一月の二週目に、その手紙は届いた。
朝食の大広間に、見慣れたバーク家のふくろうが舞い降りてきた。脚に結ばれた封筒は、指二本分ほどの厚みがあった。黒い封蝋に、バーク家の紋章。
サミュエルは、それを開けずに、ローブのポケットに入れた。
「開けないの?」
隣のロンが、トーストをくわえたまま聞いた。
「中身は、だいたい分かってるから」
玄関ホールでの一件から、まだ一週間しか経っていなかった。
城の空気は、あの日を境に、また少し変わっていた。スリザリンの生徒の何人かは、廊下ですれ違っても、もうサミュエルに挨拶をしなくなった。代わりに、グリフィンドールの下級生の何人かが、妙にきらきらした目でこちらを見るようになった。レイブンクローの例のファンクラブは、会員が六十人を超えたらしい。
「見て、これ。レイブンクローの子から回ってきたの」
昼食の席で、ラベンダーが一枚の羊皮紙をひらひらさせた。手書きの、小さな新聞のようなものだった。
「『ヴェスゲレート様、玄関ホールでの名言』だって。『いい機会だから、言っておく』のところに、三重線が引いてあるわ」
「……それ、本人に見せるものじゃないと思う」
「あら、見せないと意味がないじゃない」
サミュエルは、羊皮紙から目をそらして、黙ってスープを飲んだ。ロンが、テーブルに突っ伏して笑いをこらえていた。
ハリーは、週に一度、夜にルーピン先生の部屋へ通っていた。吸魂鬼から身を守る呪文を教わっているらしい。クリスマスに届いたファイアボルトは、呪いがかかっていないか調べるために、マクゴナガル先生に取り上げられたままだった。ロンは、それをハーマイオニーのせいだと言って、まだ口をきいていなかった。
ハーマイオニーとは、あの日のことを、まだ一度も話していなかった。
廊下ですれ違えば、目が合う。合うと、彼女は少しだけ頬を染めて、それから足早に通り過ぎていく。サミュエルも、何を言えばいいのか分からないまま、その背中を見送るだけだった。
一度だけ、閉館間際の図書室で、彼女を見かけた。
窓際の席で、積み上げた本の山に突っ伏して眠っていた。数占いの教科書と、マグル学の教科書と、古代ルーン文字の辞書。羽根ペンを握ったままの指に、インクの染みがついていた。目の下の隈は、九月よりも濃くなっていた。
声をかけようとして、やめた。
何と声をかければいいのか、分からなかった。起こしたら、きっと、あの日の話になる。
サミュエルは、彼女の手元で倒れかけていたインク壺を、そっと立て直してから、図書室を出た。
*
手紙を開けたのは、その夜、トランクの工房でだった。
羊皮紙は、五枚あった。父の角ばった字が、隙間なく並んでいた。
〈濁せ、と言ったはずだ。
お前は、大勢の前で、自分の口で、この家の生命線を切った。ルシウスから手紙が来た。ノットからも、エイブリーからも来た。バーク家の跡取りが、穢れた血の娘のために、スリザリンの生徒の杖を叩き落としたそうだな。
お前は、自分が何をしたのか分かっているのか。
我が家は、どちらの陣営にも与さない。だからこそ、どちらの客も店の扉を叩く。お前のたった一言で、この十年かけて築いた均衡が――〉
二枚目も、三枚目も、同じような調子だった。政治の話。商売の話。均衡の話。リスクの話。失望の話。
五枚目の最後に、一行だけ、少し字の乱れた文があった。
〈お前には、失望した。〉
サミュエルは、五枚の羊皮紙を、作業台の上に重ねた。
去年までの自分なら、と思った。
この手紙を読んだら、たぶん、一晩眠れなかった。父の期待に応えられなかった自分を責めて、次はどうすれば父が満足するかを、朝まで考えていた。七歳の冬から、ずっとそうしてきた。
今は、どこか他人事のように読み終えていた。
失望した、という一行を、もう一度見る。
何も、感じなかった。
怒りも、悲しみも、焦りも。ただ、遠い国の天気予報を読んでいるような気分だった。
それが、少しだけ怖かった。
サミュエルは、手紙を引き出しの奥にしまった。それから、作業台の上を片づけて、新しい羊皮紙を一枚、広げた。
*
考えていることが、一つあった。
二年生の十二月、決闘クラブの舞台の上で、スネイプと向き合った夜からずっと、頭の片隅にあったことだった。
あの夜、右目で数手先まで読めていた。読めていたのに、決着はつかなかった。最後は、互いの呪文がぶつかって弾け、引き分けになった。
理由は、分かっていた。
手が、足りなかったのだ。
スネイプの呪文が一つ飛んでくれば、それを受け流すのに扇を一度振る。二つ飛んでくれば、二度振る。どれだけ先が読めても、杖一本で打てる手数には限りがある。熟練した魔法使いが本気で手数を重ねてくれば、いつか読みに体が追いつかなくなる。
あの夜、右目の奥が焼けるように熱くなった瞬間を、今でも覚えていた。
もし、もう一つ手があったら。
自分が攻めている間に、自分の代わりに守ってくれるものがあったら。
羽根ペンを取って、羊皮紙の真ん中に、四角い枠を描いた。
本だった。
日本で暮らしていた頃、山あいの寺で、陰陽師の老人が見せてくれたものがある。人の形に切った紙に、墨で文字を書きつけ、息を吹きかける。紙は、ふわりと立ち上がって、老人の言いつけどおりに、水を汲み、薪を運び、庭を掃いた。
式神、と老人は言った。紙に命令を書けば、紙はその命令のとおりに動く。
それを、本にしたらどうだろう。
一枚一枚のページに、一つずつ呪文を書きこむ。盾の呪文。武装解除。失神呪文。ページは式神のように、それ自体が一つの小さな使い魔になる。持ち主の危険を感じ取ったら、持ち主が杖を振るより先に、ページが自分で開いて、自分で呪文を放つ。
杖を持たない、もう一本の杖。
持ち主のそばに浮かんで、持ち主を守る本。
羊皮紙の上で、四角い枠の周りに、線と文字が増えていった。ページの綴じ方。紙の素材。呪文を書きこむインクの配合。危険を感じ取る仕組み。
紙の素材は、すぐに決まった。
作業台の引き出しの奥に、一年生の夏に漉いた銀色の紙が、まだ何十枚も残っていた。デミガイズの毛から漉いた、息を吹きかければ鶴になって飛んでいく紙。命令を受けて、自分で動く紙。
もともと、半分は式神のような紙だったのだ。
サミュエルは、その一枚を光にかざした。角度を変えると、ふっと見えなくなる。一年生のハロウィンの夜、ハーマイオニーのもとへ飛んでいった鶴と、同じ紙だった。
いつか、シリウス・ブラックと向き合う日が来るかもしれない。
それがいつなのか、どういう形なのかは、分からない。会いたいのかどうかさえ、まだ分からない。けれど、もしその日が来たら、自分の身は、自分で守れなければならない。
羽根ペンの先が、羊皮紙の上を走り続けた。
*
三日目の夜だった。
「――坊」
背後から、のんびりとした声がした。
振り返ると、工房の棚の一番上に、白くて丸いものが乗っていた。
「オリエンス。いつ来たの」
「さっきじゃ。坊が、三晩続けて、ほとんど寝ておらんようじゃったからな」
オリエンスは、棚の上から作業台へ、どすんと飛び降りた。羊皮紙が何枚か、ふわりと舞い上がった。
「……見られてたのか」
「わしは、どこにでもおる。どこにもおらん時以外はな」
オリエンスは、作業台の上に散らばった設計図を、前足で一枚ずつ器用にめくっていった。
「ほう。式神か」
「日本の寺で見たやつを、本にしようと思って」
「ふむ」
オリエンスは、一枚の図をじっと見つめていた。ページの綴じ方を描いた図だった。
「よう描けておる」
「……そう?」
「ああ。紙が、勝手に動く本か。面白いことを考えるのう」
オリエンスは、ふあ、と大きなあくびをした。
「ただ、坊が三晩寝ずにこれを描いておるのは、図面が面白いからか。それとも、何かを考えたくないからか。それは、わしには分からん」
サミュエルは、羽根ペンを持ったまま、手を止めた。何も答えなかった。
作業台の隅の引き出し。その奥に、父の五枚の手紙がしまってある。その隣の引き出しには、卑弥呼の鏡が。
玄関ホールで言った一言のこと。言った瞬間の、あの不思議なほどの後悔のなさ。その翌日から、ハーマイオニーと一言も話せていないこと。母のこと。シリウス・ブラックのこと。
考えなければならないことは、いくらでもあった。
どれも、考えたくなかった。
「……どっちも、だと思う」
しばらくして、サミュエルは小さく言った。
「面白いのも、本当。考えたくないのも、本当」
「ふむ」
オリエンスは、満足そうに目を細めた。
「なら、よい。自分で分かっておるなら、それでよい」
オリエンスは、作業台の端の、設計図の上にどっかりと丸くなった。
「わしは、ここで寝る。坊も、そろそろ寝るがよい」
「その図面の上で寝ないでよ」
「温かいのじゃ、この紙は」
サミュエルは、ため息をついた。それから、ほんの少しだけ笑った。
*
オリエンスが寝息を立て始めてから、サミュエルは、試しに一枚だけ、ページを作ってみた。
銀色の紙に、盾の呪文を、特別に配合したインクで書きこむ。文字の最後の一画を引き終えると、紙がかすかに震えた。
紙を宙に放ると、紙は落ちずに、サミュエルの肩の高さで、ふわりと浮かんで止まった。
作業台の上の小石を一つ拾って、自分の額めがけて、軽く放り上げた。
小石が落ちてくる。
額に当たる寸前、浮かんでいた紙がひとりでに広がり、薄い光の膜を張った。小石は、膜に弾かれて、かつんと作業台の上に転がった。
サミュエルは、しばらく、宙に浮かんだ一枚の紙を見つめていた。
ほんの小さな、一枚きりの盾だった。スネイプの呪文どころか、ネビルの失敗呪文一つ防げるかどうかも怪しい。
それでも、自分が杖を振るより先に、紙が自分で動いた。
「……動いた」
声に出すと、少しだけ笑えた。
*
結局、その夜も、ほとんど眠らなかった。
工房の小さな窓のない空間で、時間の感覚はとうに消えていた。気がつくと、ランプの油が切れかけていた。梯子を上がって寮の部屋をのぞくと、窓の外が、うっすらと白み始めていた。
工房に戻ると、作業台の上には、設計図の断片が山のように積み上がっていた。
ページの綴じ方。紙の素材。インクの配合。危険を感じ取る仕組み。どれもまだ、ばらばらの断片だった。一冊の本の形には、ほど遠い。
それでも、三日前には、何もなかった。
サミュエルは、椅子の背にもたれて、目を閉じた。
疲れていた。指先が、インクで真っ黒になっていた。
けれど、胸の奥は、不思議と静かだった。
手を動かしている間だけは、父の手紙のことも、玄関ホールのことも、ハーマイオニーの背中のことも、考えずに済んだ。
それが逃げだということは、頭の片隅で分かっていた。オリエンスの言うとおりだった。
分かっていても、今は、これに没頭していたかった。
作業台の端で、オリエンスが、設計図の上でいびきをかいていた。その腹の下の一枚に描かれた四角い枠が、明け方の薄明かりの中で、ぼんやりと浮かんでいた。
いつか、その枠の中に、本当に一冊の本が収まる日が来る。
その本が、自分をどこまで連れていくことになるのかを、まだ誰も知らなかった。