騎士兎さん、毒娘の過剰摂取にはご注意を 作:たそ@ハーメルン
夜の雨林は、眠らない。
葉擦れと羽虫の唸りのあいだで、樹冠から落ちる滴が思い出したように下草を叩く。
ローエンは木の根に背を預けたまま、短く息を吐いた。
湿り気を吸った革手袋が、指に冷たく貼りついている。
三歩半先で、女は膝を抱え、袖に顔を埋めて眠っている。
さっきまで喉を引きつらせていたのが嘘のように、肩だけがゆっくり上下していた。
腰元の風の神の目が、かすかな光を返している。
(ファルカの奴に、なんて言い訳すっかな)
女の存在に気づいたのは、偶然だった。
退屈な見張りの最中、湿った風の中に、ひと筋だけ花が香ってきたのだ。
その甘さが、死にかけた夜を脳髄の底から引きずり出した。
あれから数年。
短弓を槍に持ち替え、冒険者協会の登録証を騎士団の紋章に替えるあいだも、この匂いにだけは、どこへ行っても行き当たらなかった。
それが今、ここにある。
気付けば、持ち場を放り出して駆け出していた。
ただひたすら、匂いのする方へ。
(こんなに小せぇだなんて、聞いてねぇぞ)
「坊や」なんて呼んできたくらいだから、どうせ年季の入った婆さん辺りだろうと踏んでいた。
それが蓋を開けてみれば、出てきたのは自分とそう年の変わらなそうな女だ。
腕を掴めば指が余り、引き寄せれば呆れるほど軽い。
叩かれても、爪を立てられても、その力は拍子抜けするほど弱かった。
その細さが、いまも腕の内側に残っている。
――もっと、やさしくしなさいよぉ!
あの声が、傷口にぶちまけた酒のように、遅れてじわじわ沁みてくる。
手を止めるつもりはなかった。
毒が回る前に終わらせる、という判断が間違っていたとは思っていない。
なのに、指が止まった一瞬の、あの涙の光だけが消えない。
多少の意趣返しが混じってたことは認める。
それでも、借りを返したつもりだった。
それがまさか、あんなに泣きわめかれるなんて。
女が小さく身じろぎした。
喉の奥で浅い息が引っかかり、袖の中で、黒手袋の指が何かを探すように動く。
気づけば、ローエンの手が宙に浮いていた。
革手袋の指先が、三歩半先の闇へ、ただ伸びている。
(……また泣かれたら、面倒だ)
宙の手を膝へ戻して拳を握り、代わりに数を数えた。
経過観察だ、と自分に言い訳をしながら、吸って、吐いて、を目で追う。
浅いが乱れてはおらず、毒の兆候もない。
数年前の夜、闇の縁で自分の呼吸を数えていた誰かも、こんな気分だったのだろうか。
懐からガムを取り出して口へ放り込むと、ミントの冷気が舌に広がり、眠気だけが少し引いた。
*
朝は、音もなく訪れた。
樹冠の隙間から薄い光が滲み、霧が白く浮かび上がる。
女の睫毛が震えて目が開いたとき、ローエンは動かずに待った。
彼女が最初にしたのは、手袋の縁を確かめることだった。
次に腕の布を確かめ、最後にローエンを見て、昨夜のことを思い出したらしい。
腫れた目元が、さっと赤くなったのが見えた。
「……ずっと、そこにいたの?」
「当たり前だろ。見張りを何だと思ってんだ」
女は訝しげな顔をしながら、幹を支えにしてゆっくりと立ち上がった。
裾の土を払うなり、さっと身を引く。
「昨夜は、助かったわぁ。それじゃあ、あたしはこれで――」
「待て。夜が明けたら、拠点まで連れてくって言ったろ」
「あたしは、別にって言ったわ」
「こっちはそれじゃ済まねぇんだよ。あそこに縛りつけたままの野郎には、騎士団が責任をもって始末をつけさせる。お前がいた方が話が早ぇ」
女はしばらく唇を引き結んで、ローエンを睨んでいた。
霧の粒がひとつ、睫毛の先に引っかかっている。
粒が落ちるのと同時に、彼女は長い溜息をついた。
「……分かったわ」
「拠点は森を抜けた先だ。ついてこい」
まだ目を覚まさない襲撃者を木から解き、縄ごと引きずって歩き出す。
少し遅れて、後ろから足音がついてきた。
*
拠点に近づくにつれ、ひときわ大きな人影が見えてきた。
間違いない、ファルカだ。
朝靄の中で腕を組んで微動だにせず、ただ指先だけが、一定の間隔で二の腕を叩いている。
持ち場を一晩無断で空けた件については、言い訳を三つ用意したが、どれも出来は良くない。
説教されない言い訳じゃなく、説教を減らす方向で考えればよかった。
ファルカがこちらに気づき、笑顔で近づいてくる。
「よう、ローエン。いい朝だな。持ち場を空けて朝帰りとは、いい度胸じゃ――」
威勢のいい声が、そこで途切れた。
ファルカの視線が、ローエンを通り過ぎている。
まずは手元の襲撃者へ、そして次はその背後へ。
女は、いつの間にかローエンの陰に半身を隠していた。
背には触れないまま、できるかぎりローエンの背を壁にする位置へ身を寄せている。
「……ローエン、そちらのお嬢さんは?」
「襲われてた。手当はしてある。犯人は今ここで伸びてるこいつだ」
「そうか」
ファルカは頷き、女へ向き直る。
彼女まで、あと五歩。
ファルカはそこで足を止め、身をかがめて目の高さを合わせた。
「お嬢さん、俺たちはモンドの西風騎士団だ。大変だっただろう。よければ温かいものでも用意しよう。食べられるものはあるか?」
「いいえ、大丈夫よ。助けて、もらったから。この人に」
「その包帯の結び方、手当てしたのはうちの若造だな。傷は痛まないか?」
「あたしは薬売りだから、自分で治療もできるの。だから、大丈夫」
語尾が、ひとつも伸びない。
昨夜は涙混じりに喚いていた声が、いまは薄い板を張ったように平らだ。
ファルカが、ちらりとこちらへ視線をよこす。
ローエンはそれに、首を横に振って応えた。
これ以上何を言ったところで、女が頷くとは思えなかった。
「分かった。……ローエン、お嬢さんを送ってこい。急がなくていいぞ」
「ああ」
説教は、ひとまず後回しらしい。
「いいの、あたしのことは気にしないで。家も、ここから近いから」
「まあそう言うな。騎士の務めってやつだ。頼むよ、お嬢さん」
女は唇を噛み、地面を見つめ、それからローエンを見た。
助けを求めているようにも、睨んでいるようにも見えた。
「ほら、行くぞ」
「……ありがとう、騎士団の方」
女はファルカに小さく頭を下げた。
胸の前で重ねられた両手は、きつく握られたままほどけることはなかった。
*
ローエンが前を歩いた。
霧の残る獣道を、苔むした根を跨ぎ、ぬかるみを避けて進む。
背後で、足音がひとつ、距離を保ってついてくる。
苔には、人が踏んだ跡がほとんどない。
獣しか通らない道らしい。
倒木をひとつ跨いだところで、ローエンは前を向いたまま口を開いた。
「お前、薬売りって言ってたな」
「そうよ。売り始めたのは、最近だけど」
「へえ」
会話らしい会話は、それくらいだった。
やがて木々がまばらになり、雨林の窪地に、粗末な小屋が見えた。
蔦に覆われた屋根は半ば苔に沈み、傾いた板壁は、根の塊と見分けがつかない。
言われなければ、通り過ぎていただろう。
「ここでいいわ」
ローエンは振り返って、頷いた。
朝の雨林は鳥の声で騒がしい。
女は一度うつむいて、地面に向かって言った。
「……ありがとう」
礼には片手を上げて応え、ローエンは来た道を振り返った。
「ち、ちょっと待って!」
女は小屋へ駆け込み、傾いた板戸の向こうへ消えた。
閉まりきらない戸の隙間から、乾いた薬草の匂いが流れ出した。
戻ってきた女の手には、小さな薬瓶があった。
「何だそれ」
「栄養剤よ。徹夜で見張っててくれたでしょう。あと、解毒剤も入ってるから」
「解毒剤?」
「あたしから毒を吸い出した時のよ。体内には入ってなさそうだけど、念のため」
そう言いながら、女は近づいてこない。
前に崖でもあるかのように、足が止まっている。
「投げてよこせ。そのまま貰う」
「危ないじゃないの」
「ハッ。お前がよっぽど下手くそじゃなきゃ、落としたりしねぇよ」
ローエンは片手を差し出した。
女は疑わしげな目を向けてきたが、やがて意を決したように、小瓶を投げた。
下手から放られた瓶が、弧を描いて朝日を透かす。
ローエンは、落ちてきた瓶を危なげなく受け止めた。
分厚い硝子の硬さが、革手袋の掌に馴染んだ。
「じゃ。もう夜遅くに一人で出歩くんじゃねぇぞ、お嬢さん」
返事を待たず、今度こそ踵を返す。
結局、名は訊かなかった。
*
拠点へ戻ると、ファルカが木箱に腰を下ろし、地図を広げていた。
「お、戻ったか。お嬢さんは?」
「普通に歩いてた。元々傷は浅かったし、毒も抜いてある」
「そうか、そりゃよかった」
ファルカは、地図から目を上げなかった。
紙の端を押さえた指が、朝と同じ間隔で、とん、とんと木箱を叩いている。
「あの襲撃者だが、スメールの三十人団に引き渡した。お前、相当な勢いで吹っ飛ばしたな。向こうさんもビビってたぞ」
「軽く蹴っただけだっつーの」
「やりすぎとは言わんが、加減は覚えろよ」
ファルカは苦笑しているが、納得いかない。
加減も何も、駆けた勢いのまま蹴り飛ばしただけだ。
勝手に吹っ飛んだあっちが悪い。
むしろ、追加で殴らなかったことを褒めてほしいくらいだ。
「それはそれとして、お前には始末書が待ってるからな」
「はぁ? 人助けに免じて、見逃してくれるんじゃなかったのかよ」
「見張りを放り出した事実は変わらんだろう。それと、お前とあのお嬢さんから蒲公英酒の匂いがしたが、二人で酒盛りでもしたか?」
嫌な言い方だ。
懐のスキットルが、急に重くなった気がした。
「精進しろよ、青二才」
「……チッ」
*
始末書は三枚、追加の巡回は五日。
字が汚いと突き返された分まで数えれば、始末書は四枚になる。
全部片づけたころには、二十日ばかりが過ぎていた。
雨林の窪地に、あの小屋はあった。
屋根の蔦も、傾いた板壁も、二十日前のままだ。
道順は、足のほうが覚えていた。
軒先に渡した縄へ、薬草の房を掛けている後ろ姿がある。
黒いリボンで結んだ紫の髪が、梢を抜けてきた朝の光の中で揺れていた。
ローエンは、彼女から二歩ほど離れた位置で足を止めた。
それ以上は近づかなかった。
「よぉ、お嬢さん」
振り向いた女は一瞬だけ固まり、それから、唇できれいな弧を描いた。
縄へ伸ばしていた手袋の指が、掴んだ薬草の房をきつく握り込む。
乾いた葉が、かさりと鳴った。
「あなた、この前の坊やじゃない。こんなところまで何をしに来たのぉ?」
人を食ったような声。
けれど、指の間から葉屑がぱらぱらと落ちているのを、ローエンは見逃さなかった。
「今日は客として来た。薬をくれ」
女は目を瞬き、それから、ふっと肩の力を抜いた。
視線が、ローエンの革手袋に落ちる。
女は握り込んでいた房を縄に掛け直した。
「ここは販売所じゃないけど。せっかく来てくれたから、特別に売ってあげるわぁ」
傾いた板戸を押し開け、半身で振り返る。
「どうぞ。危ない薬草もあるから、不用意に触らないでね」
「へいへい」
敷居をまたぐと、乾いた薬草の匂いが濃くなった。
外の見た目に反して、小屋の中は整っている。
梁には薬草が吊られ、作業台には秤と乳鉢が揃っていた。
女は台の向こう側へ回った。
二人の間を、使い込まれた作業台が隔てている。
「それで、モンドの騎士様は何がご所望なのかしら?」
「何があるのかを先に教えろよ」
「何でも作れるわよぉ。傷薬に、麻酔、止血剤。咳止め、胃腸薬、滋養強壮剤……」
「んじゃ、まずは傷薬と止血剤を二本ずつくれ」
「毎度あり♪」
彼女は棚から小瓶を取り、白い粉と濃い緑の液を、秤にかけながら量り入れていく。
皿がかすかに傾いては戻り、材料を量る指先に迷いはない。
「そういえば、あなた、お名前は?」
「あ?」
「瓶に札をつけるの。名前がないと、誰の分だか分からなくなっちゃうでしょう?」
「……ローエン」
「ローエン。ふぅん。あたしは、ヴィシュカ」
ヴィシュカ。
口の中でもう一度、その名前を転がす。
彼女は作業台の端から木札と炭筆を引き寄せ、慣れた手つきで、丸みを帯びた字を札に書き連ねていく。
「一回一本、使ったら一日空けること。破ったときの責任までは持たないわよぉ」
「そりゃ、効果しだいだな」
「それ、守らない人の返事じゃないの」
くすりと笑う声は、震えていなかった。
黒いリボンの端が、笑うたびに肩の上で跳ねる。
「切れたら、また来る」
「……そう」
代金は、手渡しにせず、作業台の上へ置いた。
ヴィシュカも札の紐を瓶の首に結び、作業台の上へ置いた。
札に書かれた「ローエン」という文字が、こちらを向いている。
瓶と自分の指先のあいだには、ひと掌ぶんの空きがあった。
あの夜の三歩半が、それだけになった。