【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
御言行録を、書いております。
三百八十七巻目でございます。
最初の一巻は、大樹の神殿で書き始めました。リア様がお生まれになった、その朝に。
『本日、御方、お実りあそばす。木の実よりお出ましの際、お背中をお打ちになる。いと、お痛そうであらせられた』
今読み返しますと、なんとも、のんきな書き出しでございます。
*
二巻目から十巻目までは、ハルトンと、王都のことを書いております。
『本日、リア様、獣の肉をお召し上がりになり、お泣きになる』
『本日、リア様、エールを半分お召し上がりになり、世界が傾いたと仰せになる』
『本日、わたくし、獣の肉を口にいたしました』
最後のものは、リア様の御言行ではございません。わたくしの、懺悔でございます。
*
十一巻目から二十六巻目までは、温室で書きました。
十五年分でございます。
毎朝、御髪をお梳きして、それから、一行だけ書きました。
『本日も、お目覚めにならず。御髪、絡まりなし』
『本日も、お目覚めにならず。御髪、絡まりなし。精霊の方々が、白い花をお運びになる』
『本日も、お目覚めにならず。御髪、絡まりなし。マルタ殿、お見えになる。「まだ寝てんのか、馬鹿」と仰せになる』
五千四百日と、少し。
同じ一行が、続いております。
どなたかが写して本屋に売ったそうでございますが、あれを買われた方は、さぞ退屈なさったことと存じます。
御寝顔の美しさについての三百頁は、わたくしの、筆の滑りでございます。
*
二十七巻目の、最初の頁。
『本日、リア様、お目覚めになる』
それだけ書いて、筆が止まってしまいました。
続きは、三日後に書いております。字が、ひどく乱れております。
*
それから、跳ね鹿亭で、給仕をいたしました。
卓の番号を、毎日、間違えました。
マルタ殿は、三日目に、全部の卓に番号を彫ってくださいました。それでも、間違えました。三番だっつってんだろ、と、毎日、叱られました。
三十五年、毎日でございます。
その三十五年分は、御言行録の、どこにも書いてございません。
リア様の御言行録でございますから。わたくしが叱られたことを、書く必要はございません。
……と、思っておりました。
今は、少しだけ、書いておけばよかったと思っております。
*
マルタ殿がお亡くなりになった夜のことは、書いてございます。
『本日、リア様、わたくしの御髪をお梳きくださる』
それだけでございます。
三回に一回、絡まりました。痛うございました。
あれほどありがたい痛みを、わたくしは、他に存じません。
*
それから、たくさんの方を、お見送りいたしました。
陛下。クラウス殿と、ニナ殿。リナ殿。トビ殿。ミア殿。串焼き屋の、二代目と三代目。ギルドの、眠そうなお顔の受付の方々。
お見送りのたびに、リア様は、木彫りの鳥をひとつ、お彫りになります。
そして、わたくしは、御言行録に一行、書きます。
『本日、リア様、お泣きになる』
翌朝には、こう書きます。
『本日、リア様、煮込みをおかわりなさる』
この二行が、何十回と、続いております。
最初は、お泣きになる日を書くのが、つらうございました。
今は、翌朝の一行を書くのが、楽しみでございます。
*
初代のトビ殿は、六十を過ぎてから、厨房の柱に家訓をお彫りになりました。
その最後の一行を彫っておられるところを、後ろで拝見しておりました。
『一、セレス様に、卓の番号を聞かないこと』
「……トビ殿。それは、あまりに」
「だって、セレス姉ちゃん、いまだに間違えるだろ」
「……間違えます」
「だろ」
白い髭のトビ殿が、十二の時と同じお顔で、笑っておられました。
巫女の名は、大樹の記録にしか残らぬものと思っておりました。
宿屋の柱に残るのも、悪くはございません。
*
近頃、筆が震えます。
櫛を持つ手も、震えます。リア様の御髪をお梳きする時、時々、指から櫛が落ちます。
リア様は、何もおっしゃいません。落ちた櫛を拾って、わたくしの手に、そっと戻してくださいます。
それから、こう仰せになります。
「今日、絡まってない?」
「絡まっておりません」
「よかった」
嘘でございます。三本ほど、絡まっております。
リア様は、たぶん、ご存じでございます。
*
エルフの寿命は、長くて五百年と申します。
わたくしは、五百を、とうに過ぎました。
百四十二年、リア様のお生まれをお待ちしました。
十五年、リア様のお目覚めをお待ちしました。
お待ちするのは、得意でございます。
ですが、今度ばかりは、わたくしのほうが、先に参ることになりそうでございます。
リア様より先には、参りません。……できるだけ。
里を出る時、そうお約束いたしました。
できるだけ、は、果たせたと思っております。
*
今日のことを、書いておきます。
今日は、何もない日でございました。
朝、この家の男の子が、屋根裏までリア様を起こしに参りました。三度呼んで、ようやくお目覚めになりました。神殿にいらした頃と、同じでございます。
昼は、市場へお供いたしました。
リア様は、串焼きを三本お召し上がりになりました。お召し上がりになりながら、いつもと同じことを仰せになりました。
夕方は、食堂の隅のお席で、煮込みを召し上がりました。エールは、半分でございました。世界が、やはり傾いたそうでございます。
何もない日でございました。
二百七十年あまり、こういう日が、続いております。
わたくしは、こういう日を書き残すために、筆を持っていたのだと思います。
神殿で、御方の御言葉を一言も聞き漏らすまいと、手帳を構えていた頃のわたくしに、教えて差し上げたい。
御方の、一番尊い御言葉は。
石碑に刻むようなものでは、ございませんでした。
*
最後の頁に、書きます。
字が、少し震えております。
『本日、リア様、串焼きを三本お召し上がりになる。熱くて、しょっぱくて、雑で、と仰せになる。いつもと同じお言葉。わたくしは、このお言葉が、一番好きでございます』
筆を、置きました。
この巻は、屋根裏の棚の、下の段にお戻ししておきます。
最後の頁だけは、たぶん、リア様が、時々お読みになるでしょうから。
明日の朝も、どなたかが、リア様を起こしに参ります。
わたくしは、それを存じております。
ですから、安心して、筆を置くことができます。