第9話 約束
夏休みに入ると、練習の時間を大きく変え、早朝から練習を開始するようにした。
まだ陽が高くなる前にグラウンドへ出て、気温が上がり始める頃には切り上げる。その代わり、朝の一時間半ほどに、その日やるべきことを詰め込むようにして、効率化を図る。
ウォーミングアップから基礎、フォームの確認。その日に見る課題を絞り、余計な待ち時間は減らす。休むところではきっちり休ませ、終わればクールダウンまで済ませる。
夏に入る前より時間そのものは短い。けれど、練習の中身はずっと濃くなっていた。
「今日もう終わり?」
首に冷やしたタオルを掛けたリーベが、グラウンド脇の時計を見上げる。時刻は八時半。そろそろ練習を切り上げる時間だ。
リーベの肌には汗が滲んでいる。日差しも少しずつ強くなってきている。
「終わりだな。片付けよう」
「午後はどうするの?」
「ストレッチとケアだけにしとくつもりだ」
「暇じゃーん!!」
「夏休みなんだから遊べばいいだろ」
「みんな合宿でいないじゃーん!?」
確かに今のトレセンは閑散としていた。多くのウマ娘は夏季合宿に向かっているからだ。俺たちは合宿への参加を見送った。駄々をこねるリーベの説得が大変だったが、いつもの医療体制から離れた場所で、負荷の高い練習をさせることには抵抗があった。
「黒瀬さん、片付け終わりました」
声に振り向くと、ハルが使い終わったマーカーを抱えて戻ってきた。
「ありがとう。そこ置いといて」
「はい」
ハルも朝練にはほぼ毎日顔を出している。合宿には参加しないことにしたそうだ。
ハルの練習は飽きないように少しずつ手法こそ変えているものの、反復練習が中心だ。同じことを繰り返しているように見えても、春先とは見違えるほど成長していた。より良い走り方が体に染み付いていっている。
目立つ変化ではない。けれど、こういう積み重ねほど後になって大きな差になってくるものだ。
「リーベちゃん、今日どうする?」
「どうしよっかぁ……」
リーベは首に掛けたタオルの端を弄りながら考える。
「とりあえずアイス食べたい」
「それは昨日も言ってたよ」
「夏なんだから毎日食べてもいいじゃん」
「ん〜よくないと思うけど……」
ハルが苦笑する。
「じゃあ商店街行く?」
「一昨日行ったじゃん」
「それもそうか」
商店街には馴染みの店が増えたらしい。随分と可愛がってもらっているようで、野菜や果物などしょっちゅうもらってきている。お陰で部屋の冷蔵庫は食べ物で溢れている。
「じゃあ涼しいところ」
「図書館とか?」
「課題する?」
「…………」
「その間は何?」
露骨に目を逸らしたリーベに、ハルが笑う。
「まだ夏休み始まったばっかりだよ?」
「そう言ってると最後に困るんだよ」
「ハルちゃんこそちゃんとやってるの?」
「ちょっとずつやってるよー」
「裏切り者! 課題ってのはギリギリまでやらないのが常識じゃないの!?」
「誰から聞いたのそのイヤな常識!?」
二人の声が朝のグラウンドに響く。
結局、午前中のうちに一度寮へ戻り、昼から図書館で宿題。その後は商店街で冷たいものでも食べよう、というところに落ち着いたらしい。
二人の会話を聞きながら、俺はパソコンを閉じる。
春までなら、ここにもう一人いた。
クロノはリギルへ所属してから、練習の場所も時間も合わないことが増えた。そして夏休みに入ると、そのままチームの合宿へ参加している。
「クロノちゃん、そろそろ帰ってくるんだっけ?」
リーベが冷たいタオルで頬を拭きながら聞く。
「もうすぐじゃない?」
「お土産あるかな?」
「……そこなんだ、現金なやつだな〜」
そう言いながらハルはリーベの髪を触りながら軽やかに笑った。
三人で顔を合わせる機会は、春に比べれば随分減った。
それでも、二人の会話からクロノの名前が消えた日はほとんどなかった。
そして八月末。
合宿から戻ったクロノを含めた三人は、久しぶりに練習とは何の関係もない時間を一緒に過ごすことになった。
♦︎
▼ 商店街 夏祭り 夜
陽が沈んでも、昼間の熱はまだ街のあちこちに残っていた。
普段なら店じまいを始める時間の商店街に、今夜ばかりは人が溢れている。軒先には赤と白の提灯が連なり、屋台から漂う焼きそばのソースや醤油の焦げる匂いが、ぬるい夜風に乗って流れていた。
太鼓の音。
子供の笑い声。
屋台の呼び込み。
時折聞こえる鈴虫の声は、すぐに祭りの喧騒へ飲み込まれていく。
その人波から少し外れた古いベンチの前で、クロノアークは一人待っていた。
藍色を基調にした浴衣。
裾には淡い流水模様が入り、帯は白に近い薄青でまとめられている。普段は下ろしている青緑の髪も、今日は後ろで軽くまとめられていた。
襟元も帯もきっちりと整えられ、丁寧な着付けが施されている。
「クロノちゃーん!」
雑踏の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。
クロノの耳が声の方へ向く——人波の間から、二人のウマ娘が姿を現した。
先を歩くリーベは、深い紫を基調とした浴衣姿だった。
裾へ向かうにつれて紺色が濃くなり、白い花が控えめに散っている。その合間には、近くで見なければ気づかないほど小さな星の意匠が混ざっていた。
帯は白。
右耳には、いつもの銀色の星飾りと濃紫のリボンが揺れている。
その隣を歩くハルは、白に近い淡色の浴衣だった。
薄桃色の小さな花が柔らかく散り、帯には若草色が使われている。普段より少しだけ整えた髪には、小さな花飾りが添えられていた。
「クロノちゃん、可愛い!」
合流するなり、リーベが言った。
「……挨拶より先にそれですか」
「だって浴衣のクロノちゃん初めて見るもん」
リーベは遠慮なくクロノの横へ回る。
「髪もいつもと違う!」
「触らないでください」
「まだ触ってないよ」
「今から触ろうとしていましたよね?」
「ばれたか」
伸ばしかけていた手を引っ込める。
クロノは小さくため息を吐いた。
「リーベさんも似合っていますよ」
「ほんと?」
「ええ」
「やった!」
ぱっと顔を明るくしたリーベが、今度はハルへ振り返る。
「ハルちゃんも可愛いよね?」
「なんでクロノちゃんに確認するの……」
ハルが浴衣の袖口を摘まむ。
「……変じゃない?」
「変ではありませんよ。よく似合っています」
「ほら!」
「ありがとね二人とも」
ハルが笑う。リーベも笑った。
クロノの口元にも、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
夏に入ってからは、三人で揃うことも減っていた。
けれど、こうして顔を合わせてしまえば、空いた時間など最初からなかったようだった。
「じゃあ行こ!」
リーベが祭りの方へ向き直る。
「どこへですか?」
「とりあえず向こう!」
「向こうに何があるんです?」
「行けば分かるよ!」
答えになっていない。
それでもリーベは迷いなく歩き出した。
クロノはその背中を見送り、隣のハルと顔を見合わせる。
「……相変わらずですね」
「うん。リーベちゃんはずっと変わらないんだ」
二人も笑って後を追った。
♦︎
「あっ、たこ焼き!」
商店街へ入って数分。
最初にリーベが捕まったのは、たこ焼きの屋台だった。
「さっきご飯食べてきたんじゃなかったの?」
「お祭りは別腹だよ」
「そんな別腹ある?」
「あるに決まってるじゃん!」
当然のように言い切り、一舟だけ買って三人で分けることになった。
「熱っ!」
一口で食べようとしたリーベが、慌てて口元を押さえた。
「湯気を見れば分かるでしょう?」
「ハルちゃん、クロノちゃんが冷たい」
「たこ焼きは熱いけどね」
「ハルちゃんまで!」
ハルが笑いながら、フーフーと半分に割ったたこ焼きを冷ましている。
食べ終われば、次は焼きとうもろこし。
その次は冷やしきゅうり。
甘い匂いが漂えばリーベの耳がそちらを向き、気になる屋台があれば三人揃って足を止めた。
「あ、射的」
今度はハルの足が止まる。
「ハルちゃん、やりたい?」
「……ちょっとだけ」
返事が思ったより早かった。
リーベが嬉しそうに振り返る。
「やろ!」
店主から銃を受け取ったハルは、並んだ景品をじっと眺めた。
お菓子。
玩具。
小さなぬいぐるみ。
その中の一つで視線が止まる。
「アレ?」
「うん」
手のひらより少し大きな、ウサギのぬいぐるみだった。
銃を構える。
一発目。
乾いた音とともにコルクが飛び、景品の横を抜けていった。
「惜しい!」
「いえ、かなり横でしたよ」
二発目。ハルは先ほどよりもかなり右側を狙ってトリガーを引く。
——今度は箱の角へ当たった。
箱は少し揺れた。しかし倒れない。
「……もう少し上かな」
ハルの耳が前を向いた。
遊びのはずなのに、顔つきだけは真剣だった。
「ハルちゃん、めっちゃ本気じゃん」
「取れそうなんだもん」
三発目。
少しだけ銃口を上げ、人差し指を引く——コルクが箱の上部へ当たり、そのまま後ろへ倒れた。
「やったじゃん!」
真っ先に声を上げたのはリーベだった。
ハル自身も達成感からか嬉しそうに笑っている。
渡されたぬいぐるみを両手に乗せ、その耳を指先で一度撫でた。
「……可愛い」
「もう一回やろ! 次もっと大きいやつ!」
「私はこれでいいよ」
「……このままでは花火までに半分も回れませんよ」
まだ続けようとするリーベをクロノが止める。クロノの腕時計の短針は六時の方向を向いていた。
「全部回るつもりだったの?」
「リーベさんなら、そのつもりかと」
「もちろん!」
クロノとハルが揃ってため息を吐いた。
♦︎
「これは、仕組みさえ分かればそれほど難しくないはずです」
しばらくして。今度はクロノが金魚すくいの屋台の前でしゃがみ込んでいた。
「クロノちゃん、やったことあるの?」
「ありません」
「じゃあなんでそんな自信あるの?」
クロノは受け取ったポイを光へ透かすように持ち上げる。
「紙全面を一度に濡らさず、水面に対して斜めに入れる。あとは金魚の進行方向を読んで――」
「すっごい考えてる」
「クロノちゃんらしいね」
二人の騒がしい声を聞き流し、クロノは水面へ視線を戻した。集中する。
——狙いを定めたのは、小さな赤い金魚。
ポイを斜めに入れる。
金魚が近づく。
そっと持ち上げる。
————逃げた。
追う。
————紙が破れた。
「…………」
水面に、破れた紙だけが残る。
リーベが横から顔を覗き込んだ。
「クロノちゃん?」
「何ですか」
「下手っぴだねぇ」
「そんなことはありません。傾向は掴みました」
「…………もう一回やる?」
「……やります」
二回目。
今度は金魚をポイの上へ乗せるところまでいったが、器へ移す寸前に紙が破れた。
「…………」
「クロノちゃん?」
「もう一度です」
「熱くなってるじゃん!」
三回目。
今度は追わない。
近づいてくる一匹を待ち、水面を滑らせるようにポイへ乗せる。
そのまま器へ。
「取れた!」
リーベが自分のことのように喜ぶ。
「当然です」
クロノはそう言ったものの、店主から渡された小さな袋を受け取ると、中を泳ぐ金魚をしばらく眺めていた。
その隣で。
「あ、取れた」
リーベが一度目で一匹すくった。
「…………」
クロノの耳が、ぴくりと動く。
「クロノちゃん?」
「何でもありません」
「耳動いてるよ」
「見ないでください」
ハルが堪えきれず吹き出した。
「そんな笑わなくてもいいでしょう」
「だってクロノちゃん、さっきまであんなに夢中だったのに……あっさり取られちゃって……!」
「ハルさんまで!」
リーベも笑う。少し遅れて、クロノ自身も口元を緩めた。
三人の笑い声が、提灯の並ぶ夜の商店街へ溶けていった。
♦︎
祭りの通りを一通り歩く頃には、夜も随分深くなっていた。花火の時間が近づいているらしく、人の流れも少しずつ川の方向へ向かい始めている。
「そろそろ花火じゃない?」
リーベが人波の先を見る。
「河川敷行く?」
「今からですと、かなり混んでいそうですね」
クロノの言う通りだった。
通りの先には、すでに多くの人が列を作っている。
「うーん……」
リーベが困ったように耳を傾けた、その時。
「あ!」
ハルが声を上げた。
「そういえば、いい場所知ってるよ」
「ほんと!?」
リーベが即座に食いつく。
「多分。全然人いないんじゃないかな?」
「どこですか?」
「こっち」
今度はハルが先に立った。
祭りの中心から外れ、細い路地へ入っていく。
提灯の数が減り、屋台の明かりも、賑やかな人の声も、一歩進むごとに背後へ遠ざかっていった。
「ハルちゃん、こっちで合ってる?」
「合ってるよ。多分」
「多分!?」
「ランニング中に見つけた場所だから曖昧なんだよね」
住宅の間を抜ける。
やがて、その先に古びた石造りの鳥居が現れた。
額に刻まれた神社の名前は、長い年月に削られて半分ほど読めなくなっている。
境内へ続く石段にはところどころ苔が生え、両脇の石灯籠も風化で角が丸くなっていた。
祭りの夜だというのに、提灯一つ掛かっていない。
「……神社?」
リーベが鳥居を見上げる。
「うん。もうほとんど使われてないみたい」
「大丈夫なんですか?」
「入っちゃ駄目とは書いてないよ」
ハルが先に鳥居をくぐった。
クロノとリーベも後へ続く。
石段を上がるたび、商店街の音が遠くなる。代わりに聞こえてくるのは、夜の虫の声と、木々の葉が擦れる音だった。
上りきった先には、小さな境内があった。
古い拝殿。
片方の耳が欠けた狛犬。
注連縄の掛けられた、幹の太い御神木。
境内の端には錆びた柵があり、その向こうだけ木々が途切れている。
「ここ」
ハルが歩いていく。
三人が柵の向こうを覗き込む。
「わ……」
リーベが声を漏らした。
眼下には、町の灯りが広がっていた。
遠くには川。
その向こうには、花火の打ち上げ場所まで見える。
祭りの中心から離れているせいか、人の姿もない。
「この前見つけてさ」
ハルが少し照れくさそうに言う。
「ここなら人少ないかなって」
「ハルちゃん最高!」
「ちょっ、抱きつかないで! 浴衣崩れる!」
リーベに勢いよく抱きつかれ、ハルが慌てて身体を支える。クロノが眼鏡を直しながら辺りを見渡した。
「確かに、ここならよく見えそうですね」
「でしょ?」
ハルが少しだけ得意そうに笑った。
「それにしても……」
クロノが拝殿へ目を向ける。
木の色はすっかり褪せ、軒下の装飾も所々欠けていた。それでも、その中央にだけ古い木彫りの像が残っている。
三人のウマ娘を象ったものだった。
長い年月に晒され、細かな意匠はほとんど失われている。けれど、三者が並んで立つ姿だけはまだ分かった。
「三女神、かな?」
ハルが呟く。学園にある石像となんとなく似通っているように感じた。
「多分そう……かな?」
リーベも少しだけ見上げる。
三女神の意匠自体は、石像をはじめとして、あらゆるところで見ることができる。
古い社に残っていることを不思議に思った程度で、三人ともそれ以上深く気には留めなかった。
やがて御神木の近く、町を見渡せる場所へ並んで腰を下ろした。ハルは準備が良くレジャーシートを持ってきていた。
祭りの灯りは遠く、人の声も遠い。
今ここにいるのは、三人だけだった。
♦︎
花火が始まるまで、まだ少し時間があった。
リーベはラムネの瓶を膝の間に置き、クロノは金魚の袋を傍らへ下ろす。ハルは射的で取ったぬいぐるみを抱えていた。
「そういえばさ」
ラムネの中でビー玉が、からん、と鳴った。
「クロノちゃん、合宿どうだった?」
「大変でしたよ」
「何したの?」
「色々です」
「珍しく雑!」
「一から全部話していたら、花火が終わってしまいますから」
クロノはそう答えた。リーベとハルが知らない夏休みを彼女は過ごしている。
「じゃあ楽しかった?」
その問いに、クロノは少しだけ黙った。リーベとハルが返事を待つ。
「……楽しかったですよ」
「やっぱり!」
「何故リーベさんが嬉しそうなんですか」
「だってクロノちゃん、合宿行く前すごい真剣な顔してたから」
「練習をするための合宿です。貴重な機会ですから真剣に臨むのも当然でしょう?」
「それはそうなんだけど〜……」
クロノは呆れたように息を吐いた。けれど、その横顔には僅かな笑みが残っている。
ハルは二人のやり取りを眺めながら、膝の上のぬいぐるみの耳を指先で整えた。
「なんかさ」
「はい?」
「クロノちゃん、ちょっと変わったよね」
クロノが瞬きをする。ハルはぼうっとクロノの横顔を見つめていた。
「そうでしょうか」
「うん。上手く言えないけど」
リーベもクロノをじっと見る。
「分かるかも」
「リーベさんまで何ですか」
「ちょっとお姉さんになった? 大人の色気マシマシってこと?」
「また変な漫画でも読みましたか?」
ふざけたやり取りに三人で笑う。
少しして、ハルが夜景へ視線を戻した。
「二人とも、いろいろ変わってくね」
「ハルちゃん?」
「クロノちゃんはリギルに入って、リーベちゃんはどんどん速くなって……」
膝のぬいぐるみを撫でる。
「私はあんまり変わってないからさ」
リーベが首を傾げた。
「そう?」
「そうだよ」
「でもハルちゃん、この前より射的上手くなったよ」
「今日初めてやったんだけど」
「あれ?」
クロノが吹き出した。
「全く励ましになっていませんよ。リーベさんは励ますのが下手ですね」
「おかしいな……」
ハルも笑う。二人と話しているだけで胸の奥にあった小さな蟠りが、少し軽くなった。
その時——遠くで低い破裂音がした。
三人の耳が、ほとんど同時に動く。
「あっ」
リーベが夜空を見上げた。
「始まる!」
三人の視線が、同じ方角へ向いた。
♦︎
間もなく、暗い夜空へ一筋の光が昇った。
ひゅる、と細い音を引きながら、高く、高く上がっていく。
次の瞬間——町の向こうで、大きな花火が咲いた。
光から少し遅れて届いた音が、静かな境内を震わせる。
「わぁ……」
リーベの声が小さく漏れた。
赤い光が消える前に、次は青。
その後ろから金色。
一つ開けば、また一つ——光が生まれ、広がり、細かな粒になって夜へ落ちていく。
眼下の川にも、その色が揺れていた。
ここには周囲の歓声がない。
遠くの祭囃子と、木々を抜ける夜風。
そして、少し遅れて届く花火の音だけがある。
三人は並んで空を見上げていた。
リーベの紫紺の瞳。
クロノの眼鏡。
ハルの頬。
紫の浴衣。
藍の浴衣。
淡い白の浴衣。
花火が上がるたび、それぞれが違う色に染まり、次の瞬間にはまた夜へ戻った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
大きな花火が一つ、空の高いところで開き、金色の光がゆっくりと垂れ落ちる。
最後の一粒まで消えると、急に夜が戻ってきた。
次の花火は、すぐには上がらない。
川の流れる音が、ほんの僅かに聞こえた。
「ねえ」
リーベが呟いた。
クロノとハルの耳が、ほとんど同時にそちらへ向く。
リーベ自身は、まだ空を見上げていた。
「いつかさ」
ほんの少しだけ間が空いた。
「三人で、一緒に走ろうよ」
ハルが横を向く。
「一緒にって……練習?」
「ううん。違う」
リーベも二人を見る。
「ちゃんとしたレース」
クロノが瞬きをした。
「三人で、同じレースに?」
「うん」
「……急ですね」
「そう?」
「そうですよ」
それでも、クロノの声は嫌そうではなかった。
「でもさ」
リーベは少しだけ考えて。
すぐに笑った。
「絶対楽しいじゃん」
理由は、それだけだった。今日、久しぶりに三人で会った。
一緒に歩き、屋台を巡り、笑った。
それだけで、リーベには十分楽しかった。
だから、同じ場所で、今度は三人で全力で走れたなら。きっともっと楽しいだろう——
リーベはそう思っただけだった。
「……確かに」
クロノの口元が僅かに緩む。
「私も、走ってみたいです」
「でしょ!」
リーベが嬉しそうに身を乗り出した。
二人の視線が、残った一人へ向く。
「……私も?」
ハルが自分を指差す。
「もちろん」
リーベは当たり前のように答えた。ハルは少しだけ黙り、膝の上のぬいぐるみの耳を弄った。
クロノはリギルに入り、合宿へ行った。リーベも自分より明らかに速く成長していっている。
ハルだって春から何も変わっていないわけではない。走りも少しずつ良くなっているし、出来ることだって増えていた。
「でも、少し考えちゃうんだ。二人を見てると、私ってまだまだなんだなーって」
ハルはぬいぐるみを頬へ寄せる。
「私、そこまで行けるかな」
声は小さかった。けれど、静かな境内では二人にきちんと届いていた。
リーベは迷わなかった。
「行けるよ。絶対」
あまりにも早い返事だった。俯いていたハルが顔を上げる。
「一緒に走ろ、ハルちゃん」
そこに根拠も、未来の保証もない。
けれど、リーベは本当にそうなると確信しているように笑っていた。
「私も賛成です」
クロノが続ける。
「クロノちゃん……」
「三人で同じレースに出られたら、きっと面白いでしょうから」
ハルは二人を見る。
少しだけ困ったように。
それでも、嬉しそうに笑った。
「……うん」
膝の上のぬいぐるみを抱き直す。
「私も二人と走りたい」
「じゃあ決まり!」
リーベの声が弾んだ。
「いつか、三人で同じレースを走る」
「はい」
「うん」
「ぜぇーったい! 約束ね!!」
その瞬間。
夜空へ、三本の光が昇った。
三人は揃って顔を上げる。
光は暗闇を真っ直ぐ切り裂き、やがて三つの花火となって大きく開いた。
白。
緑。
紫。
古びた鳥居も。
片耳の欠けた狛犬も。
長い年月を重ねた拝殿も。
その一瞬だけ、鮮やかな光に照らし出された。
そして――軒下に残された、三女神の古い彫刻も。
すでに細かな表情など分からないほど、長い年月に削られているはずだった。
ただ。
花火の光が横顔を撫でた、その一瞬。三人の女神が、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
光の加減だったのだろう。それに気づいた者がいたかどうかも分からない。
三人はただ、同じ夜空を見上げていた。
「クロノちゃん、忘れちゃ駄目だからね!」
「リーベさんこそ」
「私は忘れないよ」
「ハルちゃんも!」
「忘れないってば」
次の花火が開く。三人の呆れるほどの笑い声は、その大きな音に飲み込まれた。
それでも、三人には、ちゃんとわかっていた。
祭りの中心から外れた、誰もいない古い神社。
その夜。その場所で。
古い三女神の彫刻が残る境内で、一つの約束が交わされた。
――いつか、同じターフで。三人で走ろう。