騎士兎さん、毒娘の過剰摂取にはご注意を 作:たそ@ハーメルン
しくじった。
気づいたときには、ヴィシュカの右の二の腕は熱を持っていた。
喉へ走った刃を、身を捩ってかわしたつもりだったが、切っ先は袖ごと皮膚を裂いていったらしい。
裂け目からは血がひと筋、肘の内側へ向かって細く伝い落ちている。
傷そのものは浅い。
けれど、その熱がじわじわと肩のほうへ広がってくる感覚が、タチの悪さを物語っている。
神経毒だ。
それも、かなり質のいい。
ヴィシュカは、ゆっくりと後ろへ下がった。
夜の雨林は湿った闇に沈み、梢の切れ間から落ちる月明かりだけが、男の握る刃の先を鈍く光らせている。
ほんの少し前まで、この男は道端の根の陰にうずくまり、苦しそうに背を丸めて肩を震わせていた。
痩せた背の高い男で、ボロボロの服を着ていた。
困っているのなら助けてあげよう。
ただそれだけのつもりで、膝を折ったのに。
「……やってくれたわねぇ」
舌の付け根がじんと痺れはじめていた。
指先からは感覚が遠のき、手袋の中で自分の指が他人のもののようになっていく。
自分と同じ、毒を扱う者の手口だった。
「流れの薬売り」という看板ごと、こちらの甘さを利用された。
(ばかね、あたし)
それでもヴィシュカは、唇の弧を崩さなかった。
そっと二の腕の金具を締め上げて、止血を試みる。
気休めかもしれないが、毒の回りが少しでも遅くなればいい。
その間にも、男の顔からみるみる血の気が引いていく。
「なんで……なんで倒れない!?」
掠れた声が、夜気に震える。
「ヒルチャールだって、掠めただけで転がる毒だぞ……!」
「あら。そんなにすごい毒だったのぉ?」
ヴィシュカはわざとらしく傷口へ目を落とし、それから手袋の指先で細い針を一本つまみ上げて、月光の下でくるりと回してみせた。
「残念だったわねぇ。その程度じゃ、あたしを殺せないみたい」
「噂通りの化け物かよ……っ」
化け物。
その言葉に、ヴィシュカは喉の奥で小さく笑ってみせた。
針を回す指先の感覚はさっきよりもはっきりと鈍く、右腕は、どこへ力を送ればいいのか忘れてしまったように言うことをきかない。
心臓が脈を打つたび、痺れの領域が少しずつ肩へ広がっていく。
逃げるという選択肢は、一瞬考えて捨てた。
逃げれば追われる。
走れば毒が回る。
なら、相手が踏み込んだ瞬間に仕留め、その場で解毒するしかない。
男の目から動揺が消え、追い詰められた者の殺意に変わっていく。
ヴィシュカは針を握り直し、頬が引きつっていないことをただ祈りながら、口の端を吊り上げた。
「さあ。この毒娘 (ヴィシュカンニャ)に、触れる勇気はあるかしら?」
「黙れ、化け物がッ!」
男が地を蹴る。
ここしかない。
ヴィシュカも、痺れた脚で一歩踏み込もうとして――
衝撃が、男の真横から叩き込まれた。
ごっ、と鈍い音が響き、男の身体が視界の外へ弾き飛ばされる。
少し遅れて、大木が根元から揺れた。
幹に叩きつけられた男はそのままずるりと崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
「――え?」
指の間から毒針が滑り落ち、湿った腐葉土に音もなく沈んだ。
張り詰めていた空気が唐突に弛み、耳に雨露の滴る音が戻ってくる。
何が起きたのか理解が追いつかないまま、ヴィシュカは、闇の奥から近づいてくる足音を聞いた。
(うそ、新手……!?)
足音は急がず、けれど迷いもなく、まっすぐにこちらへ向かってくる。
(鎧みたいな音がする……。さっきのやつより小柄だわ……それにあの影の伸び方、槍……?)
痺れた左足が半歩下がる。
目がかすんで、姿がつかみ切れない。
でも、今の一撃だけで分かる。
さっきの男より、ずっと強い。
(どうする。槍相手じゃ針は届かない。煙幕も毒霧も、あの身のこなしじゃきっと振り切られる。風を起こして駆け抜ける? この脚で?)
腰から下げた神の目を握りしめる。
逃げるのは無理。
戦うのは、もっと無理。
使える手を数えてみても、数えた端から潰れていく。
じりじりと人影が近づいてくる。
息が苦しい。
顎から脂汗が伝い落ちる。
どうする。
どうする。
「よぉ」
人影が足を止める。
月明かりが、その口元をかすめる。
若い男の声だ。
「また会ったな」
――……?
また?
今、また、と言った?
客だろうか。
いや、こんな騎士のような出で立ちをした客は覚えがない。
ましてや、こんな自分と年齢の変わらなそうな人間と、親しくしたことなんてない。
(襲ってこないなら好都合……。このままはぐらかして逃げれば……)
早く解毒しないと、動けなくなる。
ヴィシュカは唇の端をゆっくりと持ち上げた。
「あらぁ。ごめんなさい、どなただったかしら。助けてくださったのね、ありがとう。でも、もう大丈夫よぉ。あたし、薬売りだから。自分のことは自分で――」
「切られただろ。腕だけか?」
聞いていなかった。
男は遠慮のない足取りで、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
湿った夜気に、冷たいミントの匂いが混じった。
離れなきゃ、人間から。
「見せろ」
「だから、大丈夫だってば」
笑顔はもう、頬に貼りついているだけだった。
身体の震えを隠したくて、必死に口角を持ち上げた。
足が勝手に後ずさろうとして、踵が木の根に引っかかる。
ぐら、と身体が後ろに傾く。
すかさず男の手が伸びてきて、右の腕を掴まれた。
「――っ」
触れられた。
腕を、掴まれた。
人間に。
自分じゃない他人に、知らない人に。
「触らないでッッ!!」
貼りついていた笑顔が、剥がれ落ちる。
冷たいものが背骨を駆け下り、心臓の音が、耳の奥を塞ぐほど大きくなる。
視界の端が狭まって、男の輪郭だけがやけに大きく迫ってくる。
「おい」
「離してッ、離しなさいよッ!」
掴まれた腕を振りほどこうと、肩ごと捻る。
この人から離れなきゃ。
それなのに、傾いだ身体を、掴んだままの腕がぐいと引き戻す。
革手袋の指が手首を包み、親指が脈の上へぴたりと乗っている。
「おい、落ち着け」
「やめて、離してッ!」
足がもつれる。
皮膚の感覚がない。
でも、触られている。
掴まれている。
心臓がうるさい。
針、髪飾り、靴の踵、どれでもいい。
この人から離れないと。
ミントの匂いが、もう、すぐそこに。
「暴れんな。毒が回るだろ」
低い声が頭の上から降ってきた。
月明かりに縁取られた影の中から、深紅を秘めた瞳がこちらを覗いている。
「あ⋯⋯」
「ずいぶん様子が違うじゃねぇか。よっぽど厄介なもんでも盛られたか?」
声が出ない。
「こんな緩い締め方じゃ、止血にもなんねぇよ」
男が腕の金具を締め上げてくる。
すでに感覚がないと思っていたが、骨に響くほどの強さに、思わず息が詰まる。
「解毒剤はあんのか」
「み、ぎの袋の中……」
「どれだ」
「二番目、と、五番目を……半量ずつ……」
男が袋を開き、示した二本を取り出した。
「あと、脚の……」
ヴィシュカは脚のベルトへ手を伸ばしかけたが、指が痙攣して動かなかった。
男が代わりに薬瓶を抜き取り、隣の空瓶も手に取る。
「全部、混ぜて⋯⋯」
「ん。⋯⋯ほらよ」
男は空瓶の中ですべての薬を混ぜ、瓶の口を唇に押し付けてきた。
男の手の動きに合わせて薬液を煽ると、舌から喉へ氷を丸ごと通したような異物感が襲ってくる。
飲み切れなかった薬液が、胸元に垂れた。
滴の輪郭が、さっきよりはっきり見えた。
男の手も、革手袋に包まれている。
よかった、素手じゃない。
その間にも男は手持ちのスキットルを開け、傷口に中身を振りかけていた。
アルコールの匂いがするから、酒かもしれない。
傷にびりびりと沁みてくる。
感覚が戻り始めた。
「毒が血に乗って回りきる前に、抜いちまったほうが早ぇな」
「え?」
男はそう言うと、瓶に残った一口分の薬を自分の喉へ流し込んだ。
そのままヴィシュカの傷ついた腕を引き寄せる。
傷の上に、何かが触れた。
それからぢゅっ、と音がして、腕の内側から何かが引きずり出されていく感覚が襲ってくる。
「ひっ」
「チッ。舌が痺れる⋯⋯神経毒かよ。面倒くせぇな」
何してるの。
頭がおかしいんじゃないの。
口で。
あたしの、毒が。
あなた、死んじゃうかも、しれないのよ。
溺れたように呼吸が浅く途切れ、喉の奥で空気が引っかかる。
雨露の落ちる音と自分の脈とが重なって、どちらが近くどちらが遠いのかも分からない。
男はただ淡々と、傷口から毒を吸っては吐き捨て、また吸っては吐き捨てる。
「……こんなもんだろ」
男は口元を手の甲で乱暴に拭うと、懐から小瓶を取り出した。
栓を歯で引き抜いて脇へ吐き捨てる。
次の瞬間、傷が燃えるような熱を持つ。
「いっ、たい、痛いってばぁ!」
全身の筋肉が勝手に跳ね、喉から声にならない息が漏れた。
革手袋の指が、傷口へ容赦なく小瓶の中身を擦り込んでくる。
散らばっていた感覚が、痛みの一点へ吸い寄せられるように身体へ戻った。
遅れて、恐怖も一緒に押し寄せてくる。
そこでようやく、自分が今、見知らぬ男の腕に押さえられたまま手当てをされているのだと思い出した。
「痛ぇなら生きてる。よかったな」
「よくないわよ、こんなの……っ、あなた、あなた⋯⋯っ!」
思考がまとまらない。
痛みも、感情も、何もかもがぐちゃぐちゃに混ざり合って、自分が何を叫んでいるのかさえ分からない。
とにかく無我夢中で身をよじり、男の腕を叩いて爪を立て、胸板を突き飛ばそうとした。
だが、逃げようとした途端に腰へ腕が回り込み、背中がぐいと引き寄せられて、厚い胸板に押しつけられる。
腕力で勝負になるはずがなかった。
最初から、そういう身体ではないのだ。
視界が滲み、頬をぬるいものが伝って顎から落ちる。
泣いているのだと気づいたのは、喉が引きつって、ひくっと情けない音が漏れたあとだった。
できることなど、何もなかった。
「もっと、やさしくしなさいよぉ……!」
男の手が、ぴたりと止まった。
腕の力は緩まないまま、傷口を擦っていた指だけが動かなくなる。
ヴィシュカが涙の膜越しに見上げると、男と目が合った。
男は何も言わない。
深紅の瞳の中に、自分の泣き顔が反射している。
その姿があまりに惨めで、また勝手に涙がぼろぼろと零れてきた。
「この、ド素人……! お酒なんかで消毒しちゃダメ、毒は吸い出しちゃダメ……そもそも、あたしは、もっとマシな傷薬を持ってるわよぉ……っ!」
訳が分からない。
なんなんだ、この男は。
「……今さら替えても変わんねぇよ。それに、アブねぇことする奴にはこうするのがいいって、誰かさんに教わったんでな」
「誰かさんって、誰よ!」
「んなことより、怪我を何とかする方が先だろ。すぐ終わらせてやるから大人しくしとけ、お嬢サン」
止まっていた指が、再び動き出した。
手つきは、少しも変わらなかった。
変わらないように、見えた。
「痛い、いた、い……っ、うそつき……!」
「もう少しだ」
「うそつきぃ……っ」
泣いても、叩いても、腕は緩まなかった。
最後まできっちり塗り込まれたのち、清潔な布が押し当てられて、きゅっと巻かれる。
結び目を留める指先だけが、妙に丁寧だった。
「おら。これで文句ねぇだろ」
腕が、ほどけた。
支えを失った身体は、そのままずるずると木の根元へ座り込んだ。
触れていたものが離れたことを確かめた途端、肩から、ふっと力が抜ける。
ようやく肺に空気が入った。
痛みは峠を越え、毒の痺れも確かに薄れているのに、涙だけがいつまでも止まらなかった。
袖で拭っても拭っても、あとから溢れてくる。
「……ひどい。意地悪。乱暴者」
「へいへい。悪かったよ」
「全然思ってないじゃない」
「ハハハッ」
正直な男だ。
ヴィシュカは膝を抱え、袖に顔を押し当てたまま、鼻をすすった。
隣で男が動く気配がして、はっと顔を上げる。
男は草をかき分け、一本の大木の方へ歩いていた。
目の届く距離なのに、胸の奥がひやりと冷える。
「しぶてぇな。この辺に縛り付けとくか」
がさがさと何かがこすれるような音がして、男が何かを縄で大木に巻き付けているのが見える。
気絶した襲撃者だ。
しばらくして、男は戻ってくると、ヴィシュカから少し離れた木の根に腰を下ろした。
手を伸ばしても届かず、けれど呼べば聞こえる、そのくらいの距離だった。
ほっと、息が漏れた。
「……だいたい、あなた誰なのよ」
「モンドの騎士。西風騎士団だ」
「西風騎士団……? 何でこんなところに」
「遠征中なんだよ。夜が明けたら、騎士団の拠点まで連れてってやる。それまで寝てろ」
「あたしは別に……」
「近くで騒ぎが起きたんだ。説明しなきゃ、上の奴がうるせぇ」
それきり男は、こちらを振り向かなかった。
青と白の外套が、月明かりの下に、ぽつんと浮かんでいる。
ヴィシュカは、その横顔をぼんやりと見つめた。
乱暴で、勝手で、意味が分からない。
それなのに、腕に巻かれた布は、腹立たしいくらいきちんと締まっている。
傷口からは、酒精と樹皮の匂いが立っていた。
雑な手当てだったが、薬は確かに効いている。
(変な人……)
風が吹き、自分の髪から薬草と花の匂いが流れていく。
それに混じって、ミントの冷たい匂いが、ほんの少しだけ届いた。
目を閉じても、その匂いで、まだそこにいるのだと分かった。
耳を澄ますと、かすかな呼吸が聞こえた。
さっき口にした毒が男に回っていないか、それだけ確かめるつもりで、ヴィシュカはその呼吸を数えはじめた。
ひとつ、ふたつ。
数え終わるより先に、まぶたが落ちた。