秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第五十七話 若き戦士

 

「スイ、今日は魚なしだ」

 

朝一番、レンにそう告げられた。

 

(……は?)

 

私は思わず顔を上げた。

 

今、何と?

 

「訓練が終わるまで、飯はお預けだってさ」

 

(待って。朝ご飯は? 朝ご飯という概念はどこへ行ったの?)

 

「そんな顔するなよ。俺が決めたわけじゃないんだから」

 

レンは笑いながら、私の首元に手を伸ばした。

 

いつもの鞍を取り付けるらしい。

 

(いや、そういう問題じゃなくてね?)

 

抗議の意味を込めて鼻を鳴らすと、レンは私の鼻先を軽く叩いた。

 

「終わったら多めにやるから」

 

(よし、働こう)

 

我ながら現金なものである。

 

◇◇◇

 

訓練場は、集落から少し離れた谷にあった。

 

広い草地の両側を、岩山が囲んでいる。

 

奥には浅い川が流れ、その先には湿地が広がっていた。

 

闘蛇と人間が一緒に動くには、ちょうどいい場所だ。

 

ただし、今日は少し様子が違う。

 

「おい、ハク! そっちじゃない!」

 

「分かってるって!」

 

「分かってる奴は逆へ走らねえ!」

 

(……朝から元気だなあ)

 

谷の中央で、若い戦士たちが走り回っていた。

 

数は十数人。

 

まだ少年の面影が残る者もいれば、すでに一人前の戦士として狩りに出ている者もいる。

 

その中に、見慣れた顔があった。

 

ハクだ。

 

そして、その少し離れた場所にはセイラン。

 

(おっ、いたいた)

 

私は足を速めた。

 

「スイ」

 

セイランがこちらを向く。

 

相変わらず、朝から顔がいい。

 

(今日も安定のイケメン。ありがとうございます)

 

私は機嫌よく鼻を鳴らした。

 

セイランは私の首筋を一度撫で、鞍の留め具を確かめる。

 

「今日は走るぞ」

 

(はいはい。朝ご飯のためなら頑張りますとも)

 

「……妙に機嫌がいいな」

 

(まあ、あなたの顔も見られたしね)

 

もちろん、そんなことは伝わらない。

 

少し惜しい。

 

◇◇◇

 

「集まれ!」

 

ゴウの声が谷に響いた。

 

若い戦士たちが、一斉に姿勢を正す。

 

「今日は闘蛇との連携を見直す。速く走ることだけ考えるな。乗る者、走る者、地形を読む者。それぞれが勝手に動けば、味方を殺す」

 

さっきまで騒がしかった谷が、静まり返った。

 

ゴウは片頬に古い傷のある、厳つい戦士だ。

 

私は以前から、ちょっと怖いおじさんだと思っている。

 

ただし、言っていることは正しい。

 

「まずは平地だ。向こうの岩まで走り、旗を取って戻れ」

 

谷の端に、小さな旗が立てられていた。

 

「ハク、お前からだ」

 

「おう!」

 

ハクが元気よく返事をする。

 

彼の相棒である闘蛇が、低く身体を沈めた。

 

「行くぞ!」

 

合図とともに、二人が飛び出した。

 

(おお、速い速い)

 

草を蹴り、勢いよく走っていく。

 

ハクは鞍の上で身体を低くし、闘蛇の動きに合わせていた。

 

以前より、ずっと上手い。

 

(……あれ? ハク、結構成長してない?)

 

少し悔しい。

 

私の中では、いつまでも騒がしい弟分のような存在なのに。

 

旗の手前で、ハクが身体を起こした。

 

「よし!」

 

その瞬間。

 

相棒の闘蛇が、急に速度を落とした。

 

「うわっ!?」

 

ハクの身体が前へ傾く。

 

なんとか鞍にしがみついたものの、旗には手が届かなかった。

 

「……あ」

 

谷に沈黙が落ちる。

 

ゴウが腕を組んだ。

 

「何が悪かった」

 

「……止まるのが早かった?」

 

「違う」

 

ゴウは、ハクの相棒を指さした。

 

「お前が旗に手を伸ばす前に、身体を起こした。あいつはお前が止まると思ったんだ」

 

ハクが口を閉じた。

 

「闘蛇は、お前の考えを読めるわけじゃねえ」

 

(……うんうん)

 

私は大きく頷きそうになった。

 

実際、乗り手の体重移動は結構分かる。

 

前に傾けば走りやすいし、後ろへ重心が移れば減速の合図にもなる。

 

もちろん、それだけで全部が伝わるわけじゃないけど。

 

「次!」

 

ゴウが声を張った。

 

「セイラン!」

 

「分かった」

 

(よし、出番!)

 

私は前脚で地面を掻いた。

 

◇◇◇

 

セイランが鞍に乗る。

 

その重みは、もうすっかり慣れたものだった。

 

「行くぞ」

 

短い声。

 

私は地面を蹴った。

 

風が顔に当たる。

 

草が後ろへ流れる。

 

(うっひょー! やっぱ走るの気持ちいい!)

 

大きな身体でも、短い距離なら十分に速く走れる。

 

ただし、馬みたいに延々と駆け続けられるわけじゃない。

 

私たち闘蛇は、重い。

 

勢いがつけば強いけれど、急に止まったり曲がったりするのは苦手だ。

 

だからこそ、乗り手との息が重要になる。

 

旗が近づく。

 

セイランの身体が、わずかに傾いた。

 

(はいはい、分かってますよ)

 

私は速度を緩めず、旗の横へ身体を寄せる。

 

セイランが腕を伸ばした。

 

旗が抜かれる。

 

その直後、彼の重心が後ろへ移った。

 

私は少しずつ速度を落とし、大きく弧を描いて向きを変える。

 

(ほい、帰りまーす!)

 

谷の中央へ戻ると、ハクが口を尖らせていた。

 

「……ずるいだろ、それ」

 

「何がだ」

 

「セイランとスイ、息が合いすぎなんだよ」

 

(ふっふっふ。年季が違うのだよ、年季が)

 

私は得意げに首を上げた。

 

「スイも調子に乗るな」

 

セイランに首筋を軽く叩かれる。

 

(……バレた)

 

◇◇◇

 

次は、川を越える訓練だった。

 

谷の奥を流れる川は、深い場所でも人の腰ほど。

 

しかし、底には滑りやすい石が多く、流れも場所によって違う。

 

ゴウが、若い戦士たちに告げた。

 

「今度は、向こう岸の岩まで行け。ただし、渡る場所は自分で決めろ」

 

ハクが川を眺める。

 

「浅いところから行けばいいんだろ?」

 

「そう思うなら、そうしろ」

 

(……あ、この言い方。絶対何かあるやつだ)

 

ハクは、川幅の狭い場所へ相棒を向かわせた。

 

水深は浅い。

 

だが、川底には丸い石が並んでいる。

 

闘蛇が一歩踏み出した途端、足元の石が動いた。

 

「おっと!」

 

相棒が身体を揺らす。

 

ハクが慌てて鞍を掴んだ。

 

「くそっ、こっちの方が近いのに!」

 

(近けりゃいいってもんじゃないんだよなあ)

 

私は川を見た。

 

少し下流に、流れの緩やかな場所がある。

 

水深は深いが、底は泥だ。

 

私たちなら、むしろそちらの方が歩きやすい。

 

セイランも同じ場所を見ていた。

 

「スイ」

 

(うん、あそこね)

 

私は川へ入った。

 

水が腹に触れる。

 

冷たくて気持ちいい。

 

(あー、最高。もうここで遊んで帰りたい)

 

そんなことを考えながら進んでいると、セイランが低く声をかけた。

 

「遊ぶなよ」

 

(……何で分かるの?)

 

私は少しだけ首を傾げた。

 

水の抵抗を受けながらも、足元は安定している。

 

川を渡り切る頃には、ハクたちよりずっと先へ出ていた。

 

「……なるほどな」

 

後ろで、ハクが呟く。

 

ゴウが頷いた。

 

「人間の足で渡りやすい場所と、闘蛇が渡りやすい場所は違う」

 

(そうそう。そこ大事)

 

「お前たちは闘蛇に乗っている。なら、闘蛇の身体で地形を見ろ」

 

ハクは、自分の相棒を見下ろした。

 

「……お前、あっちの方がよかったのか?」

 

相棒は鼻を鳴らした。

 

(たぶんね)

 

ハクが苦笑する。

 

「悪かったな」

 

その声を聞いて、私は少しだけ嬉しくなった。

 

◇◇◇

 

午後の訓練では、闘蛇笛を使った。

 

以前、ハクが考えた合図用の笛だ。

 

短く一度吹けば、闘蛇の注意を乗り手へ向ける。

 

そこから先は、手綱や体重移動、声や身振りで指示を伝える。

 

便利ではある。

 

ただし、万能ではない。

 

「おい、ハク!」

 

ゴウが怒鳴った。

 

「笛を吹いたあと、何をさせたいのか示せ!」

 

「分かってる!」

 

「分かってねえから、あいつが止まってるんだろうが!」

 

(……あはは)

 

ハクの相棒は、笛を聞いて立ち止まったまま、次の指示を待っていた。

 

実に正しい。

 

悪いのは、完全に乗り手である。

 

「スイ、笑うな」

 

セイランが言った。

 

(えっ、私まだ何もしてないけど!?)

 

いや、ちょっと鼻は鳴ったかもしれない。

 

◇◇◇

 

訓練が終わる頃には、日が傾き始めていた。

 

私は川辺に伏せ、ようやくレンから魚を受け取った。

 

(……生き返るうう)

 

朝から走りっぱなしだったのだ。

 

これくらいのご褒美は必要である。

 

少し離れたところでは、ハクが相棒の闘蛇の首を撫でていた。

 

「今日は悪かったな」

 

相棒が、ゆっくりと目を閉じる。

 

「俺、お前が何考えてるのか、まだ全然分かんねえや」

 

(まあ、そりゃそうでしょ)

 

私は魚を飲み込みながら、二人を眺めた。

 

ハクは、少し考えてから続けた。

 

「でもさ。お前が嫌がってるときくらいは、ちゃんと気づけるようになりたいんだよな」

 

その声は、いつもより静かだった。

 

私は思わず、食べるのをやめた。

 

(……へえ)

 

ハクって、こういうことも言うんだ。

 

普段は騒がしいし、余計なことを言うし、告げ口もする。

 

でも、相棒を大切にしているのは本当らしい。

 

「何見てんだよ、スイ」

 

ハクがこちらに気づいた。

 

私は、軽く鼻を鳴らした。

 

(いや。ちょっと見直しただけ)

 

「……何だ、その顔」

 

(褒めてるんだってば)

 

伝わらないのが、実に残念である。

 

◇◇◇

 

「セイラン」

 

帰り支度をしていたハクが、ふいに声をかけた。

 

「俺、もっと上手くなりたい」

 

セイランが振り返る。

 

「今日みたいに、スイたちが得意な場所を見つけられるようになりたいんだ」

 

「そうか」

 

「だからさ。今度、二人で山の奥まで走ってみないか?」

 

セイランは、しばらくハクを見ていた。

 

それから、静かに頷いた。

 

「明日の朝だ」

 

「えっ」

 

「日の出前に出る」

 

「……早くない?」

 

「嫌なら来なくていい」

 

「行く! 行くって!」

 

(……おお)

 

私は二人を見比べた。

 

なんだか、いい感じじゃない?

 

ハクが本気で上手くなろうとしている。

 

セイランも、それに付き合うつもりらしい。

 

(青春だなあ)

 

……などと、のんきに考えていたら。

 

「スイもだ」

 

セイランが私を見た。

 

(……え?)

 

「明日の朝、走るぞ」

 

(ちょっと待って。私も!?)

 

セイランは、当然のように頷いた。

 

「ハクの相手をしてやれ」

 

(いや、いいけど! いいけどさ!)

 

私はレンを振り返った。

 

レンは、にっこり笑っていた。

 

「明日も朝飯は後だな」

 

(そこは交渉の余地があると思うんですけど!?)

 

私の抗議は、夕暮れの谷にむなしく響いた。

 

けれど。

 

明日の訓練が、少し楽しみなのも事実だった。

 

白淵族の若い戦士たちは、まだまだ成長する。

 

そして、私たち闘蛇も。

 

(……よーし。明日はハクに、ちょっといいところ見せちゃおうかな)

 

私は尻尾を揺らしながら、集落へと歩き出した。

 

そのときはまだ、知らなかった。

 

この谷で繰り返した小さな訓練が、やがて大勢の命を左右することになるなんて。

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