一、街道に響いた一声
リディル王国の街道は、秋の木漏れ日がきれいな午後だった。盗賊の一団が、道の両側の茂みから姿を現すまでは。
「へへっ、いい身なりじゃねえか。そっちの兄ちゃんは学園の制服かい? 身ぐるみ置いてってもらおうか」
十人は下らない男たちが、錆びた剣や棍棒をちらつかせながら二人を取り囲む。
囲まれているのは、端正な顔立ちの青年と、その背中に隠れてぶるぶる震えている小柄な少女。青年は剣の柄に手をかけながらも、焦りの色ひとつ見せていない。
「ノートン嬢、大丈夫かい?」
「だ、だ、だい、じょ……ぶ……じゃ……ない、です……」
少女の名はモニカ・ノートン。本当の名をモニカ・エヴァレットといい、王国最高峰の魔術師・七賢人のひとり、〈沈黙の魔女〉その人である。が、今はただの極度の人見知りだった。
(む、無理。人が、いっぱい。しかも怖い顔の人ばっかり。無詠唱魔術なら全員一瞬で……でも、それをやったら正体が……!)
肩の上の黒猫が、尻尾を逆立てて耳元で囁く。
「モニカ。ぱちんと小さくやれば済む話だろう」
「む、むり、です……この距離だと、フェリクス殿下まで巻き込んじゃう……!」
青年──フェリクスが一歩前へ出た。
「僕が時間を稼ぐ。君は逃げなさい」
「に、逃げられる足が、ありません……!」
盗賊の頭目が下卑た笑いを浮かべ、剣を振り上げた、その時だった。
ずしん、と。
森の空気が一変した。鳥の声が消え、木の葉が揺れるのをやめ、盗賊たちの笑い声が喉の奥で凍りつく。
「…………やかましい」
低く、重く、腹の底まで響く声だった。茂みの奥から、灰銀色の毛並みの巨大な狼がゆっくりと歩み出る。体高は馬どころか、小さな家ほどもある。
「去ね」
たったの一言。
盗賊たちは武器を放り出し、悲鳴すら上げられないまま、転げるように森の奥へ消えていった。頭目に至っては、白目を剥いて仲間に引きずられていく。
「フェ、フェンリル……!? 神話の……!」
モニカの肩で、ネロの毛が全部逆立った。
「ちょっ、ちょっとフェル! いきなり飛び出さないでくれよ! ……あ、すみません! うちのが! お怪我はありませんか!?」
息を切らして駆けてきたのは、どこにでもいそうな地味な顔立ちの中年男だった。肩には水色のスライム、頭上にはひらひらと小さな竜が飛んでいる。
「あるじー、みんな逃げちゃったー」
「なんだ、もう終わりか? 俺様の出番がなかったではないか」
「悲鳴が聞こえたから見に行ったら、フェルが『人間が襲われている。どうでもいいが、五月蠅い』って……いや、助けたんだから結果オーライか……」
男はぜえぜえ言いながら頭を下げた。
「Aランク冒険者のムコーダと言います。この子たちは俺の従魔で、フェンリルのフェルと、スライムのスイ、ピクシードラゴンのドラちゃんです」
「従魔……? フェンリルを、従えているのか」
フェリクスが目を見開き、それから穏やかに微笑んで剣を収めた。
「危ういところを助けられた。礼を言う。僕はフェリクス・アーク・リディル。リディル王国の第二王子だ」
「だ、だいに、おうじ…………!?」
ムコーダの顔から、さあっと血の気が引いた。
「ふん、人間の序列など知らん」
「お前はちょっと黙ってろフェル!」
フェリクスはくすりと笑った。
「面白い方々だ。お礼をさせてほしい。すぐ近くに、僕の通うセレンディア学園がある。ぜひ案内させてくれないか」
(王子様からの誘い。断ったら不敬罪とか……いや、元サラリーマンの勘が言っている。これは断れない流れだ)
「学園とやらには、飯があるのだろうな」
「お前は飯のことしか考えてないのか!」
そのやり取りを、モニカは目を丸くして眺めていた。
(この人たち……人間じゃない方が、強いのに、人間の方が、振り回されてる……)
怖いはずなのに、なぜか。ほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じていた。
二、セレンディア学園と生徒会の笑顔
セレンディア学園の中庭は、よく手入れされた芝生と噴水のある、息をのむほど立派な場所だった。
生徒たちは遠巻きに、巨大なフェンリルを連れた冒険者を眺めている。ひそひそ声が波のように広がっていく中、中庭の隅では、別の意味で静かな会談が始まっていた。
「……フェンリル殿とお見受けする。私はモニカの使い魔でネロという。以後お見知りおきを」
「ほう。猫にしては肝が据わっているな。……いや、ただの猫ではないな、貴様」
「あなたこそ、神話の存在がなぜ人間の食事の匂いをまとっているのか、それが一番の謎だ」
「あるじの飯は絶品だからな」
「おい黒いの。俺様はピクシードラゴンのドラちゃんだ。覚えておけ」
「承知した。ところで私は人間の名前を覚えるのが苦手でな。そのご主人の名は、ムコ……ムコ……」
「ムコーダだ」
「ムコーダ。覚えた。たぶん三日は持つ」
「ぷるぷるー。ネロさん、あったかいねー」
黒猫の背中でスイがぽよんと跳ねる。ネロは眉間に皺を寄せたものの、拒みはしなかった。
一方、ムコーダは。
「……というわけで、来週、学園で晩餐会が開かれる。王都の来賓や教師陣、生徒も出席する大きなものだ。そこで、あなたの料理を振る舞ってはもらえないだろうか」
「い、いや、俺はただの冒険者で、料理は趣味みたいなもので──」
「ほう。会長直々のお願いを断るおつもりですか」
冷たい声と共に、氷のような目つきの青年が一歩前へ出る。生徒会副会長のシリル・アシュリーだ。フェリクスを心から慕う彼にとって、会長の頼みを渋るなど許されざる所業だった。
「平民の冒険者風情に、殿下がわざわざ頭を下げておられるのだ。光栄に思え」
そう言い放ったのは、生徒会書記のエリオット・ハワード。身分階級主義の筋金入りだ。
「え、えっと、その、悪い人たちじゃないんです! ただ、ちょっと圧が強いだけで!」
慌てて割って入ったのは庶務のニール・クレイ・メイウッドだ。〈調停者の家系〉の血筋とはいえ、この面子の前ではいささか分が悪い。
「ふふ。期待しておりますわ、ムコーダ様」
とどめに優雅な微笑みを浮かべたのは書記のブリジット・グレイアム。学園三大美人のひとりだ。
フェリクスは穏やかに微笑んだまま、何も言わない。それが一番、断りにくかった。
(これは、あれだ。取引先の役員全員が笑顔で『ご検討いただけますよね?』って言ってくるやつだ……!)
ムコーダは遠い目で天を仰ぎ、観念した。
「……やらせていただきます」
「ありがとう、ムコーダ殿。材料や設備は、できる限り学園が用意しよう」
「あ、いや、材料は大丈夫です。俺のスキルで、ちょっと珍しいものを取り寄せられるので」
「取り寄せる……?」
「ええ。とんでもないスキルなんですけど……少し、調べてみますね」
三、バターどらやきと宇治抹茶
用意された客室の一角で、ムコーダは空中に浮かぶ、自分にしか見えない画面を開いた。
「ネットスーパー」。異世界に飛ばされた彼が授かった、規格外のスキルである。
「……ん? なんか、新しいコーナーが増えてるな」
画面の一番上に、見慣れない看板が並んでいた。
「シャトレーゼ、角上魚類、成城石井、カルディ、クランド……! 全部オープンしてるじゃないか! しかも、もともとあるOKまで揃ってる!」
思わずガッツポーズをした。これで晩餐会の勝算がぐっと上がる。
まずは、お近づきの印だ。手っ取り早く、この世界の人間にはまず経験のない味で驚かせたい。
「そうだ、和菓子だ。この世界に、和菓子はないはず」
シャトレーゼのコーナーから『北海道産バターどらやき』を人数分、そして宇治抹茶を取り寄せる。
中庭に急ごしらえの席を設け、フェリクスたち生徒会の面々と、いつの間にか集まってきたモニカを含む数人の生徒に、茶と菓子を振る舞った。
「これは、どら焼きという菓子です。しっとりした生地に、粒餡とバタークリームを挟んであります。こちらのお茶と一緒にどうぞ」
とら模様に焼き上げられた丸い生地を、フェリクスが興味深げに手に取る。エリオットは眉をひそめた。
「豆を、甘く煮る……だと? そんな不気味な菓子があるか」
そう言いつつ、一番大きく口を開けて頬張ったのはエリオットだった。
「…………!?」
十勝小豆を自家炊きした粒餡の、素朴で深い甘み。そこに重なる、沖縄の海水塩を効かせた北海道産バターのクリーム。しっとりふんわりの生地が、すべてをやわらかく包み込む。甘さとしょっぱさの二重奏が、口の中でとろけていく。
「な、なんだ、この……甘いのに、しょっぱ……いや、しょっぱいのに……」
エリオットが語彙を失っている横で、フェリクスも静かに目を閉じて味わっていた。
「これは見事だ。王宮の菓子職人も、この味には辿り着けまい」
そして、モニカ。
隅っこの席でちびちびと端をかじっていた少女の目が、ぱああっと大きく見開かれた。
(あ、あま……しょっぱ……あま……? 塩と、脂と、糖の、バランスが……黄金比……!?)
頭の中で何かが猛烈に計算され、そして音を立てて崩れた。
「…………っ、おい、しい……」
消え入りそうな声で呟いたモニカは、そのままくたくたと机に突っ伏した。完全に骨抜きである。
「モニカ。よだれ」
「……はっ!」
足元からのネロのツッコミにも反応が遅れるほど、とろけきっていた。
「あの、おかわり、は……」
「ははは、いっぱいあるよ。ゆっくり食べて」
ムコーダが笑うと、モニカは小さくこくこくと頷いた。人見知りの彼女が、初対面の男に、自分から口を開いたのだ。
ネロがちらりとフェルを見上げる。
「……あのモニカが、食べ物ひとつで人に懐くとは」
「あるじの飯はそういうものだ。慣れろ」
異世界において、和菓子とはまだ誰も知らない未知の料理。この日、セレンディア学園は、その扉を静かに押し開けたのだった。
四、夜店の焼きそば争奪戦
その夜。学園の離れ、客人用の小さな中庭で、ムコーダはいつもの野営セットを広げていた。
「主、飯だ」
「あるじー、おなかすいたー」
「酒もだぞ。酒もだ」
「はいはい、わかってるって。今日は王子様の相手で疲れたから、簡単なやつな」
ネットスーパーから取り寄せたのは、一平ちゃん夜店の焼きそばの袋麺、シャウエッセン、そしてカット野菜。フライパンにシャウエッセンを斜めに切って放り込めば、ぱちぱちと脂が跳ねて、香ばしい匂いが夜気に広がった。
カット野菜を加えてざっと炒め、麺をほぐして入れ、付属のソースを回しかける。じゅわあっ、と甘辛いソースの焦げる匂いが立ちのぼる。
「仕上げは、これだ」
マヨネーズに練りからしを混ぜ込んだ辛子マヨネーズを、焼きそばの上にたっぷりと絞る。ツンと鼻に抜ける辛みとまろやかなコクが、ソースの甘さをきりりと引き締める。
「うむ! これは美味い! おかわりだ!」
「ぷるぷるー。からしまよ、おいしいー」
「ソーセージ、俺様の分も残しておけよ!」
——その時だった。
「……夜分に、何の騒ぎだ。やけに食欲をそそる匂いが、寮の廊下まで流れて……」
植え込みの陰から、腕を組んだエリオットが現れた。その後ろに、眼鏡を直すシリル、困り顔のニール、そして書類片手のブリジットが続く。
「いや、騒ぎっていうか、ただの晩ごはんで……」
「平民の食い物か。どれ、毒味してやろう」
言うが早いか、エリオットはフォークをひったくり、焼きそばをひと口。
「…………」
「…………」
「……もう一口」
「あっ、エリオット先輩ずるいです!」
慌てて割って入ったニールを、シリルが無言で押しのけてフォークを突き出した。氷の魔術を操る冷静な副会長が、今は完全に目の色を変えている。
「会長のために、毒味をしているだけです」
「それは先ほども私がいたしました、シリル様」
「ブリジット嬢、淑女は列に並ぶものだと思いますが」
「あら。争奪戦に作法などありませんわ」
優雅な微笑みのまま、ブリジットが皿の端のシャウエッセンをさらっていく。
「ま、待ってください! 皆さん、少しは調停を——ああっ、僕の分が!」
ニールの叫びも虚しく、焼きそばは見る間に減っていった。そこへ、さらにひとり。
「……別に、興味なんてないわ。ただ、廊下が騒がしかったから様子を見に来ただけ」
陰険な目つきで現れたクローディアは、言葉とは裏腹に、一番に皿を抱え込んでいた。
最後に残った、一本のシャウエッセン。全員の視線が、そこに集中する。
「……皆、座りなさい」
穏やかな、しかし有無を言わせない声が響いた。いつの間にか現れたフェリクスが、にこやかにフォークを構えている。
「生徒会長として、公平に判断しよう。——これは、僕がもらう」
「会長!?」
「か、会長ずるいです!」
阿鼻叫喚の中、ムコーダはフライパンを抱えたまま叫んだ。
「わ、わかりました! 作ります! 作りますから、並んでください!」
「主、俺の分が減るではないか」
「お前の分はちゃんと確保してあるから!」
結局、その夜、ムコーダは焼きそばを十回以上焼く羽目になった。決め手になったのは、あの辛子マヨネーズだ。生徒会の面々は、誰もがあのツンとくる辛みと濃厚なコクの虜になってしまったのだった。
五、晩餐会、開幕
そして、当日。
セレンディア学園の大食堂は、白いクロスとろうそくで飾り立てられ、正装した来賓や教師、生徒たちで埋め尽くされていた。
厨房では、学園の料理人たちが、ムコーダの手元を固唾を呑んで見守っている。
「あの、本当に、ほとんど魔道具も使わずに……?」
「ええ、まあ。ネットスーパーの食材が優秀なんで、俺はそれを活かすだけですよ」
フェルは扉の前で威風堂々と伏せ、ドラちゃんは厨房の梁の上で酒の匂いを嗅ぎ、スイは給仕の手伝いに張り切っていた。
大食堂の片隅では、モニカがイザベルの世話係として慌ただしく動いていた。
「ちょっと、そこのあなた! わたくしのお皿が空よ! 次を持ってきなさい!」
「は、はひっ……!」
悪役令嬢を演じるイザベルの声が飛び、モニカがぴゃっと飛び上がる。けれど、モニカの目が料理から離れないことを、イザベルだけは気づいていた。
(……お役目の演技、ではなさそうですわね)
前菜 ― カルディの生ハムとランプフィッシュキャビアのライムリーフドレッシング和え
最初の一皿が、各席に運ばれた。
薄く切られた生ハムの上に、真っ黒な小さな粒がきらきらと輝いている。ランプフィッシュキャビアだ。ライムリーフの爽やかな香りのドレッシングが、そっと全体を包み込む。
「ほう、この黒い粒は?」
「魚の卵です。口の中でぷちぷち弾けますよ。生ハムの塩気と一緒にどうぞ」
来賓が口に運ぶと、ぷちっ、ぷちっ、と小さな音がした。生ハムの熟成した旨味と塩気、キャビアの海の香り、そこへライムリーフのすっと抜けるような爽やかさが重なる。
「これは……! 口の中に、海と山と、南の風が同居しているようだ」
詩人のような感想がもれる中、モニカは。
(ぷ、ぷち……ぷち……一粒、一粒が……弾ける周期が……)
両手でフォークを握りしめたまま、うるうると涙目になっていた。
「……おいしい……」
またしても、骨抜きである。
二皿目 ― 海鮮マーラータン・刀削麺入り
続いて運ばれたのは、真っ赤なスープが湯気を立てる、大きな鉢だった。
角上魚類から取り寄せた新鮮な海鮮と、OKのキノコをたっぷりと煮込み、花椒の痺れと唐辛子の辛みを効かせた、海鮮マーラータン。もっちりとした刀削麺が、スープの中で踊っている。
「ごほっ! げほっ! な、なんだこれは、口が……舌が、燃える!」
「み、水を! 水をくださいぃ!」
生徒たちの席からは、悲鳴と咳き込む音が次々にあがった。シリルですら、氷の魔術で自分の舌を冷やそうとして、眉間にしわを寄せている。
「す、すみません! 辛さ控えめにしたつもりだったんですが!」
ところが、教師たちの席は様子が違った。
「……ふむ。この痺れが、癖になるな」
「いや、この舌に残る余韻が、実に深い。まるで高度な術式の連鎖を解いているような……」
「もう一杯、いただけるかな? いや、二杯!」
年配の魔術学の教授が、顔を真っ赤にして汗を流しながら、はふはふと麺をすすっている。
「く、薬のようだ。やめられない」
生徒と教師で、見事なまでに明暗が分かれていた。
「……辛い。だが、……止まらん……」
エリオットが、脂汗をにじませたまま、もう一口、さらにもう一口と箸を進めているのが、見ていて少し愉快だった。
三皿目 ― のどぐろの炭火焼き
そして、三皿目。食堂の隅に据えた七輪の上で、ムコーダが炭火で焼き上げた白身魚が、皮目をぱりっと香ばしく焦がして運ばれてくる。
「角上魚類から取り寄せた、のどぐろの炭火焼きです。皮と身の間の脂が旨いんで、そのまま、塩だけでどうぞ」
箸を入れると、白身がほろりとほどけた。口に運んだ瞬間、じゅわっと脂が舌の上に広がる。
「……っ!」
商人の娘として目の肥えたラナが、思わず息を呑んだ。
「この脂の乗り。この甘み。一匹で、いったい金貨何枚になるのかしら……!」
「魚って、こんなに美味しいものだったんだ……!」
内陸の領地育ちのケイシーも、目を丸くして頬張っている。炭の香りと、焦げた皮の香ばしさ、そして上品な脂の甘みが、口いっぱいに広がっていく。
大食堂のあちこちから、感嘆のため息が漏れた。
四皿目 ― リーフレタスとパンチェッタのシーザーサラダ
口直しのように運ばれてきたのは、みずみずしいリーフレタスの上に、カリカリに焼いたパンチェッタを散らしたシーザーサラダだった。OKから取り寄せたレタスはしゃきしゃきと瑞々しく、カルディのパンチェッタは噛むほどに豚の旨味と塩気が染み出す。そこへ、成城石井のシーザードレッシングが、とろりと全体を包んでいる。
「このドレッシング……チーズの熟成した香りに、ほのかな魚の旨味……?」
「これは、どうやって作っているんだ……!」
厨房の隅では、学園の料理人たちが皿の残りをこっそり集め、必死に舌で分析していた。
「卵黄とオイル……粉チーズ……ニンニク……いや、それだけではこの奥行きは……」
「アンチョビか? いや、その割には、角がない……!」
何度試作しても、あの丸みのある旨味には届かない。ついに一人の料理人が、がくりと膝をついた。
「……だめだ。私たちの腕では、これの再現は……」
ムコーダは、そっと目をそらした。
(すみません。それ、瓶詰めなんです……)
五皿目 ― ブラッディーホーンブルとオークジェネラルの合いびきチーズインハンバーグ
そして、メインディッシュ。
じゅうううう、と鉄板の上で肉汁が跳ねる音が、大食堂に響き渡った。ほりにしのスパイスを練り込んで焼き上げた、ブラッディーホーンブルとオークジェネラルの合いびき肉のハンバーグ。上からは、玉ねぎの甘みたっぷりのシャリアピンソースが、とろりとかけられている。
「ブ、ブラッディーホーンブル!? それに、オークジェネラルまで!?」
狩りが得意なケイシーが、目を剥いて立ち上がった。
「王国でも滅多にお目にかかれない、最高級の食材じゃないですか! それを、合いびきにするなんて……!」
「ははは、まあ、うちのフェルがよく狩ってくるもんで」
ナイフを入れると、ふわりと崩れる肉の中から、とろーり、と濃厚なチーズがあふれ出した。
「「「わあああっ!!」」」
生徒たちの席から、歓声があがった。
「チーズが! 中にチーズが入ってる!」
「なんだこれ、肉がやわらかい! 玉ねぎのソースが、肉の旨味を全部まとめてる!」
ほりにしのスパイスの香りが肉の旨味を引き立て、シャリアピンソースの酸味と甘みが後味を爽やかにしている。生徒たちはナイフとフォークを握りしめ、年相応の笑顔で肉にかぶりついていた。
「……す、すごいです。あの、僕、ただの魔術師見習いなのに、こんなご馳走を食べていいんでしょうか」
頬を紅潮させるグレンに、フェルがのっそりと顔を向ける。
「ほう。地竜と戦った小僧か。いい面構えだ」
「ええっ!? な、なんでそれを! ぼ、僕は何も言ってないのに!」
慌てふためく少年を横目に、厨房ではまた別の戦いが始まっていた。
「中にチーズを入れるだと……? 肉に穴を開けて詰めてみるか」
「焼いている最中にあふれ出してしまいました!」
「くそっ、なぜあのように綺麗に包み込めないのだ……!」
料理人たちの苦闘は、その夜、遅くまで続くことになる。
六皿目 ― 炭火焼き鯖の冷や汁麦飯
肉料理で満たされた胃に、すっと入っていくような一皿が運ばれてきた。
角上魚類から取り寄せた炭火焼き鯖をほぐして、味噌と擂りごまを溶いた冷たい出汁に入れ、きゅうりと大葉を散らす。そして、ほかほかの麦飯の上から、冷や汁をさらりとかけて——。
「冷たい汁を、温かい麦のご飯にかける……?」
恐る恐る口に運んだ来賓の目が、ふっと見開かれた。
「……香ばしい魚の香り。味噌のコク。ごまの風味に、きゅうりと大葉の爽やかさ……これは、心が落ち着く」
辛いマーラータンや、脂ののったのどぐろ、こってりとしたハンバーグと続いた舌が、ほっと息をつくような優しい味だった。
「……文献を調べても、似たような料理の記述は見つかりませんわ」
「歩く図書館」と呼ばれるクローディアが、悔しげに匙を握りしめていた。
「完全に、未知の料理。この私が知らないなんて……おかわりを」
「あっ、今おかわりって言いましたね、クローディア」
「言っていないわ、ニール。気のせいよ」
六、クラフトコーラとモンブラン
食後の一杯 ― クランドのクラフトコーラ
食事の締めくくりに、背の高いグラスが運ばれてきた。氷の浮かぶ、深い琥珀色の液体。その中から、小さな泡がしゅわしゅわと立ちのぼる。
「こちら、クラフトコーラです。スパイスのシロップを炭酸水で割ったもので、お酒は入っていないので、生徒さんも安心して飲めますよ」
クランドのシロップは、シナモン、カルダモン、クローブ、コリアンダー、ナツメグ、ジンジャー、ブラックペッパー、オールスパイス、バニラビーンズなど、約十種類のスパイスにレモンとライムの果汁を合わせたもの。ミネラルたっぷりのきび砂糖の深い甘みが、スパイスの香りをやわらかく包み込む。シロップ一に対して、炭酸水は五。
「……薬草茶のような、いい香りだ」
ひと口飲んだ生徒たちの顔が、次々にほころんでいく。
「甘い! でも、ぴりっとする!」
「しゅわしゅわしてる! なんだこれ、飲み物なのに、お祭りみたいだ!」
マーラータンで焼けた舌が、炭酸の泡とスパイスの清涼感で洗い流されていく。
「ほう、スパイスを十種類も……。これは、新しい商売の匂いがするわね」
ラナの目が商人の輝きを帯びた。
「俺様にもおかわりだ! もっとこのしゅわしゅわをくれ!」
ドラちゃんが天井近くから降りてきて、ぐびぐびとグラスを傾けている。
〆の一皿 ― シャトレーゼ・北海道産マスカルポーネのチーズモンブラン
そして、最後の一皿。
銀のトレイに乗せられて運ばれてきたのは、栗色のクリームが渦を巻く、小さなケーキだった。
シャトレーゼから取り寄せた、北海道産マスカルポーネのチーズモンブラン。すっきりとフレッシュな乳の風味のマスカルポーネクリームが、なめらかに口の中でとろける。その下には、濃厚なクリームチーズを使ったチーズムース。二種類のチーズの味わいに、レモンピールと果肉入りの苺ソースが、ほどよい酸味と食感のアクセントを添えている。
「…………っ!」
最初のひと口で、女性陣の動きが止まった。
「な、なんですの、これは……! しっとり、まろやか、それでいて爽やかで……!」
完璧な淑女として名高いブリジットが、気品を保つことも忘れて、うっとりとフォークを口に運ぶ。
「二種類のチーズが、舌の上で、こんなふうに……」
「ああ、もうだめ。食べ終わるのがもったいない……!」
ラナが、ケイシーが、イザベルまでもが、悪役令嬢の仮面をぽろりと落として、歓声をあげている。
「……そこの、あなた! わたくしの分のおかわりを……じゃなくて、お、お皿を片付けなさい!」
「は、はひっ……じゃなくて、い、いえ、あの、まだ……」
がたん、と椅子が倒れる音がした。
立ち上がったのは、モニカだった。
「モ、モ、モンブラン……!!」
普段は消え入るような声しか出さない少女が、大きく目を見開いて叫んでいる。生徒たちが一斉に振り向いた。
「え、えっと、あの、その、に、二種類のチーズの、配合比が、きっと……いえ、そうじゃなくて、おいしい、です……!」
赤くなってうつむくモニカの肩で、ネロがやれやれと首を振っている。
「……モニカ。正体がばれるから、少し落ち着け」
フェリクスはその様子を、楽しそうに眺めていた。
晩餐会は、大成功のうちに幕を閉じた。
七、静かな圧力
翌朝。
セレンディア学園の正門前には、旅支度を整えたムコーダ一行の姿があった。
「いやあ、お世話になりました。本当に、あっという間でしたね」
「こちらこそ。あなたのおかげで、この学園の歴史に残る晩餐会になった」
フェリクスが穏やかに微笑み、シリルとエリオットも不承不承といった体で頭を下げる。
「……次はいつ来るんだ。焼きそばの辛子マヨネーズのことだが」
「それが本題ですか、エリオットさん」
ニールが苦笑しながら、ムコーダに深々と礼をした。
「主、そろそろ出立するぞ。次の街で、また新しい肉を食わせろ」
「お前はもうちょっと余韻ってものをだな……」
そう言いながら、ムコーダが荷物を背負い直した、その時だった。
くい、と。
外套の裾が、小さく引かれた。
「……ん?」
振り返ると、そこにはモニカが立っていた。
小さな手で、ムコーダの外套の端をぎゅっと握りしめている。
「…………」
「え、えっと、モニカさん?」
「…………」
何も言わない。ただ、まっすぐにムコーダを見上げている。大きな瞳が、じっと、じーっと、まばたきもせずに。
「あの、どうかした……?」
「…………」
一分が過ぎた。二分が過ぎた。三分が過ぎた。
沈黙の魔女の、沈黙である。
だが、その沈黙は、百の言葉よりも雄弁だった。
(……もう、行っちゃうんですか)
(あのどら焼き、まだ食べたい)
(モンブラン、おかわりしたかった)
(また、あの焼きそばも食べたい)
(もう会えないのは、いやです)
「あー……その……」
「ムコーダ。その少女は、言いたいことが山ほどあるのに、口にできないだけだ」
足元からネロが、淡々と通訳した。
「見ての通り、とても分かりやすいと思うが」
「い、いや、それは分かってるんだけど……!」
ムコーダは、じりじりと後ずさろうとして、外套の裾がびくともしないことに気づく。小柄な少女の握力は、意外にも強かった。
(な、なんだこの圧力……! 怒鳴られてるわけでも、脅されてるわけでもないのに、断れる気がしない……!)
サラリーマン時代にも、これほどの無言の圧力を浴びた記憶はなかった。
「主、情けないぞ」
「ぷるぷるー。モニカさん、さびしいんだよー」
「ははは! 無敵のムコーダも、この嬢ちゃんには形無しだな!」
「お前ら、他人事だと思って……!」
ムコーダは観念して、深く、深くため息をついた。
「……わかった。わかりました。また来るから。ちゃんと、また来るから」
「…………」
モニカの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。それでも、手は離れない。
「……次は、どら焼きだけじゃなくて、いろんな和菓子も持ってくるから」
「…………」
「それから、モンブランも! モンブランも、ちゃんと追加で用意するから!」
「……!」
その瞬間。
モニカの顔が、ぱあっと明るく輝いた。小さく、こくりと頷く。ようやく、外套の裾からそっと手が離れた。
「……お、お待ち、して、ます……」
蚊の鳴くような声だった。けれど、それは確かに、モニカがムコーダに向けた、はじめての言葉だった。
「……約束、ですよ」
「は、はい。約束します」
ふたたび歩き出したムコーダの背に、フェリクスの笑い声が追いかけてくる。
「ふふ。〈沈黙の魔女〉にここまで言わせるとは。やはり面白い方だ」
「えっ、いま何か変な二つ名が聞こえたような」
「気のせいだ、主。行くぞ」
「あるじー、またねー」
「次の街の酒が楽しみだな!」
かくして、フェンリルと、スライムと、ピクシードラゴンと、そしてひとりのネットスーパー使いは、モニカの静かな圧力にタジタジになりながらも、セレンディア学園をあとにしたのだった。
その背中を、少女は朝日の中で、いつまでも、いつまでも見送っていた。
足元の黒猫が、ぽつりとつぶやく。
「……次に来るとき、モンブランの数を数えておこう。三個以上ないと、モニカは納得しないぞ」
(完)