十一月の最初の土曜日は、嵐だった。
グリフィンドール対ハッフルパフ。朝から空は真っ黒な雲に覆われ、校庭の木々が、風に煽られて弓のようにしなっていた。観客席に向かう生徒たちは、傘を三本ずつ壊しながら、泥の中を這うように進んでいった。
「こんな日に試合なんて、正気じゃないよ」
ロンが、ずぶ濡れのマフラーを絞りながら言った。
観客席のベンチは、水たまりのようになっていた。サミュエルは、ロンとハーマイオニーと並んで、グリフィンドールの席の一番上の段に座った。雨が、横殴りに顔を打つ。ピッチの上を飛ぶ選手たちは、赤と黄色のぼやけた染みにしか見えなかった。
「ハリー、眼鏡が見えてないんじゃないかしら」
ハーマイオニーが、心配そうに身を乗り出した。
試合の途中で、ウッドがタイムアウトを取った。ハーマイオニーが観客席を駆け降りていき、ハリーの眼鏡に何か呪文をかけて戻ってきた。
「インパービアス、水を弾く呪文よ。これで少しは見えるはず」
息を切らせて戻ってきた彼女の髪から、雨粒が滴っていた。
*
試合が再開して、しばらく経った頃だった。
サミュエルは、ふと、雨が止んだような気がした。
止んではいなかった。雨は、相変わらず横殴りに降り続けている。けれど、雨粒の冷たさとは違う冷たさが、足元から這い上がってきていた。
息が、白くなった。
手の指先が、かじかんでいく。雨に濡れたからではない。体の内側から、何かを吸い取られていくような冷たさだった。
ピッチの下を見下ろした。
黒い影が、何十もいた。
フードを深くかぶった、背の高い影。ぼろぼろのマントの裾から、灰色の、腐ったような手がのぞいている。影たちは、ピッチの芝生の上を、滑るように近づいてきていた。顔を、上空のハリーに向けて。
吸魂鬼だった。
観客席のあちこちで、悲鳴が上がった。
サミュエルは、立ち上がろうとした。
足が、動かなかった。
耳の奥で、何かが鳴っていた。遠くで、誰かが何かを言っている。女の人の声のような気がした。けれど、何を言っているのか聞き取れない。聞き取ろうとすればするほど、声は遠のいていく。
右目の奥で、景色が、ずれた。
数秒先の未来が、見えるはずだった。
見えたのは、真っ白な、何もない景色だった。
観客席も、ピッチも、隣のハーマイオニーも、何もかもが白く塗りつぶされていた。数秒先の世界から、自分の姿だけでなく、すべてが消えていた。
息が、止まった。
これまで一度も、こんなものを見たことはなかった。
「――ハリー!」
隣で、ハーマイオニーが叫んだ。
その声で、白い景色がふっと消えた。
上空で、ハリーの体が、箒から離れていくのが見えた。真っ逆さまに、ピッチへ向かって落ちていく。
教職員席のほうから、銀色の光が走った。ピッチへ駆け降りてきたダンブルドアだった。杖から放たれた光が、落ちていくハリーの体を受け止め、ゆっくりと芝生の上に下ろす。次の瞬間、銀色の何かが吸魂鬼たちに向かって放たれ、黒い影たちは、ピッチの外へ散り散りに逃げていった。
冷たさが、すうっと引いていった。
サミュエルは、自分の手を見下ろした。指が、細かく震えていた。
いつの間にか、ベンチの縁を、爪が食いこむほど強く握りしめていた。
*
ハリーは、医務室に運ばれた。
命に別状はなかった。けれど、ハリーの箒――ニンバス2000は、風に飛ばされて、暴れ柳の枝に叩きつけられ、粉々になっていた。
試合は、ハッフルパフの勝ちだった。
その夜、医務室のベッドの脇で、ロンがニンバスの残骸を布に包んで持ってきた。ハリーは、それを黙って見つめていた。
「……サミュエルなら、直せないかな」
ハリーが、布の中の木片を一つ、指でつまんだ。
サミュエルは、残骸をのぞきこんだ。柄は十数本の木片に裂け、穂の小枝は半分以上が折れて、どこかへ飛び散っていた。
「形だけなら、元に戻せる。でも、飛ばない」
「どうして?」
「箒の飛ぶ力は、作った職人が木の芯に編みこんだものなんだ。一度ここまで砕けたら、編み目がほどけてしまう。……ごめん」
「……だよね」
ハリーは、木片をそっと布の上に戻した。何も言わずに、しばらくそれを見つめていた。
「吸魂鬼って、近くに来ると、一番嫌な記憶を思い出させるんだって」
帰り道の廊下で、ハーマイオニーが言った。
「ハリーは、何か……声が聞こえたって。女の人の悲鳴が」
「……そう」
サミュエルは、それだけ答えた。
観客席で聞こえた、あの遠い声のことは、言わなかった。何を言っていたのかも分からない声のことなど、言いようがなかった。
それに、あの白い景色のことも。
週明けの月曜日、闇の魔術に対する防衛術の授業のあと、ルーピン先生が、また教室に残るようにと言った。
「土曜日の試合、観客席にいたね。吸魂鬼の近くで、何か感じたかい」
「寒かっただけです」
「そうか」
ルーピン先生は、それ以上は聞かなかった。代わりに、引き出しから大きな板チョコを取り出して、半分に割って差し出した。
「食べなさい。吸魂鬼に近づいたあとは、これが一番効く」
口に入れると、指の先まで、じんわりと温かさが広がっていった。
「……ありがとうございます」
「もし、また何か――言葉にならないようなものを感じたら、ここへおいで。言葉にならないまま、話してくれていい」
ルーピン先生の目は、やはりどこか痛ましそうだった。
*
試合から一週間のうちに、サミュエルの周りの空気が、目に見えて荒れていった。
始まりは、ハッフルパフの上級生の一言だった。
「吸魂鬼がピッチに入ってきたのって、ブラックを探してたからだろ。だったら、ブラックの息子がいるところに寄ってくるのも、当然じゃないか」
冗談めかした一言が、尾ひれをつけて廊下を駆け巡った。
凶悪犯の息子。吸魂鬼を呼び寄せる男。
その噂がまだ消えないうちに、今度は別の噂がかぶさってきた。
「でも、フラー・デラクールの彼氏なんでしょ?」
「ボーバトンの、あの美人の? なんであんなやつが」
「どうせ、ブラックの件を誤魔化すために付き合ってるんだって」
薄っすらと彼を妬んでいた何人かの生徒が、ここぞとばかりに陰口を叩き始めた。廊下ですれ違いざまに、わざと聞こえるように。図書室の書架の向こうで、くすくす笑いながら。
陰口は、やがてフラーにまで飛び火した。
「ヴィーラの血で、男をたぶらかすんだってさ」
「ホグワーツの男子にまで手を出すなんて、ボーバトンはどういう教育してるのかしら」
それを聞いたとき、サミュエルは、初めて笑顔を作り損ねた。
数日後、フランスから、白い上等な紙の手紙が届いた。
〈ホグワーツで、私の陰口が流れているって、ボーバトンにまで聞こえてきたわ。気にしないで。ヴィーラの血がどうこうと言われるのは、生まれたときから慣れているもの。
それより、あなたのほうが心配。あなたは、慣れていないでしょう。――F〉
サミュエルは、その手紙を、返事を書かないまま、何日も机の上に置いていた。
地下牢の前の廊下では、ドラコに呼び止められた。
「ブラックの息子だの、ボーバトンの恋人だの、吸魂鬼を呼ぶ男だの。忙しいやつだな、お前は」
「全部、僕が言い出したことじゃないよ」
「知ってる」
ドラコは、顔をしかめた。
「スリザリンでも、言ってるやつがいる。……言っとくけど、僕は言ってないからな」
ドラコはそれだけ言うと、足早に去っていった。
*
そんな中、思いがけないことが起きた。
レイブンクローの女子生徒たちが、日刊予言者新聞の編集部宛てに、正式な抗議文を送ったのだ。
その写しが、レイブンクロー寮の掲示板に、堂々と貼り出されていた。
〈亡くなった英雄の私的な日記を無断で掲載し、その子息の出生を興味本位に詮索する貴紙の報道姿勢に、我々は強く抗議する。また、八月の合宿におけるデラクール嬢の発言を歪曲し、恋愛報道へとすり替えた記事についても、訂正を求める。〉
末尾には、三十人以上の署名があった。パドマの名前もあった。
「レイブンクローに、サミュエルの非公式のファンクラブがあるんだって」
談話室で、ラベンダーが目を丸くしていた。
「三年生と四年生が中心で、会員が四十人もいるらしいわよ。サミュエルの横顔が、大人っぽくて素敵だって」
「……初耳だ」
「本人が知らないのが、ファンクラブってものよ」
パーバティが、得意げに言った。
それから、もっと思いがけないことが続いた。
廊下で陰口を叩いていたハッフルパフの上級生に、ハンナ・アボットが、真っ赤な顔で食ってかかった。
「サミュエルは、そんな人じゃないわ! 一年生のとき、私が魔法史のレポートで泣いてたら、黙って資料を貸してくれたもの!」
スリザリンの生徒にからかわれていたとき、シェーマスが割って入った。
「おい、サミュエルの悪口言うなら、俺に言え。あいつがいなかったら、俺は一年のとき、上級生にずっといじめられてたんだからな」
ネビルが、震える声で、でもはっきりと言っていた。
「サ、サミュエルは、僕に薬草学のことを聞いてくれたんだ。みんなの前で。あれから、誰も僕のことを、間抜けって言わなくなった」
コリン・クリービーが、カメラを掲げて叫んでいた。
「ヴェスゲレートさんの悪口を言う人の顔、全部撮ってやる!」
ジニーが、腕を組んで上級生をにらみつけていた。
ハーマイオニーは、その輪の中にはいなかった。談話室の隅の机で、黙って本を読んでいた。ときどき、ページの上で羽根ペンが止まっていた。
これまで、サミュエルが誰にも気づかれないように手を貸してきた生徒たちだった。気づかれていないと思っていた。気づかれないように、細心の注意を払ってきた。
それが、全部、見られていた。
そして今、彼らが、サミュエルの前に立っていた。
*
その夜、サミュエルは、寮のベッドの天蓋を見上げていた。
ありがとう、と言えばいいだけだった。ハンナにも、シェーマスにも、ネビルにも。笑って、礼を言えば、それで済む。いつもの自分なら、そうしていた。
けれど、言葉が出てこなかった。
彼らが庇ってくれているのは、誰なのだろう。
資料を貸した自分。上級生に話を振った自分。薬草学のことを聞いた自分。どれも、サミュエルがそう見えるように振る舞った姿だった。困っている誰かを、さりげなく助ける、優しくて頼りになるサミュエル・ヴェスゲレート。
それは、本当の自分なのか。
それとも、ずっと演じてきた、誰かの理想の形なのか。
分からなかった。分からないまま、彼らの厚意を受け取るのが、なぜか怖かった。受け取ったら、何かを騙し取ってしまう気がした。
それに、フラーのこと。
ヴィーラの血で、男をたぶらかす。あの陰口を、フラーは知っているだろうか。知っていたら、どんな顔をしているだろうか。
彼女は、自分を庇ってくれただけだった。それなのに、自分が濁し続けている曖昧な答えのせいで、彼女まで陰口の的になっている。
自分のせいだった。
サミュエルは、寝返りを打った。
観客席で聞こえた、遠い女の人の声。右目に映った、真っ白な景色。差し伸べられる手を、まっすぐ握り返せない自分。
どれも、まだ名前がなかった。名前のないまま、胸の底に、一つずつ、冷たい石のように積み重なっていった。
窓の外では、まだ雨が降っていた。