「クソク・サーイ! お前をパーティーから追放する!」
砂漠の大ピラミッド、ダイ・ベーンを目の前にして、片方の手で鼻をつまんだまま、勇者ユウ・シャーが俺を指さした。
「な、なんで……」
「それはお前の調香する香水が、臭すぎるからだ!」
「ぐざずぎるがらだ!」
隣で戦士セン・シーも、鼻をつまんで繰り返した。二人とも、涙まで流している。
俺の手には、ついさっき完成したばかりの小瓶がある。
ピラミッド攻略のために、三日三晩かけて調合した最強のバフ香水。ひと吹きで、全ステータスが十倍になる。
ためしにユウ・シャーへ吹きかけたら、素手で岩を砕き、砂漠の
それから二人そろって膝をつき、砂の上に吐いた。頭の上を回っていたハゲワシが、きりもみしながら落ちてきた。
全ステータス十倍。臭さも、十倍である。
「効果は認める! 認めるけど!」
「ぐざい!」
「今までの香水は、まだ我慢できたんだよ! 鼻の奥がちょっと死ぬくらいで! 鼻栓もしたんだぞ! そしたら、目にしみた!」
「みみにも、ぎだ!」
「でも、材料はいいんだよ……」
足元に開いた調香鞄を、二人に向けた。乳鉢、蒸留器、小瓶が二十本。乾かした薔薇、ラベンダー、白檀、朝摘みの月下香。どこへ行くにも、これだけは手放したことがない。
「この薔薇なんか、王都の花屋で一番高いやつだし」
「なんで薔薇から、あれができるんだよ!? その匂いしか作れないのか!?」
俺のスキルは【調香】。
効果は抜群だと、みんなに言われるのだが。
何を混ぜても、どんな効果をつけても、出来上がる匂いは一つしかない。
調香師らしく言えば、こうだ。
トップノートは、真夏の牛舎。湿った藁と、蠅の羽音まで匂ってくる。
ミドルノートは、雨上がりの豚小屋の裏。三日前の残飯と、ぬかるみ。
ラストノートは、肥溜め。それも真夏の肥溜めを、三日三晩煮詰めたやつ。
残り香は、だいたい一週間。
「うん、この香りしか作れないんだ……」
ユウ・シャーとセン・シーが揃って俺を指さした。
「それだよ!!」
「ぞれだよ!!」
声まで揃っている。
「お前、ピラミッドの中は閉め切りだぞ!? あの臭いがこもったら、ミイラの王より先に俺たちが死ぬ!」
「ぼうずでにじにがげでる!!」
セン・シーの鼻声は、もう何を言っているのか分からない。
「なら、香水は使わないから。ついていくだけでも……」
「いや! お前の服にはもう染み付いてるだろ!」
「あど、あじでまどいなんだよ!」
それは、言い返せなかった。
俺は、後ろを振り返った。
腰に結んだ縄の先で、砂に半分埋もれた棺桶が、日差しを照り返していた。
この中で、妹のカオ・リが眠っている。
十になったばかりの冬に、熱が下がらないまま逝った。調香の練習をしていると、カオ・リはいつも工房へ駆けこんできて、鼻をつまんで「お兄ちゃん、くさい」と笑って言った。言いながら、俺の腰に抱きついて離れなかった。
ダイ・ベーンの奥に眠るミイラの王を倒せば、死んだ者を一人、生き返らせてもらえる。
その噂だけを頼りに、俺は二人とパーティーを組んで、王都からここまで、この棺桶を引いてきた。
「……カオ・リを、生き返らせたいんだ」
「それは知ってる! 俺たちも同じ村出身だぞ!」
ユウ・シャーが、鼻をつまんだまま怒鳴った。
「知ってるから、連れてきたんだろうが! 王は俺たちが倒す! 倒したら、お前を呼びに戻る! だから、臭いの届かないところまで離れててくれ!」
二人とも、目が真っ赤だった。臭いのせいなのか、そうでないのか、俺には分からなかった。
「そこにオアシスがあるから、ちょっと待ってろ、な」
ユウ・シャーは少し声を和らげ、水場を指した。
「……じゃあ、これだけ持っていってくれ」
小瓶を差し出すと、ユウ・シャーの顔が引きつった。
「せめて、ピンチの時に使ってくれ」
ユウ・シャーはしばらく小瓶を睨んでから、腰の剣を抜いた。剣の先に紐を引っかけて、腕を目いっぱい伸ばしたまま受け取る。厚手の革袋へ三重に包んで、背嚢のいちばん底へ押しこんだ。
「ああ、使わないで済むことを祈るよ」
「ありがどな!」
セン・シーが、鼻をつまんだまま、もう片方の手で水袋と干し肉の包みを放ってよこした。
「ごれ、もっでげ!」
二人は、振り返らずにピラミッドの入口へ入っていった。
俺の懐には、同じ鍋で作ったもう一本が残っている。
縄を肩にかけ直して、オアシスの方へ歩き出した。
「……追い出されちゃったよ、カオ・リ」
棺桶が、砂の上をずるずると付いてきた。
◇ ◆ ◇
オアシスは、思っていたよりずっと広かった。
澄んだ泉のまわりにヤシの木が並び、木陰には赤や黄色の花が咲き乱れている。棺桶を木陰に寝かせて、俺もその隣に寝転んだ。
泉の水は冷たくて、甘い。砂漠の真ん中だというのに、蠍の一匹も寄ってこなかった。ピラミッドの前では、あれだけ襲われたのに。
オアシスの魔物は、おとなしいのかもしれない。
「のどかだなあ、カオ・リ」
へんじはない。
棺桶は、木陰でひんやりしていた。
何の気なしに、自分の袖を嗅いでみた。
……染みついている。泉で洗ったくらいでは、落ちそうにない。
寝返りを打つと、目の前に白い大きな花が咲いていた。顔を近づけると、蜜のような甘い香りがする。見上げたヤシの木には実が鈴なりで、泉のほとりには、揉むとすっとする葉が茂っていた。
「そうだ。ここなら、いろいろ作れるぞ!」
跳ね起きて、調香鞄を開けた。
ここには水も花も、いくらでもある。
全ステータス十倍のまま、今度こそ、いい匂いにしてやる。
白い花を籠いっぱいに摘み、ヤシの果肉を削り、泉のほとりの葉を擂りつぶして、銅の蒸留釜に詰めこむ。枯れたヤシの葉で火を焚くと、とぐろを巻いた管の先から雫が落ちはじめ、受けの硝子瓶の水の上に、薄い金色の油が浮いた。
瑞々しく甘い、王都の薔薇にも負けない香りが、オアシスいっぱいに広がった。
ここまでは、いつもいい匂いなのだ。
調香師ギルドの試験の時もそうだった。蒸留が終わるまでは、審査員たちがうっとりと目を閉じていた。最後に【調香】を込めた途端、三人そろって椅子ごと後ろへ倒れた。合格はしたが、ギルドの名簿には、俺の名前の横にだけ「取扱注意」と書いてある。
けれど、一度目の油は、まだ青くさい。匙で掬って釜へ戻し、もう一度蒸留する。今度は火を弱めて、じっくりと。二度目の油は、小指の先ほどしか取れなかった。
日が傾く頃、ようやく溜まった最後の一滴を小瓶に落とし、栓をする前に【調香】を込めた。
小瓶の中で、金色の油が、ぐるりと茶色く濁った。
栓を抜いて、胸いっぱいに吸いこむ。
「うん、この香りだ!」
やっぱり、くさかった。
ヤシの木から鳥が一斉に飛び立ち、泉の魚がそろって底へ潜っていった。
その時、足元の砂が震えた。
砂丘の向こうから、砂煙を上げて何かが走ってくる。
「どいてどいてどいてーっ!」
女の子だった。
肩で切りそろえた黒髪に、蜂蜜みたいな金色の大きな目。王都の舞台にだって、こんなにかわいい子はいない。
なのに、なぜか黒光りする鎧を着こんでいて、籠手と脚甲が夕日を跳ね返している。走るたびに、頭のてっぺんで細い触角が二本、ぴょこぴょこ揺れていた。
その後ろで、砂が山のように盛り上がった。
砂を割って、サンドワームが頭をもたげる。家一軒くらいなら丸呑みにできそうな口が、輪になって開いた。
「なんで、こっちに来るんだよ!」
「いい匂いがしたからーっ!」
「はあ!?」
女の子は泉をひと跳びに越えて、俺の背中に回りこんだ。
サンドワームが、泉の向こうで身をくねらせる。鼻がないのか、臭いにもひるまない。
「お兄さん、強い?」
「調香師だ!」
「弱いんだ!」
言い返せなかった。
サンドワームが、泉を越えて突っこんできた。
輪になった口が、木陰の棺桶へまっすぐ向かう。
「カオ・リ!」
縄に飛びついて、力いっぱい引いた。棺桶が砂の上を滑って、そのすぐ後ろで、大口ががちんと閉じた。
サンドワームが、ゆっくりと頭をこっちへ向け直す。
手の中には、できたての小瓶がある。
「お前は、強いのか?」
「うん、ちょっとね」
「なら、これを!」
振り向いて、女の子の頭から香水を吹きかけた。
女の子は目を閉じて、深く、深く息を吸った。
「はぁぁ……♡ なにこれ……すっごい、いい匂い……♡」
うっとりした声と一緒に、黒い籠手が、ぎしりと鳴った。
女の子は泉のほとりの大岩に手を掛けた。俺の背丈より大きい岩が、土ごと持ち上がる。それから、くるりと逆立ちして、後ろ脚で岩を蹴り転がしはじめた。
転がるたびに、岩が砂をまとって膨らんでいく。泉を一周する頃には、岩はサンドワームの頭ほどの大玉になっていた。
「なんで、逆立ちなんだ!?」
「この方が、力が入るの!」
大玉が、サンドワームの開いた口へまっすぐ突っこんだ。
サンドワームは大玉をくわえたまま仰け反って、砂の中へ潜っていった。
女の子が逆立ちをやめて、パンパンと手を払った。
「……お前、何者だ?」
「私? スカ・ベラよ! 太陽神ケプリツ様の遣い!」
胸を張ったスカ・ベラの額で、扇の形の金の額当てが光った。その上で、触角が得意げにぴんと立っている。
「お兄さんは?」
「クソク・サーイ。調香師だ。で、こっちは棺桶のカオ・リ」
「よろしくね、カオ・リちゃん!」
スカ・ベラは、棺桶にも深々と頭を下げた。
「カオ・リは俺の妹なんだ。ピラミッドの王を倒せば生き返らせてもらえるって聞いて、ここまで連れてきた」
「そっか」
それ以上は、何も聞かれなかった。
ふと足元を見て、慌ててしゃがみこむ。大玉の転がった跡で、花が何本も折れていた。
「ああっ、お花さん、ごめんなさい……踏んづけちゃった」
萎れた茎に、スカ・ベラがそっと指を添えると、花はゆっくりと首をもたげた。
「魔法も使えるのか!?」
「ううん。ちょっと元気にしてあげるだけ」
魔法を使える人間は、王都にも数えるほどしかいない。
……いや、そもそもこの子は、人なのか?
スカ・ベラは、元気になった花を見下ろして、へにゃりと笑った。
「ケプリツ様の遣いはね、ほんとは、枯れかけたものをみんな元気にするのがお仕事なの。みんなは、神殿の花壇を一晩で満開にしちゃうのに、私はこれくらいしかできなくて。一番の落ちこぼれで……とうとう、追い出されちゃった」
「……俺もだ」
「え?」
「今朝、パーティーを追放された。香水が臭すぎるってさ。同じ村から一緒に出てきた、幼なじみの二人に」
スカ・ベラは、棺桶と俺の顔を見比べた。
「……あの子を、生き返らせるために来たのに?」
「ああ。王は、あいつらが代わりに倒してくれるってさ」
「……くさい香水しか作れない調香師と、ちょっとしか元気にできない遣い、か」
「落ちこぼれ同士だな」
「言わないでよ! ……ねえ、クソク」
「ん」
「クソクの香水、すっごくいい香りだね!」
息が、止まった。
三年間、香水を作り続けてきた。いい香りだなんて、一度も言われたことがない。カオ・リにさえ、くさいとしか言われなかった。
「……もう一回、言ってくれ」
「いい香り!」
「もう一回」
「いい香り! ごちそうみたいで、おうちみたいで、お日さまみたいな匂い!」
スカ・ベラは俺の袖に顔をうずめて、すうっと深呼吸した。
「この服、すっごく染みてる! ちょうだい!」
「やらん!」
ごちそう。おうち。
逆立ちして、後ろ脚で、岩を丸めて転がす。
「……なあ。お前、もしかして、フンコロガ」
「スカラベって呼んで!」
「……待て。フンコロガシの、ごちそうで、おうちって、つまり俺の香水は」
「いい香り!」
「最後まで言わせ……いや、言わせないでくれ!」
袖から顔を上げたスカ・ベラが、今度は俺の胸元に鼻を寄せて、くんくんと嗅いだ。
「でも、そっちのは、あんまり香りがしないね」
俺の懐を、指さしている。
ユウ・シャーたちに渡したのと、同じ鍋で作った一本だ。
「そんなはずはない! 同じ配合だぞ!」
懐から小瓶を出して、栓を抜いた。
……くさい。
くさいが、さっきほどではない。目に染みない。
三日三晩かけて作った最高傑作が、たった半日で。
「全ステータス十倍、臭さも十倍……劣化も十倍早いってことか!」
「あいつら、これを切り札にしてるんだ……あいつらが、まずい!」
白い花とヤシの実を、調香鞄に詰められるだけ詰めこんで、立ち上がった。
スカ・ベラが、俺の袖を引いた。
「……いいの? 追い出されたのに」
袖を掴んだ細い指は、振りほどこうとしても、びくともしなかった。
「あいつらなら、俺がいなくたって踏ん張ってる!」
ユウ・シャーは強い。セン・シーも。
「踏ん張って、踏ん張って、最後の最後に、俺の渡した一本を開けるんだ。効かないとも知らずに! だからこそ、見捨てられないんだ!」
スカ・ベラの目が、まんまるになった。
それから、にっと笑った。
「なら、私もいくよ!」
「いいのか?」
「いい香りの人は、いい人だもん。それに、カオ・リちゃんにも会ってみたいし」
スカ・ベラは棺桶の縄をひょいと拾って、肩にかけた。
「この子は、私が転がしてあげる!」
「転がすな! 中身が入ってるんだ!」
◇ ◆ ◇
ダイ・ベーンの入口に戻った時には、空に星が出ていた。
石段の砂に、ユウ・シャーとセン・シーの足跡が、奥へ向かって二つ並んで続いている。戻ってきた足跡は、一つもなかった。
ダイ・ベーンの中は、ひんやりと暗かった。
松明を掲げて、石の通路を奥へ奥へと下りていく。後ろでは、スカ・ベラが棺桶を肩に担いで、鼻歌まじりについてきた。
魔物は、一匹も出てこなかった。
罠の落とし穴は蓋が開いたまま、石の扉は押し開けられたまま。曲がり角の向こうで、何かがばたばたと逃げていく足音がする。
一度だけ、角を曲がった先で包帯巻きのミイラと鉢合わせた。ミイラはこっちを見るなり、干からびた鼻のあたりを両手で押さえて、そのまま後ろへひっくり返った。
「……疲れてたのかな。ユウ・シャーたちが、道を切り開いてくれたんだな」
「そうなの?」
「あいつら、強いからな」
スカ・ベラは、くんくんと鼻を鳴らして、首をかしげた。
それから、肩の上の棺桶を見上げた。
「ねえ。カオ・リちゃんって、どんな子?」
「くさいって言いながら、抱きついてくるやつだよ」
「くさいのに?」
「くさいのに」
「変な子!」
「お前に言われたくねえよ、フンコロ」
「スカラベ!」
階段を三つ下りたところで、通路の先が金色に光った。
剣戟の音と、聞き慣れた悲鳴が、壁に跳ね返ってくる。
王の間は、天井まで黄金だった。
壁という壁に棺が並び、その蓋がひとつ残らず開いている。中から這い出した包帯巻きの死者たちが、のろのろと広間を埋めていた。
正面の壁には、丸い太陽を転がす甲虫の絵が、天井まで大きく描かれている。
その奥の玉座から、黄金の仮面をつけたミイラの王が、ゆっくりと立ち上がった。
「死せる者よ、立て。我が力で、ふたたび歩め。この錫杖の前では、死すら終わりではない」
王が黄金の錫杖を掲げ、先の輪がしゃらんと鳴るたび、倒れたミイラがまた起き上がる。
広間の真ん中で、ユウ・シャーが片膝をついていた。セン・シーの大斧は、柄の半ばで折れている。
「くそっ……クソクの香水、使ったのに……!」
「ぜんぜん、じゅうばいになっでない!」
王の仮面が、俺の肩越しに、スカ・ベラの担いだ棺桶を向いた。
「ほう。そこにも、眠る者がおるな。……その鎧、ケプリツの遣いか。太陽の転がし屋風情が、我が墓に何用だ」
「転がし屋じゃない! スカラベ!」
「その棺桶の娘も、我が兵に加えてやろう」
「カオ・リを、ミイラなんかにさせるか!」
ユウ・シャーが、はっと顔を上げた。
鼻をひくつかせて、それから、くしゃくしゃに顔を歪めた。
「この臭いは……!」
「間に合ったか!」
ユウ・シャーの目に、涙が浮かんだ。臭いのせいなのか、そうでないのか、今度は分かった。
「スカ・ベラ、頼む!」
「まかせて!」
オアシスで作った小瓶を、スカ・ベラの頭から吹きかけた。
「やっぱり、いい匂い……♡」
棺桶をそっと床に下ろしたスカ・ベラが、逆立ちして、手近なミイラを後ろ脚で蹴り転がした。転がったミイラが次のミイラを巻きこみ、包帯が絡まり合って、広間を一周する頃には、天井に届きそうな包帯の大玉になっていた。
「クソク、誰だその子!?」
「ぐざいのに、がわいい!」
大玉が、玉座へまっすぐ転がっていく。王が錫杖を振るって受け止めた。黄金の床に、ひびが走る。
スカ・ベラは逆立ちのまま押しこみ、王はじりじりと玉座まで押し戻されていった。
あと少し、というところで、大玉が止まった。
「あ、あれ……?」
籠手の艶が、すうっと消えていく。スカ・ベラの腕が震えて、膝が落ちた。
バフが、切れた。
王の錫杖が大玉を叩き割り、ほどけた包帯の中から、ミイラたちがまた起き上がる。弾き飛ばされたスカ・ベラが、俺の足元まで転がってきた。
「スカ・ベラ!」
「ご、ごめん……力が、抜けちゃった……」
小瓶を振った。一滴も残っていない。
調香鞄を開けた。白い花も、ヤシの実も、オアシスで詰めこんできた分がまだある。
だが、二度の蒸留には、日が傾くまでかかった。ミイラの群れは、もう目の前だ。
「……時間が、足りねえ!」
その時、俺の前に、二つの背中が立ちはだかった。
「時間は俺たちが稼ぐ! 調香するんだろう!」
「まがぜろ!」
ユウ・シャーが、刃こぼれした剣を構え直した。セン・シーは、折れた斧の柄を両手で握っている。
「お前ら、もう……」
「三年、お前の臭いに耐えたんだ! ミイラの十匹や二十匹、なんでもねえ! かかってこい、くそったれー!」
「ぜんぶ、ぶっどばず!」
セン・シーがミイラの群れに飛びこみ、ユウ・シャーは棺桶の前に立った。
俺は、壁の松明を一本引き抜いて、蒸留釜の下に突っこむ。水袋の水を張り、花と果肉と葉を、ありったけ詰めこんだ。
釜の向こうで、セン・シーが折れた柄でミイラを殴り倒している。倒しても倒しても、錫杖が鳴るたびに起き上がってくる。
ユウ・シャーは、棺桶の前から一歩も動かなかった。
「カオ・リに、指一本触れさせるか! 同じ村のちびっこだぞ!」
湯気が上がり、管が鳴り、受けの瓶に、金色の油が浮きはじめる。
ミイラの腕が、ユウ・シャーの足首を掴んだ。引き倒されたユウ・シャーの上に、包帯の山がのしかかっていく。
「ユウ・シャー!」
「いいから、作れ!」
釜から立つのは、オアシスで嗅いだのと同じ、甘い香りだ。
いつもなら、ここで油を掬って、もう一度蒸留する。青くささを抜いて、少しでもいい匂いに近づけるために。
三年間、ずっとそうしてきた。
床の上で、スカ・ベラが肩で息をしていた。
「……クソクの香水、やっぱり、いい香り……」
もう、言ってもらった。
いい匂いにするのは、やめだ。
その分の手間も、時間も、全部、効き目に回す。
一度目の油を、そのまま小瓶に落として、【調香】を込めた。
金色がぐるりと濁って、茶色を通り越し、黒くなった。
「全ステータス……三十倍だ!」
栓を抜いた途端、王の間の空気が変わった。
壁の松明の炎が、ぼっと茶色く燃え上がった。黄金の壁が、端からみるみるくすんでいく。
何体ものミイラから包帯がひとりでにほどけて、中身を置き去りに、通路の方へするすると逃げ出していった。
取り残されたミイラたちが、一斉に鼻を押さえた。鼻なんか、とっくに干からびているはずなのに。
「な、なんだ、この臭いは……! 三千年、この墓で眠ってきたが、こんな……おえっ」
「みんな、吸え!」
スカ・ベラに、ユウ・シャーに、セン・シーに、残らず吹きかけた。
「ぐっ……くっさああああっ!!」
「ぐざい!! ぐざいげど!!」
ユウ・シャーにのしかかっていた包帯の山が、内側から弾け飛んだ。光る剣を構えて、ユウ・シャーが立ち上がる。
隣では、セン・シーの折れた斧の柄が、ミイラの群れを一振りで薙ぎ払った。
「はぁぁぁ……♡ もっと、いい匂い……♡」
スカ・ベラが、ふらりと立ち上がった。黒い籠手が、さっきとは比べものにならないほど、まばゆく光っている。
くるりと逆立ちして、後ろ脚を玉座へ向けた。
「行くよ、クソク!」
「おう!」
「わ、我は……こんな臭いの中で、二度も死ぬのか……」
スカ・ベラが、ミイラの王を蹴り転がした。王は包帯ごと丸まって、転がるたびに膨らんでいく。ユウ・シャーが剣で、セン・シーが斧の柄で、それを打ち返す。黄金の広間を三往復した大玉を、最後にスカ・ベラが後ろ脚で受けた。
「ボールを、ミイラの玉座にシュート!」
大玉が、玉座へ叩きこまれた。
「超・エキサイティン!!!!」
黄金の仮面が宙を舞って、からん、と床に落ちた。
起き上がっていたミイラたちが、糸の切れたように崩れ落ちていく。
広間に、静けさが戻った。
残ったのは、三十倍の臭いだけだった。ユウ・シャーとセン・シーは、広間の隅で鼻を押さえて、うずくまっている。
仮面の横に、黄金の錫杖が転がっていた。
拾い上げた錫杖は、ずしりと重かった。死んだ者を、立たせる杖。
棺桶の前に膝をついて、蓋を開けた。
カオ・リは、あの冬のままだった。
この杖で起きた者は、みんな包帯巻きのミイラになって歩いていた。カオ・リも、ああなるのかもしれない。
それでもいい。もう一度、目を開けてくれるなら。
胸の上で組んだ小さな手に、錫杖の先を当てて、輪を鳴らした。
しゃらん。
何も、起きなかった。
もう一度、鳴らした。何度も、何度も鳴らした。カオ・リの睫毛は、ぴくりとも動かなかった。
足元で、崩れ落ちたミイラの包帯がほどけている。中にあったのは、ただの乾いた骨だった。
この杖は、死んだ者を生き返らせていたんじゃない。死んだまま、動かしていただけだ。
「くそっ……!」
錫杖が、手から落ちた。
「俺は、なんのために、ここまで……!」
あの冬、熱で真っ赤になった顔で、カオ・リは最後まで俺の袖を握っていた。くさい、と言う元気も、もう残っていなかった。
肩に、小さな手が置かれた。
スカ・ベラが、俺の隣にしゃがんでいた。三十倍の香りをまとった籠手が、まだ、ほのかに光っている。
「クソク。ちょっとだけ、いい?」
「……スカ・ベラ?」
「香水、まだ効いてるよね。三十倍の、いい香り」
スカ・ベラは、自分の籠手の匂いをすんと嗅いで、こくりとうなずいた。それから、カオ・リの頬に、そっと指を添えた。
「ちょっと元気にしてあげるだけ、なんだけど……」
スカ・ベラの指先が、光った。
その光が、正面の壁画へ吸いこまれていく。太陽を転がす甲虫の絵が、端から金色に燃え上がった。描かれた太陽が輝きを増して、王の間を真昼のように照らしていく。
花を、ちょっと元気にする力。
それも、三十倍だ。
スカ・ベラの額当てで、扇の形が、太陽と同じ色に光った。触角の先に、小さな光の粒がともる。黒い鎧の継ぎ目という継ぎ目から、朝日のような金色があふれ出した。
「わ、私……こんなに……?」
自分の手を見下ろしたスカ・ベラの目が、まんまるになった。それから、きゅっと唇を結んで、カオ・リの方へ向き直った。
「太陽神ケプリツ様の名において——起きて、カオ・リちゃん」
光が、棺桶の中へ降りそそいだ。
カオ・リの頬に、赤みが差した。
組んだ指が、ほどけた。睫毛が震えて、ゆっくりと、目が開いた。
「……お兄ちゃん?」
声が、出なかった。
棺桶ごと、カオ・リを抱きしめた。
カオ・リが、小さな手を俺の腰に回して、鼻をすんと鳴らした。
「お兄ちゃん……くさい」
「……ああ。くさいだろ」
「うん。くさい」
笑いながら、泣いた。カオ・リも笑って、それでも、腰に回した手を離さなかった。
「よかった……! よかったね、クソク!」
スカ・ベラが、俺とカオ・リをまとめて抱きしめた。三十倍のバフがまだ残っていて、背骨が鳴った。
カオ・リが、俺の腕の中から、きょとんとスカ・ベラを見上げた。
「……お姉ちゃん、だれ?」
「スカ・ベラよ! ねえ、カオ・リちゃん。クソクの香り、いい香りだよね!」
「……くさいよ?」
「いい香り!」
「くさい!」
「いい香り!」
右からカオ・リに、左からスカ・ベラに、腰をがっちり抱えこまれた。バフの残りで、また背骨が鳴った。
「おい、ユウ・シャー! セン・シー! カオ・リが——」
振り向いた。
ユウ・シャーとセン・シーは、王の間の床に、仲良く並んで白目をむいている。
二人の鼻から、魂のようなものが細く立ちのぼっていた。
「お兄ちゃん。ユウ兄ちゃんたち、どうしたの?」
しゃがんで、ユウ・シャーの頬をつついてみた。
へんじがない。ただのしかばねのようだ。
まあ、外の風に当てておけば、そのうち生き返るだろう。
立ち上がって、スカ・ベラに向き直った。
「スカ・ベラ……ありがとう。お前がいなかったら、俺は……」
「いいの、私もあなたに出会えてよかった」
スカ・ベラが、俺の胸元に顔をうずめて、深く息を吸った。
「うん、この香りがなければ、あなたを見つけられなかったから!」
(完)