後半、話が一気に進みます。
「おい、神崎。本当にそこまででいいのか?」
『GARAGE-R』の薄暗い奥、工具やオイルの匂いが濃密に立ち込める作業スペースに、麗美の荒い息遣いだけが静かに響いていた。
ブラウスの袖を捲り上げ、端正な額に大粒の汗を浮かべ、息を切らしながらも、麗美はスッとファイティングポーズを解いた。
その瞳の奥には、なおも龍二の技術を貪欲に喰らい尽くそうとする底知れない渇望が輝いている。
しかし、彼女は壁に掛けられた古びた時計を一瞥すると、ふっと小さく、理性のブレーキを踏み込むように息を吐き出した。
「ええ。今日のところは、ここまでにするわ。……これ以上やったら、明日間違いなく『筋肉痛』になるもの」
「あ?」
龍二は、突き出しかかった拳を止めて首を傾げた。
限界を超えたその先にしか真の強さは宿らない――それが龍二の、そして鬼塚の生きてきた世界の常識だったからだ。
しかし、麗美のIQ200の頭脳が弾き出した理由は、あまりにも現実的で、かつ冷徹なまでの「隠密性」に基づいていた。
「忘れたの、弾間さん。あの男の『野性の勘』を」
麗美はハンカチで丁寧に汗を拭いながら、呆れたような、けれどどこか愛おしそうな苦笑を口元に浮かべる。
「英吉は普段、信じられないほどお馬鹿で、鈍感で、ガサツで、空気の読めない男よ。でもね……そういう常識が通用しない代わりに、あいつの『生き物としてのセンサー』は異常なほどに鋭いの。あたしが明日、ほんの少しでも足を引きずったり、肩の可動域を不自然にかばうような動きをしてみなさい……一発で見抜かれるわよ?」
「あー……。確かに、あのクソ野郎、馬鹿な癖して、そういう変なところだけは野生のゴリラ並みだからな」
龍二は納得したように、ポリポリと頬を掻いた。
もし学校で、鬼塚が麗美の肉体の異変に気づけばどうなるか。
「麗美、お前その体どうしたんだ?」と顔を覗き込まれ、執拗に問い詰められるのは火を見るより明らかだ。
過去の悪夢があるからこそ、鬼塚は麗美の変化に対してだけは、病的なまでの過保護さを発揮する。
そして、その原因の糸を手繰り寄せられた先には、このGARAGE-Rがあり、親友の女に喧嘩を仕込んでいる弾間龍二の姿がある。
その先は……言うまでもないだろう……
「あいつにバレる可能性を少しでも避ける為」――。
それが、麗美が弾き出した絶対の鉄則だった。
どれだけ強さを欲していようとも、ここで無理を重ねて鬼塚に露見し、龍二との関係を断たれて特訓が中止になってしまっては元も子もない。
麗美は自身の肉体にかかった負荷、乳酸の蓄積度合い、筋繊維の疲労率を頭の中で精密にデジタル計算していた。
筋肉痛にならないギリギリのライン。
明日、吉祥学苑の校門をくぐる時、いつも通りの「お淑やかで完璧な神崎麗美」として、鬼塚の前に立てる限界の境界線。
そこでピタリと特訓を切り上げるその徹底した自己管理能力に、龍二は再び、寒気すら覚えるほどの凄みを感じていた。
「てめえ……本当に末恐ろしい中坊だな。強くなりてえっていうガッツの塊のくせに、頭の中はどこまでも冷静で冷え切ってやがる」
「最高の褒め言葉として受け取っておくわ。……それじゃあ、弾間さん。また明日、同じ時間に」
ベストを着て、ブレザーを羽織り、乱れた金髪を櫛で丁寧に整えると、そこにはもう戦闘者の影はなかった。
どこからどう見ても、一等品のお嬢様であり、鬼塚が「命に代えても守る」と誓った可憐な女子中学生の姿そのものだった。
「へっ、お気をつけて、お嬢様。……明日も、筋肉痛にならねえ程度にしごいてやるよ」
龍二は作業着のポケットに手を突っ込み、自動ドアの向こうへと去っていく麗美の背中を見送った。
ー
ー
ー
麗美の足音が完全に遠のき、ドアが閉まる静かな音が店内に響いた。
静寂を取り戻した作業場で、弾間龍二は大きく息を吐き出しながら、リフトに載せられた大型バイクのボルトをスパナで締め直していた。
「……にしても、とんでもねえじゃじゃ馬だな。英吉のヤツ、間違いなく脅しとか関係なく尻に敷かれてんだろうな」
居酒屋での自分達への相談の後、鬼塚の告白が成功したであろうことは、麗美の様子から百パーセント間違いなかった。
だからこそ、あの野生のゴリラ並みの勘を持つ相棒にバレないよう、筋肉痛をミリ単位で計算して帰っていった麗美の徹底ぶりに、龍二は改めて感心と恐怖を覚えると同時に、鬼塚が普段、麗美に弱く、頭が上がらないであろう光景にほくそ笑む。
そんな時だった。
カランカラン、と店の入り口のドアベルが、どこか小気味いい音を立てて鳴った。
「すんませーん、今日の作業はもう――」
龍二が背中を向けたまま、手元の工具を片付けようと声をかける。
しかし、返ってきたのは、よく知る甘くも鋭い「女の声」だった。
「お疲れ様、龍二くん。ずいぶん熱心に居残り作業してるじゃない?」
「――ッ!?」
龍二の背筋に、冷たい衝撃が走った。
振り返ると、そこには私服姿の恋人、長瀬渚が立っていた。
小首を傾げ、お気に入りのバッグを肩にかけた彼女は、いつものように穏やかで魅力的な笑みを浮かべている。
だが、その綺麗な瞳の奥が、何故か全く笑っていないことに龍二は直感的に気づいた。
「な、渚……!? なんでここに……。今日は友達と映画に行くって――」
「うん、その帰り。龍二くんが頑張って働いてるかなって思って、差し入れ持ってきてあげたの。ほら、缶コーヒー」
渚は手提げ袋から冷えた缶コーヒーを取り出し、トコトコと作業場の奥、龍二のすぐ目の前まで歩み寄ってくる。
龍二は慌てて作業着の袖で額の汗を拭ったが、渚の動きはそこでピタリと止まった。
スッ、と渚の鼻先が、龍二の胸元のあたりで小さく動く。
「……ねえ、龍二くん」
「お、おう、なんだよ」
「……オイルとガソリンの匂いに混ざって、何か別の匂いがするんだけど」
「え? いや、そりゃお前、色んな客が来るしよ……」
龍二の額から、麗美との特訓の時とは明らかに違う「冷や汗」が噴き出してきた。
湘南のどんなヤンキーに囲まれても揺らがなかった鬼爆の片割れが、今、完全に蛇に睨まれた蛙のようになっている。
渚はさらに一歩踏み込み、龍二の首元に顔を近づけて、クンクンと露骨に匂いを嗅いだ。
「違う。これ、バイクの匂いじゃない。……女の子の匂い」
「ブッ――!?」
龍二は思わず変な声をあげて飛び退いた。
「しかも、これ……随分とお上品で、すっごく高いシャンプーとか香水の匂いよね? 柑橘系の中に、ほんのり甘い花みたいな……。普通のバイク乗りの女の子がつけてるようなやつじゃないわ」
(嘘だろおい……! 神崎のヤツ、あんなに汗流して、最後にハンカチで拭いて、速攻で着替えて帰ったってのに、まだ匂いが残ってんのかよ!? 俺には全然わかんねえぞ!? 女の鼻ってのは警察犬か何かか!?)
麗美は鬼塚の勘を欺くために筋肉痛を完璧に回避したが、それに注視するあまり、龍二側の「女の勘」という致命的な伏兵を計算に入れていなかった。
いかにIQ200の天才少女とはいえ人間である。
まれに間違いはあるが、今回は龍二にとって最悪としか言えないミスだった。
「ちょっと、龍二くん? 目が泳いでるわよ。言い訳があるなら、今のうちに聞いてあげる。まさか、このGARAGE-Rの奥で、私に隠れて綺麗な女の子と『濃厚な作業』でもしてたわけじゃないわよね?」
口調は普段通りなものの、克服している筈の【夜叉】の気配を纏いつつ、渚は龍二に詰め寄る。
「ち、違う! 誤解だ渚! 濃厚な作業っつーか、作業は作業だけど、そんなんじゃねえ! 格闘っつーか、特訓っつーか……!」
「へえ? 女の子と、身体を密着させて、特訓、ねえ……?」
渚の目が、完全に絶対零度まで凍りつく。
【夜叉】の気配が更に濃密になる。
「――分かった! 分かったからその冷たい目で俺を見るな渚ァ!」
追い詰められた龍二は、ついに両手を上げて降参した。
「ふん。やっと白状する気になった? それで、そのシャンプーの匂いの主は誰なわけ?……浮気だったらただじゃおかn「……英吉だよ」 え? 英吉くん? 英吉くんがこんな女の子っぽい匂い出す訳ないじゃない?」
「当たり前だろ……匂いはわからねえが、あの馬鹿が女の匂い出してたら気持ち悪くて吐きそうだ……てか、そうじゃなくてよ……そ、その、あいつの彼女だ。ここに来てたのは」
「ふーん、英吉くんの彼女が来てたのね。 それなら浮気じゃないわね。 安心したわ。……ん? 英吉くんの彼女?……………はあああぁぁっ!?」
渚の口から、店内に響き渡るほどの驚愕の悲鳴が上がった。
「ちょっと待って龍二くん! 今なんて言った!? あ、あの、あの『一生童貞確定の生きる天然記念物』みたいな英吉くんに、彼女ができたの!?」
「おう……。俺だって未だに信じられねえよ。しかもだ……あいつが今年からセンコーしてる吉祥学苑で、あいつが担任してるクラスの中学三年生だ」
「ちゅ、中学三年生ぇっ!?」
渚は信じられないものを聞いたという風に自分の額を押さえた。
龍二は慌てて手を振り、ことの顛末を必死に説明し始めた。
あの居酒屋の飲み会で冴島と共に鬼塚から真剣に相談された夜のこと。
引いては今日、その麗美が一人で乗り込んできて、向こう見ずで自分のことを省みらず、実直に突き進む鬼塚の負担を少しでも減らすために強くなりたいと必死の目で掴みかかってきたこと。
一気にまくし立てた龍二の話を、渚は静かに聞いていた。
先ほどまでの険しさは消え失せ、その綺麗な瞳には、どこか遠くを見るような、優しい光が灯っていく。
「……そっか」
渚の口元に、ぽっと温かい笑みが浮かんだ。
「あの英吉くんが、そこまで女の子に想われてるんだ……。いいじゃない、龍二くん」
渚は棚から缶コーヒーを再び手に取ると、それを龍二の頬にパチンと押し当てた。
「例え歳の離れた、しかも先生と生徒でもさ。本人達がそこまで本気で、命を懸けるくらい愛し合ってるのなら、私は良いんじゃないかって思うな。そんなに素敵な女の子が、傷つくのを覚悟で英吉くんの隣に立とうとしてるの。元相棒の龍二くんなら、男のプライドだなんだって突っぱねるんじゃなくて、ちゃんと手助けしてあげなきゃダメじゃない」
「へっ……全くだな。お前には敵わねえわ」
「龍二くん、その女の子、名前は?」
「神崎だ、神崎麗美」
「神崎麗美ちゃんかー。 今度会ってみたいな」
二人の仲の良い笑い声が、GARAGE-Rの夜の静寂に溶けていく。
ー
ー
ー
それから数日後の夕暮れ時。
相変わらず完璧な計算のもと、筋肉痛の「き」の字も鬼塚に悟らせることなく一週間を切り抜けた麗美は、再び『GARAGE-R』の自動ドアをくぐっていた。
「ごめんください、弾間さん。今日のメニューの演算はもう済んで――」
いつものようにブレザーを端正に着こなし、お淑やかに挨拶をしながら入った麗美の言葉が、ピタリと止まる。
そこには、愛車の整備をする龍二のほかに、作業用のツナギをラフに着崩し、工具箱を片手に持った一人の美しい大人の女性――長瀬渚が立っていた。
「あら、いらっしゃい。やっと会えたわね。 あなたが神崎麗美ちゃんね?」
渚は工具を置くと、人懐っこい、けれどすべてを見透かすような極上の笑みを浮かべて麗美へと歩み寄ってきた。
「……ええ、初めまして。神崎麗美です。弾間さん、彼女は……?」
麗美が少しだけ警戒の色の混じった視線を龍二へ向けると、龍二はバツが悪そうにポリポリと頬を掻いた。
「いや、その……神崎、こいつ俺の恋人の渚。…… わりい。何とか誤魔化すつもりだったんだが……無理で、全部話しちまった。女の鼻ってのは恐ろしいもんでよ、お前のシャンプーの匂いで一発でバレた」
「……っ」
麗美の絶対零度の視線が龍二を射抜く。
あれほど秘密にと体調管理までしたのにという天才少女の無言の圧力に、元・鬼爆の喧嘩師が小さく身を縮める。
しかし、そんな二人の緊迫感を、渚の朗らかな笑い声が霧散させた。
「あはは! 龍二くんを苛めないであげて、麗美ちゃん。男の人って本当に単純だから、隠し事なんてできっこないのよ。それより聞いたわよ。恋人の英吉くんのために、ここで内緒で特訓してるんだって?」
渚は麗美の目の前まで来ると、その華奢な両肩にそっと手を置いた。
「驚いちゃった。あの英吉くんに、こんなに美人で可愛くて、命がけで自分を想ってくれる女の子ができるなんてね。さっきも龍二くんに言ってたんだけど、私は麗美ちゃんのその『覚悟』、すっごくカッコいいと思うな」
「渚さん……」
麗美は目を丸くした。
世間一般の常識であれば、教師と中学生の恋愛など、真っ先に否定されるか、眉をひそめられる不純異性交遊だ。
しかし、目の前の女性は、麗美の胸の奥にある「鬼塚に無理をさせず、死なせない」という狂おしいほどの純愛を、何一つ否定せず、むしろ心からの敬意を持って肯定してくれたのだ。
「……世間からは、きっと狂っていると言われるわ。でも、あたしはあいつのいない世界なんて、一秒だって生きていたくないの。あいつの重荷を減らせるなら、あたしは泥を啜る覚悟だってある」
麗美がふっと、地獄を見てきた者特有の、昏くも美しい確かな眼光を覗かせる。
普通の人なら気圧されるほどのその覇気を前に、渚は怯むどころか、その姿に自身を重ねたのか、さらに嬉そうに目を輝かせた。
「うん、最高! 私、そういうガッツのある女の子、大好きなの! 龍二くん、何突っ立ってんのよ。麗美ちゃんが英吉くんの隣でちゃんと生き残れるように、私たちの持ってる『喧嘩の極意』、全部叩き込んであげなさい!」
「おいおい渚、お前いつの間にかコーチ気取りかよ……」
呆れる龍二を他所に、渚は麗美の手をギュッと握り締めた。
「麗美ちゃん、男の人ってね、いざって時にすぐカッコつけて一人でボロボロになろうとする生き物なのよ。英吉くんなんてその最たるものでしょ? だから、私たちが裏から手綱を握って、いざって時は横から殴り込んで連れ戻してあげなきゃダメなの。これからの特訓の後は、私が特製のプロテインスムージーと、筋肉疲労を徹底的に除去するマッサージをしてあげる。龍二くんのクソ暑苦しい喧嘩術なんて、麗美ちゃんの頭脳ですぐコピーしちゃいなさい!」
「心強いわ、渚姉さん。ロジカルな筋肉のケアがあれば、英吉にバレる確率をさらにコンマ数パーセントまで引き下げられる。ぜひお願いするわ」
「オッケー、任せといて!」
気づけば、二人は完全に意気投合していた。
元・湘南の伝説を支えた最強の姉御肌と、未来を変えるためにタイムリープしてきた規格外の天才少女。
「不器用な男たちを裏から支配し、守り抜く」という共通の目的を持った二人の精神的相性は、まさに抜群だった。
「……なあ、これ、俺の居場所なくねえか?」
ポツンと取り残された龍二が、寂しそうに缶コーヒーをすする。
「何言ってるの龍二くん。 早く構えて! 麗美ちゃん、まずは龍二くんの得意な左ボディのいなし方からいきましょう!」
「ええ、よろしく頼むわ、弾間(元)コーチ」
夕暮れ時の『GARAGE-R』に、女子二人の賑やかで、けれどどこか頼もしすぎる笑い声が響き渡る。
ー
ー
ー
特訓が始まってから早数週間。
麗美の肉体には、見た目には変化はないが、その内面は龍二も目を見張るほどの劇的な変化が起きていた。
当初は、翌日に筋肉痛を出さないためのミリ単位の計算に基づき、ごく短時間で切り上げていた特訓。
しかし、渚による効率的な筋疲労除去のマッサージと、緻密な栄養管理、そして何より麗美自身の超人的な適応力によって、彼女の肉体は次第に激しい訓練の負荷に耐えられるよう、急速に『慣れて』いった。
「――よし、そこまでだ」
龍二がミットを引くと、麗美は激しく上下する肩を落ち着かせ、額の汗を拭った。
以前ならこの運動量で確実に翌日の筋肉痛が確定していたラインだが、今の麗美は不自然なこわばりを見せることなく、しなやかに立ち尽くしている。
「弾間さん……あたしの肉体の乳酸蓄積率、および筋繊維の修復速度は、当初の予測数値を大幅に上回っているわ。つまり――」
「ああ。てめえの身体が、格闘(ケンカ)の動きを完全に受け入れ始めてやがる」
龍二は力強く頷き、巻いていたバンテージをさらにきつく締め直した。
「今までは筋肉痛を警戒して、護身の延長線上にある基本のステップやいなし方しか教えられなかったが……身体が慣れてきたなら話は別だ。ここから先は、さらに高度なものを行っていく。死線を潜り抜けるための、本当の『鬼爆の喧嘩術』の核心を叩き込んでやるよ」
「望むところよ。英吉に無理をさせないためなら、どんな高度な技術だって、あたしの脳と身体に完璧にコピーして見せるわ」
渚が見守る中、リミッターを解除された麗美の動きはさらに鋭さを増していく。
フェイントの掛け方、相手の重心の奪い方、そして一撃で巨漢を沈めるための急所への的確な打撃――。
筋肉痛という枷を外された天才少女は、文字通りスポンジが水を吸うように、龍二の本物の戦い方を自らのものへと変えていった。
それから鬼塚に怪しまれないように、みやび達にも口裏を合わせてもらうなどの細心の注意を払い、幾度となく重ねられた『GARAGE-R』での極秘特訓。
麗美の驚異的な吸収速度と、師匠として適正に指南する龍二の指導力、渚による完璧な肉体のアフターケア、そして何よりも麗美の「今度こそ英吉をあんな姿にさせない」という執念の防衛策により、彼女の実力は本気を出した龍二相手でもある程度戦える程に成長していた。
三年四組の問題も、麗美は前の世界の知識と持ち前のIQ200の頭脳をフル回転させ、修学旅行を迎えるまでにみやびや朋子、吉川や杏子や菊地、そして村井達以外の、クラスの他の生徒たちが抱えていた問題をも裏からすべて、鮮やかに解決していった。
かつて学苑中を震撼させていた三年四組のあの陰湿な空気は、いまや完全に消え失せていた。
誰かが悩んでいれば誰かが手を差し伸べ、バカなことで笑い合える。
いまや三年四組は、学校中のクラスの中で誰もが羨むほどの「一番の仲良しクラス」へと変貌を遂げていたのだ。
「――おいおい、マジかよ」
放課後の職員室。
成績表や生徒の提出物の束を前に、体育教師の袋田が呆然と呟いた。
廊下からは、笑顔で連れ立って下校していく三年四組の生徒達の賑やかな声が響いてくる。
まさか、あの誰もが担任を拒否し、数々の教師を精神崩壊に追い込んできた最悪の問題児集団・三年四組が、ここまで真っ当に、最高のクラスに変わるなんて――。
初めは鬼塚のことを「元暴走族の危険分子」「教育委員会への冒涜」と激しく敵視し、忌み嫌っていた教師たちだった。
しかし、生徒たちの文字通り命を救い、心を開かせてみせた鬼塚の型破りな背中を数ヶ月にわたって見せつけられ、初めから彼を信用していた理事長と元から多少友好的だった冬月を除く、教師たちの誰もが認めざるを得なくなっていた。
「あいつのやり方はめちゃくちゃだが……生徒を見る目だけは、本物なのかしれんな」
「ええ。これは認めざるを得ませんね」
そんな同僚たちの言葉に、職員室の片隅でピキピキと青筋を立てて書類を握りつぶす男が一人。
「お、おのれ鬼塚ァアアア! 騙されんぞ! あんなゴリラのごとき男に、我が学苑の神聖な教壇に立つ資格などないわぁああかっ!!」
教頭の内山田ひろし。
彼だけは、麗美やみやびの変貌も四組の更生も信じようとせず、以前【鬼の英吉】と化した鬼塚にキレられ、失禁させられたことも完全に忘れ、相変わらず鬼塚を親の敵のように敵視し続けていた。
愛車のクレスタを毎度のように破壊される恐怖と、自分の立場を脅かす存在への憎悪は、どれだけクラスが平和になろうとも消えることはないのだった。
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ー
そして、季節はまたたく間に巡り――初夏の瑞々しい風が、ジリジリとした強い陽射しへと変わる頃。
吉祥学苑三年四組は、毎年恒例の三年生の一大イベントである『夏の修学旅行(臨海学校)』の季節を迎えていた。
「おーーーう! 野郎どもォ!! 待ちに待った海だ! 水着だ! ひと夏のグレートなアバンチュールだぜぇええ!!」
ホームルームの教壇で、アロハシャツをはだけさせながら鼻血が出そうな勢いで拳を突き上げる鬼塚英吉。
クラスの生徒たちが「おおおーっ!」と最高の笑顔で下品な歓声を上げる中、麗美は窓際の席から、その愛おしい恋人である男を、眩しそうに見つめていた。
キーンコーンカーンコーン――。
終礼のチャイムが鳴り響くと同時に、鬼塚が「よっしゃ解散! 水着忘れるんじゃねえぞ!」と言い残して職員室へと風のように去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、教室は一気に修学旅行の話題で爆発した。
「おい村井ー! 沖縄つったらやっぱりバナナボートだろ!」
「バカ言え草野。 ナンパだよナンパ! ビーチには全国からギャルが集まってんだからよぉ!」
男子たちが騒ぐ中、クラスの中心では微笑ましい光景が広がっていた。
「もう……あんたたち、海に行くからって浮かれすぎ。みみっちいわね」
呆れたようにため息をつく杏子に、菊地がクスクスと笑いながら話しかける。
「いいじゃないか上原さん。でも、一番浮かれてるのは鬼塚だけどな」
「そ、そうだよ杏子ちゃん。それに……ほら、吉川くんだって、すごく楽しみにしてるみたいだし!」
背後から顔を出した朋子が吉川の肩をぽんぽんと叩くと、吉川のぼるは少し照れくさそうに笑った。
「うん……僕、みんなとこうして旅行に行けるなんて、夢みたいだから。上原さんも、本当は楽しみでしょ?」
「なっ……! な、何言ってんのよ吉川! あ、あたしはべ、別に、ただの学校行事だから行くのよ! 勘違いしないでよねっ!」
吉川に真っ直ぐな目で見つめられ、杏子は一瞬で顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
その分かりやすすぎるツンデレぶりに、周りにいた村井たちも「お〜お〜、杏子ちゃん熱いねえ!」と囃し立て、さらに杏子が「うるさいわね村井!」と怒鳴り散らす。
教室は、温かい笑い声に包まれていた。
そんな賑やかな光景を少し離れた席から見つめながら、麗美の隣でみやびが優しく顔を覗き込んできた。
「どうしたの、麗美? 浮かない顔して」
「ううん、なんでもないわ、みやび。……ただ、今年の夏は、少しだけ熱くなりそうだと思ってね」
麗美がみやびに向けて、悪戯っぽく、けれど最高に美しい笑みを咲かせた、その時だった。
「あぁーー!!?……う、ううう……ひっく……。うわあああん!!」
突然、隣の席で朋子が机に突っ伏して大号泣を始めた。
あまりの激しい泣き声に、村井たちも杏子も他の生徒達もピタリと足を止めて振り返る。
「ちょっと朋子!? どうしたのよ、急に泣き出して!」
みやびが慌てて駆け寄ると、朋子は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、悲痛な叫び声をあげた。
「お、思い出したの!……あ、あたし……あたし、仕事の都合で行けないのぉおおお! 事務所のマネージャーさんに、その期間は大事なグラビアの撮影が入ったからって言われて……。みんなと……みんなと一緒に、沖縄行きたかったよぉー……」
「ええっ!? トロ子行けないの!?」
「マジかよ、四組全員で行けないのかよ……」
一瞬にして教室に同情の空気が広がる。
朋子はみやびの胸に顔を埋めて「みんなと行きたかった……」と激しく咽び泣いている。
そんな朋子の頭を優しく撫でながら、みやびが微笑んで声をかけた。
「元気出しなさい朋子。私、沖縄に行ったら、朋子のためにたっくさんお土産買ってくるから」
「そうね。あたしも、何かあんたにぴったりの美味しいものを探してきてあげるわ」
麗美も並んでそう優しく声をかけると、それまで絶望のどん底で泣き叫んでいた朋子の動きがピタリと止まった。
「お、おみやげ……? ちんすこう……? 麗美ちゃんとみやびちゃんがお土産……?」
朋子は涙をゴシゴシと拭うと、二人の言葉に一瞬で限界突破の喜びを迎えた。
パッ、と床に飛び降りたかと思うと、朋子はなんと両手両足を床につけ、まるで嬉しさを爆発させた従順な小犬のように四足歩行の体勢をとった。
「わーい! お土産! お土産ちんすこう! わんわんっ!」
そのまま朋子は、麗美とみやびが座る机の周りを、すさまじいスピードで「はっはっ」と息を荒げながら四足歩行でぐるぐると走り回り始めたのだ。
「ちょ、ちょっとトロ子!? 何やってんのよあんた、中学生にもなって四足歩行で走り回るんじゃないわよ!」
杏子が顔を真っ赤にしてツッコミを入れるが、当の朋子は完全に犬モードで「お土産! お土産!」と二人の足元を尻尾が見えるかのような勢いで回り続けている。
「……ふふ、本当に朋子は昔から面白い子ね」
「ええ……。まあ、元気になってくれたなら、それでいいんだけど……」
あまりにも突き抜けた朋子の奇行を前に、麗美とみやびは顔を見合わせ、引きつったような苦笑を浮かべるしかなかった。
麗美はその賑やかな騒ぎを眺めながら、そっと胸元で拳を握り直した。
朋子は仕事で残ることになったけれど、クラスの絆はこれ以上ないほどに深まっている。
麗美の脳裏に、かつての臨海学校の記憶がかすかに過る。
あの時も朋子が仕事で来れないのは同じだったが、敵対していたみやび達は不参加で、彼女達が沖縄に来ることはなかった……
だが、今回は朋子以外は皆欠けることなく参加出来る。
今度はあの時よりも更に楽しい沖縄旅になるだろう。
いまの彼女の手のひらには、龍二の店、GARAGE-Rで肉体を限界まで慣らし、叩き込まれた龍二直伝の高度な喧嘩術の感覚と、渚から授かった「男の転がし方」の自信が、確かに握り締められていた。
クラスはひとつになった。
教師たちも大半が鬼塚を認めた。
守られるだけの少女の時代は、もう終わった。
これからどんなトラブルが待ち受けていようとも、IQ200の頭脳と、裏で磨き続ける最高の喧嘩術、そして何よりも一途な純愛があれば、すべての障害を文字通り粉砕できる。
鬼塚英吉を真の幸福へと導くための、麗美の「中学三年の夏」が、今、青い波音と共に再び幕を開けようとしていた。