「スイ、今日は魚なしだ」
朝一番、レンにそう告げられた。
(……は?)
私は思わず顔を上げた。
今、何と?
「訓練が終わるまで、飯はお預けだってさ」
(待って。朝ご飯は? 朝ご飯という概念はどこへ行ったの?)
「そんな顔するなよ。俺が決めたわけじゃないんだから」
レンは笑いながら、私の首元に手を伸ばした。
いつもの鞍を取り付けるらしい。
(いや、そういう問題じゃなくてね?)
抗議の意味を込めて鼻を鳴らすと、レンは私の鼻先を軽く叩いた。
「終わったら多めにやるから」
(よし、働こう)
我ながら現金なものである。
◇◇◇
訓練場は、集落から少し離れた谷にあった。
広い草地の両側を、岩山が囲んでいる。
奥には浅い川が流れ、その先には湿地が広がっていた。
闘蛇と人間が一緒に動くには、ちょうどいい場所だ。
ただし、今日は少し様子が違う。
「おい、ハク! そっちじゃない!」
「分かってるって!」
「分かってる奴は逆へ走らねえ!」
(……朝から元気だなあ)
谷の中央で、若い戦士たちが走り回っていた。
数は十数人。
まだ少年の面影が残る者もいれば、すでに一人前の戦士として狩りに出ている者もいる。
その中に、見慣れた顔があった。
ハクだ。
そして、その少し離れた場所にはセイラン。
(おっ、いたいた)
私は足を速めた。
「スイ」
セイランがこちらを向く。
相変わらず、朝から顔がいい。
(今日も安定のイケメン。ありがとうございます)
私は機嫌よく鼻を鳴らした。
セイランは私の首筋を一度撫で、鞍の留め具を確かめる。
「今日は走るぞ」
(はいはい。朝ご飯のためなら頑張りますとも)
「……妙に機嫌がいいな」
(まあ、あなたの顔も見られたしね)
もちろん、そんなことは伝わらない。
少し惜しい。
◇◇◇
「集まれ!」
ゴウの声が谷に響いた。
若い戦士たちが、一斉に姿勢を正す。
「今日は闘蛇との連携を見直す。速く走ることだけ考えるな。乗る者、走る者、地形を読む者。それぞれが勝手に動けば、味方を殺す」
さっきまで騒がしかった谷が、静まり返った。
ゴウは片頬に古い傷のある、厳つい戦士だ。
私は以前から、ちょっと怖いおじさんだと思っている。
ただし、言っていることは正しい。
「まずは平地だ。向こうの岩まで走り、旗を取って戻れ」
谷の端に、小さな旗が立てられていた。
「ハク、お前からだ」
「おう!」
ハクが元気よく返事をする。
彼の相棒である闘蛇が、低く身体を沈めた。
「行くぞ!」
合図とともに、二人が飛び出した。
(おお、速い速い)
草を蹴り、勢いよく走っていく。
ハクは鞍の上で身体を低くし、闘蛇の動きに合わせていた。
以前より、ずっと上手い。
(……あれ? ハク、結構成長してない?)
少し悔しい。
私の中では、いつまでも騒がしい弟分のような存在なのに。
旗の手前で、ハクが身体を起こした。
「よし!」
その瞬間。
相棒の闘蛇が、急に速度を落とした。
「うわっ!?」
ハクの身体が前へ傾く。
なんとか鞍にしがみついたものの、旗には手が届かなかった。
「……あ」
谷に沈黙が落ちる。
ゴウが腕を組んだ。
「何が悪かった」
「……止まるのが早かった?」
「違う」
ゴウは、ハクの相棒を指さした。
「お前が旗に手を伸ばす前に、身体を起こした。あいつはお前が止まると思ったんだ」
ハクが口を閉じた。
「闘蛇は、お前の考えを読めるわけじゃねえ」
(……うんうん)
私は大きく頷きそうになった。
実際、乗り手の体重移動は結構分かる。
前に傾けば走りやすいし、後ろへ重心が移れば減速の合図にもなる。
もちろん、それだけで全部が伝わるわけじゃないけど。
「次!」
ゴウが声を張った。
「セイラン!」
「分かった」
(よし、出番!)
私は前脚で地面を掻いた。
◇◇◇
セイランが鞍に乗る。
その重みは、もうすっかり慣れたものだった。
「行くぞ」
短い声。
私は地面を蹴った。
風が顔に当たる。
草が後ろへ流れる。
(うっひょー! やっぱ走るの気持ちいい!)
大きな身体でも、短い距離なら十分に速く走れる。
ただし、馬みたいに延々と駆け続けられるわけじゃない。
私たち闘蛇は、重い。
勢いがつけば強いけれど、急に止まったり曲がったりするのは苦手だ。
だからこそ、乗り手との息が重要になる。
旗が近づく。
セイランの身体が、わずかに傾いた。
(はいはい、分かってますよ)
私は速度を緩めず、旗の横へ身体を寄せる。
セイランが腕を伸ばした。
旗が抜かれる。
その直後、彼の重心が後ろへ移った。
私は少しずつ速度を落とし、大きく弧を描いて向きを変える。
(ほい、帰りまーす!)
谷の中央へ戻ると、ハクが口を尖らせていた。
「……ずるいだろ、それ」
「何がだ」
「セイランとスイ、息が合いすぎなんだよ」
(ふっふっふ。年季が違うのだよ、年季が)
私は得意げに首を上げた。
「スイも調子に乗るな」
セイランに首筋を軽く叩かれる。
(……バレた)
◇◇◇
次は、川を越える訓練だった。
谷の奥を流れる川は、深い場所でも人の腰ほど。
しかし、底には滑りやすい石が多く、流れも場所によって違う。
ゴウが、若い戦士たちに告げた。
「今度は、向こう岸の岩まで行け。ただし、渡る場所は自分で決めろ」
ハクが川を眺める。
「浅いところから行けばいいんだろ?」
「そう思うなら、そうしろ」
(……あ、この言い方。絶対何かあるやつだ)
ハクは、川幅の狭い場所へ相棒を向かわせた。
水深は浅い。
だが、川底には丸い石が並んでいる。
闘蛇が一歩踏み出した途端、足元の石が動いた。
「おっと!」
相棒が身体を揺らす。
ハクが慌てて鞍を掴んだ。
「くそっ、こっちの方が近いのに!」
(近けりゃいいってもんじゃないんだよなあ)
私は川を見た。
少し下流に、流れの緩やかな場所がある。
水深は深いが、底は泥だ。
私たちなら、むしろそちらの方が歩きやすい。
セイランも同じ場所を見ていた。
「スイ」
(うん、あそこね)
私は川へ入った。
水が腹に触れる。
冷たくて気持ちいい。
(あー、最高。もうここで遊んで帰りたい)
そんなことを考えながら進んでいると、セイランが低く声をかけた。
「遊ぶなよ」
(……何で分かるの?)
私は少しだけ首を傾げた。
水の抵抗を受けながらも、足元は安定している。
川を渡り切る頃には、ハクたちよりずっと先へ出ていた。
「……なるほどな」
後ろで、ハクが呟く。
ゴウが頷いた。
「人間の足で渡りやすい場所と、闘蛇が渡りやすい場所は違う」
(そうそう。そこ大事)
「お前たちは闘蛇に乗っている。なら、闘蛇の身体で地形を見ろ」
ハクは、自分の相棒を見下ろした。
「……お前、あっちの方がよかったのか?」
相棒は鼻を鳴らした。
(たぶんね)
ハクが苦笑する。
「悪かったな」
その声を聞いて、私は少しだけ嬉しくなった。
◇◇◇
午後の訓練では、闘蛇笛を使った。
以前、ハクが考えた合図用の笛だ。
短く一度吹けば、闘蛇の注意を乗り手へ向ける。
そこから先は、手綱や体重移動、声や身振りで指示を伝える。
便利ではある。
ただし、万能ではない。
「おい、ハク!」
ゴウが怒鳴った。
「笛を吹いたあと、何をさせたいのか示せ!」
「分かってる!」
「分かってねえから、あいつが止まってるんだろうが!」
(……あはは)
ハクの相棒は、笛を聞いて立ち止まったまま、次の指示を待っていた。
実に正しい。
悪いのは、完全に乗り手である。
「スイ、笑うな」
セイランが言った。
(えっ、私まだ何もしてないけど!?)
いや、ちょっと鼻は鳴ったかもしれない。
◇◇◇
訓練が終わる頃には、日が傾き始めていた。
私は川辺に伏せ、ようやくレンから魚を受け取った。
(……生き返るうう)
朝から走りっぱなしだったのだ。
これくらいのご褒美は必要である。
少し離れたところでは、ハクが相棒の闘蛇の首を撫でていた。
「今日は悪かったな」
相棒が、ゆっくりと目を閉じる。
「俺、お前が何考えてるのか、まだ全然分かんねえや」
(まあ、そりゃそうでしょ)
私は魚を飲み込みながら、二人を眺めた。
ハクは、少し考えてから続けた。
「でもさ。お前が嫌がってるときくらいは、ちゃんと気づけるようになりたいんだよな」
その声は、いつもより静かだった。
私は思わず、食べるのをやめた。
(……へえ)
ハクって、こういうことも言うんだ。
普段は騒がしいし、余計なことを言うし、告げ口もする。
でも、相棒を大切にしているのは本当らしい。
「何見てんだよ、スイ」
ハクがこちらに気づいた。
私は、軽く鼻を鳴らした。
(いや。ちょっと見直しただけ)
「……何だ、その顔」
(褒めてるんだってば)
伝わらないのが、実に残念である。
◇◇◇
「セイラン」
帰り支度をしていたハクが、ふいに声をかけた。
「俺、もっと上手くなりたい」
セイランが振り返る。
「今日みたいに、スイたちが得意な場所を見つけられるようになりたいんだ」
「そうか」
「だからさ。今度、二人で山の奥まで走ってみないか?」
セイランは、しばらくハクを見ていた。
それから、静かに頷いた。
「明日の朝だ」
「えっ」
「日の出前に出る」
「……早くない?」
「嫌なら来なくていい」
「行く! 行くって!」
(……おお)
私は二人を見比べた。
なんだか、いい感じじゃない?
ハクが本気で上手くなろうとしている。
セイランも、それに付き合うつもりらしい。
(青春だなあ)
……などと、のんきに考えていたら。
「スイもだ」
セイランが私を見た。
(……え?)
「明日の朝、走るぞ」
(ちょっと待って。私も!?)
セイランは、当然のように頷いた。
「ハクの相手をしてやれ」
(いや、いいけど! いいけどさ!)
私はレンを振り返った。
レンは、にっこり笑っていた。
「明日も朝飯は後だな」
(そこは交渉の余地があると思うんですけど!?)
私の抗議は、夕暮れの谷にむなしく響いた。
けれど。
明日の訓練が、少し楽しみなのも事実だった。
白淵族の若い戦士たちは、まだまだ成長する。
そして、私たち闘蛇も。
(……よーし。明日はハクに、ちょっといいところ見せちゃおうかな)
私は尻尾を揺らしながら、集落へと歩き出した。
そのときはまだ、知らなかった。
この谷で繰り返した小さな訓練が、やがて大勢の命を左右することになるなんて。