世の中には、言うのは簡単でも、実行するのは難しいことがある。
例えば。
「明日から早起きする」
「甘いものを控える」
「毎日運動する」
……。
(……耳が痛い)
いや、今の私は闘蛇なので。
甘いものは、そこまで食べない。
代わりに魚を食べる。
それも、できればたくさん。
……話が逸れた。
要するに。
何かをすると決めることと、それを実際にできることは、別なのだ。
そして今、白淵族はまさにその問題に直面していた。
◇◇◇
「……三十人?」
ハクが、少し大きな声を出した。
族長の前には、木板が並べられていた。
そこには、戦士たちの人数や、闘蛇の状態が記されている。
もちろん、私には読めない。
……。
(……いや)
正確には、この時代の文字がまだよく分からない。
人間だった頃の知識が、こういうとき役に立たないのは少し悲しい。
「三十人でも、多い」
ゴウが言った。
「集落の守りを考えろ」
「分かってますよ。でも、十人や二十人じゃ、できることが限られるでしょう」
「何をするつもりだ」
「それを考えてるんじゃないですか」
……。
(……また始まった)
最近、この二人はよく言い合っている。
仲が悪いわけではない。
むしろ、互いの腕は認めている。
ただ、考え方が違うのだ。
◇◇◇
白淵族では、楊端和との協力について、具体的な条件をまとめ始めていた。
まず、戦士を何人まで出せるのか。
次に、闘蛇を何頭まで連れていけるのか。
そして、どんな場合なら協力するのか。
……。
(……大変そう)
私は、集会場の外で伏せていた。
今日も会議である。
最近、会議が多い。
そろそろ、会議に参加した闘蛇には魚を支給する制度を作ってほしい。
◇◇◇
「そもそも、人数だけ決めても意味がない」
セイランが言った。
ハクとゴウが振り返る。
「山道を守るのか、荷を運ぶのか、戦うのか。それによって必要な人数は変わる」
「……確かに」
ハクが頷いた。
「闘蛇も同じだ」
セイランは続けた。
「狭い道では、何頭も並べない」
……。
(……そうなんですよ)
私たち、大きいので。
広い場所ならいい。
でも、細い山道で何頭も集まれば、むしろ邪魔になる。
以前、南の古道を調べたときにも、そういう場所があった。
人が十人ほど通るだけでも、順番を考えなければならない道。
そこへ闘蛇を何頭も連れていったら。
……。
(……渋滞)
大変なことになる。
◇◇◇
「ならば、役割ごとに考えるべきだな」
族長が言った。
「戦うための者。道を守る者。荷を運ぶ者。そして、集落に残る者」
ゴウが頷いた。
「それなら、無理な数にはならんでしょう」
「だが、まだ足りん」
族長は続けた。
「我らだけで決めてよい話ではない」
ハクが顔を上げた。
「黒角族ですか」
「ああ」
南の古道は、白淵族だけの土地ではない。
黒角族の領域も通っている。
その道を使って何かをするなら、彼らの考えも聞く必要がある。
(……そうだよね)
勝手に決めたら、怒られる。
私だって、自分の水場を知らない人に勝手に使われたら嫌だ。
……。
(……魚が減るし)
重要な問題である。
◇◇◇
数日後。
黒角族の族長、ガクが白淵族を訪れた。
同行していたのは、キョウと数人の戦士。
そして、以前にも使者として来たダンだった。
「久しいな、レイガ」
ガクが笑った。
「また難しい話を持ってきたそうだな」
族長も、わずかに笑った。
「難しいからこそ、お前に聞きたい」
「そうか」
ガクは、大きく頷いた。
「ならば、聞こう」
……。
(……おお)
この二人も、なかなか良い関係だ。
最初に会った頃は、もっと慎重だった気がする。
今では、互いに遠慮なく話せるようになっている。
私は、少し嬉しくなった。
◇◇◇
話し合いが始まると、ガクはすぐに核心を突いた。
「つまり、楊端和と戦の協力をするかもしれん、ということか」
「ああ」
族長が答えた。
「ただし、我らの判断でな」
ガクは腕を組んだ。
「……なるほど」
「黒角族にも、同じことを求めるつもりはない」
「分かっている」
ガクは頷いた。
「だが、南の古道が関わるなら、我らにも無関係ではない」
……。
(……そう)
そこなのだ。
白淵族だけが協力すると決めても、黒角族の土地を通れなければ、できないことがある。
◇◇◇
「俺は、悪い話ではないと思う」
キョウが言った。
ガクが振り返る。
「理由は?」
「山の王の軍と連携できれば、守りは強くなる」
「……それだけか」
「それに」
キョウは、少し笑った。
「白淵族と一緒に訓練したことで、分かったこともあります」
……。
(……おや)
私たちの話ですか。
キョウは続けた。
「闘蛇は強い。でも、万能じゃない」
……。
(……うん)
よく分かってる。
「狭い道では動きづらいし、急に向きを変えるのも得意じゃない。だから、周りの戦士がどう動くかが大事になる」
セイランが頷いた。
「ああ」
「逆に、闘蛇がいるからこそ、できることもある」
キョウは言った。
「人だけでは越えられない場所を進める。荷を運べる。負傷者を運び出すこともできる」
……。
(……おお)
ちゃんと見てくれている。
私は、少し誇らしくなった。
◇◇◇
「だが、山の王の軍と一緒に動くとなれば、話は別だ」
ガクが言った。
「白淵族の戦士だけでなく、黒角族の土地にも影響が出る」
族長が頷いた。
「そのとおりだ」
「軍が通れば、道が傷む。食料も必要になる。敵を引き寄せることもある」
……。
(……確かに)
大勢が通るというのは、それだけで大変なのだ。
南の古道は、広い街道ではない。
大軍が好き勝手に行き来できる道ではない。
「だから、通行の約束は変えん」
族長が言った。
「楊端和の軍であっても、勝手に通すことはない」
ガクは、満足そうに頷いた。
「それなら、まずはよい」
◇◇◇
「一つ、提案がある」
ダンが口を開いた。
皆が彼を見た。
「軍を出すかどうかを決める前に、知らせを届ける仕組みを整えてはどうでしょう」
族長が頷く。
「続けろ」
「山界で争いが起きても、知らせが遅れれば何もできません。南の古道の通行だけでなく、危険が迫ったときの連絡方法を決めておくべきです」
……。
(……おお)
それは大事。
私は、思わず首を上げた。
「例えば、黒角族の見張りが異変を見つけたら、白淵族へ知らせる。白淵族が受け取った知らせも、必要なら山の王へ伝える」
「……なるほど」
ガクが頷いた。
「それなら、今すぐ戦の約束をせずとも始められる」
「はい」
ダンは続けた。
「危険を知ることと、戦に加わることは別ですから」
……。
(……いいこと言う)
私は、密かに感心した。
知らなければ、何も選べない。
でも、知っているからといって、必ず戦わなければならないわけではない。
◇◇◇
「ならば、まずはそれを進めよう」
族長が言った。
「黒角族と白淵族の間で、知らせを届ける道を決める」
ガクが頷く。
「山の王にも、同じ仕組みを提案すればよい」
「そうだな」
「ただし、知らせを受けたからといって、必ず兵を出すわけではない」
「ああ」
……。
(……うん)
少しずつ、形になってきた。
いきなり大きな約束をするのではなく。
できることから、始めていく。
それなら、無理も少ない。
◇◇◇
話し合いが終わる頃。
トウエンが、静かに口を開いた。
「闘蛇についても、決めておきたいことがあります」
族長が頷く。
「何だ」
「戦に出す数だけでなく、戻ってきたあとのことです」
……。
(……おや)
戻ってきたあと?
トウエンは続けた。
「長い移動をすれば、闘蛇は疲れます。傷を負うこともある。すぐに次の仕事へ出せるとは限りません」
レンが頷いた。
「休ませる時間が必要です」
「……そうだな」
族長は答えた。
「それも条件に入れよう」
……。
(……ありがたい)
非常にありがたい。
私だって、働いたら休みたい。
できれば、魚も食べたい。
◇◇◇
その日の夕方。
キョウが、私のところへやってきた。
「スイ」
(……はい)
私は、川辺で身体を伸ばしていた。
キョウは、私を見上げて笑った。
「また一緒に訓練することになるかもしれんな」
……。
(……そうですね)
私は、軽く鼻を鳴らした。
「今度は、山の王の戦士たちとも一緒になるかもしれん」
……。
(……おお)
それは、少し楽しみ。
楊端和の戦士たちは、山での戦いに慣れている。
バジオウもいる。
きっと、学べることは多いだろう。
……。
(……ただし)
無理な訓練は、お断りです。
私は、ゆっくりと尾を動かした。
キョウは笑った。
「分かった、分かった」
……。
(……何が?)
この世界の人たち。
どうして、私の言葉が分かるみたいに返事をするのだろう。
◇◇◇
夜。
族長は、セイランとハクを呼んだ。
私は、少し離れた場所で待っていた。
「楊端和への返事をまとめる」
族長が言った。
セイランが頷く。
「どうする」
「まずは、知らせを届け合う仕組みを作る」
「ああ」
「そして、必要なときには協力を考える。ただし、兵を出すかどうかは、その都度判断する」
ハクが頷いた。
「闘蛇についても、ですね」
「もちろんだ」
族長は続けた。
「白淵族の独立は変えん。南の古道の約束も変えん」
……。
(……うん)
大事なことは、ちゃんと残っている。
◇◇◇
「……それで、山の王は納得するでしょうか」
ハクが尋ねた。
族長は、少しだけ笑った。
「分からん」
「えっ」
「だが、我らが守れぬ約束をするよりはよい」
……。
(……おお)
私は、静かに目を細めた。
確かに。
相手に喜んでもらうために、何でも引き受ける。
それは、簡単かもしれない。
でも。
できないことまで約束してしまえば、いつか困る。
自分たちも。
相手も。
「約束とは、守るためにするものだ」
族長が言った。
「その場を収めるためにするものではない」
……。
(……いい言葉)
私は、少し感心した。
◇◇◇
翌朝。
白淵族から、楊端和のもとへ使者が送られることになった。
今回は、族長は同行しない。
セイランとハクが、返答を届ける。
そして。
もちろん、私も。
……。
(……また出張)
最近、本当に多い。
私は、川辺で大きく身体を伸ばした。
レンが、私の鱗を確かめている。
「スイ、無理しないでね」
(……もちろん)
私は、ゆっくりと鼻先を寄せた。
無理はしません。
できることを、できるだけ。
それが、今回の約束なのだから。
◇◇◇
山道を進みながら、私は考えた。
守るために、何ができるのか。
その答えは、きっと一つではない。
戦うこともある。
知らせを届けることもある。
誰かを運ぶこともある。
そして、ときには。
戦わないと決めることもある。
……。
(……うん)
それなら、私にもできそうだ。
私は、少しだけ歩調を速めた。
背中には、セイラン。
向かう先は、山の王のもと。
今度は、白淵族からの返事を届けるために。
……。
(……ところで)
帰り道に、魚の多い川へ寄れませんかね。
外交も大事ですが。
食事も、同じくらい大事なのです。