第一章 街道の咆哮
「なあフェル、本当にこっちで合ってるんだろうな?」
フェルの背に揺られながら、俺は地平線まで続く街道を眺めた。朱や黄に塗られた瓦屋根の関所、龍の彫刻をいただく石橋、道端の茶店に掲げられた赤い提灯。これまで旅してきた国々とは、風景の何もかもが違う。東の大国と呼ばれる詠国に入って、まだ二日目だ。
「うむ。この先の大きな街から、美味い匂いが漂ってきておる」
「匂いで道を選ぶなって、何度言ったら分かるんだ」
「あるじー、スイもおなかすいたー!」
俺の肩の上で、スイがぷるぷると跳ねる。
「おい、ムコーダ。昼飯はまだかよ。さっき朝飯を食ったばっかりだなんて理屈は聞かねえからな」
頭の上のドラちゃんまで、ちゃっかり文句を言い始めた。
「はいはい、あとちょっとだけ待ってくれ。次の宿場町に着いたら、ちゃんと食わせてやるから」
そう宥めた、その時だった。
街道の先から、馬の嘶きと男たちの怒鳴り声が響いてきた。
「ん? なんだ?」
「ふむ、血の匂いは薄いな。小物どもが群れておるだけだ」
フェルが耳をぴくりと動かして、軽く駆け足になる。林を抜けた先の街道で、俺は思わず息を呑んだ。
黒漆に金の飾りをあしらった、いかにも身分の高い人間が乗りそうな豪華な馬車が、十数人の盗賊らしき男たちにぐるりと取り囲まれていたのだ。護衛らしき数名の男たちが必死に応戦しているが、数の差は明らかだった。碧い目をした寡黙そうな青年が先頭で剣を振るっているものの、馬車を庇いながらでは分が悪い。
「おいおい、完全に襲われてるじゃないか!」
「ムコーダ、あれは助けるのか?」
「見ちゃったからには、放っておけないだろ……!」
「ふん、ならば我に任せるがいい」
フェルは街道の真ん中にすっと降り立つと、すうっと息を吸い込んだ。
――グオオオオオオオオオオン!!
街道の木々がびりびりと震え、枯れ葉が一斉に舞い上がる。伝説の魔獣フェンリルの咆哮を、ただの盗賊たちが浴びてしまったのだ。
「ひっ……ひいいいいいっ!?」
「な、なんだありゃあ! で、でけえ狼だあああ!」
「逃げろ、逃げろおおお! 食われるぞおおお!」
盗賊たちは武器を放り出し、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように林の中へ消えていった。あまりの逃げっぷりに、護衛の青年まで呆気に取られて剣を下ろしている。
「……ふん。他愛ないな」
「やりすぎだフェル! 助けた側が怖がられたら元も子もないだろ!」
俺が慌てていると、馬車の扉がばんっと勢いよく開いた。
第二章 馬車から飛び出した二人の雛女
「まあ! まあまあまあ! なんて立派な狼さんなのでしょう!」
真っ先に飛び出してきたのは、凛とした顔立ちの美しい少女だった。艶やかな黒髪を結い上げ、きりりとした目元をきらきらと輝かせている。盗賊に襲われた直後だというのに、怯えた様子は欠片もない。むしろ、頬を紅潮させて嬉しそうにフェルへ駆け寄ろうとしている。
「お、お嬢様! お待ちください! まだ危のうございます!」
後ろから、背の高い女官が青くなって追いかけてくる。
「ふふ、冬雪。大丈夫ですよ。この方たちは、わたくしたちをお助けくださったのですもの」
少女がにこにこと振り返る。ところが、そのすぐ後ろから馬車を降りてきた、もう一人の少女の様子は正反対だった。
透けるように白い肌に、ほっそりとした手足。見るからに儚げな美少女が、ふらりとよろめきながら馬車の縁に掴まっている。
「ちょっと……あなた、少しは落ち着きなさい……はあ、はあ……。その体は、わたくしの体なのですよ……」
「まあ、慧月様。わたくしの体でそんなに息を切らして、ご無理は禁物ですわ」
「誰のせいで息が切れていると思っているのよ! 馬車の揺れだけでこれなのよ!?」
なんだかやけに会話がおかしい。とりあえず俺は、一連のやり取りを聞かなかったことにして頭を下げた。
「ええと、お怪我がなくて何よりです。俺はムコーダといいます。旅の冒険者……みたいなものでして」
「まあ、ムコーダ様と仰るのですね。わたくしは黄玲琳と申します。危ないところを、本当にありがとうございました」
深々と礼をした彼女が、顔を上げるなりフェルをじっと見つめる。
「あの、ムコーダ様。こちらの立派な狼さんに……触れてみてもよろしいでしょうか?」
「狼ではない。我は誇り高きフェンリルだ」
「まあああ! お喋りになるのですか!?」
「喋った……!」
玲琳の後ろで、馬車にもたれた儚げな少女――慧月と呼ばれていた――が、ぽかんと口を開けていた。
「あるじー、この人たちいい匂いするー!」
スイがぴょーんと玲琳の足元へ跳ねていく。
「まあ、水の玉が跳ねましたわ!」
「スイはスライムだよー!」
「おい、俺様を忘れんな。俺様は偉大なるピクシードラゴンのドラちゃん様だぞ」
「まあああ! 小さな龍まで!」
玲琳が両手を胸の前で握り、感極まったように震えている。後ろで冬雪さんが「お嬢様、お顔が……お顔が慧月様のお顔で、そのようなはしたない……いえ、でも楽しそうで……」と何やら葛藤していた。
「ふ、ふん。別に、触りたいなどとは思っていないわよ。ただ、その……毛並みがずいぶん良さそうだと思っただけで……」
儚げな少女がそっぽを向きながら、ちらちらとフェルを窺っている。そのうち玲琳がフェルの背を撫で始めると、彼女も我慢できなくなったのか、そろそろと手を伸ばした。
「……もふ、もふだわ……」
「気安く触るでない。……だが、まあ、悪い手つきではないな」
フェルまでまんざらでもなさそうだった。
第三章 尭明殿下のご招待
「殿下、お怪我は」
「問題ない、辰宇。それよりも――」
護衛の青年に声をかけられて前へ出たのは、涼やかな目元の気品ある若者だった。身につけているものは地味だが、立ち居振る舞いが明らかに常人のそれではない。
「私は詠尭明と申す。そなたたちには、命を救われた。この恩は忘れまい」
「いやいや、大したことはしてないです。うちのフェルが吠えただけで……」
「それでも、だ。ぜひとも礼をさせてほしい。ここから半日ほどの場所に、私の縁者の屋敷がある。黄家の本邸だ。そこで食事と寝所を用意しよう。……なにより」
尭明さんは、玲琳の方をちらりと見た。
「玲琳たちが、そなたたちの話を聞きたくて仕方がないようなのでな」
見れば、玲琳は完全に目を輝かせてこちらを見ているし、慧月のほうも、そっぽを向きながら耳だけはこちらへ傾けている。
「どうする、ムコーダ。我は構わんぞ。馳走が出るのだろうな?」
「馳走が出ればよいのではなくて、お前の頭はそればっかりか」
とはいえ、東の大国の食事というのは、俺も興味がある。
「分かりました。それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
第四章 揺れる馬車と、開いた扉
黄家の本邸までは、馬車で半日の道のりだった。
フェルは「我は走る」と言って馬車の脇を並走し、その背に興味津々のお付きの者たちが何度も振り返っている。俺はといえば、なぜか馬車の中に招き入れられ、右に玲琳、左に慧月、向かいに冬雪さんと、女性ばかりに囲まれてしまっていた。スイは玲琳の膝の上、ドラちゃんは慧月の肩の上。完全に包囲されている。
「ムコーダ様は、どちらからいらしたのですか? お荷物がずいぶん少ないようにお見受けしますけれど」
「あー、ええと、俺はちょっと変わったスキルがありまして。荷物は全部そっちに入れてるんですよ」
「まあ、すきる! どのようなものですの?」
玲琳がきらきらした目で身を乗り出してくる。見た目は気の強そうな美少女なのに、中身は好奇心の塊のようだ。さっきから妙に噛み合わない会話の意味が、少しずつ分かってきた気がする。
「まあ、買い物みたいなものですよ。遠くの店から、いろんなものを取り寄せられるんです」
嘘ではない。ただ、ネットスーパーという名前は伏せておく。
「遠くのお店から……? それはつまり、わたくしが寝込んでいても、お菓子を届けてもらえるということですの?」
「え? あ、いや、まあ、そういうことになるのかな……?」
向かいの席で、慧月が「寝込んでいる?」と小声で呟き、じとっと玲琳を睨んだ。
「ちょっと。それは、わたくしの体の話でしょう」
「うふふ、慧月様のお体、本当に動けて最高ですわ」
「あなたねぇ……!」
話の途中だが、俺は手元にそっと意識を向けた。そろそろ昼の準備をしておかないと、後ろでドラちゃんがうるさい。ネットスーパーを開こうとして、画面を見た俺は思わず目を見張った。
(……なんだ、これ。新着コーナーが、六つも増えてる?)
シャトレーゼ。成城石井。角上魚類。カルディ。OK。そして、クランド。
画面の中でそれぞれのロゴが、ぴかぴかと「NEW OPEN」の文字を点滅させている。
(ちょ、ちょっと待て! どれもこれも、とんでもなく魅力的な店ばっかりじゃないか……!)
俺の頬が、勝手に緩んでいく。
「おい、ムコーダ。顔がにやけているぞ」
「ぐっ……うるさい、ドラちゃん。ちょっとスキルが進化しただけだ」
「進化? それはまことか、ムコーダ。ならば美味いものが増えるのだな?」
窓の外から、フェルの声が響く。
「頼むから、馬車の外から大声で食い意地を張るな」
「まあ……『美味いもの』が、増えるのですか」
玲琳と、そして慧月までもが、ぴくりと反応して俺を見た。
俺は両手を挙げて、とりあえず愛想笑いをするしかなかった。
第五章 チョコバッキー事件
黄家の本邸は、想像していたよりもずっと大きな屋敷だった。
赤い門柱をくぐると、広い中庭に池があり、橋があり、朱塗りの回廊が幾重にも続いている。出迎えに出てきた使用人たちは、フェルの姿を見て全員が固まっていた。それはそうだ。
「皆の者、この方々は殿下と私たちの命の恩人です。丁重におもてなしを」
玲琳が凛とした声で言うと、使用人たちが一斉に頭を下げる。普段の彼女を知らないはずなのに、その振る舞いは何とも堂に入っていた。
通された客間は、庭を見下ろす涼やかな離れだった。茶が出され、菓子が出され、俺は何とも落ち着かない気分で座っていると、玲琳が両手を合わせて言った。
「ムコーダ様、よろしければ、お国の甘いものを教えていただけませんか? その遠くのお店の……」
「へ? あ、えーと、お茶菓子ですか」
俺は少し迷った。この世界では、冷たい菓子は貴重品だ。氷自体が王侯貴族でもなければ口にできないご馳走で、アイスクリームなんて、市井の人間は存在さえ知らない。それは、これまでの旅で嫌というほど理解していた。
(だが、この娘さんたちには命を助けられたと言われているしな。ここは、いっちょ奮発しておくか)
ちょうど、シャトレーゼのコーナーが開いたばかりだ。俺はこっそりと画面を操作する。
――チョコバッキー バニラ。
一本六十四円という、元の世界ならワンコインで釣りが来る値段だ。パッケージを見ると、「バニラアイスの中にパリッと食感のスイートチョコを折り重なるようにあしらいました」という説明が目に入る。
(これ、箱で買っても安いんだよなあ。人数分と、念のため多めに……と)
六本入りの箱を、まとめて三つほど購入した。
「ええと、あんまり人前で見せるようなものでもないので、ちょっと厨房をお借りしても?」
氷室を持つ黄家の厨房には、きちんと冷え込む部屋があった。そこで箱を出し、出入りしていた料理人さんたちに驚かれながらも、小皿に一本ずつ載せていく。
「どうぞ。これ、溶けやすいんで、早めに食べてくださいね」
「まあ……これは、何ですの?」
玲琳が、棒の先に付いた白い塊をまじまじと見つめる。
「アイス……って言っても分からないか。冷たくて甘い菓子です。真ん中の棒を持って、そのままかじってください」
「かじる……このまま、ですか」
玲琳は、ぱくり、と大胆に一口かじった。
――パキッ。
小気味よい音が、離れの静けさを破った。
「…………っっっ!?」
玲琳の目が、これ以上ないくらいに見開かれた。
「つ、冷たい……! 冷たくて、甘くて、濃厚で……そして……中から……パリパリ、パキパキと……!」
「そ、それは当然ですわ。わたくしだって、いただきますから」
慧月も、儚い指先でそっと棒を持つと、控えめに一口。
「…………!」
黙り込んだ慧月の肩が、ぷるぷると震え始めた。
「ちょっと、お嬢様! お顔が真っ赤に――」
「冬雪、うるさいわ。……ねえ、これは、なに。氷の中に、板……? いえ、違う。苦くて、甘くて、溶けて……ああっ、もう一口!」
「慧月様、冷たいものをそんなに急いで召し上がっては、そのお体では――」
「うるさいと言っているでしょう! わたくしの体のことは、わたくしが一番……っ、ああ、お腹が冷えるわ。でも美味しい……!」
「はっはっは、中身は慧月様のほうでも、それは玲琳の体だ。無理は禁物だぞ」
尭明さんが笑いながら棒を受け取ったが、一口かじった途端、凍りついたように動かなくなった。
「……殿下?」
「……辰宇。これは、皇后陛下に何と報告すればよいのだろうか」
「殿下、それは我々も同じものを食してから判断することかと」
寡黙なはずの辰宇さんまで、さっきから二本目に手を伸ばしている。
「おいしー! つめたーい! あるじー、スイ、おかわりー!」
「ふむ、悪くない。我にはもう少し量があってもよいが」
「ふん、俺様はチョコのほうが好みだな。もう一本寄越せ」
「お前らは遠慮という言葉を知らんのか……」
そんな中、玲琳が俺の手をがしっと両手で包んだ。
「ムコーダ様! わたくし、人生で一番美味しいと思いました!」
「あ、あはは……そりゃ、よかった」
(まずいな。これは、ちょっと出し過ぎたかもしれない)
案の定、その夜遅く、尭明さんが改まった様子で俺を訪ねてきた。
「ムコーダ殿。明後日、この黄家で、皇后陛下をお招きした晩餐会が催される。実は料理人たちが、先日の火事で調理場の道具を損ね、満足な献立を組めずに困っているのだ」
「は、はあ」
「そこで頼みたい。晩餐会の料理を、そなたに任せたい」
「お、俺がですか!? しかし、皇后陛下への献上料理なんて……」
「報酬は金貨二百枚と、皇室の宝物庫から、望みの品を一つ。受けてもらえまいか」
金貨二百枚。俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「おい、ムコーダ。受けろ。美味いものが出るなら、我は許可する」
「お前が許可するな。……分かりました。お引き受けします。ただし、俺のやり方で作らせてもらいますよ」
「もちろんだ。礼を言うぞ」
こうして俺は、異国の晩餐会で料理の腕を振るうことになってしまった。
第六章 晩餐会の前菜、そして辛い誘惑
そして、当日。
黄家の大広間には円卓が並び、金糸の織物がかかり、提灯の灯りが夕暮れの中でゆらゆらと揺れていた。上座に座るのは、豪放磊落と噂の皇后・絹秀様。その両隣には、尭明さんと玲琳、慧月、そして辰宇さんや冬雪さん、莉莉さんといった顔ぶれが並んでいる。
厨房は、さながら戦場だった。
「ムコーダ殿、それが……異国の食材ですか」
黄家の料理長が、俺の取り寄せた食材をおそるおそる眺めている。
「ええ、まあ。ちょっと企業秘密がありまして」
最初に出すのは、カルディの生ハムだ。薄く削がれた生ハムを皿に美しく広げ、中央にランプフィッシュキャビアを盛る。黒くつやつやした粒は、まるで小さな真珠のようだ。そこに、ライムリーフの香りをきかせたドレッシングで和える。
(柑橘の爽やかな香りと、生ハムの塩気。ここに黒いぷちぷちの食感が重なれば、きっと最高の導入になる)
皿を給仕に運ばせると、大広間から歓声が上がった。
「まあああ! これは何ですの!? 黒い粒が……真珠のように!」
玲琳が真っ先に箸を伸ばし、ひとかけ口に運ぶ。
「…………っ! ぷち、ぷちっと弾けて……塩味の中に、果実のような香りが……ああ、これは何という……!」
「く、黒い粒が舌の上で踊って……! なんて下品な……いえ、素晴らしい!」
慧月も珍しく目を輝かせ、その細い指で次の一口を口へ運んでいる。
「おお、ムコーダ殿の料理は初めてだが、これは見事だな」
絹秀様が豪快に笑い、杯を傾けた。
続いて運ぶのは、加賀野菜の海鮮マーラータンだ。角上魚類から取り寄せた海老、ホタテ、イカ、そしてOKで買い揃えた加賀れんこん、金時草、源助大根。花椒と豆板醤をたっぷり利かせた真っ赤なスープに、刀削麺が泳いでいる。
「ぐつぐつ……いい匂いだな。でも、少し辛すぎたかな?」
俺が心配していると、給仕から呼び出しが来た。大広間に出ていくと、玲琳が涙目で赤い唇をぱくぱくさせている。
「か、辛いですわ……! 口の中が、燃えるようで……! でも、でも……!」
「慧月様、お水を……!」
「いらないわよ! ……うう、舌が痺れる……こんなに痺れるのに、どうして手が止まらないのよ……!」
慧月も涙目で椀に顔を寄せていた。その隣では、莉莉さんが「お嬢様、これは辛いです、本当に辛いです……!」と言いながら、なぜか二杯目を所望している。
「…………」
辰宇さんは何も言わず、黙々と三杯目のおかわりをしていた。
「ムコーダ殿、あれは……」
「ええ、女性にはちょっと辛すぎたかもしれません。でも、病みつきになる味でしょう?」
「確かに、あの痺れる辛さが後を引く。……困ったものだ」
尭明さんまで、苦笑しながら額に汗を浮かべていた。
第七章 料理人たちの敗北
厨房に戻ると、すでに炭火がぱちぱちと熾っていた。
三品目は、角上魚類から取り寄せたのどぐろだ。丸々と太った赤い魚に塩をふり、炭火でじっくりと焼き上げていく。皮目がぷくりと膨れ、脂がじゅわっと滴って炭に落ちるたび、香ばしい煙が立ちのぼった。
「……ムコーダ殿。魚を焼く匂いだけで、こんなにも腹が鳴るものですか」
料理長が、悔しそうに腹を押さえている。
焼き上がったのどぐろを大皿に盛って運ぶと、広間が静まり返った。
「…………とろける」
そう呟いたのは、意外にも皇后の絹秀様だった。
「皮はぱりっと、身はふわりと、なのに脂がこんなにも甘い。これは、極上品だな」
「はい、陛下! これは……一口で、涙が出そうになります」
玲琳が頬に手を当てて、うっとりと目を閉じる。その隣で、慧月が小さく切り分けた身をそっと口に運び、ふるふると震えていた。
「……おいしい。でも、このお体では、たくさんは食べられないのよね……」
「慧月様、ご自分の体ではありませんもの。わたくしがその分もいただきますわ」
「やめなさい! それは、わたくしの皿よ!」
続いて、シーザーサラダ。OKで調達した京野菜の水菜と壬生菜、赤みの美しい京人参に、カルディのパンチェッタをカリカリに焼いて散らす。そこに、成城石井のシーザードレッシングをたっぷりとかけた。
運んでいった皿を見て、尭明さんが首をかしげた。
「これは……葉物の料理か。見た目は素朴だが」
「まあ、一口食べてみてください」
尭明さんがフォークを刺し、口へ運ぶ。次の瞬間、彼の表情が凍りついた。
「……なん、だ、これは。酸味と塩気とこのまろやかな風味と……何が入っているのか、見当もつかない」
そこへ、厨房から顔を出した料理長が、ドレッシングの残りを指先にとって舐めた。
「…………。卵黄の乳化……ではない、いや、そうかもしれないが……この熟成されたチーズの風味……ニンニクの加減……ああ、だめだ。何ひとつ、再現できる気がしない」
「再現できないのか、料理長」
尭明さんが唖然とした顔で問いかけると、料理長は膝から崩れ落ちた。
「殿下、これは……何年修業しても追いつけぬ味です……」
「いや、ドレッシングを買ってきただけなんですが」
俺の小声のツッコミは、誰にも届かなかった。
四品目は、俺が一番気合いを入れた一品だ。ブラッディーホーンブルのブリスケットを、ほりにしのスパイスで漬け込み、炭火でじっくりと焼き上げる。肉が柔らかくなるまで何時間もかかったが、ネットスーパーで買った炭の火加減に助けられた。
「お箸でつまめるように、ひと口大に切って……と」
皿に盛りつけた肉は、断面が薄紅色に輝いていた。
運んでいくと、広間の空気が変わった。
「……この香り……。何だ、この魅惑的なスパイスは」
皇后様が、箸を手に身を乗り出す。
一口。
「…………うまい」
「陛下!?」
「うまい。うまいぞ、ムコーダ殿! 肉が舌の上でほどけて、スパイスの香りが鼻に抜ける! これは、国ひとつ買えるほどの味ではないか?」
「お、大げさです」
別室のフェルは、ブリスケットを丸々一頭分ぺろりと平らげて、満足そうに喉を鳴らしていた。
「うむ。これだ、ムコーダ。我が求めていたのは、この肉汁だ」
一方、厨房では、料理人たちがほりにしのスパイスを小皿に出して、必死に配合を再現しようとしていた。
「この黒胡椒は……いや、違う。この辛みは唐辛子か……? 花椒? まさか……」
十種類ほどの香辛料を混ぜては味見をし、また首を振る。
「……だめだ。どれも、似て非なるものだ……」
「あの、それ、買ったやつなんで。真似るのは無理だと思います」
五品目は、コカトリスのジーパイ。カルディのジーパイキットを使って、鶏肉に衣をつけ、揚げていく。じゅわあっと油の音が響き、黄金色の巨大な唐揚げのようなものが出来上がった。
「揚げたてを、熱いうちに!」
給仕に運ばせると、玲琳たちが目をぱちぱちさせながら、紙に包んだジーパイを両手で持った。
「まあ……大きな揚げ物ですわ。これを、このまま、かじるのですか?」
「ええ、屋台風に豪快にどうぞ」
ざくっ。
「…………! ざくざくの衣と、じゅわあっと溢れる肉汁と、この香ばしいスパイスは……!」
玲琳が目を輝かせ、もう一口、また一口とかじりつく。
「ちょっと、わたくしにも! ……ああ、おいしい。料理長、これと同じものをお願い。毎日でいいわ」
慧月が上から目線で命じると、料理長は青い顔で頭を下げた。
「か、かしこまりました……。ですが、あの衣は……」
厨房の隅では、料理人たちが残った粉の袋の匂いを嗅いで、「こんな複雑なスパイス、どこで手に入るのか」と頭を抱えていた。
最後の主食は、オークジェネラルの魯肉飯だ。オークジェネラルの極上バラ肉を醤油と八角、五香粉でじっくり煮込み、白飯の上にとろりとかける。
出来上がった鍋を、料理人たちが取り囲んだ。
「…………」
誰も何も言わない。ただ、一人ひとりが小さな匙で味見をして、静かに目を閉じた。
「……舌を巻くとは、このことか」
料理長が、深々と頭を下げた。
「ムコーダ殿。これは、市販のものではありませんな。この肉の煮込み、火の入れ具合、味の染みわたり方……あなたの腕前は、我ら料理人の誇りに値する」
「え? いやいや、俺なんて、ただの趣味みたいなもので……」
「ご謙遜を。弟子入りを、お願いしたいくらいです」
俺は、ちょっと照れくさくなった。
第八章 奇跡と、悪女たちの暴走
いよいよ最後のお楽しみだ。
食前酒と食後酒を兼ねて、俺が用意したのは、クランドの「奇跡のクラフトジャスミンハイ」だった。静岡県産のジャスミン茶葉を麦焼酎に漬け込んだ、アルコール度数七パーセントの優しい一本だ。ただ、お酒は大人用だ。皇后様と、尭明さんや辰宇さんたちには杯に注ぎ、雛女であるお嬢さん方には、同じジャスミン茶を氷で冷やして出すことにした。
「ほう……これはまた、花の香りが。飲み口も軽やかだな」
絹秀様が杯を傾けると、広間にふわりとジャスミンの香りが広がった。
「国産のジャスミン茶を、焼酎に漬けてあるそうです。口当たりがいいから、飲みすぎには気をつけてください」
「ははは、ムコーダ殿は、本当に気が利くな」
そして、いよいよ最後の一皿だ。
シャトレーゼのパリパリチョコショート。ベルギー産クーベルチュールチョコレートを使ったスイートチョコクリームと、ミルクチョコクリーム、そして板チョコのパリパリとした食感が楽しめる、一個四百円ちょっとの小物ケーキだ。人数分を、丁寧に皿に並べる。
「どうぞ、デザートです。チョコレートのケーキです」
女性陣の前に、ことりと皿を置いた、その瞬間だった。
「…………」
玲琳の動きが止まった。
「お、お嬢様……?」
冬雪さんが恐る恐る声をかけると、玲琳はふるふると震える手でフォークを持ち、パリッと板チョコを割った。
――パリッ。
「…………っっっっ!!!」
玲琳が、言葉にならない声を上げた。
「あ、あああ、あ、あ……! チョコレートが……何層にも……クリームがとろけて、板がぱりぱりと……ああ、わたくし、わたくし、これ以上の幸せを、知りません……!」
「ちょっと! わたくしの分まで食べないで!」
慧月が慌てて皿を抱え込むが、その細い腕では守りきれない。玲琳はあっという間に自分の皿を平らげると、迷わず隣の席に手を伸ばした。
「慧月様、そのお体では召し上がれませんでしょう。わたくしが代わりにいただきますわ!」
「何を言っているの! 甘いものは別腹よ!」
「別腹なのは、わたくしの体のほうですわ!」
「お、お嬢様方! お待ちください!」
莉莉さんまでもが参戦して、卓の上は大混乱に陥った。
莉莉さんが慧月の皿を守り、冬雪さんが玲琳を後ろから羽交い締めにしようとし、辰宇さんは無言で自分の皿を懐に隠している。
「あっはっは! 玲琳が暴れるとは、珍しいものを見たな!」
絹秀様は、杯を片手に大笑いしていた。
「ムコーダ殿!」
気づけば、玲琳が俺の前に立っていた。頬を紅潮させ、瞳をらんらんと輝かせている。
「このお菓子、毎日食べられますか!? わたくし、この健康な体になって、初めて全力で何かを求めたいと思いました!」
「ま、毎日は無理です! あれは遠くの店から取り寄せているものでして!」
「ならば、わたくしを連れて行ってください! ふつつかな者でございますが、どうか、お菓子係として!」
「お菓子係って何だ!?」
「ムコーダ、そろそろ潮時だぞ」
足元でフェルが低く唸った。ドラちゃんは天井近くまで飛び上がり、スイは俺の肩によじ登っている。
「あるじー、あの人たち、目がこわいよー」
「おい、ムコーダ。さっさと逃げるぞ。俺様はあんな目の連中に絡まれるのはごめんだ」
俺はとっさに、尭明さんから報酬の金貨二百枚の入った袋をひったくるように受け取った。
「で、では皆さん、俺たちは先を急ぎますので! 晩餐会、お疲れさまでした!」
「ああっ! お待ちなさい!」
俺はフェルの背に飛び乗り、スイとドラちゃんを抱えて、広間の窓から庭へ飛び出した。
「逃がしませんわあああ!」
振り返ると、玲琳が裾をたくし上げて走ってくるのが見えた。しかも、速い。慧月の体は、病弱な玲琳の体と違って、驚くほど健康なのだ。
「な、なんだあの速さは!?」
「うむ。あの小娘、我の足に食らいついてくるぞ。見上げた根性だ」
「感心してる場合か!」
「お嬢様ーっ! お待ちくださいーっ!」
冬雪さんが全力で追いかけ、その後ろを辰宇さんが無言で走り、さらにその後ろを、輿に乗せられた慧月が莉莉さんたちに担がれて追いかけてくる。
「ちょっと! わたくしのチョコショートの残りを、返しなさい! ムコーダ! 待ちなさい!」
「そんなものは持ってませんって!」
「ムコーダ殿ー! 玲琳をどうか止めてくれーっ!」
尭明さんまでもが馬で追いかけてくる。
黄家の屋敷を飛び出し、街道を駆け抜け、小さな村を抜け、それでも玲琳の声は止まらない。
「ムコーダ様ーっ! ふつつかな者でございますがーっ! どうかわたくしにーっ、あの氷菓をーっ!」
夕焼けの空の下、俺はフェルの背で頭を抱えた。
「次の街では、絶対に新しいコーナーが増えてもほどほどにしておくんだ……!」
「ムコーダ、何をぼやいておる。それよりも、背後の小娘が追いつきそうだぞ。もう少し飛ばすぞ」
「頼むから、もう勘弁してくれーっ!」
こうして、俺たちの東の大国での旅は、玲琳たちとの世にも奇妙な追いかけっこで、幕を閉じることになったのだった。
――ちなみに、翌朝になっても玲琳の足音は聞こえていた。
(了)