さらなる高みを求める彼の前に現れたのは、百式観音を会得したばかりの若き日のアイザック=ネテロ。
言葉による説明は不要。ただ互いの武をぶつけ合い、己の限界を超えるため、二人の強者は激突する。
山が、斬られていた。
山頂から山腹へ、斜めに走る一筋の断面が、巨大な山体を上下に分断していた。切断面は異様なほど滑らかで、岩盤の内部にまで達した刃筋が、地層を構成する硬い岩石をまとめて断ち切っている。数秒遅れて、切断された山頂がゆっくりと傾き始めた。山体を支えていた岩盤が軋み、内部に蓄積された応力が一斉に解放される。次の瞬間、山の上半分が轟音とともに崩れ落ちた。
岩塊が雪崩のように斜面を下り、山腹を覆っていた木々を根こそぎ引き剥がしていく。地面を転がる巨大な岩は互いに衝突して砕け、砕けた石片は土砂とともに谷底へなだれ込んだ。立ち昇る土煙が朝の空を覆い、遠くの稜線まで灰色に染め上げていく。
その崩壊を見届ける者は、誰もいなかった。
山を斬った存在は、すでにその場から姿を消していたのである。
ただし、山が自然に崩れたわけではない。ましてや、老人が木刀を一振りしただけで、このような破壊が起こったのでもない。
巨大な念の武者を完全な姿で顕現させ、その身体へ膨大なオーラを行き渡らせ、長大な刀へ全身の力を集約して放った斬撃が、山体そのものを断ち切ったのだった。
その技の名を、須佐能乎という。
◆◆◆
ゲンマ・クロガネは、今日も木刀を振っていた。
山奥に建てられた簡素な小屋の前には、修行のために平らに整えられた岩場が広がっている。朝露に濡れた草が岩の隙間から生え、斜面には古い木々が幾重にも枝を伸ばしていた。谷底から吹き上がる冷たい風が、白髪の交じった頭髪を揺らしている。
彼の年齢は、七十をいくばくか過ぎていた。
正確な年数を尋ねられても、本人はまともに答えようとしない。誕生日を祝う習慣などとうに失っており、何年生きたかを数えるよりも、今日の素振りを何回終えたかを数えるほうが、彼にとっては遥かに重要だった。
顔には深い皺が刻まれ、こめかみから後頭部にかけては白髪が大半を占めている。背丈は特別に大きいわけでもなく、鍛え上げられた肉体にも、老いによる衰えが確かに表れていた。若い頃に傷めた左膝は、ときおり鈍い痛みを訴え、長時間の修行を続けた翌朝には、関節を動かすまでに少しばかり時間がかかる。
それでも、木刀を握る両手は揺らがなかった。
ゲンマが木刀を頭上へ持ち上げた。
足裏から地面へ伝わる圧力を確かめ、腰の位置を修正し、肩甲骨から肘、肘から手首へと連なる動作を意識する。余計な力が肩へ残っていないことを確認し、呼吸を整え、切っ先が狙った軌道を通過するための準備を、一つずつ終わらせていった。
そして、木刀を振り下ろした。
乾いた風切り音が、岩場に響く。
木刀は正確な軌道を描き、狙った位置で停止した。
周囲の落ち葉がわずかに揺れたが、それ以上の変化は起きなかった。地面に亀裂が走ることも、木々が吹き飛ぶことも、山が震えることもない。木刀は木刀のままであり、ゲンマの身体も、それまでと何一つ変わってはいなかった。
彼は、木刀を戻した。
もう一度、構えた。
そして、再び振り下ろした。
それは、ごく単純な反復だった。
しかし、ゲンマにとっての素振りとは、単に腕を上下させるだけの運動ではない。地面を踏みしめる位置、身体の重心を移動させる角度、腰の回転から肩へ伝わる力、手首の返しによって変化する切っ先の軌道、攻撃を終えたあとに次の動作へ移るまでの時間、そのすべてを検証するための鍛錬だった。
彼は、この作業を何十年も続けてきた。
若い頃、ゲンマには才能がなかった。
技を覚えるのは遅く、身体の使い方を理解するにも時間がかかり、同門の者たちが当然のように身につけていく技術を、自分だけが何度も反復しなければ習得できなかった。身体能力に優れた者には速度で負け、経験豊かな者には攻撃を読まれ、工夫を凝らしたところで、埋められない差が残ることもあった。
それでも、彼は刀を捨てなかった。
敗北すれば、その原因を探した。技術が足りなければ、その技術を身につけるために修行を重ねた。身体能力に差があるならば、同じ力をより効率よく伝えるための身体操作を磨き、反応速度が足りないならば、相手の動作をより早く読み取るための観察力を鍛えた。
念を知ったあとも、その姿勢は変わらなかった。
彼は強化系だった。身体能力を底上げし、打撃を強化し、攻防力を高める技術には適性があった。しかし、特別な能力を次々と生み出せる天才ではなく、念の応用技術を身につけるにも、ほかの者より多くの時間を必要とした。
だからこそ、ゲンマは道を絞った。
己の身体を極める。己の技術を極める。自分が選んだ武器を、自分が納得できるところまで磨き上げる。他人の才能を羨むことに時間を使うくらいなら、今の自分にできる鍛錬を一回でも多く繰り返したほうがよい。彼はそう考え、数え切れないほどの敗北を経験しながら、刀を振り続けた。
そして、ある時期から、一日一万回の素振りを自分に課すようになった。
一万という数字に、特別な意味があったわけではない。今日の鍛錬を、今日のうちに終えたと明確に認識するための目安であり、衰え始めた身体に甘えず、昨日まで積み重ねてきたものを明日へつなげるための目標だった。
ただ、ゲンマは、その一振り一振りに感謝を込めるようになった。
今日刀を握れること。今日も身体が動いてくれること。失敗した原因を考え、翌日の鍛錬で修正できること。まだ知らない技術があり、まだ改善できる部分が残されていること。
それらをありがたいと思いながら、彼は木刀を振った。
やがて、その積み重ねは、彼自身の認識さえ変えていった。
ゲンマが武を極めるために求めていたものは、単に強大な力ではなかった。彼は、己の理想とする武者の姿を、何十年もかけて心の内側に作り上げていた。強さだけを求める獣でもなく、技術だけに執着する機械でもなく、身体のすべてを意識の延長として扱い、どれほど巨大な力を得ても、その一振りを正確に制御できる武者である。
その理想は、長い年月をかけて、彼の心に深く刻み込まれていった。
そして、念の極地へ足を踏み入れたとき、その心象が外界へ形を持って現れた。
巨大な武者。青紫色の装甲をまとい、長大な刀を握り、背中には二枚の翼を備えた、ゲンマ自身の理想の具現。
彼は、その能力を須佐能乎と名づけた。
もちろん、心象が具現化したからといって、制約が消えるわけではない。
完全体須佐能乎を維持するには、膨大な念が必要だった。巨体を支え、装甲を保ち、翼を動かし、二本の刀を形成し続ければ、オーラは着実に減少していく。攻撃のために全身の念を刀へ集約させれば、その瞬間、防御力は低下し、損傷した部分を修復するにも、さらに念を消費しなければならない。
そして何より、須佐能乎は、ゲンマ自身の技術を超えて勝手に戦ってくれる存在ではなかった。巨大な身体を動かすには、巨大な身体を動かすための技術が必要になる。腕が長ければ、刀の軌道も変わる。身体が大きければ、重心の移動も大きくなる。装甲が厚ければ、動作の開始と停止に必要な力も変化する。
その問題を、ゲンマは何年もかけて解決してきた。通常の身体で身につけた動作の本質を見極め、巨大な身体へ置き換え、失敗すれば原因を調べ、次の鍛錬で修正する。その繰り返しによって、完全体須佐能乎は少しずつ、ゲンマ自身の身体と同じ精度で動くようになった。
それでも、彼は満足していなかった。
山を斬ることはできる。巨大な岩盤を砕くこともできる。しかし、それは動かない対象へ力を振るっているだけだった。己の技術が本当に完成しているのかを知るためには、自分の攻撃を読み取り、回避し、反撃してくる相手と戦わなければならない。
その相手を、ゲンマは探していた。
そして、彼の探し求めていた相手は、山をいくつも越えた先から、すでにこちらへ向かっていた。
◆◆◆
アイザック=ネテロは、その日、自分の修行場を離れた。
五十代半ばを迎えた彼は、長年にわたる鍛錬によって、身体の動作から余分な過程を取り除く技術を極限まで磨き上げていた。頭頂部の髪は薄くなり、顔には皺が刻まれていたが、その小柄な身体には、年齢からは想像できないほどの活力が宿っている。
彼は、念能力者として、新たな境地へ到達したばかりだった。
長年続けてきた祈りと感謝の鍛錬が、心象の具現化へ至ったのである。両手を合わせ、祈りの姿勢へ移る。その単純な動作のなかに、長年の修行によって磨かれた技術が凝縮され、思考と動作のあいだに存在する時間が極限まで削ぎ落とされた。その心象は、巨大な観音像として外界に顕現し、百式観音と名づけられた。
しかし、ネテロは、まだ自分の能力を完全に理解しているとは考えていなかった。実戦では、相手の反応速度も、念の性質も、戦闘経験も異なる。自分の攻撃がどれほど通用するのか、観音の腕をどのように動かせば効率よく攻防を成立させられるのか、巨大な念の像を維持するためにどれほどのオーラが必要になるのか、それらを知るためには、実際に戦ってみるしかなかった。
そのとき、遠くの山から、異様な念の気配が伝わってきた。
ネテロは、顔を上げた。
山脈の向こうで地鳴りのような音が響き、わずかな間を置いて、別の衝撃が大地を伝ってくる。さらに遠くの空には土煙が立ち上り、山々のあいだから、強烈な念の圧力が広がっているのが感じ取れた。
「……ほう、これはまた、面白いものが現れたようじゃのう」
ネテロは、すぐに修行場を離れた。
山道を軽い足取りで進み、岩場を越え、急な斜面を下り、木々のあいだを通り抜けていく。歩いているだけに見える動作の一つ一つにも無駄がなく、身体の重心は滑らかに移動し、足を置く位置にも合理性があった。
やがて、彼は山腹を切断されたような谷へたどり着いた。
目の前には、巨大な山の一部が斜めに断ち切られた地形が広がっていた。岩盤は滑らかな断面を露出させ、周囲の斜面からは大量の岩塊が崩れ落ち、谷底には砕けた石が幾重にも積み重なっている。
ネテロは、切断面へ近づいた。
指先で岩肌に触れ、残留した念の気配を確かめる。
膨大なオーラ。人間の身体を遥かに超えた巨大な輪郭。そして、その内部に存在していた、驚くほど精密な制御の痕跡。
ただ念を大きく膨らませただけでは、ここまで正確な切断面は生まれない。巨大な身体を構成する念の流れを制御し、武器へ力を集約させ、刃の軌道を正確に保つためには、相当な技術が必要になる。
ネテロは、思わず笑みを浮かべた。
「なるほど、これはただの力自慢ではなさそうじゃな」
さらに谷を進むと、山間の岩場で、一人の老人が木刀を振っているのが見えた。
老人は、汗で濡れた衣服を着て、淡々と素振りを続けていた。周囲には巨大な武者も、山を切り裂くほどの刀も存在していない。木刀の風切り音は規則正しく響き、その動作には余計な力が見られなかった。
ネテロは、しばらく、その姿を眺めた。
気配は間違いなく一致している。それなのに、目の前にいる老人は、驚くほど小柄だった。白髪が多く、顔には深い皺が刻まれ、身体には老いの兆候が見られる。今の姿だけを見れば、山奥で暮らす剣術家としか思えない。
しかし、その立ち姿には、長年武を追い求めてきた者にしか分からない何かがあった。
ネテロは、手を叩いた。
「いやいや、見事な素振りじゃのう。山を越えてまで様子を見に来た甲斐があったというものじゃ。まさか、これほどの念を操る御仁が木刀を振っておるとは思わなんだわい」
ゲンマは、木刀を下ろした。
「……人の修行場へ勝手に入り込んでおいて、随分と気楽な挨拶をする御仁じゃな。もっとも、その立ち姿を見る限り、ただの物見遊山で来たわけではなさそうじゃが」
ネテロは、楽しそうに笑った。
「ほっほっほ、これは失礼したのう。わしはアイザック=ネテロという者じゃ。山が揺れておったものじゃから、何事かと思って様子を見に来たところ、面白いものが見られたので、つい声をかけてしまったわい」
「ゲンマ・クロガネじゃ。ただの剣術家であり、念能力者としても、ようやく自分の納得できる境地へ近づき始めた程度の男じゃよ」
ネテロは、ゲンマの身体を観察した。
年齢は、少なくとも七十を越えているだろう。肉体の衰えは隠しきれないものの、オーラの流れには驚くほどの安定感があり、全身を覆う纏にも、必要な部位へ念を配分する動作にも無駄がない。そして、その奥には、巨大な武者の心象が確かに存在していた。
「お主、先ほどの巨大な武者は、どういう能力なのじゃ。あの山の切断面を見る限り、相当に強大な念を扱っておるようじゃが」
ゲンマは、木刀を持ち直した。
「須佐能乎という。わしが長年、武を極めようとするなかで心の内に形作ってきた理想の武者を、念によって具現化したものじゃ」
ネテロの目が、わずかに細くなった。
自分自身もまた、祈りと感謝を極限まで磨き上げた結果、百式観音という心象の具現化へ到達している。そして、目の前の老人もまた、長年の鍛錬によって磨き上げた技術と精神を、巨大な武者という形で外界へ顕現させていた。
「……なるほど、お主もそこへ至ったというわけか」
「そなたも、似たような境地におるようじゃな。身体から漂う念の気配だけでも、相当に練り上げられた能力を身につけたことが分かる」
ネテロは、心の底から笑った。
「ほっほっほ、話が早くて助かるわい。わしもつい最近、この能力を使えるようになったところでのう。その力が実戦でどこまで通用するのか、ぜひとも確かめたいと思っておったのじゃよ」
ゲンマは、相手の両手へ視線を向けた。
その掌には何も握られていない。しかし、祈りの姿勢へ移るための構えには、長年磨き上げられた技術が凝縮されている。両手を合わせるという動作が、ただの所作ではなく、相手の反応よりも早く攻撃を成立させるための起点になっていることが、ゲンマには直感的に理解できた。
「……なるほど、わしと同じように、己の人生をかけて磨き上げたものが、一つの形になったというわけか」
「その通りじゃ。ならば、ぜひとも一度、手合わせをしてみたいものじゃのう」
ゲンマは、しばらく黙っていた。
相手は、自分よりも若い。しかし、身体から漂う念の圧力には、決して侮れないものがある。新たな能力を身につけたばかりだというのに、その構えには、どこから攻撃が来ても即座に対応できる鋭さが宿っていた。
ゲンマは、木刀を地面へ置いた。
「よかろう。わしも自分の武を試す相手を探しておったところじゃ。ただし、勝ち負けだけを決めるつもりはない。今の自分がどこまで通用するのかを知るために、全力で戦わせてもらうぞ」
ネテロは、満足そうに頷いた。
「もちろんじゃ。わしも手加減をするつもりはない」
◆◆◆
二人が戦場に選んだのは、山々に囲まれた広大な盆地だった。
周囲には人里も建造物もなく、地面には大小の岩塊が露出している。盆地の端には高い岩峰が連なり、その奥には、長い年月をかけて形成された山脈が幾重にも重なっていた。
ゲンマは木刀を地面へ置いた。ネテロは両手を軽く開いた。
互いに距離を取り、相手の呼吸を観察する。
風が盆地を吹き抜け、草の葉が揺れ、遠くの岩肌から小さな石が転がり落ちた。
最初に動いたのは、ネテロだった。
踏み込みによって、地面が爆ぜた。
踏みしめられた岩盤が足裏の形に陥没し、弾けた石片が放射状に飛び散る。砕けた地面が衝撃を伝えるより早く、ネテロの姿はゲンマの懐へ入り込んでいた。拳が脇腹へ向かって走る。肩の沈みも、腰の回転も、踏み込んだ足の位置さえも、ゲンマが動作を読み取る頃には、すでに攻撃が完成する寸前だった。
ゲンマは、両腕を交差させた。
拳が、前腕へ食い込んだ。
鈍い音が響いた直後、ゲンマの身体が地面から浮き上がった。防御に回した念が衝撃を受け止めきれず、骨の奥へまで打撃が突き抜ける。身体が後方へ押し飛ばされ、踵が岩盤を削り、背後にあった岩塊へ激突した。岩塊は衝突した箇所を中心に亀裂を広げ、直後、内側から砕け散った。
土煙のなかで、ゲンマは片足を踏み直した。
倒れなかった。
しかし、前腕には痺れが残り、脇腹には、先ほどの拳を受けただけで内臓まで揺さぶられたような痛みがあった。凝によって防御を集中させていたにもかかわらず、相手の打撃は、その防御を正面から押し破る寸前まで到達していたのである。
ネテロは、数歩先に立っていた。
両手を合わせた姿勢から、すでに次の攻撃へ移れる状態を整えている。小柄な身体には無駄な力が一切残っておらず、拳を放った直後だというのに呼吸も乱れていなかった。
「……なるほど、恐ろしい速さじゃのう」
ゲンマは、前腕を軽く振った。痺れは消えない。
言葉が終わるより早く、ネテロが両手を合わせた。
ゲンマは、反射的に首を捻った。拳が頬を掠める。皮膚が裂け、血が細い線を引いて飛び散る。ゲンマは後方へ引きながら右拳を返したが、拳が届くはずだった位置には、すでにネテロの姿がなかった。反撃が空を切った直後、腹部へ衝撃が叩き込まれ、ゲンマの身体は再び後方へ吹き飛んだ。
今度は、地面へ落ちるより早く体勢を立て直した。右足を前へ出し、腰を捻り、両足で岩盤を挟み込むようにして勢いを殺す。それでも、踏み込んだ足の下では地面が陥没し、亀裂が扇状に広がっていた。
ゲンマは、息を吐いた。
相手の動きを目で追うだけでは、間に合わない。攻撃を認識してから防御するのではなく、攻撃が生まれる直前の重心移動を見極め、次に何が起こるかを先に読まなければ、反応するための時間そのものを得られない。
ネテロが、再び踏み込んだ。
今度は、ゲンマも前へ出た。
相手の拳が伸びるより先に、半歩だけ身体を外へずらす。拳が肩先を掠め、衣服を裂く。その勢いを利用して、右手がネテロの胸元へ伸びた。
だが、掌が届く直前、ネテロの身体が沈んだ。
攻撃は、空を切った。
低く潜り込んだネテロの拳が、ゲンマの顎を打ち上げる。歯が噛み合い、視界が白く弾けた。ゲンマは後方へ跳び、顎から頭部へ抜ける衝撃を逃がすように首を捻り、着地と同時に腰を落とした。膝の古傷が鈍い痛みを訴えたが、今は気にしている場合ではなかった。
ネテロは、追撃してこなかった。
数歩の距離を保ち、両手を合わせた姿勢で、こちらの動きを観察している。その目は笑っていた。相手を侮っているのではない。戦いのなかで、未知の技術に遭遇することそのものを楽しんでいる目だった。
ゲンマは、口元の血を拭った。
年齢を重ねるにつれ、身体は確実に衰えてきた。若い頃ならば一晩で回復した疲労が数日残り、無理をすれば膝や腰に痛みが生じる。それでも、長年の鍛錬によって磨いてきた身体操作の精度だけは、簡単には失われていなかった。
問題は、その技術を発揮するための時間が足りないことだった。
ネテロが次の攻撃を準備している。こちらが拳を構え直すよりも早く、祈りの動作へ移り、攻撃を到達させることができる。防御を強化しても、受けた衝撃は身体の奥へ蓄積する。回避すれば、その動作の終わりを狙って追撃が来る。
通常の身体で、この速度差を埋めることは難しい。
ネテロの肩が動いた。
ゲンマは、動かなかった。
次の瞬間、ネテロが踏み込んだ。ゲンマも同時に踏み込む。拳が交差した。ゲンマの拳はネテロの肩を掠め、ネテロの拳はゲンマの胸を打った。互いの身体が反対方向へ弾かれ、地面に複数の足跡が刻まれる。ゲンマは胸部へ集中させた念を維持したまま、衝撃に抗って片足を踏み込み、倒れる寸前で身体を支えた。
ネテロもまた、後方へ滑っていた。ただし、彼の足元で砕けた岩盤はわずかだった。衝撃が到達する直前に重心を移し、受けた力を地面へ逃がしていたのである。
ゲンマは、その動きを見逃さなかった。
相手は速い。しかし、どのような攻撃にも、始まりと終わりがある。攻撃を放つために踏み込み、身体を動かし、拳を到達させる。その一連の過程が、どれほど極限まで削られていようとも、完全に存在しなくなるわけではない。
ならば、そこを捉えるしかない。
ゲンマは、呼吸を整えた。
ネテロが、再び両手を合わせた。
その瞬間、ゲンマは腰を落として地面を蹴った。正面からではない。相手の踏み込みに合わせ、身体を斜めに滑り込ませながら、ネテロの攻撃が向かう位置そのものを外したのである。拳が肩先を掠める。ゲンマは、その腕の内側へ身体を入れ、肘を畳み、短い距離から掌底を押し込んだ。
ネテロの胸元が揺れた。
初めて、ゲンマの攻撃が明確に届いた。
しかし、掌底が押し切るより早く、ネテロの身体が後方へ抜けた。衝撃を受けた瞬間に足を引き、身体の軸をずらして力を逃がしたのである。ゲンマは追撃のために腕を伸ばしたが、ネテロの拳が先に肩へ届いた。
骨が軋む。
ゲンマは身体を捻りながら後方へ跳び、攻撃の勢いを殺した。着地した瞬間、左膝が強く痛んだ。彼は、その痛みを無視して立ち直った。
ここから先、通常の身体でどれだけ工夫しても、相手の速度を完全に覆すことはできないだろう。
しかし、戦いが終わるわけではなかった。
ゲンマの内側には、まだ切り札が残っていた。
彼は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
何十年も刀を振り続けたこと。敗北するたびに、その原因を考えてきたこと。己の身体を正確に動かすため、余計な力を削り、必要な動作だけを残してきたこと。そして、武を極めるという願いを、老いを理由に捨てなかったこと。
そのすべてが、心の奥底で一つの姿を結んでいた。
ゲンマが目を開いた。
「ふぅ、ここから先は少々、景色が変わるかもしれん」
ネテロの笑みが、深くなった。
「ようやく本番というわけじゃな」
◆◆◆
青紫色の光が、ゲンマの背後で膨張した。
最初に顕現したのは、巨大な骨格だった。
太い肋骨が幾重にも重なり、長大な腕が空へ伸び、兜を思わせる頭部の輪郭が山の稜線を覆う。骨格を包む念がさらに密度を増し、筋肉を思わせる構造が形成され、胸部、肩部、腕部へと重厚な装甲が組み上がっていく。背中から二枚の巨大な翼が広がり、翼の縁が大気を切って低い唸りを立てた。
頭部を覆う兜には鋭い角が伸び、眼窩の奥に青白い光が灯る。脚部には何重もの装甲が形成され、膝の周囲には衝撃を受け止めるための厚い構造が浮かび上がった。
最後に、両手へ二本の刀が現れた。
長大な刀身は、山の稜線に届きそうなほど巨大だった。刃の表面には青紫色の光が流れ、柄を握る巨大な手の指には、細かな装甲の節が重なっている。
完全体須佐能乎。
その巨体が立ち上がった瞬間、盆地の空気が押し退けられた。地面に露出していた岩塊が軋み、足元の岩盤に細かな亀裂が走り、周囲の草木が強烈な風圧によって一斉に伏せる。巨体の輪郭から溢れる念の圧力は、単なる威圧感ではなく、そこに存在する空間そのものを押し潰すような密度を伴っていた。
ネテロは、ゆっくりと顔を上げた。
巨大な武者を前にしても、彼の笑みは消えなかった。むしろ、口元は先ほどよりも深く吊り上がっていた。
「ほっほっほ、これは見事じゃな。巨大な身体を念によって作り上げただけではなく、己の身体操作を、そのまま巨体へ反映させておるのか」
須佐能乎の内部から、ゲンマの声が響いた。
「ただ大きいだけの念能力なら、わしもここまで使い続けようとは思わんかった。長年磨いてきた技術を、この身体でも正確に扱えることこそ、わしの能力の本質じゃ」
ネテロは、両手を合わせた。
背後に金色の光が広がり、巨大な観音像が姿を現した。
百式観音。
無数の腕が背後へ広がり、巨大な掌の一つ一つが異なる角度で構えを取り、穏やかな表情を浮かべた観音像の姿が、山間の盆地を圧倒的な存在感で満たしていく。その全身から放たれる念の圧力は、完全体須佐能乎にも決して引けを取らない。
青紫色の武者と、金色の観音。
二つの巨体が、互いの輪郭を照らしながら向かい合う。どちらもまだ動いていないのに、両者のあいだに挟まれた空気は重く沈み、足元の岩盤は耐えきれない圧力によって細かな亀裂を生み始めていた。
ネテロが、祈った。
須佐能乎が、動いた。
◆◆◆
両者の巨体が同時に動き出した瞬間、盆地の空気が爆発した。
最初に到達したのは、百式観音の掌だった。正面から頭部へ向かって振り下ろされた巨大な掌が、圧縮された空気を押し潰しながら迫る。須佐能乎は右手の刀を斜めに差し込み、刃の腹で掌の進行方向を逸らした。
衝突。
轟音が、山脈の奥まで響き渡った。
巨大な掌と刀身が接触した瞬間、衝撃波が地表を這い、盆地の岩盤が一斉に砕けた。地面に広がった亀裂は数十メートル先まで走り、周囲の岩峰が震動し、斜面に積もっていた土砂が崩れ落ち始めた。
須佐能乎の右腕が、わずかに沈んだ。
しかし、刀身は折れなかった。
ゲンマは、腰を落として巨体の重心を移動させた。掌から伝わる衝撃を腕だけで受け止めず、肩から胴体へ逃がし、両足を通じて地面へ流していく。右足の踵が岩盤へ深く食い込み、巨体の周囲に幾重もの亀裂が広がった。
ネテロの目が、わずかに細くなった。
「ほう、受け流しの技術は通常の剣術と同じじゃな。力任せに押し返すのではなく、攻撃の角度を変えることで、衝撃そのものを逃がしておるわい」
ゲンマは右手の刀を引き、左手の刀を前へ出した。
ネテロは、即座に両手を合わせた。
第二撃が、須佐能乎の左肩へ到達した。ほとんど同時に第三撃が胴体へ叩き込まれ、第四撃が右腕を押し下げ、第五撃が膝の外側へ滑り込んだ。百式観音の掌は、それぞれ異なる角度から攻撃を繰り出し、須佐能乎が一つの攻撃を受け止めた瞬間には、すでに別の掌が次の軌道へ入っていた。
ゲンマは、二本の刀を交差させた。左手の刀で胴体への打撃を受け流し、右手の刀を返して肩への攻撃を弾き、腰を捻って膝へ迫る掌を外へ逃がす。巨大な腕が動くたび、空気が轟音を上げ、地面へ伝わった衝撃によって岩盤が砕け散っていった。
しかし、すべてを防ぐことはできなかった。
百式観音の掌が、須佐能乎の左肩へ直撃した。
青紫色の装甲が大きく陥没し、巨大な肩の輪郭が歪み、衝撃によって身体全体が横へ傾いた。左足が地面を削りながら滑り、岩盤が広範囲にわたって砕け、盆地の中央に深い亀裂が走った。装甲の表面に、無数の亀裂が広がっていく。
須佐能乎の内部で、ゲンマは歯を食いしばった。
巨大な身体を形成していても、衝撃そのものが消えるわけではない。装甲で受け止めた攻撃は念の流れを乱し、損傷した部分を修復するためには、さらにオーラを消費しなければならない。今の数撃だけで、維持に必要な念が明らかに増大していた。
ネテロは、その変化を見逃さなかった。
「お主の防御は強固じゃが、受けた衝撃を完全に消せるわけではないらしいのう。損傷を修復するたびに念を消費するならば、長く戦うほど、お主のほうが不利になるのではないかのう」
ゲンマは、左肩の装甲を確認した。
「その通りじゃよ。わしの念も身体も有限じゃ。どれだけ修行を積んだからといって、無尽蔵に力が湧いてくるわけではない」
「ならば、こちらも遠慮する必要はなさそうじゃな」
ネテロは、再び祈った。
百式観音の腕が、一斉に動いた。
正面からの掌を受け流した直後、側面から別の掌が迫り、背後から三つ目の衝撃が胴体へ叩き込まれた。ゲンマは左の刀で背後からの攻撃を弾いたものの、その動作によって右側面に隙が生じ、そこへ四つ目の掌が滑り込んできた。
須佐能乎の胴体が、激しく揺れた。
巨大な足が地面へ沈み込み、岩盤が陥没し、数十メートルにわたって亀裂が広がった。背後の斜面では崩落が始まり、巨大な岩塊が谷底へ転がり落ち、砕けた石が土煙とともに空へ舞い上がった。
攻撃は、止まらなかった。
百式観音の掌が、上方から、側面から、正面から、次々と須佐能乎へ到達する。ゲンマは二本の刀を駆使し、攻撃を受け流し、弾き、逸らしながら反撃の機会を探したが、百式観音は、その僅かな隙さえ許してくれなかった。
一撃を受け流すために腕を動かせば、その動作が次の攻撃を防ぐための隙となる。姿勢を立て直そうとすれば、先回りした掌が足元を狙い、反撃のために刀を振り上げれば、その動作が完成する前に別の攻撃が到達する。
巨大な須佐能乎は、攻防力だけを見れば圧倒的な存在だった。しかし、百式観音は、その巨体が持つ強みを、攻撃の速度と連携によって少しずつ削り取っていた。
須佐能乎の左肩から、装甲の破片が剥がれ落ちた。胴体の亀裂は広がり、右腕の一部にも損傷が生じ、青紫色の光が裂け目から漏れ出している。ゲンマは、全身の念を使って装甲を補強しながら戦っていたが、その修復によって、攻撃へ回せるオーラは着実に減少していた。
◆◆◆
ゲンマは、奥歯を噛み締めた。
このまま防御に回り続ければ、いずれ維持に必要な念が尽きる。反撃のために刀を振るう時間が足りないのならば、攻撃が到達する前に相手の動作を読み取り、こちらの刀を通すための僅かな隙を作り出さなければならない。
速さで勝てない相手に、ただ速く動こうとしても意味はない。
ならば、長年磨き続けてきた剣術の本質へ立ち返るしかなかった。
ゲンマは、右足を半歩だけ後ろへ引いた。同時に左手の刀を低く構え、右手の刀を肩の高さへ持ち上げる。須佐能乎の重心が移動し、二本の刀が交差する角度が変わった。
その変化は、ごく僅かなものだった。
しかし、ネテロは見逃さなかった。彼は即座に祈り、右側面から掌を打ち込んだ。
その瞬間、ゲンマは刀を振り下ろさなかった。
右手の刀を、掌の進行方向へ滑り込ませたのである。刃が掌へ触れた瞬間、手首の角度をわずかに変えた。巨大な掌の軌道が外側へ逸れ、衝撃の一部が空へ逃がされる。須佐能乎の胴体へ到達するはずだった攻撃は、肩の装甲を浅く削り取るだけで通過していった。
その瞬間を、ゲンマは逃さなかった。
左手の刀が、横薙ぎに走った。
巨大な刃が、百式観音の腕へ向かって迫る。ネテロは即座に両手を合わせ、観音の腕を引き戻した。刀身が通過する直前に攻撃の軌道から外れたものの、完全に避けきることはできなかった。巨大な刃が観音の腕を掠め、金色の光が散り、腕の輪郭が一瞬だけ歪んだ。
初めて、須佐能乎の反撃が有効な形で届いた。
ネテロは、傷ついた観音の腕を見上げたあと、楽しそうに笑った。
「ほっほっほ、今のは危なかったわい。攻撃を受け流す動作そのものを反撃へつなげるとは、なかなか巧妙なことをしてくれるのう」
「そなたの攻撃が速すぎるからのう。正面から打ち合っておっては、こちらの刀が届く前に何度も殴られてしまう。ならば、そちらの攻撃を利用して、わずかな隙を作るしかあるまい」
ネテロは、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。ならば、こちらも攻め方を変える必要がありそうじゃな」
◆◆◆
百式観音の腕が、再び広がった。
今度は、正面から連打する構えではなかった。複数の掌が、互いに異なる角度から動き、須佐能乎を取り囲むように位置を変えていく。正面、側面、背後、さらには上方からも腕が伸び、ゲンマがどの方向へ身体を動かしても、必ずいずれかの攻撃が到達するような配置が作られていた。
ネテロは、攻撃が始まる前に、戦場そのものを支配しようとしていたのである。
ゲンマは、その変化を読み取った。後退すれば包囲が完成する。ならば、攻撃が届く前に前進し、包囲が閉じる前に一点を突破するしかない。
須佐能乎の右足が地面を踏み抜いた。岩盤が砕け、巨体が前へ滑り込む。二本の刀が、左右から交差するように振るわれた。右の刃が正面の掌を弾き、左の刃が側面から伸びてきた腕を切り払う。青紫色の光と金色の光が衝突し、爆発的な衝撃波が盆地の端まで広がっていった。
しかし、ネテロの掌は止まらなかった。
正面の掌を弾いた直後、上方から別の掌が落ちてくる。ゲンマは右手の刀を持ち上げて受け止めたが、その瞬間に背後から衝撃が到達した。巨体が前へ傾き、踏み込んだ右足が地面へ深く沈み込む。
左手の刀が遅れた。
その一瞬の隙へ、百式観音の掌が突き刺さった。
須佐能乎の左腕が、肘から大きく砕けた。装甲が剥がれ、骨格を思わせる構造が露出し、青紫色の光が激しく散る。左手の刀が地面へ落ち、切っ先が岩盤を貫いて深く突き刺さった。
ゲンマは、即座に右手の刀を振った。百式観音の掌が離れる直前、その軌道へ刃を差し込み、腕そのものを斬り払おうとする。しかし、ネテロは掌を引き戻しながら身体を傾け、攻撃の軌道から外れていった。
刀は、空を切った。
その間に、次の掌が到達した。
頭部へ、肩へ、胴体へ。三連撃が、須佐能乎の装甲を打ち砕いた。巨体が後方へ押し戻される。足元の岩盤が砕け、地面が陥没し、盆地の端にそびえていた岩峰が衝撃によって傾いた。山腹に亀裂が走り、巨大な岩塊が剥がれ落ち、土砂が谷底へなだれ込んでいく。
ゲンマは、崩れた左腕を見た。
修復は可能だった。しかし、修復すれば、その分だけ念を消費する。右腕へ攻撃を集中させれば、左腕を直す必要はなくなるかもしれない。だが、二本の刀を使うことで成立していた攻撃の幅は失われ、百式観音の包囲を突破するための選択肢も減少する。
須佐能乎は、強大だった。しかし、強大であることと、無敵であることは違う。
ゲンマは、地面へ突き刺さっていた左手の刀を引き抜いた。巨体が腰を捻る。左手の刀が、胴体の内側から斜め上へ振り上げられた。
百式観音の掌が、切り裂かれた。
金色の光が爆発し、巨大な腕が半ばから崩れた。ネテロは即座に後退した。
しかし、ゲンマは追撃をやめなかった。須佐能乎の右足が前へ踏み込む。左手の刀が観音の胴体へ向かって走り、右手の刀は頭部へ回り込もうとする掌を押し返す。二本の刀が異なる軌道を描き、百式観音の腕を次々と攻撃の起点から外していった。
その動作には、かつての素振りと同じ精度があった。
巨体であっても、刀を振るうための基本は変わらない。力を伝える順序を崩さず、身体の軸を保ち、切っ先が通るべき位置へ正確に刃を運ぶ。動作が巨大になればなるほど、余計な力や僅かな誤差は大きな損失になる。ゲンマは、その誤差を何十年もかけて削り続けてきた。
その技術が、今、ようやく百式観音を押し返し始めていた。
だが、ネテロも退かなかった。残った腕が一斉に動き、須佐能乎の左右から攻撃を重ねる。掌が刀身へ衝突し、装甲へ食い込み、巨体の重心を崩そうとする。ゲンマは、攻撃を弾くたびに別の掌を受け、受け流すたびに次の攻撃の軌道を読み直さなければならなかった。
両者の周囲では、地形が崩れ続けていた。盆地の中央は深い窪地へ変わり、岩盤には無数の亀裂が走っている。斜面から崩れ落ちた岩塊は谷底を埋め尽くし、粉塵が空を覆い、山腹の樹木は衝撃波に押し倒されていた。
それでも、二つの巨体は、互いの攻撃を止めようとすることをやめなかった。
◆◆◆
ネテロの掌が、須佐能乎の右肩へ叩き込まれた。
右腕が沈み、刀身が軋む。ゲンマは、左手の刀を返して別の掌を弾いたが、その隙に上方から三つ目の掌が降りてきた。直撃すれば、残された右腕まで動かなくなる。
ゲンマは、刀を引いた。
その瞬間、須佐能乎の身体が低く沈み込んだ。巨大な翼が開き、巨体の重心が一気に後方へ移動する。掌が頭上を通過する。攻撃が空を切った直後、ゲンマは右足で地面を踏み抜き、前方へ跳び込んだ。
地面が、爆ぜた。
巨大な足跡を残して須佐能乎が加速し、ネテロとの距離が一瞬で縮まる。右手の刀が低い位置から斜めに走り、百式観音の胴体を狙った。
ネテロは、祈った。
巨大な掌が、刀身の軌道へ割り込んだ。刃と掌が衝突する。衝撃が二つの巨体のあいだで圧縮され、直後、爆発的な力となって四方へ放たれた。盆地の地面が波打つように沈み、巨大な岩塊が宙へ跳ね上がり、遠くの山腹から一面の土砂が崩れ落ちていった。
須佐能乎の右腕が、押し戻された。ネテロの掌にも、亀裂が走った。
双方の攻撃が、互いを押し潰そうとしていた。
ゲンマは、刀を引かなかった。刃の角度を僅かに変え、掌から伝わる力を横へ逃がしながら、次の踏み込みに必要な重心を整えていく。右足が前へ進み、腰が回転し、肩から腕へ力が流れた。
刀身が、掌を押し返した。
百式観音の腕が、わずかに後退した。ゲンマは、その隙へ左手の刀を差し込んだ。金色の腕が、斬り裂かれた。観音の胴体が揺らぎ、巨大な腕の一部が光の粒子となって散っていく。
ネテロは、後方へ跳んだ。
今までの攻撃で、須佐能乎の装甲はほとんど崩れている。左腕は損傷し、背中の翼も片側が欠け、右腕にも深い亀裂が走っていた。ゲンマの念は残り少なく、次の一撃を放つために必要な力を捻り出すことすら、簡単ではなくなっていた。
しかし、ネテロ自身も無傷ではなかった。百式観音の腕は何本も損傷し、胴体の輪郭も歪んでいる。金色の光は薄くなり、攻撃のたびに、観音像の一部が崩れかけていた。
それでも、ネテロの目から高揚は消えていなかった。
◆◆◆
須佐能乎の巨大な身体が、ゆっくりと腰を落とした。
右手の刀が、肩の後ろへ引かれる。左手の刀は、身体の前方へ差し出され、刃先が地面と平行になった。二本の刀が作る角度は、これまでの攻防では一度も見せなかったものだった。
ネテロは、すぐに動いた。百式観音の腕が広がり、幾つもの掌が攻撃の姿勢を取る。
だが、ゲンマは退かなかった。
彼の内側で、残された念が動き始めた。装甲を維持するための念が、少しずつ刀へ移されていく。胴体を覆っていた青紫色の光が薄れ、肩の装甲から光が消え、背中の翼が輪郭を失っていった。
その代わり、右手の刀が、異様な輝きを帯び始めた。
刃の周囲で大気が圧縮され、刀身の輪郭が歪み、周囲の岩盤に無数の亀裂が走った。右腕の装甲は崩れかけていたが、その内側で念が密度を増し、巨大な刀へ向かって流れ込んでいる。
それは、ゲンマが長年求め続けてきた一太刀だった。
力任せに振り下ろすのではなく、全身の力を正確な軌道へ集め、余計な動作を削り、必要な瞬間にだけ最大の威力を生み出す。その技術を、巨大な身体へ完全に反映させる。そのために、彼は何十年も刀を振り続けてきた。
ネテロが、祈った。
百式観音の全身から、金色の光が溢れ始めた。これまでの攻撃とは、明らかに違う。無数の腕が動きを止め、観音像の全身に蓄積された念が、一つの掌へと集まっていく。巨大な身体の輪郭が眩い光を帯び、大気が圧縮され、地面には新たな亀裂が走っていった。
百式観音の掌が、四方から一斉に迫った。正面から、側面から、背後から、上方から、幾つもの攻撃が須佐能乎へ向かってくる。どれか一つでも直撃すれば、残された装甲は崩れ、ゲンマは最後の一撃を放つことさえできなくなるだろう。
それでも、ゲンマは動かなかった。
掌が、目前まで迫った。
その瞬間、須佐能乎の右手が動いた。
巨大な刀身が、斜めに走った。
最初に斬られたのは、正面の掌だった。刃が金色の腕を切り裂き、衝撃が周囲へ爆発する。刃筋は止まらず、刀身はそのまま側面から迫っていた掌を弾き、背後へ回り込んだ攻撃の軌道まで押し退けた。
刀が通過した場所で、大気が裂けた。圧縮された空気が衝撃波となって四方へ放たれ、盆地の地表が一斉に陥没し、巨大な岩塊が次々と宙へ舞い上がった。
そして、刀身は百式観音の胴体へ到達した。
ネテロは、即座に両手を合わせた。残された腕が引き戻され、巨大な掌が胴体の前方へ集まる。金色の念が一つの防御へ凝縮され、須佐能乎の刃を正面から受け止めようとした。
衝突。
音が、遅れて届いた。
最初に生じたのは、周囲の空気が一瞬だけ押し潰される現象だった。次いで、圧縮された大気が爆発し、山々のあいだへ巨大な衝撃波が走った。岩盤が砕け、土砂が空へ噴き上がり、盆地の端にそびえていた岩峰が根元から崩れ落ちた。
須佐能乎の刀身が、押し込まれた。百式観音の掌が、刃を止めようとしている。
ゲンマは、全身の力を右腕へ集めた。足裏から地面へ伝わる力を、腰へ、背骨へ、肩へ、腕へと流し、最後には刀身の刃筋へと集約させる。長年の反復によって身体に刻み込まれた動作が、今、この瞬間だけの一振りを成立させようとしていた。
しかし、百式観音の掌は、なおも前へ進んでいた。須佐能乎の右腕が軋み、装甲に深い亀裂が走る。巨大な刀身は半ばから欠け、刃の表面には無数の亀裂が広がっていった。青紫色の光が激しく散り、須佐能乎の身体そのものが、崩壊へ向かって揺らぎ始めている。
ネテロもまた、限界に近づいていた。百式観音の腕は大きく損傷し、掌の輪郭は歪み、金色の光は弱まりつつある。新たな能力を身につけたばかりの彼にとって、これほど強大な相手の攻撃を受け止め続けることは、決して容易なことではなかった。
それでも、祈りは止まらない。
ネテロは両手を合わせ、掌へ念を集め続けた。
ゲンマは、刀を引かなかった。
「……まだじゃ」
声は、須佐能乎の内部で掠れていた。
「まだ、わしの刀は止まっておらん」
右腕が、わずかに前へ進んだ。
百式観音の掌に、亀裂が走った。
ネテロの眉が、初めて大きく動いた。
刃が、掌を押し返した。金色の光が裂け、巨大な掌が内側から崩壊していく。須佐能乎の刀身が、百式観音の腕を切り裂き、胴体へ深く食い込んでいった。
衝撃が、再び山脈を揺らした。
刃筋が通過した先にあった岩峰が、根元から砕けた。山腹の岩盤が内側から破砕され、地層を構成していた巨大な岩塊が空へ噴き上がる。山体は一瞬だけ形を保っていたものの、支えを失った岩盤が次々と剥がれ落ち、数秒遅れて中央部から崩れ落ちていった。
山が、消えたわけではない。だが、そこにあった山の一角は、もはや元の姿を保っていなかった。切断面には巨大な断層が露出し、崩れ落ちた岩塊は谷底へ積み重なり、土煙が山脈全体を覆っていた。
◆◆◆
それでも、ネテロは立っていた。
百式観音の身体は大きく損傷していたが、完全に消えたわけではない。残された腕が観音の輪郭を支え、金色の光が弱々しく揺れながら、その形を維持していた。
須佐能乎もまた、崩壊寸前だった。右腕の装甲はほとんど失われ、刀身は半ばから欠け、胴体には深い亀裂が走っている。背中の翼は片側が消え、もう片側も輪郭を失い始めていた。
両者は、しばらく動かなかった。
戦場を覆っていた土煙が、少しずつ流れていく。崩れ落ちた岩盤の音が遠のき、砕けた石が斜面を転がり落ちる音だけが、盆地のあちこちから響いていた。
やがて、百式観音の腕が消え始めた。金色の光が薄れ、巨大な掌の輪郭が崩れ、最後には粒子となって大気のなかへ散っていく。
須佐能乎も、同じように崩れていった。装甲が砕け、筋肉を思わせる構造が消え、巨大な骨格が青紫色の光を放ちながら散っていく。
最後に残ったのは、二人の老人だった。
◆◆◆
ゲンマは、地面へ片膝をついた。
身体が重かった。腕には感覚がほとんど残っておらず、胸の奥では心臓が激しく脈打っている。左膝の古傷は痛み、呼吸をするたびに胸の奥が軋んだ。念はほとんど残っておらず、今すぐ立ち上がることさえ難しい状態だった。
ネテロもまた、数歩先で膝をついていた。
彼は、崩壊した山々を見上げたあと、ゲンマへ視線を戻した。そして、楽しそうに笑った。
「……いやいや、まいったわい。まさかこの年になって、ここまでの一撃を受けることになるとは思わなんだ」
ゲンマは、地面へ手をつきながら顔を上げた。
「そなたの方こそ、まだ立っておるではないか。わしの一太刀を受けて倒れぬのであれば、まだ勝負が終わったとは言えんじゃろう」
ネテロは、腹の底から笑った。
「ほっほっほ、確かにその通りじゃな。しかし、お主も随分と無理をしたようじゃぞい。その腕では、もう一度あの一撃を放つことは難しかろう」
ゲンマは、ゆっくりと右手を握った。指先には、まだ僅かな感覚が残っていた。
「……そうじゃな。今の一太刀は、これまでの人生で最も納得できる一振りじゃった。これほどの相手と戦えたのじゃから、わしとしては、それだけでも十分に満足じゃよ」
ネテロは、しばらく彼を見つめていた。
目の前にいる老人は、年齢を重ね、肉体の衰えを抱えながら、それでも己の武を極めることを諦めていなかった。完全体須佐能乎という、山を切り裂くほどの力を手に入れたあとでさえ、彼は自分の技術に満足することなく、次の一振りを求めている。
それは、ネテロが長年の修行を通じて追い求めてきたものと、どこか似ていた。
「お主は、まだ強くなるじゃろうな。今日の戦いで見つかった課題を一つずつ潰していけば、今よりもさらに高い境地へ到達できるかもしれん」
ゲンマは、ゆっくりと頷いた。
「わしは、まだまだじゃよ。今日できたことが明日もできるとは限らんし、明日できることが一生できるとも限らん。だからこそ、まだまだ刀を振り続けねばならんのじゃ」
ネテロは、満足そうに笑った。
「実に素晴らしい考え方じゃな。わしもまだまだ修行を続けるつもりじゃが、お主に負けぬよう、もう少しばかり頑張らねばならんようじゃわい」
◆◆◆
ゲンマは、ゆっくりと立ち上がった。
身体は重く、腕には痛みが残り、脚は疲労によって震えていた。それでも、彼は木刀を拾い上げ、崩れた盆地の中央へ歩き始めた。
今日の素振りは、まだ終わっていない。
一万回の反復は、すでに終えていた。しかし、今の戦いで見つかった課題を、次の鍛錬へつなげる必要があった。須佐能乎の刀を振る際に生じた余計な力を修正し、百式観音の攻撃を受けたときの重心の移動を見直し、反撃へ移るための時間をさらに短縮する方法を考えなければならない。
ゲンマは、崩れた岩盤の上で立ち止まった。
木刀を構える。
足を開き、腰を落とし、呼吸を整え、肩の力を抜く。
それから、いつものように木刀を振り下ろした。
乾いた風切り音が鳴った。
山は揺れなかった。地面も砕けなかった。木刀は正確な軌道を描き、先端は狙った位置で停止した。
ただ、それだけだった。
ネテロは、少し離れた場所から、その姿を見つめていた。
山を切り裂く完全体須佐能乎を顕現させ、百式観音と正面からぶつかり合い、巨大な山脈を崩壊させるほどの攻撃を放った老人が、今は木刀を握って素振りをしている。
先ほどの破壊が嘘だったかのように、木刀は小さな音を立てて空気を切り、落ち葉がわずかに揺れるだけだった。
ゲンマは、切っ先の位置を見つめた。
「……今のは、少しばかり肩に力が残っておったのう」
そして、もう一度、木刀を構え直した。
◆◆◆
彼にとって、鍛錬は終わらない。
完全体須佐能乎は、ゲンマの人生と武への執念が形になったものだ。しかし、強大な力を得たことは、鍛錬の終わりを意味しない。山を斬る力を手にしても、なお木刀を握り、一振りの軌道を確認し、翌日の修行へつなげる。
その一振りが、いつか再び山を断ち切るほどのものになるのか。それとも、今まで誰も見たことのない境地へ至るのか。それはまだ誰にも分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
ゲンマ・クロガネは、明日も木刀を振るだろう。
そして、その一振りを終えたとき、彼はきっと、もう一度だけ構え直すのである。