水平線に夕日が沈む時間。湿気と湯気がまとわりつく、時計の針は夕方と夜の真ん中。
潮の香りを酔いしれ、体二つ分の露天風呂につかる。頭の中では、煩悩がもくもくと湧き上がる。その度に、湿度が上がって少し息苦しくなる気もする。
高校三年生、今までの人生で一番の大勝負。彼女を誘い、一泊二日。二人きりの旅行。
電車に揺られながら遠くに海が見えた時も、旅館に着いて彼女に本気で財布の中身を心配された時も、情報通り部屋に着いた露天風呂に指を刺した時も、せっかくだから一番風呂に入ってきなよと背中を押された時も、頭の片隅で煩悩が手を振っていた。
否、夏休みに入って最初の金曜日。海の見える宿に行こうだなんて、男子高校生が言ったら下心丸出しすぎて引かれるようなセリフを彼女に言ったその日から、間違いなく煩悩は僕の頭に住み着いていた。
最初は顔をのぞかせている程度だったんだ。『どうせ変なこと考えてるんでしょ? もー、丸わかりだって。鼻の下伸びてるし』なんて、いつもみたいに軽くあしらわれているときは、まぁ、いつもの調子だなぁ、なんて。なんてことないやり取りってやつを楽しんでいるだけだったんだ。
『それで? もう日程は決まってるの?』
『行きたいんでしょ? それは一緒に行くでしょ~☆』
『だってアタシ、キミの彼女だし。ねっ?』
畳みかけるようなその言葉で、全部が崩れた。脳内で色々とぶっ壊れるんじゃないかという勢いで騒音が鳴り響いた後、間髪入れずに何かがスマートに再構築されていく。最初から最後まで、それがいったい何なのかはわからずじまいなんだけれど、きっとこれ以上ない近未来的な見た目になっているんだろう。
自分のありとあらゆる人脈を活用し、バッチリ雰囲気にハマった旅館、予算、コーディネート、プランニングを枠に組み込んでいくのに、そう時間はかからなかった。
色欲というのは馬鹿にできないもんだと、自分でも驚いている。彼女も言っていた。普段から、その調子でやってくれれば良いのにって。非常に同感である。
それがどうだ。いざ旅館に来てみる。思っていた五倍雰囲気の出来上がった旅館に気圧され、背中を押されるがままに風呂に入り、湯船でブクブクと息を吐いているだけ。男らしさの欠片もない。
そういう漫画や動画で何度も妄想した状況。いざ、現実に近いものになってみると、気が気じゃない。
いつもの十倍は丁寧に体を洗ったし、地平線に沈む夕焼けに向かって、謎の二礼二拍手一礼してみたり、経験豊富な友達にヘルプのコールをしてみたり。覚悟という言葉に後頭部をぶん殴られたって文句が言えない。覚悟って絶対にゴリゴリの体育会系だよね。体罰キツそう。
いつもは長風呂なんてしないのに、時間だけが刻々と溶けていく。真夏なのに。陽が沈んだ癖して、露天風呂という解放感MAXのアドバンテージを無に帰すような湿度に包まれているのに。良さげに見えそうな言い回しをしているが、要するに暑いのに。
「…………上がろう」
自分に言い聞かせるように、わざと独り言を吐いてみる。煩悩に侵食されていく脳内のキャパの余裕のなさに驚きを隠せない。一つずつ指差し確認をして動こう。数分後には、視線がリサの胸から離れなくなっていても不思議じゃない。予断を許さない状況だ。重症です。間違いないです、頭をやられています。
お湯から体を上げた筈なのに全く涼しくない。むしろ暑い。のぼせて鼻血でも出してみろ。ドン引きされてお預け待ったなしだ。
お預けってなんだよ。まるで順調に歩みを進めればゴールが待っているみたいに言うなよ。自分と彼女の恋人関係の瀬戸際だって自覚しろ馬鹿。男を魅せろ。嘘だ。男を魅せすぎたら終わるから自重しろ。
取り合えず、水を飲みたい。頭を冷やしたい。自主的に頭を冷やしたいと思えた時、人は大人になるのかもしれない。脳内煩悩90%みたいなやつが大人なわけがない。
さっきから無駄な思考が多すぎる。どれだけパニくっているんだ。友達にこの姿を見られたら未来永劫ネタにされるんだろうな。きっと待ち受けにされるんだろうな。
いっぱいに水分を蓄えたタオルを絞り、顔を拭う。とりあえず出よう。そうして出口に手をかけると、自分が手を付けるよりも先に扉が動く。
なんだ、最近の露天風呂の扉は自動なんだな。時代も進歩するもんだ。
なんだったらほら、湯煙の向こうにタオル姿のめちゃくちゃなべっぴんさん。右にも左にも人がいないので、貴方一人がとってもべっぴんさん。
パーマのかかったツヤッツヤのブロンドヘアー。プルップルのアヒル口。東京の若者100人に聞けば100人が美人と答えるビジュアル。そして人として出来すぎている素晴らしい性格。これはまさに僕の彼女様である、今井リサ……
「…………」
「あ、あれ。もしかして、もう出るところ……だった……?」
「貴方を迎えに来ました、マドモアゼル。ささ、こちらへ」
「顔、赤すぎない? ヤケになってお酒に手を出したりしてないよね? とりあえず、お水持ってこようか?」
僕からの返答を聞くこともなく、パタパタと奥に戻っていくタオル一枚の背中を見て、思いにふける。なんで俺、この娘と付き合えたんだろう。今年に入って452回目かな。このことを考えるのは。
世界で一番良い女性が自分のパートナーでいてくれる。小説は事実より奇なりなんて、頭のいい人が言っていた。よくわからないが、現実だよって言ってくれてるんだと思う。
小走りで持ってきてくれた冷たい水を一気に口内に流し込むと、喉から食堂にかけて冷たい感覚が駆け巡る。性を実感するはこのことなんだろう。
「うんまい!」
「美味しそうに飲むね~。相当長風呂してたし、染みるでしょ☆」
「傷口に塩塗られたのと同レベルですね」
「例えが最悪なのは何とかならないかな……」
体が少しずつ冷えていく感覚、冷静な思考に偏っていくにつれて、目の前の光景の異常性に少しずつ気が付き始める。
彼女。タオル一枚。露天風呂。リーチドラドラ裏ドラどえらいもん。
なんで? という一言が喉から出かかったが、気合でそいつの尻尾をつかみ取ってその場に叩きつける。余計なことを言うんじゃねぇ。一世一代のチャンスを逃す気か。だけど親方! こんなラキスケなんてしたらリサちゃんからの信頼が……うるせェ! 男は理論じゃねぇ! ロマンだ!
「こーら。ジロジロ見過ぎ」
「世界一可愛い彼女が目の前にいてそれは流石に難儀と言わざるを得ない」
「可愛いって言ってコロっと照れるような軽い女じゃないんだからね……まぁ、嬉しいのでお姉さんが良しとしてあげよう☆」
同級生のはずなんだけど、二人で並んで歩いていると僕が年下だといつも間違えられる。なんなんだろう。醸し出す雰囲気の問題なんだろうか。
僕たちの事を知っている人だったらそうやって言うのもわかるんだけど、彼女の知り合いのお方たちにも同じような勘違いをされ続けると少し凹む。男らしさがないわけじゃないよ。僕の方がリサよりも身長が高いもん。160と少しだけど。
後ろを向くように促され、言われるがままにくるりと回ると、片手で背中を押される。もう片方の手はタオルを押えているのかな、なんて少し浮かぶだけで、後ろから釘が飛んでくる。勘が鋭い。顔に出やすいのはわかるけど、今は見えてないでしょう。
「ほら、座って」
「ほう……背中に何を書いたか当てる奴ですか?」
「それだったとしてさ。ここまで来たのにってキミ泣くでしょ」
「三日は立ち直れない」
「それとも、お姉さんが背中を流してあげる大サービス。受けたくなかった?」
「…………ほんとぉ?」
「嫌だった?」
全力で首を横に振ってみると、楽しそうな笑い声が返ってくる。お姉さんに任せなさいと。こうなれば、彼女はもう年上の面倒見モードだ。
自分の背中越しに繰り広げられるラリー。ここにかのプロテニス3TOPがいたら、僕たちの事をスカウトするに違いないだろう。ギリギリの勝負。これこそが阿吽の呼吸という奴だ。何もかも間違えている気がするが、その話をするとそもそも下心丸出しで彼女を旅行に誘っている時点でもう既に間違っていると言われて詰みなのでやめていただきたい。
湯船から水をすくう音、零れたお湯が床を叩く。ボディソープに伸びる手。泡立てる音。
誰かに背中を流してもらうだなんて、どこまで遡ればいいんだろう。親父と一緒に歩いて行った銭湯。強めの力で擦られた背中が少しヒリヒリした思い出がよみがえり、なんだかほっこりとするね。
「じゃ、行くよ~☆」
ワサビも食べられなかったあの時とは違う、弱めの力。大雑把な力任せな感じではなく、丁寧に全体を擦る。
記憶の奥底に眠っていた思い出に、なんだか色が付いてくるみたいだ。きっと、ガキの頃とは線をはみ出したクレヨンとは違った、美しい水彩画なんだろう。
目を閉じて、背中の感触に集中してしまう。なんでだろう。煩悩が湧かない。一人の時は掘り当てられた温泉のごとき勢いだったのに、完全に埋め立てられてしまった。あっけない最期だ。自然は人類に敵わないのかもしれない。
「かゆいところはございませんか~」
「最高です」
「それって、どういう意味で?」
「僕、幸せな男だなって」
「アハハっ! なにそれ!」
なにそれって言われても……幸せだから仕方ないでしょ! なんというか、これを世間ではエモいっていうのかな。これ以上ない幸というのを噛みしめている。
奮発して手を出してみた旅館。露天風呂付き客室想定していたよりも高ぇ! と思わず天井を見上げた。正直、それ以外の来るまでの事は断片的にしか覚えていないけれど、今この時を得るためにここに来たんだなぁって思うと全部納得できる。貯金。お前の犠牲は無駄じゃなかったよ。今までありがとう。ちゃんと火葬してやるからな。
明日、急に死神が我が家にピンポンしてきて『来月からウチに移動な?』って僕の肩を叩きに来ても、今だったら泣きながらそれに従える気がする。もうちょっとリサと一緒にいたいから多分断るな。
「あのさ」
「うん」
「今、タオルの下なんだけど」
「うん」
「明日……着る予定だった水着なんだよね」
「うん?」
多分、1㎝くらい今の一瞬で身長が高くなったと思う。それくらい背筋が伸びた。
背中を擦る手は止まっていない。というより、なんだかヒリヒリしてきた。ワサビを食べれる高校三年生の僕から、回転寿司でワサビ入りのサーモンをがっついて大泣きしたあの頃の少年僕に逆戻りしている。
そんなわけはないんだけど、親父が急に授業参観に来た。髭剃れ。来るな。
「ほら! もしはだけちゃって見られたら……い、いや見られても……いやいや、ちょっと大変……というか! だから、いちおー着ておいたんだけど…………いやあの! 見せびらかしたいってワケじゃないんだけどさ! 一応ね! 一応! 事故なんて起きたら大変だもんね~!」
「うんうんうんうん」
さっきからずっとおんなじ所ばかり擦っているな。なんだろう。すりおろし器が大根擦ってる時ってこういう気持ちなのかな。ライン工と似た感じか~。
たった今、それどころじゃない瀬戸際という崖際というか。
さっきまでは青春ラブコメストーリー真っただ中だったのに、リサがアクセルを少し踏み込んでみるだけで一気に火曜サスペンスになってしまった。このままでは、顔面山〇紅葉になる日も近いかもしれない。船〇英一郎も後方保護者面しているのが見える。
「……………………見たい?」
ブレーキを踏みこむと同時に、背中の手が止まる。俺の背中がまるで山〇紅葉かーい! ってな。マジで笑えない。船〇英一郎の姿を確認している場合なんかじゃなかった。
さっきまで外で買い物でもしていたであろう下心が、ちょっとイメチェンした様子で帰ってきている。なんで散髪してカラーも入れてるんだよ。
心拍数も跳ね上がる。高低差が激しすぎて、何かの勢いで止まってしまわないか心配だ。
考えろ考えるんだ。今ここで出すべき答え。
うん! という言葉がもう前歯の裏まで来ている。どうにかして叩きのめさないと、本当にこの先どうなるかわかったもんじゃない。
バッキャロー! その先を求めてテメェは18年間生きてきたんだろう! 今日がその時だ! てやんでぇべらんめぇ! 一時の欲に任せて、今まで積み上げてきたもんぶっ壊すなんざぁ、男としての格が足りねぇやいってなもんだ!
さぁ! 張った張った! 本心に任せて! 思ったことを言ってみな!!!
「明日、海で見たい」
「……へ?」
「海水浴場でリサが着てきた水着を見て、鼻の下伸ばしたい。そんでリサに色目を使う野郎共からリサを守るために、わざわざ真夏に持ってきた長袖のパーカーをリサに羽織らせてこう言いたい」
「……なんて?」
「これ、着てろって……」
気が付くと、目の前が真っ黒になっていました。ポ〇モンとかに合わせた表現ではありません。真っ暗です。なんでだろうね。両手で顔を覆っているからだ! なんでだろうね? 恥ずかしいんだよ!!!
なんで? なんで? って聞いてくるガキが世界で一番ムカつくんだからな。大人の怖さを思い知らせてやる。グーでシバいたらこっちの勝ちなんだから。
全部言ってしまった。ちょっとだけ考えていた妄想を。日焼けなんて気にもしたことないのに、わざわざ日焼け対策だなんて言って長袖のパーカーを持ってきたこともこれでバレてしまった。
「でも、水着は見たいんだ」
「見たいよ! 絶対可愛いもん! もう目に焼き付けたい!」
思わず振り向いて抗議をしてしまう。リサはいつものように、呆れ半分面白半分といった苦笑を浮かべていた。タオル一枚で下には水着という、世の中の男子高校生全員が求めるような姿をしているのに、そこは全く変わらないんだね。髪の毛を下しているのもとっても似合うね。好き。
「じゃあさ。明日、とびっきりの水着姿見せてあげるからさ。沢山誉めてよ」
「任せてください。言われずとも実行してみせますとも」
「そういうのは本当に得意だよね~。期待しちゃうんだから☆ ……じゃ、背中流すから後ろ向いてね~」
「はーい」
なんか、図らずとも素晴らしい方向に話が進んだな。神様っているもんなんだ。夕日に向かって二礼二拍手一礼してみた伏線が、ここにきて回収されたわ。絶対に関係ないだろ。どこの神様に向かって願ったのかもわかんないんだから、そこらへんほっつき歩いているおっさんに祈りが届いたのかもしれないのに。
「明日は楽しみにしてるよ~」
「うん!」
「君のために、とびっきり可愛い水着を見繕ってきたんだからさ」
「……ふーん。あははっ、また、恥ずかしくなっちゃったんだ」
「……うん!!!」
真っピンクな未来を目指していたのに、何故かお先というか、目の前が真っ暗。
明日は白い砂浜と海色。世界で一番綺麗な彼女は、一体何色なのだろうか。願うなら赤!
でも、リサがとびっきり可愛いって言ってるんだから、想像も出来ない宇宙一の美女が見れるんだろうな。