そんな世界の初星学園でプロデューサーをしているのは、妙に人の変化に鋭く、余計なお世話と分かっていても放っておけない青年だった。
そして彼の相棒は、口うるさくて有能なロボットの先輩。
アイドルの小さな不調に気づき、相談に乗り、時には踏み込みすぎて相棒に怒られる。
これは、あべこべな初星学園を舞台にした、プロデューサーとロボットの先輩によるバディもの。
――なお、本人は自分がどれだけ周囲の脳を焼いているのか、だいたい分かっていない。
続きません
俺はロボットが好きだ。
どれくらい好きかというと、死んだあと――という表現で合っているのかは今でもよく分からないけれど――次に目を開ける前、「ひとつだけ好きなものを持っていっていい」と言われて、
「ロボットください」
と即答したくらいには好きだ。
金でもない。特殊能力でもない。ものすごく健康な身体でもない。後から考えれば、もっと実用的な選択肢はいくらでもあったと思う。それでも、その時の俺には関係なかった。
「できれば変形するやつで。あと喋ってくれたら最高です」
我ながら欲望に忠実だった。
そして目を覚ました俺の前にあったのは、一台の携帯電話だった。
「…………」
手に取る。分厚い。ボタンがいっぱいある。アンテナまである。俺の知っているスマートフォンとは、どう見ても違う。
「なんでスマホに物理ボタン付いてるんです?」
『スマートフォンではない』
「え?」
喋った。
反射的に画面を押した。反応なし。もう一回押してみる。やっぱり反応なし。
「……壊れて――」
ガシャン、と手の中で機械音が鳴った。
外装が開く。腕が展開する。脚が伸びる。俺の手から飛び降りた携帯電話が、二本の脚で床に着地した。
『私はフォンブレイバー08――』
「すっっっっげぇぇぇぇぇ!!! ロボットじゃん!!」
『最後まで聞け!』
その瞬間、知らない場所で目を覚ました不安とか、これからどうするんだとか、そもそもここはどこなんだとか、そういうものが全部一回どうでもよくなった。
だってロボットだ。
目の前に。
喋るロボットがいる。
「もう一回! 今の変形もう一回やってください!」
『話を聞けと言っている!』
「お願いします!」
『断る!』
これが、俺とフォンブレイバー08《エイト》――エイト先輩との出会いだった。
◇
ちなみに、ロボット以外のことについて、当時の俺は本当に何も知らなかった。
「初星学園?」
『そうだ』
「学校ですか?」
『名前を聞けば分かるだろう』
「学園アイドル?」
『そうだ』
「学校の部活みたいなものですか?」
『…………』
「なんで黙るんです?」
芸能界にも疎かった。アイドルにも詳しくなかった。前の俺はアニメやゲームを熱心に追いかける方でもなかったし、流行りの曲だって有名なものを何となく聞く程度だった。
だから当然、
「花海咲季?」
『ああ』
「誰です?」
『…………』
「月村手毬?」
『そうだ』
「誰です?」
『…………』
「藤田ことね」
「知らないです」
『まだ何も言っていない』
「あっ」
そんな有様だった。
十王星南という名前を聞いた時なんて、「生徒会の人ですか?」と答えた。実際、生徒会の人ではあった。そこだけは当たっていた。
俺にとって彼女たちの名前は、最初はそれ以上の意味を持っていなかった。
花海咲季。月村手毬。藤田ことね。十王星南。
知らない名前。知らない人たち。
そして妙なことに、エイト先輩は彼女たちについて何か知っているようだった。
「先輩」
『なんだ』
「花海さんって、どういう人なんです?」
『自分で見ろ』
「いや、知ってるんでしょう?」
『知っている』
「じゃあ教えてくださいよ」
『断る』
「ケチ!」
『後輩』
小さな身体で腕を組み、エイト先輩は俺を見上げた。
『知っていることと、分かっていることは違う。知識だけで目の前の人間を決めつけるな』
「……はい?」
『会ってこい。話せ。見ろ。そのうえで、お前がどう思ったのかを持って帰れ』
「先輩、たまに妙に格好いいこと言いますよね」
『たまには余計だ』
その時は、よく分からなかった。何か深いことを言ってるなあ、くらいだったと思う。
それ以上に苦労したのは、この世界で暮らすことだった。
最初の一週間なんて酷いものだった。道を教えてくれた女性に「ありがとうございます。よかったらお礼にコーヒーでも」と言ったら、なぜか相手を真っ赤にさせた。重そうな荷物を持っている女性を見つけて手伝えば、後からエイト先輩に『距離が近い』と怒られた。
暑い日にシャツのボタンを二つ開けて外へ出ようとした時は、玄関で止められた。
『閉めろ』
「暑いんですけど」
『閉めろ』
「一個くらい」
『閉めろ』
「……はい」
当時は、本気で意味が分からなかった。どうして服装一つでそこまで怒られるのか。どうして男の俺から女性を食事に誘うだけで、あんなに驚かれるのか。どうして親切のつもりで距離を詰めると、相手が妙に緊張するのか。
知らないことだらけだった。
でも、分からないなら覚えるしかない。
人の反応を見る。間違えたら謝る。エイト先輩に聞く。友達にも聞く。また間違える。そのたびに覚える。
そうやって少しずつ、俺はここで生きる方法を覚えていった。
今なら分かる。
俺が何を言えば、相手がどう受け取る可能性があるのか。男の俺が不用意に距離を詰めることの意味も、初星学園がどういう場所なのかも。
そして。
あの頃は名前すら知らなかった彼女たちが、どんな人なのかも。
◇
『後輩。ボタン』
「はい?」
朝。玄関の鏡の前で振り返る。
『第二ボタンが開いている』
「あ、本当だ」
すぐに留めて、ついでに襟も直した。昔ならこの程度、気にもしなかった。今は違う。外で気づいたら普通に恥ずかしいし、誰かに指摘されようものならしばらく引きずる自信がある。
『よし』
「最近先輩、近所のおばちゃんみたいになってません?」
『誰のせいだと思っている』
「俺ですか?」
『他に誰がいる』
机からエイト先輩を持ち上げる。この姿だけを見ると、どうしても格好いい。可動部とか、関節とか、変形した時にどこへ収納されるのか分からない部品とか、何度見ても飽きない。
「先輩、今日一回くらい変形するところゆっくり見せてもらえません?」
『嫌だ』
「なんでです?」
『お前は女性の機微には妙に鋭いくせに、なぜ機械を見ると知能指数が下がる』
「先輩」
『なんだ』
「ロボットですよ?」
『だからなんだ』
「ロボットですよ!?」
『予定を確認するぞ!』
誤魔化された。
『九時より花海咲季のレッスン確認。十時半から月村手毬、藤田ことねを交えた合同確認。午後は十王星南から依頼されている資料整理と施設確認』
「今日も結構ありますね」
『お前が詰めた』
「でも定時には終わりますよね?」
『私がいるからな』
「さすが先輩!」
『もっと敬え』
「めちゃくちゃ敬ってますよ」
ガシャン、と身体が畳まれる。携帯形態になったエイト先輩を鞄へ入れる。この変形も毎日見ているのに、毎日ちょっとテンションが上がる。
家を出て駅へ向かう途中、見慣れた広告が目に入った。
『男の子の「大丈夫」を、大丈夫だと思わないで。』
昔なら立ち止まっていただろう。今では横目に見るだけだ。それでも時々、不思議な感じはする。
「そういえば先輩」
『なんだ』
「初星来る前から、この辺やたら詳しかったですよね」
『データベースだ』
「便利だなあ」
『……そうだな』
ほんの少しだけ、返事が遅かった。
何か引っかかった気もしたけれど、ちょうど電車がホームへ滑り込んできた。俺は人の流れに乗り込み、その小さな違和感をすぐに頭の隅へ追いやった。
◇
「お、来た。今年の寿退学枠」
教室へ入って最初に言われた言葉がそれだった。
「朝一番で人を退学させないでもらえます?」
鞄を机へ置くと、同期の男子が楽しそうに笑った。
「だって今年お前だろ」
「何がですか」
「寿退学」
「俺、ちゃんと卒業する気なんですけど!?」
「歴代全員そう言うんだよ」
「怖いこと言わないでくださいよ」
別の友人まで寄ってきて、俺の肩を叩く。
「入学式でも言われただろ。『担当に人生持っていかれないようにね』って」
「あれ昔からの冗談じゃないんですか?」
「冗談で毎年何人か進路変えるかよ」
「マジだったんですか……」
初星のプロデューサー科では、昔からそういう話がある。担当との距離を間違えるな。信頼と好意を混同するな。人生設計はちゃんとしろ。
そのうえで毎年、何人かが担当に人生を持っていかれるらしい。
「まあ、式には呼べよ」
「だから卒業させろ!」
「相手誰?」
「いないって!」
「候補多すぎて分かんねえ」
「何の話だ!」
男同士で笑う。
こういう時間は楽だ。誰が可愛いとか、昨日の講義がどうとか、昼は何を食うとか。俺もここへ来たばかりの頃は、プロデューサー科でどう振る舞えばいいのか分からなかった。今ではくだらない冗談を言える友達もいる。それが結構嬉しい。
俺は、初星に来てよかったと思っている。
鞄からエイト先輩の声がした。
『過去の寿退学者は、基本的に一人だ』
「ほら。先輩も――」
『お前の場合、候補者が多すぎる』
「候補者って言うな!!」
教室に笑い声が響いた。
◇
九時。レッスン室。
曲が始まった瞬間、咲季さんの表情が変わる。
俺は壁際に立ち、その動きを追っていた。速い。やっぱり速い。足を運ぶ位置に迷いがなく、身体を大きく使っているのに軸もほとんど崩れない。たぶん初めて見る人なら、素直に「上手い」で終わるだろう。
俺だって最初はそうだった。
すごいな。よく動くな。体力あるな。そんな程度だった。
でも今は、昨日の咲季さんを知っている。
一昨日も。その前も。何度も見てきた。本人が気に入っている動きも、逆に納得していない時の顔も、調子がいい時にほんの少しステップが弾むことも、疲れてくると呼吸より先に肩へ出ることも。
だから気づいた。
ターンから着地し、そのまま次のステップへ入る。動きは止まっていない。表情も変わらない。失敗と呼べるようなものですらない。
でも身体を戻した瞬間だけ、右肩がほんの少し下がった。次に腕を上げる時も、肘がいつもより身体に近い。
……嫌だな。
できてしまっている。
咲季さんは、できないことを無理に続けるほど無茶苦茶な人じゃない。でも、できるならやる。少しくらい身体に違和感があっても、昨日より良くなると思えばもう一度やるし、その一回が上手くいけば、きっと次もやる。
俺はそういうところを格好いいと思っているし、たぶん本人にも何度かそう言っている。
だからこそ、止める時は俺が止めないといけない。
曲が終わった。
「もう一回やるわ」
息を整えながら、咲季さんが鏡を見る。
「今の最後、少し遅れたもの。そこだけ直したいの」
「咲季さん」
「なに?」
「今日はここまでにしましょう」
振り返った顔は、怒っているというより納得していない。自分ではまだできると思っている顔だ。
「……どうして?」
「右肩です」
自分の肩を指した。
「最後のターンから戻る時、庇いましたよね」
「…………」
咲季さんの目が少し細くなる。
「気づいてたの?」
「はい」
「痛いわけじゃないわ」
誤魔化さなかった。自分で肩を回して、可動域を確かめる。
「少し違和感があるだけ。動かせるし、力も入る。もう一回なら問題ないわ」
「でしょうね」
「なら――」
「だから止めます」
眉間に皺が寄った。
「……あなた、たまに本当に頑固よね」
「咲季さんには言われたくないです」
「わたしは合理的に話してるの。今ならできるって言ってるでしょう?」
「知ってます」
「じゃあ」
「できるから困るんですよ」
「……何よ、それ」
「咲季さん、できたらもう一回やるでしょう」
「当然じゃない」
「その次もできたら?」
「やるわ」
「ほら」
「……」
「今日あと一回できるかより、明日ちゃんと動ける方が大事です」
この程度なら本当にできるんだと思う。俺が止めなくても、最後までやり切るだろう。だから困る。
「痛くなるまでやったら、明日の咲季さんが困るでしょう。俺はそっちの方が嫌です」
咲季さんはしばらく俺を見た。
視線が強い。こういう時に目を逸らしたら負けるような気がする。何の勝負なのかは分からないけれど、少なくとも俺が自信なさそうにしたら、この人は絶対にもう一回やる。
だから、そのまま見返した。
やがて咲季さんの肩から少し力が抜ける。
「……分かったわ。今日はやめる」
「ありがとうございます」
「ただし」
人差し指が俺に向いた。
「明日はちゃんと見てなさい。今日できなかった分まで、絶対に仕上げるから」
「もちろんです」
「約束よ」
「はい」
タオルと飲み物を渡す。咲季さんはそれを受け取り、少し不満そうな顔を残したままベンチへ腰を下ろした。
ちゃんと座った。
肩も休めている。
そこでようやく、俺の中にあった小さな緊張がほどけた。止めた以上、本当に止まってくれるまでは安心できない。
……過保護かな。
まあいいか。
「でも」
「なに?」
「今日の二番、かなり良かったですよ」
「でしょう?」
途端に顔が明るくなった。
「あそこはわたしも手応えがあったの。昨日より踏み込みを少し変えてみたのよ。やっぱりあなたも分かった?」
「はい。ターンに入る前ですよね」
「そう! ほんの少しだけ早くして、次の動きに余裕を作ったの。前は勢いで持っていってたところを――」
身振りを交えて説明してくれる。こういう時の咲季さんは本当に楽しそうだ。
自分が上手くなったことを、変に謙遜しない。頑張った。上手くいった。なら喜ぶ。それで次はもっと上手くなる。
俺はそこが結構好きだった。
「俺、あそこかなり好きでした」
「…………」
止まった。
さっきまで動いていた手まで止まる。
「咲季さん?」
「……そういう言い方は、先に言いなさいよ」
「なんでです?」
「心の準備ができるでしょ!」
「褒めるのに予告いるんですか?」
「いる時もあるの!」
よく分からない。
でも耳が少し赤い。
悪いことを言ったわけではなさそうなので、まあいいか。
ベンチに置いたエイト先輩が、じっとこちらを見ていた。
『……よく見ているな』
「プロデューサーですから」
『お前は、そういうところを見るのだなと思っただけだ』
「?」
『気にするな』
まただ。
時々、先輩はこういう言い方をする。昔から俺を知っているみたいな――いや、実際転生直後から一緒にいるんだけど、そういう意味じゃなくて。
もっと前から何かを知っていたような。
「咲季ー、終わった?」
扉が開いた。
月村さんが顔を出し、その後ろから藤田さんも入ってくる。
「次あたしたちなんですけど――って、何休んでんの?」
「今日はここまでにしたの」
「珍しい」
「プロデューサーに止められたから」
咲季さんが立ち上がる。俺も時計を確認して、次の予定へ頭を切り替えた。
「じゃあ咲季さん、次の予定なんですけど――」
「ええ」
「…………」
月村さんが俺たちを見る。
いや、正確には咲季さんを見ている。
「……何その顔」
「何が?」
「勝ったみたいな顔」
「別に?」
いや。
俺にも分かる。
めちゃくちゃ勝ち誇っている。
「ただ、プロデューサーに名前を呼ばれただけよ」
「佑芽と名字が同じだからでしょ」
「知ってるわ」
「じゃあ何」
「でも、プロデューサーは毎日『咲季さん』って呼ぶわ」
「……」
「毎日」
「二回言わなくていいから」
「いや、咲季。それ事情分かっててマウント取ってんの、普通にダサくない?」
藤田さんが呆れた声を出す。
「理由なんて関係ないわ。実際に呼ばれているもの」
「強引すぎんだろ!」
咲季さんは上機嫌。月村さんは不機嫌そう。藤田さんは呆れている。
この三人は、本当に仲がいい。
本人たちに言ったら、咲季さんは素直に頷くだろう。藤田さんは「まあ、悪くはないっすけど」とか言いながら笑いそうだ。月村さんだけ「別に」と言う。
たぶん、その「別に」が一番信用ならない。
「ほら、次始めますよ」
声をかけると、三人がそれぞれ返事をした。
こういう光景にも、すっかり慣れた。
名前すら知らなかったのにな。
そう思うと、少しだけ不思議だった。
◇
「プロデューサー」
合同確認を始める前、月村さんが俺の横へ来た。
「今日、一緒に帰ろ」
「今日ですか?」
「うん」
あまりにも普通に言われて、少しだけ返事が遅れた。
最近の月村さんはこうだ。以前なら「たまたま時間が合うなら」とか、「一人でも別にいいけど」とか、頼んでいるのかいないのか分からない逃げ道を二つ三つ付けていた気がする。
それが今では、一緒に帰りたいから「一緒に帰ろ」。それだけ。
俺への遠慮がなくなった、と考えれば嬉しい。
ただ、たぶん俺が毎回なんだかんだ付き合うせいで、この人の中の「プロデューサーにはここまでやっていい」の線が、少しずつ俺側へ侵攻している。
「俺、今日はちょっと遅くなりますよ」
「何時?」
「六時くらいです」
「じゃあ待ってる」
「即決ですね……」
「駄目?」
こてん、と首を傾げる。
「駄目じゃないですけど」
「じゃあ決まり」
満足そうに離れていく。
……まあ。
嫌じゃないから困るんだけど。
その背中を見送っていると、少しだけ引っかかった。顔はいつも通りだった。声も、たぶん他の人が聞けばいつも通りに聞こえる。
でも返事がほんの少し遅い。
目元も微妙に重い。
『本人に聞け』
「え?」
エイト先輩の声がした。
「まだ先輩に何も聞いてないですけど」
『…………』
「先輩?」
『早く聞け』
「何なんですか?」
月村さんも怪訝そうにエイト先輩を見る。
「エイト、今日変じゃない?」
「たまに変ですよ」
『後輩』
「はいはい」
気を取り直す。
「月村さん、昨日何時に寝ました?」
「……なんで?」
「いいから」
「二時」
「何してたんです?」
「動画見てた」
「寝てくださいよ!」
「うるさい」
「今日ちょっと反応遅いですよ」
「普通だけど」
「普通じゃないです」
「できるし」
「できるかどうかの話じゃないです」
言ってから、さっきも似たような会話をしたなと思った。
咲季さんを見る。向こうも気づいたらしく、ちょっと笑っている。
「今日は軽めにしましょう」
「別に普通にできるけど」
「知ってます」
「じゃあやればいいじゃん」
「嫌です」
「……プロデューサーって、私に甘いよね」
「今のどこがです?」
「そういうところ」
なぜか少し嬉しそうだった。
本当に分からない。
ただ、さっきより声が少し軽くなった。
それならいいか。
◇
昼。
「プロデューサー♪」
藤田さんの声が一段上がった。口元もいつもより少しだけ柔らかくなって、姿勢までほんのちょっと可愛らしくなる。
あ、被った。
「昨日のお菓子、ありがとうございましたぁ~。すっごくおいしかったです♪」
「よかったです」
「いやぁ、やっぱプロデューサーって気が利きますよねぇ」
「藤田さん、昨日ずっとあれ見てたでしょう」
「え?」
「売店で。何回か値札見て戻してたから、好きなのかなって」
「…………見てたんすか?」
「見えてました」
「……そういうとこなんだよなぁ」
「何がです?」
「なんでもないでーす♪」
また戻った。
藤田さんは別に俺に嘘をついているわけじゃない。可愛く見られたいのも、褒められたいのも、たぶん全部本当だ。ただ咲季さんや月村さんと話している時より、俺の前では少しだけ「可愛い藤田ことね」を頑張る。
俺はその頑張りも結構好きなので、気づいていないふりをすることが多い。
「ことね、嬉しそうね」
「そりゃ嬉しいですよ。タダのお菓子はうまいんで」
「そこ?」
「大事でしょ!」
「それ、別に珍しくないけど」
月村さんが口を挟んだ。
「私も何回かもらってるし。飲み物も一緒に」
藤田さんがゆっくり月村さんを見る。
「……いや、あたし別に勝負してないんですけど?」
「私もしてない。ただ、珍しそうに話すから」
「その割にめちゃくちゃ勝った顔してんじゃねーか!」
「してないけど」
「してるわよ、手毬」
咲季さんまで参戦した。
「そういう話なら、わたしは今日も名前で呼ばれたわ。それに、肩の違和感にもすぐ気づいたもの」
「私が寝不足なのも気づいたけど」
「だから何の勝負なんだよ!」
俺は三人を順番に見る。
「……何の話です?」
「なんでもない」
「なんでもなくないわ」
「咲季」
「事実でしょう?」
俺だけ分からない。
「飲み物買ってきますけど、何かいります?」
「いつもの」
「月村さんはいつものですね」
「ほら」
「何が!?」
「ことね、うるさい」
「お前のせいだろ!」
財布を持って席を立つ。
自販機へ向かって歩き出したところで、後ろから月村さんの声が聞こえた。
「まあ、私のプロデューサー、私にベタ惚れだから」
「夢見すぎじゃボケ!!」
思わず足が止まった。
……俺?
「なんで?」
「なんでじゃねーよ! その自信どっから湧いてくんだよ!」
「私の体調すぐ分かるし。好きな飲み物覚えてるし。電話したら話聞いてくれるし。一緒に帰ってくれるし」
「全部プロデューサーの仕事でも説明つくだろ!」
「それは他の子にやってるやつでしょ。私へのとは違うし」
「何が違うんだよ!?」
「見てれば分かるけど」
「つっよ! その根拠ゼロの自信なんなん!?」
飲み物は覚えている。電話も出る。話も聞く。一緒に帰ることもある。
月村さんのことが好きか嫌いかと聞かれれば、かなり好きだ。
面倒くさいけど。
……これ、ベタ惚れになるのか?
分からない。
考えながら戻ると、三人が一斉にこっちを見た。
「何の話してるんです?」
「あっ」
「プロデューサー」
「あっ、プロデューサー♪ なんでもないですよぉ~?」
藤田さん。
切り替えが速すぎる。
今「ボケ」って聞こえたけど。
「俺、月村さんのことかなり好きですよ」
「ほら」
月村さんが即座に言った。
「面倒くさいですけど」
「ほら。ベタ惚れ」
「後半聞いてました!?」
「照れ隠しでしょ」
「なんでそうなるんですか!」
「だから言ったじゃん」
月村さんが得意げに藤田さんを見る。
「事実を言ってるだけ」
「この女、都合いいとこしか聞いてねえ!」
猫が落ちた。
「でも」
咲季さんが腕を組む。
「わたしは名前で呼ばれてるわ」
「まだやってんの!?」
思わず笑ってしまった。
やっぱり仲がいい。
そこへ。
「フフ……ずいぶん楽しそうね」
三人の空気が少しだけ変わった。
振り返る。
「星南さん」
十王星南さんが立っていた。
「お疲れさま、先輩」
「お疲れさまです」
星南さんが来ると、三人の反応は面白い。
咲季さんは少しだけ背筋が伸びる。憧れもあるんだろうし、それ以上に負けたくないんだと思う。
月村さんは露骨ではない程度に警戒する。こういう時だけ妙に観察する側へ回る。
藤田さんは――。
「ことね。ちょうどよかったわ」
「……はい?」
逃げる準備をした。
「今日の午前のレッスン、とても良かったわ。特に重心移動が安定していたでしょう? 以前より次の動きへの繋ぎも――」
「あーっ! 会長! 大丈夫です!」
「あら?」
「今日はもう褒められる容量いっぱいなんで!」
「そう?」
「そうです!」
「では、続きは明日に回しましょう」
「なんで予約制みたいになってんすか!?」
星南さんが楽しそうに笑う。
藤田さんは褒められるのが好きだ。それは俺も知っている。なのに星南さんからの評価だけは、時々逃げる。
俺にもなんとなく理由は分かる。
星南さんの藤田さんへの評価は、ちょっと怖いくらい高い。
咲季さんはその様子を笑っている。月村さんは「また始まった」という顔。星南さんは、その全部を面白そうに見ていた。
……この人も、この人で三人のことが好きなんだろう。
形はそれぞれ違うけれど、俺が知らなかったところでも、この人たちにはこの人たちの関係がある。俺がプロデューサーになったから始まったわけじゃない関係があって、そこへ後から俺が入れてもらった。
そう考えると、少し嬉しい。
「先輩」
「はい?」
「午後の資料、少し付き合ってもらえる?」
「もちろんです」
「では借りていくわね」
「なんで私たちに許可取るの」
月村さんが言った。
「フフ。なんとなく?」
「返してくださいね」
咲季さんまで言う。
「俺、物じゃないですよ?」
「大丈夫よ。大切に扱うわ」
「そういう問題ですか?」
星南さんに促され、食堂を出た。背中から三人の声がまだ聞こえる。たぶん俺がいなくなったら、また何か言い合うんだろう。
そう思うと、少しだけ笑えた。
◇
「それで、この資料なんだけど――」
午後の施設確認へ向かいながら、星南さんの説明を聞く。
やっぱり話が分かりやすい。何を確認してほしいのか、どこまで自分で確認済みなのか、判断が必要なのはどこか。頭の中で全部整理してからこちらへ渡してくれるから、聞いている側が迷わない。
学園一のアイドル。
生徒会長。
何をやらせてもできる人。
最初に聞いた時は、そういう人なんだと思っていた。
今は少し違う。
できる人だから何でも簡単にやっているわけじゃない。見えないところで準備して、考えて、必要なら誰かを頼る。負けたくないものには本気で食らいつくし、思った以上に熱くなることもある。
そういうところを知ってからの方が、俺はこの人をすごいと思うようになった。
「分かりました。映像と照らし合わせれば今日中に終わります」
「助かるわ」
「エイト先輩にも手伝ってもらえば早いですよ」
『当然だ』
「頼りにしているわ、エイト」
『任せろ』
しばらく歩く。
すると星南さんが横目で俺を見た。
「ところで先輩」
「はい?」
「あなた、また余計なことをしたでしょう」
「……なんで分かるんです?」
「あなたのことだもの。そのくらい分かるわ」
あまりにも自然に言われたので、少し笑ってしまった。
「星南さん、俺のこと結構見てますよね」
「ええ。見ているわよ?」
即答だった。
こういうところは強い。
星南さんは、自分が誰かを見ていることを恥ずかしがらない。評価する。期待する。いいと思ったら褒める。気に入ったものには気に入ったと言う。
真正面から来られると、こっちが照れるくらいだ。
だから、少しくらい返してもいいだろうと思った。
「嬉しいです」
「…………」
足音が一つ分だけずれた。
星南さんを見る。表情はほとんど変わっていない。姿勢もいつも通り。でも返事がない。
……あ。
今の、効いた。
最近分かってきた。
星南さんは本当に困った時ほど、派手には崩れない。ほんの一拍だけ止まる。
最初は気づかなかった。
今は分かる。
「星南さん?」
「……先輩」
「はい」
「突然そういう返しをするのはやめて。驚くから」
「あ、すみません」
「謝らなくていいの」
「じゃあ、ありがとうございます」
「…………」
また一拍。
「……話、聞いていた?」
「聞いてますよ?」
「そう」
小さく息を吐く。
ちょっとだけからかいすぎたかな。
そう思ったけれど、横顔を見ると怒ってはいない。むしろ口元がほんの少し緩んでいた。
なら、大丈夫だろう。
……たぶん。
◇
資料室へ向かう途中だった。
「先輩。この箱もお願いできる?」
「はい」
星南さんから資料箱を受け取る。そこまで重くない。両腕で抱え直し、角を曲がった。
向こうから女性スタッフが歩いてくる。
「あ、Pく――」
その靴が、足元に置かれていたコードへ引っかかった。
「きゃっ!」
女性スタッフの身体が傾いた。
考えるより先に、抱えていた箱を離した。床にぶつかった箱から紙が散るのを視界の端に捉えながら、右足を踏み込み、倒れかけた身体へ腕を伸ばす。
「危ない!」
肩と腕へ一気に重さがかかった。同時に胸元で何かが強く引っ張られた感触がしたが、その時はどうでもよかった。
転ばせないこと。
頭を打たせないこと。
それしか頭になかった。
「大丈夫ですか!?」
「う、うん……」
「足、捻ってません?」
「大丈夫。びっくりしただけ」
支えながら、ちゃんと立てることを確認する。足にも力が入っている。頭も打っていない。手もつけている。
「よかった……」
胸の奥に入っていた力が、ようやく抜けた。
床に散らばった資料は後で拾えばいい。怒られたら謝ればいい。怪我がなかったなら、それでいい。
「先輩」
後ろから星南さんの声がした。
「はい?」
「……服」
「え?」
自分を見る。
「…………」
シャツが引っ張られていた。
ボタンが外れている。
いつもなら隠れている胸元が、かなり開いていた。
一秒。
二秒。
理解した瞬間、首筋まで一気に熱くなった。
待って。
いつから?
どこまで?
この人には?
星南さんには?
というか廊下、誰か通ってなかった!?
「うわっ!?」
反射的に胸元を押さえる。
「み、見えました!?」
「見てない!」
女性スタッフが即答した。
「今ので見えたって分かりましたよ!?」
「ご、ごめんなさい!」
「いや謝らないでください! 事故なんで!」
違う。
そうじゃない。
落ち着け俺。
まずボタン。
指が微妙に震えて、上手く穴に入らない。
恥ずかしい。
普通にめちゃくちゃ恥ずかしい。
ついさっきまで人を助けたことしか頭になかったのに、今になって全部まとめて押し寄せてくる。朝、エイト先輩に第二ボタンを注意されたばかりだ。それをちゃんと留めたはずなのに、なんで昼にはこんなことになっているんだ。
『後輩』
床へ落ちた鞄からエイト先輩の声がした。
『負傷は?』
「ないです!」
『相手は』
「大丈夫です!」
『ならいい』
「よくないです!!」
『何がだ』
「俺の尊厳!!」
『大袈裟だ』
「先輩ロボットだから分かんないんですよ!」
『偏見だぞ、後輩』
「今それ言います!?」
ようやく最後のボタンが留まった。それでも不安になって、上から一個ずつ指で確認する。
一個。
二個。
三個。
大丈夫。
全部留まってる。
……いや、大丈夫じゃない。
見られたかどうかが分からない。
恐る恐る顔を上げる。
女性スタッフとは目が合った瞬間に逸らされた。
これは駄目だ。
絶対ちょっと見られてる。
もう一人。
星南さんを見る。
目が合った。
「…………」
「…………」
いつもの落ち着いた顔。
何も読み取れない。
いや、この人なら見ていても普通に黙っていられる。
「星南さん」
「なにかしら」
「見ました?」
「…………」
ほんの一拍。
星南さんが微笑んだ。
「フフ……秘密。」
「星南さん!?」
今日一番の声が、廊下に響いた。
◇
「冗談よ」
「今それやります!?」
「ごめんなさい。少し面白くて」
「俺は全然面白くないですよ!」
星南さんは口元に手を添えて笑っている。完全に他人事だ。いや、この人の場合、俺が本気で嫌がっていると分かったら絶対にやめる。だからこそ、今の俺が「恥ずかしくて死にそうではあるけど、本気で傷ついてはいない」と見抜いたうえで遊ばれている気がする。
それはそれで悔しい。
もう一度胸元を確認する。全部留まっている。今度こそ大丈夫。
「それで……実際、どこまで」
「先輩」
「はい」
「それ以上は聞かない方がいいと思うわ」
「なんでです?」
「聞いてどうするの?」
「…………」
何もできない。
時間は戻らない。
俺は口を閉じた。
「賢明ね」
「星南さん、たまに容赦ないですよね……」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてません」
女性スタッフにも改めて怪我がないことを確認し、散らばった資料を三人で拾う。しゃがむ時にシャツがずれないか気になって、無意識に胸元へ手がいった。
大丈夫。留まっている。
立ち上がる。
また触る。
大丈夫。
「先輩」
「はい?」
「もう外れていないわよ」
「分かってます」
触る。
「……分かってる人の行動には見えないけれど」
「しばらく無理です!」
星南さんがまた笑った。
最悪だ。
いや、スタッフさんが怪我しなかったんだから、最悪ではない。
それだけは本当によかった。
だからまあ、俺がしばらく恥ずかしいくらいなら安いものだ。
そう思うことにした。
◇
思うことにはした。
したのだが。
「ねえ」
午後の休憩室。
藤田ことねは、声を潜めていた。
「これ、本人いないところで話すことじゃなくない?」
「わたしもそう思うわ」
「じゃあなんで咲季はここにいるんだよ」
「状況の確認よ」
「何の状況だよ!」
俺はその会話を聞いていなかった。
その時の俺は星南さんと別の部屋で映像資料を確認していたからだ。
だからこれは、後になって知った話である。
発端は、どうやら俺が助けたスタッフさんではなかったらしい。廊下の向こう側にもう一人職員がいて、その人が別の人へ話し、そこから「Pが女性スタッフを助けた時に服が引っかかった」という部分だけが妙に速く広がった。
そして情報というものは、伝言ゲームをすると余計な部分ほど強くなる。
「で、どこまで見えたの?」
「咲季ぃ!?」
「だってそこが分からないと状況を把握できないでしょう?」
「何に使うんだよその情報!」
「別に使わないわ。ただ、事故だったのなら――」
「くだらな」
月村さんが切った。
藤田さんが振り返る。
「お、手毬。珍しくまともじゃん」
「別に男の裸くらいで騒ぎすぎ。事故なんでしょ」
「そう! それ! あたしもそう言ってんの!」
「……筋肉あった?」
「お前もかよ!!」
「聞いただけだけど」
「めちゃくちゃ興味あんじゃねーか!」
「ないし」
「じゃあ聞くな!」
月村さんは不満そうに口を閉じた。
三秒後。
「私だって見たことあるし」
「何を!?」
藤田さんの声が裏返る。
「プロデューサー」
「だから何をだよ!」
「前、雨の日。シャツ濡れてたから」
「服越しじゃん!」
「だいたい分かったから」
「何が!?」
「カウントする」
「何にだよ!?」
「ことね、さっきからうるさい」
「全部お前らのせいだろ!!」
藤田さんの猫は、完全にどこかへ行っていた。
「あなたたち」
そこで、扉が開いた。
三人が振り返る。
星南さんだった。
「本人が聞いたら、本気で困るわよ」
「会長……」
藤田さんが、やっと味方が来たという顔をした。
「そう! そうなんすよ! 言ってやってくださいよ!」
「事故で服が乱れただけでしょう? 面白半分に話すようなことではないわ」
「ですよね!」
「咲季も、手毬も。そのくらいにしておきなさい」
「……分かったわ」
「別に私は何も言ってないけど」
「お前が一番言ってたよ!」
藤田さんが大きく息を吐いた。
そして、何かに気づいた。
「……あれ?」
「なに?」
「会長、現場いたんすよね?」
「いたわ」
「…………」
咲季さんが星南さんを見る。
「…………」
月村さんも見る。
「…………」
藤田さんまで見る。
星南さんの眉が、ほんの少しだけ上がった。
「何、その目は」
「いえ」
「別に」
「何でもないっす」
「そう」
星南さんは笑顔だった。
「なら、いいのだけれど」
その場にいた全員が、それ以上は聞かなかった。
賢明だったと思う。
◇
問題は、俺がその会話の最後だけ聞いてしまったことだった。
「星南さん、さっきの資料――」
休憩室の扉へ手をかける。
『後輩』
「はい?」
『待て』
「なんで――」
中から声がした。
「私だって見たことあるし」
月村さん。
「服越しじゃん!」
藤田さん。
「カウントする」
「何にだよ!?」
俺の手が止まった。
「…………」
『後輩』
「先輩」
『なんだ』
「俺、入って大丈夫だと思います?」
『やめておけ』
「ですよね」
踵を返そうとした。
「会長、現場いたんすよね?」
「いたわ」
止まった。
…………。
いや。
帰ろう。
資料は後で渡そう。
そう思ったところで、
「なら、いいのだけれど」
扉が開いた。
星南さんと目が合った。
「…………」
「…………」
その向こう。
咲季さん。
月村さん。
藤田さん。
全員と目が合った。
「…………」
静かだ。
さっきまであんなに喋っていたのに、怖いくらい静かだ。
俺は持っていた資料を星南さんへ差し出した。
「……資料、終わりました」
「え、ええ。ありがとう、先輩」
珍しく星南さんの返事が少し速い。
俺は頷いた。
「じゃあ俺、戻りますね」
「プロデューサー」
咲季さんに呼び止められた。
「はい」
「その……」
言葉を探している。
珍しい。
「事故だったのよね?」
「事故ですよ?」
「そうよね」
「はい」
「ならいいわ」
「何がです?」
「…………」
咲季さんが黙った。
藤田さんが顔を覆う。
「咲季ぃ……」
「何よ! 確認しただけでしょう!」
「何の確認なんだよ……」
月村さんは俺を見ている。
正確には、胸元を見ている。
「月村さん」
「なに?」
「どこ見てます?」
「別に」
「今めちゃくちゃ目合いましたよ。胸と」
「自意識過剰じゃない?」
「胸とは目合わないだろ手毬!」
藤田さんのツッコミが飛ぶ。
俺は反射的にシャツのボタンを確認した。
一個。
二個。
三個。
大丈夫。
「……プロデューサー」
「はい?」
藤田さんが申し訳なさそうな顔をしていた。
「マジでごめんなさい。あたしは止めたんで」
「藤田さんだけは信じます」
「おい」
月村さん。
「待ちなさいよ」
咲季さん。
「フフ」
「星南さんも笑わないでください!」
「ごめんなさい」
「絶対反省してないですよね!?」
「しているわ」
「笑ってる!」
もう嫌だ。
いや。
本当に嫌ならもっと怒っている。
この人たちだから、これで済んでいるところもある。
分かっている。
分かっているけど。
「しばらく俺の胸元の話禁止ですからね!」
「分かったわ」
「別にしてないし」
「月村さんは特に!」
「なんで私だけ」
「一番してたからだろ!」
藤田さん。
ありがとう。
今日ほど君のツッコミが頼もしかった日はない。
◇
十七時三十四分。
『完了した』
「本当ですか?」
『確認しろ』
エイト先輩から送られてきた一覧を見る。
スケジュール調整。映像比較。SNS反応の集計。資料整理。明日以降の施設使用申請。連絡事項。
全部終わっている。
「……終わってる」
『だから言っただろう』
「先輩、本当に仕事できますよね」
『今さらか』
「いや、毎日思ってます」
『ならもっと敬え』
「先輩、好きです」
『そういう敬い方ではない』
「じゃあ何すればいいんです?」
『明日の予定を無闇に増やすな』
「それはちょっと」
『後輩』
「善処します」
『信用できん』
パソコンを閉じる。
正式な仕事は終わった。
残業はゼロ。
ここから先は、仕事というより俺が勝手に気になっていることだ。
まず、明日の咲季さんのメニュー。右肩への負担が少ない内容へ変更する。エイト先輩が出してくれたデータを見ながら、本人が「物足りない」と言い出さない程度には負荷を残す。
『甘やかしすぎではないか』
「全部休みにしたら勝手に自主練しますよ」
『否定できんな』
「でしょう?」
送信。
すぐ既読。
『分かったわ。明日はこれでやる。その代わり、ちゃんと見てなさいよ。』
最後までそこなんだな。
少し笑う。
次。
藤田さん。
午後に頼まれていた資料の確認結果を送る。
『ありがとうございます♪ 助かりましたぁ~!』
その直後。
『あと今日のアレ、ほんとあたし悪くないんで!!!』
猫が落ちた。
『分かってますよ』
と返す。
数秒後。
『ならよし!』
早い。
星南さんへはさっき資料を返した。
残るは。
「月村さん」
待ち合わせ場所へ行く。
いた。
ベンチに座っている。
そして。
「…………」
寝ている。
「月村さん」
「……ん」
「月村さん」
「起きてる」
「寝てましたよ」
「目閉じてただけ」
「その言い訳無理ありますよ」
「……うるさい」
ゆっくり目を開ける。
やっぱり眠そうだ。
俺が来るまで、本当に待っていたらしい。
こういうところを見ると、強く怒れない。
「帰りましょう」
「ん」
立ち上がる。
少しふらついたので、反射的に手を出しかけた。
止める。
月村さんもそれを見た。
「何」
「いや」
「支えてくれればいいじゃん」
「歩けるでしょう?」
「ケチ」
「ケチで結構です」
並んで歩き出す。
俺は身体の距離には気をつける。前に何度か失敗して、ようやく覚えた。
月村さんも、俺がそこに線を引くことは知っている。
だから不満そうにはするけれど、無理には越えてこない。
「今日、帰ったら寝てくださいね」
「分かってる」
「動画見ない」
「……」
「月村さん」
「分かってるって」
「本当です?」
「プロデューサー、最近お母さんみたい」
「誰のせいですか」
「知らない」
少しだけ笑っている。
駅まで送る。
改札の前で月村さんが振り返った。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
「……ちゃんと来てね」
「学校なんだから来ますよ」
「そういう意味じゃないけど」
「?」
「別に」
出た。
一番信用できない「別に」。
月村さんはそれ以上何も言わず、改札の向こうへ消えた。
俺は姿が見えなくなるまで見送ってから、時計を確認した。
まだ帰れる時間だ。
今日はもう終わり。
そう思って歩き出した。
◇
朝から気になっている人がいた。
同じプロデューサー科の先輩。
「おはようございます」
「……おはよう、Pくん」
朝は、それだけだった。
いつもならもう一言二言ある。俺の鞄からエイト先輩が見えていれば「今日も一緒なんだ」と笑うし、朝食を抜いた話をすれば普通に怒られる。
今日はなかった。
昼。食堂の端で見かけた。半分以上残して席を立った。
午後。打ち合わせで一度だけ一緒になった。いつもなら意見を出すところで、ほとんど喋らなかった。
別に、だから何だという話だ。
疲れているだけかもしれない。一人で考えたいことがあるのかもしれない。俺が首を突っ込む必要なんてないのかもしれない。
廊下の向こうに、その先輩がいた。
一人で荷物をまとめている。
俺は歩く。
一歩。
声をかけるなら今だ。
二歩。
いや、やめておこう。
男の俺から、この時間に女性を二人きりの食事へ誘う。
今の俺には、その意味が分かる。
昔なら分からなかった。
何も考えず「飯行きません?」と言っていただろう。
今は違う。
分かっているから、一度通り過ぎた。
三歩。
朝からおかしかった。
四歩。
昼飯もほとんど残していた。
足が止まった。
……見なかったことには、もうできない。
知らなければ帰れた。
気づかなければ帰れた。
でも、気づいた。
このまま家に帰って、風呂に入って、ベッドに入った自分を想像する。
たぶん俺は思う。
声くらいかければよかった、と。
正しいかどうかじゃない。
余計なお世話かもしれない。
嫌がられるかもしれない。
でも。
何も言わないで後悔する自分の方が、俺は嫌だった。
『後輩』
「分かってます」
『まだ何も言っていない』
「分かってますって」
振り返る。
「先輩!」
女性が驚いて顔を上げた。
「……Pくん?」
「ラーメン行きません?」
「…………」
数秒。
「……この時間に?」
「はい」
「男の子から女を二人きりで誘うには、ちょっと重い時間じゃない?」
「はい」
「分かってるんだ」
「だから一回帰ろうとしました」
「帰ろうとしたんだ……」
「四歩くらい」
「具体的ね」
少しだけ笑った。
朝から初めて見た笑顔だった。
それだけで、振り返ってよかったと思ってしまう。
「でも俺、このまま帰るの嫌だったんです」
「……どうして?」
「先輩、今日ずっと変だったから」
「…………」
「何があったかは知りません。聞かれたくないなら聞きません。でも飯くらいなら一緒に食えます」
「それ」
「はい?」
「女の子に言うと、勘違いされるよ」
「分かってます」
「分かってて言うんだ」
「はい」
「……本当に変な子」
「よく言われます」
「知ってる」
先輩は少し迷った。
俺は待った。
ここから先を決めるのは俺じゃない。
「……味噌」
「はい?」
「味噌ラーメンがいい」
「いいですね!」
歩き出す。
先輩も隣へ並んだ。
◇
ラーメン屋では、ほとんど俺から聞かなかった。
食べる。
先輩が少し話す。
聞く。
また食べる。
仕事が上手くいっていないこと。自分より後から入った人が結果を出していること。担当に期待されているのに、応えられている気がしないこと。
辞めた方がいいのかもしれないと思ったこと。
俺は麺をすすりながら聞いていた。
「……ごめんね」
「何がです?」
「こんな話するつもりじゃなかったのに」
「いいですよ」
「重いでしょ」
「ラーメンの方が重いです」
「何それ」
「大盛りにしたんで」
また少し笑った。
よかった。
「Pくんなら、どうする?」
「俺ですか?」
「うん。辞める?」
箸を止めた。
考える。
「分かんないです」
「……そっか」
「だって先輩の人生ですし」
「冷たいね」
「そうですか?」
「そこは『辞めないでください』とか言ってくれるところじゃないの?」
「言ってほしいです?」
「……ちょっとだけ」
「じゃあ言います。俺は辞めてほしくないです」
「軽っ」
「でも、決めるのは先輩でしょう?」
「…………」
「俺が辞めてほしくないのと、先輩がどうするかは別です」
先輩が俺を見る。
「俺、先輩と話すの好きですよ。仕事の相談もできるし、色々教えてもらったし。だからいなくなったら嫌です」
「そういうの、本当にさらっと言うね」
「まずかったです?」
「まずい」
「すみません」
「謝るのも違う」
「難しいな……」
少し考える。
でも結局、俺に言えることなんてそんなにない。
「ただ」
「うん」
「腹減ってる時に人生の答え出すの、やめましょうよ」
「…………」
「今日昼飯ほとんど食べてなかったでしょう」
「見てたの?」
「見えたんです」
「怖」
「ひどい」
「冗談」
「疲れて、腹減って、落ち込んでる時に決めなくてもいいじゃないですか。今日決めなくても明日は来るし」
「……明日も駄目だったら?」
「その時また考えればいいですよ」
「明後日も?」
「明後日も」
「一週間駄目だったら?」
「一週間分考えましょう」
「適当」
「でも、一週間後まで今日の気分で決める必要ないでしょう?」
先輩が黙った。
俺は残っていた麺を食べる。
正しいことを言えているかは分からない。
たぶん、もっと上手い励まし方はある。
でも俺は、先輩の人生を代わりに決められない。
辞めるなとも、辞めろとも言えない。
ただ、今日の先輩が、今日一番しんどい気分のまま全部決めてしまうのは嫌だった。
「……美味しい」
「味噌にして正解でしたね」
「うん」
先輩は今度こそ、ちゃんと笑った。
◇
家に着いた頃には、そこそこ遅い時間になっていた。
「疲れた……」
『自業自得だ』
「でもラーメン美味かったですよ」
『そういう話ではない』
エイト先輩を机へ置く。
ガシャン、と携帯形態から変形する。
俺はそれをじっと見る。
『……なんだ』
「いや、やっぱ格好いいなって」
『今日何度目だ』
「何回見ても格好いいものは格好いいです」
『そうか』
椅子へ座る。
しばらく何となく今日のことを思い返した。
咲季さんの肩。
月村さんの寝不足。
藤田さんのお菓子。
星南さんとの資料整理。
……胸元事故。
「うっ」
『どうした』
「思い出しました」
『忘れろ』
「簡単に言わないでくださいよ……」
胸元を確認する。
『まだやるのか』
「今日だけです!」
『そうか』
「…………」
エイト先輩を見る。
朝から引っかかっていたことを思い出した。
「先輩」
『なんだ』
「前から思ってたんですけど」
『何をだ』
「先輩、たまにみんなのこと、昔から知ってるみたいに話しますよね」
エイト先輩が黙った。
ほんの少し。
それだけで、何かあるんだと分かった。
「咲季さんの時もそうでした。月村さんの時なんて、俺が聞く前に『本人に聞け』って言ったし」
『…………』
「初星にも詳しかったし」
『……知識としては、な』
「知識?」
『昔の話だ』
短い答えだった。
俺は続きを待った。
来ない。
「……話したくないです?」
『そういうわけではない』
「じゃあ、話したくなったら話してください」
『聞かないのか』
「聞いてほしいなら聞きますよ」
『そうではない』
「ならいいです」
背もたれへ身体を預ける。
「昔何があったって、今の先輩が先輩なら別にいいですし」
『…………』
「俺、先輩にめちゃくちゃ助けてもらってますから」
『そうか』
「はい」
しばらく静かだった。
『後輩』
「はい?」
『お前は他人の人生に首を突っ込むな』
「今日のこと怒ってます?」
『違う。事実を言っている』
「じゃあ何ですか」
『お前は他人の人生に首を突っ込む。そして首を突っ込んだくせに、相手の人生を決めようとはしない』
「……それ、褒めてます?」
『まだ終わっていない』
「はい」
『失敗すれば一緒に悩む。転べば手を差し出す。だが、立つかどうかは本人に任せる。そのうえで、明日があることだけは疑わない』
「そんな大層なこと考えてませんよ」
『知っている』
「じゃあ言わないでくださいよ。恥ずかしい」
『フッ』
「今笑いました?」
『気のせいだ』
「絶対笑った!」
エイト先輩は、それ以上答えなかった。
◇
後輩は知らない。
この世界を。
初星学園を。
彼女たちを。
何も知らなかった。
最初に花海咲季という名を聞いた時、「誰です?」と答えた。
月村手毬も。
藤田ことねも。
十王星南も。
後輩にとっては、ただの名前だった。
私は違った。
知っていた。
花海咲季がどういう少女なのか。
月村手毬がどういう少女なのか。
藤田ことねが。
十王星南が。
何を望み、何につまずき、何に笑い、何に傷つくのか。
私は知識として知っていた。
だからこそ、教えなかった。
知識は便利だ。
人間を理解した気にさせる程度には。
花海咲季はこういう人間だ。
月村手毬はこう動く。
藤田ことねはここでこう考える。
十王星南ならこう答える。
そんなものを後輩へ渡せば、あいつは彼女たちを見る前から「分かった」つもりになってしまうかもしれない。
それが嫌だった。
だから、自分で見ろと言った。
そして後輩は、本当に見た。
咲季の右肩が、ほんの僅かに落ちた。
それを見た。
手毬の返事が、いつもより一拍遅かった。
それを聞いた。
ことねが値札を何度も見て、結局商品を棚へ戻した。
それを覚えていた。
星南の足が、ほんの一歩だけ遅れた。
それに気づいた。
私の知識にはないものばかりだった。
私は「花海咲季」を知っていた。
後輩は、今日の咲季を見ていた。
私は「月村手毬」を知っていた。
後輩は、昨日二時まで起きていた手毬を見抜いた。
私は「藤田ことね」を知っていた。
後輩は、彼女がいつ猫を被り、いつそれを落とすのかを笑って見ている。
私は「十王星南」を知っていた。
後輩は、彼女が本当に驚いた時に生まれる、たった一拍の沈黙を知っている。
いつからだっただろう。
私が、かつての知識を彼女たちを見るために使わなくなったのは。
今では私も、後輩と同じように彼女たちを見る。
今日の咲季。
今日の手毬。
今日のことね。
今日の星南。
物語の中ではなく。
目の前にいる人間として。
私は彼女たちを知っていた。
後輩は彼女たちを知らなかった。
だが今。
どちらが彼女たちをよく知っているのかと問われれば――私は、もう即答できない。
そして、それでいいのだと思う。
私は知識を持っていた。
プロデュースの方法も知っていた。
彼女たちが歩んだ物語さえ、知っていた。
後輩に予定の組み方を教えた。
情報の整理を教えた。
映像の比較を教えた。
リスクの管理を教えた。
プロデューサーとして必要な技術を、いくつも教えた。
だが。
――プロデューサーとは、何なのか。
それだけは、私は知らなかったのかもしれない。
いや。
知っているつもりで、分かっていなかったのだ。
奇しくも、かつて私自身が後輩へ言ったことと同じだった。
知っていることと、分かっていることは違う。
人をよく見ること。
本人さえ見落としそうな小さな変化を拾うこと。
踏み込むべき時には、自分の意思で踏み込むこと。
だが、その人の人生まで自分のものにしないこと。
手を差し出しても、立ち上がることまでは強制しないこと。
今日上手くいかなかった人間にも、当然のように明日があると信じること。
それを私は、知識としてではなく。
毎日、隣で見てきた。
後輩。
私はお前に、プロデュースの方法を教えた。
だが――。
プロデューサーとは何なのか。
それを私に教えてくれたのは、お前だった。
「……先輩?」
『なんでもない』
「今なんか言いました?」
『寝ろ』
「まだ風呂入ってないです」
『なら入れ』
「一緒に入ります?」
『断る』
「防水じゃないんですか?」
『そういう問題ではない!』
後輩は笑った。
まったく。
女性の機微には妙に鋭いくせに。
機械を相手にすると、どうしてここまで馬鹿になるのか。
◇
翌朝。
目を覚ますと、連絡が四件来ていた。
咲季さん。
『肩、もうほとんど気にならないわ。今日は昨日の分までやるから、ちゃんと見てなさいよ』
月村さん。
『寝た。褒めて』
「……何歳なんだ、この人」
藤田さん。
『昨日の件、あたしはマジで止めた側ですからね!? あと今日売店寄るなら昨日のやつまだあります』
「食べたいんだな」
星南さん。
『先輩。昨日の資料、確認したわ。ありがとう。それから――今日はボタン、きちんと確認してから来なさいね。』
「…………」
布団の中で胸元を見る。
パジャマ。
全部留まっている。
「先輩」
『なんだ』
「今日どうすればいいですかね」
『自分で考えろ』
「冷たい!」
『昨日あれだけ好き勝手やっておいて、今さら私に聞くな』
「好き勝手って」
『そのままの意味だ』
エイト先輩が机の上で立ち上がる。
ガシャン。
腕が収納される。
脚が折り畳まれる。
外装が閉じる。
「…………」
格好いい。
「先輩」
『なんだ』
「今の変形もう一回やってください!」
『断る』
「なんで!?」
『朝からうるさい!』
「ロボットですよ!?」
『だからなんだ!』
「ロボットですよ!?」
今日も、プロデューサーの一日が始まる。