ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
「カルト……」
エバンス城内。
アズムール王より預かった《白銀の剣》をシグルドへ届けたアルヴィスは、その役目を終えた後、シレジア軍の陣営を訪れていた。
エバンス城を攻略したシグルド軍は、いまだ周辺に残るヴェルダン兵の掃討を続けている。
城そのものはほぼ制圧されていたが、国境を越えた先にはヴェルダン本国がある。ガンドロフが撤退した以上、敵が援軍を率いて再び南下してくる可能性も否定できない。
そのためカルトは、負傷者の治療を終えるとシレジア軍を城外に展開させ、街道を押さえる形で陣を敷いていた。
食料や水はエバンスから運び込まれている。
兵士たちが交代で休息を取る中、突然現れたアルヴィスを見たカルトは少なからず驚いた。
そして――。
「あの時以来だな、アルヴィス」
二人きりになった幕舎の中で、カルトは笑った。
「負けた人間が言うのも妙な話だが……礼を言わせてくれ。あの時の取り計らい、感謝している」
そう言って頭を下げる。
しかしアルヴィスは眉一つ動かさなかった。
「何のことだ?」
「……おい」
「私は何もしていない。あの日、帰ろうとしていた貴公が、偶然クルト王子と出会った。それだけのことだろう」
しれっと言ってのける。
カルトはしばらくアルヴィスを見つめ――やがて肩を竦めた。
「……まあいい。そういうことにしておこう」
「そうしてくれ」
「昔からそうだったが、お前は妙なところで頑固だな」
「君に言われたくはない」
「それもそうか」
二人の間に、僅かな笑いが生まれた。
魔道鍛錬場で本気の魔法をぶつけ合ったあの日。
勝者と敗者。
グランベルの公爵とシレジアの公爵。
立場だけを見れば、そこには大きな隔たりがある。
それでもカルトにとってアルヴィスは、昔から変わらない。
追いつきたいと思った男。
そしていつか、もう一度正面から挑みたい相手だった。
「…………」
ところが、アルヴィスの表情がふと変わった。
「アルヴィス?」
「陛下から、もう一つ預かっている」
アルヴィスが傍らに置いていた包みを持ち上げる。
「もう一つ?」
「ああ。正確には二つだ」
差し出された包みを受け取る。
それなりの重量があった。
布を解くと、中から二本の杖が現れた。
一本は細身で、先端に青白い宝珠が嵌め込まれている。
もう一本は、それより遥かに重厚だった。
純白の杖身には複雑な術式が刻み込まれ、先端を飾る大きな宝珠からは、手に取らずとも強い魔力を感じる。
「これは……」
カルトは目を見開いた。
「《リブロー》……それに――」
一瞬、言葉を失う。
「《リザーブ》……?」
「ああ」
アルヴィスが頷いた。
「陛下から君へ。ヴェルダンで必要になるだろう、と」
「いや……必要になるだろうって……」
カルトは思わず苦笑した。
《リブロー》なら分かる。
遠方にいる負傷者を治療できる高位の聖杖だ。
これから敵地へ入ることを考えれば、確かに有用である。
だが。
「《リザーブ》まで?」
これは話が違う。
術者を中心として広範囲の者を同時に癒す、最高位に属する聖杖。
扱える者など、大陸全土を探しても一握りしかいない。
「陛下は本気なのか……?」
「本気でなければ、国庫にある《リザーブ》を持ち出したりはしないだろう」
「それはそうなんだが……」
カルトは杖を見つめた。
以前、アズムール王から《オーラ》と《リザイア》、さらに《レスキュー》まで授けられている。
どれも尋常な品ではない。
そして今回。
《リブロー》。
さらに《リザーブ》。
(陛下……俺に何をさせるおつもりですか)
もはや一介の魔道士に与える装備ではない。
軍ひとつの生死を左右しかねない代物だった。
「ありがたく頂戴する。陛下には必ず役立てると伝えてくれ」
「ああ」
アルヴィスは答えた。
しかし――動かない。
「……アルヴィス?」
「カルト」
「なんだ?」
「君は《リザーブ》を扱えるのか?」
「…………」
来た。
カルトは心の中でそう呟いた。
当然の疑問だった。
「まだ使ったことはない」
「では、なぜ陛下は君にこれを託した?」
「それは……」
言葉に詰まる。
アルヴィスは杖へ視線を落とした。
「《リブロー》なら理解できる。高位の聖杖ではあるが、優秀な杖使いなら扱える者もいる」
そして《リザーブ》を見る。
「だが、こちらは違う」
声が低くなる。
「最高位の聖杖だ。単純に魔力が高ければ扱えるという代物ではない。杖術に対する極めて高い適性と、膨大な魔力制御を要求される」
「…………」
「少なくとも――私は使えない」
その言葉に、カルトは僅かに目を見開いた。
アルヴィスほどの魔道士が。
自ら、使えないと言った。
「それを陛下は、君なら扱えると判断した」
アルヴィスの目が細くなる。
「以前から疑問だった」
アルヴィスが続ける。
「君という魔道士そのものが、だ」
カルトの表情から笑みが消えた。
「風魔法を扱い、光魔法を扱い、聖杖まで扱う。陛下から《リザイア》と《レスキュー》を授けられ、今度は《リブロー》と《リザーブ》だ」
一つ一つ。
アルヴィスが積み上げていく。
「それだけではない。以前、陛下は君に《オーラ》まで下賜しようとなされたと聞いている」
「……あれは返した」
「知っている」
「知っているのかよ」
「近衛を預かる立場だ。王家の管理する高位魔道書の所在くらい把握している」
当然だと言わんばかりのアルヴィスに、カルトは苦笑した。
「俺には既に《オーラ》があった。同じ魔道書を二冊持っていても仕方ないだろう」
「問題はそこではない」
ぴしゃりと言われた。
「陛下が、君に与えようとなされたことだ」
「…………」
「《オーラ》。《リザイア》。《レスキュー》。そして今度は《リブロー》と《リザーブ》」
アルヴィスの目が僅かに細くなる。
「どれか一つなら、君の才能を評価されたのだと思える。だが、これほどの品々を次々と託されるとなれば話は違う」
そして、最高位の聖杖へ視線を落とした。
「特に《リザーブ》だ。少なくとも――私はこれを扱えない」
「…………」
「それを陛下は、君なら使えると考えている」
アルヴィスが静かに問い掛ける。
「陛下は君の何を知っている?」
カルトは答えられなかった。
――その疑問については。
ある意味、自分よりアルヴィスの方が正しかったからだ。
アズムール王が《リザーブ》をアルヴィスへ託した。
その意味を考える。
自分の出生そのものを教えたわけではない。
アルヴィスの反応を見れば、それは明らかだ。
ならば――。
(陛下……わざとですか)
カルトは気付く。
アルヴィスほどの魔道士ならば、《リザーブ》を見れば必ず疑問を抱く。
それを承知した上で託したのだ。
自分がただのシレジア王族ではない。
何らかの特別な出自を持つ人間である。
そこまでは知られても構わない。
そう考えているのではないか。
「以前、君と術を交えた時から感じていた」
アルヴィスが続ける。
「君の魔力の根幹は風だ。シレジア王族なのだから、それ自体は不思議ではない」
自分の掌を見る。
「だが、その奥にもう一つ、異質なものがある」
カルトの背筋に僅かな緊張が走った。
「私は、その魔力を知っている」
「……誰だ?」
「陛下だ」
カルトの瞳が僅かに揺れる。
「そして、クルト王子」
「…………」
「よく似ている」
そこまで見抜いていたのか。
「以前なら偶然だと思うこともできた。だが陛下は君に《オーラ》を与え、《リザイア》を与え、《レスキュー》まで託した。そして今回――《リザーブ》だ」
アルヴィスが静かにカルトを見る。
「これほどの品々を、何の理由もなく他国の公爵へ渡す王ではない」
「……やはり、お前には気付かれるか」
カルトは小さく息を吐いた。
「何に気付いたのか、まだ私自身にも分からん」
「そうなのか?」
「ああ」
アルヴィスは即答した。
「だから聞いている」
カルトは苦笑した。
厄介な男だ。
だが同時に――少し嬉しくもあった。
決めつけるのではなく。
疑いながらも、本人へ直接問い掛けてくる。
それが今のアルヴィスだった。
「……お前の推測は、おおよそ間違っていない」
「つまり?」
「俺自身にも、グランベル王家と無関係ではない血が流れている」
アルヴィスの目が鋭くなる。
「だが、今はそれ以上言えない」
「…………」
「すまない」
カルトは正面から頭を下げた。
「お前を信用していないからじゃない。まだ俺自身が動かなければならない理由がある」
ナーガ。
ロプトウス。
暗黒教団。
アズムール王から託された使命。
それらをここで話すことはできない。
出生が公になれば、自分はグランベルという巨大な国家の事情に縛られる。
クルトという正統な王位継承者が存在する以上、自分の存在そのものが余計な火種になりかねない。
少なくとも、使命を果たすまでは。
自由に動ける身でありたかった。
「……そうか」
アルヴィスはそれ以上追及しなかった。
「意外だな」
「何がだ?」
「もっと聞かれると思った」
「聞いて答えるのか?」
「答えない」
「ならば意味がない」
「相変わらず合理的だな」
「君が頑固なだけだ」
「それもそうか」
二人は小さく笑った。
「ただし――頼みがある」
カルトの声が僅かに低くなった。
「今の話は口外しないでほしい」
「無論だ」
返事は即座だった。
「陛下が私を使って君へこれを渡した。その意味を無視するつもりはない」
「助かる」
「それに……」
アルヴィスは一瞬だけ視線を逸らした。
「君の口から聞けてよかった」
「え?」
「私は君を疑いたいわけではない」
その言葉に、カルトは黙った。
「立場が変わろうとも、これからも裏表なく、対等に付き合ってもらいたい」
カルトは目を見開いた。
やがて――笑った。
「ああ」
右手を差し出す。
「俺も同じだ」
アルヴィスがその手を握った。
「だから、これからも俺の目標でいてくれよ」
「……次は負けない、と?」
「当然だ」
「ならば私も精進しなければならないな」
「そうしてくれ。追いかける相手が弱くなったら困る」
「言うようになったな」
二人は、ようやく心から笑った。
そしてカルトの傍らには。
まだ一度として使ったことのない、一本の白い杖が置かれていた。
《リザーブ》。
この杖がいつの日か。
絶望の淵に立たされた多くの命を繋ぎ止めることになるなど――。
今のカルトは、まだ知る由もなかった。
◇
同じ頃。
エバンスより遥か南。
ユン川沿いの森林地帯、エーディン公女を含む女性の奪還に成功したがガンドロフを取り逃がす。
追撃を加えようとしたが、嫌な感じがする。
フュリーが手を上げる。
天馬たちが一斉に警戒した。
何かがおかしい。
姿は見えない。
音もない。
それなのに――肌が粟立つ。
フュリーには、この感覚に覚えがあった。
リボー。
あの地で遭遇した暗黒魔道士。
理屈ではない。
もっと本能に近いところから警鐘が鳴っている。
「フュリー様?」
「気をつけて」
フュリーは周囲を見回した。
「魔道士がいる。それも……かなりの手練れよ」
騎士たちの表情が変わった。
「天馬から離れないで。いつでも飛び立てるように――」
「フュリー様! あちらを!」
一人の騎士が叫んだ。
森林の奥。
木々の隙間に黒い靄が生まれていた。
それは渦を巻きながら次第に形を変え――禍々しい六芒星を描き出していく。
「魔法!?」
フュリーが叫んだ瞬間だった。
黒い閃光が迸った。
「――っ!」
避けられない。
しかも狙われているのは自分一人ではない。
フュリーは背中に括り付けていた一本の杖を引き抜くと、地面へ突き立てた。
「お願い――!」
杖が眩い光を放った。
地面に白い五芒星が広がる。
次の瞬間、その中心から無数の光が舞い上がり、天馬騎士たちを包み込む巨大な幕となった。
黒い閃光と白い障壁が激突する。
轟音。
空気が震えた。
「くっ……!」
フュリーが腕で顔を庇う。
黒い光は障壁を突き破ろうと幾度も脈動したが――。
やがて霧散した。
同時に。
ぱきん。
小さな音を立て、地面に刺さっていた杖が砕け散った。
「カルト様……」
フュリーは砕けた杖を見る。
出発前、カルトから持たされたものだった。
『何かあったら地面に突き刺せ。一度しか使えないけど、並の魔法なら防げる』
本人は簡単そうに言っていた。
だが今、その一本の杖が騎士たち全員の命を救った。
カルトが研究している付加魔法。
魔力を物体へ留め、一時的に特殊な効果を与える技術だった。
古代には《炎の剣》や《守りの剣》のように、何度も魔力を発動できる武具を作る職人が存在したという。
しかし現在のカルトにはそこまでの物は作れない。
一度発動すれば壊れる。
あるいは長く効果を残せても、大きな力を宿すことはできない。
未完成の技術。
だが――。
今は、それで充分だった。
「全員、急いで!」
フュリーが振り返る。
「人質を天馬へ! 次が来る前に離脱します!」
馬車の扉を開ける。
中には十一人の女性がいた。
突然現れた天馬騎士たちを見て、誰もが戸惑っている。
「あなたたちは……シレジアの……?」
一人の女性が立ち上がった。
金色の長い髪。
気品のある立ち居振る舞い。
間違いない。
ユングヴィ公女――エーディン。
「シレジア天馬騎士団です」
フュリーは名乗った。
「シグルド様からの要請を受け、人質救出に参りました」
「シグルド様が……!」
「お話は後です。遠距離攻撃を受けています。すぐに天馬へ」
エーディンは状況を察した。
「皆さん、彼女たちの指示に従ってください!」
その一言で女性たちが動き出す。
一人。
また一人。
天馬の後ろへ乗せ、騎士たちが順次飛び立っていく。
最後の一騎が上昇するのを確認し、フュリーもエーディンを自分の後ろへ乗せた。
「しっかり掴まってください」
「はい」
天馬が地面を蹴った。
翼が大きく広がる。
木々の間を縫うように上昇し、そのまま森林上空へ出る。
「ああ……」
エーディンが眼下を見た。
「これで……グランベルへ帰れるのですね」
「はい」
「ありがとう」
エーディンはフュリーの背中へ言った。
「シグルド様と……あなたに感謝します」
「私はフュリーと申します」
「フュリー……」
「それと、今回の作戦を考えたのは私の指揮官であるカルト公です。帰還しましたら、ぜひ公にも」
「ええ」
エーディンが微笑んだ。
「シレジアの厚意、ユングヴィを代表して必ずお伝えします」
フュリーも振り返って微笑んだ。
――その瞬間。
風を裂く音。
「!」
何かが来る。
考えるより先に身体が動いた。
フュリーは鐙を踏み込み、手綱を引く。
天馬が急旋回しようとした。
だが――遅い。
鈍い音が響いた。
天馬が悲鳴を上げる。
「なっ……!」
右後肢の付け根に手斧が突き刺さっていた。
翼の動きが乱れる。
「フュリーさん!」
「掴まって!」
必死に体勢を立て直そうとする。
だが推力を失った天馬は高度を維持できない。
滑空。
失速。
墜落。
すべてが一瞬だった。
木々の枝を折りながら、三者は地面へ叩き落とされた。
「ぐっ……!」
地面へ激突する寸前、フュリーはエーディンをかばいながら天馬から飛び降りた。
エーディンをかばいながら受け身を取る。
それでも背中を強く打ち、左腕に激痛が走った。
「……っ!」
痛い。
だが意識はある。
フュリーはすぐに顔を上げた。
「エーディン様!」
返事がない。
衝撃で意識を失っている。
天馬も傷つき、立ち上がれない。
フュリーは歯を食いしばりながら立ち上がった。
腰の細剣を抜く。
「誰……!」
茂みが揺れた。
そして。
「へっへっへ……」
聞き覚えのある声。
「お嬢ちゃん。いけねえなあ」
巨体が姿を現す。
フュリーの顔から血の気が引いた。
「……ガンドロフ」
「俺が素直に尻尾巻いて逃げ帰ったとでも思ったのか?」
その瞬間。
理解した。
――やられた。
先ほどの遠距離魔法。
あれは自分たちを倒すためだけのものではない。
注意を魔道士へ向けるためだったのだ。
恐るべき暗黒魔法。
正体不明の術者。
そちらへ意識を集中させることで――ガンドロフ本人の追跡を完全に意識から消された。
(私の……失敗だ)
フュリーは唇を噛んだ。
救出に成功した。
そう思った。
そこで僅かに気が緩んだ。
だから殿を務めながら、後方警戒を怠った。
「一番後ろを飛んでたのは失敗だったな」
ガンドロフが笑う。
「この程度の高さなら俺の手斧でも充分届く」
フュリーは剣を構えた。
「……エーディン様には触れさせない」
「へえ?」
「ここから先は――私が相手よ」
声は震えていた。
怖くないはずがない。
左腕はまともに動かない。
背中も痛む。
相手は自分より遥かに大きい。
それでも退けない。
後ろには守るべき人がいる。
「いいねえ、その目」
ガンドロフが斧を構えた。
「だが――」
一歩。
「甘えんだよ!」
「――っ!」
フュリーが踏み込む。
細剣を突き出した。
しかしガンドロフは真正面から斧を振り下ろす。
激突。
甲高い金属音。
そして――。
刀身が砕けた。
「なっ……!」
衝撃だけで身体が吹き飛ぶ。
地面を転がった。
「く……!」
それでも立つ。
右手を地面につき、身体を回転させる。
片膝。
そして立ち上がる。
「まだ……!」
「兄貴ー!」
別の声がした。
フュリーの表情が凍りつく。
先ほど捕らえた男だった。
「やっぱり助けてくれると思ってましたぜ!」
「……そんな」
木へ縛り付けた。
命までは奪わなかった。
戦えないようにして、それで充分だと思った。
ガンドロフが笑う。
「言ったろ。甘えんだよ」
「…………」
「命を助けりゃ恩に着る? そんな奴ばかりなら戦争なんざ起きねえよ」
「そうそう。俺、ぜーんぜん気にしてないぜ」
男まで笑った。
悔しい。
自分の判断が。
甘さが。
次々と裏目へ出ている。
フュリーは一歩後退した。
腰の小袋へ右手を伸ばす。
笛。
天馬だけが聞き取れる高音域の救難笛。
これさえ吹ければ――。
「何をするつもりだ?」
「!」
一瞬で距離を詰められた。
背後から腕を掴まれる。
「離して!」
「余計な真似はさせねえよ」
「くっ……!」
振り解けない。
力が違いすぎる。
「私はどうなってもいい!」
フュリーは叫んだ。
「エーディン様と天馬には手を出さないで!」
一瞬。
沈黙。
そして男たちは笑った。
「まだ立場が分かってねえらしいな」
ガンドロフの声から笑いが消える。
「お前に選ぶ権利なんざねえ」
フュリーの身体が強張った。
「二人とも連れて帰る。それだけだ」
「この……人でなし……!」
睨みつける。
「必ず……」
「あ?」
「必ずカルト様が……あなたたちを倒す!」
ガンドロフは鼻で笑った。
「威勢だけは一人前だな」
そしてフュリーを部下の方へ乱暴に押し出した。
「おっと!」
傷ついた身体では踏ん張れない。
男に捕まる。
「兄貴?」
「そいつは任せた」
ガンドロフは気絶したエーディンを担ぎ上げた。
「俺は女を連れて先に戻る。遊んでねえで、済んだらさっさと追ってこい」
その言葉の意味を理解した瞬間。
フュリーの背筋が凍った。
「……待って」
ガンドロフは振り返らない。
「待ちなさい!」
追おうとする。
だが男に腕を掴まれ、地面へ押し倒された。
「離して!」
「散々やってくれたよなあ」
「エーディン様!」
遠ざかっていく。
「エーディン様――!」
届かない。
フュリーは必死に身体を捻った。
胸当ての留め具が外れ、衣服が裂ける。
それでも構わない。
今は逃げなければならない。
生きなければならない。
エーディンを取り戻さなければならない。
(考えて!)
カルトならどうする。
こんな時。
武器がない。
左腕も動かない。
力でも負けている。
それでも――。
(諦めるな!)
フュリーは男の動きを見た。
重心。
足。
距離。
一瞬だけ拘束が緩む。
今。
「――っ!」
膝を跳ね上げた。
「ぐあっ!?」
男が身体を折る。
その手から刃物が閃いた。
フュリーの左腕に激痛が走った。
「っ……!」
刺された。
だが――。
それでも止まらない。
「この……!」
左腕を捻る。
相手の手首を巻き込み、刃物を奪う。
「離れなさい!」
奪った刃を男の太腿へ突き立てた。
「ぎゃああああっ!」
悲鳴。
フュリーは這うように距離を取った。
「はぁ……はぁ……」
立てない。
左腕から血が流れる。
背中も痛む。
呼吸するたび胸が苦しい。
それでも逃げようとした。
一歩。
もう一歩。
だが。
「この……女ぁ!」
足首を掴まれた。
「きゃっ!」
再び地面へ倒される。
男も傷を負っている。
それでも体格差は覆らない。
振り払えない。
服を掴まれる。
恐怖が身体を駆け抜けた。
「やめて……!」
初めて。
騎士としてではなく。
一人の少女として声が震えた。
「やめなさい……!」
抵抗する。
だが腕に力が入らない。
もう限界だった。
ここまで戦えたこと自体が奇跡だったのかもしれない。
(嫌……)
死ぬのが怖いのではない。
尊厳を踏みにじられることが怖かった。
自分の意思とは関係なく、何もかも奪われることが怖かった。
(カルト様……)
目を閉じる。
思い浮かんだのは、不思議と彼の顔だった。
何度失敗しても。
何度傷ついても。
絶望的な状況になっても。
あの人は立ち上がった。
『考えることをやめるな』
いつだったか聞いた言葉が蘇る。
『生きている限り、何かできる』
「…………」
フュリーは目を開けた。
まだだ。
まだ終わっていない。
身体が動かなくても。
武器を失っても。
何もかも奪われようとしても。
最後に一つだけ残っている。
自分の意思。
それだけは。
誰にも奪わせない。
(レヴィン王……)
もっと仕えたかった。
あの人が作るシレジアを見たかった。
(カルト様……)
もっと認めてもらいたかった。
いつかマーニャ姉様のような騎士になったと。
よくやったと。
そう言ってもらいたかった。
悔しい。
まだ何も成し遂げていない。
それなのに。
ここで終わるのか。
ふと――。
シレジアの街で見た人々を思い出した。
戦争に家族を奪われた者。
故郷を失った者。
奴隷として売られ、それでも生き延びた者。
自分より遥かに辛い目に遭いながら、それでも明日を生きようとしていた人々。
(……強いんだ)
ようやく分かった。
剣を振るえるから強いのではない。
魔法を使えるからでもない。
どれほど踏みにじられても、生きようとする者は強い。
自分は彼らを守る騎士になりたかった。
ならば――。
最後まで騎士でいよう。
フュリーは静かに息を吸った。
そして。
舌を噛み、自ら命を絶つ覚悟を決める。
(ごめんなさい……)
レヴィン。
マーニャ。
仲間たち。
そして――カルト。
(私は、ここまでみたいです)
涙が一筋だけ頬を伝った。
怖い。
死にたくない。
本当はもっと生きたい。
それでも。
(私の身体を傷つけることはできても――)
最後に。
フュリーの瞳に強い光が戻った。
(私の魂まで、貴様たちのものにはさせない!)
その意思だけは。
最後の最後まで――折れなかった。