昼食のあいだ、三輪は携帯電話を鞄の中へ入れたままにしていた。
写真は、あとで。
そう約束してもらったのだから、食べ終わるまでは落ち着いていようと思った。
けれど、五条が席を立つたび、少しだけ顔がそちらへ向いた。
「逃げねえよ、たぶん」
隣でパンダが言った。
「えっ」
「五条。写真、撮るんだろ?」
「あ、うん。でも、まだ皆さん食べてるし」
「俺はもう食った。撮ってやるから、声かけてこい」
三輪は一度、真依を見た。
真依は飲み物を置き、こちらを見る。
「今、行ってくれば。午後になったら、また訓練でしょ」
「……うん」
鞄から携帯電話を出す。
五条は教室の入り口で、伊地知と話していた。
三輪が近づくと、すぐに顔を向けた。
「あ、写真?」
「はい。今、お時間、大丈夫ですか」
「もちろん。どこで撮る? 外の方が明るいかな」
そのまま廊下へ連れ出され、三輪は慌ててパンダを振り返った。
パンダがついてくる。渡した携帯電話を、器用な手で受け取った。
「じゃ、二人とも、こっち見て」
三輪は背筋を伸ばした。
隣で五条が、軽く指を立てる。
「三輪ちゃん、顔、硬いよ」
「す、すみません」
「謝らなくていいから。ほら、笑って」
言われて笑おうとしたところで、撮影音がした。
パンダが画面を確かめる。
「うん、今のでいい。見てみろ」
渡された携帯電話を、三輪は両手で持った。
画面の中では、自分が五条悟の隣に立っている。
少し困ったような顔をしていたが、ちゃんと笑えていた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
五条が笑う。
三輪は携帯電話を胸元へ寄せ、もう一度、頭を下げた。
*
午後の訓練が始まると、三輪は鞄を閉じ、稽古場へ戻った。
乙骨の呪力操作を、日下部に見てもらう時間が取れた。
五条も少し離れたところに立ち、二人の様子を見ていた。
「じゃあ、いつもどおりにやってみろ」
日下部に言われ、乙骨が刀へ手をかける。
刀身に呪力が通った。
三輪はその流れを見て、自分の手元へ目を落とした。
同じように、と言うのは難しい。
流れ込む量が、そもそも違った。
「三輪。お前もやってみてくれ」
「はい」
三輪も刀を取り、呪力を通した。
乙骨が、彼女の手元へ身を乗り出す。
「……それ、どうやって、そこで止めてるの?」
「止めてるというより、先まで通してから、外へ出さないようにしてるんだけど」
答えながら、三輪は少し困った。
昨日までの自分なら、そのまま試してもらおうとしたかもしれない。
けれど、乙骨の刀へ流れる呪力を見ると、簡単には言えなかった。
「私、乙骨くんほど多くないから。同じつもりでやっても、違うことになると思う」
「その見方でいい」
日下部が言った。
「乙骨は、まず自分がどれだけ出しているかを掴め。量を減らすことに気を取られて、途中で流れを切るなよ」
乙骨が頷き、もう一度やり直す。
五条が横から口を挟んだ。
「憂太、今の感触、覚えておいて。できたときだけじゃなくて、その前にどこで変わったかもね」
「はい」
三輪は自分の刀を下ろし、乙骨の二度目の動きを見た。
一度目より、途中の揺れが小さい。
乙骨もそれが分かったらしく、少し顔を上げた。
「今、前より……」
「ああ。その感じを、もう一回」
日下部が答える。
繰り返すうちに、三輪も、何を言えば伝わりやすいかが少し分かってきた。
自分ができることを、そのまま相手へ渡せるわけではない。
それでも、隣に立って比べることには、意味があった。
ひと区切りついたところで、乙骨が刀を納めた。
「ありがとう。三輪さんがやってるの、見られてよかった」
「うん。私も、先生に説明してもらえてよかった」
二人で少し笑う。
その向こうで、五条が日下部へ何か尋ねていた。
声は低く、三輪には内容までは聞こえなかった。
*
合同訓練が終わったあと、三輪は歌姫から、少し残るように言われた。
真依とメカ丸は、先に荷物をまとめに行く。
稽古場に残ったのは、三輪と、五条、日下部、歌姫だった。
「今日は、お疲れさま」
五条が言う。
「はい。ありがとうございました」
「午前中の記録も見せてもらったよ。あと、日下部さんとやったときの話。それから、索道の件も」
三輪は顔を上げた。
自分のいないところで、どこまで話が進んでいるのだろう。
「日下部さんが、ああいう言い方をするの、珍しいんだよね」
「見たまま言っただけだ」
日下部が返す。
「だから、僕も、見てみたい」
五条が、三輪へ向き直った。
「一度、僕と手合わせしない?」
三輪は、すぐには返事をしなかった。
誘われたことが嬉しくて、言葉が出なかったのではない。
いま、何を頼まれたのかを、確かめていた。
「……稽古で、ですか」
「うん。ちゃんと、勝負として」
「五条」
歌姫の声が入った。
「勢いで返事をさせないで。今日は、そういう予定で連れてきてないわ」
「だから、今すぐとは言ってないでしょう」
五条は軽く両手を上げた。
それから、少しだけ調子を変えた。
「遊びで言ってるわけじゃないよ。彼女がどこまでできるか、今の等級と、報告書だけで扱うのは無理がある」
歌姫は黙って聞いていた。
「現場へ出す人が、それぞれ勝手に想像するより、一度、僕らがきちんと向き合っておいた方がいい。もちろん、三輪ちゃんが嫌なら、やらないけど」
三輪は、刀袋へ視線を下ろした。
どこまでできるのか。
その話は、学校へ来てから何度もされた。
自分では分かっていることを、相手にも分かってもらうために、刀を持った。
今度の相手は、五条悟だ。
写真を撮ってもらえて嬉しかった人。
そして、誰より強いと教わってきた人でもある。
「私は、やってみたいです」
三輪が答えると、歌姫がこちらを見た。
「断っても、評価が下がることはないわよ」
「はい。でも、お相手していただけるなら、お願いします」
頭を下げる。
顔を上げると、五条が笑っていた。
昼間と同じような笑い方だったが、今度は、返事を待ち構えていたのだと分かった。
「じゃあ、日と場所を決めようか」
「その前に、こちらで確認します」
歌姫が言った。
「立会いと救護、周囲の管理。記録を誰が扱うかも。生徒を集めて騒ぐための場にはしません」
「分かった。硝子にも話しておく」
「日程が決まってからね」
「はいはい」
日下部が、短く息を吐いた。
「俺も立ち会う。言い出すきっかけになった以上、見ないわけにもいかんだろ」
三輪は三人の話を聞きながら、聞いておきたいことを頭の中へ並べた。
木刀なのか、刀なのか。
どこまで使っていいのか。
勝負が終わるのは、どういうときか。
五条がこちらを見た。
「何か、気になる?」
「あの、武器は、普段の刀でいいんでしょうか」
「うん」
「簡易領域も?」
「使っていいよ。僕も術式は使うから」
三輪は頷いた。
「それと、一本入ったら終わり、という形ですか?」
五条が少し首を傾けた。
歌姫と日下部が、彼を見る。
「いや。どちらかが負けを認めるか、続けられないと立会人が判断したら、終わりにしよう。ただし、止められない攻撃はしない。そこは僕も守る」
「分かりました」
三輪は、はっきり返事をした。
五条が、面白そうに口元を上げた。
「そこは、緊張しないんだね」
「え?」
「さっき、写真を頼んだときより、ずっと落ち着いてる」
三輪は、頬が熱くなるのを感じた。
「あれは、その……慣れていないので」
「僕と戦うのも、初めてでしょう」
「はい。でも、何をすればいいかは、分かるので」
五条は一瞬、返事をしなかった。
それから、笑った。
「そっか。じゃあ、よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
*
京都へ戻る列車の中で、三輪は手帳を開いていた。
日程は、これから正式に連絡が来る。
決まったことだけを書いておこうとしたが、ペン先は何度か止まった。
「五条先生と、手合わせ」
小さく口に出す。
隣で真依がこちらを見た。
「何回確かめるのよ」
「うん……聞き間違いじゃなかったんだなと思って」
「先生が二人とも聞いてたでしょ」
「そうなんだけど」
通路を挟んだ席から、メカ丸の声がした。
「断るつもりは、なかったのか」
三輪はペンを止めた。
「やってみたかったから」
「五条悟が相手でも?」
「うん」
三輪は手帳を閉じた。
「どうやって動くのか、近くで見たい。私の剣に、どう返してくるのかも」
メカ丸が、少しこちらを見ていた。
真依が窓へ目を向ける。
「……そういうところは、全然遠慮しないのね」
「した方がよかった?」
「今さら聞かれても、知らないわよ」
返事はそっけなかった。
けれど、三輪が携帯電話で写真を開くと、真依も、横から少しだけ覗いた。
「ちゃんと撮れてた?」
「うん。パンダ、上手だった」
画面の中の自分は、まだ少し緊張している。
三輪は笑って、その写真を保存し直した。
*
正式な連絡は、翌日の放課後に届いた。
翌週の金曜日。
京都側で手配する演習場に、五条と日下部が来る。
家入という東京校の医師も、救護のため同行するそうだった。
歌姫から説明を受け、三輪は集合時刻と、持っていく物を確かめた。
授業と任務の予定は、その前後も含めて調整されていた。
「当日の朝に、慌てて準備しないようにね」
「はい」
三輪は用紙を受け取り、教室へ戻った。
メカ丸が、机の上で工具を片づけていた。
「決まったのか」
「来週の金曜日。場所は、こっちだって」
用紙を見せる。
メカ丸が目を通し、頷いた。
「刀袋、あれを使うのか」
「うん。いつもの」
「持ってこい。留め具を見ておく」
三輪は少し驚いて、彼を見た。
「何か、壊れてた?」
「壊れてからでは遅いだろう。運ぶ前に、確かめるだけだ」
「……うん。じゃあ、お願いしてもいい?」
寮から持って戻ると、メカ丸は袋の口と、肩紐の付け根を順に確かめた。
縫い目。金具。紐の擦れた場所。
三輪は向かいの椅子へ座り、その手元を見ていた。
「自分でも、見たんだけどな」
「なら、二回見ればいい」
「それ、私がやると、何度も確かめてるって言われるんだけど」
メカ丸の手が、一度止まった。
「……出発する前なら、構わん」
三輪は小さく笑った。
「ありがとう」
留め具を閉じる、乾いた音がした。
メカ丸は袋を持ち上げ、三輪へ返した。
「問題ない。予備の紐は入れておけ」
「うん」
「記録は、残すんだな」
「先生たちが。見る人は、限るって言ってた」
「許可が出たら、あとで見せろ」
「分かった。私も見たいから、一緒に」
メカ丸が短く頷いた。
三輪は刀袋を畳み、鞄の上へ置いた。
当日が終わってからの予定が、一つできた。
*
手合わせの前日の夕方、三輪は刀の手入れを済ませた。
明日の天気を確かめる。
集合場所と時刻も、もう一度見た。
師には、すでに話してある。
相手の名前を伝えたときには、随分と長く黙られたが、最後には、学校の先生方の指示をよく聞くようにと言われた。
緊張しているか、とも尋ねられた。
少し、と答えた。
それは本当だった。
五条がどんなふうに戦うのか、考えるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
三輪は左手で鞘を持ち、右手を柄へ添えた。
何度も握った感触が、手の中へ収まる。
明日は、ここから始める。
刀を抜く前に、相手を見る。
立つ位置を確かめる。
それから、届くところへ踏み込む。
三輪は手を離し、刀を袋へ戻した。
携帯電話の画面には、東京で撮ってもらった写真が残っていた。
少し眺めてから、画面を消す。
明日は、きちんと自分の剣で応えたい。
三輪は目覚ましの時刻を確かめ、机の灯りを落とした。