ソードアート・オンラインを舞台にする必要があるのかと問われると非常に苦しいのですが、一人でも多くの方に「トロッコ」を楽しんでいただけたらと思っています。
よろしければ、ご一読ください。
木々を揺する風の音が、辺りに響き渡る。
寒々しいその風は、ほんの僅かに六花を含んで、冷たく吹きつけていく。
堪らずに小さくくしゃみをしたユウキに、隣から彼女を心配する声がかけられた。
「平気だよ、姉ちゃん。ほら、誰かがボクのことを噂しているだけかもしれないし」
悪戯っぽく歯を見せて微笑む双子の妹に、姉は何かを言おうと口を開きかけたが、結局何も口にせず、代わりにユウキの手を取った。
しっかりと握りしめられた両手に感じる温もりに目を細めたユウキは、ただ一言、ありがとうと呟いた。
騒々しかった風も、このときばかりは穏やかだった。
ややあって、二人はどちらかともなく手を放し、再び難敵に向き直る。
今から一世紀以上も昔の日本で運用されていた木製の貨車、人力で走らせることのできる手押し車である。
トロッコ──と呼ばれるその直方体の大箱を、姉妹は二人きりでやや錆の見える線路の上を押して歩いていた。
歯を食いしばり、身を切る横風に髪を靡かせ、ただひたすらに、トロッコを推し続けた。
ときに野原を、ときに森林を、ときに海辺を、ときに洞窟を──アルヴヘイムの大地を一周しているのではないかと思わせるくらいに長く続く線路を、愚痴の一つも零さず、二人は黙々とトロッコに手を置いて、押し続けてきた。
やや上りの多くなる高原地域は、抜けるのに随分と時間がかかった。
その分、上りきったあとに、トロッコへと飛び乗り、慣性に任せて線路を走る間は、二人にとって至福のときであった。
あぁ、またあのジェットコースターのようにトロッコで風を切る瞬間が来ないだろうかと、ユウキは形の良い眉をハの字に曲げながら、トロッコの向こうを見ようと頭を上げる。
木々の間を縫うようにして進む線路の先は、どこまでも平地が続ているようだった。
ねぇ、と隣で同じように手を押し当てているランが、ユウキに声をかける。
上りと下りのどちらが良いか、と問いかけてきた姉に、磨き上げてきた反応速度をもって、当然! 下りだよ! と元気に妹が答えた。
その受け答えの勢いにくすくすと笑ったランは、意見が割れたねと囁いた。
「姉ちゃん、上りの方がいいの? 何で?」
それはほら、いつまでもユウキと一緒に肩を並べて歩けるから、とはにかみながら言う最愛の姉の姿を、ユウキは反則的に可愛いと思った。
双子とはいえ、そもそもの性格からして違うのだから仕方ないと思っていても、それでもやはり姉の立ち居振る舞いに憧れることは、ユウキにとって日常の一つになりつつあった。
ようやく抜けた木々の道の先は小高い丘になり、緩やかに下っていく線路の両側には何か実をつけた背の低い果樹が立ち並んでいた。
乗って、という姉の声に遅れることなく身を翻したユウキは、鮮やかな弧を描いてトロッコへと飛び乗った。
同じように飛び込んできたランを、ユウキは両腕でしっかりと抱き留める。
そのまま重なるようにして、箱の中に倒れ込んだ姉妹。
二人分の重さが、トロッコの速度を少しずつ上げていく。
果樹の間を走り抜けると、トロッコの中は何とも甘美な香りでいっぱいになった。
「今は、どう?」
妹の質問に姉は舌を少し出して、やっぱり下りの方がいい、と口にした。
理由は聞かないの、と目で問いかけてくる姉を抱き起して、ユウキはランの胸に頭を預けた。
理由なんて聞かなくてもわかる、と言いたげな妹の顔を、姉は優しく撫でた。
独特の風を切る音を響かせて、トロッコが往く。
行きに上りが多ければ、帰りは下りが多い、その分だけトロッコに乗れる────風の音を聞きながら、ユウキはそんなことを考えていた。
「ボク、どこに帰るのだろう」
小さく唱えたその言葉が姉に届いたかどうか、ユウキにはわからなかった。
軽快に進んでいたトロッコも、赤茶けた砂地のあるところまで来ると、ゆっくりとその速度を落とし、やがて完全に止まった。
二人はこれまでと同じように、重いトロッコを押し始めた。
サラマンダー領一帯に広がる砂漠ではないにしろ、延々と続く砂の道は、ところどころ線路すら覆ってしまっていた。
休みやすみ、重い足取りで押し続け、やがて砂地を抜けた二人の目の前には鈍色の空がそのまま落下したような薄ら寒い海が広がった。
もうどこまで来たのだろう、という思いが、ふとユウキの胸をつく。
二人は再びトロッコへと乗った。
木製の貨車は海を左手に、やや荒々しい大地を真っ直ぐに進んでいった。
いつからか焦燥感にも似た何かがユウキの心を包み、待ち侘びていたジェットコースターのような時間を、もう以前のような気持ちで楽しむことは、彼女にはできなかった。
しばらく進んだトロッコは、ポプラ並木の中にひっそりと佇む白いタイル張りの壁を持つ民家らしき前で止まった。
青銅製らしい門は観音開きに開け放たれていて、トロッコを降りたランは静かにその家の中に入っていく。
ゆっくりとトロッコから降りたユウキは、家の奥でランが誰かと会話を交わしているのを遠くから眺めていた。
暗く、誰と喋っているのかまでは、ユウキにはわからなかった。
どこか懐かしい雰囲気のあるこの場所に、つい最近訪れたような気もしたが、それを思い出せずうんうんと唸っていたユウキに、家の奥から手が振られた。
影に紛れ、その全身を確かめるのも危ういというのに、そのときはっきりと、ランの話し相手の振る手が、ユウキには見えた。
か細く白い手。
その手にも見覚えがあり、答えようと手を伸ばしかけるも、急な頭痛に、ユウキはその手を頭へと置く。
家の中からユウキのことを気にかけてランは、躊躇いがちに会話を打ち切って、そのままユウキのもとへと駆けていった。
止まぬ鈍痛に顔を顰める妹を、姉がふんわりと抱きしめた。
やめて、という短い悲鳴を上げるも、その言葉の鋭い痛みを自身も感じ、ユウキはその体をランへと預ける。
何も言わず、幼い子をあやすように、ランは妹の背を何度か軽く叩いた。
ようやく鈍色の空から差し始めた陽はすでに傾き、いつ消えてもおかしくないような西日の光だった。
────ユウキ、知ってる? このくらいの、陽が沈んで僅かの時間のこと。
誰かの声が、ユウキに聞こえた。
────≪黄昏時≫っていって、昔の人が誰だか顔がわからなくなる時間帯のことなんだって。でもね、わたしはもう一つの呼び方の方が好き。
ランによって幾分和らいだ頭痛が再びひどくなるのもをお構いなしに、その声の主の名前を、ユウキは必至で探す。
それはね、それは、すごく幻想的な写真の撮れてしまう時間。いつかユウキと一緒に写りたいって思える、そんな金色の時間。それはね────。
「────≪マジックアワー≫」
呟いたユウキは、一筋の涙を零した。
「うん、覚えてるよ、家を見たいっていうボクの我儘に付き合ってくれて…………家に向かう途中の電車を待っている駅の中で────アスナが、ボクに教えてくれたんだ」
ユウキはゆっくりとその場に立ち上がる。
静かに振り解かれた両手を俯きがちにしばらく眺めていたランは、一度目を閉じ、それから顔を上げて、ユウキに笑顔を見せた。
ユウキは帰りなさい、私も今日はここに泊まるから、と言葉を紡ぎ、ランはユウキの頬を撫でる。
愛おしそうに触れたランの右手に、ユウキも自身の左手を重ねる。
あんまり遅く帰っても、ユウキの友達も心配するでしょうから、と続けて、ランは再びユウキを抱きしめた。
されるがままに、ユウキもランの背中へと両腕を回す。
たった一人で帰らなければならない、という泣き出しそうな気持ちを握り締めて、妹は姉との抱擁を追える。
名残惜しそうな姉に向かって笑顔を見せ、ユウキはトロッコを押して来た線路を辿るように走り始めた。
彼女の耳には、トロッコを押していたときの風切音とは違う、自分の息遣いや心臓の音が、何倍にも大きく聞こえてきた。
流した涙で視界が滲んだせりだろうか、見覚えのある景色がちらつき始める。
やがて、彼女の記憶に焼きついたいくつもの景色が、アルヴヘイムの世界に重なり始めた。
校庭で友達と元気よく遊びまわる姿が川のせせらぎに映った。
今よりも幼い小学生の頃のユウキだ。
ヴァーチャル・ホスピス≪セリーン・ガーデン≫でトランプに興じた思い出が砂地に映った。
やんちゃを姉に窘められている妹は周囲の笑いを誘った。
月明かりに照らされた窓辺で一心に祈る家族が剥き出しになった崖に映った。
もう帰ることのできない、あの家。
≪インセクサイト≫で大きなイモムシを見て笑い転げる二足歩行のアリの姿が大きな岩に映った。
そのあとイモムシに吐きかけられた糸に身動きが取れなくなったアリのことを、周りにいた様々な昆虫が指を指して笑った。
剣を手に、空を舞う妖精の姿が大木に映った。
朗らかに笑う彼女は、アルヴヘイム中を惹きつける存在だった。
少し緊張気味な声色の朗読が聞こえる教室が線路の隙間に映った。
通うことのできないと思っていた、学校。
消えては映る記憶の残滓の全てを受け止めるような心地で、ユウキは翅を広げた。
蝙蝠を思わせるその特徴的な翅は、高くユウキの身体を持ち上げ、そのまま走っていたときの何倍もの速度を保ち、ユウキの意に従って飛び急ぐ。
やがて、柔らかな橙金の色彩が、彼女と彼女の世界を包んだ。
「────お待たせ、姉ちゃん」
晴れやかな笑顔で、双子の姉妹は、トロッコを押す。
一筋伸びる、線路の終わりまで。