入学から一週間、走り込みしかさせてもらえない沢村栄純。
都大会で誰もいないグラウンドで、初めてのタイヤ引きをする彼に、一人の女の子が話し掛けた。
そんなお話。

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とある妹ちゃん

 

 

 

「約束通り、投手は諦めてもらうぞ」

 

「そいつ、まだ入部も認められていない見習い部員ですから」

 

 青道高校野球部に入学して一週間。

 俺、沢村栄純は初日の遅刻と、遠投でフェンスまで届かなかったことで、未だに入部を認められていない。見習い部員のまま、ボールにすら触れず、ただ走るだけの毎日だった。

 

 その日も、選手たちが春の都大会に向かう中で、俺は一人、だだっ広いグラウンドで走っていた。

 

「タイヤ、重い……けど、効いてる気がする……!」

 

 マネージャーにもらったタイヤ、これを腰に走るのはめちゃくちゃにしんどい。ただ走るのとはまるで違うキツさに、やってやろうと反骨心が湧き出てくる。

 そんなこんなで、なんとかグラウンドを一周して、疲労により地面に座り込む。

 

「クソッ……今頃一軍は試合かよ……」

 

 入学から今日まで、ボールに触ったのは遠投でカーブを投げてしまった時のみ。そこから一週間、練習に参加できず、ひたすらに走らされ続けている。

 環境の変化、辛い走り込み、ボールに触れられないストレス。諸々の逆境と、誰もいないことが相まって、めげそうになる。

 そこに、

 

「ねえ、君何してるの」

 

 声がかけられた。

 顔を上げ、振り向くと、そこにはどえらい美人がいた。ハーフっぽい顔立ちは文句なしにテレビで見る芸能人のようで、制服の上からでも分かるくらいスタイルがいい。

 現状、その膨らみを見上げる体勢になっており、俺はそっと目を逸らし、誤魔化すように早口で言う。

 

「お、お前こそ何してるんだよ。今日はうちの部活試合やってて」

「知ってる、図書室行った帰りに寄っただけ。そう言う君は、試合行かないで何してるの?」

「なにって、残って練習してるんだよ。みんなが休んでるときにやらなきゃ、いつまで経っても一軍にいけねぇからな」

「ふーん」

 

 彼女は興味なさそうに頷くと、視線を俺の隣に移した。

 

「それで、やることが走り込み? 毎日飽きずに走って、陸上部にでもなるつもり?」

「ならねえよ! あのグラサンに練習に参加させてもらえねぇんだ! ヒマなら走ってろってな!」

「なにやったの」

「なんでなんかやった前提なんだよ!」

「違うの?」

「……違わねぇ」

 

 図星を突かれ、でもあの遅刻&遠投カーブは話したくない。なんと誤魔化せばいいかと頭を悩ませていると、

 

「てかさ、誰もいないんならボール使えばいいじゃん。こんな時じゃないとできないでしょ」

「それだ!」

 

 言われて、ハッとした。なんでそんな事に気づけなかったのかと。

 ダッシュで倉庫に向かい、ボールを手に取る。久しぶりの感触に、喜びの舞を披露してしまう。

 ただ、

 

「あ、相手がいねぇ」

 

 ボールがあれど、一人では何もできない。図らず、倉庫の入り口へと目が向く。

 

「……グローブさえあれば、キャッチボールくらいは付き合えるけど」

「ありがとうございます!」

 

 名前も知らぬ女子──改め女神様を前に、俺は直角に頭を下げた。

 

 

 

 彼女は、キャッチボールが上手かった。

 地元の赤城中の皆は、ボールが何処に行くか分からないからと、俺とキャッチボールをするのを嫌がっていたのに、彼女は普通に捕る。

 返球も、スカートを気にしながら軽めに、けれどもしっかり胸元に届く。というか俺よりコントロールがいい。

 

「お前、もしかして野球やってた?」

「小学校の頃までね」

「やっぱり!」

 

 久しぶりかつスムーズなキャッチボールと、まさかの経験者発覚に、テンションが上がる。

 だから、ついこんな事を聞いてしまったのだ。

 

「今は別の部活やってんの? もしやってないなら野球部のマネージャーとかどーよ?」

「部活には入ってないけど、野球部だけは嫌」

「なんでだよ!」

「あのグラサンが嫌い」

「は?」

 

 返ってきた理由は、シンプルなもので。

 この部活でグラサンと言えば、そんなの一人しか当てはまる人物はいない。

 

「監督のこと、嫌いなのか?」

「うん」

 

 彼女は、何の躊躇いもなく頷いた。

 そして、少し離れたところに置きっぱなしのタイヤを見た。

 

「あのタイヤ、部の備品?」

「多分、そうだと思う。先輩でもやってた人いるし」

「あれ、続けてたら身体壊すよ」

「なっ……!」

 

 絶句する俺に、彼女はボールを投げ、

 

「高負荷のトレーニングは、重量の選択、フォーム、回数。気を付けるべき事は山ほどある。君で言えば、まだ筋力が足りなくて無理なフォームでやってる」

「……そんな事わかんねぇだろ」

「分かるよ。さっきの君で、一番危ないのは腰。腰を反って引っ張ってたから、多分じきに痛めてたよ」

 

 俺は、返す言葉が見つからず、無言でボールを投げた。

 彼女も無言でボールを投げ返してきて、もう一度ボールが往復する。

 

「だからお前は、グラサンが嫌いなのか?」

「一応断っておくと、君が罰として走らされてるのはどうでもいい。けど、部の備品としてタイヤがあって、その使い方を教えてないのは、指導者として失格だと思う」

「……あれは、今日マネージャーが持ってきてくれたやつで」

「それでもだよ。下手をすれば一発で身体をダメにするものを、説明も受けずに使えること自体がおかしい。マニュアルすら無しに置いておくなんて論外」

 

 いくらあのグラサンが気に食わないとはいえ、今でも鍛えているのが分かる身体、目の前で100メートル超えの遠投をした肩の強さ。尊敬されるべき人だとは思っている。

 それをボロカスに言われて、反論したい。けれど、今の俺だと反論もできない。

 

 それが顔に出ていたのか、彼女は「あの人はできたのかもしれない」と繋いで、

 

「恵まれた体格で、頑丈さで、多少の無茶をしても、体を壊さずにいられたのかもしれない。でも、それをそのまま指導者として、気合と根性で選手たちにやらせるのは二流以下だよね」

 

 それは、説得力の塊だった。

 俺が抱えていて、けれども言葉にできなかった反論を、真っ向から叩き潰していた。

 甲子園準優勝投手で、プロ入りも確実と言われていた選手を称賛しつつ、青道野球部の監督としてのグラサンは、強く、強く否定していた。

 

「……なら、お前はちゃんとした練習が分かるのかよ」

「まだ勉強中だよ」

 

 そのやり取りを最後に、彼女はグラサンへの評価を締めた。

 俺も彼女も何も言わず、無言のままボールが数往復。

 そして──、

 

「は、え、ちょ……!」

 

 俺は、投球の構えから、思い切りボールを投げた。

 

「急に何! 危ないでしょ馬鹿なの!?」

 

 彼女はボールを捕らえきれずに弾いた。当然、キレてくる。

 

「お願いします! 俺に、練習を教えてください!」

 

 そんな彼女にダッシュで駆け寄り、頭を下げる。

 頭上から戸惑った気配が伝わる、俺はそのまま言葉を重ねた。

 

「俺は、勝つために、御幸一也に受けてもらうために、赤城中の皆と離れて東京まできたんだ。けど、今の俺はまだ何もしてない……」

 

 初日の寝坊は、俺の甘さだ。寮の先輩に夜遅くまでゲームに付き合わされたことなど言い訳でしかない。

 遠投でカーブを投げてしまったことも、ストレートすらまともに投げられなかったことも、俺の未熟さの証だ。

 悔しさに唇を噛み、けれど顔を上げる。

 

「それを叶えるためなら何だってする。だから、俺に練習を教えてください」

 

 眉を顰めた彼女の表情は、嫌だと雄弁に語っている。そんな表情でも恐ろしいほどに整った顔を、俺は睨むように……いや睨み続ける。

 沈黙が続き、彼女がはぁと息を吐いた。

 

「条件」

「なんだ」

「もし、君が結果を残したら、部員たちの目の前で、その時の気持ちをあのグラサンにぶつけること。ざまあみろ、見る目ないな、ごめんなさい……言葉はなんでもいいけど、その無駄に大きな声で、真っ向からあれとぶつかること。どう?」

「ぇ゙」

「嫌ならいいけど」

「や、やりますやります! やらせていただきます!」

 

 話を切り上げようとした彼女を、必死に引き留める。

 

「やるのね?」

「はい! あのグラサンに目にモノ見せてやります!」

「よし」

 

 俺の宣言に、彼女は満足そうに笑った。

 悪ガキのように歪んだそれは、思わず見惚れるくらい、綺麗だった。

 

「あ、改めて自己紹介だな。俺は一年の沢村栄純。お前は?」

「一年B組、滝川絢。よろしく沢村」

 

 こうして、俺と滝川の約束は、あのグラサンに目にモノ見せてやるため、結ばれたのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「沢村、彼女いないでしょ」

 

 まず言われたのが、これだった。

 

「な、なんでそんな事わかんだよ。てかそもそも関係ないだろ」

「関係ないけど、関係あるの」

 

 滝川はそう言うと、下唇を噛んで見せた。

 お前もやれとの視線に、俺も同じようにする。

 

「それで、唇の皮剥ける?」

「……剥けるけど」

 

 歯で少し擦ると、皮が捲れてくる。それに滝川は、

 

「それが彼女いないって言った理由。彼女がいて、キスしたいなって思ってたら、そんなカサカサの唇にしないもん」

 

 種明かしに納得すると同時、妙に説得力のあるそれに、都会の、しかもこんな美人なら彼氏の一人や二人いて当然かと納得する。

 

「……パパが毎日ママにキスしてるから、それで知ってるだけだからね」

「え、あ、はい、ごめんなさい……」

「まあいいけど……で、本題に戻すと、沢村、左手出して」

 

 言われるがまま左手を出す。

 

「沢村、ピッチャーなんだよね」

「あ、ああ。今は認められてないけど」

「なら、この手はダメ。論外」

 

 柔らかすべすべな手に取られ、動揺し、余計なことまで口走った。

 滝川はそんな俺に構うことなく、簡潔に、容赦なく、そう告げた。

 

「……どこがダメなんだよ」

「爪」

「爪?」

「そう。これ、全くケアしてないでしょ。それに最後に切ったのいつ? 結構伸びてるけど」

「え……一週間前、とか?」

 

 なんでそんなことを気にするのか分からず、そもそも爪のケアとは何ぞやと首を傾げる。

 滝川はそんな俺を非難するように──いや、非難した。

 

「ピッチャーがボールを投げるとき、最後までボールに触れているのが指先。その感覚一つで、投球の質が変わる。それに、百何十キロのボールを投げるために、指先は強い負荷がかかるの。一度爪が割れたら、元通りに回復するまで1ヶ月以上かかることもある……それでも爪なんてどうでもいいって思う?」

「爪ちょー大事です」

「分かればよろしい」

 

 滝川がわざとらしく、教師のように頷く。

 

「本当は専門のケア商品がいいんだけど、高いし、おっきいお店じゃないと売ってないから。とりあえず爪はヤスって、あとは保湿ね。今日オフならドラッグストア行って──」

「あの……」

「なに?」

 

 やるべき事を列挙する滝川に、恐る恐る手を挙げて、俺は申し出た。

 

「俺、爪ヤスった事ないです」

 

 ほんまコイツ……と、口に出さずとも、滝川の内心は雄弁に伝わってきた。

 

 

 

 その後も滝川は、呆れながらも練習メニューを教えてくれた。

 

「私は選手じゃないから」

 

 と、ボールを使った練習メニューはほとんどなかった。室内での天井ボール投げくらいだ。

 だが、自重による体幹トレーニングや、青道の室内練習場にあるメディシンボールとやらを使ったものなど。鍛える部位、注意すること、何のために鍛えるのかまで併せて伝えられた。

 また、どうせ正規の練習は量が凄まじいのだからと、その量に関しても考慮してくれた。

 

「量をやることは否定しない。勉強でも運動でも、どれだけ正しい方法を知ってても、量をやらなきゃ身につかないから──ただ、沢村はむしろ逆」

 

 俺の肩、肘、手首の柔軟性は天性のものだと、逆に現時点で筋力はそれほどないと評価された。

 だからこそ焦らない、身体が追いつくまで無理はしない。当然タイヤは禁止、走り込みも量を考えろなど。気合と根性でオーバーワークしないようにと厳命された。

 

 その知識量にも驚かされたが、続けて教えられたのは、練習への取り組み方、日常への向き合い方。

 それらに関して、滝川はとてもとても厳しかった。

 

「爪のケアの仕方はこうね。さっきやったストレッチと合わせて、お風呂上がりにやること」

 

 ぬるま湯でふやかした爪を、ドギマギしながらヤスられて、保湿されて。

 

「さっきも言ったけど、特にピッチャーにとって、指先の感覚は命。でもその日の体調とか環境で、身体のキレも感覚も変わる。だから毎日チェックするの」

 

 その後にしたキャッチボールでは、指先の感覚を言語化させられて。

 

「起きてすぐの朝練前、練習前の気合が入ってるとき、アップして身体が温まってきたとき、練習後に疲れてるとき、お風呂上がりのリラックスしてるとき。今の自分はどう、疲れてない? って、身体に聞いてあげるの」

 

 特に沢村は気合と根性だけで突っ走りそうだからと。ここでもまた、オーバーワークをしないよう、疲労の確認するよう注意されて。

 

「正規の練習はできなくても、ただ走るだけなんて勿体ない。呼吸やピッチもそうだし、フォームやお腹の使い方、骨盤の配置だって、意識するとこなんて無限にある」

 

 罰走の最中でも、できることはあると、そう伝えられ。

 

「ご飯もそう。野球部の寮って、すごい食べさせられるんでしょ。練習と同じで、意味が分からずにただガムシャラに量をこなすのと、『何のために』やってるのかを理解してるのとじゃ全然違う。図書室に栄養学の本あるから、寝る前に読むこと」

 

 一見、意味がなさそうなことも言われて。

 

「沢村は煩いし、気持ちが昂ぶってあんまり寝付けない日もあるだろうから。身体を落ち着けて寝やすくなる方法も教えてあげる」

 

 まだ昼飯も食べてないのに、教わった一連の流れで少し眠くなったりした。

 

 そして、なにより、

 

「こんな細かい事、意味あんのかよ……」

 

 と、漏らしたとき、

 

「沢村」

「あ、わるい──」

「──持ってるスパイクっていくらする?」

 

 咄嗟に謝ろうとする俺を遮って、滝川は聞いてきた。

 

「一万、くらいだけど……」

「じゃあ昨日はどのくらいの時間走ったの?」

「わかんねえ。休みも入れたら二時間は走ってるはず……」

「そう──じゃあさ、なんで足元を気遣うために一万円のスパイクは買うのに、数百円でできる指先のケアはやれないの? なんで二時間も走れるのに、お風呂上がりの、寝る前の数分はできないの?」

 

 言われて、何も言えなかった。

 

「野球がやりたい、ボールに触りたい。それだけなら、草野球なり、人数がぎりぎりの学校に転校すればいいのよ──沢村はどうしてここに、青道高校の野球部にいるの?」

 

 俺が、ここに、地元の皆と離れて青道に来た理由。

 それは──、

 

「──勝つために。エースになって、御幸先輩とバッテリーを組むため。そのために俺はここに来た」

「なら、つまらない練習もやるし、時にはやりたくても我慢して休む。練習とは思えない細かいことも、できるよね?」

「ああ、やるさ、やってやるよ!」

 

 そうやってうまく乗せられて、俺の孤独な練習は、地道な努力へとステージを変えた。

 

 

◇◇◇

 

 

 滝川絢との邂逅から三週間、俺の日常は大きく変わった。

 

「ああもう、一々報告してこないで! 昨日の夕飯が生姜焼きとかどうでもいいから!」

 

「沢村の関節周りの柔軟性は、私が見た限りでは青道でもダントツで一番。だから今は焦らず。そもそも周りを見れば、1年生の殆どは体力作りでしょ」

 

「沢村は特に、今までまともな指導を受けてこなかったんだから、土台作りが何より大切なの」

 

「沢村、図書室の返却期限明日までだけど、忘れてないよね?」

 

 と、滝川は何だかんだ言いながら、根気強く面倒を見てくれた。

 

 

 

 そして寮でも、仰向けに寝転がり、天井に向かってボールを投げる──天井ボール投げをしていると、

 

「それ、三日坊主で終わるかと思ってたけど、続いてんじゃねぇか」

「続けますよっ。指先の感覚を掴むのとっ、リリースポイントを安定させるっ、練習なんですからっ」

「爪と言いストレッチと言い、誰の入れ知恵なんだか」

 

 寝転がりながらの返事に、同室の倉持先輩は気を悪くした様子も見せない。むしろ感心したようにも見える。

 

「あ、それと」

「はい?」

 

 決めていた回数を終えて起き上がると、先輩は何やら真剣な顔をして、肩を組んできた。

 

「お前、一年のめちゃくちゃ可愛い子と付き合ってるって噂があるんだが……嘘だよな? デマだよな?」

「滝川のことですか?」

「思い当たる節があるんだなてめえ!」

「ち、違いますから! 嘘です、デマです!」

「ほんとか? 嘘じゃねぇな?」

「本当だよ! てか放せ、腕固めんな!」

「目上に対するタメ口はご法度だぜ!」

 

 と、まさかの誤解から理不尽な八つ当たりをされたりと、まあ色々あった。

 

 

 

 そして明日、一年生のみのチームと、二・三年生チームで試合をするらしい。

 

「ちくしょー、ふざけんなぁ! 俺だって同じ一年だぞ! なんで俺だけ聞かされてねーんだよ!」

 

 夕飯の鶏の照り焼きを食べていたとき、初めて聞かされた事実。入学から一ヶ月、未だに練習には参加させてもらえず、部内紅白戦があることすら知らされない。

 その苛立ちを、脱いだ服を脱衣所のカゴに叩きつけることで発散する。

 

「あのグラサン、絶対俺の存在忘れてやがるなぁ……大体なんだあのグラサンは! ヤクザかっつーの! テメェの顔見せて相手選手でもビビらせるつもりか!」

 

 否、発散しきれず、真っ裸になった勢いのまま風呂場へ入ると──、

 

 ──そこには、湯船に浸かったグラサン(片岡監督)が、静かに俺を見ていた。

 

 あ、死んだ。そう覚った。

 

 聞かれたのは確実。それでもなかったことにして、ただ会釈だけして頭と身体を洗う。

 湯船の端っこ、グラサンから一番離れた場所に浸かる。

 

 沈黙がつらい。耐えきれない。そう思っていたところに、

 

「おい」

「は、はい!」

「練習への取り組み方を変えてから、もう何日になる」

「さ、三週間ですかね」

 

 お前のお陰でな! と思う傍ら、気付かれていたことに驚く。

 グラウンドでは九十人の選手がいて、俺は一度もボールに触れていないのに。

 

「お前、一度も試合を観に来ていないようだな……どうしてだ?」

 

 驚く俺に、監督はそう訊ねてきた。

 怒っているかな、これ以上嫌われたら終わりだ……そう口ごもる俺に、監督は「いいから言え!」と睨みつけてくる。

 

「じ……」

 

 俺は、拳を握りながら、ぽつぽつと答えた。

 

「自分以外の誰かが、マウンドに立ってる姿なんて、見たくねーっス」

「なに?」

「自分の力を試すために、俺は地元の仲間を裏切ったんだ……なのに他の誰かが活躍するのを、心の底から応援できますか?」

 

 自分勝手だとは、分かっている。

 でも、それでも、観たくなかった。

 

「多分、俺には無理です。心の底から応援できねーなら、行かないほうがいいと思って」

 

 正直に告白して、改めて言葉にしたことで悔しさを噛み締めていると、

 

「フ、フハハ」

 

 グラサンが不気味に笑い出した。何事かと振り向くと、グラサンが立ち上がった。

 

「小僧、気持ちだけは立派なエースだな……誰にもマウンドを譲りたくないという気持ち。今の二、三年に足りないのはそういう部分かもな」

 

 グラサンは背中越しに、どことなくご機嫌にそう言うと、

 

「明日はグラブを持ってグラウンドに来い。もう一度だけ、チャンスをやる。そのバカ正直な答えに免じてな!」

 

 喉から手が出るほど欲しかったチャンスを、ようやく手渡していった。

 

 

◇◇◇

 

 

 一年生 対 二・三年生。その試合は、一方的だった。

 打てば一回で12得点、守れば元エースの丹波さんが六者連続三振。

 ただの紅白戦、そんな考えは甘過ぎた。先輩たちにとって、この試合はアピールの場。審判としてグラウンドにいる監督に、間近で実力を示す絶好の機会なのだ。

 

 そんな先輩たちに、自分の力をぶつけてみたい。今までの十五年とこの三週間、その成果を試したいと。

 俺は、ワクワクしていた。

 

「よーし、一年! 投手と外野、全員入れ替えるぞ!」

 

 そして、12ー0で二回表が終了したところで、グラサンが声を張った。

 ブルペンで御幸先輩にアップを手伝ってもらっていた俺は、「俺が出ます!」と目線でアピールする。

 

「フン、いいだろう。お前も守備につけ」

「おぉおおぉ!? キタァーーー!」

 

 ついに、ついにきた出番。

 

 グラウンドの外、金網越しに観戦するおっさんたちから少し離れて、とんでもなく目立つ美女がいる。

 滝川絢。この三週間やってこれた恩人に、見てろよと、ビシッと指を差して、ブルペンから飛び出しマウンドに向かう。

 

「どこへ行く、お前はライトだ」

 

 だが、現実はそんな甘くなく。グラサンもいいヤツなわけがなかった。

 

 

 

 その後、先輩たちの連打や俺のばんざいエラー、降谷の一球だけ投球で一軍昇格。

 俺の華麗なる振り逃げ、小湊春市という目隠れ野郎のタイムリーにより、一点を返上。

 そんな壮大なストーリーを経て、六回裏、ようやく俺はマウンドに上がることができた。

 

「おい、お前球種は?」

 

 内野が集まったマウンドで、キャッチャーの狩場が聞いてくる。

 

「あれだけ大口叩いたんだ、中途半端なピッチングしやがったら許さねーからな」

「フッフッフッ、心配すんな。俺は逃げも隠れもせん、全球ド真ん中だ!」

 

「ああ……コイツあれか、馬鹿か」

「馬鹿だな……」

 

 合わせて五人の内野が、俺をアホを見るような目で見てくる。けれど、俺の言葉は真実、嘘一つない。

 それに、

 

「俺、今日めちゃくちゃ調子いいんだ」

 

 パシッ、パシッと、グラブにボールを軽く叩きつけ、その感触を確かめる。

 ボールが手に収まる感じ、指から離れる感じ、調子がいいときのそれだった。それこそこの三週間で、一番の出来と言ってもいいくらいに。

 

 そうして自信満々でいると、呆れたように、諦めたように、みんな守備位置に戻っていった。

 

「プレイ!」

 

 審判であるグラサンの宣言で、試合が再開される。

 狩場がミットを構える。ド真ん中に置かれたそれが、妙に大きく見える。

 

「──しっ、行くぜ」

 

 気合を呟き、プレートを踏み、振りかぶる。そうして投じた第一球──

 

 ──カァンと、金属バット特有の音が鳴った。

 

 ボールは高く、高く、舞い上がり、

 

「オーライ!」

 

 サード、同じクラスの金丸が捕球した。ワンアウトだ。

 

「おっしゃあ! ナイスサード!」

「………………チッ、ナイスピッチ」

「え、なんて?」

「うっせえ! さっさと次投げろ見習いが!」

 

 と、そんな盛り上がりを挟んだ第二球──

 

 ──カンと、金属バット特有の、けれどもさっきよりは鈍い音が鳴った。

 

 ボールは緩く跳ねながら、ファーストの下へ。掴んでそのままベースを踏んで、ツーアウト。

 

「ナイスファースト!」

「ナイスピッチャー!」

 

 金丸とは違い、快い返事が返ってきた。

 

「すげぇ! たった二球でツーアウトだぜ!」

「ツーアウト! ツーアウト!」

 

 まさかの高速守備に、ベンチも盛り上がってきた三球目──

 

「ショート!」

 

 ボテボテのゴロ、打ち取った当たりが、ショートに転がる。

 だけど、今までの先輩たちの打球の強さから、後ろ気味に守っていたショートはスタートが遅い。

 間に合わないと、そう思った瞬間──

 

 ──何故か、セカンドが捕球し、そのまま一塁に正確な送球でアウトにしてみせた。

 

「うおお! 凄え、なんか今くりんってなったぞ!」

 

 セカンド小湊のファインプレーに思わず叫び、グラウンドやベンチからも声が響く。

 そうして、六回裏、俺たち一年生チームは、この試合初めて無失点に抑えることができた。

 

 

◆

 

 

 紅白戦、六回裏からマウンドに上がった俺は、八回の裏、最後まで投げさせてもらうことができた。

 七回に、同室の三年生、増子先輩に先頭打者ホームランを打たれたが、その後は三者凡退。八回には三塁までランナーを進められたが、守備に助けられて無失点で切り抜けた。

 三回一失点、これが俺の高校初試合の成績だった。

 

『お疲れ様。二軍への昇格もおめでとう。

 これからはちゃんと監督かコーチの指導受けられるし、頑張って。

 ただ、マウンドで大声で打ち合わせするのはやめたほうがいいと思う。

 馬鹿に見えるから』

 

 と、滝川からも労いのメールを貰った。

 

 ──二軍昇格では『結果を残す』ことに値しない。一軍昇格したときに、晴れてあのグラサンに怒鳴ってやろう。

 

 その気持ちは、彼女もきっと同じで。

 二軍昇格の先も見据えてくれているようなメールが、嬉しかった。

 

 

 

 そして翌日の放課後、ランニング中、一軍に昇格した降谷と共に、放送にてベンチ前に呼び出された。

 

「君たち二人には、今日から投手陣のメニューをこなしてもらうわ。練習量はみんなの倍になるけど、頑張って」

「はい!」「分かりました」

 

 俺をスカウトした高島礼さんに告げられ、俺は威勢よく、降谷は静かに返事をする。

 

「降谷くん、あなたは来週の関東大会に登板があるかもしれないから、御幸くんと組んでセットプレーやサインの確認をしておいてね」

「はい──よろしくお願いします」

 

 そして、降谷は御幸先輩と組めることを噛み締めるように、頭を下げた。

 

「沢村くんには、三年生のクリスくんと組んでもらうわ。リード面やマウンドでの心構えを、彼から色々と教えてもらって」

 

 と、高島さんの紹介に合わせて、もう一人のキャッチャーが前に、手を差し出してくる。

 

 ……正直、御幸先輩に受けてもらいたい気持ちは、ある。俺がここに来た理由の一つが、それなのだ。

 けれど、

 

 沢村はどうしてここに、青道高校の野球部にいるの? 

 ──勝つために。エースになるため、御幸先輩とバッテリーを組むために。

 

 なら、つまらない練習もやるし、時にはやりたくても我慢して休む。練習とは思えない細かいことも、できるよね? 

 ──ああ、できるさ、やってやるよ! 

 

「っス、沢村栄純です。えっと、クリス先輩、よろしくお願いします」

 

 そっと、手を重ねると、彼から強く握り返された。

 

「滝川(・・)・クリス・優だ。よろしくな」

 

 ボソボソと、背後の掛け声にかき消されそうな小さな声で名乗ったその人は、間違いなく初対面なはずなのに、どこか既視感がある。

 それはそうと、

 

「あ、あの……」

「どうした」

「その、手が……」

 

 ギリギリと軋みを上げそうな握力に、手が悲鳴を上げている。

 二軍に昇格した期待のルーキー(ここ大事!)を任されるのだから、理由もなく後輩を虐めるような人ではないはず。けれど、理由が分からない。

 

「問題ない。お前は左投げだろう」

 

 クリス先輩は、右手の圧力を緩めることなく、静かに笑っている。

 その笑みを、やはり何処かで見たような気がする……

 

 そんな現実逃避をすることで、俺は右手の痛みから逃れようとした。

 

 

 


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