(まるで美しく装飾された美術品――ただし、血の通った人間味を完璧に削ぎ落とした、実に精巧な偽物だ)
周囲から向けられる心酔や憧れの視線の中で、ただ一人だけ自分を「人間」としてではなく、「完成されすぎた作り物」として観察してくる比企谷八幡。そして、その底意地の悪い冷めた視線に、完璧な微笑みの裏側でじわじわとイラつきを募らせる雪ノ下陽乃……。
「――ねえ、比企谷くん」
放課後の夕日が差し込む教室。
クラスメイトたちが満足そうに帰路につき、静まり返った空間で、雪ノ下陽乃がノートを畳みながら声をかけてくる。
その声は相変わらず鈴を転がすように可憐で、どんな男でも一瞬で惹きつけられるような甘さを含んでいた。だが、残された席で一人文庫本を開いていた比企谷八幡は、ページをめくる手を止めずに「……なんだよ、雪ノ下」とだけ返す。
陽乃はすっと立ち上がると、軽やかな足取りで八幡のデスクの横まで歩み寄ってきた。
そして、机にトンと華奢な手をつき、上から覗き込むように顔を近づける。
「君さ、さっきからずーっと私のこと見てたでしょ?」
「見てねえよ。視界の片隅に勝手に入ってきただけだ」
「ふーん。にしては、すごく熱心に『観察』されてる気がしたんだけどな」
陽乃は完璧な角度で首を傾げ、悪戯っぽく微笑んでみせる。クラスの男子が見たらひとたまりもないであろう、隙のない完璧な「愛され女子」の演技。
けれど、八幡の目はどこまでも冷ややかだった。
(……相変わらず良くできてるよ、本当にな)
八幡は心の中で小さく呟く。
彼女の立ち振る舞い、声のトーン、周囲の人間を意のままに動かす絶妙な間の取り方。どれをとっても洗練されすぎていて、もはや恐怖すら覚えるレベルだ。
人間というものは、もっと醜く、愚かで、矛盾に満ちているはずだ。それなのに、雪ノ下陽乃という存在からはそういった「人間らしさ」という雑味が完璧に排除されている。
まるで、どこかの高名な彫刻家が気まぐれで創り上げた、一筋の狂いもない美術品。
八幡のその不躾で、どこか突き放したような冷めた眼光を受け止めた瞬間――
陽乃の貼りついた笑顔の奥で、わずかに眉が跳ねた。
(……なに、その目)
陽乃の胸の内に、苛立ちの波紋が広がる。
憧れでも、好意でも、嫉妬でもない。
まるで美術館のガラス越しに、展示品の値踏みでもしているかのような視線。
誰もが私の笑顔を信じ、私の言葉に頷き、私という「完璧な存在」を無邪気に崇めている中で、この冴えない死んだ魚の目をした男だけが、私を「人間として見ていない」。
「……ねえ、比企谷くん」
陽乃の声から、すっと温度が消える。
口元には微笑みを浮かべたまま、しかしその瞳には静かな毒を宿して、彼女は八幡の顔を覗き込んだ。
「君ってさ、本当……嫌な目をするよね」
「……光栄だね。雪ノ下さんに褒められるなんて、明日は槍でも降るんじゃないか」
悪びれもせず本を閉じ、バッグを持ち上げる八幡。
その背中を見送りながら、陽乃は爪を立てるようにして自分の拳をぎゅっと握りしめた。
――絶対に、その冷めきった仮面を叩き割ってやる。
完璧だったはずの日常に、自分でも気づかないうちに小さな「穴」が空いた瞬間だった。
「――ねえ、比企谷くん」
静まり返った放課後の教室。夕闇がじわじわと部屋を呑み込んでいく中、陽乃がふっと足を止めた。
窓枠に腰をかけ、夕日を背に浴びながら、彼女は試すような、けれどどこかあどけない笑みを浮かべて八幡を見つめる。
「君ってさ……私のこと、嫌い?」
試すような問い。
普通の男子なら焦って否定するか、照れて言葉を詰まらせる場面だ。
けれど、八幡はカバンに文庫本をしまい込む手を止めることすらそのままに、淡々とした声で返した。
「いや……好きだよ」
あまりにも呆気なく、感情の起伏のない言葉。
陽乃は一瞬だけ丸く目を見開いたが、すぐに「へえ?」と眉をひそめた。
「へえ、意外。君みたいなひねくれ者が、私みたいなタイプを好きだなんて言うと思わなかったな。……どういう風に好きなわけ?」
猫が獲物を追い詰めるような、甘く毒のある声。
しかし、八幡はゆっくりと顔を上げると、死んだ魚の目で真っ直ぐに陽乃を見た。その瞳には、熱量も、打算も、憧れすらも一切宿っていない。
「綺麗なものを見るのは好きだ。非の打ち所がない絵画とか、精密につくられた工芸品と一緒だよ。お前はよくできてる。見ていて飽きない」
「――ッ」
陽乃の息が詰まる。
(……そうきたか)
胸の奥で、カチリと冷たい何かが跳ね上がる感覚。
「好き」だなんて言葉を使いながら、この男は自分をこれっぽっちも人間として愛でていない。
好きと言っているのではない。ただ、「美しい展示品」として評価しているだけだ。
喜怒哀楽を持ち、醜い欲望やドロドロした葛藤を抱えて生きる「生身の人間」としてではなく、硝子ケースの向こうに飾られた、完璧で無機質な造形物として眺めている。
周囲の奴らは、陽乃の笑顔に騙され、人柄に惹かれ、あるいは恐れを抱く。誰もが「雪ノ下陽乃」という人間に何かしらの感情を揺さぶられている。
なのに、八幡だけは違う。
彼は最初から、陽乃を「人間」の枠組みに入れてすらいないのだ。
(……ふざけないでよ)
完璧な笑顔の裏で、陽乃の歯の根が微かに噛み合わさる。
苛立ちと、底知れない不快感が全身を駆け巡る。今までどんな人間も思い通りに転がしてきた彼女にとって、この「理解されているようで、根底から拒絶されている」距離感は、耐えがたい屈辱だった。
陽乃は窓枠から降りると、足音を殺して八幡の前へと歩み寄った。
距離はほんのわずか。彼女の髪から漂う甘い香りが八幡の鼻腔をくすぐる。
「……君さ、ホント最悪の性格してるよね」
低く、温度の削ぎ落とされた声。
その瞳は、いつもの悪戯っぽい光を消し去り、鋭い刃物のように八幡を刺し穿とうとしていた。
だが――八幡は、その冷徹な眼光を正面から受け止めながら、心の中で静かに息を吐いていた。
(……かわいそうにな、お前も)
八幡は思う。
誰もが彼女に「完璧な雪ノ下陽乃」であることを期待する。先生も、クラスメイトも、家族でさえも。
そして彼女自身もまた、その期待に応えるために「完璧な人間」という名の精巧な偽物を演じ続けている。
人間らしさ――愚かさや、弱さや、醜さを出すことを許されない世界で、ずっと一人で飾り棚の上に立ち続けているのだ。
人間らしくあろうとすることすら奪われ、ただの「美術品」としてしか生きられない。
八幡の目に宿っていたのは、冷酷さではなく、どこまでも諦念に満ちた痛切な同情だった。
「……まあ、性格の悪さはお互い様だろ、雪ノ下」
八幡はそう短く呟くと、カバンの肩紐をかけ直し、陽乃の横を通り抜けて教室のドアへと向かう。
背後から刺さる陽乃の刺すような視線を感じながらも、八幡は一度も振り返らなかった。
「薄っぺらな招待状」
定期テスト直前の放課後。
オレンジ色の夕暮れが落ちる教室で、八幡は一人、黙々とシャープペンシルを走らせていた。周囲の雑音が消え去った静寂の中、歴史の年表とひたすら向き合う時間。
そこへ、軽やかな足音が近づき、八幡の机の端がコトンと揺れた。
「ん〜? 比企谷くん、こんなところで一人でテスト勉強? ふふ、偉いねぇ。ねえねえ、私にも教えてよ。それとも一緒に勉強する?」
甘く、どこか楽しげな声。
クラスの誰もが羨むような、完璧な「陽キャのノリ」とフレンドリーさ。普通の男子なら鼻の下を伸ばして飛びつくような誘い文句だ。
だが、八幡のシャープペンシルはピタリとも止まらない。
カリカリと紙を滑る音だけが教室に響く。八幡は完全に、目の前に立つ存在を意識からシャットアウトしていた。
「……ちょっと、比企谷くん?」
返事がない。一瞥すらされない。
数秒の沈黙の後、陽乃の声からわずかに弾けたような軽快さが消え、ひやりとした鋭さが混じり始める。
「ねえ、なんで返事しないわけ? 人がせっかく声かけてあげてるのに、無視とか失礼じゃない?」
少し不機嫌そうに、けれど周囲に聞かれても「冗談っぽく怒っている」ように聞こえる絶妙なトーン。
そこまで言われて、八幡はようやく溜息をひとつ吐き、シャープペンシルを置いた。ゆっくりと顔を上げるが、その視線は陽乃の顔ではなく、彼女の背後に漂う空虚な空間に向けられている。
「……お前が本当に話したいことがあるなら、話すよ」
八幡の声は淡々としていて、抑揚がない。
「は?」
「世間話でも、テストの範囲でも、お前自身が俺と『真面目に会話したい』と思ってるなら相手になる。……けどさ」
八幡は死んだ魚の目を少しだけ細め、陽乃の表情をまっすぐに見据えた。
「今のそれ、お前の『お友達グループ』に勧誘してるようにしか聞こえねえんだよ。周りに合わせるための、当たり障りのない軽いノリ。そういう薄っぺらい会話はいらないんだ」
「――――」
陽乃の息が止まる。
八幡が言っているのは、「嫌いだから話したくない」という単純な拒絶ではない。
陽乃が処世術として身につけてきた「誰とでも仲良くなれる完璧なコミュニケーション」そのものを、「くだらない偽物」として切り捨てたのだ。
彼女がクラスで振りまく親しみやすさは、人間関係を円滑にするための潤滑油であり、本心を隠すための鎧だ。八幡はそれを一瞬で見抜き、「そんな仮面をかぶった状態の言葉に価値はない」と言い放った。
「……じゃあな。邪魔すんなら図書室行くぞ」
八幡はそれ以上追及することもなく、再びシャープペンシルを握り直すと、何事もなかったかのようにノートへ意識を戻した。まるで、会話のフェーズは完全に終了したと告げるかのように。
陽乃は机の脇に立ったまま、動けずにいた。
(……薄っぺらい、だと?)
胸の奥が、焼けるように熱い。
いつもなら余裕の笑みで「冷たいなぁ」と流せるはずの言葉が、鋭い針となって心臓に刺さっていた。
誰からも愛され、誰からも買いかぶられる自分の「完璧な社交性」を、目の前の冴えない男は「いらない」と切り捨てたのだ。自分の本心などどこにもない、空っぽのコミュニケーションだと見抜いた上で。
陽乃の手が、スカートの布地をぎゅっと握りしめる。
「……ふーん」
ぽつりと漏れた声は、これまでに八幡が聞いたどの雪ノ下陽乃の声よりも低く、冷たかった。
「……言うようになったじゃない、比企谷くん」
口元には笑みを浮かべている。けれど、その瞳に宿っているのは、社交辞令の優しさなどではなく、ゾッとするほど濃密な剥き出しの執着と苛立ちだった。
「いいよ。じゃあ……今度は『薄っぺらくないやつ』、持ってきてあげる」
背を向けて教室を出ていく陽乃の足音は、いつもより少しだけ重く、力強かった。
一人残された八幡は、カリカリとペンを走らせながら、静かに心中で呟く。
(……余計なこと言ったかな。まあ、これで少しは静かになるだろ)
それが、完璧な美術品の「本当の牙」を呼び覚ますトリガーになったことにも気づかずに、八幡は次のページへとノートをめくった。
「気づいているなら、もっとみっともなく焦ればいいのに」
そう思っていたのは、きっと陽乃の方だった。
教室の空気というものは実に素直で、そして酷く脆い。
完璧な少女がふと見せる「困惑したような表情」や、「比企谷くんって、ちょっと話しかけづらいかも……」というごく自然な呟きひとつで、クラスの潮流は簡単に変わってしまう。
八幡の周りから、ゆるやかに、けれど明確に人の気配が消えていった。
元から孤立しがちだった席の周辺は、いまや誰も近づかない「空白地帯」と化している。陽乃の手による、鮮やかで目立たない世論誘導。
放課後、人影のなくなった教室で、陽乃は窓際に立ち、腕を組んで八幡を見下ろしていた。
――どう? 私の完璧な仮面を『薄っぺらい』なんて突っぱねた報いは。
そう言ってやるつもりだった。八幡が狼狽し、孤立に怯え、自分の持つ「影響力」という力に屈する姿を想像していた。
だが、八幡はおもむろに教科書をカバンにしまうと、椅子を引いて立ち上がった。
そして、逃げも隠れもしない真っ直ぐな視線で、陽乃の目をじっと見つめ返した。
その死んだ魚のような瞳には、焦りも、怒りも、恨みすら宿っていない。
ただ、静かで、諦念に満ちた眼差し。
八幡は、陽乃が何をしたのかをすべて理解していた。
己を排除しようとするクラスの空気も、その糸を裏で引き抜いたのが目の前の美しい少女であることも、最初からすべてお見通しだったのだ。
そして――八幡の薄い唇が、静かに開いた。
「……思ってた通りだな」
「……は?」
「かわいそうな奴」
小さく、けれど静まり返った教室にハッキリと届く呟き。
その瞬間、陽乃の胸の中で何かが激しく弾け飛んだ。
「――っ、」
背筋に冷たい氷を押し付けられたような感覚。
完璧に保たれていた彼女のプライドが、そのたった一言で根底から粉々に砕かれ、踏みにじられた気がした。
罰を与えたつもりだった。
自分の完璧な世界を拒絶した哀れな男に、現実の惨めさを教えてやるつもりだった。
なのに、八幡の目に映っている自分は――「孤立させられて惨めな比企谷八幡」ではなく、「こんな下らない手段でしか他人を支配できない、哀れで滑稽な雪ノ下陽乃」だったのだ。
クラスの人間関係を意のままに操り、誰もが自分の言葉ひとつで右往左往する。
その完璧な手腕を、八幡は「人間らしさから遠ざかり、歪んだ優越感に縋るしかない可哀想な子供の悪戯」として冷ややかに憐れんでいる。
「……君さ」
陽乃の声から、すべての装飾が消えた。
鈴を転がすような甘さも、クラスのアイドルとしての愛嬌も、何ひとつ残っていない。
ただ低く、恐ろしいほどの殺気を孕んだ声。
「……私のこと、本気で怒らせたいの?」
陽乃は一歩、八幡へと踏み出した。
握りしめた拳の爪が手のひらに食い込み、完璧だったはずの美貌に、初めて「生身の人間の激昂」が剥き出しになる。
八幡はそんな彼女の激昂すらも、静かな目で見つめていた。
「怒ろうがなんだろうが、お前の自由だろ。……だがな、そんなことしなくても、俺は最初から誰の友達でもねえよ。わざわざ手を汚してまで確認しなきゃいけないほど、お前の心は空っぽなのか?」
「――――ッ!!」
言いたいことだけを言い残し、八幡はカバンを肩にかけ直すと、陽乃の横を素通りして教室を後にした。
廊下に残された陽乃は、去っていく八幡の背中を、人生で一度も浮かべたことのないような、悔しさと怒りと……そして正体不明の「歪んだ衝動」に揺れる瞳で見つめ続けていた。
(かわいそう……? 私が……?)
絶対に許さない。
その死んだ目を、その冷めきった態度を、その分かったような顔を――絶対にぐちゃぐちゃにして、私と同じドロドロとした「人間」の足元に引きずり下ろしてやる。
完璧だった美術品の枠組みが音を立てて崩れ去り、雪ノ下陽乃という一人の少女の執着が、狂気となって目覚めた瞬間だった。
「壊れた美術品」
「――待ちなさいよ、比企谷!!」
静まり返った夕暮れの廊下に、甲高い靴音が激しく響き渡る。
普段の彼女なら絶対にしない、なりふり構わない全力の足音。
八幡が足を止めて振り返ると同時に、強い衝撃が右頬に走った。
――パーンッ!!
乾いた高音が校舎にこだまする。
視界が大きく揺れ、頬に焼けるような熱さと痺れが広がった。
「――っ」
八幡が体制を崩しながらも踏みとどまると、間髪入れずにずっしりと重いレザーのカバンが胸元に叩きつけられた。バサリと鈍い音を立てて、カバンが床に落ちる。
陽乃の手だ。
いつも完璧にお手入れされ、美しく整えられていた彼女の手が、今は激しい怒りと困惑で微かに震えている。肩を大きく上下させ、呼吸を乱しながら、陽乃は八幡を睨みつけていた。
「なんなの……なんなのよ、君は……っ!」
声が震えている。
いつもの鈴を転がすような甘さも、敵を刺すような鋭い冷たさもない。
ただの、感情の制御がきかなくなった一人の少女の、生々しく惨めな叫びだった。
「なんで……なんでそんな目で私を見るの!? 私が何をしたって、君はいつも分かったような顔して……っ! 憐れんで、見下して……! 私は君に同情されるような人間じゃない!!」
クラスの空気を操り、八幡を孤立させれば、この男は狼狽えると思っていた。
自分の持つ「完璧さ」と「支配力」の前に屈し、みっともなく怯えると思っていた。
なのに、八幡は傷つくことすら拒絶し、ただ「可哀想な奴」と切り捨てた。
八幡のその視線は、陽乃が積み上げてきた「完璧な雪ノ下陽乃」という存在価値そのものを、何の意味もないゴミくずのように踏みにじったのだ。
叩かれた右頬を押さえながら、八幡はゆっくりと息を吐いた。
痛む顔を歪めることもなく、赤くなった頬のまま、静かに陽乃を見つめ返す。
「……気がすんだか?」
「――え?」
「気がすんだなら、俺は帰るぞ」
淡々とした声。
怒るでもなく、言い返すでもなく、暴力を振るわれたことすら「仕方のない事故」のように処理して、八幡は足元に落ちた自分のカバンを拾い上げた。
パンパンと軽くホコリを払い、肩にかけ直す。
「……っ、待ちなさいよ! なんで怒らないの!? 殴られたのよ!? なんで私に言い返さないのよ……っ!」
叫ぶ陽乃の声を背中に受けながら、八幡は足を止めずに歩き出した。
(怒るわけねえだろ)
八幡は心の中で自嘲気味に呟く。
お前が必死になって手に入れた仮面も、そうやってプライドを傷つけられて必死に振りかざす感情も、全部お前が「生身の人間」である証拠だ。
完璧な美術品なんかじゃない。ただの、傷つきやすくて、プライドが高くて、どうしようもなく不器用な一人の女子高校生だ。
それが分かっているから、怒る気なんて起きない。
ただ、痛々しくて見ているのが辛いだけだ。
「……じゃあな、雪ノ下」
振り向きもせず、八幡はそのまま階段を下りていく。
ぽつんと廊下に残された陽乃は、去っていく背中を追うこともできず、その場に立ち尽くしていた。
「……なんで……」
ぽろり、と。
目元から熱い一粒の雫がこぼれ落ち、床に小さなシミを作った。
爪が皮膚に食い込むほど拳を強く握りしめても、次から次へと溢れ出てくる涙を止めることができない。
嫉妬でもない、ただの怒りでもない。
今まで「雪ノ下陽乃」という完璧な籠の中で生きてきた彼女が、初めて味わう「届かない悔しさ」と「自分を剥き出しにされた敗北感」。
涙で歪む視界の先、誰もいなくなった静かな廊下で、陽乃は声を殺して膝を折った。
完璧だった美術品は、もうどこにもない。
そこにいたのは、死んだ魚の目をした一人の男に、心を完敗させられたただの少女だった。「たかが比企谷八幡ひとりに、なぜこんなにも心を乱されなければならないのか」
自分の部屋のベッドの上。
静まり返った暗闇の中で、陽乃は天井を睨みつけていた。
頬を打ったときの手のひらの感触。
重いバッグを叩きつけたときの鈍い音。
そして――どれだけ感情をぶつけても、何事もなかったかのようにバッグを拾い上げ、「気がすんだか」と淡々と言い捨てて去っていった八幡の冷めた眼差し。
思い返すだけで、胸の奥からカッと激しい熱がこみ上げてくる。
(……無視すればいいだけの話じゃない)
そう、簡単なことだ。
あんな冴えない、死んだ魚の目をした男など、視界から排除してしまえばいい。クラスでの人間関係なんていくらでも操作できるし、最初から存在しないものとして扱えばいいだけの話だ。
だが――それができない。
無視しようとすればするほど、彼に「最初からいなかったもの」として無視されることが、耐えがたい屈辱となって襲いかかってくる。
周囲の人間は誰もが陽乃を注視し、その笑顔に魅了され、機嫌を伺う。
それなのに、八幡だけは彼女を「完成されすぎた美術品」と決めつけ、自分から遠ざけ、挙げ句の果てには「かわいそうな奴」と憐れんだ。
(ふざけないで……。私が憐れ? 私が可哀想……?)
暗闇の中で、陽乃はギュッとシーツを握りしめた。
今まで感じたことのない、泥のように重く、炎のように熱い感情が胸を押し潰す。
これは憎悪だ。自分のプライドを徹底的に踏みにじり、完璧な仮面を叩き割った男に対する激しい殺気にも似た憎しみ。
けれど、それと同時に――
誰も届かなかった自分の「本質」に、あまりにも残酷かつ正確に触れてきたあの男に対する、恐ろしいほどの歪んだ「執着」。
(私を人間として見ないなら……見させてあげる)
完璧な雪ノ下陽乃という人形の皮を剥ぎ取ったのは、他でもない八幡だ。
ならば、その剥き出しになったドロドロとした人間味のすべてを、彼に叩きつけて分からせてやらなければ気が済まない。
(絶対に逃がさない。君が私を『生身の人間』として認めて、その冷めきった瞳に私だけを映すまで……絶対に)
憎悪とも、愛着とも、あるいはそのどちらでもある狂気じみた感情が、陽乃の全身の血を駆け巡る。
鏡の前に立ち、暗がりの中で自分の顔を見つめる。
そこにあったのは、完璧な笑顔でも、いつもの余裕のある表情でもない。
暗い情念を瞳に宿した、一人の「生きた少女」の顔だった。
翌朝、登校する彼女の脚取りは、いつもよりずっと静かで、そして確かな意志に満ちていた。
「毒入りの愛情」
翌日の昼休み。
騒がしい教室を抜け出し、校舎裏の敷地に置かれた古びたベンチで、八幡は一人購買のパンをかじろうとしていた。
右頬の微かな痺れはもう消えている。昨日の一件で、陽乃との間に決定的な亀裂が入った――そう思っていた。
「――はい、これ」
頭上から降ってきたのは、いつも通りの鈴を転がすような甘い声。
見上げると、そこには完璧な笑顔を貼り付けた雪ノ下陽乃が立っていた。彼女の手には、可愛らしい巾着袋で包まれた大きめの二段弁当が握られている。
八幡は思わず眉をひそめた。
「……なんだそれ」
「見れば分かるでしょ、お弁当。君の分」
「は?」
八幡の口から、素で間抜けた声が出た。
昨日、顔面を全力で殴りつけてカバンを投げつけ、涙を流して去っていった女子生徒が、翌日の昼休みに笑顔で手作り弁当を差し出してきている。ホラー映画の冒頭でももう少し整合性があるはずだ。
「……毒でも入ってんのか?」
「ふふ、入れてあげようか迷ったんだけどね。今回はちゃんと食べられるものにしておいてあげたよ」
どこまでが冗談でどこからが本気なのか分からない笑顔。
八幡はため息をつき、首を横に振った。
「いらん。俺にはこの焼きそばパンがある」
「ダメ。断る権利は君にはないの」
「どんな強制イベントだ……」
強引に膝の上に弁当箱を押し付けられ、八幡はしばし絶句した。
普通なら気味悪がって突っぱねるか、気まずさに逃げ出す場面だ。だが、八幡は目の前の弁当箱と、それを見下ろす陽乃の真っ直ぐな(そしてどこか狂気を孕んだ)瞳を交互に見つめ――ぽつりと呟いた。
「……まあ、せっかくだ。ありがたくいただくよ」
断るのもエネルギーがいるし、何より「作ってきた」という事実そのものを無下に棄てるほどの度胸も無頓着さも、八幡にはなかった。
巾着を解き、蓋を開ける。
中に並んでいたのは、彩りも鮮やかで、見るからに手間のかかった完璧な家庭料理だった。卵焼きの形ひとつとっても一切の狂いがない。
(どこまでも完璧だな、本当……)
八幡は割り箸を割ると、卵焼きをひとつ口に運んだ。
出汁の優しい甘みと旨味が口いっぱいに広がる。文句のつけようがない、恐ろしいほど洗練された味覚。
「……美味いな」
小さく呟いて黙々と箸を進めようとしたその時、背後に気配を感じた。
見ると、陽乃が自分の弁当箱を持って、当然のような顔で八幡のすぐ隣――肩が触れ合いそうなほどの至近距離に腰を下ろしていた。
「……なんでついてくんだよ」
八幡がジト目で尋ねると、陽乃は悪戯っぽく首を傾げた。
「え? 味の感想を聞きたくて。作った本人が隣で見てる方が、率直な意見が聞けるでしょ?」
「監視だろそれ……。つーか、こんな完璧なもん作ってきて、不味いわけないだろ」
呆れたように言い捨てて、八幡は唐揚げを口に放り込む。
「不味いわけがない」――それは料理の腕前に対する賛辞であり、彼女の「完璧主義」への皮肉でもあった。
けれど、陽乃は納得いかないように頬を微かに膨らませた。
昨日までの仮面のような笑顔ではなく、少しだけ子供っぽく、けれどどこか脅迫めいたニュアンスを含んだ瞳で八幡の横顔をじっと覗き込んでくる。
「……そういう言い方じゃなくてさ」
陽乃は八幡の袖口を、キュッと強く摘んだ。
「『美味しい』って言いなよ、比企谷くん」
「……は?」
「完璧だから美味しいんじゃないでしょ? 君のために私が作ってきたんだから、もっと素直に『美味しい』って言いなよ」
その声には、執念に似た熱がこもっていた。
評価や鑑賞としての「良くできている」ではない。一人の人間が、特定の一人のために情念を込めて作ったものとして受け取れ、と彼女は要求しているのだ。
「美術品」として突き放す八幡の領域に、強引に「生身の人間関係」を叩き込もうとする陽乃。
八幡は噛み砕いた唐揚げを飲み込み、痛む右頬を指先で軽く擦りながら、やれやれと天井(青空)を見上げた。
「……美味しいですよ、雪ノ下さん。大満足だ」
「棒読み。やり直し」
「注文が多いな……」
秋の澄んだ空の下、ベンチに並んで座るふたり。
傍目には仲睦まじいカップルの昼休みに見えるかもしれない。だがその実、そこにあるのは互いの存在価値とプライドをかけた、歪で静かな執着の応酬だった。
「君は本当に、分かったような顔で余計なことばかり言うよね」
弁当箱を片付けながら、八幡が何気なく口にしたその一言は、陽乃の胸の奥で最も深く、重い場所にすとんと落ちた。
「完璧という名の呪縛」
空になった弁当箱を巾着に戻し、八幡は缶コーヒーのプルタブを静かに開けた。
隣に座る陽乃は、自分の膝の上で綺麗に揃えた手を重ねたまま、どこか遠くを見るような目をしている。
昼休みの賑やかな喧騒が、校舎の向こうからかすかに風に乗って運ばれてくる。
「……なぁ」
「ん?」
八幡はコーヒーをひと口飲み、視線は空に向けたまま、ぼそりと呟いた。
「お前さ、別に普通にしてればいいんじゃないか?」
「……普通、って?」
「その無駄に洗練された完璧な仮面とか、計算し尽くされた愛想の良さとかさ。そういうのを全部やめて、素の性格のまま接したって、お前ならどうせクラスの中心でいられると思うぞ? 根がそういう人間だろ」
毒づくでもなく、嫌味でもない。
ただ事実として、彼女の持つ圧倒的なカリスマ性や存在感を認めているからこその、八幡なりの素直な言葉だった。
素の、少し意地悪で、不器用で、感情的になる雪ノ下陽乃のままでも、人は彼女に魅了される。わざわざ無理をして『完璧な人形』を演じ続ける必要なんてどこにもないはずだ――そう言いたかった。
だが、陽乃の唇から漏れたのは、乾いた小さな笑い声だった。
「……ふふ、甘いなぁ、比企谷くんは」
「あ?」
陽乃はゆっくりと顔を上げると、八幡の横顔をじっと見つめた。
その瞳には、いつもの悪戯っぽい光も、昨日見せたような激しい情念もなく、ただ深く澄んだ透明な諦念だけが宿っていた。
「……私は、完璧じゃないとダメなんだよ」
低く、けれど恐ろしいほど静かな声だった。
「完璧で、誰からも文句を言わせない『雪ノ下陽乃』でいなきゃ、誰も私を見てくれない。期待に応え続けて、完璧な姉であり続けて、完璧な優等生でいることだけが、私がここにいていい理由なの」
それは、彼女が生まれた時から背負わされてきた呪縛だった。
雪ノ下という家に生まれ、妹の標本であり、大人の期待を一身に背負う存在。
『素の自分』なんてものを出せば、途端に崩れ去ってしまうほど脆いガラス城の中で、彼女はずっと完璧であり続けることでしか生き延びてこられなかったのだ。
素の自分を認められることへの恐怖。
完璧でなくなった瞬間に、自分の存在価値が消えてしまうのではないかという歪んだ脅迫観念。
八幡は、その言葉の裏にある途方もない重みと暗闇を、瞬時に察した。
責めることも、軽々しく否定することもできない、一人の少女の生き様そのもの。
八幡は手に持った缶コーヒーをもう一口煽り、コトンと横に置いた。
そして、かけるべき言葉を吟味するようにほんの数秒だけ間を置き――
「……そうか」
とだけ、短く返した。
余計な同情も飾らない。
「そんなことない」という薄っぺらい慰めも吐かない。
ただ、彼女が背負っているその残酷な諦念を、そのまま「理解した」と示すかのように、静かに受け止めた。
「……それだけ?」
陽乃が少し驚いたように眉を潜める。
「それだけだ。お前がそう決めて生きてんなら、俺が外から口出すことじゃねえよ」
そう言って八幡はベンチから立ち上がり、制服のズボンについた砂を軽く払った。
「……ごちそうさん。弁当、美味かったよ」
背を向けて歩き出す八幡の姿を、陽乃は言葉を失ったまま見送った。
(そうか、で終わり……?)
あんなにも重い自分の「暗部」を明かしたというのに、彼は嫌がりもせず、過剰に憐れみもせず、ただ当たり前のこととして自分を受け止めて去っていった。
「完璧じゃないとダメ」だと言った自分を、八幡だけが「完璧じゃなくても、一人の人間」としてそこに居させてくれたような気がした。
陽乃は自分の胸元をぎゅっと掴む。
ドクン、ドクンと、早くなる心臓の鼓動。
「……本当に、ズルいよ……比企谷くん」
風に揺れる髪を押さえながら、陽乃の口元には、今日一番『人間らしい』小さな苦笑いが浮かんでいた。
「お前はお前で良いと思うけどな」
八幡はそう言い残すと、膝の上のゴミを払い、ゆっくりと立ち上がった。
「美味かったよ」
一言そう告げて、カバンを肩にかけ直し、彼は一度も振り返ることなくその場を走り去っていく。
残された陽乃は、自分の膝の上で綺麗に揃えられた手を見つめていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。
『完璧じゃないとダメなんだ』と吐き捨てた自分に対して、否定も失望もせず、ただ『お前はお前で良い』と言ってくれた。その素朴で嘘のない言葉が、なんとなく嬉しかった。
けれど――
陽乃の口元に浮かんだ小さな笑みは、すぐに影を潜めた。
(……でも、それだけ)
胸に残ったのは、温かさと同じくらい深くて冷たい虚無感だった。
八幡のあの言葉に、特別な執着や熱量はこもっていなかった。
通りすがりの人間に声をかけるような、あるいは路傍の石ころをひとつ拾い上げて元に戻すような、どこまでもドライでフラットな受容。
彼は自分を受け入れてくれた。
けれど、それは自分を『特別』として受け入れたわけではない。
(……比企ヶ谷くんの目に、わたしは映っているのだろうか)
陽乃は、彼が去っていった静かな校舎裏の風景をじっと見つめる。
完璧な仮面を被っていた時も、感情を爆発させてビンタをした時も、こうして弱音を吐いた時でさえも。
八幡はいつだって、冷めた諦念を湛えた瞳で自分を見つめていた。
自分は確かに彼の視界の中にいる。
しかし、彼の『心の中』に、雪ノ下陽乃という一人の生身の人間は、本当に刻み込まれているのだろうか。
ただ『よく出来た美術品』から『少し手のかかるクラスメイト』にカテゴリーが変わっただけなんじゃないか。
(……逃がさないよ、比企谷くん)
握りしめた手に、再び強い力がこもる。
嬉しさと、それ以上に膨れ上がる切ないほどの飢餓感。
陽乃の胸の内で、八幡という男に対する暗く深い執着が、よりいっそう強く根を張っていった。
「ねえ、比企谷くん。今度の土曜日、私とデートしない?」
放課後、当たり前の顔で並んで下校していた陽乃が、悪戯っぽく首を傾げてそんな提案をしてきた。
「断る」
即答だった。コンマ一秒の躊躇すらない。
「えー、冷たいなぁ。即答しなくてもいいじゃない」
「俺はお前とデートして噂になるほど、メンタルが強くないんだよ。あと単純に面倒くさい」
冷たく言い放つ八幡に、陽乃はクスッと小さく笑うと、最初から断られるのを見越していたかのように言葉を重ねた。
「じゃあ、買い物に付き合って」
「……それは世間一般的にデートと言わないか?」
八幡があからさまに嫌そうな顔でジト目を向けると、陽乃は完璧な笑顔のまま、しれっと言ってのけた。
「ただの買い物と言えば買い物でしょ? 比企谷くんが勝手にデートだと思っちゃっただけじゃない?」
「お前なぁ……」
どこまでも自分を振り回そうとしてくる陽乃の言動。
断ろうと思えばいくらでも断れた。噂になるのを嫌う八幡なら、ここで突き放すのが正解だったはずだ。
けれど、八幡はひとつ大きなため息をつくと、諦めたように肩をすくめた。
「……まあ、なんか奢ってくれよ」
「ふふ、いいよ。何でも好きなもの買ってあげる」
ぶつぶつと文句を言いながらも結局付き合ってくれる八幡の横顔を、陽乃は満足そうに見つめる。
口では面倒くさがり、いつだって冷めた目をしている。
けれど、こうして手を伸ばせば、彼は完全には逃げ出さずにそこにいてくれる。
(……ただの買い物、か)
陽乃は隣を歩く八幡の袖口を、誰にも気づかれない程度の力でほんの少しだけ引いた。
八幡の瞳に自分が本当に映るその日まで、この歪で愛おしい距離感を、離してあげるつもりはなかった。
約束の土曜日。
待ち合わせ場所の駅前に、八幡は約束の時間の十分前にやってきた。
だらしないいつもの制服姿ではなく、派手さはないものの清潔感のある、しっかり筋の通った私服を身に着けている。
「ふふ、ちゃんとしてるね」
少し早めに着いていた陽乃が、感心したように八幡の全身を眺めながら声をかけた。
「俺にはちゃんとしてる妹がいるからな。変な格好して出かけようとすると、チェックが入るんだよ」
八幡があからさまに面倒くさそうな顔でそう返すと、陽乃はクスッと笑って首を傾げた。
「ふーん。わたしも妹いるよ?」
「……知ってる。かわいいんだろうな」
八幡は何気なく、ごく当然のことのようにそう呟いた。
「――っ」
その言葉を聞いた瞬間、陽乃の胸がどくりと跳ねた。
(……かわいいんだろうな、って……)
陽乃の妹――雪乃。
自分と同じ血を引き、自分によく似た容姿を持つ妹。
(それって……遠回しに、私のことを可愛いって言ってるのかな……?)
陽乃の顔に、じわじわと熱が集中していく。
完璧な笑顔を保とうとしても、口元が微かに引きつってしまうのを止められない。
『雪ノ下陽乃』という完璧な人間としてでも、『かわいそうな奴』としてでもなく――ただの『可愛い女の子』として、目の前の男に認識されたのではないかという錯覚。
八幡自身は、ただ自分の妹(小町)を基準にして「妹という生き物はかわいいものだ」あるいは「雪ノ下の妹なら顔立ちが良いのだろう」程度のニュアンスで口にしただけに過ぎない。そんな八幡の無頓着な視線が、陽乃の心を容赦なく乱していく。
「……なに固まってんだよ。買い物行くんだろ?」
不思議そうに顔を覗き込んでくる八幡から逃げるように、陽乃は慌てて背を向け、早足で歩き出した。
「〜〜っ、行くよ! さっさとついてきて!」
赤くなった耳の先端を髪で隠しながら、陽乃は胸の鼓動を抑えるのに必死だった。
どこまでも冷めていて、けれどふとした瞬間に不意打ちのように心を揺さぶってくる。
この死んだ魚の目をした男から、もう完全に抜け出せなくなっている自分を、陽乃は痛いほど自覚していた。
買い物に向かいながら、ふと並んで歩く八幡の横顔を覗き込み、陽乃が口を開く。
「なんかクセになるよね。比企谷君の顔というか目が」
「そうか? 目が良ければイケメンに見えなくもないとは、良く妹に言われるんだが。まあ俺は自分の顔、嫌いじゃないが」
八幡は特に気取る風もなく、至極当然といった様子でそう返した。自惚れているわけでも謙遜しているわけでもない、ただのありのままの自己肯定。
その気負わない態度に、陽乃は少しだけ悪戯っぽく首を傾げてみせる。
「わたしもわたしの顔、嫌いじゃないよ?」
クラスの誰もが認める圧倒的な美貌。完璧に整えられたパーツ。自分でも自分の容姿の良さは嫌というほど自覚しているし、それを肯定したところで誰も文句は言えないはずだった。
だが、八幡の口から返ってきたのは、拍子抜けするほど淡々とした一言だった。
「当たり前だろ?」
「――え?」
陽乃の足がピタリと止まる。
「どういう意味……?」
聞き返した陽乃に対し、八幡は「なに当たり前のこと聞いてんだ」とでも言いたげな死んだ魚の目で、チラリとこちらを見ただけで、そのままスタスタと前へ歩いていってしまう。
残された陽乃の胸の中に、もやっとした疑問と焦燥感が広がる。
(……どういう意味なのよ、それ)
『当たり前』ってなに?
私が美人だから、自分の顔を嫌いなはずがないって意味?
それとも、『雪ノ下陽乃』という完璧な作品として当然の自己評価だってこと?
あるいは――私という人間そのものを肯定してくれた言葉なの……?
どの意味にも取れるし、八幡が何も深意を持たずにただ思いつきで言っただけのような気もする。
いつもそうだ。
彼は狙って言っているわけでもないのに、ふとした一言で自分の心をぐちゃぐちゃにかき乱し、勝手にモヤモヤさせたまま先に行ってしまう。
「……ちょっと、比企谷くん! 待ちなさいよ!」
陽乃は慌てて八幡の背中を追いかけ、その隣に滑り込む。
自分の顔も、自分の完璧さも、何もかもを『当たり前』として片付けていく八幡。その温度のない、けれど不思議と嘘のない視線に、陽乃はどこまでも振り回され続けていた。
買い物を終えた二人は、商店街の脇道にある落ち着いた雰囲気の喫茶店に入っていた。
店内に流れるジャズの音色と、心地よい豆の香りが漂う空間。
テーブルを挟んで向かい合い、運ばれてきた飲み物を前に二人は言葉を交わす。
「そういえば、こないだビンタしちゃったこと、ごめんね」
陽乃がカップの縁を指先でなぞりながら、少し申し訳なさそうに、けれどどこか居心地の悪そうな顔で口を開いた。
「大丈夫だ。妹で慣れてる」
八幡は運ばれてきたコーヒーを前に、特に気にした様子もなく返した。
「……え、妹さんビンタするの?」
陽乃が目を見開いて聞き返すと、八幡は平然とした顔で言葉を継いだ。
「しないよ、たまにしか」
「たまにするんだ……」
「思春期はそんなもんだろ。まあ、ドラマとか小説での知識でしかないから知らんけど」
「……」
陽乃は一瞬、言葉を失った。
(斜め上の答えだなあ……)
真面目に謝ろうとしていた自分の緊張感を呆気なく解きほぐされ、陽乃の肩からすっと不自然な力みが抜けていく。
「妹にビンタされるのは本当だが、女子高生のことは知らん」
八幡が自嘲気味に鼻を鳴らしてそう付け加えると、陽乃は思わずクスッと口元を緩めた。そして、悪戯っぽく首を傾げて八幡の顔を覗き込む。
「ふーん。じゃあ、わたしのことは知ってるでしょ?」
女子高生全体のことは分からなくても、目の前にいる自分のことなら――そんな期待を含んだ問いかけ。
八幡は運ばれてきたブラックコーヒーに静かに口をつけると、ぼそりと返した。
「まあ、少しはな」
その飾らない一言に、陽乃の胸の奥がじんわりと熱くなる。
直後、八幡はうわ、という顔をして小さく眉をひそめた。
「やっぱブラックはダメだな」
かっこつけてブラックを注文してみたものの、やっぱり口に合わなかったらしい。八幡はテーブルの上のシュガーポットから砂糖のスティックを取り出すと、迷わず中に流し込んでスプーンでゆっくりと混ぜ始めた。
そのあまりにも等身大で、情けないほど自然体な姿を見て、陽乃の心がふっと温かくなる。
(……こんな気楽に話せる相手、今までいたかな)
ふと、そんな思いが頭をよぎる。
完璧な優等生として振る舞い、誰の期待も裏切らない『雪ノ下陽乃』として接してきた周囲の人間たち。誰もが自分に憧れるか、恐れるか、過剰な期待を押し付けてくるかだった。
けれど、目の前にいる比企谷八幡という男は違う。
自分の完璧な仮面をあっさりと切り捨て、ドロドロした醜い感情を受け止め、それでも「お前はお前で良い」と素っ気なく言ってくれた。
格好をつけることもなく、目の前で喫茶店のコーヒーに砂糖を放り込んでいるこの男といる時間だけが、完璧な演者を休められる唯一の場所だった。
「……ふふ」
「なんだよ、笑うな」
「別に〜? 砂糖入れて甘くしてる比企谷くんが可愛いなと思って」
「……お前、ほんと余計な一言多いな」
ジト目で睨んでくる八幡から甘いコーヒーの香りが漂う中、陽乃の口元には、今日一番優しく、飾りのない笑みが浮かんでいた。
喫茶店を出た後の夕方、陽乃の買い物の途中で、その出来事は突然訪れた。
高級外車の後部座席から降り立ってきたのは、洗練された和装を纏い、氷のように冷ややかな空気を纏った女性――雪ノ下陽乃の母親だった。
「――陽乃」
低く、けれど逃げ場を無くすような静かな声。
陽乃の背筋が一瞬で凍りつき、いつもの完璧な笑顔の仮面が、どこか強張る。
母親の鋭い眼光は、陽乃の隣に立つ八幡へと向けられた。
「こんな時間に、何をしているの?……それから、何故ここにいるのかしら。この方は誰?」
一切の感情を排した、詰問。
完璧であるべき雪ノ下家の長女が、身元の知れない冴えない男子生徒と並んで歩いていることへの露骨な不快感と嫌悪が、言葉の端々から溢れ出していた。
陽乃が言葉を詰まらせ、母親の圧迫感に息を呑んだ、その時だった。
「……失礼な人だな」
ぽつりと、隣で小さく呟く声があった。
「――なんですって?」
雪ノ下母の眉が不機嫌そうに跳ね上がる。自分に対してそんな言葉を口にする人間など、これまで彼女の人生にほとんど存在しなかったからだ。母親は八幡を刺すような視線で見据え、静かに聞き直した。
「今、何とおっしゃったの?」
八幡は逃げることも、視線を逸らすこともせず、死んだ魚の目で淡々と母親を見つめ返した。そして、何の気負いもない平然としたトーンで言い放つ。
「俺はあなたの部下でもないし、数年後には選挙権も持ちますよ?」
「……何が言いたいの?」
「別に。ただ、地元市民の清き一票ってのは案外バカにならないって話です。……まあ、お宅の旦那さんが一番よく分かってることでしょうけど」
八幡の口から発せられたその言葉に、雪ノ下母の表情が一瞬で凍りついた。
言葉の表面上は単なる権利の主張に見せかけながら、八幡は『自分は雪ノ下家が地元の政界を動かす家柄であり、父親が市民の表票を預かる立場にあることを理解している』という事実を、遠回しに突きつけたのだ。
有権者となり得る地元の人間に対して横暴な態度を取り、噂にでもなればどれほど痛手になるか。
世間の目や票、家の品位を何よりも重んじる雪ノ下家にとって、この冴えない男子生徒の「知っていて平然としている態度」は、どんな脅迫よりも不気味で効果的だった。
「――――」
雪ノ下母は言葉を失い、完全に沈黙した。
感情的に激昂することも、相手を見下すこともなく、ただ淡々と「立場」と「リスク」を冷徹に計算して叩きつけてきた八幡の底知れなさに、ぐうの音も出なくなったのだ。
母親が黙り込んだのを見届けると、八幡はやれやれと肩をすくめ、陽乃の袖口を軽く引っ張った。
「行こうぜ、雪ノ下。買い物残ってんだろ」
「……あ、うん」
呆然としていた陽乃は、八幡の手を追うように歩き出す。
去り際、陽乃はチラリと後ろを振り返った。
いつも自分を支配し、絶対的な恐怖として存在していた母親が、八幡の背中をただ黙って見送ることしかできずに立っている。
そして、自分の手を引いて先を歩く八幡の背中は、相変わらず冴えなくて、死んだ魚の目をしていて――けれど、世界中の誰よりも頼もしく見えた。
(……本当に、勝てないなぁ)
八幡の視線には、母親に対する恐怖も、取り入ろうとする媚びもなかった。ただ「理不尽な大人」としてフラットに対処しただけ。
その背中を見つめながら、陽乃の胸の奥で、八幡という男への愛着と執着が、もう二度と解けないほど強く結びついていった。
母親の車が見えなくなるほど離れた通りで、陽乃は八幡の少し後ろを歩きながら、ぽつりと問いかけた。
「……知ってたの?」
「何がだよ」
「お父さんのこと。うちに政治家がいるってこと」
八幡は前を向いたまま、めんどくさそうに頭を掻いた。
「知らない奴いるのか? この学校に入る前から有名だったぞ。地元じゃ名士だろ」
「そっか……」
陽乃は力なく呟いた。
誰からも『雪ノ下家の娘』として見られ、その背景にある権力や品位を期待され続けてきた人生。八幡もまた、その事実を知った上で自分を見ていたのだと知り、胸の奥に小さな寂しさが広がっていく。
自分はどこまでいっても『雪ノ下の人間』でしかないのかもしれない――そう思いかけたその時だった。
八幡がふと足を止め、振り向くことなく、あらためて言葉を口にした。
「……お前はお前で良いと思うぞ?」
母親の前で啖呵を切った時と同じ、何気ない、けれど迷いのない声だった。
父親が誰だろうと、雪ノ下家がどんな家柄だろうと関係ない。自分の前にいるのは『雪ノ下陽乃』という一人の人間に過ぎないのだと、八幡はごく当たり前のように告げていた。
「……そうだね」
陽乃は力無く、けれど静かに返した。
八幡の瞳に自分という存在が確かに映っている。
けれど、それは特別な愛情や情熱ではなく、あまりにも淡々と、どこまでもフラットに存在を認められているだけ。
その優しさに救われながらも、陽乃の胸の奥には、彼をもっと自分だけのものにしたいという、深くて歪んだ渇きが広がっていくのだった。
二人はゆっくりと並んで、夕暮れの街を歩いていた。
「……なぁ」
八幡がふと足を止め、どこか照れくさそうに頭を掻きながら口を開いた。
「俺と友達にならないか?」
不意を突かれた陽乃は、一瞬目を丸くした。
完璧な仮面を剥がされ、醜い感情をぶつけ、母親の前で庇われた挙げ句の、あまりにも唐突な提案。
「……なんで?」
陽乃が首を傾げて問い詰めると、八幡は「うーん」と腕を組んで真剣に考え込んだ。そして、観念したように死んだ魚の目を少し泳がせながら呟いた。
「……俺はお前が嫌いじゃないからな」
「!」
遠回しで、どこまでも不器用な、八幡なりの最大限の好意の言葉。
次の瞬間、陽乃の唇にふっと小さく、けれど今日一番の嘘偽りのない笑顔が咲いた。
「そっか」
陽乃は静かに頷くと、八幡の横に寄り添い、躊躇いもなくその手に自分の手を重ねた。ギュッと指を絡めるようにして八幡の手を握りしめ、そのまま前を向いて歩き出す。
「……おい、なんだよ」
驚いた八幡が慌てて手を引こうとすると、陽乃は悪戯っぽく微笑みながら横顔を覗き込んだ。
「友達なら手を繋ぐでしょ?」
「……そうか?」
八幡はあからさまに怪訝そうな顔をして見せたものの、強引に振り払うことはしなかった。
今まで見せてきたどんな完璧な作り笑いでも、あからさまな挑発でもない。ただの等身大の少女としての、柔らかく素直な陽乃の笑顔。
夕日に照らされたその表情を間近で見てしまい、八幡はふいっと気まずそうに顔を背けた。
夕焼けの赤さのせいだと言い訳するかのように、彼の耳と頬が、少しだけ赤くなっていた。