「先輩、ひとりで大丈夫?」
「大丈夫って言ったら、怒るだろ」
「学習している」
三か所同時。こっちは四人。それだけでも十分最悪なのに、この日はもうひとつ、最悪が重なった。
通信機の地図に、赤い丸が三つ灯った。北の資材置き場。駅の東口。川沿いの市場。
中継箱から読めた番号の通りだった。地図の上では指一本で三つとも隠せるのに、縮尺を見ると、一人で回れる距離じゃない。
「北は私。東口は、二人でお願い」
朱音が上着を掴んだ。きららが頷いて、葵はもう端末の地図を拡大している。
「市場は搬入口が狭い。大きい車を入れるなら西側から。……先輩、そっちお願い」
「了解」
放課後に本部に寄ったばかりで、俺はまだ制服のネクタイを緩めただけだった。受付に鞄を預けて、出動の連絡を家に送る。
こんな時にも課題は待ってる。世界を救っても提出期限は救われない、ということを、高校三年の秋に学びたくはなかった。
携帯が震えた。灰瑠からだった。
『わかった。戻ったら連絡。鞄も忘れないで』
鞄の話はしてない。
妹の読心能力がちょっと怖い。
続けて、もう一通来た。
『今、駅の東口。ミオと本屋』
東口。
ついさっき、葵が地図の上で指した場所だった。
すぐに電話をかけた。呼び出し音。呼び出し音。出ない。もう一回。……出ない。本屋の中で、携帯を鞄の底に入れてるだけだ。そうに決まってる。そう思おうとしているのに、指先が冷たくなっていく。
「きらら」
出ていこうとしていた背中に、声をかけた。
「東口に、灰瑠がいる。ミオちゃんと、本屋に」
きららの足が止まった。一瞬だけ目が大きくなって、すぐにいつもの顔に戻った。
「分かった。いちばん先に、避難線の内側に入れる。私が見る」
「俺が東に行く!」
「先輩は市場。三か所の割り振り、もう動かせない」
葵の声は静かだった。……悔しいけど、正しい。
「先輩。灰瑠は、私の友達でもあるんだよ」
それ以上、何も言えなかった。
係の人の言うことを聞いて、すぐ避難して。妹にそれだけ送って、変身する場所へ走った。既読はまだつかなかった。
*
市場の裏、閉鎖された荷捌き口で変身した。
歩き出した足が軽い。この前の更新で、同じ一歩を支える力は確かに増えている。
ただ、足の数は、一人分のままだ。
市場の南側、トラックの荷台の上に細い端末がいた。四角い胸の窓を開いて、蓄電器を黒いケーブルで引き寄せている。胸の刻印は右上の角が欠けてた。
角欠けだ。引き寄せた蓄電器に、もう白い札が貼ってある。仕事が早い。北側には、輪っかみたいな形の無人機が二機。低く飛びながら、庇を支える鉄骨に小さな刃を押し当てていた。
その庇の下で、店員さんが、車椅子のお客さんを動かそうとしている。
「本部、南に端末一、北に小型二。北の通路に、まだ人がいる」
『確認。救助班は西から接近中。到着まで二分』
二分。長い。長すぎる。
東口のことを、無理やり頭から追い出した。考えたって、俺の足は一人分しかない。……あっちには、きららが行ってくれてる。
北を向いた途端、南の端末が荷台から飛び降りた。追わせたいのか、追われる前に逃げたいのか。どっちにしても、こいつを眺めている暇はない。
空の台車の陰で、ダイヤルを青へ。
半秒。銀白の腕に青い線が走って、掌の中で光の骨組みが金属の銃身に固まる。空には撃たない。市場の屋根の向こうにも、家がある。
左へ二歩動いて、無人機の背後に分厚い防火壁がくる角度を取った。引き金を短く二回。ぱん、ぱん。通常弾が刃の根元を叩いて、一機が火花を散らして落ちた。もう一機は鉄骨の陰に隠れた。……ちっ。
南の端末がケーブルを振った。荷台の縁を跳ねる線を、視界の端で捉える。爪先を半歩引くと、空を切った線が足元に落ちた。それを踏みつけて、巻き取り部に一発。引き戻す力が抜けた。
「そっちは、ちょっと待ってろ」
待つ気のない相手には、待つ理由を作るしかない。北の庇はあと一撃で落ちる。南の端末を撃ち抜くより先に、あの下から人を出す。
ただし、南をこのまま逃がすつもりもなかった。
腰に留めておいた小さな発信片を、左手で抜いた。逃げようとする端末の足元に一発だけ撃って、相手が踏み出す方向を変えさせる。その瞬間に横から飛び込んで、荷箱を固定している後ろの金具に発信片を押しつけ、すぐ離れた。
かちん。磁石が噛みつく、短い音。
『発信片、受信しました』
その直後、北の鉄骨がぎぎぃっと鳴った。残っていた一機が、最後の留め具を外していた。庇が傾いて、布の日除けがまとめて引き裂かれる。
「伏せて! 車椅子は動かさなくていい、頭を守って!」
銃を抱え直す暇も惜しい。看板の裏に滑り込んで、ダイヤルを赤へ。半秒は看板に受けてもらう。
青い銃がほどけて、前腕に銅赤の補助装甲が重なる。足の裏の感触が一段硬くなった。長剣は柄が膝の外に出る位置に置く。あとで拾える向きだ。
両足を開いて、落ちてきた横梁に左の前腕を差し込んだ。
骨の内側まで響いた。
ぐ、っと喉の奥から声が漏れる。重い。腕が、膝が、悲鳴を上げてる。
膝を曲げて受ける。右手で横揺れを押さえ、梁の端を店先の低い石台へ滑らせた。俺と石台の二か所で重さを分けて、通路の幅を作る。装甲の足の裏が地面を削った。
止まった。
梁と地面の間に、車椅子が通れる隙間が残った。
「今! 西へ、まっすぐ!」
店員さんが車椅子を押す。前輪が割れたタイルにはまって、一瞬動かなくなった。
俺の右膝が震える。汗が、仮面の内側を伝って顎に落ちた。
「焦らなくていい。一回だけ後ろに戻して。そう」
「す、すみません!」
「謝るのは、帰ってからでもできる!」
言ってから、これは灰瑠に聞かれたら怒られるやつだと思った。帰ってから謝らなくて済むように動け、とか言われそう。
だから笑わない。左腕の表示で出力と熱を見て、あとどれだけ支えられるかを本部に伝える。
北の無人機が最後の留め具を外したのは、俺が角欠けから離れて、北へ向き直った瞬間だった。
狙ってたんだ。
人を狙えば、銀騎士が来る。学校で、あいつらはそれを覚えた。今日はその先を試してる。人の上にある物を落とせば、銀騎士はそれを支えて、その場から動けなくなる。
南で、角欠けが蓄電器を抱え直すのが見えた。俺がここに縫い止められている間に、ゆっくりと。
前輪がタイルの割れ目から抜けて、車椅子が梁の下を通っていく。通り過ぎる時、お客さんがこっちを見上げた。
「ありがとうねえ。あなた、追加の人でしょう。孫が言ってたわ」
「追加じゃ――」
梁が軋んだ。
「――今はいいです! そのまま、まっすぐ!」
訂正はまた今度だ。たぶん、次もできない。
『救助班、十秒で入ります』
「支柱を先に。俺の足元の左側に置いてくれ」
南で、金属の車輪が跳ねた。端末が角を曲がって逃げていく。
脚は動く。加速も残ってる。
だからこそ、分かった。あれは追わせるための逃げ方だ。角欠けはいつもそうだ。俺の前には立たない。拾って、逃げて、どこかへ運ぶ。ここを離れたら、人も、梁の下の通路も、両方失う。発信片はもう付けてある。
「……そっちは任せる。本部、発信を追って」
『追跡継続。銀騎士は救助を続けてください』
*
支柱が入る前に、残っていた無人機が戻ってきた。庇の上、右前。狙いは俺の頭じゃない。車椅子を押している店員さんの背中だ。
「伏せないで、そのまま走って!」
左腕は梁から外せない。重さを石台に寄せて、膝の外に残しておいた柄を右手で拾った。回転する刃の向きはもう見えてる。
刃を斜めに構えて、店員さんへ向かう進路をひとつ塞いだ。横へ逃げれば石台、上へ逃げれば梁。速度を落とせない突っ込み方なら、それだけの幅で十分だった。
無人機が、自分から刃にぶつかってきた。ぎゅいん、と回転の音が歪んで、弾かれた機械が左の空き店舗に転がり込み、壁際でぼんっと火を噴いた。
「支柱、固定できました!」
救助員さんの声に頷いて、梁の重さをゆっくり移した。支柱が受け止めたのを手応えで確かめてから、両腕を抜く。
最後の店員さんが安全線を越えた。最初に聞いた人数と照らし合わせる。行方不明なし。別の店に戻った人もいない。
そこで、ようやく長い息が出た。全身から、どっと力が抜けていく。
救助員さんが、俺の左腕を見て、装甲の下はどうなっているのかと聞いた。
「人間です。たぶん今、かなり汗かいてます」
「では水を飲んでください。人間なら」
妙に強い条件をつけられた。俺は素直に頷いた。
*
北と東の制圧の報告は俺が座り込む前に届いた。
「市場は? 怪我人いる?」
「擦り傷と打撲だけ。重傷はなし。小型二機は撃破、端末には発信片を付けて追跡中」
「それと、先輩。灰瑠、無事。最初の避難の列に入れた。ミオちゃんも一緒」
膝から、がくんと力が抜けた。座り込む前でよかった。……いや、ほとんど座り込んでた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
「お礼は、あとで灰瑠に何か奢ってあげて。私の分も。……こっちの敵はな、荷物だけ先に捨てて逃げようとしてん。逃げ足に全予算使ってへんか、あいつら」
「三か所の送信、全部同じ周期でした。合図をまとめて送って、こっちの動きを比べてた可能性が高い。……向こうの方が連携とれてるの、ぐぬぬ」
向こうは三か所を同時に見てる。
俺の目は二つあっても一人分だ。
前に見た掲示板に、追加戦士なら分身くらいしろ、と書いてあった。給料は一人分どころか、そもそも貰っていない。分身してくれるなら、まずそいつに課題を解いてほしい。
そんなくだらないことを考えられるくらいには、呼吸が戻っていた。
「先輩。救助、ありがとね」
「……うん」
安全線の向こうで、車椅子のお客さんが手を振っていた。右手を上げて返す。店員さんと並んで遠ざかっていくのを、通路の端から見送った。
*
本部で検査を受けている間も、地図の上の小さな点は動き続けていた。
端末はまっすぐ巣へは帰らなかった。橋を渡って、古い倉庫街を遠回りして、同じ通りを二回通った。追跡に気づいていなくても、回収機としての用心深さはあるらしい。
やがて点は川沿いの古い倉庫で止まった。
そこで、信号が弱くなった。
「飛び込めば済む、という話にはならんな。荷物を下ろすだけの場所かもしれん」
レイマさんは画面に顔を寄せた。芝居がかった声のまま、指だけは慎重に周りの道をなぞっている。
「付けた金具、向こうに着くまで残りそうですか」
「荷物を固定する位置を選んだのはよかった。壊さずに運ぶ限り、向こうも外しにくい」
左手首が、二回、弱く震えた。
褒められたのか、ただの動作確認か。それはまだ分からない。
「お疲れ。今日はここまで」
「かなと、かえる?」
小さい声がした。
「帰る。検査が済んだら、一緒に」
帰りの連絡を家に送った。診察済み、少し遅れる、鞄は持った。
灰瑠からは先に一通届いてた。
『黄色い人に誘導してもらった。ちゃんと避難したよ。兄ちゃんも、ちゃんと帰ってきて』
そのあとに、丸い顔のスタンプがひとつ。
画面を見たまま、しばらく動けなかった。指でスタンプをなぞったら、なんだか笑えてきた。
俺は一人分しかいない。
でも今日、俺がいなかった二つの場所にも、ちゃんと誰かがいた。
地図の上の点は、川沿いの倉庫で止まったまま、もう動かなかった。
「救助員さんに『人間なら水を飲んでください』って言われた」
「条件つきの水分補給、初めて聞いたわ」
「先輩が人間かどうかは、議論の余地がある」
「ない」
「私は人間だと思うよ!」
「ありがとう。……フォローの方向、合ってるか?」