ」

 

麻酔が回ってきたのか、急激に意識が遠のく。

駄目だ。

寝るな。

 

寝るな!ピーター・パーカー!

目を覚ませ!

ここから逃げる方法を探すんだ!

 

身体を起こそうとする。

ガシャン!

 

「くそっ……!」

 

特に手首の拘束が邪魔で、まともに身動きが取れない。

その時だった。

暗闇の向こうから声がした。

 

「――見つけた」

 

誰かが走ってくる。

聞き覚えのある声。

 

「本郷君、この部屋だ!」

 

そして――

 

「ピーター!」

 

「……父さん?」

 

一瞬、幻聴かと思った。

 

「父さん! そこにいるの!?」

 

「ああ! ここだ!」

 

父さんが僕のところへ駆け寄ってくる。

 

「すまない、ピーター……」

 

震える手が僕の拘束具に触れた。

 

「私が……私がここへ連れてこなければ、こんなことには……」

 

その横から、もう一人の男が現れた。

 

「パーカー博士」

 

低く、落ち着いた声だった。

 

「話は後です。まずは脱出しましょう」

 

僕はその時、初めてその男を見た。

 

本郷 猛。

 

僕と同じように、ショッカーによって人生を変えられた男だった。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

「話は後です。まずは脱出しましょう」

 

本郷さんはそう言うと、僕の手首を固定していた拘束具へ手をかけた。

 

「少し我慢しろ」

 

「え?」

 

――ベキキキッ!

 

金属がひしゃげる音がした。

 

「……は?」

 

僕は思わず自分の手首を見た。

さっきまで僕を台座に縛りつけていた太い金属製の拘束具が、無理やりこじ開けられている。

 

工具なんて使っていない。素手で。

続けて足の拘束具も外された。

 

「ピーター!」

 

父さんが僕の身体を支えてくれる。

 

「立てるか?」

 

「た、多分……」

 

台座から足を下ろす。

その瞬間だった。

 

「うわっ!?」

 

ほんの少し床を蹴っただけだった。

なのに僕の身体は、自分でも信じられない勢いで前へ飛んだ。

壁が迫る。

 

「ピーター!」

 

ぶつかる!

 

咄嗟に両手を突き出した。

 

――ペタッ。

 

「……え?」

 

痛みがない。

僕の顔のすぐ目の前に壁がある。

 

いや。おかしい。足が床についていない。

 

「……なんだよ、これ」

 

僕は壁に張り付いていた。

両手と両足で。蜘蛛みたいに。

 

「ピーター……」

 

父さんの声が震えていた。

恐る恐る片手を壁から離してみる。

 

落ちない。もう片方も。

それでも足だけで身体を支えられている。

 

「何なんだよ……!」

 

動揺した瞬間、吸いついていた足が離れた。

 

落ちる。

 

そう思ったのに、身体が勝手に反応した。

空中でくるりと回って、両足から床に着地する。

 

「……」

 

僕は自分の手を見た。震えていた。

 

「これが……改造人間……」

 

父さんが何かを言おうとした、その時。

頭の奥に鋭い痛みが走った。

 

「っ!」

 

「ピーター?」

 

「待って」

 

何だ。

この感じ。

 

耳で聞いたわけじゃない。

目で見たわけでもない。

なのに分かる。

 

何かが近づいてくる。

 

「来る」

 

「何が?」

 

「分からない。でも……来る!」

 

数秒後。

廊下の奥から大勢の足音が聞こえてきた。

 

本郷さんが僕を見る。

 

「既に何かしらの超感覚まで発現しているのか」

 

「本郷君!」

 

父さんが叫ぶ。

本郷さんは廊下の奥を一度確認すると、僕たちへ振り返った。

 

「博士。ピーターを連れて先に行ってください」

 

「しかし君は――」

 

「すぐ追いつきます」

 

「本郷さん?」

 

僕が声をかける。

本郷さんは何も答えなかった。

 

その代わり、どこから取り出したのか。

腰に独特な一本のベルトが巻かれていた。

中央には、風車のようなものがついている。

 

「それ……」

 

廊下の向こうに黒服の男たちが姿を現す。

 

「いたぞ!」

 

「逃がすな!」

 

本郷さんが一歩前へ出た。

 

その瞬間。ベルト中央の風車が、

 

――シュイイイイイン!

 

甲高い音を立てて回転を始める。強烈な風が廊下を駆け抜けた。

思わず僕は目を細めた。

 

そして――ほんの一瞬だった。

 

「え……?」

 

そこに立っていたのは、さっきまでとはまるで違う姿だった。

 

身体を覆う、黒いバイクスーツのような装甲。

胸と肩を守るプロテクター。首には赤いマフラー。

 

そして、その手には異形のマスクが握られていた。

昆虫を思わせる、大きな複眼。

伸びた二本の触角。

 

本郷さんはそれをゆっくりと頭へ被った。

最後に右手を顎へ添える。

 

――カシャン。

 

何かが噛み合う音。

 

直後。マスクの複眼が、赤く光った。

 

「Hopper!」

 

追っ手の一人が叫んだ。

 

「裏切り者め!」

 

「……Hopper?」

 

僕が呟く。

 

父さんが僕の腕を掴んだ。

 

「行くぞ、ピーター!」

 

「でも!」

 

「彼なら大丈夫だ!」

 

黒服たちが一斉に本郷さんへ襲いかかる。

最初の一人が拳を振り上げる。でも、その拳が届くより早く。

 

――ドンッ!

 

男の身体が宙を舞った。壁へ叩きつけられる。

 

二人目。

 

三人目。

 

僕には、本郷さんがどう動いているのかほとんど見えなかった。

早すぎる。

一瞬だけ姿が消えたかと思えば、次の瞬間には別の場所にいる。

拳が振るわれる度に、人間が吹き飛んでいく。

 

「父さん……あの人……」

 

父さんは走りながら答えた。

 

「彼もだ」

 

「え?」

 

「お前と同じなんだ」

 

一瞬、意味が分からなかった。

でも、Hopper。あのベルト。あの姿。

そして、人間にはあり得ない力。

 

「本郷さんも……改造人間……?」

 

父さんは答えなかった。

でも、それで十分だった。

僕は最後に一度だけ振り返った。

赤い目を光らせたその人は、一人で追っ手を食い止めていた。

僕たちを逃がすために。

 

――――――――――――――――――――

 

父さんの車で、僕たちはひたすら街から離れた。

どれくらい走ったのかは覚えていない。

窓の外にあった高層ビルが消え、住宅街も消え、やがて見えるものは森と道路だけになった。

頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 

朝まで僕は普通の子供だった。

 

父さんの会社を見学して。

 

蜘蛛を見て。

 

未来の話を聞いて。

 

それが今は。

自分の身体に蜘蛛の遺伝子が入っている。

壁に張り付ける。馬鹿みたいに高く跳べる。

まだ何かあるのかもしれない。

身体の中に何を入れられたのかすら、僕には分からない。

 

「……父さん」

 

「なんだ」

 

「本郷さんって、何者なの?」

 

父さんはしばらく黙っていた。

 

「彼も、ショッカーの被害者だ」

 

「ショッカー?」

 

「お前を改造した連中の名前だ」

 

それが。

僕が初めて、その名前を聞いた瞬間だった。

 

「私の勤めていた会社も……奴らの隠れ蓑だった」

 

父さんはハンドルを握る手に力を込めた。

 

「私は何も知らなかった」

 

「……」

 

「人を救う研究だと思っていたんだ」

 

声が震えていた。

 

「まさか、私の研究が……こんな……」

 

「父さん」

 

「すまない」

 

「もう謝らないでよ」

 

僕は窓の外を見た。正直に言えば、怖かった。

父さんのせいじゃないと思いたかった。

でも同時に、どうして気付かなかったんだ、と叫びたい自分もいた。

 

結局、何も言えなかった。

 

――――――――――――――――――――

 

辿り着いたのは、森の中に建つ小さな家だった。

一見すると、長いこと使われていない別荘みたいだった。

父さんは慣れた様子で中へ入り、窓のカーテンを閉めていく。

 

「ここなら、しばらくは大丈夫だ」

 

「ここは?」

 

「万が一のために用意していた場所だ」

 

万が一。

父さんはそう言った。

つまり、どこかでは疑っていたんだ。

自分の研究の裏に何かあることを。

 

僕はソファに座った。

身体が重い。なのに、身体の奥では妙に力が有り余っている。

 

空腹もひどかった。

父さんが台所を探して、食べられそうなものを持ってきてくれた。

僕はそれをほとんど噛まずに食べた。

それでも足りなかった。

 

その時。また、頭の奥が疼いた。

 

「……」

 

僕は立ち上がった。

 

「どうした?」

 

「誰か来る」

 

父さんの顔が強張る。

僕は窓へ近づいた。

でも直後。

 

「待て」

 

声がした。

父さんが振り返る。

玄関の前に、一人の男が立っていた。

 

「本郷君!」

 

本郷さんだった。

服は所々破れていたけれど、怪我らしい怪我はない。

 

「よかった……」

 

父さんが安堵の息を吐く。

 

「追跡は?」

 

「途中までは」

 

本郷さんが扉を閉める。

 

「ですが、完全に撒けたとは思わない方がいい」

 

「そうか……」

 

僕は本郷さんを見ていた。

 

「本郷さん」

 

「なんだ?」

 

「さっきの姿……」

 

本郷さんは少しだけ黙った。

 

「君が見た通りだ」

 

「あなたも……改造人間なんですよね」

 

「ああ」

 

それだけだった。隠しもしない。

誤魔化しもしない。

 

「Hopperっていうのは?」

 

「奴らが俺につけた名前だ」

 

僕は胸の奥がざわつくのを感じた。

 

Spider。

 

Hopper。

 

僕らの名前じゃない。

あいつらが勝手につけた名前。

 

その時だった。

 

――ガンッ!

突然、家全体が揺れた。

窓ガラスが震え、天井から埃が落ちる。

 

「っ!?」

 

本郷さんが玄関の方へ顔を向けた。

 

「来たか」

 

「ショッカーか!?」

 

父さんが僕を庇うように前へ出る。

次の瞬間。

――ドンッ!

 

玄関の扉が、枠ごと室内へ吹き飛んだ。

砕けた木片と埃の向こうから、一人の男がゆっくりと入ってくる。

 

「まったく……手間をかけさせてくれる」

 

聞き覚えのある声だった。

 

「その声……」

 

父さんの顔から血の気が引く。

 

「カート……?」

 

「コナーズさん?」

 

数時間前。

父さんを研究室から呼び出した男。

父さんの同僚――カート・コナーズ。

 

「どうして、ここが……」

 

「どうして?」

 

コナーズさんは笑った。

 

「リチャード。君は自分がショッカーから逃げ切れると、本気で思っていたのか?」

 

「カート……君もショッカーの人間だったのか」

 

「ショッカーの人間?」

 

その言葉が気に入らなかったらしい。

コナーズさんの口元から笑みが消えた。

 

「違うな」

 

一歩。

こちらへ近づく。

 

「私は人間を超えたんだ」

 

その瞬間だった。

ぞわり、とした。

まただ。

 

手術室で追っ手が来た時と同じ。

頭の奥で、何かが警告している。

危険。

 

目の前にいるのは、もう普通の人間じゃない。

コナーズさんの顔が引きつった。

頬の筋肉が不自然に盛り上がり、目つきが変わる。

 

人間の顔の下から、別の何かが覗いたように見えた。

メキメキと骨の軋むような音がしたかと思うとコナーズさんの右腕に変化が起きた。

 

さっきまで肘から先には何もなかった。なのに今は。

肘から先へ、太い前腕が続いている。

その先には五本の鉤爪付きの指。

 

コナーズさんは、取り戻した右手をゆっくりと開いた。

一度、握る。

また開く。

 

まるで、その感触を確かめるように。

 

「見ろ、リチャード」

 

父さんは何も言えなかった。

 

「君が夢見たものだ」

 

そして―― 一瞬。

本当に、一瞬だった。

さっきまで白衣姿だったコナーズさんの身体を戦闘用のスーツが覆っていた。

 

どこか爬虫類を思わせる異様なシルエット。

その右手には、マスクが握られている。

コナーズさんは何の躊躇もなくそれを被った。

 

そして顎へ手をかける。

――カシャン。

下顎を覆うパーツが固定される。

 

「I'm Lizard(私はリザードだ)……」

 

マスク越しに、コナーズさん――Lizardがこちらを見る。

 

「Hopper」

 

「……」

 

「貴様に用はない」

 

その視線が僕に移る。

 

「我々が回収するのは、そいつだ」

 

「……僕?」

 

「次世代型改造人間第一号」

 

Lizardが僕を指差した。

 

「Spider」

 

その名前を聞いただけで、胃の奥が気持ち悪くなる。

 

「ピーターには手を出させない!」

 

父さんが僕の前へ出た。

 

「リチャード」

 

Lizardの声が低くなる。

 

「君は自分が何を作ったのか、まだ理解していないようだな」

 

「私はこんなものを作るために研究していたんじゃない!」

 

「ならば見せてやろう」

 

Lizardが屈んだ。

 

「――!」

 

頭の奥が弾ける。

危ない!

 

「父さん!」

 

考えるより先に身体が動いた。

父さんを突き飛ばす。

直後。

 

Lizardの拳が、さっきまで父さんの頭があった場所を通過した。

風圧だけで頬が痛い。

 

「ほう」

 

Lizardが僕を見る。

 

「反応したか」

 

怖い。

全身が震えている。

なのに。

 

身体の奥だけが妙に熱かった。

心臓の鼓動が速くなる。

ドクン。

 

ドクン。

視界が鮮明になる。

Lizardの呼吸。

 

重心。

足の動き。

次にどちらへ動くのかまで、何となく分かる。

 

それと同時に。

顔が熱い。

 

「っ……」

 

頬を押さえる。

皮膚の下で、何かが蠢いている。

 

「ピーター」

 

本郷さんの声。

 

「落ち着け」

 

でも止まらない。

戦え。

逃げろ。

 

殺される。

そんな感覚が、頭の中を駆け巡る。

Lizardが笑った。

 

「どうした、Spider」

 

「僕を……」

 

「?」

 

「その名前で呼ぶな!」

 

その瞬間。

視界が一度、途切れた。

何が起きたのか分からなかった。

 

ただ。

次の瞬間には、僕の身体は灰色のスーツに覆われていた。

 

「……え?」

 

両手を見る。

灰色。

さっきまで着ていた服じゃない。

 

身体の動きを妨げないためか、最低限のプロテクターと皮膚みたいに密着した戦闘用スーツ。

そして、右手には、いつの間にかマスクを握っていた。

僕はそれを見つめた。

 

分かってしまった。

どう使うのか。

誰かに教わったわけじゃない。身体が知っている。

 

ショッカーが僕の身体に刻み込んだ知識だ。

嫌だった。

こんなものを被ったら、本当に奴らの言う「Spider」になってしまう気がした。

 

だけど。

後ろを見る。

父さんがいる。

 

Lizardがもう一度構えた。

逃げている暇はない。

 

僕はマスクを被った。

顎へ手を添える。

――カシャン。

 

パーツが固定された。

音が妙にクリアに聞こえた。

マスク越しに世界を見る。

 

呼吸が響く。

Lizardが僕を見た。

 

「そうだ」

 

嬉しそうな声だった。

 

「それがお前の姿だ、Spider」

 

「……」

 

僕は拳を握った。

その横で、本郷さんが一歩前へ出る。

腰にベルトが現れる。

 

中央の風車が甲高い音を立てて回転した。

――シュイイイイイン!

一瞬。

 

本郷さんの身体は、黒いスーツで覆っている。

手には、あのマスク。

頭へ被る。

 

顎へ手を添えた。

――カシャン。

複眼が赤く灯る。

 

Lizardが低く笑った。

 

「Hopper。貴様まで相手をするつもりか」

 

本郷さんは答えない。

僕の横へ並ぶ。

 

「ピーター」

 

「……はい」

 

「無理に戦おうとするな。まず自分の身体が何をできるのか確かめろ」

 

「そんな余裕あります?」

 

「ないな」

 

Lizardが床を蹴った。

 

「来るぞ!」

 

頭の奥で何かが弾けた。

右!

 

「っ!」

 

身体を反らす。

Lizardの拳が鼻先を通過した。

速い。

 

だけど見える。

いや。

見るより先に分かる。

 

続けて左から爪。

屈む。

今度は蹴り。

 

後ろへ跳ぶ。

でも――。

 

「うわっ!?」

 

身体が予想より遥かに遠くまで飛んだ。

そのまま壁へ激突しそうになる。

咄嗟に両手をつく。

 

――ペタッ。

僕の身体は壁へ張り付いた。

 

「またこれか……!」

 

「余所見をするな!」

 

Lizardが跳んでくる。

頭の奥が警告する。

逃げろ!

 

僕は壁を蹴った。

天井へ。

そしてまた張り付く。

 

「なんだこれ……!」

 

「蜘蛛なんだろう?」

 

本郷さんの声が下から聞こえた。

 

「なら、それらしく動け!」

 

簡単に言わないでよ!

Lizardが僕を追って跳躍する。

その瞬間。

 

横から本郷さんの蹴りが叩き込まれた。

――ドンッ!

Lizardの身体が軌道を変え、壁へ突っ込む。

 

「ぐっ!」

 

「今だ、ピーター!」

 

「今って何を――!」

 

手首の内側が疼いた。

何だ?

反射的に腕を突き出す。

 

――シュッ!

白い糸が飛び出した。

 

「え?」

 

Lizardの肩へ張り付く。

僕も。

Lizardも。

 

一瞬、動きを止めた。

 

「……糸?」

 

僕の手首から伸びている。

 

「レオ……?」

 

父さんの蜘蛛。

あいつが吐いていた糸。

その能力まで僕の中に――。

 

「面白い!」

 

Lizardが糸を掴む。

 

「試してやろう!」

 

「え?」

 

思い切り引かれた。

 

「うわああっ!」

 

天井から剥がされ、僕の身体がLizardへ飛んでいく。

まずい!

でも。

 

頭の奥は警告していない。

だったら。

このまま――!

 

僕は片脚を前へ突き出した。

 

「うおおおおっ!」

 

蹴りがLizardの胸へ直撃する。

――ドンッ!

今度はLizardが吹き飛んだ。

 

「やった!」

 

「まだだ!」

 

本郷さんが叫ぶ。

瓦礫を押し退け、Lizardが立ち上がる。

 

「素晴らしい……」

 

僕を見る。

 

「我々、旧世代とはまるで違う」

 

「……」

 

「機械化を最低限に抑えながら、それだけの身体能力を発揮する。しかも生体から直接、糸まで生成するとは」

 

Lizardが笑う。

 

「完成したぞ、リチャード!」

 

父さんが拳を握った。

 

「違う」

 

「何?」

 

「私は……こんなものを完成させたかったんじゃない」

 

「まだそんなことを言うのか」

 

Lizardの声から笑いが消えた。

 

「見ろ」

 

右腕を掲げる。

少し前まで肘から先が存在しなかった腕。

 

「私は腕を取り戻した」

 

拳を握る。

 

「お前の研究でだ!」

 

「人を救うための研究だ!」

 

父さんが叫んだ。

 

「人を兵器に作り替えるためじゃない!」

 

「同じことだ!」

 

「違う!」

 

二人の声がぶつかる。

その一瞬。

頭の奥に激痛が走った。

 

「父さん!」

 

Lizardが構える。

本郷さんも同時に動いた。

――ガンッ!

 

二人の拳が激突する。

その衝撃だけで窓ガラスが砕けた。

Lizardが左腕で本郷さんを殴る。

 

本郷さんが受け止める。

その横から僕がウェブを撃つ。

Lizardの右腕へ絡みついた。

 

「今だ!」

 

本郷さんが腹へ蹴りを叩き込む。

 

「ぐっ!」

 

さらに僕が糸を引く。

体勢が崩れる。

いける。

 

僕と本郷さんなら――。

そう思った。

Lizardが突然、僕へ背を向けた。

 

「逃げる気か!」

 

追おうとした瞬間。

 

「ピーター、待て!」

 

本郷さんの声。

でも遅かった。

Lizardの狙いは僕じゃなかった。

 

「……父さん?」

 

いつの間にか。

Lizardの左腕が、父さんの首を捕らえていた。

 

「動くな」

 

「父さん!」

 

身体が止まった。

本郷さんも動きを止める。

Lizardが父さんを盾にするように立つ。

 

「ようやく静かになったな」

 

「放せ!」

 

「動くな、Spider」

 

右手の爪が父さんの首へ触れる。

 

「次に一歩でも動けば、リチャードの首を折る」

 

「……っ」

 

何もできない。

糸を撃てば?

駄目だ。

 

外したら父さんに当たる。

飛び込めば?

Lizardの方が速い。

 

本郷さんを見る。

動かない。

いや。

 

動けない。

僕と同じだ。

 

「ピーター」

 

父さんが僕を見る。

 

「大丈夫だ」

 

「大丈夫なわけないだろ!」

 

「落ち着きなさい」

 

「父さん!」

 

「お前は頭のいい子だ」

 

なんで。

なんで今、そんな話をするんだ。

 

「何か方法があるはずだ。だから――」

 

「黙れ」

 

Lizardが父さんの首を締める。

 

「ぐっ……!」

 

「やめろ!」

 

一歩踏み出しかける。

右手の爪が食い込む。

止まるしかない。

 

「そうだ」

 

Lizardが笑う。

 

「力があっても、使えなければ意味がない」

 

僕の拳が震える。

何のための力だ。

壁を這える。

 

高く跳べる。

鉄より強い糸まで出せる。

それなのに。

 

父さん一人助けられない。

 

「Spider」

 

Lizardが僕を見る。

 

「お前は我々のものだ」

 

「違う……」

 

「いずれ理解する」

 

その時。

父さんが動いた。

 

「え?」

 

右足を振り上げた。

Lizardの膝へ。

――ガッ!

 

「ぐっ!?」

 

ほんの一瞬。

拘束が緩んだ。

 

「今だ! ピーター!」

 

「父さん!」

 

僕は腕を突き出した。

ウェブを――。

でも。

 

Lizardの方が早かった。

 

「貴様ァ!」

 

怒りに満ちた声。

右腕が振るわれる。

鈍い音がした。

 

「……え?」

 

父さんの身体が宙を舞った。

壁へ叩きつけられる。

床へ崩れ落ちた。

 

動かない。

 

「父さん?」

 

時間が止まったみたいだった。

Lizardが何か言っている。

本郷さんが動いている。

 

何も聞こえない。

僕は父さんだけを見ていた。

 

「……父さん?」

 

走る。

膝をつく。

 

「父さん!」

 

抱き起こす。

手に何か生暖かいものが触れた。

真っ赤な血。

 

「嘘だろ……」

 

「ピー……ター……」

 

目が開いた。

 

「父さん!」

 

「よかった……」

 

父さんは。

なぜか笑った。

 

「無事……だったか……」

 

「喋らないで! 本郷さん! 本郷さん!」

 

振り返る。

本郷さんとLizardが激しく殴り合っている。

 

「病院に行けば助かる! だから――」

 

「ピーター」

 

父さんの手が、とても弱い力で僕の腕を掴んだ。

 

「覚えているか……?」

 

「何を……」

 

「今朝……言ったことだ……」

 

今朝。

会社で。

 

『いつかお前も、人の役に立てる人間になりなさい』

 

「そんなの今はいいよ!」

 

「いいや……」

 

父さんが息を吸う。

苦しそうだった。

 

「忘れるな……」

 

「父さん……」

 

「お前が……何になったとしても……」

 

指から力が抜けていく。

 

「お前は……ピーター・パーカーだ……」

 

「……」

 

「私の……息子だ……」

 

「父さん」

 

返事はなかった。

 

「父さん?」

 

揺する。

 

「父さん!」

 

何も。

 

「父さん!!」

 

何も返ってこなかった。

その時。

僕の中で。

 

何かが切れた。

 

「う……」

 

拳を握る。

 

「うあああああああああああっ!!」

 

立ち上がる。

Lizardが本郷さんを蹴り飛ばしたところだった。

 

「ピーター、待て!」

 

聞こえない。

僕は地面を蹴った。

今までで一番強く。

 

Lizardへ飛びかかる。

拳を振るう。

 

「お前がぁぁぁぁぁっ!」

 

Lizardが腕で受ける。

衝撃で地面が割れた。

もう一発。

 

「父さんを!」

 

また一発。

 

「返せ!」

 

殴る。

殴る。

何度も。

 

Lizardが後退していく。

 

「ぐっ……!」

 

「返せよ!」

 

ウェブを撃つ。

右腕。

左腕。

 

身体。

何重にも絡める。

 

「うああああっ!」

 

引き寄せる。

拳を振り上げる。

殺す。

 

こいつを。

今ここで。

――そのつもりだった。

 

「ピーター!」

 

肩を掴まれた。

本郷さんだった。

 

「放して!」

 

「やめろ!」

 

「こいつが父さんを殺したんだ!」

 

「分かっている!」

 

「だったら!」

 

一瞬。

それだけだった。

Lizardは見逃さなかった。

 

爪でウェブを引き裂く。

 

「!」

 

窓を突き破り、外へ飛び出した。

 

「待て!」

 

追おうとする。

だが本郷さんが僕の腕を掴んでいた。

 

「放せ!」

 

「駄目だ!」

 

「逃げる!」

 

「ピーター!」

 

「父さんの仇なんだ!」

 

遠くでエンジン音がした。

森の向こう。

Lizardの気配が急速に遠ざかっていく。

 

間に合わない。

逃げられた。

 

「……」

 

膝から力が抜けた。

僕はその場に座り込んだ。

背後には。

 

父さんがいる。

いや。

いた。

 

「……父さん」

 

朝には笑っていた。

僕を会社へ連れて行ってくれた。

未来を作っていると言っていた。

 

人の役に立てる人間になれと言っていた。

その父さんが。

もう。

 

いない。

 

「……許さない」

 

本郷さんが何も言わず僕を見る。

 

「許せない」

 

拳を握る。

爪が掌へ食い込む。

 

「ショッカーを……」

 

声が震えた。

 

「僕をこんな身体にして」

 

「……」

 

「父さんの研究を利用して」

 

「……」

 

「父さんまで殺した」

 

顔を上げる。

 

「全部潰す」

 

本郷さんの赤い複眼に、灰色のマスクを被った僕が映っていた。

 

「Lizardも」

 

「ピーター」

 

「ショッカーも」

 

立ち上がる。

 

「全部だ」

 

もう怖くなかった。

いや。

違う。

 

怖いという感覚より、怒りの方が大きかった。

 

「僕は戦う」

 

父さんの身体を見る。

 

「父さんの仇を取る」

 

本郷さんは、しばらく何も言わなかった。

やがてマスクへ手をかける。

――カシャン。

 

顎の固定が外れる。

マスクを脱いだ本郷さんの顔は、どこか哀しそうだった。

 

「復讐のために戦えば」

 

静かな声だった。

 

「いつか、その力にお前自身が飲まれる」

 

「だったら何だっていうんですか」

 

「……」

 

「本郷さんはショッカーを許せるんですか?」

 

答えはなかった。

それで分かった。

この人だって。

 

許してなんかいない。

 

「僕に戦い方を教えてください」

 

「ピーター」

 

「お願いします」

 

頭を下げる。

 

「僕はまだ、この身体の使い方すら分からない」

 

自分の手を見る。

灰色の手。

ショッカーに与えられた力。

 

「だから」

 

拳を握る。

 

「僕に戦い方を教えてください」

 

長い沈黙だった。

そして。

本郷さんが口を開いた。

 

「……分かった」

 

僕は顔を上げる。

 

「ただし一つだけ覚えておけ」

 

「?」

 

「怒りを捨てろとは言わない」

 

本郷さんは父さんを見る。

 

「俺にも、それを言う資格はない」

 

そして僕を見る。

 

「だが、怒りに自分を明け渡すな」

 

「……」

 

「あいつらに身体を奪われた上に、心まで渡すな」

 

その時の僕には。

その言葉の意味なんて、本当には分かっていなかった。

分かろうともしていなかった。

 

ただ一つ。

決めたことがあった。

父さんを殺したLizardを。

 

父さんの研究を奪ったショッカーを。

必ず――

この手で終わらせる。

 

それが当時の僕にとって。

戦う理由のすべてだった。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

父さんが死んで、葬儀が行われた後。

僕はベンおじさんの家に引き取られた。

 

父さんの兄――ベン・パーカー。

 

突然、弟を亡くして。

そのうえ、甥までこんなことになって。

 

今になって思えば、僕を家へ迎えることだって簡単な決断じゃなかったはずだ。

 

でも。ベンおじさんは何も聞かなかった。

 

「今日からここがお前の家だ」

 

最初に言ったのは、それだけだった。

僕が何にされたのか。何ができるようになったのか。

これから何をするつもりなのか。

 

全部知ったうえで。いつも通り僕をピーターと呼んだ。

 

それが当時の僕には、ありがたかった。

……口にはしなかったけどね。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

昼間は学校。家に帰れば、ベンおじさんとメイおばさんとの生活。

そして夜になると僕は、本郷さんのところへ通った。

 

「もう一度だ」

 

「はい!」

 

僕は地面を蹴る。一気に距離を詰め、拳を振るう。

 

――空振り。

 

次の瞬間、足を払われた。

 

「うわっ!」

 

背中から地面に落ちる。

 

「いったぁ……」

 

「力任せに突っ込むな」

 

「でも僕、本郷さんより力なら――」

 

「強い」

 

即答だった。

 

「速さも、反応速度も、おそらく俺より上だ」

 

「じゃあ――」

 

「だから負けるんだ」

 

「……はい?」

 

本郷さんは僕を見下ろした。

 

「自分の力を信用しすぎている」

 

「……」

 

「力があるから殴れば倒せる。速いから先に当てられる。危険を感じられるから避けられる」

 

本郷さんが構える。

 

「そんなものは戦いじゃない」

 

「じゃあ何なんです?」

 

「考えろ」

 

またそれだ。本郷さんは何でも答えを教えてくれる人じゃなかった。

僕が飛び込めば投げられる。ウェブを撃てば避けられる。

壁を走れば、着地地点を先回りされる。

 

毎晩。何度も。何度も。

地面に転がされた。

 

「もう一度!」

 

立ち上がる。父さんを殺した奴がいる。Lizard。

あいつを倒すまでは、いくらでも立ち上がれた。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

「また遅かったな」

 

家へ帰ると、ベンおじさんがリビングにいた。時計を見ると午前一時。

 

「……勉強してた」

 

「ほう」

 

新聞から顔を上げる。

 

「随分と泥だらけになる勉強だな」

 

「……」

 

制服のズボンについている土を見る。しまった。

 

「ピーター」

 

「ごめんなさい」

 

「何に謝ってる?」

 

「え?」

 

ベンおじさんは新聞を畳んだ。

 

「夜中に出歩いたことか? 嘘をついたことか?」

 

「……両方」

 

「なら次から気をつけろ」

 

それだけ言って、立ち上がる。

 

「腹減っただろ」

 

「まあ……」

 

ものすごく減っている。改造されてから、信じられないくらいお腹が減るようになった。

多分代謝の向上とウェブのせいだと思う。特にウェブは体内のタンパク質を消費するから補充しないと体をすぐ壊しちゃう。

 

「サンドイッチが残ってる」

 

「ありがとう」

 

キッチンへ向かおうとして。

 

「ピーター」

 

呼び止められた。

 

「何?」

 

ベンおじさんは少し考えてから言った。

 

「何をしてるかまでは聞かない」

 

「……」

 

「でもな」

 

僕を見る。

 

「帰ってこい」

 

「え?」

 

「何をしに行くにしてもだ」

 

少し笑った。

 

「ちゃんと家に帰ってこい」

 

その時の僕は。

 

「分かったよ」

 

なんて適当に答えた。本当に馬鹿だったと思う。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

数週間が経って身体の扱いにも慣れてきた。

 

壁を走る。天井へ張り付く。跳ぶ。ウェブを飛ばす。ウェブを使って高速で移動する。そして戦う。まだ本郷さんには一度も勝てなかったけど。最初みたいに一方的に地面を転がされることはなくなっていた。

 

そんな日のことだった。

 

「本郷さん!」

 

僕は新聞を持って走った。

 

「これ!」

 

郊外の工業地区で巨大な爬虫類のような怪人を見たという証言と不鮮明な写真だった。。

警察は大型動物の見間違いだと発表していた。でも僕には分かった。

右腕が写っていた。あの腕を僕が見間違えるはずがない。

 

「Lizardです」

 

本郷さんは新聞を見る。

 

「可能性は高い」

 

「行きましょう」

 

「まだだ」

 

「なんで!」

 

「情報が少なすぎる」

 

「でも!」

 

「ピーター」

 

まただ。その落ち着いた声。

 

「奴がわざと姿を見せた可能性もある」

 

「だからなんですか」

 

「罠かもしれないと言っている」

 

「それでも行きます」

 

本郷さんの顔を見る。

 

「父さんを殺した奴なんだ」

 

「……」

 

「目の前にいるかもしれないのに、待ってろって言うんですか?」

 

返事を待たなかった。僕は走った。

 

「ピーター!」

 

聞こえていた。だけど止まらなかった。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

情報にあった工場跡。誰もいない。

 

「……」

 

静かすぎる。壊れた窓。錆びた機械。風が吹く度に、どこかで金属が軋む。

僕は灰色のスーツを纏った。マスクを被る。

 

――カシャン。

 

「いるんだろ」

 

返事はない。

 

「出てこいよ!」

 

声が響く。

 

「Lizard!」

 

――パチ、パチパチ。

 

どこかで。拍手が聞こえた。

 

「随分と逞しくなったな」

 

「!」

 

振り返る。そこにいた。

 

「コナーズ……!」

 

「その名で呼ぶな」

 

白衣姿。失われていた右腕。

ゆっくりと拳を握る。

 

そして一瞬。

 

姿が変わる。戦闘用スーツ。右手にマスク。被る。顎へ手をかける。

 

――カシャン

 

「……父さんの仇だ」

 

「まだそんなことを言っているのか」

 

「お前が殺した!」

 

僕は床を蹴った。本郷さんの言葉なんて。全部忘れていた。殴る。避けられる。

もう一度。

 

受け止められる。

 

ウェブ。

 

切られる。

 

「どうした!」

 

Lizardの拳が腹へ入った。

 

「ぐっ!」

 

吹き飛ばされる。でもすぐに立ち上がる。

 

「もっと強くなったと思っていたが」

 

「黙れ!」

 

飛び込む。

 

「結局、何も変わっていない!」

 

爪が胸を掠める。スーツが裂ける。血が飛ぶ。

 

「怒りに任せて突っ込むだけだ!」

 

「うるさい!」

 

ウェブを撃つ。Lizardの右腕へ絡みつける。引く。

 

「父さんを!」

 

さらに撃つ。

 

「返せ!」

 

「死んだ人間が!」

 

Lizardがウェブを掴む。

 

「戻るものか!」

 

一気に引かれた。

 

「しまっ――」

 

腹へ膝が刺さる。息が止まる。頭を掴まれ、床へ叩きつけられた。

 

――ドンッ!

 

視界が白くなる。

 

「ぐ……」

 

立たないと。

 

でも身体が動かない。Lizardが僕の首をつかんで持ち上げる。

 

「残念だ」

 

「……」

 

「性能だけなら素晴らしい」

 

右手が僕のマスクを掴む。

 

「だが、中身はただの子供だ」

 

工場の外へ投げられた。地面を何度も転がる。

 

「がっ……」

 

マスクが外れた。咳き込む。立てない。

目の前にLizardが降り立つ。

 

「終わりだ、ピーター」

 

右腕を構える。あの腕。父さんの研究で取り戻した腕。父さんを殺した腕。

頭の奥が警告する。

 

避けろ。

 

分かってる。でも身体が動かない。

 

「くそ……」

 

Lizardの手刀が突き出される。

その時だった。

 

「ピーター!」

 

聞き覚えのある声。

 

「え?」

 

誰かが僕の前へ飛び込んだ。

 

――ドッ。

 

鈍い音。

 

「……ベンおじさん?」

 

僕の前にベンおじさんが立っていた。

 

「なんで……」

 

身体が傾いて僕の上へ倒れてくる。

 

「ベンおじさん?」

 

受け止める。お腹から背中に貫通していた。大量の血。

 

「……あ」

 

「ふん。邪魔が入ったか」

 

Lizardが再び右腕を構える。頭の奥が警告する。

でも動けなかった。ベンおじさんを抱えたまま、僕はただ目の前の手刀を見ていた。

 

その時。

 

――ドゴォッ!

 

横から飛び込んできた何かが、Lizardの身体を蹴り飛ばした。

 

「ぐあっ!?」

 

Lizardが工場の壁へ激突する。

 

影が振り返る。赤い複眼。風になびくマフラー。

 

「本郷さん……!」

 

「遅くなった」

 

本郷さんは僕と、腕の中のベンおじさんを見た。

一瞬だけ、その動きが止まる。

 

「……ピーター。ベンさんについていてやれ」

 

「でも……!」

 

「こいつは俺が引き受ける」

 

瓦礫を押し退け、Lizardが立ち上がった。

 

「Hopper……! また貴様か!」

 

「お前の相手は俺だ」

 

本郷さんが地面を蹴る。

 

――ドンッ!

 

再びLizardの身体が吹き飛び、工場の中へ転がっていく。

本郷さんもその後を追った。奥から激しい衝突音が響く。

 

でも。

 

僕にはもう、そんなものどうでもよかった。

 

「……ベンおじさん?」

 

腕の中のベンおじさんを見る。

 

「なんで……ここに……」

 

「お前が……」

 

咳き込む。

 

「随分……慌てて出ていったからな……」

 

「喋らないで!」

 

「やっぱり……」

 

弱々しく笑う。

 

「ろくでもないことしてたな……」

 

「救急車! 大丈夫だから! すぐに救急車を呼ぶから!」

 

「ピーター」

 

腕を掴まれた。

 

「大丈夫」

 

まただ。

 

父さんの時と同じ。

 

「死なないでよ……」

 

手が震える。

 

「お願いだから……」

 

ベンおじさんが僕を見る。

 

「お前……ずっと……怒ってたな」

 

「……」

 

「リチャードのこと……」

 

「今そんな話――」

 

「聞け」

 

初めてだった。とても弱い声なのに。逆らえなかった。

 

「怒るなとは……言わない」

 

「……」

 

「でも……」

 

ベンおじさんの目が僕を見る。

 

「お前には……人を助けられる力があるんだろ……?」

 

息が止まった。

 

「だったら……」

 

手から力が抜けていく。

 

「誰かを……助けてやれ……大いなる力には....大いなる責任がある」

 

「ベンおじさん?」

 

返事がない。

 

「……ねえ」

 

揺する。

 

「ベンおじさん」

 

まただ。

 

また僕の腕の中で家族が死んだ。

工場の奥から、激しい衝突音が響いた。

 

――ドォンッ!

 

次の瞬間、壁を突き破ってLizardが飛び出してきた。

 

「ぐっ……!」

 

その後を追うように、本郷さんが姿を現す。

 

「ピーター!」

 

本郷さんは僕と、腕の中で動かなくなったベンおじさんを見た。

何があったのか、すぐに理解したらしい。

 

「……そうか」

 

沈むように低い声だった。本郷さんはただ、ゆっくりと拳を構えた。

僕はベンおじさんをゆっくり地面に降ろして言った。

 

「少しだけ……待ってて」

 

そんな僕らを見て、Lizardが笑った。

 

「愚かな男だ」

 

「……」

 

「改造人間同士の戦いに、生身の人間が――」

 

――シュッ!

 

Lizardの口が止まった。ウェブがマスクへ張り付いていた。

 

「ピーター」

 

Lizardがウェブを引き剥がす。

 

「また怒りに任せて戦うつもりか?」

 

「……違う」

 

自分でも驚いたが、口から出た声は穏やかだった。

 

「何?」

 

灰色のマスクを拾う。被る。顎へ手を添える。

 

――カシャン。

 

「父さんを殺したお前が憎い」

 

拳を握る。

 

「ベンおじさんを殺したお前も許さない」

 

Lizardを見る。

 

「でも」

 

さっきまでとは違う。頭の中が妙に静かだった。

Lizardの呼吸が分かる。体の重心の動きも見える。次に動く方向が分かる。

本郷さんが何度も言っていたこと。

 

――考えろ。

 

ベンおじさんの最後の言葉。

 

――誰かを助けてやれ。

 

「今は」

 

構える。

 

「お前を止める」

 

「本郷さん」

 

「なんだ」

 

「ベンおじさんを、お願いします」

 

本郷さんは僕を見た。

 

「……一人でやれるか?」

 

「はい」

 

自分でも不思議なくらい、迷いはなかった。

 

「もう、大丈夫です」

 

少しの沈黙。やがて、本郷さんが頷いた。

 

「分かった。ここは俺が守る」

 

その言葉を聞いて、僕はもう一度Lizardへ向き直った。

 

Lizardが走った。頭の奥に警告。

 

右。

 

僕は避けた。殴らない。通り過ぎた右腕へウェブ。

 

巻き付ける。Lizardが振り返る。

 

左。

 

屈む。

 

足へウェブ。

 

引く。

 

「なっ!?」

 

初めてLizardの体勢が崩れた。

僕は跳んだ。

 

壁へ。

 

天井へ。

 

ウェブ。ウェブ。ウェブ。

 

工場中へ糸を張る。

 

「小癪な!」

 

Lizardが一本を引き千切る。

 

でも。

 

一本じゃない。

 

二本。

 

三本。

 

十本。

 

蜘蛛の巣。

 

僕はその中心に立っていた。

 

「そうか……」

 

やっと分かった。本郷さんが言っていた。力だけじゃない。

僕の身体が何をできるのか。

 

「僕は――」

 

両手首をLizardへ向けた。

 

「蜘蛛なんだ」

 

無数のウェブが放たれた。

右から。左から。頭上から。

Lizardの腕に。

 

脚に。

胴体に。

白い糸が次々と絡みついていく。

 

「こんなもの!」

 

Lizardが右腕を振るう。

一本が切れた。

続けて左腕。

 

二本。

三本。

力任せにウェブを引き千切っていく。

 

「無駄だ!」

 

「……そうかな」

 

「何?」

 

僕は動かなかった。

ウェブを握る。

一本一本。

 

工場中に張り巡らせた糸が、指先へ繋がっている。

――ビン。

一本が震えた。

 

右。

Lizardが右足を踏み出す。

――ビビッ。

 

左後ろ。

瓦礫を蹴った。

分かる。

 

見なくても。どこにいるのか。どう動いているのか。

全部、糸が教えてくれる。蜘蛛は巣に伝わる振動で、獲物の位置を知る。

 

「調子に乗るな!」

 

Lizardがウェブを引き千切り、僕へ飛びかかる。

目で追わない。

糸が震える。

 

頭の奥が警告する。

右拳。

半歩だけ身体をずらす。

 

拳が頬の横を通り過ぎた。

 

「なっ!?」

 

右手を伸ばす。

――シュッ!

Lizardの右手首へウェブ。

 

そのまま天井の鉄骨へ繋ぐ。

 

「ぐっ!」

 

左拳。

屈む。

――シュッ!

 

今度は左手首。

反対側の柱へ。

 

「貴様!」

 

蹴り。

跳ぶ。

空中から両手を向ける。

 

――シュッ! シュッ!

両脚。

床へ固定。

 

Lizardの身体が四方からウェブに引っ張られた。

 

「うおおおおっ!」

 

筋肉が膨れ上がる。

鉄骨が軋む。

ウェブが伸びる。

 

強い。

まだ止められない。

だったら。

 

さらに撃つ。

一本。

二本。

 

三本。

何十本も。

 

「この……程度でぇっ!」

 

右腕のウェブが一本切れた。

僕はそこへまた撃ち込む。

切れる。

 

撃つ。

引き千切られる。

また撃つ。

 

「何度でもやるよ!」

 

「小僧!」

 

「父さんが作った糸なんだ!」

 

また一本。

 

「お前なんかに!」

 

さらに一本。

 

「負けるか!」

 

ついに。

Lizardの右腕が止まった。

 

「ぐ……!」

 

僕は地面へ降りる。ゆっくりと近づく。

Lizardがもがく度、蜘蛛の巣全体が震える。

でも、もう怖くなかった。

 

「どうした」

 

Lizardが僕を睨む。

 

「殺さないのか?」

 

「……」

 

「私はお前の父親を殺した」

 

拳を握る。

 

「そして今」

 

視線がベンおじさんの方へ向いた。

 

「もう一人殺した」

 

一瞬。

胸の奥から、またあの怒りが込み上げた。

 

殺せ。こいつを。今ならできる。

拳一発で。父さんと。ベンおじさんの仇を。

 

でも。

 

『お前には、人を助けられる力があるんだろ……?』

 

ベンおじさんの声がした。

 

『だったら……誰かを助けてやれ……』

 

僕は拳を開いた。

 

「……殺さない」

 

「何?」

 

「父さんのためでも」

 

Lizardを見る。

 

「ベンおじさんのためでもない」

 

ウェブを握る。

 

「僕が、お前を止める」

 

Lizardが笑った。

 

「甘いな」

 

次の瞬間。

――ブチィッ!

 

「!」

 

右腕を拘束していたウェブが全部切れた。

太い右腕が自由になる。

 

「だから子供だというんだ!」

 

振り抜かれる。

頭の奥が叫んだ。

危険!

 

避ける。

拳が鼻先を掠める。

その勢いのままLizardが左腕の拘束も引き千切った。

 

まずい!

 

「死ねぇっ!」

 

突っ込んでくる。

速い。

でも。

 

さっきまでとは違う。

真正面から受ける必要なんてない。

僕は後ろへ跳んだ。

 

両手をLizardへ向ける。

――シュッ!

二本のウェブが胸へ張り付く。

 

「またそれか!」

 

Lizardが糸を掴む。

 

「引き寄せてやる!」

 

Lizardが思い切りウェブを引いた。

僕の身体が宙へ浮く。

 

「それでいい!」

 

「何?」

 

一直線にLizardへ飛んでいく。

 

さっき。

最初に戦った時と同じ。

だけど。

 

今度は偶然じゃない。

自分から。

身体を捻る。

 

腰を回す。

片脚を揃える。

本郷さんに何度も言われた。

 

力だけで蹴るな。

身体全部を使え。

速度を。

 

体重を。

全部、一点に乗せろ。

 

「うおおおおおおおおおっ!!」

 

Lizardが気付く。

腕を交差させる。

遅い。

 

僕の右足が胸へ叩き込まれた。

――ドォンッ!!

空気が弾けた。

 

ウェブが一斉に千切れる。

Lizardの身体が吹き飛んだ。

工場の壁を突き破り。

 

外へ。

地面へ叩きつけられる。

一度。

 

二度。

三度。

最後には大きな機械へ激突して止まった。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

僕は地面へ着地する。

脚が震えた。

倒れそうになる。

 

それでも。

Lizardを見る。

動かない。

 

「……コナーズさん?」

 

返事はない。

ゆっくり近づく。

 

「コナーズさん」

 

マスクの片方が割れていた。

その奥から見える目。

細く変わっていた瞳が。

 

少しずつ。

人間のものへ戻っていく。

 

「……ピー……ター……」

 

「!」

 

僕は駆け寄った。

 

「コナーズさん!」

 

右手が動いた。

父さんの研究で取り戻した手。

震えながら持ち上がる。

 

僕へ伸びる。

何をしようとしているのか分からなかった。

掴もうとしているのか。

 

殴ろうとしているのか。

それとも。

助けを求めているのか。

 

その手が。

僕へ届く寸前。

――ブクッ。

 

白い泡が浮かんだ。

 

「……え?」

 

指先。

一つ。

また一つ。

 

「コナーズさん?」

 

泡が増えていく。

指が崩れる。

手のひらが。

 

前腕が。

 

「待って」

 

せっかく取り戻した右腕が。

泡になって消えていく。

 

「待ってよ!」

 

肩へ。

胸へ。

脚へ。

 

あっという間だった。

 

「何だよ、これ……」

 

僕は手を伸ばす。

でも触れられない。

触った端から。

 

泡になって消えていく。

マスクも。スーツも。身体も。

全て白い泡に包まれていく。

 

最後に見えたのは。

もうほとんど人間に戻った目だった。

そして。

 

それも消えた。

 

「……」

 

風が吹いた。

泡が弾ける。

そこには。

 

何も残らなかった。

 

「ピーター!」

 

後ろから声がした。振り返ると本郷さんが、僕のところへ駆け寄ってきた。

少し離れた場所には、静かに横たわるベンおじさんの姿があった。

本郷さんは僕の前で足を止める。そして、何もなくなったLizardのいた場所を見る。

 

「ピーター、大丈夫か?」

 

僕は、その場所を指した。

 

「本郷さん、……これは?」

 

本郷さんは地面を見る。少しの沈黙。

 

「ショッカーは証拠を決して残さない」

 

「……」

 

「敗北した段階で、こうなる運命だ」

 

「それは……」

 

言葉が出なかった。

あんな奴だった。

父さんを殺した。

 

ベンおじさんまで殺した。

憎かった。

今だって。

 

憎い。

なのに。

 

何もない地面を見る。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

数日後。

ベンおじさんの葬儀が執り行われた。

空は曇っていた。

 

僕は黒いスーツに身を包み、メイおばさんの隣に立っていた。

周りには親戚や近所の人たちが集まっていた。

みんな、ベンおじさんとの思い出を話していた。

 

あの人は親切だった。

困っている人を放っておけない人だった。

いつも冗談を言って、みんなを笑わせていた。

 

僕も知っている。

だって、僕のおじさんなんだから。

でも。今は何も話せなかった。

 

棺がゆっくりと地面へ下ろされていく。

メイおばさんが僕の手を握った。

 

「ピーター……」

 

「……うん」

 

僕はその手を握り返した。

僕には、もうこの人しかいない。

父さんも。

 

ベンおじさんも。

みんな、僕を守ろうとして死んだ。

僕はあんなに強くなったのに。

 

結局、誰も守れなかった。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

葬儀が終わり、参列者たちが帰っていく。

メイおばさんも近所の人に付き添われて、先に車へ戻っていった。

僕はまだ、ベンおじさんの墓の前にいた。

 

墓石には、ベンジャミン・パーカーの名前が刻まれている。

その前には、たくさんの花が供えられていた。

 

「……ピーター」

 

背後から声がした。

本郷さんだった。

黒いスーツを着て、手には一輪の花を持っていた。

 

「本郷さん……来てくれたんですね」

 

「ああ」

 

本郷さんは墓前へ花を供え、静かに手を合わせた。

僕も墓石を見つめる。

 

「……ベンおじさんって、すごい人だったんです」

 

「そうか」

 

「別に、お金持ちでもないし。特別な力があったわけでもない。普通のおじさんだったんですけどね」

 

少し笑ってしまった。

 

「困ってる人を見つけると、すぐに首を突っ込むんですよ。自分だって大変なくせに」

 

「……」

 

「僕が夜遅く帰っても、いつも起きて待っててくれたんです。腹が減っただろって、サンドイッチを用意してくれて」

 

墓石を見る。

 

「……ちゃんと帰ってこいって、言われてたのになぁ」

 

返事はなかった。

本郷さんは、何も言わずに隣に立っていた。

 

「本郷さん」

 

「なんだ」

 

「僕、ずっと考えてたんです」

 

先日の戦い。

Lizard。

カート・コナーズ。

 

父さんの同僚で、右腕を失っていた人。

父さんたちの研究によって、もう一度その腕を取り戻した人。

そして。

 

ショッカーによって改造された人。

 

「コナーズさんには、お墓もないんですよね」

 

「ああ……」

 

「ベンおじさんには、こうしてお墓があって。僕らがいて。会いに来てくれる人たちがいる」

 

花束を見る。

 

「でもコナーズさんには、それすらない。哀しいじゃないですか、死体も残らないんじゃ」

 

僕は拳を握った。

 

「父さんも、ベンおじさんも、あの人に殺されました。今だって許せません」

 

「……」

 

「でも、あの人だってショッカーに人生を奪われたんですよね」

 

本郷さんを見る。

 

「僕や、本郷さんと同じように」

 

しばらく沈黙が続いた。

 

「……本郷さん」

 

「なんだ」

 

「僕は戦い続けます」

 

本郷さんは黙って僕を見ていた。

 

「復讐だけじゃない」

 

父さんが言っていた。

いつか、人の役に立てる人間になりなさいって。

ベンおじさんも言っていた。

 

大いなる力には、大いなる責任があるって。

あの二人が望んでいたのは、僕が誰かを憎み続けることなんかじゃなかったはずだ。

 

「もう、僕みたいな人を増やしたくない」

 

自分の手を見る。

この手は、もう普通の人間のものじゃない。

それでも。

 

この手で、できることがある。

 

「コナーズさんみたいな人も、これ以上増やしたくないんです」

 

拳を握る。

 

「だから僕は戦います。ショッカーが、これ以上誰かの人生を奪わないように」

 

そして。

 

「いつか、この世界に残された改造人間が――」

 

本郷さんを見る。

 

「僕らだけになるまで」

 

本郷さんは何も言わなかった。

ただ、僕の目を見ていた。

やがて、小さく頷いた。

 

「……ああ」

 

墓石へ視線を戻す。

 

「そうだな」

 

二人で、しばらくベンおじさんのお墓を見つめていた。

やがて、本郷さんが口を開いた。

 

「ピーター」

 

「はい」

 

「これからどうするつもりだ?」

 

僕は少し考えた。

 

「……とりあえず、家に帰ります」

 

「そうか」

 

「メイおばさんを、一人にしておけないから」

 

本郷さんは小さく笑った。

 

「それがいい」

 

僕はもう一度、ベンおじさんのお墓を見た。

 

「じゃあ、行ってくるよ。ベンおじさん」

 

今度はちゃんと。

家に帰るから。

 

――――――――――――――――――――

 

同じ頃。ニューヨークのどこか。

窓ひとつない薄暗い部屋に、三人の人間が集まっていた。

中央のテーブルには、数枚の写真と報告書が並べられている。

その一枚には、灰色のスーツを身に纏った少年の姿が映っていた。

 

「ピーター・パーカー」

 

最初に口を開いたのは、チャイナドレスを着た若い女だった。

 

艶やかな黒髪。身体の線に沿う赤いドレス。

口元には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。

 

「次世代型改造人間、Spider」

 

写真を指先でなぞる。

 

「ずいぶん派手に逃げ回ってくれたものね」

 

「逃げ回った、か」

 

向かい側。

ストリートファッションに身を包んだ若い男が、椅子の背にもたれかかる。

パーカーに裾野の太いパンツ。首元にはいくつものアクセサリー。

この場には似つかわしくないほど軽い格好だった。

 

「むしろ、こっちがやられたんじゃない?」

 

男は机の上に別の写真を投げた。焼け落ちた研究施設。黒焦げになった廊下。崩れ落ちた手術室。

 

「Hopperが脱出の混乱に乗じて基地に火をつけた」

 

「ええ」

 

女の笑みが薄くなる。

 

「改造手術を担当した技術者は全員死亡」

 

資料をめくる。

 

「手術記録、遺伝子調整のデータ、Spiderの改造に使用した個体別の適合記録」

 

机へ置く。

 

「全部、焼けたわ」

 

若い男が口笛を吹いた。

 

「つまり」

 

「ええ」

 

女は写真の少年を見る。

 

「ピーター・パーカー本人を回収しない限り、次世代型改造人間の再現はできない」

 

部屋の奥。

それまで黙っていた三人目が、ゆっくりと顔を上げた。

黒を基調とした長い衣装。痩せた身体。深く刻まれた皺。

その姿は、まるで死神を思わせる老紳士だった。

 

「それだけではない」

 

低い声。二人の視線が向く。

 

「旧世代型には欠点が多い」

 

老紳士は静かに続けた。

 

「機械化率が高く、維持にも手間がかかる。定期的な血液交換を必要とする個体も少なくない」

 

机の上の写真を見る。

 

「だが、Spiderは違う」

 

女が微笑む。

 

「遺伝子交配を主体にした次世代型」

 

若い男が続きを言う。

 

「しかも、術後すぐに超人的な身体能力を発現した」

 

「壁面への吸着」

 

女が指を一本立てる。

 

「異常な跳躍力」

 

二本。

 

「危険を事前に察知する超感覚」

 

三本。

 

「そして、生体から直接生成される蜘蛛糸」

 

若い男が笑った。

 

「完成度だけなら、大成功ってことか」

 

「成功?」

 

老紳士が静かに言った。その一言で若い男の笑みが消えた。

 

「人格改造は完了していない」

 

「……」

 

「命令にも従わない」

 

「……」

 

「そして今や、我々の敵であるHopperと接触している」

 

老紳士はピーターの写真へ手を伸ばした。

 

「兵器としては失敗だ」

 

写真を持ち上げる。

 

「だが」

 

その目が細くなる。

 

「研究対象としては、これ以上ないほど貴重だ」

 

女が脚を組み替えた。

 

「解剖して調べる?」

 

「可能であれば生きたまま回収する」

 

「抵抗したら?」

 

「手足の一本や二本は構わん」

 

若い男が肩をすくめる。

 

「十五歳の子供相手に随分と物騒だな」

 

「子供?」

 

老紳士が男を見る。

 

「お前はあれを、まだ人間の子供だと思っているのか?」

 

沈黙。老紳士は写真を机へ戻した。

 

「Spiderはショッカーの所有物だ」

 

その言葉に女が薄く笑った。

 

「では、誰を向かわせる?」

 

「Hopperがいる可能性もある」

 

若い男が言う。

 

「半端な奴じゃ返り討ちだぜ」

 

「だから二人だ」

 

老紳士が答えた。机の端に置かれた二枚のファイル。

 

一枚目。それを女が開く。

写真に写っていたのは、青白い顔をした男。

その下には、一つのコードネーム。

 

――Morbius。

 

「もう一人は?」

 

若い男が二枚目のファイルを引き寄せた。

開くとそこには、巨大な尾を装備した改造人間の姿。

 

――Scorpion。

 

男の口元が吊り上がる。

 

「なるほど」

 

老紳士が椅子から立ち上がる。

 

「命令は一つ」

 

二人を見る。

 

「ピーター・パーカーを回収しろ」

 

「生死は?」

 

女が尋ねる。老紳士は少しだけ考えた。

 

「生存を最優先」

 

そして。

 

「ただし」

 

暗い部屋の中。その目だけが異様に鋭く見えた。

 

「再び逃亡する可能性があるならば――」

 

一拍。

 

「二度と逃げられぬ状態にして構わん」

 

若い男が笑う。

 

「怖い怖い」

 

女も席を立った。

 

「それじゃあ」

 

ピーターの写真を見下ろす。

 

「迎えに行ってもらいましょうか」

 

指先で写真の上のピーターの顔を軽く叩く。

 

「私たちのSpiderを」

 

――――――――――――――――――――

 

それから、しばらくして、ニューヨークの街に、二人の怪人が現れた。

一人は、蝙蝠を思わせる異様な姿の男。

もう一人は、背中から巨大な蠍の尾を伸ばした男だった。

 

「ハハハハ! 逃げろ、逃げろ!」

 

蠍の男が尾を振るう。

――ドォン!

停車していた車が吹き飛び、歩道へ叩きつけられた。

 

悲鳴が上がる。

 

「Scorpion。あまり派手に暴れるな」

 

上空から声がした。

蝙蝠の男が、ビルの壁面へ降り立つ。

 

「俺たちの仕事は、あくまで奴の回収だ」

 

「分かっているさ、Morbius」

 

Scorpionが笑う。

 

「だが、こうでもしなければ出てこないだろう?」

 

「……そうだな」

 

Morbiusは街を見下ろした。

 

「聞こえているんだろう? Spider!」

 

その名が、ニューヨークの街に響き渡る。

 

「ショッカーの次世代型改造人間! 貴様を迎えに来てやったぞ!」

 

返事はなかった。

代わりに。

――シュッ!

 

「何っ!?」

 

Scorpionの尾に、白い糸が絡みついた。

 

「誰だ!」

 

糸はビルの屋上へと伸びていた。

そこに、一人の男が立っていた。

 

「やあ、こんにちは!」

 

軽い調子の声だった。

 

「いやぁ、驚いたよ。ニューヨークのど真ん中で大暴れするサソリとコウモリだなんて。動物園の職員さんは何やってるんだろうね?」

 

「貴様……!」

 

Scorpionが唸る。

 

「Spider!」

 

「おっと」

 

男が人差し指を立てる。

 

「まずはこっちの用事を済ませてからね!」

 

男が腕を振るった。

――シュッ!

新たなウェブが放たれ、今にも崩れ落ちそうだったビルの外壁を繋ぎ止める。

 

続けて、道路で動けなくなっている人々へ手を伸ばす。

 

「皆さん、こちらへ! 足元に気をつけて!」

 

ウェブが車のドアを引き剥がす。

中から泣きじゃくる少女を抱き上げ、近くの警官へ預けた。

 

「はい、お届け物! それじゃあ、ここからは警察のお仕事ってことで!」

 

「き、君は一体……?」

 

「それは後で!」

 

男は再び跳躍した。

ビルの壁を蹴り、空中で一回転。

そして二人の改造人間の前へ降り立った。

 

「……」

 

Morbiusが、その姿を見つめる。

見覚えのあるシルエットだった。

だが、違う。

 

ショッカーが与えた、あの灰色の戦闘服ではない。

赤と青。

蜘蛛の巣を模した模様。

 

胸には大きな蜘蛛のマーク。

かつての灰色のスーツを、自分で塗り直したものだった。

 

「……ふん」

 

Morbiusが鼻で笑う。

 

「随分と悪趣味な色になったものだな、Spider」

 

「そうかな? 結構気に入ってるんだけど」

 

自分の胸元を見下ろした。

 

「灰色って、ちょっと地味だったからね」

 

「貴様が何色に塗りたくろうと、我々の同類であることに変わりはない!」

 

Scorpionが尾を振り上げる。

 

「ショッカーによって生み出された蜘蛛の改造人間! Spider!」

 

「……」

 

静かに二人を見た。

Spider。

あの手術台の上で、僕からピーター・パーカーという名前を奪おうとした連中がつけた名前。

 

でも、僕には父さんがくれた名前がある。

ベンおじさんが呼んでくれた名前がある。

そして、この力で守りたい人たちがいる。

 

だから、僕は――。

 

「違う」

 

「何?」

 

男は右手を顎へ添えた。

――カシャン。

マスクの固定を確かめる。

 

赤いマスクの複眼が、白く光った。

そして、二人の改造人間を真っ直ぐに指差した。

 

「僕はSpiderじゃない!」

 

一歩、前へ出る。

 

「僕は――」

 

両手首を構える。

 

「親愛なる隣人、Spider-Manだ!」

 

 

 

――END.

 

 




正直、東映版という偉大な御方がいるから世に公開するのが恥ずかしい。

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