都大会で誰もいないグラウンドで、初めてのタイヤ引きをする彼に、一人の女の子が話し掛けた。
そんなお話。
「約束通り、投手は諦めてもらうぞ」
「そいつ、まだ入部も認められていない見習い部員ですから」
青道高校野球部に入学して一週間。
俺、沢村栄純は初日の遅刻と、遠投でフェンスまで届かなかったことで、未だに入部を認められていない。見習い部員のまま、ボールにすら触れず、ただ走るだけの毎日だった。
その日も、選手たちが春の都大会に向かう中で、俺は一人、だだっ広いグラウンドで走っていた。
「タイヤ、重い……けど、効いてる気がする……!」
マネージャーにもらったタイヤ、これを腰に走るのはめちゃくちゃにしんどい。ただ走るのとはまるで違うキツさに、やってやろうと反骨心が湧き出てくる。
そんなこんなで、なんとかグラウンドを一周して、疲労により地面に座り込む。
「クソッ……今頃一軍は試合かよ……」
入学から今日まで、ボールに触ったのは遠投でカーブを投げてしまった時のみ。そこから一週間、練習に参加できず、ひたすらに走らされ続けている。
環境の変化、辛い走り込み、ボールに触れられないストレス。諸々の逆境と、誰もいないことが相まって、めげそうになる。
そこに、
「ねえ、君何してるの」
声がかけられた。
顔を上げ、振り向くと、そこにはどえらい美人がいた。ハーフっぽい顔立ちは文句なしにテレビで見る芸能人のようで、制服の上からでも分かるくらいスタイルがいい。
現状、その膨らみを見上げる体勢になっており、俺はそっと目を逸らし、誤魔化すように早口で言う。
「お、お前こそ何してるんだよ。今日はうちの部活試合やってて」
「知ってる、図書室行った帰りに寄っただけ。そう言う君は、試合行かないで何してるの?」
「なにって、残って練習してるんだよ。みんなが休んでるときにやらなきゃ、いつまで経っても一軍にいけねぇからな」
「ふーん」
彼女は興味なさそうに頷くと、視線を俺の隣に移した。
「それで、やることが走り込み? 毎日飽きずに走って、陸上部にでもなるつもり?」
「ならねえよ! あのグラサンに練習に参加させてもらえねぇんだ! ヒマなら走ってろってな!」
「なにやったの」
「なんでなんかやった前提なんだよ!」
「違うの?」
「……違わねぇ」
図星を突かれ、でもあの遅刻&遠投カーブは話したくない。なんと誤魔化せばいいかと頭を悩ませていると、
「てかさ、誰もいないんならボール使えばいいじゃん。こんな時じゃないとできないでしょ」
「それだ!」
言われて、ハッとした。なんでそんな事に気づけなかったのかと。
ダッシュで倉庫に向かい、ボールを手に取る。久しぶりの感触に、喜びの舞を披露してしまう。
ただ、
「あ、相手がいねぇ」
ボールがあれど、一人では何もできない。図らず、倉庫の入り口へと目が向く。
「……グローブさえあれば、キャッチボールくらいは付き合えるけど」
「ありがとうございます!」
名前も知らぬ女子──改め女神様を前に、俺は直角に頭を下げた。
彼女は、キャッチボールが上手かった。
地元の赤城中の皆は、ボールが何処に行くか分からないからと、俺とキャッチボールをするのを嫌がっていたのに、彼女は普通に捕る。
返球も、スカートを気にしながら軽めに、けれどもしっかり胸元に届く。というか俺よりコントロールがいい。
「お前、もしかして野球やってた?」
「小学校の頃までね」
「やっぱり!」
久しぶりかつスムーズなキャッチボールと、まさかの経験者発覚に、テンションが上がる。
だから、ついこんな事を聞いてしまったのだ。
「今は別の部活やってんの? もしやってないなら野球部のマネージャーとかどーよ?」
「部活には入ってないけど、野球部だけは嫌」
「なんでだよ!」
「あのグラサンが嫌い」
「は?」
返ってきた理由は、シンプルなもので。
この部活でグラサンと言えば、そんなの一人しか当てはまる人物はいない。
「監督のこと、嫌いなのか?」
「うん」
彼女は、何の躊躇いもなく頷いた。
そして、少し離れたところに置きっぱなしのタイヤを見た。
「あのタイヤ、部の備品?」
「多分、そうだと思う。先輩でもやってた人いるし」
「あれ、続けてたら身体壊すよ」
「なっ……!」
絶句する俺に、彼女はボールを投げ、
「高負荷のトレーニングは、重量の選択、フォーム、回数。気を付けるべき事は山ほどある。君で言えば、まだ筋力が足りなくて無理なフォームでやってる」
「……そんな事わかんねぇだろ」
「分かるよ。さっきの君で、一番危ないのは腰。腰を反って引っ張ってたから、多分じきに痛めてたよ」
俺は、返す言葉が見つからず、無言でボールを投げた。
彼女も無言でボールを投げ返してきて、もう一度ボールが往復する。
「だからお前は、グラサンが嫌いなのか?」
「一応断っておくと、君が罰として走らされてるのはどうでもいい。けど、部の備品としてタイヤがあって、その使い方を教えてないのは、指導者として失格だと思う」
「……あれは、今日マネージャーが持ってきてくれたやつで」
「それでもだよ。下手をすれば一発で身体をダメにするものを、説明も受けずに使えること自体がおかしい。マニュアルすら無しに置いておくなんて論外」
いくらあのグラサンが気に食わないとはいえ、今でも鍛えているのが分かる身体、目の前で100メートル超えの遠投をした肩の強さ。尊敬されるべき人だとは思っている。
それをボロカスに言われて、反論したい。けれど、今の俺だと反論もできない。
それが顔に出ていたのか、彼女は「あの人はできたのかもしれない」と繋いで、
「恵まれた体格で、頑丈さで、多少の無茶をしても、体を壊さずにいられたのかもしれない。でも、それをそのまま指導者として、気合と根性で選手たちにやらせるのは二流以下だよね」
それは、説得力の塊だった。
俺が抱えていて、けれども言葉にできなかった反論を、真っ向から叩き潰していた。
甲子園準優勝投手で、プロ入りも確実と言われていた選手を称賛しつつ、青道野球部の監督としてのグラサンは、強く、強く否定していた。
「……なら、お前はちゃんとした練習が分かるのかよ」
「まだ勉強中だよ」
そのやり取りを最後に、彼女はグラサンへの評価を締めた。
俺も彼女も何も言わず、無言のままボールが数往復。
そして──、
「は、え、ちょ……!」
俺は、投球の構えから、思い切りボールを投げた。
「急に何! 危ないでしょ馬鹿なの!?」
彼女はボールを捕らえきれずに弾いた。当然、キレてくる。
「お願いします! 俺に、練習を教えてください!」
そんな彼女にダッシュで駆け寄り、頭を下げる。
頭上から戸惑った気配が伝わる、俺はそのまま言葉を重ねた。
「俺は、勝つために、御幸一也に受けてもらうために、赤城中の皆と離れて東京まできたんだ。けど、今の俺はまだ何もしてない……」
初日の寝坊は、俺の甘さだ。寮の先輩に夜遅くまでゲームに付き合わされたことなど言い訳でしかない。
遠投でカーブを投げてしまったことも、ストレートすらまともに投げられなかったことも、俺の未熟さの証だ。
悔しさに唇を噛み、けれど顔を上げる。
「それを叶えるためなら何だってする。だから、俺に練習を教えてください」
眉を顰めた彼女の表情は、嫌だと雄弁に語っている。そんな表情でも恐ろしいほどに整った顔を、俺は睨むように……いや睨み続ける。
沈黙が続き、彼女がはぁと息を吐いた。
「条件」
「なんだ」
「もし、君が結果を残したら、部員たちの目の前で、その時の気持ちをあのグラサンにぶつけること。ざまあみろ、見る目ないな、ごめんなさい……言葉はなんでもいいけど、その無駄に大きな声で、真っ向からあれとぶつかること。どう?」
「ぇ゙」
「嫌ならいいけど」
「や、やりますやります! やらせていただきます!」
話を切り上げようとした彼女を、必死に引き留める。
「やるのね?」
「はい! あのグラサンに目にモノ見せてやります!」
「よし」
俺の宣言に、彼女は満足そうに笑った。
悪ガキのように歪んだそれは、思わず見惚れるくらい、綺麗だった。
「あ、改めて自己紹介だな。俺は一年の沢村栄純。お前は?」
「一年B組、滝川絢。よろしく沢村」
こうして、俺と滝川の約束は、あのグラサンに目にモノ見せてやるため、結ばれたのだった。
◇◇◇
「沢村、彼女いないでしょ」
まず言われたのが、これだった。
「な、なんでそんな事わかんだよ。てかそもそも関係ないだろ」
「関係ないけど、関係あるの」
滝川はそう言うと、下唇を噛んで見せた。
お前もやれとの視線に、俺も同じようにする。
「それで、唇の皮剥ける?」
「……剥けるけど」
歯で少し擦ると、皮が捲れてくる。それに滝川は、
「それが彼女いないって言った理由。彼女がいて、キスしたいなって思ってたら、そんなカサカサの唇にしないもん」
種明かしに納得すると同時、妙に説得力のあるそれに、都会の、しかもこんな美人なら彼氏の一人や二人いて当然かと納得する。
「……パパが毎日ママにキスしてるから、それで知ってるだけだからね」
「え、あ、はい、ごめんなさい……」
「まあいいけど……で、本題に戻すと、沢村、左手出して」
言われるがまま左手を出す。
「沢村、ピッチャーなんだよね」
「あ、ああ。今は認められてないけど」
「なら、この手はダメ。論外」
柔らかすべすべな手に取られ、動揺し、余計なことまで口走った。
滝川はそんな俺に構うことなく、簡潔に、容赦なく、そう告げた。
「……どこがダメなんだよ」
「爪」
「爪?」
「そう。これ、全くケアしてないでしょ。それに最後に切ったのいつ? 結構伸びてるけど」
「え……一週間前、とか?」
なんでそんなことを気にするのか分からず、そもそも爪のケアとは何ぞやと首を傾げる。
滝川はそんな俺を非難するように──いや、非難した。
「ピッチャーがボールを投げるとき、最後までボールに触れているのが指先。その感覚一つで、投球の質が変わる。それに、百何十キロのボールを投げるために、指先は強い負荷がかかるの。一度爪が割れたら、元通りに回復するまで1ヶ月以上かかることもある……それでも爪なんてどうでもいいって思う?」
「爪ちょー大事です」
「分かればよろしい」
滝川がわざとらしく、教師のように頷く。
「本当は専門のケア商品がいいんだけど、高いし、おっきいお店じゃないと売ってないから。とりあえず爪はヤスって、あとは保湿ね。今日オフならドラッグストア行って──」
「あの……」
「なに?」
やるべき事を列挙する滝川に、恐る恐る手を挙げて、俺は申し出た。
「俺、爪ヤスった事ないです」
ほんまコイツ……と、口に出さずとも、滝川の内心は雄弁に伝わってきた。
その後も滝川は、呆れながらも練習メニューを教えてくれた。
「私は選手じゃないから」
と、ボールを使った練習メニューはほとんどなかった。室内での天井ボール投げくらいだ。
だが、自重による体幹トレーニングや、青道の室内練習場にあるメディシンボールとやらを使ったものなど。鍛える部位、注意すること、何のために鍛えるのかまで併せて伝えられた。
また、どうせ正規の練習は量が凄まじいのだからと、その量に関しても考慮してくれた。
「量をやることは否定しない。勉強でも運動でも、どれだけ正しい方法を知ってても、量をやらなきゃ身につかないから──ただ、沢村はむしろ逆」
俺の肩、肘、手首の柔軟性は天性のものだと、逆に現時点で筋力はそれほどないと評価された。
だからこそ焦らない、身体が追いつくまで無理はしない。当然タイヤは禁止、走り込みも量を考えろなど。気合と根性でオーバーワークしないようにと厳命された。
その知識量にも驚かされたが、続けて教えられたのは、練習への取り組み方、日常への向き合い方。
それらに関して、滝川はとてもとても厳しかった。
「爪のケアの仕方はこうね。さっきやったストレッチと合わせて、お風呂上がりにやること」
ぬるま湯でふやかした爪を、ドギマギしながらヤスられて、保湿されて。
「さっきも言ったけど、特にピッチャーにとって、指先の感覚は命。でもその日の体調とか環境で、身体のキレも感覚も変わる。だから毎日チェックするの」
その後にしたキャッチボールでは、指先の感覚を言語化させられて。
「起きてすぐの朝練前、練習前の気合が入ってるとき、アップして身体が温まってきたとき、練習後に疲れてるとき、お風呂上がりのリラックスしてるとき。今の自分はどう、疲れてない? って、身体に聞いてあげるの」
特に沢村は気合と根性だけで突っ走りそうだからと。ここでもまた、オーバーワークをしないよう、疲労の確認するよう注意されて。
「正規の練習はできなくても、ただ走るだけなんて勿体ない。呼吸やピッチもそうだし、フォームやお腹の使い方、骨盤の配置だって、意識するとこなんて無限にある」
罰走の最中でも、できることはあると、そう伝えられ。
「ご飯もそう。野球部の寮って、すごい食べさせられるんでしょ。練習と同じで、意味が分からずにただガムシャラに量をこなすのと、『何のために』やってるのかを理解してるのとじゃ全然違う。図書室に栄養学の本あるから、寝る前に読むこと」
一見、意味がなさそうなことも言われて。
「沢村は煩いし、気持ちが昂ぶってあんまり寝付けない日もあるだろうから。身体を落ち着けて寝やすくなる方法も教えてあげる」
まだ昼飯も食べてないのに、教わった一連の流れで少し眠くなったりした。
そして、なにより、
「こんな細かい事、意味あんのかよ……」
と、漏らしたとき、
「沢村」
「あ、わるい──」
「──持ってるスパイクっていくらする?」
咄嗟に謝ろうとする俺を遮って、滝川は聞いてきた。
「一万、くらいだけど……」
「じゃあ昨日はどのくらいの時間走ったの?」
「わかんねえ。休みも入れたら二時間は走ってるはず……」
「そう──じゃあさ、なんで足元を気遣うために一万円のスパイクは買うのに、数百円でできる指先のケアはやれないの? なんで二時間も走れるのに、お風呂上がりの、寝る前の数分はできないの?」
言われて、何も言えなかった。
「野球がやりたい、ボールに触りたい。それだけなら、草野球なり、人数がぎりぎりの学校に転校すればいいのよ──沢村はどうしてここに、青道高校の野球部にいるの?」
俺が、ここに、地元の皆と離れて青道に来た理由。
それは──、
「──勝つために。エースになって、御幸先輩とバッテリーを組むため。そのために俺はここに来た」
「なら、つまらない練習もやるし、時にはやりたくても我慢して休む。練習とは思えない細かいことも、できるよね?」
「ああ、やるさ、やってやるよ!」
そうやってうまく乗せられて、俺の孤独な練習は、地道な努力へとステージを変えた。
◇◇◇
滝川絢との邂逅から三週間、俺の日常は大きく変わった。
「ああもう、一々報告してこないで! 昨日の夕飯が生姜焼きとかどうでもいいから!」
「沢村の関節周りの柔軟性は、私が見た限りでは青道でもダントツで一番。だから今は焦らず。そもそも周りを見れば、1年生の殆どは体力作りでしょ」
「沢村は特に、今までまともな指導を受けてこなかったんだから、土台作りが何より大切なの」
「沢村、図書室の返却期限明日までだけど、忘れてないよね?」
と、滝川は何だかんだ言いながら、根気強く面倒を見てくれた。
そして寮でも、仰向けに寝転がり、天井に向かってボールを投げる──天井ボール投げをしていると、
「それ、三日坊主で終わるかと思ってたけど、続いてんじゃねぇか」
「続けますよっ。指先の感覚を掴むのとっ、リリースポイントを安定させるっ、練習なんですからっ」
「爪と言いストレッチと言い、誰の入れ知恵なんだか」
寝転がりながらの返事に、同室の倉持先輩は気を悪くした様子も見せない。むしろ感心したようにも見える。
「あ、それと」
「はい?」
決めていた回数を終えて起き上がると、先輩は何やら真剣な顔をして、肩を組んできた。
「お前、一年のめちゃくちゃ可愛い子と付き合ってるって噂があるんだが……嘘だよな? デマだよな?」
「滝川のことですか?」
「思い当たる節があるんだなてめえ!」
「ち、違いますから! 嘘です、デマです!」
「ほんとか? 嘘じゃねぇな?」
「本当だよ! てか放せ、腕固めんな!」
「目上に対するタメ口はご法度だぜ!」
と、まさかの誤解から理不尽な八つ当たりをされたりと、まあ色々あった。
そして明日、一年生のみのチームと、二・三年生チームで試合をするらしい。
「ちくしょー、ふざけんなぁ! 俺だって同じ一年だぞ! なんで俺だけ聞かされてねーんだよ!」
夕飯の鶏の照り焼きを食べていたとき、初めて聞かされた事実。入学から一ヶ月、未だに練習には参加させてもらえず、部内紅白戦があることすら知らされない。
その苛立ちを、脱いだ服を脱衣所のカゴに叩きつけることで発散する。
「あのグラサン、絶対俺の存在忘れてやがるなぁ……大体なんだあのグラサンは! ヤクザかっつーの! テメェの顔見せて相手選手でもビビらせるつもりか!」
否、発散しきれず、真っ裸になった勢いのまま風呂場へ入ると──、
──そこには、湯船に浸かった
あ、死んだ。そう覚った。
聞かれたのは確実。それでもなかったことにして、ただ会釈だけして頭と身体を洗う。
湯船の端っこ、グラサンから一番離れた場所に浸かる。
沈黙がつらい。耐えきれない。そう思っていたところに、
「おい」
「は、はい!」
「練習への取り組み方を変えてから、もう何日になる」
「さ、三週間ですかね」
お前のお陰でな! と思う傍ら、気付かれていたことに驚く。
グラウンドでは九十人の選手がいて、俺は一度もボールに触れていないのに。
「お前、一度も試合を観に来ていないようだな……どうしてだ?」
驚く俺に、監督はそう訊ねてきた。
怒っているかな、これ以上嫌われたら終わりだ……そう口ごもる俺に、監督は「いいから言え!」と睨みつけてくる。
「じ……」
俺は、拳を握りながら、ぽつぽつと答えた。
「自分以外の誰かが、マウンドに立ってる姿なんて、見たくねーっス」
「なに?」
「自分の力を試すために、俺は地元の仲間を裏切ったんだ……なのに他の誰かが活躍するのを、心の底から応援できますか?」
自分勝手だとは、分かっている。
でも、それでも、観たくなかった。
「多分、俺には無理です。心の底から応援できねーなら、行かないほうがいいと思って」
正直に告白して、改めて言葉にしたことで悔しさを噛み締めていると、
「フ、フハハ」
グラサンが不気味に笑い出した。何事かと振り向くと、グラサンが立ち上がった。
「小僧、気持ちだけは立派なエースだな……誰にもマウンドを譲りたくないという気持ち。今の二、三年に足りないのはそういう部分かもな」
グラサンは背中越しに、どことなくご機嫌にそう言うと、
「明日はグラブを持ってグラウンドに来い。もう一度だけ、チャンスをやる。そのバカ正直な答えに免じてな!」
喉から手が出るほど欲しかったチャンスを、ようやく手渡していった。
◇◇◇
一年生 対 二・三年生。その試合は、一方的だった。
打てば一回で12得点、守れば元エースの丹波さんが六者連続三振。
ただの紅白戦、そんな考えは甘過ぎた。先輩たちにとって、この試合はアピールの場。審判としてグラウンドにいる監督に、間近で実力を示す絶好の機会なのだ。
そんな先輩たちに、自分の力をぶつけてみたい。今までの十五年とこの三週間、その成果を試したいと。
俺は、ワクワクしていた。
「よーし、一年! 投手と外野、全員入れ替えるぞ!」
そして、12ー0で二回表が終了したところで、グラサンが声を張った。
ブルペンで御幸先輩にアップを手伝ってもらっていた俺は、「俺が出ます!」と目線でアピールする。
「フン、いいだろう。お前も守備につけ」
「おぉおおぉ!? キタァーーー!」
ついに、ついにきた出番。
グラウンドの外、金網越しに観戦するおっさんたちから少し離れて、とんでもなく目立つ美女がいる。
滝川絢。この三週間やってこれた恩人に、見てろよと、ビシッと指を差して、ブルペンから飛び出しマウンドに向かう。
「どこへ行く、お前はライトだ」
だが、現実はそんな甘くなく。グラサンもいいヤツなわけがなかった。
その後、先輩たちの連打や俺のばんざいエラー、降谷の一球だけ投球で一軍昇格。
俺の華麗なる振り逃げ、小湊春市という目隠れ野郎のタイムリーにより、一点を返上。
そんな壮大なストーリーを経て、六回裏、ようやく俺はマウンドに上がることができた。
「おい、お前球種は?」
内野が集まったマウンドで、キャッチャーの狩場が聞いてくる。
「あれだけ大口叩いたんだ、中途半端なピッチングしやがったら許さねーからな」
「フッフッフッ、心配すんな。俺は逃げも隠れもせん、全球ド真ん中だ!」
「ああ……コイツあれか、馬鹿か」
「馬鹿だな……」
合わせて五人の内野が、俺をアホを見るような目で見てくる。けれど、俺の言葉は真実、嘘一つない。
それに、
「俺、今日めちゃくちゃ調子いいんだ」
パシッ、パシッと、グラブにボールを軽く叩きつけ、その感触を確かめる。
ボールが手に収まる感じ、指から離れる感じ、調子がいいときのそれだった。それこそこの三週間で、一番の出来と言ってもいいくらいに。
そうして自信満々でいると、呆れたように、諦めたように、みんな守備位置に戻っていった。
「プレイ!」
審判であるグラサンの宣言で、試合が再開される。
狩場がミットを構える。ド真ん中に置かれたそれが、妙に大きく見える。
「──しっ、行くぜ」
気合を呟き、プレートを踏み、振りかぶる。そうして投じた第一球──
──カァンと、金属バット特有の音が鳴った。
ボールは高く、高く、舞い上がり、
「オーライ!」
サード、同じクラスの金丸が捕球した。ワンアウトだ。
「おっしゃあ! ナイスサード!」
「………………チッ、ナイスピッチ」
「え、なんて?」
「うっせえ! さっさと次投げろ見習いが!」
と、そんな盛り上がりを挟んだ第二球──
──カンと、金属バット特有の、けれどもさっきよりは鈍い音が鳴った。
ボールは緩く跳ねながら、ファーストの下へ。掴んでそのままベースを踏んで、ツーアウト。
「ナイスファースト!」
「ナイスピッチャー!」
金丸とは違い、快い返事が返ってきた。
「すげぇ! たった二球でツーアウトだぜ!」
「ツーアウト! ツーアウト!」
まさかの高速守備に、ベンチも盛り上がってきた三球目──
「ショート!」
ボテボテのゴロ、打ち取った当たりが、ショートに転がる。
だけど、今までの先輩たちの打球の強さから、後ろ気味に守っていたショートはスタートが遅い。
間に合わないと、そう思った瞬間──
──何故か、セカンドが捕球し、そのまま一塁に正確な送球でアウトにしてみせた。
「うおお! 凄え、なんか今くりんってなったぞ!」
セカンド小湊のファインプレーに思わず叫び、グラウンドやベンチからも声が響く。
そうして、六回裏、俺たち一年生チームは、この試合初めて無失点に抑えることができた。
◆
紅白戦、六回裏からマウンドに上がった俺は、八回の裏、最後まで投げさせてもらうことができた。
七回に、同室の三年生、増子先輩に先頭打者ホームランを打たれたが、その後は三者凡退。八回には三塁までランナーを進められたが、守備に助けられて無失点で切り抜けた。
三回一失点、これが俺の高校初試合の成績だった。
『お疲れ様。二軍への昇格もおめでとう。
これからはちゃんと監督かコーチの指導受けられるし、頑張って。
ただ、マウンドで大声で打ち合わせするのはやめたほうがいいと思う。
馬鹿に見えるから』
と、滝川からも労いのメールを貰った。
──二軍昇格では『結果を残す』ことに値しない。一軍昇格したときに、晴れてあのグラサンに怒鳴ってやろう。
その気持ちは、彼女もきっと同じで。
二軍昇格の先も見据えてくれているようなメールが、嬉しかった。
そして翌日の放課後、ランニング中、一軍に昇格した降谷と共に、放送にてベンチ前に呼び出された。
「君たち二人には、今日から投手陣のメニューをこなしてもらうわ。練習量はみんなの倍になるけど、頑張って」
「はい!」「分かりました」
俺をスカウトした高島礼さんに告げられ、俺は威勢よく、降谷は静かに返事をする。
「降谷くん、あなたは来週の関東大会に登板があるかもしれないから、御幸くんと組んでセットプレーやサインの確認をしておいてね」
「はい──よろしくお願いします」
そして、降谷は御幸先輩と組めることを噛み締めるように、頭を下げた。
「沢村くんには、三年生のクリスくんと組んでもらうわ。リード面やマウンドでの心構えを、彼から色々と教えてもらって」
と、高島さんの紹介に合わせて、もう一人のキャッチャーが前に、手を差し出してくる。
……正直、御幸先輩に受けてもらいたい気持ちは、ある。俺がここに来た理由の一つが、それなのだ。
けれど、
沢村はどうしてここに、青道高校の野球部にいるの?
──勝つために。エースになるため、御幸先輩とバッテリーを組むために。
なら、つまらない練習もやるし、時にはやりたくても我慢して休む。練習とは思えない細かいことも、できるよね?
──ああ、できるさ、やってやるよ!
「っス、沢村栄純です。えっと、クリス先輩、よろしくお願いします」
そっと、手を重ねると、彼から強く握り返された。
「
ボソボソと、背後の掛け声にかき消されそうな小さな声で名乗ったその人は、間違いなく初対面なはずなのに、どこか既視感がある。
それはそうと、
「あ、あの……」
「どうした」
「その、手が……」
ギリギリと軋みを上げそうな握力に、手が悲鳴を上げている。
二軍に昇格した期待のルーキー(ここ大事!)を任されるのだから、理由もなく後輩を虐めるような人ではないはず。けれど、理由が分からない。
「問題ない。お前は左投げだろう」
クリス先輩は、右手の圧力を緩めることなく、静かに笑っている。
その笑みを、やはり何処かで見たような気がする……
そんな現実逃避をすることで、俺は右手の痛みから逃れようとした。