秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第五十八話 背中を預ける

 

夜明け前。

 

私は、人生について考えていた。

 

いや、正確には闘蛇生についてだ。

 

(……どうして私は、こんな時間に起きているんだろう)

 

空はまだ薄暗い。

 

川面には朝靄が漂い、草の先には露がついている。

 

普段なら、もう少し眠っていても許される時間だ。

 

なのに。

 

「スイ、起きろ」

 

目の前には、すでに身支度を整えたセイランがいた。

 

(起きてるよ。心だけ寝てるけど)

 

私は片目を開け、抗議の意味を込めて鼻を鳴らした。

 

セイランは動じない。

 

「ハクが待っている」

 

(……あの男、ちゃんと来たのか)

 

昨日、自分から早朝訓練を申し出ていたハク。

 

正直、寝坊すると思っていた。

 

少しだけ見直した。

 

「魚は帰ってからだ」

 

(その情報はいらなかったなあ)

 

私は渋々立ち上がった。

 

◇◇◇

 

谷の入口には、ハクと彼の相棒が待っていた。

 

「遅いぞ、セイラン!」

 

「まだ約束の時間前だ」

 

「……そうだけどさ」

 

(元気だなあ、この子)

 

ハクは、すでに鞍の上にいた。

 

いつもより真剣な顔をしている。

 

「今日は何をするんだ?」

 

セイランは山の奥を指さした。

 

「向こうの尾根を越える」

 

「それだけ?」

 

「ただし、いつもの道は使わない」

 

ハクが目を瞬かせた。

 

「……道がないところを行くのか?」

 

「そうだ」

 

(……え、私も初耳なんですけど)

 

私はセイランを見上げた。

 

彼は私の首筋を軽く撫でる。

 

「行けるな?」

 

(行けるかどうか、場所を見てから決めさせてほしいな!)

 

もっとも、セイランが無茶な場所へ私を進ませることは、ほとんどない。

 

私は鼻を鳴らし、歩き出した。

 

◇◇◇

 

山道を外れると、景色は一変した。

 

人が踏み固めた道は消え、背の高い草と岩が行く手を塞ぐ。

 

斜面には木の根が張り出し、ところどころ土が湿っていた。

 

(……なるほどね)

 

これは、速く走る訓練ではない。

 

道を選ぶ訓練だ。

 

セイランは、しばらく私に進路を任せていた。

 

私は地面の硬さを確かめながら、ゆっくり歩く。

 

足場が悪い場所は避ける。

 

身体を通せないほど木が密集している場所も避ける。

 

九メートル近い身体は、便利なことばかりではない。

 

(この隙間、人間なら通れるんだろうけどなあ)

 

私は岩の間を見つめた。

 

どう考えても、腹が引っかかる。

 

仕方なく、大きく迂回する。

 

後ろから、ハクの声が聞こえた。

 

「こっちの方が近いぞ!」

 

(……あ)

 

ハクは、二つの岩の間を指さしていた。

 

確かに、距離だけなら近い。

 

でも。

 

「待て、ハク」

 

セイランが声をかける。

 

「そこは通るな」

 

「何で?」

 

「足元を見ろ」

 

ハクが、岩の間を覗き込む。

 

「……泥?」

 

「下が空洞になっている」

 

(そうそう。そこ、嫌な感じするんだよね)

 

ハクは相棒から降り、小石を拾って泥の上へ投げた。

 

小石は、音もなく沈んだ。

 

「……うわ」

 

「闘蛇は重い。足を取られれば簡単には抜けない」

 

ハクが、少し青い顔で頷いた。

 

「……分かった」

 

私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。

 

(近道って、だいたい罠があるんだよなあ)

 

◇◇◇

 

尾根に着いた頃には、すっかり日が昇っていた。

 

眼下には、白淵族の山々が広がっている。

 

森。

 

川。

 

湿地。

 

そして、遠くに見える黒い岩山。

 

(……あれ、黒角族の方かな)

 

私は、しばらく景色を眺めた。

 

「スイ」

 

セイランが声をかける。

 

「戻るぞ」

 

(はいはい)

 

そのとき、ハクが口を開いた。

 

「なあ、セイラン」

 

「何だ」

 

「俺たち、いつも自分たちの山で訓練してるだろ」

 

「ああ」

 

「でも、もし知らない山で戦うことになったら、どうするんだ?」

 

セイランは、すぐには答えなかった。

 

「……知らない山では、闘蛇の力を十分に使えない」

 

「だよな」

 

ハクは、少し考え込んだ。

 

「だったら、他の一族の山でも訓練した方がよくないか?」

 

(……お?)

 

私は、ハクを見た。

 

それは、なかなかいい考えでは?

 

セイランも、少しだけ目を細めた。

 

「……族長に話してみるか」

 

ハクが笑った。

 

「おう!」

 

◇◇◇

 

それから数日後。

 

白淵族の集落に、黒角族の使者がやってきた。

 

先頭にいたのは、見覚えのある男だった。

 

キョウ。

 

黒角族の族長ガクの甥である。

 

(……おっ!)

 

私は、思わず首を上げた。

 

相変わらず、整った顔立ちをしている。

 

しかも、どこか余裕のある笑みを浮かべているのが、またいい。

 

(お久しぶりです、イケメン二号!)

 

私は機嫌よく鼻を鳴らした。

 

キョウが、こちらに気づいた。

 

「……相変わらず元気そうだな、スイ」

 

(元気元気。そっちは?)

 

私は、軽く尻尾を揺らした。

 

すると。

 

「スイ」

 

背後から、セイランの声がした。

 

振り返ると、彼がこちらを見ていた。

 

「……何だ、その顔」

 

(え?)

 

私は首を傾げた。

 

キョウが、面白そうに笑った。

 

「ずいぶん懐かれているようだ」

 

「……そう見えるか」

 

「少なくとも、俺にはそう見える」

 

(……ん?)

 

何だろう。

 

この、微妙な空気。

 

私は二人を見比べた。

 

(……ま、イケメンが二人いるなら何でもいいか)

 

◇◇◇

 

今回の訪問は、交易でも争いでもなかった。

 

合同訓練。

 

白淵族と黒角族が、互いの戦い方を学ぶためのものだ。

 

以前、ソウの密輸路を巡る一件で、両族は協力して戦った。

 

しかし、あれは必要に迫られての共闘だった。

 

最初から一緒に戦うつもりで動いたわけではない。

 

「黒角族の山道を使わせてもらう」

 

族長の言葉に、キョウが頷いた。

 

「その代わり、こちらも闘蛇との動き方を学びたい」

 

ゴウが腕を組む。

 

「闘蛇を勝手に動かそうとするなよ」

 

「承知している」

 

キョウは、穏やかに答えた。

 

「俺たちは乗り方を教わりに来たわけじゃない。共に戦う方法を知りたいんだ」

 

(……おお)

 

私は少し感心した。

 

ちゃんと分かっているらしい。

 

◇◇◇

 

合同訓練は、黒角族の領域に近い岩場で行われた。

 

参加した闘蛇は、私を含めて三頭。

 

残りの闘蛇は、いつもどおり集落で仕事をしている。

 

黒角族からは、十数人の戦士が参加した。

 

「まずは、互いの動きを知る」

 

セイランが言った。

 

「闘蛇は大きい。近くにいる者が勝手に動けば、踏み潰される」

 

黒角族の戦士たちが、真剣な顔で頷く。

 

(……そうなんだよね)

 

私は、自分の前脚を見た。

 

人間の足とは、比べものにならない大きさだ。

 

本気で走っているとき、足元に人が飛び込んできたら。

 

……考えたくない。

 

最初の訓練は、単純だった。

 

闘蛇が進む道を、歩兵が空ける。

 

それだけ。

 

しかし。

 

「おい! そっちへ出るな!」

 

ハクの声が響いた。

 

黒角族の若い戦士が、私の進路へ飛び出したのだ。

 

(うわっ!?)

 

私は慌てて足を止めた。

 

大きな身体が前へ傾く。

 

背中のセイランが、鞍を掴んだ。

 

危ない。

 

あと一歩遅ければ、ぶつかっていた。

 

「……すまない」

 

若い戦士が、青ざめた顔で頭を下げる。

 

私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。

 

(いや、無事ならいいけどさ)

 

セイランが鞍から降りた。

 

「闘蛇は馬とは違う」

 

彼は、私の前脚を指さす。

 

「走り出せば、急には止まれない。特に岩場ではな」

 

キョウが、若い戦士の肩に手を置いた。

 

「覚えておけ。次は死ぬぞ」

 

声は穏やかだった。

 

だが、その言葉には、冗談の気配がなかった。

 

(……おお)

 

やっぱり、この人。

 

笑っていても、結構怖い。

 

◇◇◇

 

午後になると、訓練は少し複雑になった。

 

黒角族の戦士たちが岩陰に潜み、白淵族の闘蛇が別の方向から接近する。

 

合図に合わせて、同時に動く。

 

狙いは、敵に見立てた木の杭だ。

 

「行くぞ!」

 

ハクが声を上げた。

 

笛が短く鳴る。

 

私は注意を向け、セイランの指示を待つ。

 

彼の身体が前へ傾いた。

 

(よし、行くよ!)

 

私は地面を蹴った。

 

岩の間を抜ける。

 

その横から、黒角族の戦士たちが飛び出した。

 

……はずだった。

 

(……あれ?)

 

誰もいない。

 

私は思わず速度を緩めた。

 

セイランも、わずかに身体を起こす。

 

遅れて、岩陰からキョウたちが現れた。

 

「……遅れたな」

 

キョウが苦笑する。

 

「合図が聞こえなかった」

 

ハクが顔をしかめた。

 

「えっ、あんなに大きく吹いたのに?」

 

「岩に遮られた」

 

(……あー)

 

なるほど。

 

谷では聞こえても、岩山では音が届かないことがある。

 

笛が便利だからといって、どこでも使えるわけではない。

 

ゴウが、低く唸った。

 

「……こりゃ駄目だな」

 

キョウも頷く。

 

「俺たちは、お前たちの合図を知らない。知っていても、聞こえなければ意味がない」

 

セイランは、しばらく考えていた。

 

「……なら、合図を一つに頼らない方がいい」

 

ハクが顔を上げる。

 

「どうする?」

 

「場所によって、笛と旗を使い分ける。見えない場所では、事前に動く時刻を決める」

 

キョウが、少し笑った。

 

「それなら、俺たちにもできる」

 

(……おお)

 

私は、思わず感心した。

 

一緒に戦うって、こういうことなのかもしれない。

 

◇◇◇

 

訓練が終わったあと。

 

私は川辺で身体を休めていた。

 

隣には、ハクの相棒。

 

少し離れた場所では、白淵族と黒角族の戦士たちが、今日の反省を話し合っている。

 

「思ったより難しいな」

 

ハクが言った。

 

「俺たちだけなら、もっと簡単に動けるのに」

 

キョウが頷く。

 

「俺たちも同じだ」

 

「でも、今日は一緒に動いた方が強かった場面もあっただろ?」

 

「ああ」

 

キョウは、少しだけ笑った。

 

「闘蛇が正面を押さえてくれれば、俺たちは横から回れる。逆に、俺たちが先に道を確保すれば、闘蛇も安全に進める」

 

ハクが、嬉しそうに頷いた。

 

「そうそう!」

 

(……なるほどね)

 

私は、二人の会話を聞きながら、川面を眺めた。

 

白淵族は、ずっと自分たちの山を守ってきた。

 

黒角族も、同じだ。

 

それぞれが、自分たちのやり方で生きてきた。

 

でも。

 

今日、初めて一緒に動いてみて分かった。

 

相手のことを知らなければ、協力するのは難しい。

 

けれど、相手のことを知れば。

 

できることが増える。

 

(……これ、結構大事なことかも)

 

私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

白淵族の族長と、黒角族の使者たちは、集落の外れで話し合っていた。

 

私は、少し離れた場所に伏せていた。

 

もちろん、聞き耳を立てていたわけではない。

 

……いや、少しは立てていたかもしれない。

 

「……山の王の使者が、また動いている」

 

キョウの声が聞こえた。

 

(……ん?)

 

私は、顔を上げた。

 

山の王。

 

その言葉には、聞き覚えがある。

 

以前、白淵族を訪れた男がいた。

 

バジオウ。

 

楊端和という、山の民をまとめる王に仕える戦士だ。

 

あのとき、白淵族は彼らの勢力に加わらなかった。

 

自分たちの山は、自分たちで守る。

 

それが、族長たちの選んだ道だった。

 

「……今度は、何の用だ」

 

ゴウが低い声で尋ねる。

 

キョウは、少しだけ表情を引き締めた。

 

「詳しくは分からない。ただ、山の王が周辺の一族に声をかけているらしい」

 

族長は、黙って聞いていた。

 

「……そうか」

 

それだけだった。

 

私は、しばらく彼らを眺めた。

 

(……楊端和、か)

 

前世で映画を観たときのことを、少しだけ思い出す。

 

美しくて、強くて、やたら格好よかった山の王。

 

……という印象は、今でも鮮明だ。

 

ただし、何をしていたかは、あまり覚えていない。

 

(いや、顔ばっかり見てたからなあ)

 

我ながら、もう少し真面目に観ておけばよかった。

 

私は、静かに鼻を鳴らした。

 

山の向こうで、何かが動き始めている。

 

それが、私たちの暮らしにどんな影響を与えるのか。

 

このときの私は、まだ知らなかった。

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