派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
水曜日の午前九時半。
株式会社汐見総合管理の自分のデスクで、俺――三上悠介は、手元のバインダーとパソコンの画面を交互に見比べながら、来月更新を迎える賃貸契約の書類チェックを黙々と進めていた。
昨日の午後は、組員の大庭さんから倉庫で護身術の基礎を教わった。
周囲を確認して安全に動くこと、力任せに相手を止めようとしないこと。俺に必要なのは、強さよりも状況を見て判断する技術なのだと教えてもらった。
あれだけの力を持っているのに何も知らないままだった自分には、考えさせられることの多い講習だった。
(……よし。これからは万が一危ない目に遭っても、まずは一呼吸置いて周りを見る。今日からはまた、この平和な事務仕事だけに集中するぞ)
順調にバインダーのページをめくり、保証会社の更新案内リストにチェックを入れていく。
森田さんから頼まれた分も、このペースなら昼前にはすべて片付きそうだ。
そんな穏やかな朝の空気の中、奥の役員室から出てきた若頭の黒瀬が、静かな足取りで俺のデスクへと近づいてきた。
「三上さん。作業中のところ恐れ入りますが、少しお時間をいただけますか」
俺はマウスから手を離し、椅子を回して顔を上げた。
「あ、黒瀬さん、おはようございます。はい、なんでしょう?」
「おはようございます。実は……ここで立ち話をするのも憚られますので、少し奥へ来ていただけますか」
いつもなら穏やかな微笑みを浮かべているはずの黒瀬の表情が、今朝に限ってはどこか硬く、その涼しげな目にも、いつになく真剣な色が宿っている。周囲のデスクに聞こえないよう、声のトーンも一段低く落とされていた。
(……あれ? なんだろう、いつもと雰囲気が違うぞ)
俺は胸の奥に小さなざわつきを覚えながら席を立ち、黒瀬の後ろについて誰もいない役員室の中へと入った。
重厚なドアが閉められると、黒瀬は俺に向き直り、単刀直入に切り出した。
「三上さん。先々週の水曜日に湾岸の倉庫で発生したあの一件について、今朝ほど、警察からこちらへ連絡が入りました」
「………………」
ピタリ、と俺の思考が凍りついた。
警察。
先週の木曜日に八咫烏の霧島さんが来た時、「刑事事件としての捜査は一般の警察で別途進んでいる」と言われていた、まさにその本丸からの連絡だ。
「……く、黒瀬さん。警察から連絡って……それ、どういう意味でしょうか?」
「事件当日の具体的な状況や経緯について、当事者である三上さんご本人から直接、詳しくお話を伺いたいとのことです」
スーッと、俺の顔面から一気に血の気が引いていくのが分かった。
昨日の講習で、自分の手加減がどれほど危ういものだったか教えられたばかりだ。そんなタイミングで警察からの呼び出しとは、心臓に悪すぎる。
「お、俺、やっぱり逮捕されるんですかあああああっ!? 十八人もボコボコにして病院送りにしたから、傷害罪で手錠かけられちゃうんですか!?」
「落ち着いてください、三上さん。深呼吸をしてください」
頭を抱えてパニックになりかけた俺の肩を、黒瀬が落ち着いた手つきで軽く押さえた。
「今回警察から要請があったのは、あくまで『任意での事情聴取』です。逮捕状が出たわけではありませんし、現時点で三上さんの身柄を拘束するといった話でもございません」
「……に、任意? じゃあ、警察署に行ったらそのまま留置場に入れられるわけじゃないんですか?」
「ええ。もちろん、銃器が使用され多数の負傷者が出た重大事件の捜査ですから、誠実かつ慎重に対応する必要はありますが、いきなり犯罪者として扱われるわけではありませんよ」
黒瀬の冷静な説明に、俺は荒い息を吐きながら、なんとか心臓の早鐘を鎮めた。
(……そ、そうだよな。霧島さんの検査とは別に、警察の捜査が進んでるって話は最初から聞いてたんだ。いずれ一度は説明に行かなきゃいけないって分かってたじゃないか)
*
「今回の件において、警察は三上さんを『極めて重要な事件関係者』として見ています」
黒瀬は俺にソファへ座るよう促し、向かい側に腰を下ろして説明を続けた。
「考えてもみてください。小野寺の拉致監禁に始まり、相手側による実弾の発砲、日本刀などの凶器の使用、そして結果として相手側の構成員十八名全員が負傷して救急搬送されたのです。通常の抗争や喧嘩の枠を遥かに超えた事案ですから、現場で何が起きたのかを当事者の口から確認しないわけにはいかないのでしょう」
「……いや、文字にして並べられると本当にめちゃくちゃな大事件ですね……。俺としては、捕まった小野寺君を迎えに行ったら、いきなり拳銃を撃たれた被害者のつもりなんですけど……」
「ええ、事実として三上さんは銃撃を受けた被害者でもあります。その点も含め、警察へ正確に状況を伝える必要があります」
俺が重いため息をつくと、黒瀬は懐から一枚の名刺を取り出し、テーブルの上へと置いた。
「そこで三上さん。警察署へ出向かれる前に、本日中に一度、刑事事件に精通した弁護士と面談をしていただきたいのです」
「……弁護士さん、ですか?」
「はい。事情聴取において、ご自身の立場を法的にどう守るべきか、どのような点に注意して事実を説明すべきかを、事前に専門家と整理していただきたいのです」
俺はテーブルの上の名刺を見つめ、少しだけ眉をひそめて躊躇した。
ヤクザの組織が紹介してくれる弁護士。それって、ドラマとかでよく見る「組の利益を守るために、下っ端に罪を被せたり口止めをしたりする悪徳顧問弁護士」みたいな人じゃないだろうな、という不安がよぎったのだ。
「……あの、黒瀬さん。言いにくいんですけど、その弁護士さんって、榊原一家の顧問弁護士の方ですか?」
「いえ、違いますよ」
黒瀬は俺の懸念を最初から見透かしていたかのように、静かに首を横に振った。
「うちの組と直接の利害関係を持たない、独立した法律事務所の高瀬という弁護士です。三上さんは我々の正式な組員ではなく、あくまで派遣社員として来ていただいている堅気の方ですからね。組織の都合ではなく、三上さんご個人の権利と利益を最優先に考えて弁護にあたれる人物を、八咫烏のルートも通じて探させました。もちろん、実際に面談してみて信頼できないと感じられた場合は、断っていただいても構いません」
「……っ、そうなんですか! そこまできちんと考えて手配してくれたんですね……ありがとうございます、ぜひその高瀬先生にお願いします!」
どこまでも俺の立場を尊重してくれる黒瀬の配慮に、俺は頭を下げた。
警察との面談は、高瀬弁護士との事前相談を本日の午後に行った上で、明日の木曜日の午後に警察署へ出向くスケジュールで調整してもらうことになった。
そして、具体的な日時の話が出たところで、俺はふと社会人として確認しておかなければならない重大な問題に気づいた。
「……あの、黒瀬さん。今日の午後の弁護士さんとの相談と、明日の午後の警察署への移動って、どっちも勤務時間中になりますよね?」
「ええ、そうなりますね」
「あの……これ、俺の時給はどうなるんでしょうか? 先日の八咫烏の検査や昨日の護身術は『会社の業務や研修』ってことにしてもらえましたけど、警察の事情聴取はさすがに会社の業務にはなりませんよね……?」
時給二千五百円。今日の午後と明日の午後で合計八時間近く抜けることになれば、それだけで二万円近い収入が吹き飛んでしまう計算になる。
俺が切実な顔で尋ねると、黒瀬は一瞬だけキョトンと瞬きをし、それから口元に手を当てて「ふっ……」と小さく吹き出した。
「警察から呼び出しを受けた直後に、真っ先に時給の心配をされるとは……三上さんは本当に、いついかなる時も軸がブレませんね」
「だって、死活問題ですよ! 俺、生活のためにここで働いてるんですから!」
「分かっております。ですが、今回の警察対応はそもそも、うちの小野寺が拉致された事件に三上さんを巻き込んでしまったことが発端です。もちろん、虚偽の業務報告をすることはできませんので、派遣元へは『業務上のトラブルに関連する公的機関への手続き』として正式に事情を説明し、特別有給休暇に準ずる扱いとして、三上さんの給与が一切減額されないようこちらで全額補填・調整いたします」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、黒瀬さん!!」
俺は心の底から安堵した。
警察署に行くという胃の痛くなるようなイベントは避けられないが、少なくとも俺の生活費が削られるという最悪の二次被害だけは免れたらしい。
*
水曜日の正午少し前。
午前中の契約更新チェックの残りをすべて片付け、そろそろ昼休みにしようかとデスクの書類を整理していた時だった。
「……あの、三上さん」
背後から、ひどく控えめで小さな声がかけられた。
振り返ると、そこには小野寺が立っていた。いつもなら事務室の端からでも「親分っ!!」と鼓膜が破れそうな大声で駆け寄ってくるはずの彼が、今日は借りてきた猫のように肩をすぼめ、なんだかひどく思いつめたような暗い顔をしている。
「ん? どうしたの小野寺君、そんなに元気なさそうな顔して」
「……ちょっと、お時間もらってもいいっすか。あっちの廊下で……」
小野寺に促され、俺は彼と一緒に給湯室の先の、人のいない非常階段前の廊下へと移動した。
周囲に誰もいないことを確認すると、小野寺は俺の正面に立ち、突然、膝に頭がぶつかりそうなほどの勢いで深々と頭を下げた。
「……っ、すんません!! 本当にすんませんっす、三上さん!!」
「えっ!? ちょ、ちょっと小野寺君、急にどうしたんだよ!? なんで謝るの!?」
「さっき、黒瀬の兄貴から聞いたっす……。明日、あの倉庫の件で、三上さんが警察署に呼び出されて事情聴取を受けることになったって……」
小野寺は頭を下げたまま、拳をギリギリと握りしめ、震える声で言葉を絞り出した。
「全部、俺のせいっす……! あの日、俺が間抜けにもあんな連中に捕まったりしたせいで、三上さんを危ない目に遭わせちまって……。それだけじゃなく、三上さんは俺を助けるために戦ってくれただけなのに、今度は警察にまで引っ張り出されて疑われるようなことになっちまって……!」
今にも泣き出しそうに声を詰まらせる小野寺を見て、俺は驚き、それからゆっくりと息を吐いて彼の肩を軽く叩いた。
「……顔を上げてよ、小野寺君」
「でも……」
「あのね、前にも言ったと思うけど、あの日君が誘拐されたのは、君が何か悪いことをしたからじゃないでしょう? 相手の連中が勝手に俺と君を勘違いして、外回り中の君を待ち伏せして拉致したんだから、小野寺君は百パーセント被害者なんだよ」
俺はできる限り穏やかな、普段通りの先輩としての口調で語りかけた。
「それにね、俺だって最初は、自分で乗り込むんじゃなくて警察に電話して助けてもらおうって言ったんだ。でも、相手が『警察を動かしたら人質の命はない』って脅してきたから、どうしようもなくて……親父さんや黒瀬さんが後から必ず援軍を送るって約束してくれたから、じゃあ俺が先に行って時間を稼ごうって自分で決めて行ったんだよ」
「……三上さん……」
「だから、君が自分を責める必要なんてこれっぽっちもない。……まあ、現場で俺がテンパっちゃって、昨日の講習で大庭さんに怒られたみたいな危ないやり方で相手を気絶させちゃったのは、俺自身の反省点なんだけどさ」
俺が苦笑交じりにそう言って頭を掻くと、小野寺はようやく顔を上げた。
その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいたが、彼はそれをゴシゴシと袖で乱暴に拭うと、改めて俺の目を真っ直ぐに見て、深く頭を下げた。
「……それでも、これだけは言わせてくださいっす。三上さん、あの時は本当に、ありがとうございました」
「……うん」
「俺、あの暗い部屋で椅子に縛り付けられて殴られてた時、途中から『あ、これマジで今日殺されて海に沈められるやつだ』って覚悟したんすよ。怖くてたまらなかったっす。……だから、南京錠が壊れる音がして、ドアが開いて三上さんの顔が見えた時、本当に地獄に仏様が来てくれたと思ったんす。三上さんが来てくれなかったら、俺、今こうしてここで息してなかったっす」
普段はお調子者で能天気な二十五歳の若者が、あの時の死の恐怖を思い出しながら、飾らない言葉で伝えてくれた本心だった。
それを聞いて、俺の胸の奥にあった警察への不安やモヤモヤが、すっと軽く晴れていくのを感じた。
そうだ。俺はあの夜、この気のいい後輩を生きて連れて帰りたくてあの倉庫へ行ったのだ。そして実際に、彼は今こうして目の前で元気に生きている。その一番大切な目的が達成できているのなら、後から警察に事情を説明しに行くくらい、なんてことはないじゃないか。
「……まあ、とにかく君が無事で、今日こうやって元気に会社に来られてるんだから、それで全部よしとしようよ」
「はいっ……!」
小野寺は力強く頷き、それから急にいつもの熱い目つきに戻って、グッと拳を握りしめた。
「決めたっす、親分!! 明日の午後、もし警察署で親分が不当に逮捕されそうになったりしたら、俺にすぐ連絡してください! 俺が若い衆を全員連れて警察署にカチコミかけて、親分を奪還してみせるっす!!」
「いや、絶対に来ないで!? 警察署にヤクザの集団がカチコミなんかかけたら、俺の任意の事情聴取が一瞬で全国ニュースの凶悪テロ事件に変わっちゃうでしょうが!!」
「……あっ! 言われてみれば、確かにそうっすね!!」
「そこで気づくんだ!? 頼むから明日は事務所で大人しく領収書の整理をしててくれよな!?」
しんみりした空気をわずか数秒でぶち壊してくれた愛すべき後輩に全力でツッコミを入れながら、俺は少しだけ軽くなった足取りで昼休みへと向かったのだった。
*
その日の午後三時。
俺は黒瀬が手配してくれた都内の貸し会議室で、紹介された高瀬という弁護士と一対一で向かい合っていた。
高瀬弁護士は四十代くらいの、白髪交じりの髪をきちんと撫でつけた理知的で落ち着いた男性だった。ヤクザの匂いなど微塵もしない、見るからに実務的で誠実そうな法律の専門家という雰囲気に、俺はまずホッとした。
「三上さん。本日の面談の目的は、明日の事情聴取に向けて綺麗事の言い訳を作ることではありません。三上さんの頭の中にある『ご自身が実際に体験された事実』を正確に整理し、警察官に対して誤解のないよう落ち着いて説明するための準備です」
「はい、よろしくお願いします」
「まず一番大切な原則をお伝えします。警察で話す際は、『ご自身がその場で直接見聞きした事実』と、『事件の後に黒瀬さんや周囲の人から聞いた話』を、明確に分けて話してください」
「……自分が直接見聞きしたことと、後から聞いた話を分ける、ですか?」
「ええ。人間というのは、後から聞いた情報と自分の当時の記憶を無意識に混ぜて話してしまいがちです。しかし、それをしてしまうと、刑事から『なぜ当時その場で知り得なかったはずのことを知っているのか』と追及され、供述全体の信用性が疑われてしまうのです」
高瀬弁護士の論理的で明快なアドバイスに、俺は「なるほど!」と深く膝を打った。
それはまさに、月曜日に俺が奥の和室で歴代親分の記録をエクセルで整理した時、『実際に確認できる当時の記録』と『後世の伝聞や脚色』を別々の列に分けて入力した作業と、考え方の根っこが全く同じではないか。
俺たちはそこから一時間ほどかけて、事件当日の記憶を、俺が実際に見聞きしたことと、後から知ったことに分けて紙へ書き出していった。
どの場面を自分の目で見たのか、誰から何を聞いたのか。高瀬先生は一つずつ確認してくれる。
そのたびに、確かに覚えていることと、思い込みで補っていたことの境目が少しずつはっきりしてきた。
特に脅迫電話のやり取りや、現場へ向かうと決めるまでの経緯は、事実とその時の気持ちを混ぜないように慎重に整理した。
(……なるほど。記憶も仕事のデータと同じで、分からないところを勝手に埋めたら駄目なんだな)
「……ええと、倉庫の敷地に入ってからのことですけど、相手が全部で何発くらい拳銃を撃ってきたか聞かれたら、どう答えればいいでしょうか?」
「三上さんご自身で、正確に何発撃たれたか数えておられましたか?」
「いえ、あっちこっちからパンパン撃ってきたので、全体の数はちょっと……。ただ、最初の一発を首を傾けて避けたのと、そのあと飛んできた弾を右手で二発、左手で二発の合計四発、素手で掴み取ったことだけははっきりと覚えています」
「でしたら、その通りに『最初に一発避け、その後四発を素手で掴んだことは記憶しているが、相手が全体で何発発砲したかまでは正確に把握していない』と答えてください。分からない数字を推測で埋める必要は一切ありません」
「分かりました! 曖昧なところは曖昧なまま、確認できた数値だけを正確に報告するんですね!」
営業事務の基本ルールと全く同じだと言われて、俺の頭の中はすっきりとクリアに整理された。
「三上さん。今回の事案において、あなたは実弾を発砲された被害者であると同時に、結果として十八名を負傷させた当事者でもあります。どちらか一方の側面だけを強調するのではなく、明日は今整理した通りに、起きた事実と当時のご自身の心情をありのまま説明してきてください」
「はい。よく分かりました、ありがとうございます!」
専門家との綿密な打ち合わせを終え、俺は少しだけ自信を取り戻してその日の業務を終えたのだった。
*
翌木曜日、午後一時十五分。
俺は約束の時刻の十五分前に、管轄の警察署の正面玄関前に立ち尽くしていた。
目の前にそびえ立つ、灰色の無機質なコンクリートの庁舎。入り口の上には金色の旭日章が掲げられ、制服姿の警察官やパトカーがひっきりなしに出入りしている。
(……うわあああ、やっぱり本物の警察署って、目の前に立つとめちゃくちゃ威圧感があるな……! 免許の更新と落とし物を届けた時くらいしか入ったことないのに、なんで俺は銃撃戦の当事者としてここに入る羽目になってるんだ……!)
昨日弁護士さんとあれだけ準備したにもかかわらず、いざ警察署の建物を前にすると、小市民の心臓は勝手にキュッと縮み上がってしまう。
「三上さん。お待たせしました」
声をかけられて振り返ると、スーツ姿の高瀬弁護士が歩いてくるところだった。
今回の任意の事情聴取では、取り調べの部屋の中までは弁護士は同席しないものの、こうして警察署まで付き添ってくれ、面談の前後でいつでも相談できるように控え室で待機してくれることになっている。
「高瀬先生、わざわざ付き添っていただいてありがとうございます。なんだか、玄関を見ただけで緊張してきちゃいまして……」
「誰でも警察署に来れば緊張しますよ。ですが、昨日確認した通り、三上さんは何かを隠したり嘘をついたりする必要は全くありません。覚えておられることを一つずつ丁寧に答えてくれば大丈夫です。何か少しでも判断に迷うことがあれば、途中で休憩を申し出て私のところへ来てください」
「はいっ、分かりました。じゃあ、行ってきます!」
高瀬弁護士の力強い言葉に背中を押され、俺は一度大きく深呼吸をしてから、警察署の自動扉をくぐった。
受付で名前と用件を告げると、若い警察官に案内され、庁舎の奥にある殺風景な面談室へと通された。
*
午後一時半。
白い壁に囲まれた小さな面談室のパイプ椅子に、俺が背筋をピンと伸ばして座っていると、ノックの音とともにドアが開き、一人の男性刑事が書類の束を抱えて入ってきた。
年齢は四十代半ばくらいだろうか。短く機能的に整えられた黒髪に、少し着古した落ち着いたグレーのスーツ。
ドラマに出てくる鬼刑事のような強面でもなければ、威圧的に怒鳴りつけてくるような雰囲気もない。どこか市役所のベテラン職員のような穏やかな佇まいだが、こちらを見つめる落ち着いた瞳の奥には、人の言葉のわずかな綻びも見逃さない仕事人特有の鋭い光が宿っていた。
「お待たせしてすみません。今回の湾岸倉庫での事案を担当しております、組織犯罪対策課の稲葉慎吾と申します。本日は任意での聴取にご協力いただき、ありがとうございます」
男性刑事――稲葉さんは、テーブルの向かいに立ち、丁寧な口調で頭を下げた。
俺は弾かれたように椅子から立ち上がり、営業マン時代の癖で九十度のお辞儀を返した。
「は、初めまして!! 三上悠介と申します!! 本日はお忙しいところお時間をいただき、よろしくお願いいたします!!」
「……ええ、そんなに固くならなくて結構ですよ、三上さん。どうぞ楽にして座ってください」
俺の全力の営業挨拶に、稲葉刑事は少しだけ目を丸くし、それから苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
「いやあ、警察署でこういうお話をすること自体が生まれて初めてなもので、楽にと言われてもなかなか……」
「それはそうでしょうね。まず最初にお伝えしておきますが、三上さんが『特殊な異能』をお持ちであることや、その基礎的な身体能力の数値については、すでに政府の専門機関――八咫烏の方から一定の共有を受けております」
「……あっ、霧島さんたちから話が来てるんですね」
「はい。ですので、今日ここで私の方から能力の仕組みを追及したり、何か実演を求めたりすることはありません。私が確認したいのはあくまで、事件当日に三上さんがどのような経緯で現場へ向かい、現場で何が起きたのかという事実関係です」
稲葉刑事の落ち着いた説明に、俺はホッと胸を撫で下ろした。
よかった。警察署の取調室で「じゃあ証拠としてこの机を片手で持ち上げてみろ」とか言われるわけじゃないらしい。
すると稲葉刑事は、手元のバインダーを開き、最初の基本的な確認事項として俺のプロフィールに目を落とした。
「では、まず現在のご職業について確認させてください。三上さんは現在、株式会社汐見総合管理に勤務されているとのことですが……雇用形態と、具体的な業務内容は?」
「はい! 大手の派遣会社に登録して、先月から派遣社員として働いております! 職種は営業事務です!」
「……営業事務、ですか」
稲葉刑事はペンを止め、俺の顔と手元の資料を交互に見比べた。
「……念のための確認ですが、名目上は事務職として登録しつつ、実際にはその異能を用いて事務所の警備や、トラブル処理などの実働業務を担当されている、というわけではないのですね?」
「ち、違いますよ!? 全然違います!!」
俺は思わず椅子から身を乗り出して全力で否定した。
「俺は前職でも十年間ずっと中小企業で営業と事務をやってたただの会社員で、今の会社でも毎日デスクでエクセルを使って家賃の入金チェックをしたり、契約更新の書類を確認したりしてるだけです! 用心棒みたいな仕事は一ミリもやってません!」
「……なるほど。失礼しました、そのまま記録します」
稲葉刑事は淡々とメモを取った。ただ、武装した十八人を一人で倒した男が普通の派遣社員だという説明は、まだ腑に落ちていないように見えた。
*
午後二時頃。
本題である事件当日の経緯へと話が進み、稲葉刑事は穏やかながらも的確な質問を一つずつ投げかけてきた。
「では、事件当日の水曜日、同僚である小野寺亮太さんが拉致されたことを三上さんが知ったのは、いつ、どのような経緯でしたか?」
「はい。あの日は午前十時頃に小野寺君が物件の巡回と業者さんとの打ち合わせで外回りに出たんですけど、昼過ぎに戻ると言っていたのに午後三時を過ぎても帰ってこなくて、スマホにも出なかったんです。それでおかしいなと思って、事務の森田さんが訪問先の業者さんに電話で確認したら、午前十一時半頃にはもう打ち合わせを終えて出ていたことが分かりまして」
俺は昨日高瀬弁護士と整理した通り、自分が事務室で実際に体験した順番通りに言葉を紡いだ。
「それで、午後三時半頃に事務所の電話が鳴って、犯人の男から『小野寺を預かっている』と脅迫があったんです。相手は『最近おたくの組に入った強力な新入りを、午後八時に湾岸の倉庫へ一人で寄こせ』って要求してきました」
「なるほど。相手側は、外回りに出た小野寺さんをその『新入りの能力者』だと誤認して拉致し、人違いだと気づいたため、本物である三上さんを呼び出すための人質にしたわけですね」
「はい、電話口で相手がそう言っていました」
稲葉刑事は万年筆を走らせながら、ふと顔を上げて俺の目を見た。
「三上さん。その脅迫電話を受けた時点で、警察へ110番通報しようとは考えませんでしたか?」
「考えましたよ!! というか、俺は真っ先に『今すぐ警察に電話しましょう!』って大声で言いました!!」
俺は食い気味に即答した。
「だって、人が誘拐されて脅迫されてるんですよ!? 普通の一市民としては、真っ先に警察に助けを求めるのが当たり前じゃないですか! SATとかSITとか、そういうプロの人たちに助けてもらいましょうって必死に訴えたんです!」
俺があまりにも熱烈に主張したため、稲葉刑事は少しだけ目を丸くして瞬きをした。指定暴力団の関係先に出入りしている人間から、ここまで真っ当な「警察頼み」の言葉が飛び出すとは思っていなかったらしい。
「……しかし、実際にはその時点で通報はなされなかった。それはなぜですか?」
「犯人が電話で、『もし余計な人間を連れてきたり、警察の犬を嗅ぎ回らせたりしたら、この小僧を即座に東京湾の底に沈める』って脅してきたからです。電話の向こうで、実際に小野寺君が殴られて悲鳴を上げる音も聞こえていました。黒瀬さんたちからも、相手の居場所や戦力が分からないまま警察が動けば、見張りに気づかれて小野寺君が本当に殺される危険があると言われて……それで、どうしたらいいか分からなくなってしまったんです」
俺は当時の役員室での息が詰まるようなやり取りを思い出しながら、正直に答えた。
「では、警察を呼べないとなった状況で、最終的に三上さんがお一人で指定場所の倉庫へ向かうことになったのは、どのような経緯からですか?」
「……その、会社の関係者である榊原さんから、『お前なら一人で行っても何とかできるんじゃないか』と言われまして」
俺は『初代の盃』や『跡目』といった機密ワードは慎重に避けつつ、事実関係だけを説明した。
「もちろん、最初は『絶対に無理です、できません!』って全力で断りました。俺、これまで一度も人と殴り合いの喧嘩すらしたことがなかったですし、危ない目に遭うのは嫌でしたから」
「ええ。ご自身でも非常に危険だと認識されていたわけですね。にもかかわらず、最終的に現場へ行くことを承諾されたのはなぜですか?」
「黒瀬さんたちが『三上さん一人を見捨てるようなことは絶対にしない、必ず後から万全の態勢で援軍を送るし、八咫烏や警察との連絡も進める』って約束してくれたからです。それなら、俺が一人で先に行って小野寺君の無事を確認して、援軍が来るまで逃げ回りながら時間を稼ぐくらいならできるかもしれない、と思って……」
俺はそこで少しだけ言葉を切って、自分の膝の上で握った拳を見つめた。
「……それに、小野寺君が攫われたのって、そもそも朝の出掛けに俺が『帰りにコンビニでブラックの缶コーヒーを買ってきて』って頼んだ途中で起きたことだったんです。俺と間違えられた上に、俺のお使いの途中で捕まって痛い目に遭ってる後輩を、自分が怖いからってあのまま見殺しにするわけには、どうしてもいかなかったんです」
静かな面談室に、俺の声が落ちた。
稲葉刑事は何も言わず、しばらくの間、じっと俺の顔を見つめていた。
大げさに感動するでも、疑うような態度を見せるでもない。稲葉刑事は、ただ俺の話を一つずつ受け止めているように見えた。
「……よく分かりました。当時の三上さんのご認識と動機、正確に記録させていただきます」
稲葉刑事は静かに頷き、調書の原稿へとペンを走らせた。
*
午後二時半。
聴取はいよいよ、湾岸の倉庫に到着してからの具体的な戦闘――いや、襲撃の状況へと移った。
「では三上さん。あなたが指定された倉庫の敷地へ到着されたのは、午後七時四十分頃ですね?」
「はい。指定された時刻は午後八時だったんですが、俺は二十分ほど早く着いてしまいました」
「敷地内へ入った後、何が起きましたか?」
「最初は誰もいなくて静かだったんですが、俺が『小野寺君を迎えに来ました』と声を上げたら、倉庫の通用口やトラックの陰から、防刃ベストみたいなものを着て武器を持った男たちがぞろぞろと出てきて、俺の周りをぐるっと取り囲んだんです。そして、俺が入ってきた後ろの鉄の門扉を、外からガシャンと閉められてしまいました」
「逃げ道を塞がれたわけですね。相手の人数は十八名で間違いありませんか?」
「ええと、結果的に十八人だったというのは後から黒瀬さんたちに聞いて知った数字で、その場の俺としては『二十人弱くらいのすごい大人数に囲まれた』という認識でした」
高瀬弁護士のアドバイス通り、当時の自分の認識と後から聞いた数字を正確に区別して答えると、稲葉刑事は「なるほど、正確なご説明をありがとうございます」と小さく頷いた。
「そして、包囲された直後に、相手側から拳銃を発砲されたのですね?」
「そうです! 俺は両手を上げて『喧嘩をしに来たんじゃない、小野寺君を返してくれれば帰る』って必死にお願いしたのに、前にいた男がいきなり俺の顔をめがけて拳銃を撃ってきたんです!」
「その最初の一発に対して、三上さんはどうされましたか?」
「びっくりしましたけど、銃口から飛び出した弾がなんだかすごくゆっくり向かってくるのが見えたので、咄嗟に首を右に傾けて避けました。弾は俺の左耳の横を通り過ぎて、後ろの鉄扉に当たって火花が散りました」
稲葉刑事は頷きながらメモを取る。
「専門機関からの報告書にも、三上さんの視覚処理速度と運動反応が極めて高い水準にあると記載されています。では、その一発目を避けた後はどうなりましたか?」
「俺が避けたのを見て相手がパニックになったみたいで、『撃ち殺せ!』って叫んで何人かの男が一斉に連射してきたんです。最初のうちは体を左右にずらして避けてたんですけど、あんまり何発も撃ってくるので、途中から『これだけゆっくり見えるなら、手でも掴めるんじゃないか』と思いまして」
稲葉刑事はそこで、手元の資料を一度見直した。
異能の説明は聞いていても、念のため何が起きたか順番に確かめたいのだろう。
「……銃弾を、手で掴んだのですね?」
「はい。それで試しに飛んできた弾に右手を伸ばしたら、パシッと空中で掴めたんです。そのあとも別の人が撃ってきたので、左手で二発、右手でもう一発受け止めました」
「……ええと、三上さん。最初に回避された弾とは別に、発射された実弾を『素手で合計四発』掴み取った、ということでお間違いありませんか?」
「はい、間違いありません。その四発は後でその場の地面に落としましたから、現場の証拠品としても残ってると思います」
稲葉刑事は頷き、俺の説明を手元の資料と照らし合わせていた。
事前の資料で読んでいても、本人の口から聞くと印象は違うのだろう。必死に平静を装っているが、左の頬がわずかに引きつっている。
「……分かりました。では、その直後、日本刀で斬りかかられた件についてですが」
「ああ、それです。今言った通り、俺は右手に二発、左手に二発の銃弾を握り込んでいて、ちょうど両手が塞がっちゃってたんですよ」
「……はい」
「そこへ、大柄な男がすぐ目の前から日本刀を振り下ろしてきたので、手で払う余裕がなくて、もう完全にテンパってしまって……咄嗟に口を開けて、振り下ろされた刀の刃を上下の歯でガッと挟んで受け止めちゃったんです」
「………………」
稲葉刑事が顔を上げ、少し目を細めて俺の口元を見つめた。
「……刀の刃を、歯で受け止めたんですね」
「はい」
「……その後、日本刀はどうなりましたか?」
「相手が刀を引こうとして暴れたので、危ないと思って顎にグッと力を入れたら、バキンって音がして、刃が真ん中から折れて砕け散っちゃいました」
稲葉刑事は手元の現場資料をめくり、折れた日本刀の破片が写った一枚に目を落とした。
鑑識の資料と俺の話を交互に確認するその顔は真剣だった。派手な反応をされるより、かえって俺の方が落ち着かなくなる。
「……鑑識の報告書とも一致します。状況は分かりました」
「はい……。あの、その時は両手が塞がってたので反射的にやっちゃったんですけど、後で考えたらすごく危なかったなと反省してます」
「……ちなみに三上さん、その銃撃や日本刀での襲撃を受けた際のお気持ちとしては、いかがでしたか?」
「お気持ちって、そんなの、めちゃくちゃ怖かったに決まってるじゃないですか!!」
俺は魂の底から訴えた。
「実弾を何発も撃たれて、本物の日本刀で斬りつけられて、怖くない人間なんていませんよ! 膝はずっとガクガク震えてましたし、もう本当に生きた心地がしなくて、半泣きになりながら必死だったんですからね!?」
「……なるほど。当時の心情として『極めて強い恐怖を感じており、生命の危機を覚えた』という点も、供述として明確に記録しておきます」
俺がどれだけ人間離れした物理現象を起こしたかという結果だけでなく、「撃たれて斬りつけられて本気で怖かった」という俺の被害者としての切実な心情まで、稲葉刑事は笑わずにきちんと言葉として拾い上げてくれた。それだけで、俺はなんだかすごく救われたような気持ちになった。
*
午後三時。
時計の針が回り、面談室の空気が少しだけ重く引き締まった。
ここからが、今回の事情聴取における一番の核心――俺が十八人の男たちを負傷させたことについての確認だ。
「三上さん。ここからは、あなたが包囲していた相手側の構成員十八名に対して反撃し、全員を負傷・行動不能にさせた経緯についてお聞きします」
「……はい」
俺も背筋を伸ばし、膝の上で両手を揃えた。
「日本刀が折れた後、三上さんは周囲の男たちを素手で殴打する、あるいは蹴るなどして制圧されましたね。その際、ご自身としてはどの程度の力を込めて攻撃された記憶がありますか?」
「……正直に言いますと、最初の数人を殴ったり蹴ったりした時は、どれくらいの力を込めたかほとんど覚えていないんです。このままじゃ殺されると思って、とにかく自分の周りから相手を遠ざけるのに無我夢中でしたから」
「なるほど。では、最初から最後まで全力で攻撃を続けられたのですか?」
「いえ、違います。何人か吹き飛ばしたところで、『あっ、俺の今の力でこのまま普通に殴り続けたら、相手が死んでしまうかもしれない』と気がつきまして。そこから先は、絶対に相手を殺さないようにと思って、自分なりに必死に力を抑えるようにしたんです」
俺はそこで一度言葉を飲み込み、昨日の倉庫で大庭さんから言われた言葉を思い出しながら、苦い気持ちで続けた。
「……ただ、稲葉さん。俺、当時はそれが手加減だと思ってやったことだったんですけど、実はすごく危険なことをしてしまっていたんです」
「……危険なこと、と言いますと?」
「はい。殴ったり蹴ったりすると骨が折れちゃうと思ったので、途中からは相手の後ろに回り込んで、後頭部を片手で掴んで、自分では軽く揺さぶったつもりだったんです。そうしたら、殴らなくてもみんなその場で気を失って倒れてくれたので、当時の俺は『これなら大怪我をさせずに安全に眠らせられた』と勘違いしていました」
稲葉刑事はペンを止め、俺の言葉を真剣な眼差しで聞いている。
「でも昨日、会社で武道の経験がある方から護身術の基礎を教わった時に、初めて知ったんです。頭を揺さぶって無理やり意識を失わせるなんて、脳や首に重大な損傷を与えかねない、非常に危険な方法なんだって……」
俺は自分の両手を見下ろし、声のトーンを落として言った。
「俺、格闘技の知識も何もない素人のくせに、力だけ強くなっちゃったせいで、そんな当たり前の危険性すら知らずにあんな真似をしてしまいました。結果的に誰も亡くならなかったからよかったものの、手加減したつもりで、相手の命を奪いかねないすごく危ないことをしていたんだと、今は本当に深く反省しています」
俺が自分の無知と過ちを隠さずに語ると、面談室にはしばらく静かな沈黙が流れた。
稲葉刑事は俺を頭ごなしに叱りつけることも、逆に「悪党なんだから気にするな」と軽く流すこともせず、公平で落ち着いた声で口を開いた。
「三上さん。まず捜査上の事実として、相手側があなたを狭い敷地に閉じ込め、実弾の装填された拳銃を発砲し、日本刀や鉄パイプで生命を脅かす攻撃を加えてきたことは、現場の鑑識結果からも相手の供述からも明らかな事実です。ご自身の命と人質の命を守るために、何らかの排除行動を取らざるを得なかったという状況は、法的に極めて重要な事情として考慮されます」
「……はい」
「その上で、実際に十八名の負傷者が出ている以上、三上さんが当時どのような認識で、どのような行動を取られたのかを正確に記録する必要があります。今お話しいただいた『殺傷を避けるために力を抑えようとしたが、知識不足から結果として頭部への危険な行動を選択してしまった、現在はその危険性を認識し反省している』という点は、何ひとつ飾らずにそのまま調書に記載いたします」
「はい、それでお願いします。あの時は本当に、小野寺君を助けることと、自分がまた撃たれないように相手を止めることで頭がいっぱいだったんです。でも、俺がやったことで相手に怪我をさせたのは事実ですから、そこをごまかすつもりはありません」
俺が真っ直ぐに頷くと、稲葉刑事は少しだけ表情を和らげ、最後に一つ質問を投げかけた。
「三上さん。もし仮に、今後また同じような危険な状況に遭遇したとしたら、あなたはどうしたいですか?」
「そんなの、二度と起きてほしくないに決まってますよ! 俺、もう一生、拳銃なんて向けられたくないですから!」
俺が心の底から叫ぶように即答すると、稲葉刑事は思わず目を丸くした。
俺は少し息を整えてから、真面目な顔で付け加えた。
「……でも、もし本当にどうしようもない事情で、また誰かが危ない目に遭っている場面に出くわしてしまったら……今度はパニックになって無茶苦茶に手を出すんじゃなくて、昨日教わったみたいに、まずは一呼吸置いて周りの状況をちゃんと見たいです。そして、相手を殴ったり傷つけたりせずに、安全にその場から逃げる方法を選びたいと思っています」
昨日の大庭さんの講習で学んだ、俺なりの誠実な答えだった。
稲葉刑事は俺の言葉を聞いて、深く納得したように静かに頷いたのだった。
*
午後三時半。
事件当日の核心部分の聴取が一通り終わると、稲葉刑事はボールペンを一度テーブルに置き、少し肩の力を抜いたようなトーンで口を開いた。
「……ところで三上さん。事件の経緯とは少し離れるのですが、いくつか確認させてください」
「あ、はい。なんでしょう?」
「あなたが現在働いておられる株式会社汐見総合管理ですが、警察の把握している情報では、指定暴力団・鷲尾会傘下の三次団体である『榊原一家』と極めて密接な関係にある企業です。この点についてはご存知ですね?」
「……うっ。はい、まあ、最初は知らずに応募したんですけど、働いているうちに、そういう組織の関連会社なんだなっていうのは分かりました」
「その上で、三上さんご自身は、榊原一家の正式な構成員――いわゆる組員ではない、と」
「違います、絶対に違います! 何回も言いますけど、俺はただ大手の派遣会社から紹介されて、期間契約で働きに来てるだけの一般の派遣社員ですから!」
俺が必死になって否定すると、稲葉刑事は不思議そうに首を傾げた。
「……失礼ですが、三上さん。今日お聞きしたお話を総合すると、あなたは至近距離からの銃弾を素手で掴み取り、日本刀を歯で砕き、武装した十八名の構成員を単独で無傷のまま制圧できるほどの、規格外の異能をお持ちです」
「え、ええ、まあ、結果的にはそうなっちゃいましたけど……」
「それほどの稀有な能力をお持ちの方が、なぜ暴力団の関係企業で、しかも実働の用心棒ではなく、一介の派遣社員として働いておられるのですか? 普段は具体的に、社内でどのような業務を?」
稲葉刑事のその純粋極まりない疑問に、俺は「おっ、やっと俺の本業の話になったぞ!」とばかりにパッと顔を輝かせた。
「普段の業務ですか!? 普段は本当に普通の不動産管理の営業事務ですよ! 例えば先週の金曜日なんかは、管理している賃貸物件の先月分の管理費の入金集計をやってまして!」
「……管理費の、入金集計」
「はい! 銀行の振込明細と物件リストをエクセルの関数を使って照合して、入金済みの部屋をチェックした上で、未入金になってるお部屋だけを別シートに一覧で抽出してまとめたんです! あと、昨日と今日は来月更新を迎える入居者様の契約更新書類のチェックを進めてまして、火災保険の更新時期と保証会社の審査ステータスが重なってるお部屋に書類の不備がないか、一件ずつ確認してるんですよ!」
俺が日頃の業務内容について生き生きと具体的に語り始めると、稲葉刑事は目を白黒させ、なんだか宇宙人とでも会話しているかのような困惑した表情になった。
「……あの、三上さん。つまりあなたは、それだけの強力な異能を持ちながら、毎日オフィスでパソコンに向かってエクセルで表を作っておられるのですか?」
「そうですけど、何かおかしいですか!? 立派な事務のお仕事ですよ!?」
「いえ、事務の仕事が立派なのは重々承知していますが……なぜわざわざ、そのような特殊な環境の会社で派遣社員を?」
「だって稲葉さん、あそこ、事務職なのに『時給二千五百円』も出るんですよ!?」
俺が身を乗り出して力説すると、稲葉刑事は「……二千五百円」とオウム返しに呟いて固まった。
「しかも残業はほとんどなくて毎日十八時の定時で帰れますし、前職での営業事務の経験もそのまま活かせますし、事務の森田さんも若頭の黒瀬さんも、俺のエクセルの仕事をすごく高く評価して感謝してくれるんです! 先々週の事件みたいなイレギュラーさえなければ、待遇も人間関係も最高にホワイトな優良職場なんですよ! なんでそんな不思議そうな顔をするんですか!?」
「…………いえ、失礼しました。三上さんにとって、現在の営業事務のお仕事と時給二千五百円の生活が、何よりも大切であるということは……痛いほどよく分かりました」
稲葉刑事はこめかみのあたりを指で押さえながら、今日初めて見るような、なんとも言えない脱力した苦笑いを浮かべた。
警察官である稲葉さんからすれば、俺が極道の親分に向いているかなんて関係ない。けれど少なくとも、俺が本気で時給二千五百円のエクセル作業を大切にしていることだけは、理解してもらえたようだった。
*
午後四時頃。
二時間以上にわたる聞き取りがすべて終了し、稲葉刑事はパソコンで打ち込んでまとめた数枚の『供述調書』をプリンターから出力して、俺の前へと差し出した。
「では三上さん。本日お話しいただいた内容をこちらの供述調書にまとめました。内容に事実と異なる点や、ご自身の意図と違う表現がないか、最初から最後まで目を通して確認していただけますか。問題がなければ、最後に署名と指印をお願いします」
「あ、はい! 内容のチェックですね、分かりました!」
差し出された数枚の紙の束を受け取った瞬間、俺の背筋がシャキッと伸び、目つきが完全に『業務モードの営業事務員』へと切り替わった。
公的な提出書類の最終校正とダブルチェック。これこそ、俺が過去十年間で何千回とこなしてきた、一番得意で一番好きな作業ではないか。
俺は調書の一行目から、誤字脱字や時系列のズレがないか、指で文字を追いながら舐めるように丁寧に読み込み始めた。
一ページ目は問題なし。だが、二ページ目の中盤に差し掛かったところで、俺の指がピタリと止まった。
「……あの、稲葉さん。すみません、ここの二ページ目の十一行目の記述なんですけど、少しよろしいでしょうか」
「はい? どの部分でしょう」
「ここです。『相手側から午後八時に指定された湾岸の倉庫へ向かい、同時刻頃、現地へ到着した』って書いてあるんですけど……さっき口頭でお話しした通り、相手が指定してきた時刻は『午後八時』ですが、俺が実際に現地の敷地に到着した時刻は『午後七時四十分頃』なんです」
俺が紙面を指し示すと、稲葉刑事が身を乗り出して該当箇所を確認した。
「ああ、なるほど。二十分ほどの差がありますね」
「はい。『同時刻頃に到着した』っていう書き方だと、俺が八時ちょうどに着いたように読めてしまいます。後から防犯カメラの映像とかスマホの位置情報の記録と照合した時に、二十分もズレがあると辻褄が合わなくなって困ると思うので、『指定時刻は午後八時であったが、実際には午後七時四十分頃に現地へ到着した』って、指定時刻と到着時刻を明確に分けて記載していただいた方が正確だと思います!」
「……おっしゃる通りです。時刻の整合性は極めて重要ですので、すぐに分けて修正いたします」
稲葉刑事が感心したように頷いて赤ペンで修正を入れる。
俺はさらにページをめくり、三ページ目の動機に関する記述のところで再び手を止めた。
「あと、こちらの三ページ目の四行目なんですけど……『人質となった同僚を救出するため、単独で現場へ赴いた』という表現になってますよね」
「ええ。三上さんが現場へ向かわれた経緯を、簡潔にまとめた箇所ですね」
「いや、ここにもう少し事情を足していただけませんか!? これだけだと、俺が最初から一人で乗り込む気満々だったランボーみたいに読めちゃうじゃないですか!」
俺は必死に訂正を求めた。
「さっき説明した通り、最初は警察への通報を希望したけど、人質の命を盾に脅されて断念したんです。それで、後から援軍が来るという約束を頼りに現場へ向かいました。最初から一人で全員を制圧するつもりだったわけじゃないので、その経緯も書いておいていただきたいんです!」
「……おっしゃる通りです。そこは簡潔にまとめすぎましたね。警察への通報を希望したことと援軍の約束も、分かるように補いましょう」
俺はその後も、四ページ目、五ページ目と目を皿のようにして読み込み、「ここの『拳銃数丁』のところは、俺が直接目で見て発砲を確認したのは『少なくとも三人の男が持っていた拳銃』です」「ここの負傷させた順序も、打撃が先で、頭を揺さぶったのが後半です」と、自分の記憶にある事実と一ミリでも違う曖昧な表現を次々と洗い出していった。
別に稲葉刑事の仕事が雑だったわけではない。むしろ非常に綺麗にまとまった文章だったのだが、契約書や報告書の小さな表現のズレが後で大きなクレームやトラブルに発展するのを何度も見てきた元営業事務の俺としては、自分がサインする重大な公文書に、少しでも曖昧な点を残しておくわけにはいかなかったのだ。
「すみません、なんだか細かいことばかりいくつも注文をつけちゃいまして……。でも、こういう大事な書類って、一度署名して提出しちゃうと、後から『実は違いました』って訂正するのが一番大変になりますからね。最初の段階でちゃんと事実通りに直しておきたいんです」
「いえ、まったく問題ありません。むしろ、これほど正確に記憶を辿って文言を確認していただけると、捜査資料としての精度が高まりますので、こちらとしても非常に助かります」
すべての修正箇所を反映して再印刷された調書をもう一度最初からチェックし、今度こそ一点の曇りもないことを確認した俺は、「よし、完璧です!」と満足そうに頷いて、ようやく最後のページに署名と指印を押した。
すると、受け取った調書をファイルに綴じながら、稲葉刑事が俺の顔を見て、なんだか本当に呆れたような、それでいて感心したような声で言った。
「……三上さん。あなたは普段の会社のお仕事でも、いつもこれほど細かく書類のチェックをされているのですか?」
「え? もちろんですよ!!」
俺は今日一番の明るい笑顔で、ドンと胸を張った。
「だって俺、元営業マンで営業事務のベテランですから! 契約書の日付の間違いとか、見積書の条件の書き漏らしを事前に見つけて潰すのが、俺の本業みたいなものですからね!」
「……ふっ、ははは。なるほど、それは頼もしいですね。汐見総合管理の方々が、あなたの事務能力を重宝される理由がよく分かりました」
先ほどまで銃弾を掴んだ話や刀を噛み砕いた話をしていた時は眉間の皺が消えなかった稲葉刑事が、この時ばかりは声を立てて穏やかに笑ってくれた。
(……おおっ! 警察の刑事さんにまで、俺の書類チェックの正確さを褒めてもらえたぞ!)
俺は、なんだか今日の事情聴取で一番誇らしい達成感を覚えながら、えへへと照れ笑いを浮かべたのだった。
*
午後四時四十五分。
すべての手続きを終えた俺は、「本日は長時間ありがとうございました。また追加で確認したい点が出てきた際にはご連絡させていただきます」という稲葉刑事の丁寧な見送りを受けて、面談室を後にした。
「あ、あの、稲葉さん。念のため最後にもう一度だけ確認なんですけど……俺、今日はこのまま普通に家に帰っていいんですよね?」
「ええ、もちろんです。気をつけてお帰りください」
「……よかったあああ……! 本当にありがとうございました、失礼いたします!」
俺は深々と一礼し、控え室で待っていてくれた高瀬弁護士と合流して、一緒に警察署の正面玄関から外へと出た。
夕暮れ時の冷たく澄んだ秋の空気が、火照った頬に心地よく当たる。
俺は警察署の敷地を出たところで立ち止まり、肺の中の空気を全部入れ替えるように、大きく深呼吸をした。
「……ふううううっ。やっと終わった……。外の空気がこんなに美味しいなんて思わなかったですよ、高瀬先生」
「お疲れさまでした、三上さん。三時間近くかかりましたから、精神的にもかなりお疲れになったでしょう」
「ええ、もう、一日中エクセルで何千行もデータ入力をするより十倍くらい疲れましたよ……。あの、先生、今日ちゃんと全部正直に話してきましたけど、これで俺が正当防衛だったってすぐに決まるわけじゃないんですよね?」
「そうですね。相手側十八名の取り調べや、背後の組織関係の捜査もまだ続いておりますし、最終的な検察の判断が出るまでにはもうしばらく時間がかかります。ですが、今日の段階で三上さんが一貫して誠実に、かつ極めて正確に事実を説明されたことは、今後の手続きでも大切になると思いますよ。まずはご安心ください」
「ありがとうございます! 先生が事前に一緒に整理してくれたおかげで、落ち着いて全部話せました!」
俺は高瀬弁護士に改めて深く頭を下げて礼を言い、駅へと向かう彼と別れた。
一人になった夕暮れの歩道で、ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面には黒瀬からのメッセージが届いていた。
『三上さん。本日の警察での事情確認は、無事に終了いたしましたでしょうか。何か問題やご不安な点がございましたら、いつでもご連絡ください』
相変わらず気遣いの行き届いたホワイト上司っぷりだ。
俺は歩道の端に寄って立ち止まり、指を動かして返信を打った。
『おかげさまで、今無事に終わって警察署を出たところです。高瀬先生にも付き添っていただき、当時の状況を正確に説明できました。明日の金曜日からはまた通常通り出勤して事務作業を進めますので、よろしくお願いいたします』
送信ボタンを押すと、なんだか肩の上に乗っていた重たい鉛の塊が、ゴロンと音を立てて転がり落ちたような解放感が押し寄せてきた。
明日は金曜日。もう来客の予定もないし、警察の呼び出しもない。明日は朝から晩まで、あの居心地のいい事務所の自分のデスクに座って、森田さんと世間話をしながら、心置きなく契約更新のエクセルと格闘できるのだ。
(……ああ、楽しみだなあ。やっぱり俺、荒っぽい事件なんかより、静かに書類を整理してる方が百倍性に合ってるよ)
スマホをポケットにしまいながら、俺は今日一日の警察署でのやり取りを頭の中で振り返った。
組織犯罪対策課の刑事さんを前にして、拳銃で撃たれた話をした。
飛んでくる実弾を素手で四発掴み取った話もした。
日本刀を歯で受け止めて噛み砕いた話も、十八人のヤクザを殴って病院送りにした話もした。
どれもこれも、アクション映画の主人公みたいな、とんでもなくド派手で非日常的な超人エピソードばかりだ。
それなのに、今日三時間近くあの面談室にいて、俺の胸が一番ワクワクと高鳴り、「よし、いい仕事をしたぞ!」と誇らしい達成感に満たされた瞬間はいつだったかと言えば。
間違いなく、最後の最後に供述調書の紙束を渡されて、到着時刻の二十分のズレや文脈の曖昧さを自分の目で見つけ出し、稲葉刑事から「普段もこうして細かく書類を確認されるのですか、頼もしいですね」と事務処理能力を褒められた、あの瞬間だったのだ。
「……ああ。やっぱり俺、根っからの営業事務なんだなあ」
俺は夕焼けに染まる街並みを見上げながら、しみじみとそう呟いた。
そして、その自分のあまりにも小市民すぎる感性に、一拍遅れて気づき、誰もいない歩道の真ん中でガシッと自分の頭を抱え込んだ。
「……って、いや待てよ!! 俺は今日、警察の刑事さんに『銃弾を素手で四発掴んで日本刀を歯で砕いた話』をしてきたんだぞ!? なんでそんな超人みたいな武勇伝を語ってもこれっぽっちも嬉しくなかったくせに、供述調書の記載ミスを見つけて直したことには、こんなに仕事の達成感を感じて喜んでるんだよ俺えええええっ!?」
自分の救いようのない社畜根性と事務員気質に対するセルフツッコミが、夕暮れの風に吹かれて虚しく消えていく。
それでも、俺は少しだけ軽くなった頬を緩めて苦笑すると、「まあ、それが俺らしいってことか」と小さく頷き、明日からの平穏なデスクワークを夢見ながら、家路へと向かって歩き出すのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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