三度目のバレンタインの朝、大広間は、いつもより騒がしかった。
ロックハートのいなくなった今年は、ピンクの花も小人のキューピッドもなかった。代わりに、屋敷しもべ妖精たちが一年生のときと同じように、天井から砂糖漬けの薔薇の花びらを降らせていた。花びらは、テーブルに届く前に、ふっと消えていく。
サミュエルの席の前には、例年どおり、小さな山ができていた。
ただ、今年は、山の周りで交わされる囁き声の色が違った。
「フラー・デラクールと付き合ってるんじゃなかったの?」
「でも、クリスマスのあと、玄関ホールでグレンジャーを庇ったって」
「『彼女の血は、決して穢れていない』だって。あれ、どう聞いても――」
「じゃあ、デラクールは? 二股?」
「まさか。ヴェスゲレートに限って」
囁き声は、あちこちのテーブルから聞こえてきた。サミュエルは聞こえないふりをして、一つずつ贈り物の札を確かめていった。
白い上等な紙に、銀色のリボンの小箱が、今年もあった。
〈氷の薔薇は、まだガブリエルの部屋で咲いています。今年の夏、もう一輪。――F〉
ダームストラングの紋章を押した硬い羊皮紙の包みも。中身は、やはり黒パンだった。
〈元気か。新聞、まだ読んでない。 V・K〉
サミュエルは、思わず小さく笑った。
テーブルの少し先では、ロンが、ハーマイオニーから一番遠い席で、黙々とポリッジをかき混ぜていた。
一週間前、ロンのベッドのシーツに、血の染みがついていた。スキャバーズの姿は、どこにもなかった。シーツの上には、オレンジ色の猫の毛が何本か落ちていた。
それ以来、ロンはハーマイオニーと一言も口をきいていない。
「ロン。クルックシャンクスがやったって、決まったわけじゃないよ」
サミュエルが小声で言うと、ロンはスプーンを握りしめた。
「じゃあ、誰がやったんだよ。シーツに猫の毛がついてたんだぞ」
「猫の毛は、談話室じゅうについてる。僕のローブにも」
「……でも、あいつ、一回も謝らないんだ」
「謝ったら、クルックシャンクスがやったって認めることになるからね。ハーマイオニーは、確かめてもいないことは認めない」
ロンは、何か言い返そうとして、黙った。それから、ポリッジに顔を埋めるようにして、また黙々とかき混ぜ始めた。
*
「――ねえ、ヴェスゲレート」
朝食の終わり頃、テーブルの向こうから、甲高い声がした。
パンジー・パーキンソンだった。スリザリンのテーブルから、わざわざグリフィンドールのテーブルまでやって来たらしい。腕を組んで、顎を上げている。後ろで、スリザリンの女子生徒が何人か、くすくす笑っていた。
「はっきりさせてもらえる? あなた、結局、どっちなの?」
大広間の、グリフィンドールのテーブルの周りだけが、すっと静かになった。
「どっち、って?」
「とぼけないで。フラー・デラクール? それとも――」
パンジーは、わざとらしく、テーブルの端に座っているハーマイオニーのほうへ視線を投げた。
「――あの穢れた……グレンジャー?」
言いかけた言葉を、パンジーは途中で飲みこんだ。玄関ホールでモンタギューの杖が飛んだ話は、スリザリン寮にも知れ渡っていた。
ハーマイオニーは、本から顔を上げなかった。けれど、ページをめくる指が止まっているのが、サミュエルには見えた。
サミュエルは、紅茶のカップを置いた。
「パンジー。君のお母上は、まだバーク家の跡取りと仲良くしろって言ってる?」
「……な、何よ急に」
「言ってるなら、一つだけ伝えておいて。デラクールのことは、ご想像にお任せします、って」
パンジーは、口を開けて固まった。
「それから、グレンジャーのこと」
サミュエルは、いつもの穏やかな笑顔で続けた。
「あれは、血の話だよ。誰の血が穢れているとか、いないとか、そういう話。恋だの何だのとは、関係ない。純血の家に生まれた人間として、間違ってると思ったことを、間違ってると言っただけだ」
パンジーは、しばらく何も言えずにいた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……つまんない答え」
「よく言われる」
パンジーは、スリザリンのテーブルへ戻っていった。大広間のざわめきが、ゆっくりと戻ってくる。
うまく収まった。誰が見ても、そう見えただろう。
フラーとのことは、相変わらず、曖昧なまま。ハーマイオニーのことは、恋愛ではなく、血統思想への抗議。論点をすり替えて、どちらの噂にも油を注がず、その場を収める。
完璧な答えだった。
それなのに、サミュエルは、自分の言った言葉に、どこまで自分で納得しているのか分からなかった。
――恋だの何だのとは、関係ない。
本当に?
テーブルの端で、ハーマイオニーが、静かに本を閉じて立ち上がった。一度も、こちらを見なかった。
その日の昼休み、サミュエルは、空き教室で四十枚あまりの礼状を書いた。贈り主の名前と、贈り物の中身と、一言ずつの礼。手は、一度も止まらなかった。
一年前の夜は、一枚も書けなかった。
今年は、全部書けた。書けてしまうことが、少しだけ不思議だった。
*
放課後、変身術の教室から寮へ戻る途中の廊下は、人けがなかった。
五階の、普段はあまり使われない回廊だった。窓の外では、二月の夕日が、凍った湖の上を橙色に照らしていた。
回廊の窓辺に、ハーマイオニーがいた。
一人だった。本を抱えたまま、窓の外を見ていた。
サミュエルは、足を止めた。
引き返そうか、と一瞬だけ思った。けれど、そのとき、ハーマイオニーがこちらを向いた。
目が合った。
今度は、どちらも、そらさなかった。
「……今朝は、ごめん」
先に口を開いたのは、サミュエルだった。
「パンジーのこと。君の前で、あんな話をさせて」
「あなたが謝ることじゃないわ」
ハーマイオニーは、窓の外に目を戻した。
「それに、うまく収めてたじゃない。いつものあなたらしく」
かすかに、棘のある声だった。
サミュエルは、彼女の隣に、一歩ぶんの距離を空けて立った。窓の外の湖を、一緒に見た。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……玄関ホールのこと」
ハーマイオニーが、小さく言った。
「まだ、ちゃんとお礼を言ってなかった。ありがとう」
「お礼を言うのは、僕のほうだよ。モンタギュー相手に、四つも理屈を並べて」
「五つあったのよ」
「五つ?」
「五つ目を言う前に、あなたが杖を飛ばしちゃったから」
「……五つ目は、何だったの」
ハーマイオニーは、考えるような顔をした。
「言わない」
「どうして」
「言ったら、あなた、また何か完璧な答えで返してくるもの」
サミュエルは、言葉に詰まった。
ハーマイオニーは、窓枠に置いた自分の指先を見ていた。
「ねえ。どうして、あんなこと言ったの」
「……」
「お父様に、怒られたんでしょう。ロンから聞いたわ。分厚い手紙が来てたって」
「五枚分ね」
「五枚?」
「羊皮紙で、五枚。最後の一行は、失望した、だった」
ハーマイオニーが、こちらを向いた。
「それでも……どうして?」
サミュエルは、湖を見ていた。
どうして。
今朝、パンジーには答えられた。血の話だ、と。純血の家に生まれた人間として、間違っていることを間違っていると言っただけだ、と。
同じ答えを、今、この人に言えるだろうか。
「……分からない」
口から出たのは、それだった。
「気がついたら、言ってた。モンタギューが杖を君に向けて、穢れた血って言った瞬間に。考える前に、扇を振ってて、気がついたら、口が勝手に動いてた」
「……二年生のバレンタインみたいに?」
ハーマイオニーの声は、小さかった。
サミュエルは、目を閉じた。
――マグルのチョコか?
あのときも、口が勝手に動いた。今度は、逆の方向に。
二年生の十一月、暖炉の前で、全部、と謝った。その三ヶ月後に、あれを言った。
「……あれは、取り消したい」
サミュエルは、ゆっくりと言った。
「でも、玄関ホールで言ったことは、取り消さない。一言も」
ハーマイオニーは、何も言わなかった。
窓の外で、湖の上を、一羽のふくろうが横切っていった。夕日が、少しずつ山の端に沈んでいく。
「……デラクールさんとは」
しばらくして、ハーマイオニーが言った。
「本当に、そういう関係なの?」
サミュエルは、口を開きかけて、閉じた。
違う、と言えば済む。たった一言で。
けれど、言葉が出てこなかった。
父の五枚の手紙は、もう従う理由のない命令のはずだった。それなのに、最後の一行だけが、まだ頭の奥で鳴っていた。〈お前には、失望した〉。
ずっとそうやって生きてきたのだ。そう簡単に拭えるものではないらしい。
夏の合宿で、記者たちの前で庇ってくれた人の名前を、ここで自分の都合で打ち消していいのかも、分からなかった。
「……それは、言えない」
ハーマイオニーは、小さく息をついた。
「そう」
怒ってはいなかった。ただ、少しだけ寂しそうな声だった。
「でも」
サミュエルは、湖から目を離して、彼女のほうを向いた。
「今朝、パンジーに言ったことは、全部じゃない」
「……全部じゃない?」
「血の話だって言った。恋だの何だのとは関係ないって。それは、嘘じゃない。でも、それだけでもない気がする。それ以上は、まだ、自分でも分からない」
ハーマイオニーは、少し間を置いた。
「……それ以上、って。恋、ってこと?」
「それも含めて、分からない」
サミュエルは、湖のほうへ視線を戻した。
「恋愛感情ってやつが、僕には、よく分からないんだ。話としては知ってる。本にも、山ほど書いてある。でも、自分の中にあるものが、それなのかどうか、区別がつかない」
ハーマイオニーは、長いこと、こちらを見ていた。
それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
「……分からないことを、分からないって言うあなた、初めて見たわ」
「君だって、言えないことがあるだろう」
「私に?」
「その時間割。数占いとマグル学と占い学が、全部同じ時間にある。どうやって出てるの?」
ハーマイオニーは、ぴたりと動きを止めた。
「……それは、秘密」
「今は言えない?」
「ええ。今は、言えない」
二人は、顔を見合わせた。
それから、どちらからともなく、少しだけ笑った。
「……お互い様だね」
「ええ。お互い様」
ハーマイオニーは、本を抱え直した。
「夕食、遅れるわよ」
「うん」
二人は、並んで回廊を歩き出した。
どちらも、それ以上は何も言わなかった。核心には、まだ何一つ触れていなかった。デラクールのことも、あの夜の本当の理由も、宙ぶらりんのままだった。
それでも、玄関ホールのあの夜のことを、二人とも、なかったことにはしなかった。
言葉にして、ほんの少しだけ、分け合うことができた。
大広間へ続く階段の途中で、ハーマイオニーが、ふと足を止めた。
「……ねえ」
「何?」
「五つ目、やっぱり、いつか教えてあげる」
そう言って、彼女は先に階段を降りていった。
サミュエルは、その背中を見送りながら、一拍遅れて、階段を降りた。
その週の日曜日も、サミュエルは、湖の向こう岸の入り江へ行った。
秋から、ほとんど毎週通っている場所だった。誰にも話したことはない。岸辺の平たい石に腰を下ろして、凍った湖面が少しずつ溶けていくのを眺める。
隣にも、同じくらい平たい石が、一つあった。
いつもは気にも留めないその石が、その日は、なぜか空いていることが気になった。
サミュエルは、しばらくその石を見ていた。それから、湖のほうへ目を戻した。