派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
火曜日の午前九時。
株式会社汐見総合管理の自分のデスクで、俺――三上悠介は、周囲に音が漏れないよう普段以上に静かな手つきでマウスを動かし、昨日やり残していた賃貸契約の更新対象者リストを画面に呼び出していた。
昨日の夕方、定時直前の事務室でやらかしてしまった失態が、まだ耳の奥に熱く残っている。
午後の三時間半をかけて奥の和室で古い記録を調べ、それをエクセルで表にまとめたまではよかったのだが、自分のデスクに戻ったあと、ついついツッコミの勢いで『歴代ヤクザの超能力疑惑一覧表』という最高機密ワードを大声で口走ってしまったのだ。
幸い、聞いていた小野寺君には何のことだか意味が伝わらずに済んだものの、廊下から出てきた若頭の黒瀬さんに、あの氷のように涼やかな目で「機密事項については少々お静かに」と窘められた時は、恥ずかしさと申し訳なさで床の下にめり込みそうになった。
(……人の振り見て我が振り直せ、だな。水曜日にマンションの現場で小野寺君が『親分』って叫んだ時はあんなに偉そうに注意したくせに、俺自身が社外秘の話を大声で叫んでたら世話ないよ)
俺は心の中で深く反省し、キュッと唇を引き締めた。
今日こそは余計な騒ぎを一切起こさず、借りてきた猫のように大人しく、目の前の契約更新書類のチェック作業だけを淡々とこなすのだ。
バインダーを開き、来月更新を迎える入居者の火災保険の更新証書と、保証会社の審査ステータスを一行ずつ照合していく。
住所の表記揺れを直し、電話番号の変更届が出ている部屋のデータは赤字で修正を入れておく。地味で根気のいる作業だが、こういう細かな確認をきっちり積み上げていく仕事は、やっぱり俺の性に合っている。
(……よしよし、順調だ。やっぱり俺には、超能力の分析なんかより、こういう普通の不動産事務が一番向いてるんだよ)
作業に集中すること三十分あまり。
午前九時半を回ったところで、奥の役員室から姿を現した黒瀬が、静かな足取りで俺のデスクの横へとやってきた。
「三上さん。おはようございます。作業中のところ恐れ入りますが、少しよろしいでしょうか」
キーボードを叩いていた俺の指が、ピタリと止まった。
(……ま、またか!? いや、ちょっと待て、昨日の今日でまた何か機密の調査か!?)
俺は昨日の失言を蒸し返されるのかとビクビクしながら、恐る恐る椅子を回して黒瀬を見上げた。
「あ、おはようございます、黒瀬さん。昨日の夕方は、その、不用意なことを口走ってしまいまして本当にすみませんでした……。それで、今日は一体何のお話でしょう?」
「いえ、昨日の件はもう結構ですよ。本日ご相談したいのは、先週の木曜日に八咫烏の霧島さんから助言があった件についてです」
「……霧島さんからの助言、ですか?」
「ええ。三上さんご自身の身を守り、かつ相手を必要以上に傷つけないための『護身術』の練習についてですよ」
「……あっ! そういえば!」
俺はハッとして顔を明るくした。
思い出した。先週の木曜日、倉庫で反応速度や握力のコントロールを検査してもらった際、霧島さんに「格闘技の経験がないまま自己流で相手を制圧するのは危ないから、安全に相手を止めるための護身術を習っておいた方がいい」とアドバイスされたのだ。
「覚えていらっしゃいましたか。万が一、再び三上さんが危険な場面に遭遇された際、ご自身の力を安全に扱えるようにしておくことは我々にとっても急務ですので、本日、そのための基礎的な講習を手配いたしました」
「おお、本当ですか! それはありがたいです!」
俺は素直に身を乗り出して頷いた。
先々週の倉庫での銃撃戦は、思い出すだけでも冷や汗が出るほど怖かった。もう二度とあんな目には遭いたくないが、もし仮にまた街中で変な連中に絡まれたりした時、相手を大怪我させずにスマートにやり過ごす方法があるなら、絶対に知っておきたい。
「ぜひお願いします、黒瀬さん! 俺も自分の力をどう扱えば安全なのか、ちゃんとしたやり方を教わっておきたいと思ってたんです!」
俺が二つ返事で快諾すると、黒瀬は満足そうに頷き、具体的な手配の内容について説明を始めた。
*
「ちょっと立ち話もなんですから、こちらへ」と黒瀬に促され、俺たちは給湯室へ続く廊下の隅へと移動した。
「本日の指導役ですが、外部の道場などに三上さんをお連れすると能力の秘匿が難しいため、うちの組の者で心得のある人間に担当させます。先週の水曜日、三上さんがマンションの現地確認へ出かけられた際に同行した、頬に傷のある大柄な男を覚えていらっしゃいますか?」
「……ああ! あの、身長が百八十センチ以上あって、俺のクリアファイル一枚をまるで国の重要文化財みたいに両手で恭しく持ってくれた、すごく迫力のある方ですね!」
「……ええ、その大庭です」
黒瀬は俺の形容に少しだけ口元を緩めてから、言葉を続けた。
「あのように強面の男ですが、実は学生時代から実業団に入る直前まで、十年以上本格的に柔道を続けていた経験がありましてね。単なる喧嘩殺法ではなく、正しい受け身や体捌き、相手との安全な間合いの取り方といった武道の基礎をしっかりと身につけております」
「へえ、大庭さん、柔道の経験者だったんですか! あの体格なら、さぞかし強かったでしょうね。そういう基礎を知っている方に教えてもらえるなら心強いです」
俺が感心して頷くと、黒瀬はそこで少しだけ真面目な顔つきになり、人差し指を一本立てた。
「ただし、三上さん。あらかじめ一つだけ申し上げておきますが、今回の講習では、大庭を相手にした『通常の組手』や『技の掛け合い』は一切行えません」
「……え? 組手はできないんですか? 護身術の練習なのに?」
「はい。なぜなら、現在の三上さんの身体能力は、常人の限界を遥かに凌駕しているからです」
黒瀬は涼やかな目で俺をじっと見つめ、冷静に事実を突きつけてきた。
「いかに大庭が体格に恵まれた柔道経験者であっても、彼は異能を持たない普通の人間です。もし三上さんが練習のつもりで彼の襟首を掴んで投げようとしたり、あるいは打ち込みを受け止めたりすれば、ほんのわずかなタイミングのズレで、大庭の関節や骨が砕けかねません。そもそも、三上さんの本気の移動速度には、人間の目は全く追いつけませんからね」
「………………あっ」
俺は言葉を失い、自分の両手を見下ろした。
言われてみれば、その通りだ。俺はフォークリフトで運ぶような巨大な木箱を両手で押して軽く滑らせ、分厚い鉄パイプを飴細工のように曲げられる身体になってしまっているのだ。いくら手加減ができるとはいえ、生身の人間と取っ組み合いの練習をするなんて、大型トラックと人間がぶつかり稽古をするようなものではないか。
「じゃあ……人間相手に練習できないとしたら、どうやって護身術を習うんですか?」
「倉庫に自立式の人型ダミーや目印のマーカーを設置し、それらを相手に見立てた模擬訓練を行う予定です。まずは相手に接触せず安全に距離を取る足運びや、周囲の状況判断から始めていただきます」
俺は少し考えてから、深く頷いた。
先々週、小野寺君を助けに向かった別の倉庫での戦いを思い出す。あの時は暗闇の中でパニックになりながら、近づいてくるヤクザたちを無我夢中で殴ったり蹴ったりしてなぎ倒した。結果として死人は出なかったものの、十八人全員を病院送りにし、警察の捜査対象になってしまったのだ。
「……分かりました。俺も、練習で誰かに怪我をさせるなんて絶対に嫌ですし、そういう安全なやり方で教えてもらえるなら一番安心です」
「ご理解いただき助かります。大庭にも、安全を最優先にカリキュラムを組むよう指示してありますので」
そこで俺は、ふと社会人として一番大切な現実問題に思い至り、声を潜めて黒瀬に尋ねた。
「……ちなみに黒瀬さん。その倉庫での講習って、今日の午後にやるんですよね?」
「ええ。昼食の後、午後一時半頃からを予定しておりますが」
「あの……それって、勤務時間中になりますよね? 俺の時給というか、勤怠の扱いはどうなるんでしょうか?」
俺が真剣な顔で問いかけると、黒瀬は一瞬だけ目を丸くし、それから「ふっ」と小さく肩を揺らして笑った。
「やはり、そこは必ず確認されますね。ご安心ください、三上さん。本日の講習は、業務中に発生し得るトラブルから従業員の身を守るための『安全衛生研修』という名目で時間を確保しております。派遣元の方へも、本日は午後から社内の安全講習を受講していただくと事前に連絡を入れて了承を取ってありますので、時給はもちろん通常通り満額支給されますよ」
「おおっ、本当ですか! 派遣元にもちゃんと話が通ってるなら安心です!」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
無断で事務作業をサボって倉庫で運動していたなんてことになったら、派遣会社の担当者にどう言い訳すればいいか分からないところだったが、正式な『安全衛生研修』として処理されるなら何の問題もない。
(……いや、待てよ。よく考えたら、時給二千五百円をもらいながら、本職のヤクザの組員からマンツーマンで護身術を教わる不動産事務の派遣社員って、世間一般の基準からするとだいぶおかしくないか?)
自分で納得した直後にそんな真っ当な疑問が頭をよぎったが、「まあ、タダで身の守り方を教えてもらえて給料まで出るんだから、これ以上お得な研修はないよな」と俺は小市民的な損得勘定で思考に蓋をし、午前中の契約更新チェックの続きへと戻ったのだった。
*
午後一時半。
午前中のうちにバインダー一冊分の書類チェックをきっちりと終わらせ、昼食を済ませた俺は、黒瀬の運転する車に乗って、先週の木曜日にも訪れた湾岸近くの管理倉庫へとやってきていた。
高い天井とコンクリートの広い床。
最初に自分の怪力を知り、先週は霧島さんのピッチングマシンで動体視力を測り、そして今日は護身術の訓練。
(……なんかここ、商品の保管倉庫っていうより、完全に俺専用の秘密トレーニング施設みたいになってきてないか?)
俺がスーツのジャケットとネクタイを外し、腕まくりをしながら倉庫の中央へと歩いていくと、そこには以前来た時にはなかった様々な道具が、驚くほど几帳面に設営されていた。
コンクリートの床の上には、広い範囲にわたって分厚いブルーシートと衝撃吸収用のジョイントマットが敷き詰められている。その上には、ボクシングジムや道場にあるような、土台に水や砂を入れて立たせる人型のサンドバッグ――ダミー人形がいくつも配置され、床のあちこちには赤や青、黄色のビニールテープで正確なラインや目印が貼られていた。
「三上さん。本日はお忙しい中お時間をいただき、誠にありがとうございます。指導を担当させていただきます、大庭健吾と申します。よろしくお願いいたします」
マットの端で待機していた大柄な男が、俺の姿を見るなり歩み出てきて、床に頭がつきそうなほど深々と九十度のお辞儀をした。
普段は黒スーツを着ている彼が、今日は動きやすい濃紺のジャージの上下を着ているのだが、そのジャージの生地がパツパツに張るほど分厚い胸板と肩幅をしており、頬から顎にかけて走る古い刃物の傷跡も相まって、どう見ても「地下格闘技場の最終ボス」みたいな凄まじい迫力を放っている。
俺は慌てて手を振り、自分も深く頭を下げ返した。
「あ、頭を上げてください、大庭さん! 水曜日はマンションの現場に同行していただいてありがとうございました。今日は俺の方が生徒として教えていただく立場なんですから、そんなにかしこまらないでください! こちらこそ、ご指導よろしくお願いします!」
俺が礼儀正しく頭を下げると、大庭さんは顔を上げ、その厳つい傷だらけの顔をなんだかひどく恐縮したように歪めた。
「……恐れ入ります。三上さんのようなお方にそう仰っていただけるとは、身に余る光栄です。微力ながら、精一杯務めさせていただきます」
(……あれ? 俺、普通に『今日は先生なんだからよろしくお願いします』って言っただけなのに、なんで大庭さん、今にも感極まって泣き出しそうなぐらい感動してるんだ?)
俺が困惑していると、マットの外の見学スペースに立っていた小野寺が、大きく手を振って声を張り上げた。
「親分っ!! 今日もバッチリお供させてもらうっすよ! 大庭の兄貴と一緒に、朝からこのマットを敷いたり人形を運んだりして準備したんすから!」
「ああ、小野寺君も手伝ってくれたんだね。ありがとう、綺麗に準備してくれて助かるよ」
「へへっ、親分のためならこれくらい朝飯前っす!」
「おい、小野寺。先ほども言ったはずだが、講習中は私語を慎み、指示された範囲の補助だけに徹しろ。三上さんの集中を乱すような真似は許さんぞ」
「ひっ……! へ、へいっ、すんません大庭の兄貴! 大人しく見てるっす!」
大庭さんがドスの利いた重低音で睨みつけると、小野寺は背筋をピンと伸ばして口を閉じた。
やはり組の中では、大庭さんはかなり怖い先輩にあたるらしい。黒瀬さんも少し離れた場所で腕を組んで静かに見守っており、倉庫の中にはまるで本物の武道場のような凛とした空気が漂い始めた。
*
「それでは三上さん、実技に入る前に、まず本日の講習の基本的な考え方についてご説明させてください」
大庭さんは俺の正面に立ち、後ろで手を組んで落ち着いた声で切り出した。怖い顔つきとは裏腹に、その話し方は驚くほど理路整然としていて聞き取りやすい。
「最初に申し上げますが、今日の講習では相手を倒す技ではなく、危険を避けるための判断を覚えていただきたいのです」
「……あ、そうなんですか? 護身術っていうと、てっきり相手の腕を捻り上げたり、足払いをかけたりする技を習うのかと思ってました」
「そうした技を学ぶ方法もあります。ですが、今日はまず『相手に触れずに済ませる方法』から始めましょう。戦う必要のない場面で、わざわざ相手と接触する理由はありませんから」
俺は思わず頷いた。確かに、相手に近づかずに済むなら、それが一番ありがたい。
先々週の銃撃戦でも、最初から落ち着いて周囲を見ていれば、もう少し違う動き方ができたかもしれない。
「いざという時にも、相手を倒さずに済む選択肢を見つけられるようになること。それが今回の講習の狙いです」
「……なるほど。相手を倒さずに済む選択肢、ですか」
「はい。本日の目標は大きく分けて三つです。第一に、危険な相手と常に安全な距離――間合いを取ること。第二に、周囲の状況を把握し、安全な退路を選んで移動すること。そして第三に、不測の事態においても、ご自身の身体能力を必要以上に発揮しないよう冷静に判断することです」
大庭さんの明確な言葉に、俺の目はパッと輝いた。
(……おおっ! つまり、戦うための練習じゃなくて、安全に逃げてトラブルを回避するための練習ってことか! それなら平和主義の俺にピッタリじゃないか!)
「すごくよく分かりました! それなら俺にもできそうです!」
「ええ。ただし三上さん、口で言うほど簡単ではございませんよ。実際に悪意を持った相手が迫ってくる状況で、慌てずに周囲を見て最善の行動を選ぶには、相応の意識づけと反復練習が必要になります」
俺が気を引き締めて頷いていると、見学スペースで聞いていた小野寺が、なんだか納得いかないといった様子でうずうずと口を挟んできた。
「あ、あの、大庭の兄貴! ちょっと質問いいっすか!」
「なんだ、小野寺」
「いや、安全な距離を取るとか逃げる練習とか言いますけど、うちの親分はチャカの弾だって素手で掴めるんすよ!? 悪い奴が襲ってきたら、逃げるよりその場で全員ワンパンでぶっ飛ばしちまった方が、手っ取り早くて安全じゃないっすか!?」
小野寺のあまりにもヤンキー漫画的な意見に、俺が「いやいや、だからそれが嫌なんだってば」とツッコもうとした瞬間。
俺より先に、大庭さんが静かに、しかし有無を言わせぬ重みのある声で小野寺を諭した。
「小野寺。相手をぶっ飛ばせる力があるからといって、手当たり次第にぶっ飛ばしていいわけじゃない」
「……へ?」
「いいか、よく考えろ。三上さんが何よりも望んでおられるのは、腕っぷしで相手をねじ伏せて名前を売ることではなく、無用な争いに巻き込まれずに毎日の平穏な仕事と暮らしを守ることだ。相手を殴って怪我をさせれば、たとえ正当防衛であっても警察の厄介になり、三上さんの大切な日常が脅かされることになる。戦わずに済むなら、それが一番強い選択なんだよ」
「……っ!! そう!! まさにそういうことなんですよ、小野寺君!!」
俺は感動のあまり、ブンブンと首がもげるほど激しく頷いた。
なんてこった。顔に刃物の傷があって、事務所で一番見た目が怖いこの大庭さんが、うちの会社の誰よりも深く、正確に、俺の『小市民としての平和への願い』を理解してくれている!
「す、すんませんっ! 俺、そこまでの深い考えに思い至ってなかったっす! さすが大庭の兄貴っす!」
小野寺が頭をかいて反省するのを見て、俺は大庭さんに対する信頼度をストップ高まで引き上げながら、最初の実技訓練へと臨んだのだった。
*
午後二時頃。
最初の練習として、大庭さんはマットの中央に置かれた一体のダミー人形――胸元に『赤色』のビニールテープが貼られた人形を指し示した。
「ではまず、基本的な距離の取り方から始めましょう。こちらの赤いテープの人形を、凶器を持って三上さんに襲いかかってくる危険人物だと想定してください」
「はい、赤い人形が敵ですね」
「三上さんはその人形の二メートルほど前に立ってください。私が手を叩いて合図を出したら、人形が斬りかかってきたものと見なして、相手に一切触れずに安全な距離まで離れてみてください」
「分かりました。接触せずに離れればいいんですね」
俺は指定された位置に立ち、目の前の赤いダミー人形を見つめた。
ただ後ろへ下がるだけなら簡単だ。先週の木曜日、霧島さんの検査でウレタンボールを避けた時と同じように、合図に合わせてスッと動けばいい。
大庭さんが少し離れた位置で両手を構え、静かに息を吸い込んだ。
「……では、いきます。――よしっ!」
パァン! と乾いた拍手の音が倉庫に響いた。
その音が俺の鼓膜に届いた瞬間、俺の意識がキュッと引き締まり、周囲の空気の流れがスローモーションのように落ち着いた。
俺は反射的に床のマットを蹴り、目の前の赤いダミー人形から遠ざかるように、後方へと一気に跳び退いた。
音すらほとんど立てない、滑るような高速のバックステップ。
ほんのコンマ数秒のうちに、俺は最初の位置から五メートル以上も離れたマットの端へと移動し、ピタリと体勢を崩さずに着地していた。
「うおおおおおっ!! は、速えええええっ!! 今、残像が見えたっすよ親分!!」
小野寺が目を丸くして大歓声を上げる。
実際、自分でも驚くほどスムーズで素早い移動だった。膝や腰への負担も全くないし、目の前の赤いダミー人形からは完全に安全な距離を取り切れている。
「……ふう。やっぱり霧島さんの検査でも言われましたけど、反応速度だけはかなり速くなってるみたいですね。どうでしょう、大庭さん?」
俺が少しだけ得意げな気持ちになって微笑みながら大庭さんの方を見ると、大庭さんは俺の人間離れした移動速度に目を見張りつつも、なぜか手放しで褒めるような顔はせず、難しい表情で俺の立ち位置を指し示した。
「……三上さん。今の初動の反応速度と、着地のバランスの良さは、間違いなく人間業とは思えぬ見事なものでした」
「あ、ありがとうございます」
「ですが……護身という観点から見ますと、今の動きには一つ、重大な問題がございます」
「……え? 問題、ですか?」
俺はきょとんとして首を傾げた。一秒もかからずに五メートルも離れたのに、何が駄目だったんだろうか。
すると大庭さんは、俺が今着地して立っている場所のすぐ左隣――俺の肩からわずか二十センチも離れていない位置を指差した。
俺がハッとして横を向くと、そこには、胸元に『青色』のビニールテープが貼られた別のダミー人形が、ひっそりと立っていたのだ。
「……あっ」
「そちらの青いテープの人形は、現場に居合わせた無関係な一般の通行人という想定で配置しておいたものです。三上さんは今、目の前の赤い危険人物から離れることだけに意識を集中されるあまり、ご自身の背後や移動先に誰がいるのかを全く確認せずに、全力で跳び退かれました」
大庭さんの静かな指摘に、俺の背中からスーッと冷や汗が噴き出した。
「もしこれが実際の街中や駅のホームで、その青い人形が生身の人間だったとしたらどうなっていたでしょうか。三上さんほどの質量と異常な速度を持った人間が、後方確認もせずにいきなり真後ろへ飛んでくれば、避ける間もなく激突して相手は大怪我を負います。仮にぶつからなかったとしても、これだけの至近距離を猛スピードで通過されれば、驚いた通行人が転倒して二次被害が出る恐れもあります」
「…………っ」
俺は言葉を失い、自分のすぐ真横に立つ青いダミー人形の顔を呆然と見つめた。
大庭さんの言う通りだ。俺は「合図が出たら赤い人形から離れる」ということしか頭になく、自分の後ろに青い人形が置いてあったことすら、着地するまで視界に入れていなかったのだ。
「三上さんは反応速度も身体の制御もずば抜けておられます。ですが、普通の人間であれば『どこへ逃げようか』と周囲を見回す間に足が動くのに対し、三上さんの場合は、頭で周囲の安全を確認するよりも先に、反射だけで身体が最高速度で動いてしまうのです」
「頭で考えるより先に、身体が動いちゃう……」
「はい。速く動けることと、正しく安全に動けることは別物です。三上さんほどの力を持つ方が街中で身を守る際には、まず敵から目を離さずに周囲の状況を把握し、『どこへ動けば誰も巻き込まないか』を判断してから速度を調整して動く技術が必要不可欠なのです」
俺は深い感銘を受け、大きく何度も頷いた。
(……なるほどなあ!! ただ速く逃げられればいいってものじゃないんだ! 自分がトラック並みの威力を持ってるんだから、周りの歩行者を跳ね飛ばさないように安全確認をするのが最優先なんだな!)
「……いやあ、ものすごく勉強になります、大庭さん! 俺、自分が逃げることばっかり考えてて、周りの人の安全まで頭が回ってませんでした。もう一回、今度はちゃんと周りを見てから動く練習をやらせてください!」
「承知いたしました。では、ダミーの配置を少し変えてもう一度まいりましょう」
俺が素直に非を認めて頭を下げると、大庭さんは少しだけ嬉しそうに目元を和らげ、自らダミー人形の位置を動かしに走っていった。
*
午後二時半頃。
周囲の安全を確認してから距離を取る練習を何度か繰り返したあと、大庭さんは赤いダミー人形を、俺のすぐ目の前――手を伸ばせば届くほどの至近距離へと移動させた。
「次は、エレベーターの中や狭い路地など、最初から相手がすぐ近くにいて、単純に後ろへ跳び退くだけでは距離を取りきれない場合を想定しましょう」
「はい。そういう閉鎖空間みたいな場所が一番怖いですからね」
「この場合も、基本は攻撃ではなく、相手の腕の伸びる方向から身体をずらし、脇をすり抜けて出口への退路を確保することが最優先になります」
俺は大庭さんの実演を見ながら、身体の向きの変え方や足の運び方を真剣に頭に叩き込んだ。
そしてそこで、ふと先々週、小野寺君を助けに向かった倉庫での戦いを思い出し、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「……あの、大庭さん。もちろん逃げるのを最優先にするつもりなんですけど、もし万が一、相手が何人もいて出口を完全に塞がれちゃって、どうしても相手を無力化して突破しなきゃいけない時は、どこをどう叩けば『安全に』相手を止められるんでしょうか?」
「安全に相手を止める、ですか」
「はい。実は先々週、小野寺君を助けに敵の倉庫へ乗り込んだ時なんですけど……最初は俺もパニックになってて、向かってくる人たちを普通に殴ったり蹴ったりして飛ばしちゃったんです。でも、途中で『このまま全力で殴ったら相手が死んじゃうかもしれない』って怖くなって……」
俺は当時の暗い荷捌き場の光景を思い返しながら、自分のやった「手加減」について説明した。
「それで、どうしたら相手を大怪我させずに大人しくさせられるかなって考えて、途中からは後ろに回り込んで、相手の後頭部を片手で掴んで、ガクッと軽く揺さぶるようにしたんです。そうしたら、殴らなくてもみんな一瞬で意識を失って倒れてくれたんで、これなら安全かなって思ったんですけど……」
俺がそう語った瞬間だった。
それまで穏やかに俺の話を聞いていた大庭さんの表情が、スッと凍りついたように険しく変わった。
さらに、少し離れた場所で腕を組んで聞いていた黒瀬までもが、ピクリと眉を動かしてこちらを見たのが分かった。
「……三上さん。今、なんとおっしゃいましたか? 相手の頭部を掴んで揺さぶり、気絶させた、と?」
「え? あ、はい。映画とか漫画でも、首の後ろをトンと叩いたりして気絶させるじゃないですか。俺はそのやり方が分からなかったんで、頭を揺らして脳震盪みたいにすれば、骨折とかさせずに眠らせられるのかなって……」
俺が言い終わる前に、大庭さんはこれまでに見せたことがないほど真剣で厳しい口調で、はっきりと首を横に振った。
「三上さん。それは、絶対にやってはいけない極めて危険な行為です」
「…………えっ?」
予想もしなかった強い否定の言葉に、俺は目を丸くして固まった。
「映画や創作物の中では、気絶というのはまるで一時的に眠らせるだけの安全な手段のように描かれがちです。ですが現実には、外からの衝撃で意識を失うほどの事態が起きたなら、脳や首に重大な損傷が生じていてもおかしくありません。意識を失わせることは、安全に眠らせることとはまったく違います」
「の、脳や首に……?」
「はい。ましてや三上さんのその規格外の腕力で人間の頭部を掴んで直接揺さぶれば、外見上の出血や傷は一切なくとも、頭蓋内出血や重度の脳挫傷、あるいは頸椎の損傷を引き起こす危険性が極めて高い。相手がその場で気絶して倒れたからといって、軽く済んだなどということは断じてありません。当たりどころや揺れ方ひとつ間違えれば、そのまま二度と目を覚まさずに死亡していたか、一生寝たきりの後遺症が残っていてもおかしくなかったのですよ」
「………………っ!!」
ザアアアッ、と俺の顔面から一気にすべての血の気が引いていくのが分かった。
足元がぐらつくような錯覚すら覚える。
(……う、嘘だろ。俺、あの時、相手を殺さないようにと思って、自分なりに必死に手加減したつもりであれをやってたのに……)
脳裏に蘇るのは、俺に頭を揺さぶられて、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていった構成員の男たちの姿だ。
あれは「安全に眠らせた」のではなく、「脳に直接ダメージを与えて強制的にシャットダウンさせた」という、一歩間違えれば殺人になりかねないほど危険極まりない行為だったのか。
木曜日に八咫烏の霧島さんから「現時点で生命に関わるような重篤な状態に陥った者はいない」と聞いて安心していたが、あれは俺の手加減が正しかった証拠じゃない。ただ『結果的に誰も死ななかった』という僥倖――あるいは、俺の中にある幸運らしき力が、たまたま働いてくれたおかげだったのかもしれない。
俺は自分の両手のひらを見つめ、背筋が凍りつくような恐怖と罪悪感に襲われ、思わず大庭さんに向かって深々と頭を下げていた。
「……す、すみません……! 俺、そんな危ないことだなんてちっとも知らなくて……手加減したつもりで、とんでもないことをやってしまってました……!」
「い、いえ! 三上さん、頭を上げてください! 私に謝られることではございません!」
大庭さんが慌てて俺の肩に手を添える。
「あの夜の状況は黒瀬の兄貴からも聞いております。相手は実弾の入った拳銃を乱射し、真剣で斬りかかってきた連中です。実戦経験のない三上さんが、ご自身の命と小野寺の命を守るために必死で抵抗された結果なのですから、誰も三上さんを責めることなどできません」
「……でも、本当に誰も死ななくてよかったです……。もし俺の無知のせいで誰かを殺してしまってたら、俺、もう普通の生活には戻れませんでした」
俺は震える息を深く吐き出し、改めて顔を上げて、大庭さんの目を真っ直ぐに見つめた。
自分の無知がどれほど恐ろしい結果を招きかねないか、骨の髄まで思い知った。強力な力を持ってしまった人間が「知りませんでした」「手加減したつもりでした」では済まされないのだ。
「大庭さん。俺、本当にちゃんと勉強したいです。もちろん、もう二度とあんな戦いに巻き込まれたくはありませんけど……もし万が一、また誰かを止めなきゃいけない場面が来た時に、今度こそ相手の命を危険に晒さずに済むような、本当に安全な判断とやり方を身につけたいんです。どうか、厳しく教えてください」
俺が心の底からの決意を込めてそう頼み込むと、大庭さんはしばらくの間、言葉を失ったように俺の顔をじっと見つめた。
そして次の瞬間、その厳つい傷のある顔を引き締め、武道家が師範に対するような深い敬意を込めて、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました。そのお言葉、しかと承りました」
*
午後三時頃。
一度小休止を入れることになり、俺はマットの端に座って、小野寺が渡してくれたスポーツドリンクで喉を潤していた。
隣に立つ大庭さんに、俺はタオルで額の汗を拭いながら尋ねた。
「……あの、大庭さん。さっきの話ですけど、頭を揺らしたり殴ったりするのが危ないなら、やっぱり柔道の投げ技とか、関節を極めて動けなくする技とかを俺も覚えた方がいいんでしょうか?」
「いえ、三上さん。結論から申し上げますと、現在の三上さんが生身の人間に対して関節技や投げ技を使用されるのも、やはりお勧めできません」
「えっ、柔道の技も駄目なんですか?」
「はい。柔道の投げ技や関節技というものは、本来、人間同士の筋力の均衡を前提として作られた技術です。しかし、鉄パイプを素手で曲げられる三上さんが相手の腕を取って関節を極めようとすれば、相手が『参った』と声を上げるよりも先に、テコの原理で簡単に骨や靭帯が破壊されてしまいます。また、無防備なアスファルトの上で人を投げれば、やはり頭を打って重大な事故に繋がります」
大庭さんの冷静な説明に、俺は「うーん……」と唸り声を上げた。
殴るのも駄目。頭を揺らすのも駄目。投げるのも関節を極めるのも危ない。
「じゃあ、俺みたいな力ばっかり強い素人は、相手に絡まれたら一体どうするのが一番正解なんですか?」
「大前提として、やはり『相手を倒そうとしないこと』です」
大庭さんは迷いなく言った。
「三上さんは、世の中のほぼすべての人間よりも遥かに速く動き、どんな掴み手も簡単に振り解くことができます。であれば、わざわざ相手の懐に残って危険な打撃や組み技を交える必要そのものがないのです。相手が武器を振り上げたら、その間合いからスッと外れて安全な場所まで離れる。もし掴みかかられても、軽く手を払って距離を取り、すぐさま警察なり我々なりに連絡をする。戦わずにその場を離脱する判断力こそが、三上さんにとって最も安全で確実な護身術になります」
「……ああ、なるほど!」
俺の頭の中の霧が、スッと晴れたような気がした。
そうだ。俺はこれまで、漫画や映画の影響で「敵に囲まれたら、全員を倒して気絶させないと終われない」と勝手に思い込んでいたのだ。
だけど現実には、相手が追いつけないスピードで安全な場所までサッと逃げてしまえば、相手を一人も殴る必要すらないじゃないか!
「だったら、俺は断然その『戦わずに逃げる』方を極めたいです! 最初からそれが一番やりたかったんですから!」
「ええ、それが最も賢明な選択です」
俺は大きく頷いたが、そこでふと、横でペットボトルの蓋を閉めている小野寺の顔が視界に入り、少しだけ表情を引き締めた。
「……ただ、大庭さん。俺一人の時ならそれでいいんですけど、もし先々週の小野寺君の時みたいに、誰か他の人が捕まっていたり、足の遅い一般の人が一緒にいて俺だけ逃げるわけにいかない時は、どう判断すればいいんでしょう?」
俺の問いに、大庭さんも真剣な顔で頷いた。
「その場合は、確かに自分一人だけ離脱するわけにはまいりませんね。ですが三上さん、人質や守るべき対象がいる状況であればなおさら、ご自身一人で正面から敵の群れに突っ込んで無理に解決しようとすることは危険です。まずは安全な位置を確保して相手の人数や武器の有無を冷静に観察し、応援を呼ぶか、あるいは敵の注意を逸らして対象だけを安全圏へ連れ出すルートを探るべきです。……では後半は、そうしたより複雑な状況判断の練習に入ってみましょうか」
「はい、ぜひお願いします!」
俺は立ち上がり、パンと両頬を軽く叩いて気合を入れ直した。
*
午後三時半。
休憩後の訓練では、マットの上に置かれるダミー人形の数が一気に増やされた。
凶器を持った敵を想定した『赤いダミー』が三体。そして、街中の通行人やパニックになって立ち尽くしている一般人を想定した『青いダミー』が四体。それらが狭い通路のように貼られたテープの間に、入り乱れるように配置されている。
「三上さん。今度はスタート地点から、奥の黄色いテープで囲まれた安全地帯まで移動していただきます。ただし条件として、赤い敵のダミーから常に一・五メートル以上の距離を保ちつつ、青い一般人のダミーの半径一メートル以内にも近づかないように通り抜けてください」
「敵からも離れて、一般人にも近づきすぎないルートを通るんですね。分かりました!」
俺はスタートラインに立ち、目の前の複雑な配置を睨みつけた。
「よしっ!」という大庭さんの合図とともに、俺は前へと踏み出した。
最初は、やはり自分のスピードに頼って、一番最短距離で抜けられる真ん中の隙間へと突っ込んでいった。赤いダミーの横をすり抜け、そのままゴールへ抜けようとした瞬間、すぐ左側にあった青いダミーの肩と俺の肩が、わずか三十センチほどの距離ですれ違った。
「――ストップです、三上さん!」
大庭さんの鋭い声が飛ぶ。
「今、真ん中の青いダミーに近づきすぎましたね。もしあれが実際の通行人であれば、突然目の前に現れた三上さんに驚いてよろけ、すぐ後ろにいる赤い敵のダミーの方へ倒れ込んでいたかもしれません」
「……あっ! なるほど、俺が通ったせいで一般人が敵の方へ押し出されちゃうかもしれないのか……!」
俺はハッとして足を止めた。
本当に、言われてみればその通りだ。自分の身体が速すぎるせいで、つい「ぶつからなければいいだろう」と狭い隙間を強引にすり抜けようとしてしまう悪い癖が出ている。
「今度は、合図が出てもすぐに最高速度で飛び出さないでください。まず最初の一秒で全体の配置と空間の広さを目で確認し、多少遠回りになっても、一般人を絶対に脅かさない安全なルートを選んで、速度を抑えて移動してみてください」
「最初は飛ばさず、見てからルートを選んで、速度を抑える……。分かりました、もう一回いきます!」
俺はスタート地点に戻り、深く息を吐いて肩の力を抜いた。
前職の営業事務でも、急ぎの書類だからといって確認もせずに盲目的にキーボードを叩けば、必ずどこかで入力ミスや計算違いが起きる。最初に全体を見渡して段取りを組む方が、結果的に一番早くて確実なのだ。それと全く同じことじゃないか。
「いきます。――よしっ!」
合図が鳴る。
俺は反射的に飛び出しそうになる自分の足をグッと制止し、まずその場でコンマ数秒だけ視線を動かして、赤と青のダミーの位置関係を俯瞰するように確認した。
真ん中は狭い。右側は赤いダミーが二体並んでいる。だが、左側の外周をぐるりと回るルートなら、青いダミーからも十分な距離を取って安全に抜けられる。
俺は自分の移動速度を普段の三分の一程度――一般的な運動神経の良い人が軽く走るくらいのスピードに意識的に落としながら、左側の外周ルートを滑るように駆け抜け、黄色い安全地帯へと静かに足を踏み入れた。
「……はい、今の動きです! 素晴らしいですよ、三上さん!」
大庭さんがパッと顔を輝かせて拍手をした。
「今の移動であれば、危険な敵の間合いには一度も入らず、周囲の一般人にも一切の恐怖や危険を与えずに離脱できています。無駄な力を使わず、状況を正確に見て制御できていました!」
「おおっ、本当ですか! やった、今の感覚なら自分でもすごく落ち着いて周りが見えてました!」
俺は思わず小さくガッツポーズをした。
その後も、大庭さんがダミーの配置を毎回ランダムに並べ替え、俺はその都度、一瞬の観察で一番安全なルートを割り出して通り抜ける反復練習を繰り返した。
一回ごとに「ここはもう少し角度を広く」「今の速度の落とし方は完璧です」とフィードバックをもらい、それを次の試行で即座に修正していく。
十数回目の試行をノーミスでクリアしたところで、大庭さんは感心したように深く息を吐き、俺に向かって言った。
「……三上さん。正直に申し上げて、ここまで丁寧かつ素直に基礎の反復に取り組まれるとは思っておりませんでした」
「え? だって、せっかく大庭さんが教えてくれてるんですから、ちゃんと身につけないと意味がないじゃないですか。本当に危ない場面で失敗したくないですしね」
「普通、三上さんほどの圧倒的な力を手に入れた人間は、どうしてもその力に頼り、こうした地味な確認作業を軽視しがちなものです。指摘された課題をその場で冷静に分析し、一つずつ確実に修正していくその謙虚さと真面目さこそが、三上さんの本当の強さなのだと痛感いたしました」
「……いやあ、俺はただ、仕事でエクセルの入力ミスを減らす時と同じ要領でやってるだけなんですけどね」
俺は照れくさくなって頭を掻いたが、大庭さんと、そして後ろで見守っていた黒瀬の目には、なぜかまたしても深い感銘の光が宿っていた。
*
午後四時頃。
本日の講習の総仕上げとして、大庭さんはこれまでにない少し大掛かりな配置をマットの上に作り上げた。
「では三上さん、最後に一つだけ、より実戦に近い応用想定で訓練を行ってみましょう。今回は、三上さんご自身が一人で安全地帯へ逃げれば終わり、という状況ではありません」
「俺一人だけじゃない、というと……」
「はい。あのマットの一番奥を見てください。危険な赤いダミー二体のさらに向こう側に、怪我をして動けない、あるいはパニックになって逃げ遅れている味方が一人取り残されているという想定です」
大庭さんが指し示したマットの最奥では、青いダミー人形の代わりに、なぜか生身の小野寺が床にぺたんと座り込み、やる気満々の表情でこちらに手を振っていた。
「親分っ!! この最後の訓練では、俺が『悪い奴らに囲まれて助けを呼んでる哀れな被害者役』を全力で演じるっすよ!!」
「……いや、小野寺君。君は演技じゃなくて、つい二週間前に本当に悪い奴らに捕まって俺に助けを求めてた本物の被害者だからね!?」
「へへっ、だからこそリアリティのある最高の演技ができるってわけっす! 任せてください!」
今回、小野寺はあくまで離れた安全圏で声を出す目標物になるだけで、俺と直接ぶつかったり組み合ったりするわけではないらしい。
「ルールは先ほどと同じです。合図とともに小野寺が助けを求めますので、三上さんは赤い敵のダミーと青い一般人のダミーの双方に接触せぬよう安全に彼の元へ辿り着き、彼を連れて出口の安全圏まで誘導するルートを確保してください。では、位置についてください」
俺はスタートラインに立ち、奥に座る小野寺を見据えた。
大庭さんの手が上がり、振り下ろされる。
「――開始!」
「うわあああん、親分んんんっ!! 怖い連中に囲まれちまったっす!! 助けてほしいっすーーーっ!!」
倉庫の天井がビリビリと震えるほどの、小野寺のあまりにも迫真すぎる(というか先々週の実体験そのままの)大絶叫が響き渡った。
その悲痛な声を聞いた瞬間、俺の胸がドクンと跳ね、右足が反射的に、小野寺のいる正面方向へ向かって真っ直ぐ最短距離で飛び出しそうになった。
(――あっ、駄目だ、待て!!)
俺は踏み出しかけた右足のつま先にグッと力を込め、ギリギリのところで自分の突進を止めた。
正面の最短ルートを見れば、そこには手ぐすねを引いて待ち構えるように二体の赤いダミーが立っており、さらにそのすぐ脇には、逃げ惑う一般人を模した青いダミーが通路を塞ぐように置かれている。
もし今、小野寺の声に釣られて頭を空っぽにしたまま真っ直ぐ突っ込んでいたら、一般人を突き飛ばした上に、敵の待ち伏せのど真ん中に自分から飛び込む形になっていたはずだ。
俺は大きく一度だけ深呼吸をし、高鳴る鼓動を鎮めて倉庫全体の配置を冷静に見渡した。
正面は罠だ。だが、右側の壁際のスペースを見れば、資材の木箱の陰を通って、敵の赤いダミーの背後へと回り込める広い空間が空いている。さらにそこからなら、一般人の青いダミーの群れからも完全に離れた状態で、小野寺のいる奥のスペースへと安全にアプローチできるではないか。
俺は速度を適切にコントロールしながら右側の外周へとスッと身を滑らせ、赤いダミーの死角を回るようにして移動した。
そして小野寺のすぐ横の安全スペースに音もなく着地すると、周囲の赤いダミーとの距離を警戒しつつ、小野寺の肩に軽く手を置いて声をかけた。
「小野寺君、怪我はない? 正面は危ないから、俺の後ろについて右の壁際からゆっくり外へ出よう」
「……っ! へ、へいっ、親分!!」
「――そこまで! 見事です、三上さん!」
大庭さんの終了の合図が響き、俺はふうっと長い息を吐き出して肩の力を抜いた。
「いかがでしたか、大庭さん。最初、小野寺君が叫んだ瞬間にちょっと前に出そうになっちゃいましたけど……」
「いえ、あの咄嗟の場面でご自身の反射的な突進を制止し、即座に周囲を見渡して最も安全な迂回路を選び直された判断、実に天晴れでした。助けたいという強いお気持ちと、無理に突っ込まずに周囲の安全を守る冷静さが見事に両立しておりましたよ」
大庭さんからの惜しみない称賛の言葉に、俺は心の底からホッとした。
先々週のあの倉庫の夜は、知識も余裕もなかったせいで、ただ真正面から突っ込んで力任せに暴れるしかなかった。もちろん小野寺君を助け出せたこと自体は後悔していないが、もし今後また誰かを守らなければならない場面が来た時には、今日学んだように「まず一呼吸置いて、一番安全な道を選ぶ」ことができるはずだ。……いや、くどいようだが、そんな「次」なんて一生来ないに越したことはないのだけれど。
すると、床から立ち上がった小野寺が、まるで神様でも見るかのようなキラキラと潤んだ瞳で俺を見上げ、大興奮でまくし立てた。
「お、親分……!! 今のマジでしびれたっす!! 俺があんなに大声で『助けてくれ』って叫んだのに、親分ったら眉毛ひとつ動かさずにピタッと足を止めて、クールに周りを見渡してから風みたいに助けに来てくれたじゃないっすか!! やっぱり俺の親分は、どんなピンチでも絶対に慌てない冷徹で完璧なリーダーっすね!!」
「いや、全然クールなんかじゃなかったからね!? 最初は思いっきり引っかかって前に飛び出しそうになったのを、必死で堪えただけだからね!? 実際にまた本物の銃なんか撃たれたら、普通にパニックになって騒ぐと思うよ!?」
俺が苦笑しながら正直に否定すると、横で聞いていた大庭さんが静かに首を横に振った。
「いいえ、三上さん。恐怖や焦りを感じながらも、こうして落ち着いて判断するための基礎訓練を真剣に積まれたという事実こそが重要なのです。いざという時、その一呼吸の意識が必ず三上さんと周囲の人間の命を守ります」
そう真っ直ぐに言われると、俺も悪い気はしない。「まあ、今日の練習は本当にやってよかったな」と、俺は心地よい達成感を噛み締めていた。
*
午後四時半。
すべてのカリキュラムを終え、俺たちは手分けしてマットを片付け、ダミー人形を倉庫の隅へと収納した。
俺が軽いものではなく一番重い水入りの土台をひょいっと片手で持ち上げて運んでしまい、小野寺と大庭さんをギョッとさせてしまう一幕はあったものの、後片付けもあっという間に完了した。
「本日は長時間の講習、誠にお疲れさまでした、三上さん」
ジャージの裾を払いながら、大庭さんが改めて本日の総括を述べてくれた。
「三上さんの基礎的な身体能力と反応速度の凄まじさは、実際に目の当たりにして想像を絶するものがありました。ですがそれ以上に、ご自身の力を決して過信せず、『相手を傷つけず安全に離脱する』という本来の目的のために一つずつ動作を修正された姿勢に、深く感銘を受けました」
「いえいえ、すべて大庭さんの教え方が分かりやすかったおかげですよ。自分が今までどれだけ危なっかしい動きをしていたのか、今日で本当によく分かりました」
「そう言っていただければ幸いです。もちろん、こうした体捌きや状況判断は、今日一日だけで完璧に身につくものではございません。意識せずとも自然に安全な動きができるよう、今後も反復練習を重ねることが大切です」
「そうですね。俺も一回だけじゃ忘れちゃいそうですし……あの、大庭さんさえよろしければ、またお時間のある時に、今日みたいに教えてもらうことはできますか?」
俺が「また先生をお願いします」というつもりで何気なくそう尋ねると、大庭さんは一瞬だけハッと息を呑んで目を見開き、それからその厳つい顔を引き締めて、今日一番の深い角度で頭を下げた。
「……もちろんでございます! 私ごときでよろしければ、いつでも、何度でもお付き合いさせていただきます!」
大庭さんは顔を上げても、どこか感極まったような眼差しで俺を見つめていた。いや、俺はただ、ちゃんと教えてもらえたから、またお願いしただけなんだけどな。
(……本当に礼儀正しくて丁寧な人だなあ、大庭さんは。顔の傷と迫力さえなければ、地域の優しい柔道教室の先生で十分通用するのに)
俺はそんな呑気な感想を抱きながら、「じゃあ、またよろしくお願いしますね」と笑顔で倉庫を後にしたのだった。
*
午後五時頃。
汐見総合管理のビルへと戻った俺たちは、そのまま報告のために一階の奥にある役員室へと顔を出した。
部屋のソファでは、組長の源治が葉巻を燻らせながら、遠足から帰ってきた子供を待つようなワクワクした顔で俺たちを出迎えた。
「おう、三上! 大庭! 帰ってきたか! どうだったよ、今日の特訓は!」
「ただいま戻りました、親父さん。いやあ、すごく勉強になりましたよ! やっぱり、ただ身体が頑丈になったからって、ちゃんとした身のこなし方や知識がないと駄目だなって痛感しました」
「はっはっは、そうかそうか! して黒瀬、大庭、うちの三上はどんなすげえ必殺技を覚えてきたんだ?」
身を乗り出す源治に対し、黒瀬と大庭さんが順番に報告を上げる。
「親父。本日の講習では、三上さんに周囲の安全を確認しながら移動する足運びと、状況判断の基礎を学んでいただきました」
「はい、親父。三上さんはご自身の圧倒的なお力を少しも振りかざすことなく、いかにして危険な接触を避け、周囲の人間を巻き込まずに立ち回るかという訓練に、驚くほど熱心に取り組まれました」
二人の報告を聞いて、源治は「……あん?」と少しだけ拍子抜けしたように眉をひそめた。
「なんだと? おい三上、お前さん、せっかく柔道経験者の大庭に稽古をつけてもらったってのに、相手をぶっ倒す投げ技や絞め技じゃなくて、逃げる練習ばっかりしてきたってのか?」
「そうですよ!」
俺は胸を張って即答した。
「だいたい、俺が柔道の技なんか使ったら相手の骨が折れちゃうって大庭さんにも言われましたし、そもそも俺は誰とも戦いたくないんですからね! 相手を一人も殴らずに安全にその場から逃げられるなら、それが百点満点じゃないですか!」
俺が堂々と『逃げるが勝ち』宣言をすると、源治はしばらくの間、俺の顔をじっと見つめて黙り込んだ。
(……あれ? もしかして、武闘派のヤクザの組長としては『男なら逃げるな!』って怒るところだったかな?)
俺が少しだけ身構えた、次の瞬間だった。
「……ぶわっはっはっはっはっは!!」
源治が突然、部屋の空気を震わせるような大声で豪快に笑い出したのだ。
「いいじゃねえか、三上!! 最高だ!! それでこそ男だ!!」
「……えっ? 怒らないんですか?」
「怒るわけがねえだろうが! 自分の腕っぷしが強いからって調子に乗って、見境なく拳を振り回すような奴はただの三下チンピラだ。自分にどれだけ相手を捻り潰せる力があるか分かっていながら、無駄な血を流さねえようにグッと拳を収めて、周りの安全のために退く判断ができる男……そういう奴の方が、力任せに突っ込むだけの馬鹿より百倍頼りになるってもんだ!!」
源治がバンバンと自分の膝を叩きながら、心底嬉しそうに俺を褒めちぎる。
俺は思わず目を丸くした。
(……おおっ!? どうしたんだ一体、いつも無茶振りばっかりの親父さんが、今日はなんだかすごくまともで含蓄のあることを言ってるぞ!)
俺が「親父さんもたまにはいいこと言うじゃないですか」と少し感動しかけた、まさにその直後だった。
源治はニヤリと大きく口角を吊り上げ、満足そうに頷いて言い放った。
「力に溺れず、引くべき時を知る。そういうところが、いずれ一家を任せられる男ってもんだ! はっはっは!」
「………………」
ピシッ、と俺の感動していた表情が凍りついた。
「……いや、親父さん。今、最後にものすごく余計な結論をくっつけませんでした!?」
「ああん? 何を言ってやがる、事実だろうが!」
「違いますってば!! 俺は立派な極道の親分になるために修行してきたんじゃなくて、ただの平和な派遣社員として怪我なく生きるために、逃げ方を習ってきただけなんですからね!?」
「がっはっはっは! 照れるなって! そういう謙虚なところがまた大物らしくていいじゃねえか!」
「全然照れてません!! 本気で否定してるんですよおおお!!」
結局、俺がどれだけ真面目に安全対策を学ぼうと、この親父さんの頭の中ではすべて『次期組長としての帝王学』に変換されてしまうらしい。俺はどっと押し寄せる徒労感に肩を落とし、役員室から退散したのだった。
*
午後五時半。
定時まであと三十分というタイミングで、俺はようやく表の事務室にある自分のデスクへと戻ってきた。
「三上さん、お帰りなさい。午後の安全講習、お疲れさまでした。体は大丈夫ですか、筋肉痛になったりしていませんか?」
向かいの席から、森田さんがいつもの穏やかな笑顔で声をかけてくれる。
「あ、ただいま戻りました、森田さん。はい、おかげさまで怪我もなく、すごくためになるお話を聞いてきましたよ」
「それはよかったです。午前中にチェックしていただいていた契約更新の書類ですけど、急ぎの分はもう私が引き継いで処理しておきましたから、残りのバインダーはまた明日のお仕事にしてくださいね。今日はもうすぐ定時ですし、ゆっくりお茶でも飲んでいてください」
「うっ……ありがとうございます、森田さん! 本当に助かります!」
俺は椅子に深く腰を下ろし、森田さんが淹れてくれた温かいお茶を一口啜って、心の底からホッとした息を吐いた。
(……ああ、やっぱりこの一般社会の優しい気遣いだけが、俺の魂の救いだ。森田さんにとっては、俺が今日受けてきたのはあくまで『普通の会社の安全衛生研修』なんだよな。素晴らしい、この認識のままでいよう)
俺が平穏な空気の中で湯呑みを傾けていた、その時だった。
「親分っ!! いやあ、今日の午後の特訓、マジで鳥肌が立つくらい凄かったっすね!!」
倉庫から後片付けを終えて戻ってきた小野寺が、興奮で顔を真っ赤にしながら俺のデスクへと駆け寄ってきた。それだけならまだしも、周りのデスクにいた他の組員たちまでが、小野寺の声を聞いて「おお、どうだったんだ?」と興味津々でこちらへ視線を向けてくる。
「……ちょ、小野寺君。また声が大きいってば。別に凄いことなんか何もしてないでしょ、ただダミー人形の間を歩いて通り抜ける練習をしてただけじゃないか」
「いやいや、謙遜しないでくださいよ親分! あんなに人間離れした超スピードで動けるのに、周りのダミー人形には風圧ひとつ当てないようにピタッと速度をコントロールして、俺が助けを呼んだら敵の死角を完璧に回り込んで救出ルートを作っちまったんすよ!?」
小野寺は周囲の組員たちに向かって、身振り手振りを交えて熱弁を振るい始めた。
「しかもな、みんな聞いてくれよ! 親分ったら、『相手を殴って倒すんじゃなくて、誰も傷つけずに制圧する技術』を大庭の兄貴からバッチリ吸収しちまったんだ! ただでさえ強いのに、あんな冷静な判断力と体捌きまで身につけたら、もう文字通り無敵じゃないっすか!!」
「「「おおおおおっ……!!」」」
事務室にいた屈強な組員たちから、感嘆と畏怖の入り混じったどよめきが上がる。
俺は湯呑みを持ったまま、完全に固まった。
(…………え? 制圧する技術なんて一つも習ってないんだけど!? しかも無敵って何!?)
俺が慌てて否定しようと口を開きかけたところへ、役員室から出てきた黒瀬が俺のデスクの横に立ち止まり、涼やかな目を細めて穏やかに微笑んだ。
「三上さん、本日は本当にお疲れさまでした。大庭からも詳しく報告を受けましたが、ご自身の力を適切に扱い、安全な行動を選ぶための、非常に有意義な第一歩を踏み出されたようですね」
「あ、黒瀬さん……いや、俺はただ、危ない目に遭った時にどうやって逃げようかっていう確認をしただけで、実戦の立ち回りとかそういう大層な話では……」
「ご謙遜を。大庭も『あれほど高い身体能力を持ちながら、ここまで冷静に状況を見て力を制御できる方は見たことがない』と、舌を巻いておりましたよ。今後も定期的に訓練を続けられれば、不測の事態にもこれまで以上に安全かつ冷静に対処できるようになるでしょう」
黒瀬の丁寧な称賛の言葉に、周囲の組員たちが「さすが三上さんだ……」「もう誰も手出しできねえな……」とゴクリと唾を呑み込む音が聞こえた。
さらに追い打ちをかけるように、役員室のドアから顔を出した源治までが、ニヤニヤと笑いながら大声で声をかけてきた。
「はっはっはっは!! よかったなあ、三上! 大庭に聞いたぜ。あれだけ強えのに、今度は周りを巻き込まずに動く練習まで積んだってんだから、大したもんだ!!」
「………………」
俺はデスクの上で、ゆっくりと湯呑みを置いた。
そして、自分の両手でガシッと頭を抱え込み、ワナワナと肩を震わせた。
ちょっと待ってくれ。
冷静に、今日一日の俺の行動を振り返ってみてほしい。
俺が今日、あの倉庫で大庭さんから必死になって教わってきたことは一体なんだったっけ?
危険な相手から距離を取る方法。
周囲の通行人にぶつからないように安全確認をする方法。
相手を無理に殴ったり気絶させたりせず、戦わずにその場から離脱する判断。
どれをとっても、百パーセント『誰とも戦わずに安全に逃げるための練習』だったはずだ。攻撃の技なんて、デコピンひとつ練習していない。
それなのに。
「いやあ、親分、マジで地上最強へまた一歩近づいたっすね!!」
「三上さんがご自身と周囲の安全を守る方法を学ばれるのは、我々としても実に心強い限りです」
「がっはっは! ますます手がつけられねえ大親分になるぜ、こりゃあ!」
なぜか俺の周りでは、俺が今日一日で『格闘技の極意まで身につけて、さらに手がつけられなくなった最強の戦闘マシーン』に進化したかのように、全員が勝手に盛り上がって拍手喝采を送っているのだ。
(……違う!! そうじゃない!! 俺は誰かをぶっ飛ばすために習ってきたんじゃなくて、誰もぶっ飛ばさずに済むように逃げ方を勉強してきたんだよ!!)
俺は椅子からガタッと立ち上がり、尊敬の眼差しで俺を拝んでいるヤクザたちに向かって、腹の底からありったけの声量で叫び声を張り上げた。
「俺はただ誰とも戦わずに安全に逃げ切れるようになりたかっただけなのに、なんで逃げる練習をしただけで『ますます手がつけられない最強のヤクザに進化した』って評価されてるんですかあああああああっ!?」
俺の悲痛な魂の絶叫が事務室にこだまする中、源治は「はっはっは、威勢がいいなあ!」と腹を抱えて大爆笑し、小野寺は「謙遜する親分もシブいっす!!」と大喜びで拍手を続けている。黒瀬はただ静かに、楽しげな微苦笑を浮かべて頷くばかりだ。
そんな全く話の通じない極道たちの真ん中で、時計の針が午後六時を指したのを確認した森田さんだけが、パソコンの電源を落としながら、いつもの優しい声で俺に呼びかけてくれた。
「三上さん、ちょうど定時になりましたよ。今日も一日お疲れさまでした、残りの書類はまた明日頑張りましょうね」
「……は、はいっ……! お疲れさまでした、森田さあああん……!!」
俺は自分の平穏な社会人ライフが、守ろうとすればするほどなぜか『最強の極道ルート』へと全力で突き進んでいく理不尽さに涙目になりながら、逃げるようにタイムカードを切って帰路につくのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
YouTubeチャンネルを開設しました!
自作小説の朗読動画を投稿しています。
よかったら、下のリンクから聴いてみてください!
YouTubeチャンネル「パラレル・ゲーマー」はこちら