夜明け前。
私は、人生について考えていた。
いや、正確には闘蛇生についてだ。
(……どうして私は、こんな時間に起きているんだろう)
空はまだ薄暗い。
川面には朝靄が漂い、草の先には露がついている。
普段なら、もう少し眠っていても許される時間だ。
なのに。
「スイ、起きろ」
目の前には、すでに身支度を整えたセイランがいた。
(起きてるよ。心だけ寝てるけど)
私は片目を開け、抗議の意味を込めて鼻を鳴らした。
セイランは動じない。
「ハクが待っている」
(……あの男、ちゃんと来たのか)
昨日、自分から早朝訓練を申し出ていたハク。
正直、寝坊すると思っていた。
少しだけ見直した。
「魚は帰ってからだ」
(その情報はいらなかったなあ)
私は渋々立ち上がった。
◇◇◇
谷の入口には、ハクと彼の相棒が待っていた。
「遅いぞ、セイラン!」
「まだ約束の時間前だ」
「……そうだけどさ」
(元気だなあ、この子)
ハクは、すでに鞍の上にいた。
いつもより真剣な顔をしている。
「今日は何をするんだ?」
セイランは山の奥を指さした。
「向こうの尾根を越える」
「それだけ?」
「ただし、いつもの道は使わない」
ハクが目を瞬かせた。
「……道がないところを行くのか?」
「そうだ」
(……え、私も初耳なんですけど)
私はセイランを見上げた。
彼は私の首筋を軽く撫でる。
「行けるな?」
(行けるかどうか、場所を見てから決めさせてほしいな!)
もっとも、セイランが無茶な場所へ私を進ませることは、ほとんどない。
私は鼻を鳴らし、歩き出した。
◇◇◇
山道を外れると、景色は一変した。
人が踏み固めた道は消え、背の高い草と岩が行く手を塞ぐ。
斜面には木の根が張り出し、ところどころ土が湿っていた。
(……なるほどね)
これは、速く走る訓練ではない。
道を選ぶ訓練だ。
セイランは、しばらく私に進路を任せていた。
私は地面の硬さを確かめながら、ゆっくり歩く。
足場が悪い場所は避ける。
身体を通せないほど木が密集している場所も避ける。
九メートル近い身体は、便利なことばかりではない。
(この隙間、人間なら通れるんだろうけどなあ)
私は岩の間を見つめた。
どう考えても、腹が引っかかる。
仕方なく、大きく迂回する。
後ろから、ハクの声が聞こえた。
「こっちの方が近いぞ!」
(……あ)
ハクは、二つの岩の間を指さしていた。
確かに、距離だけなら近い。
でも。
「待て、ハク」
セイランが声をかける。
「そこは通るな」
「何で?」
「足元を見ろ」
ハクが、岩の間を覗き込む。
「……泥?」
「下が空洞になっている」
(そうそう。そこ、嫌な感じするんだよね)
ハクは相棒から降り、小石を拾って泥の上へ投げた。
小石は、音もなく沈んだ。
「……うわ」
「闘蛇は重い。足を取られれば簡単には抜けない」
ハクが、少し青い顔で頷いた。
「……分かった」
私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。
(近道って、だいたい罠があるんだよなあ)
◇◇◇
尾根に着いた頃には、すっかり日が昇っていた。
眼下には、白淵族の山々が広がっている。
森。
川。
湿地。
そして、遠くに見える黒い岩山。
(……あれ、黒角族の方かな)
私は、しばらく景色を眺めた。
「スイ」
セイランが声をかける。
「戻るぞ」
(はいはい)
そのとき、ハクが口を開いた。
「なあ、セイラン」
「何だ」
「俺たち、いつも自分たちの山で訓練してるだろ」
「ああ」
「でも、もし知らない山で戦うことになったら、どうするんだ?」
セイランは、すぐには答えなかった。
「……知らない山では、闘蛇の力を十分に使えない」
「だよな」
ハクは、少し考え込んだ。
「だったら、他の一族の山でも訓練した方がよくないか?」
(……お?)
私は、ハクを見た。
それは、なかなかいい考えでは?
セイランも、少しだけ目を細めた。
「……族長に話してみるか」
ハクが笑った。
「おう!」
◇◇◇
それから数日後。
白淵族の集落に、黒角族の使者がやってきた。
先頭にいたのは、見覚えのある男だった。
キョウ。
黒角族の族長ガクの甥である。
(……おっ!)
私は、思わず首を上げた。
相変わらず、整った顔立ちをしている。
しかも、どこか余裕のある笑みを浮かべているのが、またいい。
(お久しぶりです、イケメン二号!)
私は機嫌よく鼻を鳴らした。
キョウが、こちらに気づいた。
「……相変わらず元気そうだな、スイ」
(元気元気。そっちは?)
私は、軽く尻尾を揺らした。
すると。
「スイ」
背後から、セイランの声がした。
振り返ると、彼がこちらを見ていた。
「……何だ、その顔」
(え?)
私は首を傾げた。
キョウが、面白そうに笑った。
「ずいぶん懐かれているようだ」
「……そう見えるか」
「少なくとも、俺にはそう見える」
(……ん?)
何だろう。
この、微妙な空気。
私は二人を見比べた。
(……ま、イケメンが二人いるなら何でもいいか)
◇◇◇
今回の訪問は、交易でも争いでもなかった。
合同訓練。
白淵族と黒角族が、互いの戦い方を学ぶためのものだ。
以前、ソウの密輸路を巡る一件で、両族は協力して戦った。
しかし、あれは必要に迫られての共闘だった。
最初から一緒に戦うつもりで動いたわけではない。
「黒角族の山道を使わせてもらう」
族長の言葉に、キョウが頷いた。
「その代わり、こちらも闘蛇との動き方を学びたい」
ゴウが腕を組む。
「闘蛇を勝手に動かそうとするなよ」
「承知している」
キョウは、穏やかに答えた。
「俺たちは乗り方を教わりに来たわけじゃない。共に戦う方法を知りたいんだ」
(……おお)
私は少し感心した。
ちゃんと分かっているらしい。
◇◇◇
合同訓練は、黒角族の領域に近い岩場で行われた。
参加した闘蛇は、私を含めて三頭。
残りの闘蛇は、いつもどおり集落で仕事をしている。
黒角族からは、十数人の戦士が参加した。
「まずは、互いの動きを知る」
セイランが言った。
「闘蛇は大きい。近くにいる者が勝手に動けば、踏み潰される」
黒角族の戦士たちが、真剣な顔で頷く。
(……そうなんだよね)
私は、自分の前脚を見た。
人間の足とは、比べものにならない大きさだ。
本気で走っているとき、足元に人が飛び込んできたら。
……考えたくない。
最初の訓練は、単純だった。
闘蛇が進む道を、歩兵が空ける。
それだけ。
しかし。
「おい! そっちへ出るな!」
ハクの声が響いた。
黒角族の若い戦士が、私の進路へ飛び出したのだ。
(うわっ!?)
私は慌てて足を止めた。
大きな身体が前へ傾く。
背中のセイランが、鞍を掴んだ。
危ない。
あと一歩遅ければ、ぶつかっていた。
「……すまない」
若い戦士が、青ざめた顔で頭を下げる。
私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。
(いや、無事ならいいけどさ)
セイランが鞍から降りた。
「闘蛇は馬とは違う」
彼は、私の前脚を指さす。
「走り出せば、急には止まれない。特に岩場ではな」
キョウが、若い戦士の肩に手を置いた。
「覚えておけ。次は死ぬぞ」
声は穏やかだった。
だが、その言葉には、冗談の気配がなかった。
(……おお)
やっぱり、この人。
笑っていても、結構怖い。
◇◇◇
午後になると、訓練は少し複雑になった。
黒角族の戦士たちが岩陰に潜み、白淵族の闘蛇が別の方向から接近する。
合図に合わせて、同時に動く。
狙いは、敵に見立てた木の杭だ。
「行くぞ!」
ハクが声を上げた。
笛が短く鳴る。
私は注意を向け、セイランの指示を待つ。
彼の身体が前へ傾いた。
(よし、行くよ!)
私は地面を蹴った。
岩の間を抜ける。
その横から、黒角族の戦士たちが飛び出した。
……はずだった。
(……あれ?)
誰もいない。
私は思わず速度を緩めた。
セイランも、わずかに身体を起こす。
遅れて、岩陰からキョウたちが現れた。
「……遅れたな」
キョウが苦笑する。
「合図が聞こえなかった」
ハクが顔をしかめた。
「えっ、あんなに大きく吹いたのに?」
「岩に遮られた」
(……あー)
なるほど。
谷では聞こえても、岩山では音が届かないことがある。
笛が便利だからといって、どこでも使えるわけではない。
ゴウが、低く唸った。
「……こりゃ駄目だな」
キョウも頷く。
「俺たちは、お前たちの合図を知らない。知っていても、聞こえなければ意味がない」
セイランは、しばらく考えていた。
「……なら、合図を一つに頼らない方がいい」
ハクが顔を上げる。
「どうする?」
「場所によって、笛と旗を使い分ける。見えない場所では、事前に動く時刻を決める」
キョウが、少し笑った。
「それなら、俺たちにもできる」
(……おお)
私は、思わず感心した。
一緒に戦うって、こういうことなのかもしれない。
◇◇◇
訓練が終わったあと。
私は川辺で身体を休めていた。
隣には、ハクの相棒。
少し離れた場所では、白淵族と黒角族の戦士たちが、今日の反省を話し合っている。
「思ったより難しいな」
ハクが言った。
「俺たちだけなら、もっと簡単に動けるのに」
キョウが頷く。
「俺たちも同じだ」
「でも、今日は一緒に動いた方が強かった場面もあっただろ?」
「ああ」
キョウは、少しだけ笑った。
「闘蛇が正面を押さえてくれれば、俺たちは横から回れる。逆に、俺たちが先に道を確保すれば、闘蛇も安全に進める」
ハクが、嬉しそうに頷いた。
「そうそう!」
(……なるほどね)
私は、二人の会話を聞きながら、川面を眺めた。
白淵族は、ずっと自分たちの山を守ってきた。
黒角族も、同じだ。
それぞれが、自分たちのやり方で生きてきた。
でも。
今日、初めて一緒に動いてみて分かった。
相手のことを知らなければ、協力するのは難しい。
けれど、相手のことを知れば。
できることが増える。
(……これ、結構大事なことかも)
私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。
◇◇◇
その日の夕方。
白淵族の族長と、黒角族の使者たちは、集落の外れで話し合っていた。
私は、少し離れた場所に伏せていた。
もちろん、聞き耳を立てていたわけではない。
……いや、少しは立てていたかもしれない。
「……山の王の使者が、また動いている」
キョウの声が聞こえた。
(……ん?)
私は、顔を上げた。
山の王。
その言葉には、聞き覚えがある。
以前、白淵族を訪れた男がいた。
バジオウ。
楊端和という、山の民をまとめる王に仕える戦士だ。
あのとき、白淵族は彼らの勢力に加わらなかった。
自分たちの山は、自分たちで守る。
それが、族長たちの選んだ道だった。
「……今度は、何の用だ」
ゴウが低い声で尋ねる。
キョウは、少しだけ表情を引き締めた。
「詳しくは分からない。ただ、山の王が周辺の一族に声をかけているらしい」
族長は、黙って聞いていた。
「……そうか」
それだけだった。
私は、しばらく彼らを眺めた。
(……楊端和、か)
前世で映画を観たときのことを、少しだけ思い出す。
美しくて、強くて、やたら格好よかった山の王。
……という印象は、今でも鮮明だ。
ただし、何をしていたかは、あまり覚えていない。
(いや、顔ばっかり見てたからなあ)
我ながら、もう少し真面目に観ておけばよかった。
私は、静かに鼻を鳴らした。
山の向こうで、何かが動き始めている。
それが、私たちの暮らしにどんな影響を与えるのか。
このときの私は、まだ知らなかった。