今年のクリスマス休暇、サミュエルは屋敷に帰らなかった。
父からは、帰ってこいとも、残れとも言われなかった。成績表の写しを送れ、という手紙が一通届いただけだった。
城に残った生徒は、数えるほどしかいなかった。グリフィンドールからは、ハリーとロンとハーマイオニー、それにサミュエルの四人だけだった。
クリスマスの朝、ベッドの足元に、包みがいくつか置いてあった。
一番上は、ウィーズリー夫人の手編みのセーターだった。深緑で、胸に大きく「S」と編みこんである。一年生のときから、毎年届く。最初の年は、広げて眺めてから、トランクの奥にしまった。
今年は、そのまま頭からかぶった。
屋敷からの包みは、なかった。
談話室に降りると、ハリーが細長い包みを抱えて立ち尽くしていた。
包みの中から出てきたのは、一本の箒だった。磨きこまれた柄に、金色の文字。ファイアボルト。ダイアゴン横丁のショーウィンドウで、夏じゅう子供たちが鼻を押しつけていた、世界最高級の箒だ。
添え状は、どこにもなかった。
「差出人が、書いてないの」
ハーマイオニーが、包み紙を何度も裏返していた。顔が、少し青い。
「こんな高価なものを、名前も書かずに送ってくる人なんて、普通いないわ」
サミュエルは、何も言わなかった。
名前を書かない贈り物なら、自分も何度も送っている。銀色の紙の鶴を。名前を書かないのは、書けない理由があるからだ。
――書けない理由。
図書室の新聞の写真が、ふと頭をよぎった。灰色の目の男。ハロウィンの夜、この塔の入口の前に立っていた男。
まさか、と思った。思いながら、その考えを最後まで追い払うことができなかった。
その日のうちに、ハーマイオニーはマクゴナガル先生のところへ行った。箒は、呪いがかかっていないか調べるために取り上げられ、ロンはハーマイオニーと口をきかなくなった。
サミュエルは、止めなかった。止める理由が、見つからなかった。
クリスマスの晩餐は、大広間の真ん中に置かれた一つのテーブルで、先生たちと一緒にとった。ダンブルドアは、尖り帽子の代わりに花飾りのついた婦人帽をかぶって、ご満悦だった。サミュエルは、口をきかない二人の間に座って、どちらとも同じように話した。
ロンが、塩の壺を取ってくれとサミュエルに言った。サミュエルは、壺をロンに渡した。しばらくして、ハーマイオニーが、塩を取ってほしいとサミュエルに言った。ロンの手元にある壺を、サミュエルが取って、ハーマイオニーに渡した。
二人とも、互いの顔を見なかった。
クラッカーを引くと、中から紙の冠が出てきた。サミュエルは、それを、ハーマイオニーの頭に載せた。ハーマイオニーは、少し驚いた顔をして、それから、冠を直さずにそのままにしていた。ロンは、自分の冠を、黙ってハリーの頭に載せていた。
*
休暇の最後の夜、談話室には、サミュエル一人しかいなかった。
塔の入口に、もう太った婦人はいない。ハロウィンの夜からは、代わりに、灰色の小馬にまたがった小柄な騎士の肖像画が掛けられていた。カドガン卿。通りかかる者に誰彼かまわず決闘を申しこみ、合言葉を一日に何度も変えるので、寮生たちの評判はすこぶる悪い。
暖炉の火を見ながら、サミュエルは、ハロウィンの夜の大広間を思い出していた。
寝袋の中から見上げた、凍ったような星。ついさっきまで新聞の中にしかいなかった男が、この塔の前に立っていたという事実。
二か月が経っても、その感覚は、胸の底から消えていなかった。
名前のない箒。名前のない鶴。
サミュエルは、暖炉の火から目をそらした。考えても、答えの出ないことだった。
*
次の日の夕方、帰省していた生徒たちが、列車で戻ってきた。
玄関ホールは、トランクを引きずる生徒たちでごった返していた。ポッターに届いた差出人不明の箒の噂は、生徒たちが城に着いて十分もしないうちに、全員に知れ渡っていた。
「――おい、ヴェスゲレート」
大階段の下で、声をかけられた。
スリザリンの五年生、モンタギューだった。クィディッチのチェイサーで、図体が大きい。その後ろに、スリザリンの生徒が何人か並んでいた。少し離れたところに、ドラコの姿もあった。
玄関ホールのざわめきが、少しだけ静かになった。
「親父とは、まだ連絡を取り合ってるのか?」
モンタギューは、にやにやと笑っていた。
「ハロウィンの夜、宴会にも出ないで、一人で城の中をうろついてたのは、お前だけだったそうじゃないか。休暇中もずっと城に残って、今度はポッターに差出人のない箒だ。親父の使い走りでもしてるんじゃないかって、みんな言ってるぜ」
周りの生徒たちが、息を呑んでこちらを見ていた。
サミュエルは、口を開こうとした。
いつもの笑顔で、いつもの軽口で。「知ってたら、懸賞金で城を買ってるよ」とでも言えば、それで済む。夏の合宿で、一度うまくいったやり方だった。
その言葉を口にする前に、横から、声が飛んできた。
「――よくもまあ、そんな根拠もないことを、堂々と言えるわね」
ハーマイオニーだった。
大階段を降りてきたところで足を止め、モンタギューの前に、まっすぐ歩み出てきた。頬が、怒りで赤くなっていた。
「第一に、ハロウィンの夜、ブラックが肖像画を襲った時間、ヴェスゲレートは図書室にいた。マダム・ピンスが見てるわ。そのあとは一晩じゅう大広間。寝袋は、私の三つ隣だったもの」
「……それが、何だよ」
「第二に。彼はグリフィンドール生よ。合言葉を知ってる。手引きしたなら、どうしてブラックは肖像画を切り裂いたの? 合言葉を知らなかったからでしょう。誰も、手引きなんかしてないのよ」
モンタギューの口が、ぱくぱくと動いた。
「第三に。親子だっていう話の根拠は、一冊の日記と、一本の記事だけ。魔法省は、一度もそんな発表をしてないわ」
ハーマイオニーは、一歩、前に出た。
「第四に。仮に親子だったとして、親が罪を犯したら、子供も罪人になるの? あなたのお父さんが何かしたら、あなたも一緒にアズカバンへ行くのかしら」
玄関ホールが、しんと静まり返った。
どこかで、誰かがくすりと笑った。それが、さざ波のように広がっていった。
ハーマイオニーは、息を吸った。
「第五に――」
モンタギューの顔が、首まで真っ赤になった。
「……この」
モンタギューの手が、ローブの中に滑りこんだ。
「穢れた血のくせに、生意気な――!」
杖の先が、ハーマイオニーの胸に向いた。
考えるより先に、体が動いていた。
*
杖の先が、まっすぐ胸に向いていた。
ハーマイオニーは、息を呑んだ。足が、床に縫いつけられたように動かない。
次の瞬間、ふわりと、甘い香りがした。
熟した桃と、咲き初めの梅の香り。冬の玄関ホールに、そこだけ春が紛れこんだような匂いだった。
それに気づいたときには、モンタギューの杖は、もう彼の手の中になかった。くるくると宙を舞って、石の床の上を、からからと滑っていく。
誰も、呪文の声を聞いていなかった。周りの生徒たちが、きょろきょろと顔を見合わせている。
気がつくと、すぐ隣に、サミュエルが立っていた。
閉じたままの扇を、手に下げていた。
ハーマイオニーは、その横顔を見上げて、思わず息を止めた。
笑っていなかった。
いつもの、誰にでも向ける穏やかな笑みが、どこにもない。眉ひとつ動かさず、声を荒げるでもなく、ただ静かにモンタギューを見ている。灰色の左目も、深紅の右目も、風のない湖のように凪いでいた。
それなのに、すぐそばにいるだけで、肌がひりついた。冷たいのではない。限界まで引きしぼった弓の弦のそばに立っているような、触れたら切れてしまいそうな静けさだった。
――怒ってる。
こんな怒り方をするあの人を、見たことがなかった。
「いい機会だから、言っておく」
低い声だった。大きな声ではないのに、玄関ホールの隅々まで届いた。
「彼女の血は、決して穢れていない」
玄関ホールが、凍りついた。
誰も、動かなかった。誰も、息をしていないようだった。
モンタギューは、杖を拾うことも忘れて、立ち尽くしていた。
人垣の中から、マルフォイが一歩、前に出た。
その顔は、青ざめていた。怒っているのではない。どこか、怯えているような顔だった。
「……サミュエル」
マルフォイの声は、低かった。
「お前、自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
ハーマイオニーにも、その意味は分かった。純血の名家の跡取りが、大勢の前で、マグル生まれを庇ったのだ。今夜のうちに、スリザリン寮じゅうに広まる話だった。
サミュエルは、答えなかった。
床の上の杖を一瞥して、それから、こちらを向いた。
振り向いたその顔は、もう、いつもの顔に戻っていた。
「行こう。夕食が冷める」
ハーマイオニーは、何も言えなかった。
大広間へ向かう人の流れの中を、彼の半歩後ろについて歩きながら、彼女はずっとその背中を見つめていた。
ローブの袖から、まだかすかに、桃と梅の香りがしていた。誰も呪文を聞いていないのに、杖だけが飛んだ。
――あの人だ。
彼女の血は、決して穢れていない。
あの人が、言った。
大勢の前で。スリザリンの生徒たちの前で。マルフォイの前で。自分の家の立場も、お父様の意向も、何もかも顧みずに。
一年生の列車の中で、穢れた血という言葉を最初に私にぶつけた、あの人が。
二年生の十一月に暖炉の前で「全部」と謝って、その理由を学年末の図書室でようやく半分だけ話してくれた、あの人が。
抱えていた本を持ち直そうとして、指がうまく動かないことに気づいた。耳の奥で、自分の鼓動ばかりが大きく聞こえた。
どうして、と聞きたかった。でも、今聞いたら、声が震えてしまいそうだった。
言いそびれた五つ目の理由が、まだ喉の奥に引っかかっていた。言わなくてよかったのかもしれない、と思った。今は、とても言えそうになかった。
彼女は、ローブの内ポケットを、そっと上から押さえた。銀色の鶴が、かさりと小さく鳴った。
*
大広間の入口で、サミュエルは、ふと足を止めた。
ドラコの言いたいことは、分かっていた。今夜のうちにスリザリン寮に広まり、明日にはふくろう便で、ルシウス・マルフォイの耳に届く。それから、父の耳に。あの青ざめた顔は、敵意ではなく、忠告だった。
自分が何をしたのか、少しずつ、その重さが分かってきていた。
父の指示に背いた。どちらの陣営とも敵対しない――バーク家の生命線を、自分の口で切った。何にも動じず、誰とも敵対しない。ずっと被ってきたその自分の形に、自分で穴を開けた。
ハロウィンの夜、この城のどこかに、シリウス・ブラックがいた。文献の中にしかいなかった男が、手の届くところに実在していた。クリスマスの朝には、名前のない箒が、その男の影をもう一度連れてきた。
そして今日、自分は、初めて何も隠さなかった。
二つのことが、胸の中で重なっていた。どちらも、もう元には戻らない。
後悔は、なかった。
不思議なほど、どこにもなかった。
ようやく『ハーマイオニーアンチ絶対許さないマン』のタグ回収が出来ました