一話完結です。
桜散る
こぼるる梅に
椿落つ
牡丹崩れて
舞うは菊
では人は……。
私たちのバンドは解散した。
椿の花弁が落ちる季節。落花した濃厚なピンク色が、まっしろな雪景色の中で燃えていたのをはっきりと覚えてる。
私たちのバンドはまるで椿の落花のように。きっと音楽への希望を閉じ込めて、美しいまま散ったんだと思う。だから私たちは、楽しい気持ちのままバンドと別れることができたと思ってる。それはちっとも虚しいことじゃなくて、まるで小説みたいな余韻を残す、美しくてもどかしい終わり方だった。
大学生とプロという二つをシーソーに乗せてゆらゆらと揺れる日々の中、社会と繋がるように本を読み勉学に励み、その社会とそこで生きる人達に潜む心と繋がれるものとしても音楽を楽しんだ。その二つは関連しているようで反発し、対立しているようで同調しているように私には思えた。相乗効果とでも言うのだろうか。音楽は社会を糧に。社会は音楽を武器に。相互の役割から生まれる火花のようなエナジーを放ってきたのだと思う。
そんな私たちが解散する時に作った曲、「HOPE」。それは文字通り私たちに望みをくれた。音楽は終わらないよ、と言ってくれるような慰めを。同時に、大人への扉の前に立つ門番のように責め立てる目に見えない重圧も、そこから解放して癒してくれたのも。どれもすべて音楽だった。
『人が最後にかかる病気は希望という名の病だ』と、何かで読んだことを思い出す。当時は音楽さえあれば世界を歩けると思っていたし、私はこの武器を光にして人のために前を照らせると思っていた。絵に描いたような希望に囚われて、よだかのように夢に届こうとした、と言えばわかりやすいだろうか。けれど私は光ることもできず空を落ち、心の深いところに夢を閉じ込めた。だから私は「HOPE」を通して音楽を恨んだし、嬉しくも思った。だからこうして今も、あの日の情熱の火を消さずに「HOPE」を口ずさんだりしてるのかもしれない。
青春と呼ぶには恥ずかしくて少し遅い年齢だったけど、一度プロの扉を叩いた私の視界に映る景色は疑いようもなく眩しかった。
青春の正体がどんなものかは知らなかったけれど、あれがきっと青春と呼べるものだったんだろうと今ならわかる気がする。もう心が震えるなんてこととは遠ざかっているから。
空がしつらえた雪の絨毯が世界にやわらかく敷かれる季節。ふわりとした新雪をきしきしと踏みしめながら歩いて出勤。急な雪で、スタッドレスを履かせていない車で出勤するには危険な降雪量だった。
職場であるCiRCLEへ近づく道のりの最中、振り返った過去の記憶を雪が吸い込んでくれた気がした。
入り口の雪を払いのけ、さぁ今日も頑張ろうと、自分を鼓舞した。
今日もいつものようにCiRCLEの裏口から鍵を開け、中に入る。中から施錠し直し、すぐ横の壁にある電気のスイッチをパチンと押し、物置代わりの通路に入る。
ここも雑然としちゃって良くないね。早く片付けないと、なんていつも呟いてみるだけでそんな時間はなくてちっとも片付かないんだよね。
歩くだけで物を崩し倒しそうな整頓されていない物置き場を見て見ぬ振りをして通り過ぎる。
長年の軋みを響かせるスタッフオンリーの扉を開け、スタジオのロビーの電気をすべて付ける。カラカランと蛍光灯に電気が走る。各スタジオのチェックをする。温湿度、アンプやミキサーなどの音響設備の動作確認、掃除。昨夜の時点では気がつかなかった忘れ物やチェック漏れがあったりするから必ずチェックしている。冬場は特に乾燥がひどい。肌も喉もパキパキに乾き、ひび割れを起こす。木材を使う楽器は乾いた方が良い音が鳴ると言うが、過乾燥は楽器のためにもよろしくない。加湿器に水を足しておく。
それが終わったらレンタル用の楽器と機材のチェック。破損がないか、汚れてないか、正常に動作するか。その一つ一つを我が子に声をかけるように確認する。
毎朝、これだけで一日分の注意力を使うような仕事だ。
あとは今日の予約とスケジュールのチェックをする。当日に急なキャンセルがないか、予約に重複がないか。前日からの引き継ぎが行き違ってブッキングしてはいけない。きっと大丈夫だろうと安心して万が一のことがあっては、せっかくここを使ってくれるバンドマンたちに迷惑をかけてしまう。
何年も続けているから流れるようにこなせるようになったけど、流してはいけない大事なこと。
慣れたからできること。
慣れたから疎かになってしまうこと。
肩の力を緩めたり入れたり。適当に。適切に。
うん。今日も大丈夫。
カウンターの前に立ってひと息つく。
営業前の静けさが、練習に励むミュージシャン達の熱気を待っているようで、過去に私もそうだったことをいつも思い出す。スタジオはバンドマンのふるさとだ。しかし、思い出しては蓋をするように頭から退ける。
もう輝きたいと思っても仕方ない。
輝くのは今を生きる子たちなのだから。
私はその子たちのサポートをすることに徹することに決めたから。
同じ轍を踏まぬよう。道を逸れぬよう。
でも、大人と子供の境というのは本当は無いんじゃないかと思う。みんなわずかな子供の心を引きずって、大人の社会に入って役割を演じて、それなりに装って務めているんだと。そう思った方が納得できる気がしている。真の大人はいない。みんな子供の延命なんだと。
とはいえ、子供たちの未来を守る。それが大人なんじゃないかと、散々言われてきた定説のような人生の教訓を偽りなく実感するくらいには大人になったんだなと、吐息と共に肩を撫で下ろす。
昼過ぎ。夕方前。冬の季節とはいえまだ暗くなるには早い時間帯。何事もなく順調に仕事をこなしていると、元気な声が自動ドアの隙間から漏れ聞こえてくる。
こころちゃんだ。
今日はメインステージでハロハピのライブの予定が入っている。あれ、もうそんな時間なんだ。あっという間だなぁ。
通常業務と並行してライブの準備をしていたら時間はあっけなく過ぎていたようだった。
これからステージで輝く彼女たちを笑顔で迎える。
「いらっしゃい、みんな。今日はよろしくね」
「まりな! 今日はよろしくね! 」
私から声をかけて迎えた笑顔よりも、もっと明るい笑顔で応えてくれたこころちゃん。
予約表にチェックを入れようと顔を下げようとした時、こころちゃんは続けて話しかけてきた。
「ねぇまりな! 今日のライブはまりなにも見てほしいわ!客席に来てくれるかしら?」
私は驚いて目を見開いた。
「私も?どうして?」
「ほーらこころ、そんな言い方じゃまりなさんが困るじゃん。あの、ごめんなさいまりなさん。詳しくはあたしから説明しますね」
こころちゃんの背後からさっと耳打ちするように援護するのは美咲ちゃん。いつもハロハピのスタジオ利用は美咲ちゃんが予約を取りに来るから、最近よく会話するようになったなぁと思う。
美咲ちゃんの話によると、いつもライブや練習でCiRCLEを使っていてお世話になっているから、私にお礼の気持ちを伝えたくてライブを見てほしいそうなのだった。私だっていつも感謝してるんだよ、とか、その真意は秘密にしたままでもいいのにと思ったりしたけれど、そのまっすぐさが彼女たちそのものだった。
「ありがとう。ライブが始まったら少し落ち着くだろうから、その頃に観させてもらうね」
「お忙しいのにすみません」
返事をした私に向けて、少し小声になり、手を合わせて謝る美咲ちゃん。その美咲ちゃんの後ろから花音ちゃんが声をかけ、薫さんもあとに続く。先頭は当然こころちゃんとはぐみちゃんだ。ミッシェルはいつもの場所に用意してある。
今日の主役たちが控え室へ向かい始める。
いつものことだけど、いつも続けてきたことだから、私は執事が振舞うように「こちらでございます」と胸の中で唱えながら彼女たちを案内する。
音楽の神様がいるのなら、これから音楽を奏でる者たちをこんな気持ちで見守っているのかなと時折考えたりする。けれど天高いところから見守るだけなんて寂しくないのだろうか。私は演者たちの背中を直接押してあげられる。「楽しんでね」と声をかけることができる。そのありがたい立場に優劣をつけるつもりはないけれど、これは今の私の特権なんだ。奏でる者を退いた身でおこがましく願うのは、どうかこの音が、音楽が、いつか神様まで届きますようにと。世界のどこかでこの音楽が誰かに届いていますようにということだけだった。
控え室の扉を閉めた私はロビーのカウンターへ戻る。
ここからが私の本当の仕事だ。
演奏を控えるミュージシャンのように気を引き締め、楽しいライブのための時間を作り始めることへの期待が沸いてくる。
ハロハピのライブを聴きに来る人へチケットの確認準備、予約済チケットの確認、お釣りの用意、補充分の飲み物の確認、ステージへの案内と通路の確保、店頭での告知確認、SNSへの発信。お皿に料理を盛り付けるように諸々の準備を整えていく。
いよいよ受付時間が来る。
受付時間開始から開演までの30分が舞台だ。CiRCLEの前にはもう待機列ができて、列を正すスタッフの案内の声が響いている。開始を待つお客さんのソワソワした空気が私の立つロビーまで伝わってきて、こちらまで浮き足立ちそうになるのはいつものことだけど慣れないものだった。
開場。
CiRCLEのガラスドアを押してぞくぞくとお客さんが訪れる。カウンターから声をかけ、チケットを受け取りもぎる。予約客の名前を確認し、間違いがないよう照らし合わせお金を受け取る。チケットを渡す。渡す。受け取る。もぎる。渡す。ありがとうございます。渡す。こちらへどうぞ。受け取る。もぎる。楽しんでください。渡す。ステージはあちらです。お釣りを数える。渡す。飲み物は何になさいますか?渡す。もぎる。渡す、渡す。
手から手へ。音楽を届ける人から音楽を楽しもうとする人へ。これから共に音楽の旅に出発するための乗車券を渡す。音楽のために集まった人と人とを橋渡しする。
これまでずっと続けてきたし、これからも私はこの役割を全うするだろう未来の人生をいつも想像する。
嵐のような行列が落ち着いた頃、ライブ開始まであと5分。
これなら観に行けそうかな。
お釣りの整理と予約リストの確認。残りチケットの枚数確認。大した量ではない後始末を素早く終わらせる。
「良いライブだったね」
「また来ようね」
そう言って家に帰る。そんな特別な一日のために私は演出する。いつも欠かさないことが最大の演出なんだ。
すべては音楽を奏でる者のために。
すべては音楽を聴く者のために。
私はその案内人。
見送る電車の到着駅とその向こうまで。行く先を案じて。CiRCLEがその駅となるように。
安全を確認し、出発の笛のように、開始のブザーを鳴らす。
今回は私もドアを開け、電車に乗り込んだ。
真っ暗な箱の中で、カラフルなライトを浴びる彼女たちはやっぱり眩しくて、楽しそうだった。
ライブはいつものように盛り上がり、ステージのライトに照らされたお客さん一人一人の顔にも笑顔が広がっていく。ライブ終盤、会場の中はあたたかな空気に包まれていた。
ハロハピのライブって、いつもこんな感じだったんだ。
モニター越しに観ていた熱とは違うものを感じていた。それはライブだから、生だから。当然と言えば当然なのだけど。
あぁ。まだ私も、なんて考えてしまうほど音楽が私を引き込んでいく。
するとこころちゃんが叫ぶ。
「みんなで歌いましょう!」
そのひと声と共にこころちゃんは軽やかにジャンプする。ステージから飛び上がったこころちゃんがステージライトと重なってシルエットを作る。両手を広げ、脚を曲げ、飛ぶ姿の輪郭はまるで鳥のようで。けれど飛び続けることはできない、人間の飛翔。飛んだ後は人もただ落ちるだけなのに。瞬間だけ切り取れば飛んでいるかのようなその姿が目に焼き付いて離れなかった。
歌うことを促すためにメロディを「ラララ」と歌い始めるメンバーたち。
それはとても簡単で、子供でも歌えるようなシンプルなメロディ。懐かしくて覚えやすいメロディ。
私も思わず「ラララ」と口ずさんでいく。
何度もそのメロディがループされるほど、客席とハロハピのギター、ベース、ドラム、DTM、そしてこころちゃんの声と混ざり合っていくような錯覚を覚えた。
今、私たちは一つに溶けていく。大袈裟でなくそう思ってそわそわと肌を走り抜けていく感覚が心まで揺らしていく。
音楽だけがここにあってみんな心身を委ねている。この空間がまるで一つの世界のように、満ちていく音と心で胸がいっぱいになる。演奏している時に時々感じるゾーン。まるでセカンドウィンドに入ったマラソンのように。止まれない。ここで奏でられているものがすべて。
腕を振ればギターが鳴る。空気が震える。呼応するドラム。体内で共鳴するベース。彩るボーカル。ただそれだけで良かった。
今が良ければそれで良いのとは少し違う。今を最高に生きることができずに未来を掴むことなんてできない。今を精一杯になれずに誇れる過去を積み上げることはできない。
だから私は当時の灯火を「HOPE」に閉じ込めて、未来に託すような気持ちだった。時々口ずさめばあの日の熱を思い出せるから。
観客を巻き込むハロハピの大合唱のライブは、音楽を手に入れた瞬間の頃の高揚を思い出させてくれた。ただただ嬉しくて、楽しくて。その気持ちの正体は、何か特別なことができるかもしれないという勇気だった。
私はそんな回想の旅に出ながらハロハピのライブを見届けて、終演の拍手が鳴る前に私はライブ会場をあとにした。
ハロハピのライブはアンコールを終えた後無事に終演し、お客さんが続々と会場から出ていく。
お客さんの顔を見れば、その日のライブがどうだったかわかる。みんな満ちた顔をしている。ハロハピのライブを体験した後の表情の理由を、今日やっと理解できたような気がした。
さて、そんな思いに浸る暇もなく私は仕事に戻らなければならない。
この旅はもう終着駅へ向かっていくだけだ。
飲み干された空のグラスを受け取り、グッズを陳列し、会場の掃除をする。
あとは控え室で着替えを済ませた彼女たちを見送るだけ。
控え室のドアが開いた途端飛び込んでくる黄色い声たち。こころちゃんを先頭にはぐみちゃんが続き、楽しげな問いかけを薫さんと花音さんが優しく受け止める。美咲ちゃんは今日は片付けが遅れているらしい。
「お疲れ様。今日も楽しいライブだったね! 招いてくれてありがとう。みんなはどうだった?」
ハロハピみんなの感想が聞いてみたくて声をかける。
「最っっ高だったわ!!」
「うんっ!はぐみ、いつもよりベース跳ねてた気がするんだ。それくらい楽しかった!」
「後ろからも全部見えたし、音で伝わってきたよ。みんな楽しくて、一つだったね」
「あぁ……今日のライブは格別だったね。忘れられない、儚い夜になったよ」
みんな、大きな何かを掴んだような表情に溢れている。CiRCLEにいてたくさんのライブを見届けていると、時折こういう瞬間に巡り会える。
成長を続けるバンドが到達点に至る瞬間に。
「ミッシェルとはお別れしたの?」
美咲ちゃんの姿がまだ見えないので聞いてみる。
「えぇ! ステージの袖でさようならしたわ! ミッシェルもとーっても楽しそうに笑っていたわ!」
「美咲ちゃんはあとで合流するって言ってたね」
花音さんがフォローに回る。
「ではまりなさん。今宵は素敵なステージをありがとう。我々は外で、子猫ちゃんを待つとしよう」
そう言い残して四人はCiRCLEを出た。
私は様子を見に控え室に向かうと、美咲ちゃんがちょうどミッシェル姿でステージ袖から出てくるところだった。
「美咲ちゃん、お疲れ様。大丈夫そう?」
「わっ、まりなさん。もうみんな行きましたかね? じゃあミッシェルを脱いでっと……」
ミッシェルはバンド内でも重要機密なので、その日にもよるけれどメンバーが去った後にミッシェルを脱ぐか、メンバーが控え室に入る前に脱いで美咲ちゃんの状態で待っているかの二通りだ。そしてミッシェルの置き場所は控え室の奥、誰にも見られないような隠し場所を私が確保してあげたのだった。以来、美咲ちゃんはそこをミッシェルの待機場所にしている。今日は今からミッシェルを脱ぐところだった。背中のチャックを下ろす、その手伝いをたまに私もやったりしていた。
「美咲ちゃん、今日はありがとう。ハロハピのライブを見せてくれて」
背中に埋もれたチャックのつまみを探しながら話しかけた。
「いえ、あたしだけじゃなく、ハロハピのみんなもまりなさんやCiRCLEに感謝してるんです。今日はそのお礼のつもりでした」
ミッシェルの中から話す声はくぐもっているし、表情も見えなかったけれど、恥ずかしそうにいつも頰を掻いて話す美咲ちゃんの顔がありありと浮かぶ。
「みんなで合唱したところ、まるでベートーヴェンの第九みたいだったね。しかも優しいメロディで感動しちゃった」
「そうですか? ちゃんと聞いて勉強したんです、ベートーヴェン。喜んでもらえたら嬉しいです。ハロハピの曲はいろんな楽器を使う編成が多いのでオーケストラはすごく大変で……あ」
もぞもぞとミッシェルの体を脱ぎながら何かを思い出したように言葉をもう一度紡ごうとする美咲ちゃん。
「ベートーヴェンがどうして今でも名前を残しているかわかった気がするんです」
私の話から拾われたワードがあったとはいえ、馴染みのある子の口から偉大な音楽家の名前を耳にし、不思議と背筋が伸びる。
「耳が聞こえないのにたくさん曲を作ったからじゃないと思うんです、きっと。耳が聞こえなくなって音楽が自分から離れてしまったけど、もう一度手に入れようとして、ちゃんと向き合って手に入れたからだと思うんです。しかもベートーヴェン自身だけでなく、今のあたしたちのところにも」
続いてミッシェルの頭をムズムズずらしながら話していたけれど、その声音ははっきりと私の耳に届いている。
「それがあたし達まで繋がってる。繋げてくれた道の上に立っているんだと思うと、こんなあたしでも頑張らなきゃなーなんて思ったりするんです」
そう言った美咲ちゃんは、私の目の前でいつのまにかライブでくたくたになったミッシェルの首を脱いでいた。いつか見た、燃えるような赤い花弁が落ちるように。だけどそこ残ったのは、はにかみながら笑顔を咲かせる美咲ちゃんの素顔だった。小さな身体に大きな未来を抱えているみたい。悲しいことや不安なんてなんて何もないみたいに。
「こうしてライブができるのも、まりなさんがいてくれたからなんだってあらためて思えたんです。だからまりなさん。いつもありがとうございます」
明るいピンク色のミッシェルの頭を脇に抱えながら私に向かって頭を下げる美咲ちゃん。
その言葉と姿に私は喉から込み上げるものを抑えきれなくて、ぐっと唾を飲んだ。
だって私はこのために。
ただこの子達のために私はこの仕事を選んだんだ。
この瞬間のために。
池に投げられた石が波紋を生むように。
人と音楽を繋いで、広がる輪を、道を繋ぐために。
私は背中を押すんだ。
これからの子供達が音楽を信じられるように。
大好きな音楽が続くように。
「こちらこそだよ。ありがとうね」
不思議なくらい自然と笑顔になれて言葉を発した。
この清々しい気持ちはなんだろう。美咲ちゃんの顔も眩しく見える。
「あたし、音楽が好きだなって思いました」
好きなことが自分を苦しめるなら、やめた方がいい。
少し前の私ならそう言うだろうか。けれど今は。
「好きだから乗り越えられる」
あの頃の自分にそう言ってあげられるかもしれないけど、過去を変えたいわけでも過去の自分を無かったことにもしたくない。こうしている紛れもない今に、たどり着いてよかったと私は思ってる。私は今を諦めなかったから。
花が散るような終わりを前に、きっと人は飛べる。満開でなくても、枯れ落ちてもなお飛ぼうとするから美しいのかもしれない。
だって私は、まだ。
結局好きなんだ。
「好き」は散らない私の花だ。
ライブ後。静けさが際立つ閉店間際の誰もいなくなったロビー。ライトを半分消して今日のライブの精算をする。財務管理をしながら受付に立つ私は胸の中であの日のストラトを抱え、汗が滲んで艶が付いたネックにもう一度指紋を刷り込むようにぎゅうっと握り、手ぐせのようにAadd9のコードを抑える。深く吸い込んだ息とピックを持つ右手。その右手を弦に向かって振り下ろすのと一緒に息を吐いて止める。
ジャウワーン。
六本の弦で発された音の波が混ざって、増幅して、倍音を携えて空に飛んでいく。
今日のこころちゃんみたいにジャンプまでしてみる。
目を開けると窓辺に注ぐ月明かりが聴いてくれている気がした。
仕事にも青春はあるんだ。
私の仕事は青春なんだ。
だって今、こんなにも胸が震えてる。
プロを目指さなかったことを「諦め」と言い表すなら悲観的にも捉えられるし、「見極めた」と言えれば格好もつくのだろうけれど。言葉というのは言い方次第で体裁だけを整えることはできても、出来事や事実の存在そのものは何一つ変えることはできない。その紛れもない「今」。私が選択し、累積してきた「今」。それこそが、私が良くも悪くも向き合って、私が今感じている感情を讃え、同時に責め立てもする。優しくも厳しくもない。ただ目の前に事実として横たわる「今」が、私の居場所を確かな実存に変えている。
紗夜ちゃんがいつか言ったように。
CiRCLEに集うガールズバンドの子達、若い子達がそうであるように。
大人の中にもその心を忘れない人がいくばくかいるように。
未来からやってきて過去へと過ぎ去る「今」の中で。例えこの「今」の選択が未来を傾けるのか気を配ることなく、後悔することすらも気に留めることなく。一瞬の「今」に乗せられる感情の累積が未来を呼び、引き寄せる。音楽だってそうだ。訪れる次の音符、小節線、終止線。音は過去に流れていき、二度と同じ瞬間を奏でることはできない。けれど後悔なんてしない。一瞬に込められるものが心を震わせて止まらない。その爆発的な運動を。私はそれを青春と呼びたい。
桜散る
こぼるる梅に
椿落つ
牡丹崩れて
舞うは菊
人は飛ぶ。飛べる。
尊い今のために。どこに落ちて着地するとしても。
私もまだ、飛べるんだ。
この仕事で。
今を奏でて行けるんだ。
今日は帰ったらギターを弾こう。
夜を照らす月の下で、雪を踏みしめながら口ずさむいつものメロディは、白い吐息になって空気に溶け、この世界に満ちたらいいなと、願う。