派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる ~歴代親分の異能を継いだ俺、最強のヤクザになるらしい~ 作:パラレル・ゲーマー
金曜日の午前九時。
株式会社汐見総合管理の自分のデスクで、俺――三上悠介は、パソコンの画面に映し出された契約更新リストを眺めながら、じんわりと胸に広がる平穏の喜びを噛み締めていた。
昨日の午後は、管轄の警察署へ出向いて三時間近くに及ぶ任意の事情聴取を受けてきた。
行く前は生きた心地がしなかったものの、担当の稲葉刑事はこちらの話を頭ごなしに否定することなく、俺が小野寺君を助けるためにやむを得ず現場へ向かった経緯や、実弾を撃たれて恐怖を感じたこと、そして結果として十八人に怪我を負わせてしまったことへの反省まで、すべて正確に調書へと記録してくれた。
まだ事件全体の捜査が終わったわけではないが、少なくとも今日、俺が警察署に呼び出されることはない。
(……ああ、やっぱりいいなあ。誰にも銃を向けられず、警察の取調室にも座らず、自分のデスクで普通にエクセルを開いて仕事をする。これこそ俺が求めていた真っ当な社会人生活だよ!)
俺はマウスを握り直し、昨日中断していた火災保険の更新データの照合作業を再開した。
「三上さん、おはようございます。昨日は……その、色々とお疲れさまでした。お身体の具合や、お気持ちの方は大丈夫ですか?」
向かいのデスクから、事務の森田さんが少し気遣うような優しい声で話しかけてくれた。
俺は顔を上げ、彼女を安心させるように明るく微笑み返した。
「おはようございます、森田さん。はい、おかげさまで昨日の手続きも無事に終わりましたから、もう全然大丈夫ですよ!」
「そうでしたか、それを聞いて安心しました。では、今日は残っている来月分の契約更新書類の確認を引き続きお願いできますか?」
「はい! 任せてください、今日中にきっちり片付けておきます!」
森田さんはそれ以上昨日の事情を深く詮索することなく、いつもの穏やかな笑顔で頷いてくれた。
この変わらぬ日常のやり取りが、どれほど俺の精神を落ち着かせてくれることか。
今週は月曜日から木曜日まで、古い記録の調査だの、倉庫での護身術の講習だの、弁護士との打ち合わせに警察での事情聴取だのと、本来の事務作業以外の予定が次から次へと割り込んできた。だからこそ、週末を目前に控えた今日くらいは、定時の十八時まで一歩もこの椅子から動かずに書類とだけ向き合っていたかった。
カチャカチャと軽快にキーボードを叩き、順調にチェック欄を埋めていくこと一時間あまり。
時計の針が午前十時を少し回った頃、電話を終えた森田さんが手元のメモを見ながら俺のデスクへと声をかけてきた。
「あ、三上さん。すみません、今日の午後のご予定なんですけど、少しお時間をいただいても大丈夫でしょうか?」
俺の指がピタリと止まった。
(……え? また午後に予定!? いやいや、もう今週のイレギュラーなイベントは全部終わったはずじゃ……!)
一瞬だけ身構えた俺だったが、続く森田さんの言葉を聞いて、目をパチクリと瞬かせた。
「さきほど、三上さんの派遣元の会社からご連絡がありまして。担当の相原様という方が、本日の午後に定期面談でこちらへお見えになるそうなんです」
「……え? 派遣会社の、相原さんがですか?」
「ええ。三上さんがこちらでお仕事を始められてから、ちょうど一ヶ月ほど経ちましたでしょう? 普段のお仕事ぶりはどうか、何か職場で困っていることはないか、一度直接お会いしてお話を伺いたいとのことでした」
相原美咲さん。
俺が再就職活動に行き詰まって今の大手人材派遣会社に登録した際、最初の面談からこの『株式会社汐見総合管理』の求人紹介まで、メールや電話でずっと窓口になってくれていた営業兼スタッフフォロー担当の女性だ。
(……おおおっ!! 派遣会社の担当者さんとの定期面談!!)
俺の顔が、見る見るうちにパッと明るく輝いた。
これだよ、これ!
ヤクザの直参幹部との面会でもなければ、裏社会の密輸女王の来訪でもなく、政府の秘匿機関による能力検査でもない。派遣社員が就業先で一ヶ月働いたタイミングで行われる、百パーセント混じりけなしの『普通の会社員らしいイベント』じゃないか!
「もちろん大丈夫ですよ、森田さん! それで、相原さんは何時頃にいらっしゃるんですか?」
「午後一時半にお見えになるお約束になっています。応接スペースを空けておきますね」
「分かりました、ありがとうございます!」
俺は心の中で小さくガッツポーズをした。
これだけ良い条件の職場を紹介してくれた相原さんには、直接会ったらちゃんとお礼を言わなければならない。時給二千五百円という破格の待遇に、残業ほぼなしのホワイトな環境、そして森田さんをはじめとする職場の皆さんの親切さ。どれだけ自分が満足して快適に働けているかを伝えれば、担当者である相原さんもきっと安心して喜んでくれるはずだ。
俺はすっかり上機嫌になり、鼻歌でも歌い出しそうな軽い気分で午前中の作業へと戻った。
――ただ、この時の俺は、自分のここ最近の「勤務記録」が、一般企業の営業担当者である相原さんの目にどう映っているのかについて、これっぽっちも思い至っていなかったのである。
*
午後一時半ちょうど。
昼休みを終えて俺がデスクで午後の作業を始めたところで、事務所の入り口のガラス扉が開き、控えめなセンサー音が鳴った。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、相原様ですね?」
「はい、いつも大変お世話になっております。相原と申します。本日はお忙しい中お時間をいただき、ありがとうございます」
森田さんに出迎えられてフロアへと入ってきたのは、ダークブラウンの髪を肩にかからない程度のボブにすっきりと整えた、三十代前半くらいの女性だった。
シワひとつない紺色のビジネススーツに身を包み、手には資料の入った薄い革のビジネスバッグを携えている。背筋が綺麗に伸びた立ち居振る舞いや、名刺を差し出す洗練された所作は、どこからどう見ても「都会のオフィスビルで働く優秀な営業ウーマン」そのものだった。
(……うわあ、本物の普通の会社員だ……! 最近この事務所にやってくる来客といえば、後ろに黒服を連れた大親分か、空間移動するお嬢様か、異能測定器を持った政府の人ばっかりだったから、こういう普通のビジネスパーソンを見ると実家に帰ってきたみたいに安心するなあ!)
俺が感動しながら席を立って歩み寄ると、相原さんも俺の姿に気づいて、パッと人当たりの良い明るい笑顔を向けてくれた。
「三上さん、ご無沙汰しております。相原です。お元気そうで何よりです」
「あ、相原さん! 登録面談の時以来ですね、いつもメールやお電話でお世話になっております!」
俺は元営業マンらしく、背筋を伸ばして綺麗な角度で一礼した。
「こちらこそ、毎月の勤怠入力などもいつも期日通りに正確に出していただいて助かっております。本日は就業開始から一ヶ月が経ちましたので、現在の職場環境や業務内容について、直接お話を伺えればと思いまして」
「はい! ぜひよろしくお願いします!」
俺がハキハキと答えると、相原さんは「では……」と言いかけて、ふと俺の背後――事務室のフロア全体へと視線を巡らせた。
その瞬間、相原さんの営業スマイルが、ほんの一瞬だけピクリと固まった。
フロアの奥の席には、黒いスーツを着込んだ大柄な男たちが何人も座っている。
しかも、俺と相原さんが応接スペースへ向かって歩き出すと、近くにいた短髪にピアスの若者――小野寺と、頬から顎にかけて古い刃物の傷跡がある身長百八十センチ超えの巨漢――大庭さんが、二人揃って弾かれたように椅子から立ち上がり、俺に向かってビシッと背筋を伸ばして頭を下げたのだ。
「三上さん、お疲れさまですっ!」
「三上さん、ご面談、どうぞごゆっくりなさってください」
「あ、うん、ありがとう二人とも。お構いなく仕事続けててね」
俺としては、いつもの日常風景として何気なく手を挙げて応じただけだった。
だが、隣を歩いていた相原さんは、目をパチパチと瞬かせながら、俺とあの強面二人の顔を交互に見比べている。
(……あれ? 相原さん、ちょっと困惑してないか? まあ、強面の二人が派遣社員の俺に揃って頭を下げたら驚くよな。……いや、いつもの光景だからすっかり感覚が麻痺してたけど!)
相原さんの戸惑いには気づいたものの、何と説明すればいいのか分からず、俺は森田さんが用意してくれたパーテーション奥の応接スペースへと彼女を案内した。
「では三上さん、まずは派遣元のフォロー面談として、お一人でお話を伺わせていただきますね」
企業の担当者が同席していると派遣スタッフが本音を言いづらくなるため、最初は一対一で話すのが派遣会社のルールだ。森田さんがお茶を置いて席を外すと、俺と相原さんはテーブルを挟んで向かい合って腰を下ろした。
*
「それでは三上さん、まずは現在担当されているお仕事の内容について確認させてください」
相原さんはビジネスバッグからバインダーを取り出し、あらかじめ印刷されたヒアリングシートに目を落としながら穏やかに切り出した。
「最初にご紹介した際の求人票では『不動産管理に関わる一般事務および営業事務』となっておりましたが、実際に入ってみて、事前の説明と異なる業務を任されたり、聞いていなかった雑務を押し付けられたりといったことはありませんか?」
「ええ、全くありませんよ!」
俺は一秒の迷いもなく、満面の笑みで大きく頷いた。
「普段やっているのは、管理している賃貸マンションや駐車場の家賃の入金照合とか、来月更新を迎える入居者様の契約更新書類のチェック、あとは建物の修繕に関する工務店さんへの見積もり依頼なんかがメインです。どれも前の会社で十年間ずっとやってきた業務とほぼ同じですし、エクセルのスキルもそのまま活かせるので、本当にやりがいがあって働きやすいです!」
「なるほど、ご自身のこれまでのキャリアがしっかり活かせているのですね。それはよかったです」
相原さんは安心したように頷き、シートの項目にペンでチェックを入れていく。
「では、勤務時間や残業についてはいかがですか? 求人条件では九時から十八時までの勤務で、残業は月十時間以下となっておりましたが」
「そこも完璧です! 残業なんて一ヶ月で合計しても一時間もしてないんじゃないですかね。毎日十八時ちょうどになると、責任者の黒瀬さんや事務の森田さんが『三上さん、もう定時ですから上がってくださいね』ってわざわざ声をかけてくれるんですよ。土日祝日の休日出勤も一度もありません」
「まあ、毎日定時退社ですか。それは素晴らしいですね。職場の皆様との人間関係も良好そうですし」
「はい! 森田さんはいつも優しくお茶を淹れてくれますし、黒瀬さんは俺の作ったエクセルの表をすごく褒めてくれますし、若い小野寺君たちも俺のことをすごく慕ってくれて、重い荷物があるとすぐに飛んできて手伝ってくれるんです!」
俺が身の回りの環境をベタ褒めすると、相原さんも釣られたように微笑み、「給与条件についても、当初の契約通り時給二千五百円での支給で間違いありませんね?」と尋ねてきた。
「もちろんです! いやあ相原さん、改めて本当にありがとうございました! 都内の事務職とはいえ、時給二千五百円なんて破格の求人、他に絶対ないじゃないですか! 前の会社で主任をやってた頃より手取りが増えそうなくらいで、この職場を紹介してくれた相原さんには、足を向けて寝られないですよ!」
「ふふ、そんなに喜んでいただけて、紹介した私としても営業冥利に尽きます」
ヒアリングシートの『業務内容』『労働時間』『職場環境』『給与条件』『本人の継続意欲』のすべての欄に、文句なしの二重丸が並んだ。
普通の定期面談であれば、「では、これからも引き続き頑張ってくださいね!」と和やかに雑談をして、五分もかからずに終了するはずの完璧な回答内容だ。
しかし。
相原さんはそこでペンを止めると、バインダーのヒアリングシートの下に挟んであった『別の書類』――俺の直近数週間の勤怠変更および派遣先からの連絡履歴が印字されたペーパーを引き抜き、先ほどまでの柔らかい笑顔から一転して、少しだけ真剣な表情へと切り替えた。
「……ありがとうございます、三上さん。三上さんがこの職場を本当に気に入っていらっしゃるのは、よく分かりました。……その上で、派遣元の担当者として、どうしてもあと何点か詳しく確認させていただきたいことがあるんです」
「……え? なんでしょう?」
俺はきょとんとして首を傾げた。
*
「実はですね、三上さん。こちらの黒瀬様から弊社へ届いている直近の勤務変更のご連絡記録を見ますと……この数週間の間に、通常のデスクでの事務業務とは少し毛色の違うご予定が、立て続けに何件か入っておりまして」
「……あっ」
相原さんの指摘に、俺は思わず小さく声を漏らした。
「まず先々週の月曜日と先週の木曜日に、通常業務から外れて『外部の公的機関の担当者との面談および確認作業』というお時間が取られていますよね。さらに今週の火曜日の午後には『社内の安全衛生研修の受講』、そして昨日の木曜日の午後には『業務に関連するトラブルについての公的機関への事情説明』という名目で、それぞれ半日ほどの勤務調整が行われています」
相原さんは書類から顔を上げ、心配そうに眉を寄せて俺の目を見つめた。
「もちろん、すべて黒瀬様の方から事前に弊社へ丁寧なご連絡をいただいておりますし、三上さんのお給料が減額されないよう派遣先負担での特別有給扱いなどの手配もきちんとなされています。ですが……一般の営業事務のスタッフの方が、この短い期間にこれほど頻繁に安全研修を受けたり、公的機関へ出向いたりするというのは、正直に申し上げてあまり例がないことなのです」
「……あー、いや、それはですね……」
「三上さん。差し支えない範囲で構いませんので、これらの予定が具体的にどういったご事情だったのか、三上さんご自身の口からお聞かせ願えませんか?」
俺は背中からじわりと冷や汗が滲み出るのを感じた。
当然だが、一般企業の会社員である相原さんに『江戸時代の盃が光ってTier3の超能力者になったので、八咫烏という政府の秘密機関に測定されました』などと本当のことを言えるはずがない。そこは組の最高機密であり、国家機密でもある。
俺は嘘をつかない範囲で、なんとか一般社会の言葉に翻訳して説明を試みた。
「えーっとですね、まず今週の火曜日の午後に受けた安全研修なんですけど……これは、その、外回りや業務中に万が一危ない人に絡まれたりした時のために、自分の身の守り方を勉強する講習だったんです」
「身の守り方、ですか? 防犯ブザーの使い方や、避難経路の確認のようなものでしょうか」
「ええと、まあそれに近いんですけど……会社の倉庫にマットを敷いて、人型のダミー人形を何体も置いて、危険な相手から接触せずに距離を取ったり、周りの通行人にぶつからないように安全なルートへ移動したりする実技練習を、大庭さんっていう柔道経験者の社員の方に指導していただきまして……」
ピタリ、と。
メモを取ろうとしていた相原さんのボールペンが、空中で止まった。
「……ええと、三上さん。人型のダミー人形を置いて、危険な相手から逃げる実技練習、ですか?」
「はい! 赤いテープを貼った人形を凶器を持った敵に見立てて、青いテープの人形を一般の通行人に見立てて、合図が出たらぶつからないように走り抜ける練習をみっちり三時間ほど!」
「…………不動産管理会社の、営業事務の安全研修で、ですか?」
「はい!!」
俺が元気よく頷くと、相原さんは丁寧な営業スマイルを顔に貼り付けたまま、数秒間だけ完全にフリーズした。
「……ちなみに、その人型ダミーを使った個別訓練は、事務の森田様など他の従業員の方々も定期的に受講されているものなのでしょうか?」
「あ、いえ、今回は特に俺向けに用意してくださった個別カリキュラムみたいですね!」
「……三上さん専用の、個別訓練だったのですね……」
相原さんの瞳の奥にある不安の色が、一段と濃くなったのが分かった。
さらに彼女は、恐る恐るといった様子で次の質問を続けた。
「……では、昨日の木曜日の午後、公的機関へ事情説明に行かれたというのは、どちらの機関へ行かれたのでしょうか? 労働基準監督署や税務署などですか?」
「あ、いえ! 昨日は警察署に行ってきました!」
「……け、警察署!?」
相原さんが思わず声を上げ、バインダーを握る手にグッと力を込めた。
俺は慌てて両手を振って補足した。
「あ、警察署といっても、俺が何か悪い犯罪をしたとかじゃないんですよ!? 先々週、うちの若い社員の小野寺君が外回り中にちょっとしたトラブル……というか事件に巻き込まれまして、それを迎えに行った俺も現場に居合わせたものですから、目撃者というか当事者として、当時の状況を刑事さんに説明しに行ってきただけなんです!」
「じ、事件に巻き込まれたって……! 三上さん、お怪我はなかったのですか!? 一体どんなトラブルに……」
「はい、俺の身体はかすり傷ひとつなくピンピンしてます! 会社の方で高瀬先生っていうすごく優秀な弁護士さんも手配して付き添ってくれましたし、昨日の事情聴取もすごく穏やかに終わりましたから、そこはもう全然心配いらないんです!」
俺としては「だからもう大丈夫ですよ!」と安心させるつもりで笑顔で説明した。
だが、向かいに座る相原さんは、笑うどころか、どんどん顔色を青くして真剣な表情になっていく。
(……考えてみれば当たり前か。派遣したばかりの事務スタッフが、一ヶ月も経たないうちに警察沙汰の事件に巻き込まれて弁護士付きで事情聴取に行き、会社の倉庫でダミー人形相手に護身術の個別特訓を受けさせられているなんて聞かされたら、まともな派遣会社の担当者なら腰を抜かすよな……!)
「三上さん。詳しい捜査内容などを無理にお話しいただかなくても構いません。ですが、一つだけ正直に教えてください。その事件に関して、現在も三上さんの身の回りに何か危険が残っているようなことはありませんか?」
相原さんの真っ直ぐで誠実な問いかけに、俺は言葉に詰まり、少しだけ視線を落とした。
ここで「百パーセント安全です、何の危険もありません」と嘘をつくことはできなかった。現に、俺が十八人を倒したという噂は裏社会に広まってしまっているし、八咫烏の霧島さんからも「周囲からの関心が高まっているため安全確認が必要だ」と言われたばかりなのだ。
「……正直に言うと、先々週の事件の時は本当に怖かったですし、これからも絶対に何も起きないかって言われると、ちょっと分からない部分はあります」
「……そう、ですか」
「でも、相原さん。だからといって、この会社の人たちが俺を無理やり危ない目に遭わせようとしてるわけじゃないんです。むしろ逆で、黒瀬さんもみんなも、俺をそういう危険から守ろうとして、すごく過保護なくらい気を遣ってくれてるんです。だから、俺としては今のこの職場がすごく気に入ってますし、これからもここで仕事を続けたいと思ってるんですよ」
俺が自分の偽らざる本心を静かに伝えると、相原さんはしばらくの間、俺の顔をじっと見つめて考え込んでいた。
*
午後二時二十分。
相原さんは手元のバインダーを一度パタンと閉じ、テーブルの上で両手を揃えて、とても穏やかで、しかし専門家としての芯の強さを感じさせる口調で語りかけてきた。
「三上さん。三上さんがこちらの職場の方々に大切にされていて、現在のお仕事を心から気に入っていらっしゃることは、今のお話で本当によく伝わりました」
「はい、ありがとうございます」
「ですが、ひとつだけ私の立場からお伝えさせてください。『三上さんご本人が働きやすいと感じていらっしゃること』と、『派遣元である私たちが、スタッフの方が安全に働ける環境かどうかを客観的に確認すること』は、まったく別の問題なのですよ」
「…………あっ」
俺は思わず目を見開いて、相原さんの顔を見返した。
「人材派遣というのは、雇用主である私ども派遣会社が、大切なスタッフの方を派遣先の企業様へお預けする契約です。たとえ時給がどれほど高くても、また派遣先の方がどれほど親切であっても、本来の『営業事務』という契約の範囲を超えて三上さんの身の安全が脅かされるような状況があるのであれば、私たちはそれを見て見ぬふりをするわけにはいきません」
「……相原さん……」
「もちろん、三上さんがここで働き続けたいと望んでおられるのに、私の一存で今日今すぐ契約を打ち切って辞めさせる、といった強引なことはいたしません。ですが、三上さんには『いつでも他の安全な職場へ移る選択肢がある』ということだけは、どうか忘れないでいただきたいのです」
相原さんは優しく微笑みながら、はっきりと言った。
「三上さんは前職での実務経験も豊富ですし、エクセルのスキルも高く、こうして真面目に業務に取り組んでくださる優秀なスタッフさんです。もし今後、少しでも『やっぱりここでの勤務は危ないかもしれない』『事務以外の負担が重すぎる』と感じられた時は、いつでも私に言ってください。その時は、三上さんのご経験を活かせる別の派遣先を、私どもも全力でお探しいたしますから」
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。
俺は半年前、前の会社をリストラ同然で辞めることになり、何十社もの転職試験に落ち続けて、貯金が減っていく恐怖の中でこの派遣会社に辿り着いた。だから俺の心のどこかに、「せっかく見つけたこの高時給の職場を失ったら、またあの真っ暗な無職の日々に逆戻りしてしまう」という無意識の焦りや執着があったのは事実だ。
だが、目の前の相原さんは、今の職場だけが選択肢ではなく、別の道を一緒に探すこともできるのだと、社会人としての退路と安全網を示してくれたのだ。
「……ありがとうございます、相原さん。そう言っていただけると、なんだかすごく肩の荷が下りた気がします」
「いえ、当然のことです。私たちはそのための担当者ですから」
俺は一度深く息を吐き、自分の心の中を改めて見つめ直した。
ほかの職場を探すという選択肢もある。
そう教えてもらった上で、じゃあ今の俺はどうしたいのか。
思い浮かぶのは、いつも笑顔でお茶を淹れてくれる森田さんの姿や、俺の事務作業を正当に評価してくれる黒瀬さん、俺を「親分」と慕って缶コーヒーを買ってきてくれた小野寺君、そして火曜日に真剣に逃げ方を教えてくれた大庭さんの顔だった。
先日、東雲詩織さんと洋食屋で話した時、俺は自分自身の口でこう言ったではないか。『どこへでも行ける自由があるからこそ、自分の好きな場所に自分の意思で留まり続けるのだって、立派な自由だ』と。
「……相原さん。本当にありがたいお話なんですけど、俺、やっぱり今はまだ、この会社で営業事務の仕事を続けたいです」
「……そうですか」
「はい。消去法とか、他に行く場所がないからじゃなくて……せっかく俺の事務の仕事を必要として採用してくれたこの職場で、もう少しみんなと一緒にちゃんと働いてみたいんです」
俺が迷いのない声でそう答えると、相原さんは「……分かりました。三上さんがそこまでおっしゃるのでしたら、そのお気持ちを一番に尊重いたしますね」と、納得したように柔らかく微笑んでくれたのだった。
*
午後二時四十五分。
個別面談を終えた俺と相原さんがパーテーションの外の事務室へと戻ると、自分のデスクで作業をしていた森田さんが顔を上げて立ち上がった。
「相原様、お話は終わりましたか? お茶が冷めてしまったでしょう、今新しいものを淹れますね」
「あ、どうぞお気遣いなく、森田様。本日はお忙しいところお邪魔しております。今、三上さんから、こちらの職場が大変働きやすいとお話を伺っていたところなんですよ」
「まあ、そう言っていただけると私たちも嬉しいです。本当に、三上さんが来てくださってから、私の方が毎日助けられっぱなしなんですよ」
森田さんがにこやかに言うと、相原さんは「差し支えなければ、普段の三上さんの業務ぶりについて、現場の先輩である森田様からも少しお伺いしてよろしいですか?」と尋ねた。
「ええ、もちろんです。三上さんはとにかく書類の整理や数字の確認が正確で早いんです。私たちが今まで電卓を叩いて手作業でやっていた管理費の集計やフォーマットの転記も、エクセルの関数を使ってあっという間に自動化してくださいますし、お願いしたお仕事の意図をすぐに汲み取って進めてくださるので、もううちの事務部門になくてはならない存在ですね」
「まあ、それは素晴らしいですね」
「それに、前職で営業を長くされていたからか、電話応対や外部の業者さん、マンションの入居者様へのご説明も本当に丁寧で腰が低くて。先日も、玄関ドアの不具合でお困りだった女性の入居者様のところへ現地確認に行っていただいたんですけど、後からその入居者様から『三上さんがとても親切に説明してくださったので安心しました』って、わざわざ会社にお礼のお電話までいただいたんですよ」
森田さんが先週の水曜日に対応した長谷川さんの件(『部下の方々にもよろしく』と言われた部分だけは綺麗に省いて)を嬉しそうに紹介してくれる。
俺は横で聞いていて、気恥ずかしさで首筋がむず痒くなりながらも、胸の奥が誇らしさでいっぱいになるのを感じていた。
(……ああ、やっぱりこういう普通の事務スキルや顧客対応を褒めてもらえるのが、俺にとっては一番嬉しいなあ!)
相原さんも、森田さんの具体的な証言を聞いて、先ほどまでの緊張を少し解いたように明るく頷いた。
――ところが、その和やかな空気のすぐ横を、書類を抱えた大庭さんが通りかかったことで、再び微妙な違和感が生じることになる。
「三上さん。本日もお仕事、お疲れさまでございます」
身長百八十センチ超え、頬に深い刃物の傷跡を持つ黒スーツの巨漢が、俺の横でピタリと足を止め、まるで軍隊の兵士が将軍に敬礼するかのような直立不動の姿勢から、深々と九十度のお辞儀をしたのだ。
「あ、お疲れさまです、大庭さん! 火曜日の午後の講習は、本当にありがとうございました! すごく勉強になりました!」
「滅相もございません。私ごときの拙い説明が、三上さんのお役に立てたのであれば、これ以上の喜びはございません。それでは、失礼いたします」
大庭さんはもう一度だけ恭しく頭を下げると、重厚な足取りで自分のデスクへと去っていった。
その背中を見送りながら、相原さんの笑顔が再びピキッと固まる。
(……そりゃ驚くよな。あんな強面の大男が、派遣社員の俺に「私ごとき」なんて言って最敬礼してるんだから。……どう説明すればいいんだ、これ!?)
相原さんが目を白黒させている横で、俺は「いやあ、本当に皆さん礼儀正しい人ばかりなんですよ」と苦し紛れのフォローを入れた。
*
午後三時。
続いて、派遣先企業の管理責任者との面談ということで、奥の役員室から若頭の黒瀬が応接スペースへとやってきた。
今日の黒瀬は、仕立ての良いチャコールグレーのビジネススーツを一点の隙もなく着こなしている。鋭い眼光も今は穏やかに和らげられており、その洗練された立ち居振る舞いは、どこからどう見ても「やり手の中小企業の役員」そのものだ。
「初めまして、相原様。株式会社汐見総合管理で責任者を務めております、黒瀬と申します。本日はわざわざご足労いただき、誠にありがとうございます」
「こちらこそ、お忙しい中お時間をいただき恐れ入ります。三上さんの担当をしております、相原と申します」
二人が丁寧な所作で名刺を交換するのを横で見ながら、俺は心底ホッとしていた。
(……よし。黒瀬さんなら一般企業のビジネスマナーも完璧だし、言葉遣いもスマートだから、相原さん相手でも何のボロも出さずに完璧に対応してくれるぞ!)
向かい合って席に着くと、相原さんはまず日頃の感謝を述べ、それから黒瀬に対して三上の評価を尋ねた。
「黒瀬様からご覧になって、この一ヶ月間の三上さんの勤務状況はいかがでしょうか?」
「ええ、森田からもお聞きになったかと思いますが、非常に優秀な方でして、弊社としても大変助けられております。日常の不動産管理に関わる書類審査やデータ集計の正確さはもちろんですが、何より三上さんの『情報整理能力』には、目を見張るものがありますね」
「情報整理能力、ですか」
「はい。実は今週の月曜日にも、弊社に古くから保管されていた膨大な過去の記録資料を整理していただく業務をお願いしたのですが……年代も形式もバラバラで真偽も入り乱れていた複雑な情報を、わずか半日のうちに、信頼度や項目ごとに分類した極めて分かりやすいエクセルの一覧表へとまとめ上げてくださったのです。あの分析力と事務処理のスピードは、まさにプロフェッショナルの仕事でした」
黒瀬は『歴代親分の異能疑惑』という機密ワードを一切出すことなく、あくまで「会社の古い歴史資料のデータベース化」として、俺の月曜日の仕事を絶賛してくれた。
「まあ、それは素晴らしいですね! 三上さん、本当に頼りにされているのですね」
「いやあ、それほどでも……ただのエクセルの表を作っただけですから」
俺が照れ笑いを浮かべながら頭を掻くと、相原さんも嬉しそうに頷いた。
だが、相原さんはそこで終わらず、先ほど俺との面談で浮上した「懸念事項」について、派遣先の責任者である黒瀬へ真正面から確認を切り出した。
「黒瀬様。三上さんが高く評価されていることを伺い、私どもとしても大変誇らしく思います。……その上で、直近数週間の勤務調整の記録について、何点か確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです。何なりとどうぞ」
相手がどこか威圧感のある年上の男性責任者であっても、相原さんは一切臆することなく、凛とした営業担当者の声で質問を重ねた。
「今週火曜日に実施された安全衛生研修、ならびに昨日の警察署への事情説明に伴う外出について、事前にご連絡と給与補填のご手配をいただいたことには感謝申し上げます。ただ、昨日の公的機関への対応につきましては、特別有給扱いに準ずる補填処理として承っておりますので、弊社の労務管理上、後日改めて確認用の書面を取り交わさせていただきたく存じます」
「承知いたしました。必要な書類のフォーマットをお送りいただければ、速やかにこちらで記名・押印の上、ご提出いたします」
「ありがとうございます。また、先々週に社員の方が巻き込まれたトラブルに三上さんも居合わせたとお聞きしました。派遣元としましては、スタッフの安全確保が最優先事項となります。今後、三上さんに通常の『営業事務』の契約範囲を超えるような危険な業務や、トラブル処理への同行などを命じられるご予定はございませんでしょうか?」
ピシッ、と応接スペースの空気が引き締まった。
俺のことを守るために、取引先の責任者である黒瀬さんに対してここまで踏み込んだ確認をしてくれる相原さんのプロ意識に、俺は横で聞いていて思わず胸が熱くなった。
対する黒瀬も、嫌な顔ひとつ見せることなく、真剣な眼差しで真っ直ぐに頷いた。
「相原様のご懸念はもっともです。先般の件は、弊社としても全く予期せぬ突発的なトラブルであり、三上さんにご負担をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。火曜日の安全研修につきましても、万が一にも再び三上さんが危険な目に遭われないよう、自衛のための知識を身につけていただく目的で実施したものであり、三上さんを危険な現場へ駆り出すためのものでは断じてございません」
「……左様でございますか」
「三上さんご自身が、何よりも現在の平穏な営業事務のお仕事を望んでおられることは、私が一番よく理解しております。今後もご本人の意思に反して契約外の業務を強制したり、危険な役割をお願いしたりすることは一切ないと、責任者である私の名においてお約束いたします」
黒瀬のあまりにも誠実で淀みのない回答に、相原さんはようやく胸のつかえが下りたように、ホッと表情を和らげた。
「ありがとうございます、黒瀬様。そこまで明確におっしゃっていただければ、私どもとしても安心いたしました」
(……よかったあああ!! 黒瀬さんの完璧な大人の対応のおかげで、相原さんの不安も綺麗に解消されたぞ! これで今日の定期面談は、何の波乱もなく百点満点で終了だ!!)
俺が心の底から安堵のため息をつき、あとは相原さんを玄関まで見送るだけだと思った、その時だった。
*
午後三時四十分。
黒瀬との面談を終えて俺たちが応接スペースから立ち上がり、事務室のフロアへと一歩出たところで、外回りから戻ってきたばかりの小野寺が、書類の束を抱えて俺の方へと駆け寄ってきた。
「あっ、おや……っ!!」
小野寺が俺の顔を見て、いつもの癖で『親分』と叫びかけた瞬間。
俺と、すぐ後ろにいた黒瀬の鋭い視線が同時に小野寺を射抜いた。
小野寺は「ハッ!」と空中で口をパクパクさせ、顔を真っ赤にして言葉を飲み込むと、ギリギリのところで踏みとどまって声を張り上げた。
「……み、三上さんっ!! 頼まれてた築地の物件の契約更新資料、今オーナーさんのところから受け取って戻ったっす!!」
(……よしっ!! よくやった小野寺君!! 今日は外部の相原さんの前で、ちゃんと『三上さん』って呼べたぞ!!)
俺は冷や汗を拭いながら、心の中で小野寺に拍手を送った。
「ああ、ありがとう小野寺君、助かるよ。後で確認しておくから、俺のデスクの上に置いといてくれる?」
「へいっ!! かしこまりましたっす!! 他にも何かお飲み物でもなんでも、ご用がありましたら、二十四時間いつでもこの小野寺にお申し付けくださいっす!! 失礼しやすっ!!」
小野寺は周囲のデスクが揺れるほどの勢いで、俺に向かって直角九十度の最敬礼を繰り出すと、そのまま軍隊のようなキビキビした足取りで俺のデスクへと書類を置きに走っていった。
それを見ていた隣の相原さんが、目を丸くして瞬きをし、恐る恐るといった様子で俺に尋ねてきた。
「……あの、三上さん。今、すごく元気にお辞儀をされた若い社員の方は……三上さんの直属の部下か、アシスタントの方なのでしょうか?」
「えっ!? ち、違いますよ相原さん! あれはただの同僚というか、ちょっと年下の社員の小野寺君です!」
「た、ただの同僚、ですか……? でも今、『二十四時間いつでもお申し付けください』って、まるで社長か会長に対するみたいに深々と頭を下げていらっしゃいましたけれど……」
「あ、あはは……あの子、ちょっと体育会系のノリが抜けないところがありまして、パソコンの使い方を少し教えてあげたら、あんなふうに大げさに懐かれちゃっただけなんですよ!」
俺が必死に愛想笑いで取り繕う一方、向こうのデスクでは小野寺が「ふう、今日は若頭に言われた通り、外の人間の前でバッチリ『三上さん』って呼べたぜ!」と満足げに胸を撫で下ろしている。
(……呼び方は直ったけど、態度が完全に組長に対する舎弟のままだから、結局怪しまれてるじゃないかよおおお!!)
なんとかこの場を切り抜けて早く相原さんを出口へ案内しようと俺が焦っていた、まさにその直後だった。
ガラッ、とフロアの奥にある役員室のさらに奥――和室へ続く廊下の扉が勢いよく開き、そこから組長の榊原源治が、上機嫌な顔で姿を現したのだ。
「おう、三上! 今日も精が出るな!」
「……っ!? さ、榊原さん!?」
なぜこの一番出てきてはいけないタイミングで出てくるのか。
六十八歳の老親分は、仕立ての良い和服の上に羽織を引っ掛けた、どう見ても「堅気の会社の人間ではない」圧倒的な貫禄を放ちながら、ズンズンと俺たちの方へと歩み寄ってきた。
「ん? なんだ三上、そちらの綺麗なお嬢さんはどなたかい?」
源治が相原さんを見て目を細める。
隣にいた黒瀬が、わずかに眉間を寄せて一歩前に出た。
「……榊原さん。こちらは三上さんの派遣元の会社の担当者で、相原様とおっしゃいます。本日は三上さんの就業状況の確認にいらしてくださいました」
「……ほう!! 三上の派遣会社の姉ちゃんかい!!」
源治の皺だらけの顔が、パッと花が咲いたように明るく輝いた。
「そうかそうか、そりゃあちょうどいいところで会えたなあ!」
(……え? ちょうどいい? な、なにがちょうどいいんだ……!?)
俺の背筋に、今日一番の悪寒が駆け上がった。
源治は相原さんの正面にドカッと立つと、豪快な笑顔で頭を下げた。
「いやあ、お嬢さん! うちの会社にこの三上を派遣してくれて、本当にありがとうよ! こいつはなあ、事務の仕事は神様みてえに早いし、度胸はあるし、若手の面倒見もいいし、本当に非の打ち所がねえ大した男なんだ!」
「あ、は、はい……。恐れ入ります、私どものスタッフをそのように高く評価していただき、大変光栄でございます……」
源治の並外れた迫力に少し気圧されながらも、相原さんはなんとか営業スマイルを浮かべてお辞儀を返した。
俺も横で、「おっ、親父さん、意外と普通に俺の仕事ぶりを褒めてくれてるだけか? よかった、余計なことは言わないでくれよ……」と胸を撫で下ろしかけた。
――その、わずか一秒後だった。
源治は太い腕を俺の肩にドンと乗せ、相原さんに向かって、今日一番の張りのある大声で誇らしげに言い放ったのだ。
「なんせこの三上はな、これからの『うち』を丸ごと背負って立つ、一番大事な跡取りみてえな男だからなあ!! はっはっはっはっは!!」
「………………」
「………………」
ピシッ、と。
事務室全体の空気が、絶対零度で完全に凍結した。
俺の顔から笑顔が消え失せ、隣に立つ黒瀬が、すべてを諦めたように静かに両目を閉じて天を仰いだ。
(……あ、ああああああああっ!! 親父さあああああん!! 『跡目』って直接は言わなかったけど、派遣会社の担当者の前で『これからのうちを背負って立つ跡取りみたいな男』って言っちゃったら、意味は完全に同じじゃないですかあああああっ!!)
俺が心の中で血の涙を流して絶叫する中、相原さんはゆっくりと瞬きをし、源治の顔と俺の顔を交互に見つめた。
「……あ、あの、失礼ですが……今、『これからの御社を背負って立つ、跡取りのような』とおっしゃいましたでしょうか……?」
「おう、文字通りの意味だよ! こいつにはそれくらいでけえ期待をかけてるってことさ!」
「……三上さん?」
相原さんが、くるりと俺の方へ向き直った。その瞳には、これまでで最大の困惑と、労務担当者としての強い警戒の色が浮かんでいる。
「三上さんは現在、私どもからの派遣契約に基づき、『一般および営業事務』のスタッフとしてこちらで就業されているはずですよね?」
「そ、そうです!! もちろんです!!」
「……私どもの知らないところで、こちらへ直接雇用されて経営幹部や後継者になられるといったお話が、水面下で進んでいたりするのでしょうか?」
「進んでません!! 一ミリも進んでませんからあああああっ!!」
俺は自分の肩に乗せられた源治の腕を必死に振り払い、相原さんに向かって全力で首を横に振った。
すると相原さんは、今度は黒瀬の方へとキリッとした視線を向けた。
「黒瀬様。念のため確認させてください。派遣期間中に直接雇用や業務内容の大幅な変更を検討される場合は、ご本人の意思を確認したうえで、派遣元の私どもとも事前にご相談いただきたいのです。現時点で三上さんにそのような役職や重責をお願いするお話が具体的に進んでいるわけではございませんね?」
「……ええ、もちろんです、相原様。今の発言は、弊社の榊原が三上さんの仕事ぶりを高く評価し、個人的な期待を口にしたものでございます。現時点で具体的な採用や役職の変更が決まっているわけではございませんし、先ほどお約束した通り、三上さんご本人の意思に反するような話を進めることも断じてございません」
「……左様でございますか。それを聞いて安心いたしました」
黒瀬が汗ひとつかかずにフォローを入れ、源治は「なんだよ黒瀬、俺は本気で言ってるんだぞ」と不満そうに口を尖らせている。
相原さんは最後に、もう一度俺の目を見て確認した。
「三上さん。三上さんご自身のお気持ちとしても、会社の経営を背負うといったことではなく、今後も今のまま『営業事務の派遣社員』としてお仕事を続けたい、ということで間違いありませんね?」
「間違いありません!! 百パーセントその通りです!!」
俺は涙目になりながら、拳を握りしめて力説した。
「俺は毎日パソコンでエクセルを叩いて、家賃の集計や契約書のチェックをする普通の事務仕事を続けたいだけなんです! 会社の将来を背負うとか、誰かの跡を継ぐとか、そんな大それた重責はこれっぽっちも望んでません! 俺はただの、時給二千五百円の派遣社員なんですから!!」
「……はい。三上さんのご希望、しかと確認いたしました」
相原さんが深く頷いてバインダーに記録するのを眺めながら、俺はふと、自分が今置かれている状況のあまりの異常さに気づき、その場で両手で頭を抱え込んだ。
なんでだ。昨日まではヤクザや警察や入居者さんに「俺はただの派遣社員です」と説明していたのに、どうして今日はついに『俺を派遣した当の派遣会社の担当者さん』に向かってまで、俺が次期社長候補じゃなくてただの事務員だっていうことを必死で証明しなきゃいけないんだ!?
「……俺は本当にただの営業事務として派遣されてきた人間なんですよ!? なんで派遣元の担当者さんにまで、俺がこの会社の将来を背負う跡取りじゃないって必死に弁明しなきゃいけないんですかあああああああっ!?」
俺の悲痛な叫びがフロアに響き渡り、源治は「ぶわっはっはっは! 元気がいいなあ!」と大爆笑し、黒瀬は静かにこめかみを押さえて苦笑していた。
*
午後四時半。
嵐のような面談がようやく終わり、俺と黒瀬は相原さんをビルの入り口まで見送りに出た。
「黒瀬様、本日はお忙しい中、長時間お時間をいただき誠にありがとうございました。後日、確認書類の方をメールにてお送りいたしますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、本日は丁寧にご確認いただきありがとうございました。今後とも三上さんのこと、よろしくお願いいたします」
黒瀬が深々と一礼し、「では三上さん、私は先に中へ戻りますので」と気を利かせて事務所の中へと戻っていった。
夕方の少し冷たい風が吹くビルの前の路上で、俺と相原さんの二人きりになる。
「相原さん、今日はわざわざ足を運んでいただいて、本当にありがとうございました。なんだか最後は、うちの年配の関係者が変なことを言い出して驚かせてしまって、すみません……」
「いいえ、三上さんが職場の皆様からどれほど愛され、特別に頼りにされているのかだけは、痛いほどよく分かりましたから」
相原さんはそう言って苦笑すると、ふと真面目な表情になり、周囲に人がいないことを確認してから、一歩俺に近づいて声を潜めた。
「……三上さん。最後に、もう一度だけ確認させてくださいね。色々とおかしな点や、ちょっと普通ではない雰囲気の社員の方もいらっしゃいましたが……本当に、この職場でのお仕事を続けたいというお気持ちに変わりはありませんか?」
俺は少しだけ考え、それから真っ直ぐに相原さんの目を見て頷いた。
確かに、源治さんの期待は重すぎるし、小野寺君や大庭さんの態度はどう見ても堅気の会社のそれではない。先々週には銃撃戦にだって巻き込まれた。
それでも、さっき黒瀬さんが相原さんの前で「三上さんの意思を尊重する」とはっきり約束してくれた言葉に嘘はないと、俺は信じることができたのだ。
「はい。少し騒がしい職場ではありますけど、皆さん本当に俺のことを大切にしてくれていますし、事務の仕事自体もすごくやりがいがありますので、今のところはここで働き続けたいと思っています」
「……そうですか。三上さんがそうおっしゃるのでしたら、私はそのご意思を全力でサポートいたします」
相原さんは優しく頷くと、ビジネスバッグのポケットから一枚の名刺を取り出し、両手で俺へと差し出した。
最初にもらった会社の代表番号が書かれた名刺とは違い、そこには『直通携帯』と書かれた個人の携帯電話番号が印字されていた。
「ただ、三上さん。今回お聞きした安全研修の件や、先日のトラブルの件も含め、私どもの方で引き続き職場の安全確認は続けさせていただきます。もし今後、働いている中で少しでも怖い思いをされたり、派遣先の黒瀬様たちには直接言いにくいような無理なお願いをされたりした時は、いつでも構いませんので、この番号から私に直接お電話をください」
「……相原さん……」
「三上さんはお一人で抱え込んでしまわれそうなところがありますから。あなたが普通の派遣社員として安心して働けるよう守るのが、私の仕事です。少しでも困ったことがあれば、必ず相談してくださいね」
「……はい! ありがとうございます、本当に心強いです!」
俺は差し出された名刺を両手で大切に受け取り、深々と頭を下げた。
八咫烏の霧島さんや高瀬弁護士といった頼れる人たちに加えて、今日、何も知らない一般社会の側にも、俺の「普通の派遣社員としての立場」を本気で守ろうとしてくれる心強い味方ができたのだ。
相原さんは最後に爽やかな営業スマイルを見せて一礼し、駅の方へと颯爽と歩いて去っていった。
*
午後五時頃。
自分のデスクへと戻った俺に、森田さんが「面談、お疲れさまでした。相原様、とてもしっかりした頼もしそうな担当者さんですね」と声をかけてくれた。
「ええ、本当にいい担当者さんで、俺の希望もちゃんと聞いてくれましたよ」
俺は椅子に座り直し、名刺入れに相原さんの直通名刺を大切にしまってから、朝からの続きである契約更新書類のチェック作業へと戻った。
そこからはもう、誰の邪魔も入らなかった。
静かな事務室に、キーボードを叩く音と紙をめくる音だけが心地よく響く。残っていた三十件分の更新データの照合と入力をすべて完了させ、森田さんに完了報告を出したところで、時計の針がちょうど午後六時の定時を指した。
「よし、今日の分のタスクも全部終わったぞ!」
途中で源治さんの爆弾発言による大騒ぎはあったものの、今日は警察署に行くことも、倉庫で走り回ることもなく、自分のデスクで営業事務の仕事をやり切って定時を迎えることができた。
「森田さん、黒瀬さん、お先に失礼します! 今週もお疲れさまでした!」
「はい、三上さんもお疲れさまでした。どうぞ良い週末をお過ごしくださいね」
「お疲れさまでした、三上さん。また来週、よろしくお願いいたします」
「親分っ、お疲れっしたー!!」と元気よく見送る小野寺にも手を振り返し、俺はタイムカードを切って汐見総合管理のビルから外へと出た。
すっかり日の落ちた金曜日の夕暮れの街を、最寄り駅へ向かって一人で歩く。
一週間が終わった解放感で、足取りが羽のように軽い。
(……ふう、今週も本当に色々あったけど、なんとか無事に乗り切ったぞ! 明日は土曜日、明後日は日曜日だ! 今度こそ誰にも邪魔されずに、昼まで寝て、ゲームをして、平穏な独身貴族の休日を満喫してやるぞ!)
俺が冷たい夜風を吸い込みながら、そんなささやかな週末の計画に胸を躍らせていた、まさにその時だった。
――ブブッ。
コートのポケットの中で、俺のスマートフォンが短い振動音を立てた。
(ん? 誰だろう、黒瀬さんからかな? それとも実家の母さんからか?)
俺は歩きながらスマホを取り出し、ロック画面に表示された通知へと視線を落とした。
そこに表示されていた送信者の名前は、『東雲詩織』。
「……うおっ!?」
俺は思わず歩道の真ん中でピタリと足を止め、危うくスマホをお手玉しそうになった。
先週の土曜日に初デートをし、日曜日に短いメッセージをやり取りして以来となる、あの超絶美人のヤクザ令嬢からの連絡だった。
俺はゴクリと唾を呑み込み、人通りの少ない街灯の下へと寄ってメッセージアプリを開いた。
『三上様、ごきげんよう。今週も一週間、お仕事お疲れさまでございました。突然のご連絡で恐縮なのですが……もしよろしければ、明日のお昼、少しお時間はございますでしょうか? 先日三上様がおすすめしてくださった、あの洋食屋さんのハンバーグがどうしても気になっておりまして』
画面に並んでいたのは、先週の日曜日に俺が返信で何気なく書いた『あのお店のハンバーグも本当におすすめなので、また機会があればぜひ』という言葉を、そのまま律儀に覚えていてくれた可愛らしいお誘いの文章だった。
俺が画面を見つめていると、追いかけるようにもう一件、短いメッセージが届いた。
『もちろん、急なお誘いですから、すでにご予定がおありでしたらまた別の日でも構いませんわ。ただ、わたくしはまた三上様とお会いしてお話しできましたら、それだけでとっても嬉しいのです』
「…………っ」
街灯の下で、俺の頬がみるみるうちに熱く緩んでいくのが自分でも分かった。
(……いやあ、なんていじらしくて可愛いことを言ってくれるんだ、この人は……! あんなに綺麗なお嬢様が、俺がおすすめした庶民的な洋食屋のハンバーグを食べたいって言って、わざわざ週末の予定を聞いてきてくれるなんて……!)
だが、浮かれた頭に小さな警報が鳴った。
(……待てよ。東雲さんは密輸と密入国を商売にしていて、先週も自分の考えや生き方はすぐには変わらないとはっきり言っていた人だ。そこは忘れちゃ駄目だぞ、俺!)
犯罪を認めるつもりはない。そこは、これからも変わらない。
……それなのに。
先週のランチが楽しかったのも、また会いたいと思っているのも事実だった。そこだけは、どうにもごまかせなかった。
俺は街灯の下でしばらくスマホと睨めっこを続けた末、半分諦めたような溜息をつきながら、画面に指を走らせた。
『今週もお疲れさまです。明日のお昼なら、ちょうど予定が空いていますよ。あのお店の特製ハンバーグ、本当に美味しいので、ぜひ一緒に食べに行きましょう』
送信ボタンを押すと、今回はなんと三十秒も経たないうちに既読がつき、弾むような返信が返ってきた。
『まあ、本当ですか! ありがとうございます、三上様! とっても嬉しいですわ! では、先週と同じお時間に駅の改札前でお待ちしておりますね。明日お会いできるのを、心から楽しみにしております!』
文面からでもハートマークか花びらが飛んでいそうなほどの喜びっぷりに、俺は思わず口元を手で覆って照れ笑いを浮かべた。
(……あーあ。ついに二度目のデートまで正式に決まっちゃったよ。しかも先週の約束通りなら、明日は彼女にご馳走してもらうことになっちゃうじゃないか……)
俺はスマホの画面を閉じ、コートのポケットへと戻した。
そしてその時、コートのポケットの中で指先に固いものが触れた。つい一時間半ほど前に受け取った相原さんの直通名刺を収めた、名刺入れの角だった。
俺の動きが、ピタリと止まった。
脳裏に、ついさっき相原さんが真剣な瞳で俺に言ってくれた言葉が鮮明に蘇ってくる。
相原さんは、働いていて怖い思いをしたり、派遣先に直接言いにくい無理なお願いをされたりした時は、いつでも自分の携帯へ電話してほしいと言ってくれた。
あんなに親身になって、俺が危ない橋を渡らないようにと心配してくれた、一般社会の心強い味方、相原さん。
もちろん、相原さんは東雲詩織という女性のことも、彼女が裏社会の密輸女王であることも一切知らない。知っていたら全力で止められていたに違いないが、さすがにこんなプライベートの恋愛事情(しかも相手は国家規模の犯罪者)なんて、派遣会社の担当者に相談できるはずがない。
俺は夜の歩道のど真ん中で、自分の不甲斐なさと状況の滅茶苦茶さに頭を抱え、暗い夜空を見上げて魂の叫びを上げた。
「……今日、派遣会社の担当者さんからあんなに親身になって身の安全を心配してもらったばっかりなのに、なんで俺はその一時間後に、自分から進んで『日本の密輸女王との二度目のデート』をウキウキで約束しちゃってるんですかあああああああっ!?」
とはいえ、叫んだ直後の俺の頬は、どうしても引き締めることができずにだらしなく緩んでいた。
「……まあ、美味しいハンバーグを食べに行くだけだからな。うん、ただのランチだ」
誰に対する言い訳かも分からない独り言を呟きながら、俺はまたしても平穏から遠ざかっていく自分の週末に向けて、少しだけ弾む足取りで駅の改札へと向かうのだった。
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