第一章 野営の匂いは国境を越える
その日の夕暮れ、ムコーダは街道から少し外れた林の開けた場所で、いつものように野営の準備をしていた。
「よし、今日はオークジェネラルの肉があるし、がっつり生姜焼きといくか」
ネットスーパーで買った生姜、醤油、みりん、酒、そして玉ねぎ。分厚くスライスしたオークジェネラルの肉に生姜をおろし入れたタレを揉み込み、熱したフライパンに滑らせた瞬間、ジュワアアッという音とともに甘辛い香りが爆発的に広がった。
「うむ、これだこれ。この匂いだけで白米三杯はいける」
涎をだらだら垂らしながら鍋の前に鎮座しているのは、伝説の魔獣フェンリルのフェルである。
「おい、まだか。我はもう待ちくたびれたぞ」
「まだ焼いてる途中だっての。ほら、お前の分は別に山盛りで焼くから、ちょっと待て」
「あるじー、スイもお肉食べるー!」
足元でぽよんぽよんと跳ねるスライムのスイが、触手のような体の一部をぴこぴこと動かす。肩の上では、ピクシードラゴンのドラちゃんが、鼻をひくひくさせていた。
「なあ、ムコーダ、今日の生姜焼き、いつもより匂いが濃くねえか? 俺様、もう腹ぺこで死にそうなんだけど」
「気のせいだろ。いつもと同じだよ。……ん?」
その時、フェルの耳がぴくりと動いた。ドラちゃんの小さな羽も、緊張したようにぴんと張る。スイは体をきゅっと縮めて、ムコーダの足の後ろに隠れた。
「ムコーダ、来るぞ。複数だ。……だが、妙な気配だな。人間のようで、人間ではないものも混じっておる」
「え? 魔物か? こんな夜に勘弁してくれよ……」
ムコーダが菜箸を握りしめて振り返ったとき、林の奥からガサガサと草を分ける音が響いた。そして現れたのは、鎧に身を包んだ一人の少年と、その仲間たちだった。
「いい匂いがすると思ったら、やっぱりここだった! なあ、みんな、あっちで誰かが飯を作ってるぞ!」
先頭に立つのは、竜をかたどった意匠の鎧に身を包んだ少年、アデューだった。その後ろから、可憐な少女のパッフィーが顔をのぞかせ、さらに黒装束のサルトビと、しなやかな身のこなしのイズミが、無言のまま周囲に目を走らせている。
「……待て、アデュー。あの獣、ただの犬ではない。気配が桁違いだ」
サルトビが低い声で言った。その手は、すでに腰の得物にかかっている。
「フェンリル……という種に近いかもしれません。ここまでの威圧感は、私も初めて見ます」
イズミが静かに続ける。パッフィーはぎゅっとアデューの袖を握りしめた。
一方のフェルも、金色の目をすうっと細めた。
「ほう、見慣れぬ者たちだ。ムコーダ、下がっておれ」
「ちょっ、待て待て待て! いきなり臨戦態勢にならないでくれよ! あー、あの、すみません、俺たちはただの通りすがりの冒険者で、飯を作ってただけで!」
「ご主人様に手を出すのなら、スイが相手になるよ!」
スイがぷるぷると震えながらも、ムコーダの前に立ちはだかる。ドラちゃんも、ムコーダの肩から飛び上がって威嚇するように羽を広げた。
「ま、待て、待て、待て! お前ら全員、落ち着けって!」
にらみ合いが続くこと数秒。ムコーダの背中を冷たい汗が伝った。
その時だった。
ぐううううううぅぅぅ……。
盛大な腹の虫の音が、緊迫した空気を切り裂いた。
「……あ」
音の主は、アデューだった。彼は顔を真っ赤にして、お腹を押さえた。
「ご、ごめん! だって、その、すごくいい匂いがするから……! 朝から何も食べてなくて……!」
パッフィーが思わず吹き出し、サルトビとイズミは額に手を当てて天を仰いだ。
「アデュー、お前というやつは……」
「だって本当に腹ペコなんだってば!」
ムコーダは、数秒間固まったあと、深いため息をついた。
「……はあ。わかりました。追加で焼くので、よかったら皆さんもどうぞ」
「えっ、いいの!?」
「どうせ作りすぎるくらいでちょうどいいんで。ただし、うちの連中には手を出さないでくださいよ。フェルが本気を出したら、洒落にならないんで」
「我は別に本気など出さぬ。飯が不味くならんようにしてほしいだけだ」
こうして、竜の騎士と伝説の魔獣という、世にも奇妙な顔ぶれが、焚き火を囲むことになったのである。
第二章 生姜焼きの衝撃
ムコーダは、手早くオークジェネラルの肉をさらに追加でスライスし、タレに漬け込んだ。ネットスーパーから取り寄せたキャベツを千切りにして皿に盛り、その横に炊き立ての白米を添える。
「はい、お待たせしました。オークジェネラルの生姜焼き定食です」
湯気を立てる皿が、アデューたちの前に並べられた。
「うわあ……これ、お肉なの? すごくつやつやしてる……」
パッフィーが目を丸くする。アデューはもう我慢できないといった様子で、箸を使うのももどかしく、フォークで肉を突き刺して口に放り込んだ。
「……っ!」
アデューの動きが止まった。
「ど、どうしたの、アデュー?」
「……うまい」
「え?」
「うまいうまいうまい! なんだこれ! 甘くて辛くて、しょっぱくて、でも肉がとろけて……! ご飯が! ご飯が止まらないんだけど!」
「あ、あたしも食べる!」
パッフィーが続いて一口食べ、目をぎゅっとつぶって両手で頬を押さえた。
「んんーっ! おいしい! なにこれ、世界一おいしいかも!」
サルトビとイズミも、最初こそ警戒を解かずに匂いを確かめていたが、アデューとパッフィーの様子を見て、そろって一口ずつ口に運んだ。
「…………」
「…………」
二人とも、箸が止まっていた。
「……毒の類いではなさそうだ」
「そうですね。……ですが、これは」
「おかわり」
「おかわりをお願いします」
「早っ!」
ムコーダは思わず叫んだ。
「いや、まだ一口しか食べてないでしょう!」
「あ、ありがとう。すまない、取り乱した」
サルトビがこほんと咳払いをしたが、その皿はすでに空になっていた。
「おかわり!」
「あたしもおかわり!」
「俺も! もう一杯!」
「はいはい、順番に焼くから待ってくれ! フェル、お前もおかわりか!?」
「当然だ。我の分も追加で焼け。山盛りでな」
「スイもー!」
「俺様もだ!」
「ああもう、全員分焼くとなると何枚いるんだ……!」
ムコーダはフライパンを二つ同時に振るいながら、ひたすら肉を焼き続けた。ネットスーパーを何度も開き、肉用の調味料や付け合わせの野菜を追加で取り寄せる。気づけば、一時間近くが過ぎていた。
「ふう……ようやく全員の腹が満たされたか」
焚き火の周りには、満腹で動けなくなったアデューたちが、ごろんと寝転がっていた。
「はあ……こんなにおいしいご飯、生まれて初めて食べたよ」
アデューが空を見上げながらつぶやく。
「あたしも。ねえ、ムコーダさん、こんなに素敵な料理、どこで覚えたの?」
「いや、まあ、その……地元の味というか。俺の故郷の家庭料理みたいなものなんで」
「家庭料理でこのレベル……おそるべしだ」
イズミが感嘆の声を漏らした。
満腹になって警戒を解いたパッフィーが、フェルのふかふかの毛並みを興味津々で眺めている。
「ねえ、触ってもいい?」
「……我は愛玩動物ではないのだが」
「お願い! ちょっとだけ!」
「…………少しだけだぞ」
「やったあ!」
パッフィーに頭を撫でられて、フェルは渋い顔をしながらも尻尾をわずかに揺らしていた。それを見たドラちゃんが、ムコーダの耳元でひそひそと笑う。
「おいムコーダ、フェルの奴、まんざらでもなさそうだぜ」
「聞こえておるぞ、小僧」
第三章 グラチェスの依頼
翌朝、アデューたちはムコーダたちに礼を言って旅立つかと思いきや、思わぬ客人を連れて戻ってきた。
「ムコーダさん! 紹介したい人がいるんだ!」
アデューが連れてきたのは、落ち着いた佇まいの壮年の男性だった。グラチェスである。後ろには、僧侶のような穏やかな雰囲気の月心と、陽気でおしゃべりそうなヒッテル、そして小柄ですばしっこそうなカッツェが続いていた。
「話はアデューたちから聞いた。昨夜は大変世話になったそうで、感謝する」
「いえいえ、とんでもない。ただの野営飯ですから」
「その野営飯のことで、折り入って頼みがあるのだ」
グラチェスは姿勢を正した。
「今度、パプリシア王国で、世界を救った英雄アデューを称える式典が執り行われることになった。王国の威信をかけた大宴会だ。だが、宴の料理について、我々は頭を悩ませている」
「はあ」
「王室の料理人たちの腕は確かだ。だが、アデューたちが昨夜から語って聞かせる『あの料理』の話を聞くたび、みなの顔色が変わってしまってな。『あの味を超えるものでなければ、アデューにふさわしくない』と……」
「いやいや、そんな大げさな! 俺はただの冒険者ですよ!?」
「ムコーダ殿。どうか、式典の料理を頼めないだろうか」
月心が静かに頭を下げた。
「アデュー殿とパッフィー殿の、これからの門出を祝う宴でもあるのです。ぜひ、あなたの料理で祝福を」
「そうそう! 俺も昨日のあの飯をもう一回食いたいんだよ! 頼むぜ、な?」
ヒッテルがムコーダの肩をばんばんと叩く。
「……! ……あの、これ、さっきから気になってたんだが、いい匂いが残ってるな」
カッツェが鼻をくんくんさせながら、野営の鍋に近づいていく。ムコーダは苦笑して、余っていた生姜焼きを小皿によそってカッツェに差し出した。
「よかったら、どうぞ」
「いいのか!? ……んっ! うまっ!!」
カッツェの目がまん丸になった。
「うわあ、なにこれ、なにこれ! 月心、ヒッテル、お前らも食ってみろって!」
月心とヒッテルも一口ずつ食べ、たちまち表情を変える。
「ほう……これは」
「うおおお、マジでうまいじゃねえか! こんなもん、王宮でも食ったことねえぞ!」
「…………お、俺は骨抜きになりました」
月心がしみじみと言った。ムコーダは、ぽりぽりと頭をかいた。
「えーっと、フェル、どう思う?」
「うむ、受けてよいのではないか? 王室の宴ともなれば、珍しい肉や食材も出るだろう。我にとっても悪い話ではない」
「あるじー、お料理いっぱい作れるの? スイもお手伝いする!」
「俺様も賛成だぜ! 美味いもんがたらふく食えるなら、断る理由がねえ!」
「……はあ、わかりました。やらせてもらいます」
「ありがたい!」
グラチェスが力強く手を握った。
「それでは、パプリシア王国で待っている」
こうして、ムコーダは、世界を救った英雄の祝宴の料理を任されることになったのである。
第四章 ネットスーパーに新コーナー!
その夜、アデューたちと別れて野営地に戻ったムコーダは、いつものようにネットスーパーのスキルを開いた。
「さて、王室の宴ともなれば、ネットスーパーで買えるものも総動員しないとな……ん?」
ムコーダの目が、画面の端に表示された見慣れない項目に釘付けになった。
「……え? えええええ!?」
「どうしたのだ、ムコーダ。いきなり大声を出すな」
「いや、だって、これ見ろよ! ネットスーパーに新しいコーナーが!」
画面には、これまで見たことのない店名が並んでいた。
成城石井。カルディコーヒーファーム。角上魚類。OK。クランド。そしてシャトレーゼ。
「成城石井!? カルディ!? 角上魚類まで!? しかもOKに、クランドに、シャトレーゼだって!?」
「ふむ、それは美味いのか?」
「美味いなんてもんじゃないぞ! 成城石井は輸入食品とか、美味しい惣菜やドレッシングが充実してるし、カルディは世界各国の珍しい食材がずらりだ。角上魚類は新鮮な魚介が揃うし、OKは野菜とかの食材が安くて良質、クランドは日本各地のお酒、そしてシャトレーゼは……スイーツの宝庫だ!」
「ほう! その『すいーつ』とやらも、あるじの故郷の菓子か?」
「あるじー、甘いものだー!?」
「おお、ムコーダ! 何か買え! いますぐ何か買え!」
目を輝かせるフェルたちに急かされて、ムコーダはシャトレーゼの画面を開いた。
「取り敢えず、シャトレーゼからなにか試してみるか。ええと……あ、これ、バターどら焼きがある」
ぽちっ。
しばらくして、画面から現れたのは、ふっくらとしたどら焼きの袋だった。袋を開けると、バターの香りがふわりと立ちのぼる。
「ほら、これがどら焼きだ。中に粒あんと、バターが入ってるんだ」
「ほう……」
フェルが鼻先を近づけた。ムコーダは、人数分に切り分けて、みんなに配る。
「いただきます……んっ!」
最初に一口食べたムコーダが、目を見開いた。
「うわあ、うま! 生地がふわふわで、バターのコクと、あんこの甘さが絶妙に合う!」
「む……これは……!」
フェルの口元が、ぴくぴくと震えた。
「甘い。そして柔らかい。バターの香りが鼻に抜ける……ぬおお、なんだこれは!」
「あるじー、おいしい! ふわふわー!」
「うめえ! うめえぞ! もう一個食わせろ!」
「お前ら、ちょっと待て! 一人一個までだ!」
「ならば我は三個食うぞ!」
「話が通じてない!」
ひとしきり騒いだ後、ムコーダは真剣な顔でネットスーパーの画面を見つめた。
「……よし、決めた。式典のメニューは、このコーナーを全部使って、とっておきのフルコースを作ろう」
「おお!」
「アデューとパッフィーに、とびきりの料理を食べさせてやろうじゃないか」
第五章 パプリシア王国、豪華絢爛の厨房
数日後、ムコーダ一行は、パプリシア王国の王宮に到着した。
「うわあ……」
ムコーダは、その壮麗な建物を前に、思わず口を開けた。
「でかいな……俺、場違いじゃないか?」
「臆することはない。堂々としておれ」
「お前は気楽でいいよな、フェル……」
出迎えたのは、グラチェスと、満面の笑みのアデュー、そしてパッフィーだった。
「ムコーダさん! 待ってたよ!」
「ようこそ、ムコーダさん。今日は私たちのために、ありがとう」
パッフィーが優雅に一礼する。ムコーダも慌てて頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそお招きいただいて……」
案内された厨房は、ムコーダが想像していた以上に広かった。大理石の調理台がずらりと並び、銅の鍋が壁一面に吊るされている。そして、その厨房には、白いコック帽をかぶった王室の料理人たちが、鋭い視線でムコーダたちを睨んでいた。
「……あの、グラチェスさん、なんかものすごく敵意を感じるんですが」
「うむ、彼らは自分たちの腕に誇りを持っている。部外者が厨房を使うことに、思うところがあるのだろう」
「あー、やっぱり……」
その中でも、ひときわ背の高い、口ひげを蓄えた料理長が一歩前に出た。
「貴様が、噂の冒険者か」
「え、えっと、ムコーダと申します。今日は厨房を貸していただいて……」
「ふん、冒険者ごときに、王室の宴の料理が務まるものか。我ら王室料理人一同、心して見守らせてもらうぞ」
「は、はい、お手柔らかに……」
「ご主人様、あの人たち、ちょっと怖いよ?」
「心配するな、スイ。美味しい料理で黙らせてやるさ」
ムコーダは気合を入れ直し、腕まくりをした。
第六章 前菜と乾杯 ―― ちわわいんと生ハムの一皿
宴の会場である大広間には、貴族や騎士、そして世界を救った英雄を一目見ようと集まった人々が、ずらりと席についていた。
その中央に座るのは、礼装に身を包んだアデューとパッフィー。サルトビとイズミ、月心、ヒッテル、カッツェも、それぞれ華やかな装いで並んでいる。
「それでは、まず乾杯のお酒から」
ムコーダが、台車を押して現れた。台車の上には、愛らしいラベルの赤ワインのボトルが並んでいる。
「こちら、山梨という土地で造られた、『ちわわいん』という赤ワインです」
「ちわわ……いん?」
会場がざわめいた。ムコーダはボトルを持ち上げて、ラベルを皆に見せる。
「ほら、このラベルに、ワイングラスの中にすっぽり収まった小さな犬が描かれているでしょう? チワワという種類の犬です」
「まあ、かわいい!」
パッフィーが思わず声を上げた。
「このワインは、マスカット・ベーリーAという葡萄を使っているそうでして、イチゴのような甘酸っぱい香りと、軽やかな口当たりが特徴です。渋みが少なくて飲みやすいので、お酒に慣れていない方でも楽しめると思います」
ムコーダは、よく冷やしておいたボトルを開け、グラスに注いでいった。透き通るような淡いルビー色が、グラスの中で揺れる。
「では、アデューさん、パッフィーさん、これからの二人の門出を祝して……乾杯」
「乾杯!」
アデューとパッフィーが、グラスを軽く触れ合わせた。ほかのみんなも、それに続く。
「…………!」
一口飲んだアデューの目が、ぱあっと輝いた。
「なんだこれ! 甘酸っぱくて、でもすっきりしてて、飲みやすい!」
「ほんとう、イチゴみたいな香りがするわ! ふんわりして、心まで軽くなるみたい……!」
「渋みが少ないから、料理の邪魔をしないんですよ。しかも、軽く冷やして飲むのが一番美味しいそうで」
「ほう、これは確かに美味い。まるで、チワワに見つめられて叱るに叱れなくなる、あの感覚だな」
グラチェスが感心したように頷く。広間のあちこちから、「かわいいのに美味しい」「ずっと飲んでいられる」といった声が上がった。
「次に、前菜をお持ちしました」
ムコーダの合図とともに、スイが、ぽよんぽよんと皿を運んでくる。
「カルディから取り寄せた、生ハムとランプフィッシュキャビアとクリームチーズの、ライムリーフドレッシング和えです」
白い皿の上に、薄紅色の生ハムが花のように盛り付けられ、その上に、艶やかな黒い粒がきらきらと輝いていた。クリームチーズの白と、ライムリーフの爽やかな緑が、彩りを添えている。
「この黒い粒、キャビアですか!?」
「ランプフィッシュキャビア、といいます。ちょっと庶民的なキャビアですが、塩気が程よくて、生ハムとクリームチーズとの相性が抜群なんです」
パッフィーがフォークを入れ、生ハムとクリームチーズ、そしてキャビアを一緒に口に運んだ。
「…………んんっ!」
彼女の瞳が、きらりと光る。
「生ハムの塩気と、クリームチーズのまろやかさ、キャビアのぷちぷち感……そこに、ライムリーフのほのかな香りが、さわやかに抜けていくの!」
「ああ、このドレッシングが秘訣なんだな。爽やかなのに、深みがあって」
アデューも夢中になって食べ進める。
「ワインとの相性も最高だよ! ちわわいんの酸味が、チーズのコクをきれいに流してくれるんだ!」
会場の貴族たちも、あちこちで感嘆の声を漏らしていた。
厨房の入り口で様子をうかがっていた王室料理長が、ぎりっと歯を食いしばる。
「……く、確かに美味い。だが、これはまだ序の口に過ぎぬ。後に続く料理がこの程度であれば……」
「次の料理をお持ちしました!」
その言葉が終わる前に、ムコーダの声が響いた。
第七章 マーラータンの嵐 ―― 激辛に倒れるパッフィーとカッツェ
「続いてのお料理は、OKと角上魚類から取り寄せた、加賀野菜の海鮮マーラータン、刀削麺入りです」
大きな器に、赤く染まったスープがなみなみと注がれている。その中には、海老、帆立、イカ、白身魚といった海の幸と、金時草、加賀れんこん、太きゅうり、五郎島金時といった加賀野菜が、ぎっしりと詰まっていた。そして、その下には、幅広の刀削麺がとぐろを巻いている。
「見た目は真っ赤だけど、ものすごくいい香りだな!」
「ピリッとしびれる山椒と、旨味たっぷりの海鮮出汁が決め手です。ただ、ちょっと辛めに仕上げているので、辛いのが苦手な方は少しずつ召し上がってくださいね」
「大丈夫! 辛いの、俺平気だから!」
アデューが、勢いよく麺をすすった。
「…………ッ!」
アデューの顔が、一気に紅潮した。
「か、辛い! でも……うまい! これ、癖になる!」
「ほう、これは奥深い」
サルトビも、静かに麺を口に運び、目を細めた。
「しびれる辛さの奥に、海鮮の甘みと野菜の旨みがある。これは見事だ」
「お見事です。この、もちもちとした麺も、スープをよく絡めて」
イズミも感心したように頷く。
一方、パッフィーは、おそるおそるスープを一口すくって口に含んだ。
「……ッ!?」
パッフィーの顔が、みるみる真っ赤になった。目に涙が浮かび、両手で口を押さえてぶんぶんと首を振る。
「か、からいっ! からいっ! お水っ! お水ちょうだいっ!」
「パッフィー!? 大丈夫!?」
「ご、ごめんなさい! 美味しいの! 美味しいんだけど、辛すぎて、舌が、舌がしびれて……!」
「あ、あわわ、すみません! 今、ちわわいんをお持ちします! お酒のほうが辛さが和らぐかもしれないので!」
ムコーダが慌てて、ワインを注ぎ足した。
その隣では、カッツェが、悲鳴に近い声を上げていた。
「ぎゃああああ! からああああい! こ、これ、人間の食い物か!? 口から火が出るぞ!」
「お、おいカッツェ、大げさだな。これくらい、ちょっと辛いだけで……ぐっ!」
ヒッテルも、強がって食べたものの、数秒後には顔面蒼白になっていた。
「か、かっらあああああい!」
「お水を、お水を持ってきてくれ!」
「ふむ、辛さの中にも、確かな旨味があるな」
月心だけが、涼しい顔でゆっくりと食べ進めている。
「月心殿、なぜそんなに平然と……」
「修行の成果でしょうか」
「絶対に違う!」
広間は、笑い声と悲鳴の入り混じった、賑やかな空気に包まれた。
「す、すみません、パッフィーさんとカッツェさんには辛すぎたみたいで……すぐに、辛くないスープをお持ちします!」
ムコーダはスイに頼んで、事前に別の鍋で作っておいた、辛さ控えめの海鮮スープを運んでもらった。
「ありがとう、ムコーダさん……。ふう、やっと落ち着いたわ」
「ごめんなさい。せっかく作ってくれたのに」
「いえいえ、むしろ、辛さの調整をしておくべきでした」
パッフィーがぺろりと舌を出して笑う。その愛らしい様子に、広間がまた和やかな空気に戻った。
厨房の入り口では、料理長が、じっと眉をひそめていた。
「……あの香辛料の使い方、我らには考えもつかなかった。山椒の痺れと唐辛子の辛さを、あれほど大胆に重ねるとは」
「料理長、あの刀削麺という麺、どうやって作ったんでしょう」
「わからん。だが、ただの冒険者ではない。こやつ、何者だ」
第八章 のどぐろの炭火焼き
「続きまして、魚料理です」
台車に乗せられて運ばれてきたのは、七輪の上で香ばしく焼かれた魚だった。表面は黄金色に輝き、脂がじゅうじゅうと音を立てて滴り落ちている。
「角上魚類から取り寄せた、のどぐろの炭火焼きです」
「のどぐろ……? 聞いたことのない魚だな」
「日本海で獲れる高級魚なんですけど、脂がのっていて、白身のトロとも呼ばれてるんです。シンプルに塩だけで焼いて、炭火の香りを纏わせました」
ムコーダは、焼きたてののどぐろを手早く切り分け、皿に盛り付けた。
「熱いうちにどうぞ。お好みで、レモンを絞ってください」
アデューは、ふうふうと息を吹きかけて、身をほぐして口に運んだ。
「…………」
ぴたり、とアデューの動きが止まった。
「アデュー?」
「…………溶けた」
「え?」
「口の中で、溶けた。何これ、脂が甘い……!」
パッフィーも、白身を少しずつ口に運んで、うっとりと目を閉じる。
「ほんとうに、ふわっとして、とろけるわ……。炭の香りが、お魚の甘さを引き立てているのね」
「のどぐろの皮目が、香ばしくてたまらない……」
イズミがぽつりとつぶやく。サルトビは、黙って皿を空にし、無言で追加を催促していた。
「あのー、追加はありますので、ご心配なく」
「そうか。ならば遠慮なく」
「サルトビ殿が遠慮なくなど、珍しい」
「うるさい、ヒッテル」
のどぐろの身は、すぐになくなってしまった。広間からは、「もう一切れ」「もう少し食べたい」という声が、次々と上がっていた。
第九章 シーザーサラダの逆襲
「お口直しに、サラダをどうぞ」
運ばれてきたのは、鮮やかな緑のロメインレタスと、カリカリに焼いたパンチェッタ、そして彩り豊かな京野菜の盛り合わせだった。
「パンチェッタと京野菜のシーザーサラダです。カルディとOKから取り寄せた食材に、成城石井のシーザーサラダドレッシングをかけています」
ムコーダは、大きな皿の上で、たっぷりとドレッシングを回しかけた。チーズとガーリックの香りがふわりと広がる。
「わあ、サラダなのに、いい匂い!」
「このサラダ、パンチェッタの塩気とカリカリ感が、野菜のみずみずしさとぴったり合うんですよ」
アデューが、ざくざくとサラダを口に運んだ。
「うまい! 野菜がこんなにおいしいなんて!」
「京野菜って、こんなに甘かったのね。しゃきしゃきしてて、ドレッシングのコクと合う……!」
「ところで、このドレッシング、とてもまろやかだが、何から作っているのだ?」
グラチェスが、興味深そうに尋ねた。
「えーっと、チーズや卵、にんにく、アンチョビなど、いろんなものを混ぜて作っているそうです」
「ほう……我が国の料理人たちも、ぜひ知りたがるだろうな」
「あ、はは……企業秘密ってことで」
そのとき、厨房の方角から、ガタッという大きな音が聞こえた。振り返ると、王室の料理人たちが、扉の隙間から、ぎらぎらとした目でこちらをのぞいていた。
「…………あの、料理長たち、めっちゃ見てますけど」
「気にするな。彼らは職人魂が熱いだけだ」
「いや、あれは目が血走ってますよ……」
第十章 ブリスケットと、ほりにしのカルチャーショック
「メインの一品目は、肉料理です」
台車に乗せられて現れたのは、巨大な塊肉だった。表面にはスパイスがびっしりとまぶされ、じっくりと焼き上げられて、黒褐色に輝いている。
「ほりにしのスパイスで焼き上げた、ブラッディホーンブルのブリスケットです」
ムコーダが、大きなナイフで肉を切り分けると、断面から肉汁が溢れ出した。ほろほろと崩れる赤身と、とろとろの脂身が、湯気とともに濃厚な香りを放つ。
「こ、これは……!」
広間に、ざわめきが広がった。
「ブラッディホーンブルを、一日かけてじっくり焼いたんです。このスパイスは、ほりにしといって、僕の故郷では、アウトドアの定番なんですよ」
「ほりにし……?」
アデューが、肉を口に運んだ瞬間、目を見開いた。
「うわあ! なにこれ、肉がほろほろだ! それに、このスパイス、ものすごくいい香りがする! 塩気と、ほんのり甘さと、スパイシーさが、同時にくる!」
「噛まなくても溶けていくみたい……。こんなにお肉が柔らかいなんて」
パッフィーが、感動した様子で頬に手を当てる。
「確かに、この味付けは、ただの塩と胡椒ではない」
サルトビが、じっくりと味わいながら、皿を見つめていた。
「何種類もの香辛料が複雑に絡み合っているのに、肉の旨味を邪魔しない。どうなっているのだ」
その時、広間の一角で、がちゃん、と何かが落ちる音がした。振り返ると、給仕のために控えていた王室の料理人の一人が、手にしていたトレイを落として、茫然と立ち尽くしていた。
「ど、どうした」
「あ……あのスパイス、一体、何が入っているのだ……」
「く、薫り高く、深い……我らが使ってきた、どんな香辛料とも違う……」
「この味は、我々の料理人としての常識を覆す……!」
王室の料理人たちは、顔を真っ青にして、ひそひそと囁き合っていた。
「す、すごいぞ。この冒険者、一体何者なんだ」
「味の組み立てが、根本から違う」
「ほりにし……ほりにし……と言っていたな。それは、一体どこの地方の香辛料なのだ……!」
彼らは、まさしくカルチャーショックを受けていた。
「ふふ、みんなが驚いてるな」
「ご主人様のお料理は、世界一だもん!」
「当然だ。我の主人だからな」
フェルは満足げに鼻を鳴らし、ブリスケットを大きく口に頬張った。
第十一章 よだれ鶏、アデューとパッフィーの感動
「二品目のお料理です。コカトリスのよだれ鶏です」
運ばれてきたのは、しっとりと茹で上げられたコカトリスの肉に、真っ赤なタレがたっぷりとかかった一皿だった。つややかな鶏肉の上には、刻んだネギとピーナッツが散らされている。
「カルディのよだれ鶏のたれをかけています。ちょっと辛いですけど、さっきのマーラータンほどではないので、安心してください」
「よだれ……鶏? 変わった名前だな」
「食べる前から、よだれが出てきそうなほど美味しいから、っていう意味らしいですよ」
アデューが、さっそく一切れ口に運んだ。
「…………!」
彼の瞳が、潤んだ。
「うまい……柔らかい……タレが、すごい……! 辛さと酸味と、ほのかな甘みが、鶏肉のしっとり感と完璧に合う!」
「ほんとう、この鶏肉、噛むたびにじゅわっと旨味が溢れてくる……!」
パッフィーが、両手を頬に当てて、しみじみと言った。
「こんなに美味しい料理に、出会えるなんて……。私、今日この日のことを、一生忘れない」
「パッフィー……」
アデューが、そっと彼女の手を握る。
「俺も忘れないよ。ムコーダさんの料理は、世界を救った旅の疲れを、全部癒してくれる」
「あ、あの、そこまで言われると、照れるんですが……」
ムコーダは、頬をぽりぽりとかいた。
その様子を、広間のあちこちから、温かい拍手が包んでいた。
第十二章 魯肉飯で舌を巻く貴族たち
「続いて、お待ちかねのご飯ものです。オークジェネラルの魯肉飯をお持ちしました」
大きな丼に、ほかほかの白米が盛られ、その上に、とろとろに煮込まれたオークジェネラルの角煮風そぼろがたっぷりとかけられている。脇には、半熟の煮卵と、青菜が添えられていた。
「魯肉飯は、八角や五香粉で香りづけをして、醤油とみりん、砂糖で甘辛く煮込んだ、故郷の味です」
ムコーダが丼を配ると、広間じゅうに、甘く香ばしい匂いが広がった。
「……ごくり」
貴族の一人が、喉を鳴らした。
アデューが、ご飯とお肉を一緒にかきこんだ。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も、何も言わなかった。ただ、ひたすらに、丼をかきこむ音だけが、広間に響いていた。
「な、なにか言ってくれません?」
「…………うまい」
「ええ、すごく」
「ああ……オークジェネラルの脂が、とろとろで、舌の上で溶ける。煮卵の黄身を崩して、ご飯と混ぜると、また違う美味しさが……」
「このスパイスの香りが、またたまらん……!」
貴族たちは、次々と感嘆の声を漏らし、あまりの美味しさに舌を巻いていた。
「王国の老貴族が、涙を流しているぞ」
「あんな年寄りが、おかわりを要求している!」
「俺も、おかわり!」
「私にも!」
「はいはい、順番に! 順番に配りますから!」
ムコーダは、スイと協力して、次々と丼を運んでいった。
厨房の入り口では、料理長が、ぶるぶると肩を震わせていた。
「……我ら王室の料理人が、何十年かけて極めた料理を、あのような庶民的な丼が、あっさりと超えていくというのか……」
「料理長……」
「おのれ、おのれ、あの冒険者め……! 一体、どのような魔法を使っているのだ……!」
第十三章 焼き立てアップルパイと、王室パティシエの宣戦布告
「そして、本日の最後を飾る、デザートをお持ちしました」
ムコーダが、ふたを開けたトレイから、ふわりと甘く香ばしい匂いが立ちのぼった。そこには、こんがりときつね色に焼き上がった、焼き立てのアップルパイが並んでいた。
「シャトレーゼから取り寄せた、焼き立てアップルパイです。熱いうちに食べるのが、一番美味しいですよ」
パイを切り分けると、サクサクとした生地の中から、とろりとしたりんごのフィリングが湯気とともに溢れ出た。シナモンと砂糖の甘い香りが、広間いっぱいに広がる。
「…………!」
アデューが、一口食べて、ぽろりと涙を流した。
「うまい……! パイがさくさくで、りんごがじゅわっととろけて……!」
「サクサクとしたパイ生地の中に、こんなにも柔らかくて甘いりんごが……! 素敵……!」
パッフィーも、幸せそうに目を細めた。
「ありがとう、ムコーダさん。こんなにたくさんの、素敵なお料理を作ってくれて」
「いえいえ、お二人の門出を祝うことができて、僕も嬉しいです」
広間に、拍手と歓声が沸き起こった。
ふと、会場の隅を見ると、王室の専属パティシエたちが、ぎらぎらと目を光らせて、アップルパイの皿を凝視していた。
「…………あの生地の層の細かさ、バターの香り……」
「あんなに薄く、均一にパイ生地を折り込むなど、人間業ではない……」
「リンゴの煮込み加減も絶妙だ。形を残しつつ、とろりとした口当たり……」
「再現してみせる……! 必ず、あのレシピを再現してみせる……!」
「待て、待つのだ。まずは本人に、レシピを聞かねば……!」
パティシエたちは、わなわなと震えながら、ムコーダのほうへと、じりじりと歩み寄ってきた。
「あのー、ムコーダ殿」
「は、はい?」
「ただいまの、アップルパイのレシピを、お教え願えませんでしょうか」
「え? あ、あの、それは……」
ムコーダは、冷や汗を垂らした。
実は、このアップルパイは、ネットスーパーで買ったものをそのまま出しているだけで、ムコーダ自身は作り方など知らない。
「えーっと、ですね、これは……その、故郷の、秘伝のレシピでして……」
「秘伝!?」
「ぜひ、ぜひとも!」
「お願いします! 我らにその技をお授けください!」
「そ、それはちょっと、難しいといいますか……」
ムコーダの背後に、料理長が、音もなく現れた。
「…………ムコーダ殿」
「ひっ!」
「貴殿の料理、ことごとく、我ら王室料理人の誇りを粉々に打ち砕いてくれたな」
「い、いえ、そんなつもりは……」
「だが、同時に、料理人としての魂が、燃え上がったのも事実だ」
料理長の目が、ぎらりと光った。
「あの生姜焼きとやらも、マーラータンも、のどぐろも、ブリスケットも、よだれ鶏も、魯肉飯も……すべてのレシピを、教えていただこう」
「え、えええ!?」
「逃がさんぞ! 者ども、かかれえええ!」
「「「おおおおおおお!!」」」
王室の料理人たちが、一斉に、包丁やおたま、泡立て器を手にして、ムコーダに迫ってきた。
第十四章 追い回される者たち
「ぎゃああああああ! フェル! 助けてくれ!」
「…………我は食後の休息中だ」
フェルは、ブリスケットの最後の一切れを口に放り込んで、のんびりとあくびをしていた。
「いやいや、お前の主人が追い回されてるんだぞ!」
「ふむ、我の主人が料理を作り続けなければ、我の飯がなくなるのは困る。仕方ない、助けてやろう」
「ありがとう、フェル!」
「ただし、帰ったら、追加で飯を作れ。あのアップルパイとやらの、おかわりもな」
「わかった、わかったから!」
「ご主人様、乗って乗って!」
スイが、ぐにょーんと体を大きく広げ、ムコーダを背中に乗せた。ドラちゃんが肩の上でわめく。
「おいおい、こっちに来るぞ!」
「待てえええええ! レシピを教えろおおおお!」
「お願いだ! あの魯肉飯のレシピだけでもおおお!」
「あのアップルパイの生地の秘密を! 生地の折り込み回数だけでも!」
王室料理人たちは、涙と鼻水を垂らしながら、ムコーダを追いかけてくる。
「ちょ、ちょっと待て! 落ち着いてください!」
「落ち着いていられるかああああ! あんな衝撃を受けて、落ち着けるものか!」
「俺は料理人としての人生を、あの一皿で変えられたのだ!」
「あなたに弟子入りさせてください!」
「弟子ぃ!?」
ムコーダは、スイに乗って、王宮の廊下を全速力で駆け抜ける。その後ろから、白いコック帽の集団が、鬼のような形相で追いかけてくる。
「ひええええ! 料理人って、こんなに怖いのか!?」
「あるじー、こっちこっちー!」
「スイ、右だ右! あっちの窓から逃げられるぞ!」
「ドラちゃん、ナビありがとう!」
廊下を曲がり、階段を駆け下り、庭園を横切って、ムコーダたちは逃げ続けた。
「待て待て待てええええ!」
「レシピを! レシピをおおおお!」
「ええい、しつこい! フェル! 威嚇でもなんでもいいから、あいつらを止めてくれ!」
「ふむ、仕方あるまい」
フェルは、ゆっくりと立ち上がり、咆哮した。
「ウォォォォォォォン!」
その声は、王宮全体を震わせるほどの迫力を持っていた。窓ガラスがびりびりと揺れ、庭園の木々がざわめく。
料理人たちの足が、一瞬、ぴたりと止まった。
「…………ひ」
「ひいいいいい!」
「ふ、フェンリルだああああ!」
だが、次の瞬間、料理長が、キッと目を見開いた。
「怯むな! 我ら料理人が、食の探求に命を懸けずして、何が料理人か!」
「「「おおおおおおお!」」」
「うそだろ!? 全然効いてない!」
「なんなのだ、あの執念は……」
フェルが、呆れたようにつぶやく。
「あるじー、あの人たち、すごく怖いよー!」
「ちくしょう、こうなったら、最終手段だ!」
ムコーダは、ネットスーパーを開いて、シャトレーゼのコーナーから、大量のバターどら焼きを購入した。
「これでもくらえええええ!」
どさどさどさっ!
ムコーダが、ばらまいたどら焼きに、料理人たちの視線が、一斉に集まった。
「……あれは、なんだ」
「見たことのない菓子だ……」
「ふわふわの生地に、何か挟まっているようだぞ」
一人の料理人が、おそるおそる、どら焼きを一つ手に取った。
「…………い、いただきます」
ぱくり。
「…………」
「どうした」
「…………うまい」
「な、なに!?」
「ふわふわの生地に、バターの香りと、あんこの甘みが、絶妙に……!」
料理人たちは、一斉に、どら焼きに群がった。
「うまい!」
「なんだこの菓子は!」
「バターを、あんこに合わせるとは……なんという発想だ!」
「この生地の作り方も、ぜひ!」
「結局、新しいレシピが増えただけだああああ!」
ムコーダは、頭を抱えて叫んだ。
第十五章 英雄たちの救いの手
そのとき、庭園の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
「みんな、ちょっと待ってくれ!」
アデューが、パッフィーとともに駆け寄ってきた。その後ろから、サルトビ、イズミ、月心、ヒッテル、カッツェ、そしてグラチェスも続く。
「ムコーダさんは、俺たちの大切な客人なんだ! あんまり追い回さないでくれ!」
「アデュー殿! しかし、我らは、あの料理の秘密を……!」
「わかってるよ。みんなが料理に情熱を持ってるのは、すごく伝わってきた。でも、ムコーダさんだって、困ってるだろ?」
「…………」
料理長が、はっと我に返った。
「確かに……。我々としたことが、客人に対して、礼を欠いた振る舞いを」
「いや、いや、そんな、大丈夫ですよ! それだけ、料理を楽しんでいただけたってことですし」
ムコーダが、ふうふうと息を切らしながら、苦笑した。
「ただ、その、実を言うと、この料理の多くは、故郷から取り寄せた食材をそのまま使っていまして、僕自身は、そこまで特別なレシピを知っているわけじゃないんです」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。たとえば、アップルパイは、遠い国の、とても腕のいい職人さんたちが作ったものでして」
「職人……!」
パティシエたちが、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ですが、僕が知っている範囲で、基本的な調理のコツくらいなら、お教えできますよ。たとえば、生姜焼きの下味の付け方とか、魯肉飯の煮込み方とか」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。一緒に作りましょう。厨房、お借りしてもいいですか?」
「も、もちろんです! どうぞどうぞ!」
料理長が、深々と頭を下げた。
「先ほどまでの無礼、お許しください。我ら、あなたの料理から、多くを学びたいのです」
「いえいえ、こちらこそ、勉強になりますよ。みなさんの王室料理も、ぜひ教えてくださいね」
「ムコーダ殿……!」
料理人たちは、感動で目を潤ませた。
「ふふ、一件落着だね」
パッフィーが、アデューと顔を見合わせて、くすりと笑った。
「でも、ムコーダさん、さっきの逃げっぷり、すごかったわ」
「あはは……もう、二度とやりたくないですね……」
ムコーダは、がっくりと肩を落とした。
終章 その後の厨房
それからの数日間、パプリシア王国の王宮の厨房では、前代未聞の光景が繰り広げられていた。
「ムコーダ殿、この生姜は、すりおろすのですか? それとも、みじん切りですか?」
「すりおろしたほうが、肉に味がしみ込みやすいです」
「なるほど……! メモ、メモ!」
「ムコーダ殿、この八角という香辛料、少量で効きますな!」
「入れすぎると苦くなるので、気をつけてくださいね」
「うむ、うむ! 勉強になる!」
ムコーダの周りには、いつの間にか、料理長以下、王室料理人たちが、熱心に集まっていた。エプロンをつけたアデューやパッフィーまでもが、楽しそうに手伝っている。
「ねえ、ムコーダさん、これ、どうやって混ぜるの?」
「あ、パッフィーさん、そこはゆっくり丁寧に」
「こう?」
「そう、上手です」
フェルは、厨房の隅で寝そべりながら、あくびをしていた。
「まったく、騒がしいことだ。……だが、悪くない」
「フェルが、そんなこと言うなんて、珍しいね」
スイが、ぽよんぽよんと跳ねながら、フェルの背中に乗る。
「ふん、飯が美味ければ、我は何でも構わん」
「結局、そこかよ!」
ドラちゃんが、突っ込みを入れた。
その日の夕方、厨房の窓から、夕日が差し込む中、ムコーダは、料理長と固い握手を交わしていた。
「ムコーダ殿、このたびは、本当にありがとうございました。我ら王室料理人一同、今日から、あなたを師と仰がせていただきます」
「いえいえ、そんな、大げさな! 僕はただの、通りすがりの冒険者ですよ!」
「謙遜なさるな。……ところで」
料理長の目が、きらりと光った。
「あのアップルパイの、再現についてなのですが……」
「あ、あははは……それは、また今度ということで……」
「いえ、ぜひ今日中に!」
「や、やっぱり、追いかけられるのか、俺は……!」
ムコーダは、再び、駆け出した。
「待てええええ! アップルパイいいいい!」
「ぎゃあああああ!」
「ご主人様、がんばれー!」
「あるじー! スイが乗せるよー!」
「ムコーダ、俺様の分のアップルパイは、ちゃんと取っておけよ!」
「我の分もだぞ!」
「お前ら、助ける気ゼロかああああ!」
夕暮れのパプリシア王宮に、ムコーダの悲鳴と、料理人たちの熱い叫び声が、いつまでも響き渡っていた。
こうして、異世界の英雄の祝宴は、伝説の料理と、前代未聞の追いかけっこの物語として、のちのちまで語り継がれることとなったのである。
そして、この日以来、パプリシア王国には、
「バターどら焼き」と「ほりにしのスパイス」を求める声が、絶えることがなかったという――。
(おしまい)