騎士兎さん、毒娘の過剰摂取にはご注意を   作:たそ@ハーメルン

5 / 5
花咲く森の未知

夜の雨林は、眠らない。

葉擦れと羽虫の唸りのあいだで、樹冠から落ちる滴が思い出したように下草を叩く。

 

ローエンは木の根に背を預けたまま、短く息を吐いた。

湿り気を吸った革手袋が、指に冷たく貼りついている。

三歩半先で、女は膝を抱え、袖に顔を埋めて眠っている。

さっきまで喉を引きつらせていたのが嘘のように、肩だけがゆっくり上下していた。

腰元の風の神の目が、かすかな光を返している。

 

(ファルカの奴に、なんて言い訳すっかな)

 

女の存在に気づいたのは、偶然だった。

退屈な見張りの最中、湿った風の中に、ひと筋だけ花が香ってきたのだ。

 

その甘さが、死にかけた夜を脳髄の底から引きずり出した。

 

あれから数年。

短弓を槍に持ち替え、冒険者協会の登録証を騎士団の紋章に替えるあいだも、この匂いにだけは、どこへ行っても行き当たらなかった。

それが今、ここにある。

気付けば、持ち場を放り出して駆け出していた。

ただひたすら、匂いのする方へ。

 

(こんなに小せぇだなんて、聞いてねぇぞ)

 

「坊や」なんて呼んできたくらいだから、どうせ年季の入った婆さん辺りだろうと踏んでいた。

それが蓋を開けてみれば、出てきたのは自分とそう年の変わらなそうな女だ。

腕を掴めば指が余り、引き寄せれば呆れるほど軽い。

叩かれても、爪を立てられても、その力は拍子抜けするほど弱かった。

その細さが、いまも腕の内側に残っている。

 

――もっと、やさしくしなさいよぉ!

 

あの声が、傷口にぶちまけた酒のように、遅れてじわじわ沁みてくる。

手を止めるつもりはなかった。

毒が回る前に終わらせる、という判断が間違っていたとは思っていない。

なのに、指が止まった一瞬の、あの涙の光だけが消えない。

多少の意趣返しが混じってたことは認める。

それでも、借りを返したつもりだった。

それがまさか、あんなに泣きわめかれるなんて。

 

女が小さく身じろぎした。

喉の奥で浅い息が引っかかり、袖の中で、黒手袋の指が何かを探すように動く。

気づけば、ローエンの手が宙に浮いていた。

革手袋の指先が、三歩半先の闇へ、ただ伸びている。

 

(……また泣かれたら、面倒だ)

 

宙の手を膝へ戻して拳を握り、代わりに数を数えた。

経過観察だ、と自分に言い訳をしながら、吸って、吐いて、を目で追う。

浅いが乱れてはおらず、毒の兆候もない。

数年前の夜、闇の縁で自分の呼吸を数えていた誰かも、こんな気分だったのだろうか。

懐からガムを取り出して口へ放り込むと、ミントの冷気が舌に広がり、眠気だけが少し引いた。

 

 

 

*

 

 

 

朝は、音もなく訪れた。

樹冠の隙間から薄い光が滲み、霧が白く浮かび上がる。

女の睫毛が震えて目が開いたとき、ローエンは動かずに待った。

彼女が最初にしたのは、手袋の縁を確かめることだった。

次に腕の布を確かめ、最後にローエンを見て、昨夜のことを思い出したらしい。

腫れた目元が、さっと赤くなったのが見えた。

 

「……ずっと、そこにいたの?」

「当たり前だろ。見張りを何だと思ってんだ」

 

女は訝しげな顔をしながら、幹を支えにしてゆっくりと立ち上がった。

裾の土を払うなり、さっと身を引く。

 

「昨夜は、助かったわぁ。それじゃあ、あたしはこれで――」

「待て。夜が明けたら、拠点まで連れてくって言ったろ」

「あたしは、別にって言ったわ」

「こっちはそれじゃ済まねぇんだよ。あそこに縛りつけたままの野郎には、騎士団が責任をもって始末をつけさせる。お前がいた方が話が早ぇ」

 

女はしばらく唇を引き結んで、ローエンを睨んでいた。

霧の粒がひとつ、睫毛の先に引っかかっている。

粒が落ちるのと同時に、彼女は長い溜息をついた。

 

「……分かったわ」

「拠点は森を抜けた先だ。ついてこい」

 

まだ目を覚まさない襲撃者を木から解き、縄ごと引きずって歩き出す。

少し遅れて、後ろから足音がついてきた。

 

 

 

*

 

 

 

拠点に近づくにつれ、ひときわ大きな人影が見えてきた。

間違いない、ファルカだ。

朝靄の中で腕を組んで微動だにせず、ただ指先だけが、一定の間隔で二の腕を叩いている。

持ち場を一晩無断で空けた件については、言い訳を三つ用意したが、どれも出来は良くない。

説教されない言い訳じゃなく、説教を減らす方向で考えればよかった。

ファルカがこちらに気づき、笑顔で近づいてくる。

 

「よう、ローエン。いい朝だな。持ち場を空けて朝帰りとは、いい度胸じゃ――」

 

威勢のいい声が、そこで途切れた。

ファルカの視線が、ローエンを通り過ぎている。

まずは手元の襲撃者へ、そして次はその背後へ。

女は、いつの間にかローエンの陰に半身を隠していた。

背には触れないまま、できるかぎりローエンの背を壁にする位置へ身を寄せている。

 

「……ローエン、そちらのお嬢さんは?」

「襲われてた。手当はしてある。犯人は今ここで伸びてるこいつだ」

「そうか」

 

ファルカは頷き、女へ向き直る。

彼女まで、あと五歩。

ファルカはそこで足を止め、身をかがめて目の高さを合わせた。

 

「お嬢さん、俺たちはモンドの西風騎士団だ。大変だっただろう。よければ温かいものでも用意しよう。食べられるものはあるか?」

「いいえ、大丈夫よ。助けて、もらったから。この人に」

「その包帯の結び方、手当てしたのはうちの若造だな。傷は痛まないか?」

「あたしは薬売りだから、自分で治療もできるの。だから、大丈夫」

 

語尾が、ひとつも伸びない。

昨夜は涙混じりに喚いていた声が、いまは薄い板を張ったように平らだ。

ファルカが、ちらりとこちらへ視線をよこす。

ローエンはそれに、首を横に振って応えた。

これ以上何を言ったところで、女が頷くとは思えなかった。

 

「分かった。……ローエン、お嬢さんを送ってこい。急がなくていいぞ」

「ああ」

 

説教は、ひとまず後回しらしい。

 

「いいの、あたしのことは気にしないで。家も、ここから近いから」

「まあそう言うな。騎士の務めってやつだ。頼むよ、お嬢さん」

 

女は唇を噛み、地面を見つめ、それからローエンを見た。

助けを求めているようにも、睨んでいるようにも見えた。

 

「ほら、行くぞ」

「……ありがとう、騎士団の方」

 

女はファルカに小さく頭を下げた。

胸の前で重ねられた両手は、きつく握られたままほどけることはなかった。

 

 

 

*

 

 

 

ローエンが前を歩いた。

霧の残る獣道を、苔むした根を跨ぎ、ぬかるみを避けて進む。

背後で、足音がひとつ、距離を保ってついてくる。

苔には、人が踏んだ跡がほとんどない。

獣しか通らない道らしい。

倒木をひとつ跨いだところで、ローエンは前を向いたまま口を開いた。

 

「お前、薬売りって言ってたな」

「そうよ。売り始めたのは、最近だけど」

「へえ」

 

会話らしい会話は、それくらいだった。

やがて木々がまばらになり、雨林の窪地に、粗末な小屋が見えた。

蔦に覆われた屋根は半ば苔に沈み、傾いた板壁は、根の塊と見分けがつかない。

言われなければ、通り過ぎていただろう。

 

「ここでいいわ」

 

ローエンは振り返って、頷いた。

朝の雨林は鳥の声で騒がしい。

女は一度うつむいて、地面に向かって言った。

 

「……ありがとう」

 

礼には片手を上げて応え、ローエンは来た道を振り返った。

 

「ち、ちょっと待って!」

 

女は小屋へ駆け込み、傾いた板戸の向こうへ消えた。

閉まりきらない戸の隙間から、乾いた薬草の匂いが流れ出した。

戻ってきた女の手には、小さな薬瓶があった。

 

「何だそれ」

「栄養剤よ。徹夜で見張っててくれたでしょう。あと、解毒剤も入ってるから」

「解毒剤?」

「あたしから毒を吸い出した時のよ。体内には入ってなさそうだけど、念のため」

 

そう言いながら、女は近づいてこない。

前に崖でもあるかのように、足が止まっている。

 

「投げてよこせ。そのまま貰う」

「危ないじゃないの」

「ハッ。お前がよっぽど下手くそじゃなきゃ、落としたりしねぇよ」

 

ローエンは片手を差し出した。

女は疑わしげな目を向けてきたが、やがて意を決したように、小瓶を投げた。

下手から放られた瓶が、弧を描いて朝日を透かす。

ローエンは、落ちてきた瓶を危なげなく受け止めた。

分厚い硝子の硬さが、革手袋の掌に馴染んだ。

 

「じゃ。もう夜遅くに一人で出歩くんじゃねぇぞ、お嬢さん」

 

返事を待たず、今度こそ踵を返す。

結局、名は訊かなかった。

 

 

 

*

 

 

 

拠点へ戻ると、ファルカが木箱に腰を下ろし、地図を広げていた。

 

「お、戻ったか。お嬢さんは?」

「普通に歩いてた。元々傷は浅かったし、毒も抜いてある」

「そうか、そりゃよかった」

 

ファルカは、地図から目を上げなかった。

紙の端を押さえた指が、朝と同じ間隔で、とん、とんと木箱を叩いている。

 

「あの襲撃者だが、スメールの三十人団に引き渡した。お前、相当な勢いで吹っ飛ばしたな。向こうさんもビビってたぞ」

「軽く蹴っただけだっつーの」

「やりすぎとは言わんが、加減は覚えろよ」

 

ファルカは苦笑しているが、納得いかない。

加減も何も、駆けた勢いのまま蹴り飛ばしただけだ。

勝手に吹っ飛んだあっちが悪い。

むしろ、追加で殴らなかったことを褒めてほしいくらいだ。

 

「それはそれとして、お前には始末書が待ってるからな」

「はぁ? 人助けに免じて、見逃してくれるんじゃなかったのかよ」

「見張りを放り出した事実は変わらんだろう。それと、お前とあのお嬢さんから蒲公英酒の匂いがしたが、二人で酒盛りでもしたか?」

 

嫌な言い方だ。

懐のスキットルが、急に重くなった気がした。

 

「精進しろよ、青二才」

「……チッ」

 

 

 

*

 

 

 

始末書は三枚、追加の巡回は五日。

字が汚いと突き返された分まで数えれば、始末書は四枚になる。

全部片づけたころには、二十日ばかりが過ぎていた。

 

雨林の窪地に、あの小屋はあった。

屋根の蔦も、傾いた板壁も、二十日前のままだ。

道順は、足のほうが覚えていた。

軒先に渡した縄へ、薬草の房を掛けている後ろ姿がある。

黒いリボンで結んだ紫の髪が、梢を抜けてきた朝の光の中で揺れていた。

ローエンは、彼女から二歩ほど離れた位置で足を止めた。

それ以上は近づかなかった。

 

「よぉ、お嬢さん」

 

振り向いた女は一瞬だけ固まり、それから、唇できれいな弧を描いた。

縄へ伸ばしていた手袋の指が、掴んだ薬草の房をきつく握り込む。

乾いた葉が、かさりと鳴った。

 

「あなた、この前の坊やじゃない。こんなところまで何をしに来たのぉ?」

 

人を食ったような声。

けれど、指の間から葉屑がぱらぱらと落ちているのを、ローエンは見逃さなかった。

 

「今日は客として来た。薬をくれ」

 

女は目を瞬き、それから、ふっと肩の力を抜いた。

視線が、ローエンの革手袋に落ちる。

女は握り込んでいた房を縄に掛け直した。

 

「ここは販売所じゃないけど。せっかく来てくれたから、特別に売ってあげるわぁ」

 

傾いた板戸を押し開け、半身で振り返る。

 

「どうぞ。危ない薬草もあるから、不用意に触らないでね」

「へいへい」

 

敷居をまたぐと、乾いた薬草の匂いが濃くなった。

外の見た目に反して、小屋の中は整っている。

梁には薬草が吊られ、作業台には秤と乳鉢が揃っていた。

女は台の向こう側へ回った。

二人の間を、使い込まれた作業台が隔てている。

 

「それで、モンドの騎士様は何がご所望なのかしら?」

「何があるのかを先に教えろよ」

「何でも作れるわよぉ。傷薬に、麻酔、止血剤。咳止め、胃腸薬、滋養強壮剤……」

「んじゃ、まずは傷薬と止血剤を二本ずつくれ」

「毎度あり♪」

 

彼女は棚から小瓶を取り、白い粉と濃い緑の液を、秤にかけながら量り入れていく。

皿がかすかに傾いては戻り、材料を量る指先に迷いはない。

 

「そういえば、あなた、お名前は?」

「あ?」

「瓶に札をつけるの。名前がないと、誰の分だか分からなくなっちゃうでしょう?」

「……ローエン」

「ローエン。ふぅん。あたしは、ヴィシュカ」

 

ヴィシュカ。

口の中でもう一度、その名前を転がす。

彼女は作業台の端から木札と炭筆を引き寄せ、慣れた手つきで、丸みを帯びた字を札に書き連ねていく。

 

「一回一本、使ったら一日空けること。破ったときの責任までは持たないわよぉ」

「そりゃ、効果しだいだな」

「それ、守らない人の返事じゃないの」

 

くすりと笑う声は、震えていなかった。

黒いリボンの端が、笑うたびに肩の上で跳ねる。

 

「切れたら、また来る」

「……そう」

 

代金は、手渡しにせず、作業台の上へ置いた。

ヴィシュカも札の紐を瓶の首に結び、作業台の上へ置いた。

札に書かれた「ローエン」という文字が、こちらを向いている。

 

瓶と自分の指先のあいだには、ひと掌ぶんの空きがあった。

あの夜の三歩半が、それだけになった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

死の執政に、粥を一匙(作者:いくと)(原作:原神)

原神Ver.7.1、スネージナヤでの戦いの果てに、死の執政ロノヴァは姿を消した。生死は、誰にも分からない。▼スネージナヤとナド・クライの境、針葉樹の森で一人暮らす青年トイヴォは、買い出しの帰り道、雪原に倒れた白髪の女性を拾う。黒い腕はひどい凍傷だと思い込み、名前を聞いても「変わった名前だね」。▼世間にうとい青年と、力を失った死の執政。粥と蜂蜜と暖炉の火から始…


総合評価:1257/評価:9.05/完結:44話/更新日時:2026年10月13日(火) 18:45 小説情報

何やら神に喧嘩を売った雪国に転生したらしい(作者:てきとーでいこう)(原作:原神)

原神のスネージナヤが面白すぎて創作意欲湧いたので書きました。▼性転換は作者の性癖です。▼原神を雰囲気でプレイしていた旅人がスネージナヤで転生した話。▼主人公はナド•クライまでしかプレイしておらず世界任務は全く手をつけず、魔神任務のみやる旅人であったとする。▼魔神任務が追加されるたびに亀のように遅く書くと思います。▼注意!!!▼作者は原神を細かくは把握してない…


総合評価:1968/評価:8.85/連載:11話/更新日時:2026年09月29日(火) 22:19 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>