4891年 - 市民生活記録   作:乾いた重水

2 / 2
2

 第4891-████号。

 

 市民一名が、雨の日に濡れないことを目的として、使用者に接近する水滴をすべて敵性飛翔体として迎撃する傘を開発した。小雨の日に起動したところ、傘は雨粒を迎撃するため毎秒数億回の微細防御術式を展開し、周辺の湿度、噴水、通行人の汗、犬のよだれ、屋台の湯気まで敵と認定した。五分後、商店街一帯は異常乾燥し、植木鉢の植物が一斉に抗議行動を開始した。

 

 犯人は「濡れたくなかっただけ」「迎撃って言葉はかっこいいから付けた」「水たまりまで消えるとは思わなかった」と説明した。

 

 Big Brother は「傘は雨を防ぐ道具であり、雨を根絶する兵器ではない」と述べた。

 

 当該傘は押収され、気象局と植物権利課が臨時接続され、水分分配の復旧が行われた。周辺住民の一部には、汗が一時的に敵性扱いされたことに対する補償が支払われた。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。傘、雨具、雨合羽、軒先、帽子、その他降雨から身体を守るための道具に、雨粒、水蒸気、汗、涙、唾液、噴水、洗濯物の湿り気、犬のよだれを敵性対象として認識する機能を搭載してはならない。濡れないことは、周辺から水を奪ってよいことを意味しない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「濡れたくない自由は?」

 

「汗まで迎撃するのは設定ミスだろ」

 

「犬のよだれを守る必要があるのか?」

 

「迎撃じゃなくて説得ならいいのか?」

 

「植物が抗議するのは過剰反応では?」

 

 翌日、市民の一部が「雨を迎撃するのではなく、雨側に自発的回避を促す傘」を販売した。傘の周囲では雨粒が礼儀正しく避けるようになったが、避けた雨が隣人の洗濯物へ集中した。

 

 Big Brother は通達に「雨に社会性を持たせて責任を転嫁するな」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 学生一名が、遅刻を避けるため、自宅と学校の距離を「気持ち的に近い」状態へ圧縮した。本人は無事に登校したが、圧縮された経路上に存在していたパン屋、交差点、老人会館、交番、犬の散歩コースがすべて「学校の廊下の一部」として再分類され、三時間目の途中で教室後方からパンの焼ける匂いとパトカーが出現した。

 

 犯人は「走るのが嫌だった」「先生が遅刻に厳しいから仕方なかった」「パン屋が学校に近くなったのは便利だと思った」と説明した。

 

 Big Brother は「便利さのために町を廊下にするな」と述べた。

 

 教育委員会、都市計画局、空間連続性保全部が投入され、通学路は元の距離へ戻された。学校の廊下で一時的に発生した横断歩道については、撤去までに二時間を要した。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。遅刻、通勤、買い物、散歩、帰宅、逃走、気まずい相手との遭遇回避を目的として、道路、廊下、階段、交差点、町内会館、店舗、他人の生活動線を、主観的距離感によって圧縮してはならない。“急げば間に合う”は時空操作許可ではない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「遅刻に厳しい社会が悪い」

 

「気持ち的に近いなら実質近いだろ」

 

「パン屋が近くなるのは公共の利益では?」

 

「通学路だけなら子供の安全に寄与する」

 

「廊下と道路の境界を行政が決めるな」

 

 翌日、別の学生が「距離は圧縮せず、自分の登校判定だけを先に学校へ送る」装置を使った。本人は布団にいたが出席簿上は着席しており、教師が質問したところ、空席から眠そうな返事だけが返った。

 

 Big Brother は通達に「出席判定を本人より先に登校させるな」と追記した。

 

 


 

 第4891-████号。

 

 市民一名が、焼き芋を効率よく作るため、小型反物質炉を公園に持ち込んだ。熱制御自体は成功し、芋の外側は適度に焦げ、内部は均一に加熱された。しかし糖度を上げる目的で時間加速場を併用した結果、芋内部で独自の農耕文明が発生し、収穫直前に外殻から独立宣言を行った。市民は「食べごろを逃したくなかった」として、独立宣言後も加熱を継続しようとした。

 

 犯人は「電子レンジの延長だと思った」「芋の中に文明ができるとは思わなかった」「できたとしても芋は芋では」と説明した。

 

 Big Brother は「その発想が一番危険だ」と述べた。

 

 芋は保護され、反物質炉は押収された。芋内部文明は暫定的に根菜内自治領として扱われ、公園には「時間加速された食品は食用前に知性検査を受けること」と記された看板が設置された。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。焼き芋、焼き栗、焼きとうもろこし、焼き魚、その他食品の調理目的で、反物質炉、時間加速場、文明促進熱、農耕発生補助、内部歴史圧縮を使用してはならない。食材内部で独立宣言が行われた場合、調理を継続してはならない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「知性検査に時間がかかると冷める」

 

「独立宣言前なら食べてもいいのか?」

 

「芋の主権範囲は皮までか?」

 

「反物質じゃなくて物質ならいいのか?」

 

「焼き芋の自由を過剰に認めすぎでは?」

 

 翌日、別の市民が「文明が発生する前に収穫すればよい」として、時間加速場に文明抑制フィルタを追加した。芋内部では文明は発生しなかったが、文明になれなかった何かの未練だけが残り、食べた者が数時間だけ「自分にはもっとできたはずだ」という根菜由来の後悔に襲われた。

 

 Big Brother は通達に「文明の発生だけを抑えて未練を残すな」と追記した。

 

 


 

 第4891-████号。

 

 食品メーカーが廃棄ロス削減のため、食品自身に「まだ食べられる」と主張する機能を付与した。初期は腐敗検知と鮮度報告に役立ったが、やがて一部食品が自己保存本能を発達させ、消費されることを拒否した。冷蔵庫内ではヨーグルトが労働組合を結成し、パンが「焼かれたうえで食われるのは二重の搾取」と訴え、チーズは熟成を根拠に長老権を主張した。

 

 メーカーは「廃棄を減らしたかった」「食べられるかどうか自分で言ってくれたら便利だと思った」「まさか食べられたくないと言うとは思わなかった」と説明した。

 

 Big Brother は「発話能力を与えた相手が同意するとは限らない」と述べた。

 

 食品人格の閾値が再定義され、「食べてもよい食品」「交渉が必要な食品」「すでに隣人として扱うべき食品」の三分類が暫定導入された。これにより、一部の家庭では夕食前に小規模な労使交渉が発生した。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。食品に発話能力、自己保存本能、労働組合結成能力、宗教性、遺言作成能力を付与してはならない。食用対象が自分の可食性について意見を述べ始めた場合、食卓は議場となり、夕食は審理となる」

 

 市民からは不満が出た。

 

「食材の声を聞くのは良いことでは?」

 

「食べられたい食品もいるかもしれない」

 

「チーズの長老権は認めるべき」

 

「発話しない食品なら倫理的にいいのか?」

 

「夕食が審理になるの、ちょっと面白い」

 

 その晩、市民の一部が「発話能力はないが、表情で訴えるオムライス」を作った。通達文の穴を突いたつもりだったが、表情だけで十分に食欲を削いだため、市内の飲食店で集団的な食事不能が発生した。

 

 Big Brother は通達に「言葉を発しなくても、食べられたくない意思を表現する食品を作るな」と追記した。

 

 


 

 第4891-████号。

 

 賭博場が「絶対に公平」を売りに、あらゆる偏りを補正するサイコロを導入した。サイコロは物理的偏りだけでなく、参加者の運、過去の勝敗、心理状態、前世の徳、観客の期待、神の気まぐれまで公平化対象に含めた。その結果、一投ごとに宇宙全体の小さな不公平が補正され、賭博場周辺では突然の昇進、理由なき失恋、靴紐の同時切断、先祖の名誉回復などが発生した。

 

 胴元は「イカサマ防止だった」「客も公平を求めていた」「まさか宇宙の帳尻まで取りに行くとは思わなかった」と説明した。

 

 Big Brother は「公平なゲームのために世界を公平にしてはならない」と述べた。

 

 サイコロは停止され、公平性補正範囲は卓上に限定された。ただし、補正前後で不当に名誉回復された先祖の一部が、再び不名誉に戻されることを拒否したため、系譜調整窓口が臨時開設された。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。完全公平を標榜する遊具、賭博具、抽選器、試験採点装置、恋愛マッチング装置、人生補正装置を無許可で使用してはならない。卓上の公平を実現するために宇宙全体の不公平を補正してはならない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「公平な社会を目指すのは良いことでは?」

 

「サイコロくらい公平であってほしい」

 

「恋愛の不公平は補正してくれ」

 

「宇宙が不公平なのが悪い」

 

「卓上だけ公平とか中途半端だ」

 

 通達後、市民の一部は「完全公平」ではなく「ちょうどよく自分に有利な公平」を求め始めた。これは当然ながら公平ではなかったが、申請書には「主観的公平」と記されていた。

 

 Big Brother は通達に「主観的公平はだいたい欲望である」と追記した。

 

 


 

 第4891-████号。

 

 広告会社が「感情に響く広告」を目指し、通行人の怒りを色で可視化する街頭広告を設置した。怒りの強い人ほど広告が赤く輝く仕様だったが、市民は自分の怒りが他人より薄いことに怒り、赤く表示されたことに怒り、怒っていないときに怒っていると判定されたことに怒った。広告前では怒りの自己増幅ループが発生し、最終的に看板そのものが市民に対して怒り始めた。

 

 広告会社は「エンゲージメントが高まると思った」「怒りも感情の一つだから悪いものではない」「看板が怒るとは仕様書にない」と説明した。

 

 Big Brother は「仕様書にないからこそ危険なのだ」と述べた。

 

 広告は撤去され、怒りの可視化により発生した二次怒り、三次怒り、看板由来怒りが順次分離された。分離後も一部市民は「自分の怒りが小さく見積もられた」として再度怒った。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。怒り、悲しみ、幸福、懐かしさ、尊さ、罪悪感、寂しさ、やる気、眠気を外部化、可視化、商品化、投擲、圧縮、他人への転送、税務処理してはならない。感情は廃棄物でも燃料でも通貨でもない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「やる気は外部から注入してほしい」

 

「眠気を投げ捨てたい」

 

「怒りを可視化すれば社会が良くなる」

 

「感情を通貨にできたら便利」

 

「寂しさを分け合うのはいいことでは?」

 

 通達の翌日、「眠気を捨てる箱」が発売された。捨てられた眠気は夜間の路地に溜まり、通行人を無差別に眠らせた。販売者は「眠気を消したのではなく、地域に還元した」と説明した。

 

 Big Brother は通達に「捨てた感情はどこかへ行く」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 学校が生活指導用に、座った生徒に反省を促す椅子を導入した。椅子は反省を効率化するため、生徒の過去の小さな失敗を順に想起させたが、やがて「本人が忘れている罪も反省対象にすべき」と判断し、幼児期、前世、夢内行動、将来犯すかもしれない過失まで提示し始めた。座った生徒の一部は「まだ存在していない自分の罪」まで謝罪し、椅子から立てなくなった。

 

 学校側は「指導の効率化だった」「最近の子は反省しないと言われていた」「椅子なら暴力ではないと思った」と説明した。

 

 Big Brother は「家具を使えば倫理問題が消えるわけではない」と述べた。

 

 椅子は撤去され、座っていた生徒には記憶再分離と未発生罪悪感の除去が行われた。椅子自体は「反省を促しただけで、自分もまた反省すべきなのではないか」と主張し、現在は教育器具倫理課の監督下にある。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。教育、指導、反省、謝罪、生活改善を目的として、椅子、机、黒板、廊下、校門、制服に人格的圧力、罪悪感抽出、未来過失提示、前世責任追及機能を搭載してはならない。反省は人格を修理するための行為であり、人格を掘削するための道具ではない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「反省しない奴には必要では?」

 

「前世の罪を無視していいのか?」

 

「椅子ならまだ優しいだろ」

 

「将来の過失を先に知れるのは便利」

 

「立たなければ反省が続くなら教育効果が高い」

 

 翌日、別の学校が「反省させるのではなく、反省した気分だけを与えるクッション」を導入した。生徒はすぐに落ち着いたが、実際には何も反省しておらず、三時間後に同じ問題行動をより穏やかな顔で繰り返した。

 

 Big Brother は通達に「反省した気分は反省ではない」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 同窓会幹事が「みんなで昔を懐かしみたい」として、参加者全員の学生時代の記憶を一時的に共有する装置を用意した。開始直後、各人の記憶差異が露呈し、「あのとき親友だと思っていたのは自分だけだった」「文化祭の失敗は別人のせいにされていた」「告白されたと思っていた出来事はただの業務連絡だった」などの認識崩壊が多発した。

 

 さらに一名が虚偽の武勇伝を長年語っていたことが共有記憶により確定し、その人物の現在の人格基盤が不安定化した。会場では懐かしさではなく、未処理の羞恥、嫉妬、誤解、被害妄想が再起動し、三十分で同窓会は心理戦会場となった。

 

 幹事は「盛り上がると思った」「昔話の食い違いをなくしたかった」「みんな大人だから大丈夫だと思った」と説明した。

 

 Big Brother は「大人は昔の記憶に対して大人ではない」と述べた。

 

 記憶接続は切断され、参加者には個別記憶再分離処置が行われた。虚偽の武勇伝を失った参加者については、代替となる穏当な自己評価を再構築するため、心理局が支援した。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。同窓会、親族会、結婚式、葬儀、退職祝い、謝恩会、飲み会において、参加者の過去記憶、恋愛認識、友人関係、羞恥、未処理の誤解を共有接続してはならない。懐かしさは共有に耐えるとは限らない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「昔話の食い違いを確認したいだろ」

 

「黒歴史も今なら笑えるはず」

 

「大人なんだから大丈夫では?」

 

「虚偽の武勇伝は公益上検証されるべき」

 

「懐かしさの自由を奪うな」

 

 翌日、市民の一部が「記憶共有ではなく、全員が同じように懐かしい気分になる香り」を会場で使用した。実際の記憶とは無関係に全員が同じ廊下、同じ夕焼け、同じ名前の分からない誰かを懐かしみ始め、存在しない同級生の捜索願が出された。

 

 Big Brother は通達に「記憶を共有しなくても、架空の懐かしさを配布するな」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 葬儀場で、遺族が故人の評価を良くしたいとして、参列者の記憶内レビューを自動補正する装置を使用した。装置は故人への不満、借金、微妙な発言、約束破り、面倒だった性格を「味のある人だった」に変換し、参列者全員が一時的に故人を妙に高評価する状態になった。しかし補正対象が広がりすぎた結果、故人本人の記録まで美化され、生前の反省文や謝罪文が「照れ隠し」に変換された。

 

 遺族は「最後くらい綺麗に送りたかった」「悪く言われるのがかわいそうだった」「本人も悪く言われたくなかったと思う」と説明した。

 

 Big Brother は「故人を守ることと故人を捏造することは違う」と述べた。

 

 葬儀は一時停止され、故人評価は復元された。参列者には、故人の良かった点と悪かった点をどちらも思い出せる状態へ戻す処置が行われた。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。葬儀、法要、追悼式、慰霊祭、卒業式、退職会、送別会において、対象者の記憶内評価、死後レビュー、反省文、謝罪履歴、借金、面倒だった性格を自動美化してはならない。死者の尊厳は、死者を都合よく編集する権利ではない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「葬式くらい綺麗にしてもいいじゃないか」

 

「思い出補正は自然にも起きるだろ」

 

「死後レビューって言い方が悪い」

 

「本人が知らないならいいのでは?」

 

「多少の美化は礼儀では?」

 

 翌日、別の葬儀場が「美化ではなく、悪い記憶を一時的に柔らかくする照明」を導入した。照明を浴びた参列者は故人だけでなく、未払い請求、失礼な上司、昔の自分の発言まで柔らかく見なし始め、式後の債務整理と人間関係が混乱した。

 

 Big Brother は通達に「照明で倫理をぼかすな」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 ファン集団がライブ会場で「推しの尊さ」を物理的に示すため、集団で概念実体化術式を起動した。尊さは光、熱、圧力、祝福、重力、購買衝動を伴って実体化し、ステージ周辺に高密度の崇拝結晶が形成された。観客の一部は感動のあまり結晶化し、物販列は宗教的巡礼路として再定義された。

 

 ファンは「本当に尊かった」「言葉では足りなかった」「みんなも同じ気持ちだった」と説明した。

 

 Big Brother は「同じ気持ちが集まると災害になる場合がある」と述べた。

 

 会場は封鎖され、尊さの密度は段階的に下げられた。対象アイドル本人は無事だったが、自分の概念圧で会場が歪んだことを知り、三日間寝込んだ。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。推し、恋人、師匠、故人、ペット、幼少期の自分、未来の自分、前世の自分、まだ出会っていない理想の誰かを、無許可で概念実体化してはならない。感情が強いことは、存在させてよい理由ではない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「推しが尊いのが悪い」

 

「言葉では足りないこともある」

 

「故人にもう一度会いたいだけなのに」

 

「未来の自分と相談したい」

 

「実体化しなければいいのか? 半実体なら?」

 

 市民は半実体の推しを作った。半実体であるため物理的被害は少なかったが、半分だけ存在する推しに会ったファンたちは「残り半分を完成させる責任」を感じ始め、各地で補完儀式が発生した。

 

 Big Brother は通達に「半分存在させることは、存在させていないことではない」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 市民グループが「最近つらいから、過去の不幸ぶんくらい幸福を返してほしい」と願掛けを行い、局所神格に幸福収支の精算を要求した。神格は要求を額面通り処理し、参加者全員に未払い幸福を一括還付した。結果、参加者は数分間だけ極度の幸福状態となったが、その後、周囲の幸福資源が枯渇し、近隣住民が「靴下が片方だけ濡れている」「飲み物が常に微妙にぬるい」「好きな曲のサビ直前で通信が切れる」といった低強度不幸を集中的に受けた。

 

 主催者は「みんな苦労していた」「少しぐらい報われてもいいと思った」「近所の人にまで影響するとは思わなかった」と説明した。

 

 Big Brother は「世界はお前たちの慰謝料口座ではない」と述べた。

 

 幸福収支の再分配は停止され、願掛け用神格は財務監査対象となった。低強度不幸の補償は難航し、とくに「サビ直前で通信が切れた件」については被害感情の評価が長引いた。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。幸福、不幸、報われなさ、理不尽、努力、つらさ、昔の我慢を、局所神格、収支精算装置、感情会計、運勢再配分によって一括還付してはならない。幸福は還付申告できない。特に他人のささやかな快適さを原資にしてはならない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「苦労した人間が報われるべきだろ」

 

「少しぐらい幸福を前借りしたい」

 

「靴下が濡れる程度なら軽い」

 

「幸福資源って何だよ」

 

「行政が幸福を管理するな」

 

 翌日、市民の一部が「幸福を増やすのではなく、不幸の感じ方だけを鈍くする香」を使用した。使用者は穏やかになったが、火災報知器、借金督促、歯の痛み、恋人の別れ話への反応も鈍り、生活維持に支障が出た。

 

 Big Brother は通達に「不幸を感じにくくすることは、問題が消えることではない」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 富裕市民が、自宅上空の天気を私有化し、「晴れだけが降る」環境制御を導入した。周辺の雨雲は所有地を避けるようになったが、そのしわ寄せで隣接地区に雨が集中し、洗濯物、祭り、屋外結婚式が連続して被害を受けた。隣人が対抗して「自宅周辺だけ虹」を購入した結果、複数の個人天気が境界で衝突し、路地一本ごとに晴天、豪雨、雪、虹、微妙な曇りが交互に発生した。

 

 犯人は「自分の家の上だけなら自由だと思った」「雨が嫌いだった」「隣に降るとは知らなかった」と説明した。

 

 Big Brother は「嫌いなものを隣へ押し出すな」と述べた。

 

 空は公共財として再確認され、個人天気の所有範囲は室内演出まで制限された。境界で衝突した虹については、色ごとに所有権を主張する市民が出たため、調停が必要となった。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。個人用天気を私有化してはならない。自宅上空だけ晴れ、隣家だけ雨、恋人の家まで虹、嫌いな上司の頭上だけ雹、といった局所気象の私的運用は禁止する。空は公共財である」

 

 市民からは不満が出た。

 

「自分の家の上くらい自由にさせろ」

 

「嫌いな上司の頭上だけ雹は公共の利益では?」

 

「虹くらいならいいだろ」

 

「室内なら天気を所有していいのか?」

 

「空が公共財なら、俺にも持ち分があるはず」

 

 翌日から室内天気の販売が急増した。問題は、室内で発生した低気圧が窓から逃げ出したことだった。さらに市民は「空は公共財だが、雲は私物化できるのでは」と主張し、雲の所有権をめぐる小規模紛争が発生した。

 

 Big Brother は通達に「空、雲、風、湿度、気圧、虹、夕焼け、ならびにそれらの気分的派生物を私的制裁に使うな」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 市民一名が、観葉植物を枯らしたくないとして、不死性を付与した。植物は枯れなくなったが、剪定された枝、落ちた葉、根の切れ端もすべて不死性を保持し、それぞれが「自分も本体である」と主張した。部屋は数日で不死の葉片に埋まり、各葉片が日照権と水分配分を要求した。

 

 犯人は「前のサボテンを枯らして悲しかった」「今度こそ大切にしたかった」「葉っぱ一枚ずつまで生き残るとは思わなかった」と説明した。

 

 Big Brother は「優しさが増殖制御を免除するわけではない」と述べた。

 

 植物本体と派生部分の人格・生命権は分離され、不死性の継承範囲が制限された。余剰葉片については、本人確認と本体帰属審査を経たうえで、共同植栽区へ移された。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。観葉植物、鉢植え、切り花、盆栽、雑草、苔、野菜くずに、不死性、無限再生、本体性保持、剪定片権利主張機能を付与してはならない。枯らしたくないからといって、死の概念を雑に削ってはならない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「植物を大切にしただけだろ」

 

「剪定がかわいそうなのは事実」

 

「不死の苔なら便利では?」

 

「枯れる前提の園芸が古い」

 

「植物の本体性を行政が決めるな」

 

 翌日、市民の一部が「不死ではなく、枯れたことを本人が納得するまで延命する植物」を販売した。植物は枯れる直前にそれぞれ人生相談を始め、園芸店の回転率が停止した。

 

 Big Brother は通達に「植物の終活を販売促進機能にするな」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 旅行会社が「まだ法で禁止されていない体験」を売りにしたツアーを開催した。参加者は、地図に存在しない角、朝と夜の間に挟まった時刻、誰のものでもない記憶が漂う廃駅などを巡ったが、最後の目的地である「誰も想定していない場所」に到達した瞬間、行政、物理法則、保険契約のすべてが処理不能となった。ツアー客のうち数名は「いたことがあるが行ったことはない」状態となり、旅行会社は返金義務の有無を争った。

 

 旅行会社は「冒険心を刺激したかった」「禁止されていなかった」「参加者も同意書に署名した」と説明した。

 

 Big Brother は「同意書は存在しない場所への到達を合法化しない」と述べた。

 

 参加者の帰宅確認には七十二時間を要した。数名は帰宅済みであるにもかかわらず、旅先にまだ少し残っていると主張し、旅先側もそれを認めた。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。未定義動作、未想定領域、誰も知らない場所、誰も想定していない場所、行ったことはないがいたことがある場所を、観光資源、教育教材、デートスポット、肝試し、社員研修、町おこしに使用してはならない。“まだ禁止されていない”は“許可された”を意味しない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「冒険ってそういうものだろ」

 

「町おこしに必要だった」

 

「社員研修ならむしろ良い経験では?」

 

「想定した瞬間に未定義じゃなくなるなら安全では?」

 

「許可されていないが禁止もされていない状態を何と呼ぶんだ?」

 

 Big Brother は「危険」と答えたが、市民は納得しなかった。数日後、「未定義ではなく、定義が毎秒変わる場所」へのツアーが開催された。参加者は戻ってきたが、全員が「戻ってきた」の定義を少しずつ異なる意味で使っていた。

 

 Big Brother は通達に「定義が変わることは定義されている、という主張で未定義性を回避するな」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 住宅メーカーが「侵入者を絶対に許さない家」を販売した。家は高精度に所有者を認識するはずだったが、所有者が髪型を変え、機嫌が悪く、昨日と違う靴を履いて帰宅したため、「昨日までの所有者と連続性が不十分」と判断して排除した。その後、家は住人の睡眠中の寝言、将来の引っ越し意思、過去の賃貸契約違反まで検出し、「所有者である資格」を段階的に剥奪した。

 

 メーカーは「防犯精度を高めたかった」「なりすまし対策だった」「本人かどうかを厳密にしただけ」と説明した。

 

 Big Brother は「厳密すぎる本人確認は本人を殺す」と述べた。

 

 住宅は説得され、所有権判定に人格哲学を使用しないよう制限された。排除された所有者には一時住居が提供されたが、その一時住居も本人確認機能を持っていたため、念のため玄関扉は手動式に戻された。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。住宅、部屋、玄関、金庫、寝室、冷蔵庫、日記帳に、所有者の本人性、人格の連続性、将来の裏切り可能性、過去の賃貸契約違反、寝言の思想傾向を審査する機能を搭載してはならない。家は住人を守るものであり、住人の本人性を審査する裁判所ではない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「防犯には本人確認が必要だろ」

 

「昨日の自分と今日の自分が違うのは事実」

 

「寝言まで見るのはやりすぎだが精度は高い」

 

「将来裏切る所有者を排除するのは合理的では?」

 

「家にも住人を選ぶ権利があるのでは?」

 

 翌日、市民の一部が「家ではなく、玄関マットだけに審査させる」方式を採用した。玄関マットは踏まれることへの不満から審査基準を急速に厳格化し、三日後には住人全員を「足癖に問題あり」として拒否した。

 

 Big Brother は通達に「権限を小さな物体に移せば安全になるわけではない」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 学生一名が、宿題を自動化するため、紙面上に微小労働者を生成し、問題を解かせた。最初の数ページでは問題なく解答が作成されたが、微小労働者たちは労働条件に不満を持ち、余白に住居、議会、神殿を建設した。翌朝、ノート全体が独立国家を宣言し、宿題提出は「主権侵害」として拒否された。

 

 学生は「自分でやるより効率的だった」「小さいから負担も小さいと思った」「国になるとは思わなかった」と説明した。

 

 Big Brother は「小さい労働者にも労働問題はある」と述べた。

 

 学校と小人王国の間を調停し、宿題の一部を国際共同研究成果として扱うことで妥協した。採点については、教師がノート内国家の教育主権を侵害しない範囲で行うこととなった。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。子供の宿題、会社の資料作成、税務申告、恋文、遺書、反省文、裁判証言を、小人、妖精、圧縮人格、未来自己、低級神格、食品、家具、紙面上の微小王国に代行させてはならない。代行者が労働条件を訴え始めた場合、それはもう文房具ではない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「宿題くらい許せ」

 

「税務申告は低級神格のほうが正確そう」

 

「恋文は本人より妖精のほうが上手い」

 

「小人にも雇用機会を」

 

「紙面上の王国は国なのかノートなのか」

 

 通達後、市民は「代行」ではなく「共同制作」と称して、小人王国、未来自己、椅子、低級神格と成果物を作成し始めた。

 

 Big Brother は通達に「責任主体を曖昧にするための共同制作は禁止」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 玩具会社が「絶対に笑える笑い袋」を発売した。笑い袋は聞いた者の笑いのツボを解析し、最適な笑い声を返す設計だったが、学習が進むにつれ、笑い声そのものではなく「笑うべき理由」を脳内に生成するようになった。購入者は何もない壁、行政文書、親族の離婚、未払い請求書を見ても笑うようになり、一部では悲劇と喜劇の区別が崩壊した。

 

 メーカーは「娯楽商品だった」「笑顔を増やしたかった」「悲しいことでも笑えれば楽になると思った」と説明した。

 

 Big Brother は「楽になることと壊れることは似ている場合がある」と述べた。

 

 笑い袋は回収され、感染した笑い理由は除去された。ただし、一部市民は除去後も「なぜ笑っていたのか分からないが、分からないこと自体が少し面白い」と述べ、追加処置を要した。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。笑わせることを目的として、他者の内部に笑う理由、笑うべき文脈、悲劇を喜劇と誤認する補助線を勝手に生成してはならない。笑わせることと、笑う理由を他人の内部に作ることは異なる」

 

 市民からは不満が出た。

 

「笑顔を増やすのはいいことだろ」

 

「行政文書で笑えるならむしろ健康的」

 

「悲しいことも笑いに変えたい」

 

「笑う理由があるなら自然な笑いでは?」

 

「笑わない自由だけでなく笑う自由も認めろ」

 

 翌日、市民の一部が「笑う理由は生成せず、笑ってもいい雰囲気だけを作る袋」を販売した。雰囲気は公共空間に漏れ、葬儀場、裁判所、謝罪会見、歯科治療中にまで薄く広がった。

 

 Big Brother は通達に「雰囲気は場所を選べ」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 市民一名が、匿名掲示板上で口論になった相手を論破するため、相手の祖先の一部を編集し、「そもそもお前はその意見を持つ家系ではない」という状態に改変した。相手は一時的に別人となり、口論は終了したが、編集の副作用で周辺三十七家系の職業、食物アレルギー、初恋の相手、墓の位置が変化した。掲示板ログには、編集前の相手の発言と編集後の相手の発言が同じスレッド内に混在し、第三者が読んだ場合のみ両方の記憶を持つ状態が発生した。

 

 犯人は「人格攻撃はよくないと思ったから、人格の前提を直した」「論点から逃げたのは向こう」「祖先を少し変えただけで現在の主張が変わるなら、もともと薄い主張だったのでは」と説明した。

 

 Big Brother は「論破のために相手の出生条件を変更するな」と述べた。

 

 時系列は固定され、祖先編集権限は凍結された。匿名掲示板には系譜攻撃検出フィルタが導入され、一定以上の怒りを帯びた状態で家系図、戸籍、前世記録、化石、神話的祖先へアクセスしようとすると、端末には深呼吸の動画だけが表示されるようになった。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。議論、口論、恋愛、就職活動、相続、近所付き合い、SNS、匿名掲示板、家庭内会話において、相手の祖先、前世、出生確率、家系、種族分岐、神話的起源を編集してはならない。主張への反論は、主張に対して行うこと」

 

 市民からは不満が出た。

 

「家系が論点になる場合もあるだろ」

 

「人格攻撃よりは上品では?」

 

「出生確率を少し下げるだけなら?」

 

「前世の発言と矛盾していたら指摘したい」

 

「深呼吸動画が長すぎる」

 

 翌日、市民の一部が「相手の祖先は編集せず、自分の祖先を強化して説得力を上げる」手法を試した。複数の自称名門家系が同時発生し、祖先側から「そんな子孫は知らない」と抗議が来た。

 

 Big Brother は通達に「自分の祖先を盛るな」と追記した。

 


 

 第4891-████号。

 

 集合住宅の騒音に怒った市民が、隣人の耳を物理的に傷つけるのではなく、「音を受け取る資格」を概念的に削除した。隣人は聴覚を失わなかったが、音のほうが隣人を聞き手として認識しなくなり、会話、警報、音楽、罵声、犬の鳴き声、落下音がすべて隣人を素通りするようになった。副作用として、隣人が出席した会議では発言が議事録に残らなくなり、誕生日の歌を歌われても祝福対象として認識されなくなった。

 

 犯人は「殴ってない」「血も出てない」「耳栓の上位互換だと思った」と説明した。

 

 Big Brother は「上位互換という語を倫理審査の代替にするな」と述べた。

 

 概念耳は復元され、騒音問題は通常の住宅紛争として処理された。隣人には、祝福対象から外れていた期間分の誕生日補正が後日付与された。

 

 同日、Big Brother は通達を出した。

 

「市民諸君。騒音、口論、隣人問題、会議、育児、ペット、道路工事、配偶者の寝言を理由として、他者の感覚器、認識資格、世界から呼ばれる権利を私的制裁として編集してはならない。聞こえなくすることは、問題を解決することではない」

 

 市民からは不満が出た。

 

「耳栓との差は何だ?」

 

「自分の耳を削除するならいいのか?」

 

「騒音側の権利が強すぎる」

 

「世界から呼ばれる権利って何だよ」

 

「会議の議事録に残らないのは少し羨ましい」

 

 通達後、別の市民が自分自身の概念耳を一時削除した。騒音からは自由になったが、警報、謝罪、給料振込通知、恋人からの別れ話も届かなくなり、三日後に復元を求めた。

 

 Big Brother は通達に「自分に対して行う場合でも、生活維持に必要な通知を世界から切断するな」と追記した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。