春の匂いが、トリステイン魔法学院の石畳を濡らしていた。
召喚の儀が行われる広場には貴族の子弟たちが並び、それぞれの使い魔を迎えていた。風竜、火蜥蜴大鴉。誇らしげな笑い声が上がるなか、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールだけが、まるで世界から一歩はみ出したように立っていた。
「見て、ルイズよ。また失敗するんじゃない?」
「ゼロのルイズだもの。爆発だけは一人前ね」
ひそひそ声が刺さる。ルイズは唇を噛み、杖を握り直した。失敗など怖くない。怖いのは、この儀式でまた自分が「ゼロ」だと証明されることだった。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの系統の始祖ブリミルに従い、汝を我が使い魔として召喚せん!」
詠唱が終わる。魔法陣が輝く。次の瞬間、大地を揺らす爆発が起きた。
煙が晴れる。そこに立っていたのは、細身の長身に伸び放題の黒髪を肩まで垂らした男だった。顔は老けており、年の頃は三十代後半から四十代前半といったところか。だが、その瞳の奥にはとても年齢では測れないような、長い時間を潛り抜けてきた者の光があった。
「……えっ、なにこれ。また異世界?」
男は呟いた。ルイズには当然、意味が分からない。
「なによ、あんた。人間? 使い魔は動物のはずでしょ」
ルイズが杖を構えたまま睨む。男はきょろきょろと周囲を見回し、自分を囲む貴族の子供たちを確認して、深いため息をついた。
「グランバハマルじゃない……また別の異世界か。勘弁してほしいんだが」
彼の名は嶋㟢陽介。十七歳のときにトラックに轢かれ、十七年間昏睡状態に陥った男である。だがその肉体はベッドの上に残したまま、魂は異世界グランバハマルに飛ばされ、剣と魔法の冒険者として十七年を生き抜いた。そして帰還した今も、その力は彼の中に残っている。
広場の喧騒がようやく落ち着き始めた頃、ルイズはコルベールの袖を掴んでいた。
ルイズはコルベールに召喚のやり直しを要求するが拒否される
「コルベール先生! もう一度やらせてください! こんな……こんなおっさんが使い魔なわけないじゃないですか!」
ルイズの声が広場に響き渡った。彼女の指は嶋㟢を指したまま震えている。その指の先で、嶋㟢は相変わらずぼんやりと空を見上げていた。異世界の空は、いつも妙に色が濃い。グランバハマルもそうだったが、ここの空はもっと鮮やかでどこか絵本じみていた。
「ミス・ヴァリエール。召喚の儀は始祖ブリミルの定めし儀式です。やり直しは認められません」
コルベールは眼鏡を押し上げながら、穏やかに、しかしきっぱりと言った。禿げ上がった頭が日を照り返している。
「ですが! 人間が使い魔なんて聞いたことがありません! それも、こんな……こんな明らかに怪しい人相の!」
「怪しい人相って、ひどいなあ」
嶋㟢がぼそりと呟いた。声には抑揚がない。十七年間の冒険者生活で、彼は自分の容姿について諦観することを覚えていた。整った顔立ちの異世界人に「オークの亜種か」と何度も狩られかけた経験は、彼の自己肯定感を根本から削いでいる。
「ルイズ、落ち着きなさい」
コルベールが宥めるように言う。
「召喚された以上、彼はあなたの使い魔です。契約の儀を行いなさい」
「嫌です! 絶対に嫌! こんな……こんなフケ顔の、髪ボサボサの根暗そうな!」
「根暗って言うなよ……」
嶋㟢の反論は弱々しかった。実際、自分でもそう思っている節がある。グランバハマルでは精霊魔法のおかげで剣も魔法も人並外れて使えたが、それとこれとは話が別だ。内向的な性格は十七年の冒険を経ても矯正されなかった。
「とにかく、契約の儀を行います。ミス・ヴァリエール、杖を」
「先生!」
「ルイズ」
コルベールの声が少しだけ低くなった。これ以上は許さない、という教師の声だ。ルイズは唇を噛みしめ、肩を震わせた。泣きそうなのを必死に堪えているのが、傍目にも明らかだった。
周囲の生徒たちがくすくすと笑っている。ゼロのルイズが、また失敗した。しかも今度は人間の、それも見るからに冴えない男を召喚したのだ。明日の学院中を噂が駆け巡ることは、火を見るより明らかだった。
「……わかりました」
ルイズが絞り出すように言った。彼女は嶋㟢の前に歩み寄り、杖を突きつけるように構えた。
「あんた、名前は?」
「嶋㟢陽介」
「シマザキ……ヨウスケ? なによその変な名前」
「変じゃない。ただの……いや、今は何と言えばいいのか」
嶋㟢は首を傾げた。元の世界では、YouTuber。甥のたかふみの提案で、魔法を使う動画を撮って生計を立てていた。だが、そんな説明をここでしても仕方がない。
「まあいいわ。あんた、これから私の使い魔よ。光栄に思いなさい」
ルイズは強がってみせたが、その声は少しだけ震えていた。嶋㟢はそんな彼女をじっと見下ろした。小柄な少女だった。華奢な体つきで、見上げる瞳には強いプライドと、それを覆い隠そうとする必死さが滲んでいる。十七年の冒険で、彼はそういう人間を何人も見てきた。強がる者ほど、内側は脆い。
「よろしく」
嶋㟢は短く言った。ルイズは一瞬、拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに眉を吊り上げた。
「な、なによ。もっとこう、何かあるでしょ! 召喚された者の態度として!」
「え……じゃあ、あの、お手柔らかに」
「なにその気の抜けた挨拶!」
コルベールが咳払いをした。
「では、契約の儀を。ミス・ヴァリエール、口づけを」
ルイズの顔が一気に赤くなった。生徒たちの笑い声が大きくなる。
「無理にしなくても」
「うるさい! 私が決めることよ!」
ルイズは叫ぶと、嶋㟢の胸ぐらを掴んで背伸びをした。そして
ちゅっ、と小さな音を立てて唇を重ねた。
契約の魔法が発動した。ルイズの手の甲に、ルーンが浮かび上がる。生徒たちがどよめいた。
「契約が成立しました。ルイズ、彼はあなたの使い魔です。……おや?このルーンの形見たことがありませんね」
コルベールが告げた。ルイズは自分の手の甲を見つめ、それから嶋㟢を見上げた。
「……あんた、今日から私の使い魔よ。洗濯掃除、その他雑用全部やってもらうから」
ルイズは踵を返して歩き出した。嶋㟢はその後ろを、少し離れてついていった。広場の端で、彼はふと空を見上げた。
「日本に戻る方法、また探さないとな」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。