ガチートな嫁が過保護すぎる死滅回遊 作:くろつ
東京、新宿。
かつて無数の人々で賑わっていたその街は、今や見る影もなかった。
崩壊した高層ビル。ひび割れた道路。粉塵に霞む空。そして、街のあちこちに刻み込まれた、常識では説明のつかない破壊の痕跡。
その中心で――二つの異常が激突していた。
「ははっ! いいね、宿儺! やっぱり君との戦いは最高だ!」
白い髪に、目隠しを外した蒼い瞳。
現代最強の呪術師、五条悟。
対するは、額に刻まれた紋様と四本の腕を持つ、呪いの王。
両面宿儺。
「ほざけ。まだ余裕があるつもりか、小僧」
宿儺の口元が歪む。
その手には、呪力が凝縮されていた。
二人の間に漂う空気は、もはや人間同士の戦闘という範疇に収まっていない。
五条悟の無下限呪術。
触れることすら許さない、無限の隔たり。
そして宿儺の斬撃。
対象を切り裂き、時には世界そのものを断つ、呪いの王の刃。
その二つがぶつかり合うたび、新宿の街並みが悲鳴を上げた。
「さて、と」
五条が軽く首を鳴らす。
「そろそろ決めちゃおうか」
「それはこちらの台詞だ」
宿儺の呪力が膨れ上がる。
その瞬間、五条の周囲に凄まじい圧力が走った。
互いに一歩も譲らない。
誰もが息を呑む、最強同士の決戦。
――そのはずだった。
「……ん?」
五条が、ふと空を見上げた。
「何だろう。今、すっごく嫌な感じがしたんだけど」
「……?」
宿儺もまた、視線をわずかに動かす。
呪力の気配ではない。
殺気とも違う。
もっと根本的な何か。
自分たちが立っている世界の外側から、何者かに見下ろされているような感覚。
そして。
「ギルぅ……もう歩けないよぉ……」
「……千璃」
戦場から少し離れた道路に、場違いな声が響いた。
「お前、先ほども同じことを言っていたぞ」
「だってぇ……。もうずっと歩いてるんだよ? 足が疲れちゃった……」
「……ふむ」
黄金の髪を揺らす少女――戦刃ギルは、隣を歩く夫を見下ろした。
白い肌。華奢な体躯。長い睫毛。いかにも儚げな美貌。
成人男性であるにもかかわらず、どう見ても美少女にしか見えない青年、戦刃千璃。
その千璃が、潤んだ瞳でじっと自分を見上げている。
「……仕方のない奴だ」
ギルは小さくため息をつくと、何のためらいもなく千璃を抱き上げた。
「わっ!? ギ、ギル!?」
「騒ぐな。歩けぬというのなら、私が運ぶまでだ」
「で、でも、ボク重いよ?」
「…………」
ギルの足が止まった。
ゆっくりと千璃の顔を見つめる。
「千璃」
「は、はい?」
「今、何と言った?」
「え? だから、ボク重いんじゃないかなって……」
「…………」
黄金の瞳が、すっと細められた。
「お前は私に、愛する夫一人を抱き上げる程度の力もないと申すのか?」
「えっ!? ち、違うよ! そういう意味じゃなくて!」
「ならば問題あるまい」
「うぅ……」
あっさりと押し切られてしまった。
ギルは満足げに頷き、千璃を抱き直す。
「まったく。お前という奴は、己の価値を理解していなさすぎる」
「そんなことないと思うけどなぁ……」
「ある。大いにある」
断言だった。
千璃は苦笑しながら、彼女の肩にそっと頬を寄せた。
……やっぱり、ギルは優しい。
ちょっと過保護すぎるけれど。
「……ところで、ギル」
「何だ?」
「あっち、すごい音がするね」
千璃が指さした先。
そこには、崩壊したビル群の向こう側から立ち上る、巨大な粉塵が見えていた。
時折、青白い光が瞬く。
そして、その直後に地面を震わせるほどの轟音。
「……あれも、呪霊なのかな?」
「さてな」
ギルは興味なさげに視線を向けた。
「少なくとも、先ほどまでお前を襲っていた羽虫どもとは違うらしい」
「え? そうなの?」
「ああ。あれほどの力を持つ者が二人もいるとはな。少々興味深い」
彼女の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「……千璃。少しばかり見物していくか?」
「うん! ……でも、危なくない?」
「私がいる」
「そっか!」
即答だった。
千璃は安心しきった顔で笑う。
「じゃあ、見に行こうよ!」
「うむ」
ギルは軽く頷き、黄金の髪をなびかせながら歩き出した。
この時、二人はまだ知らなかった。
これから目にする戦いが、この世界における最強同士の決戦であることも。
そして、自分たちの介入が、その決戦の行方を根本から変えてしまうことも。
* * *
「――術式順転『蒼』!」
五条の手元に、空間を歪める青い光が生まれた。
周囲の瓦礫が引き寄せられ、道路の破片が空中へと浮かび上がる。
次の瞬間。
「ぐっ……!」
宿儺の巨体が、強烈な吸引力によって引き寄せられた。
しかし、宿儺はその力に逆らいながら、五条へと手を伸ばす。
「小細工を……!」
「小細工じゃないよ。僕の術式だ」
五条は笑った。
「それに、君だって余裕ないでしょ?」
「……減らず口を」
宿儺の口元が吊り上がる。
彼もまた、五条の術式を分析し、対応し続けていた。
無下限呪術を突破するための手段。
領域展開。
反転術式。
そして、伏黒恵の術式である十種影法術と、その式神、魔虚羅。
宿儺はそれらを駆使しながら、五条の無下限を攻略するための手がかりを探っていた。
特に魔虚羅の適応能力は、五条にとって無視できない脅威だった。
あらゆる事象に適応していく式神。
無下限という絶対的な防御でさえ、適応されれば突破される可能性がある。
だからこそ、五条は攻め続けていた。
相手に適応の時間を与えないために。
「さあ、次はどうする?」
五条が構え直す。
宿儺の瞳が細まった。
その時だった。
「……ん?」
五条が、もう一度だけ視線を逸らした。
遠くから、妙な気配が近づいてくる。
呪力とは違う。
だが、ただの人間でもない。
何より――その気配は、戦場に近づいているというのに、まるでこちらの戦いなど意に介していないようだった。
「……宿儺。君、誰か呼んだ?」
「戯言を。貴様の知り合いではないのか?」
「いやぁ、僕、こんなに目立つ知り合いはいないと思うんだけど」
「ならば、貴様の知らぬところで恨みでも買ったのだろう」
「ひどくない?」
軽口を叩き合いながらも、二人の意識は確実にそちらへ向いていた。
そして――
「……あ」
五条が目を見開いた。
「何、あれ」
粉塵の向こう側から、黄金の髪を持つ少女が現れた。
その腕には、華奢な青年が抱きかかえられている。
まるで散歩の途中で公園にでも立ち寄ったかのような、場違いな雰囲気。
少女は周囲の惨状を見渡し、少しだけ眉をひそめた。
「……ふむ。随分と荒れているな」
「ギル、あそこに人がいるよ?」
千璃が指さした先には、白髪の青年と、異様な姿をした男がいた。
「二人とも、すごく強そうだね」
「そうだな」
ギルはあっさりと肯定した。
そして、千璃を抱いたまま、二人の戦いを眺める。
「……だが、片方はともかく、もう片方は少々不愉快な気配を放っている」
「え? そうなの?」
「ああ。己の力を誇示することに慣れきった、傲慢な獣の気配だ」
その言葉を聞いた瞬間。
宿儺の眉が、ぴくりと動いた。
「……ほう?」
低い声が響く。
「小娘。今、誰のことを言った?」
ギルは宿儺を見た。
そして、心底不思議そうに首を傾げる。
「何だ。貴様、自覚がなかったのか?」
「……!」
五条が、思わず口元を押さえた。
「ぶっ……!」
いや、ちょっと待って。
この状況で、その態度?
宿儺相手に?
しかも、初対面で?
「……あははっ! 君、面白いね!」
五条は堪えきれずに笑い出した。
「宿儺にそんなこと言う人、初めて見たよ!」
「五条悟ォ……!」
宿儺の額に青筋が浮かぶ。
「黙れ。貴様から先に殺してやる」
「えー、僕、まだ何もしてないんだけど?」
「その口を閉じろ!」
怒声が新宿に響き渡った。
一方。
「……ギル」
千璃が、彼女の服の袖をちょんちょんと引っ張った。
「ん?」
「もしかして、喧嘩になっちゃった?」
「既になっているようだな」
「えぇ……」
千璃は困ったように眉を下げた。
「でも、あの人たち、すごく真剣に戦ってたみたいだし……邪魔しちゃ悪いんじゃないかな?」
「……千璃」
ギルが静かに夫を見つめる。
「お前は本当に、他人のことばかり気にするのだな」
「だってぇ……」
「安心しろ。私は見物に来ただけだ。こちらから手を出すつもりはない」
「ほんと?」
「ああ」
そう答えた直後。
宿儺が、苛立ちを隠そうともせずに口を開いた。
「……貴様ら。何者だ?」
その声に、ギルはようやく宿儺へと向き直った。
「何者、か」
彼女は少し考えた後、堂々と答えた。
「戦刃ギル。こちらは私の夫、戦刃千璃だ」
「よ、よろしくね?」
千璃がぺこりと頭を下げた。
そのあまりにも無防備な様子に、五条は目を瞬かせた。
(……え? 夫?)
目の前の少女と、抱きかかえられている青年。
どう見ても少女の方が年下に見える。
いや、そもそも少女の方は、見た目だけなら十代半ばほどにしか見えない。
一方の青年は、華奢ではあるものの、成人しているように見える。
……いや、待て。
そんなことより。
(あの人、宿儺の前で普通に自己紹介したんだけど……)
五条は、少しだけ真顔になった。
そして、六眼で少女を観察する。
呪力の流れを探る。
術式の有無を確認する。
身体の構造、呪力の総量、異常な反応の有無。
――だが。
(……何だ、これ?)
わからない。
いや、正確には、理解できる情報が少なすぎる。
少女からは、五条が知る呪術師とはまったく異なる、異質な力の気配が感じられた。
呪力のようでいて、呪力ではない。
術式のようでいて、術式とも違う。
それでいて、彼女が纏う存在感は、決して無視できるものではなかった。
(……少なくとも、普通の人間じゃない)
五条は笑みを保ったまま、警戒を強めた。
一方の宿儺は、もっと単純だった。
「……くだらん」
彼は吐き捨てるように言った。
「戦場にのこのこと現れ、名乗りを上げるとは。死にたいのなら、まとめて相手をしてやる」
千璃が、びくっと肩を震わせた。
「ひゃっ……!」
その反応を見た瞬間。
ギルの表情から、すべての温度が消えた。
「……今、何と言った?」
「聞こえなかったか?」
宿儺が笑う。
「その女を抱えて、さっさと失せろ。さもなくば、貴様らもまとめて斬り刻んでやる」
「……ギル」
千璃が、不安そうに彼女を見上げた。
「だ、大丈夫だよ。ボクは平気だから……」
「…………」
ギルは千璃を見つめた。
そして、そっと彼の頭を撫でる。
「そうか。お前は平気なのだな」
「う、うん……」
「ならば、問題はない」
ギルは千璃を安全な瓦礫の陰へと移動させ、黄金の光で周囲を覆った。
「ここで待っていろ。すぐに終わらせる」
「えっ? ギル?」
「心配するな。お前に傷一つつけさせん」
その声は優しかった。
けれど、振り返った彼女の顔には――絶対零度の怒りが浮かんでいた。
「……貴様」
ギルの背後に、黄金の波紋が広がる。
一つ。
十。
百。
空間を埋め尽くすほどの黄金の門が、次々と開いていく。
その奥に並ぶのは、神代の武具。
英雄たちの伝説を形にした、数えきれないほどの宝具。
「我が夫を脅したな?」
宿儺は笑った。
「それがどうした?」
「……そうか」
ギルもまた、微笑んだ。
「ならば、死ぬ覚悟はできているということだな」
* * *
「……へえ」
五条悟は、思わず感嘆の声を漏らした。
少女の背後に広がる黄金の門。
その光景は、呪術師である彼の常識から大きく逸脱していた。
あれほどの数の武器を、いったいどこに収納していたのか。
いや、そもそも――どうやって空間に出現させている?
術式による空間収納?
結界術?
それとも、未知の術式?
六眼をもってしても、簡単には答えが出ない。
「……宿儺」
五条が、珍しく真剣な声で呼びかけた。
「ちょっと待った方がいいかもよ」
「……何?」
「いや、だってさ。あれ、君が思ってるよりずっとヤバそうじゃない?」
「……」
宿儺はギルを見つめた。
彼の中に、警戒が生まれていた。
黄金の門そのものは、術式による攻撃に似ている。
だが、そこから感じられる力は、呪力とは異なる。
何より、あの少女の態度。
彼女は自分を恐れていない。
それどころか、こちらを敵と認識した瞬間から、すでに勝敗が決まっているかのような顔をしていた。
「……面白い」
宿儺の口元が歪む。
「ならば、その力を見せてみろ」
ギルは答えなかった。
ただ、指先をわずかに動かす。
次の瞬間。
無数の宝具が、一斉に射出された。
「――ッ!」
宿儺の反応は速かった。
彼は即座に身を翻し、飛来する武具の軌道を見極める。
しかし、その数が尋常ではない。
剣。
槍。
斧。
弓矢。
形状も性質も異なる無数の武具が、四方八方から宿儺へと襲いかかった。
ドドドドドドドドッ!!
新宿の空が黄金に染まる。
宿儺は呪力を練り上げ、迫り来る宝具を迎撃する。
「くだらん!」
斬撃が走る。
飛来する武具のいくつかが、空中で切断された。
だが――すべてではない。
一つを斬れば、次の一つが迫る。
二つを弾けば、三つが死角から飛来する。
攻撃の間隔が短すぎる。
しかも、それぞれの武具が異なる軌道と速度で飛んでくるため、対処が極めて困難だった。
「……チッ!」
宿儺が後方へ跳ぶ。
その足元に、巨大な槍が突き刺さった。
爆音。
衝撃波。
地面が大きく陥没する。
「……ははっ」
五条は、思わず笑みを浮かべた。
「すごいね、これ。あれだけの攻撃を、全部別々に制御してるの?」
だが、その笑みはすぐに消えた。
(……いや、違う)
五条の六眼が、黄金の門を捉える。
(あれだけの数を操ってるだけじゃない。そもそも、武器そのものが一つ一つ、異常な力を持ってる……?)
単なる武器ではない。
それぞれが、独立した脅威。
そして、そのすべてを一人の少女が自在に扱っている。
「……君、本当に何者?」
五条の呟きは、轟音にかき消された。
一方の宿儺は、飛来する宝具を捌きながら、ようやく気づいていた。
この攻撃は、単なる物量による圧殺ではない。
自分の動きを制限し、回避先を潰し、徐々に追い詰めるためのものだ。
しかも、あの少女は――ほとんど動いていない。
「……なるほど」
宿儺が笑った。
「武器を飛ばすだけの術式ではないらしいな」
ギルは、冷ややかに見下ろした。
「ほう。まだ口が利けるか」
「当然だ。これしきで、この両面宿儺が倒れると思ったか?」
「……両面宿儺?」
ギルが、初めて聞く名を口にする。
「それが貴様の名か」
「そうだ」
「なるほど。覚えておこう」
ギルは頷いた。
「――貴様を殺した者の名としてな」
「言ってくれる!」
宿儺が地面を蹴った。
一瞬で距離を詰め、ギルへと迫る。
その手には、目に見えぬ斬撃が宿っていた。
通常の斬撃。
対象の強度や呪力に応じて切断する「解」。
そして、領域を展開せずとも放つことのできる、宿儺の恐るべき斬撃。
だが――
「遅い」
ギルの声が響いた。
黄金の門から、一本の剣が飛び出す。
宿儺は即座に身を捻った。
剣先が頬を掠める。
その瞬間、彼は理解した。
今の一撃は、自分の動きを完全に読んでいた。
「……ッ!」
宿儺が距離を取る。
ギルは、まるで退屈な舞踏でも眺めるように彼を見つめていた。
「なるほど。貴様、多少は動けるようだな」
「……小娘が」
宿儺の笑みが消えた。
「調子に乗るなよ」
呪力が膨れ上がる。
空気が震える。
その瞬間、五条が声を上げた。
「ちょっとちょっと! 待って待って!」
ギルと宿儺の視線が、同時に五条へ向いた。
「何だ、白いの」
「白いのって……いや、僕、五条悟っていうんだけど?」
「そうか。覚えておこう」
「いや、だからさ!」
五条は額に手を当てた。
「君たち、僕の戦いの途中なんだけど!?」
「……む?」
ギルが、きょとんとした。
「そうだったのか?」
「そうだよ!」
「……ふむ」
ギルは少しだけ考えた。
そして、実にあっさりと言った。
「ならば、すまなかったな。少々邪魔をした」
「えっ、謝ってくれるんだ!?」
五条が目を丸くする。
「意外と話が通じる……!」
「だが」
ギルは宿儺へと視線を戻した。
「この男は、我が夫を脅した」
「……うん?」
「ゆえに、私が始末する」
「いやいやいや! そこは僕がやるところなんだけど!?」
「何故だ?」
「何故って……!」
五条は言葉に詰まった。
確かに、宿儺は自分が倒すべき相手だ。
だが、目の前の少女の態度には、まるで譲歩の余地がない。
「……君、もしかして宿儺を倒すつもり?」
「そのつもりだが」
「僕の代わりに?」
「代わり?」
ギルは首を傾げた。
「何を言っている。私は貴様のために戦っているわけではないぞ」
「……あ、そう」
五条は乾いた笑みを浮かべた。
(……この子、マジだ)
そして、少し離れた場所。
黄金の結界に守られた千璃は、二人のやり取りを眺めながら、困ったように頬を掻いていた。
「……ギル、怒ってるなぁ」
自分のために怒ってくれることは嬉しい。
けれど、あまりにも本気すぎる。
「……あの人、ちゃんと謝ってくれたらいいんだけど」
千璃の呟きは、誰にも届かなかった。
* * *
「……もういい」
宿儺が低く呟いた。
その声には、先ほどまでの余裕がなかった。
黄金の武具による攻撃。
それは、ただの物量ではない。
一撃一撃が重く、しかも回避先を正確に潰してくる。
何より、あの少女の動きに無駄がない。
自分が攻撃を仕掛けようとすれば、即座に迎撃が飛んでくる。
距離を取れば、さらに大量の武具が降り注ぐ。
ならば――
「貴様がどれほどの力を持とうと、斬れば終わりだ」
宿儺の手が、ゆっくりと構えられた。
空気が変わった。
五条の表情が引き締まる。
「……宿儺?」
彼は知っている。
宿儺の斬撃が、単なる物理的な刃ではないことを。
そして、その中には――無下限呪術を突破するための、極めて危険な一撃が存在することを。
宿儺の視線が、ギルを捉えた。
「斬れろ」
目に見えぬ斬撃が放たれる。
だが。
「……ふむ」
ギルは、動かなかった。
斬撃が彼女へと迫る。
その瞬間。
ギィィィィンッ!!
甲高い音が、新宿に響き渡った。
宿儺の斬撃は、ギルの身体へ届くことなく、黄金の光に弾かれていた。
「……何?」
宿儺が目を見開く。
ギルの周囲には、いつの間にか黄金の防壁が展開されていた。
「……今のは、なかなか鋭い一撃だったな」
ギルは、感心したように頷いた。
「なるほど。空間そのものを断つ類いの攻撃か。確かに、通常の防御では厄介だろう」
五条が息を呑む。
(……今の、宿儺の斬撃を防いだ?)
それも、単なる防御ではない。
あの少女は、斬撃の性質を見極めたうえで、対応しているように見えた。
「……君、今の何?」
五条が尋ねる。
「何とは?」
「いや、どうやって防いだの?」
「防いだだけだが?」
「……そういう問題じゃないんだけどなぁ!」
五条は思わず叫んだ。
だが、ギルはもう五条を見ていなかった。
彼女の視線は、宿儺へと固定されている。
「……貴様」
ギルの声が、低く響く。
「我が夫を脅し、なおも私に刃を向けるか」
宿儺は笑った。
「当然だ。俺は、目の前の敵を殺す。それだけのことよ」
「……そうか」
ギルの表情が、完全に無へと変わった。
黄金の門が、次々と閉じていく。
無数の宝具が消えた。
その光景に、五条は目を瞬かせた。
「……え?」
攻撃をやめた?
いや、違う。
空気が変わった。
これまでの黄金の武具による攻撃とは、明らかに異なる何かが始まろうとしている。
ギルは、ゆっくりと右手を掲げた。
その手元に、黄金の光が集まる。
空間が軋む。
世界そのものが、何かに怯えているかのように震え始めた。
「……久方ぶりに、使うとするか」
ギルの声は、静かだった。
「乖離剣――エア」
その名が告げられた瞬間。
世界が、軋んだ。
黄金の光の中から現れたのは、剣と呼ぶにはあまりにも異質な武器。
刀身は三つの円筒状の構造が連なったような形状をしており、それぞれが独立して回転するかのような、不気味な存在感を放っていた。
刃という概念からさえ逸脱した、神代の武具。
世界の始まり、その創世の記憶に連なる力を秘めた、乖離剣エア。
ギルガメッシュの持つ宝具の中でも、特別な意味を持つ一振り。
五条は、思わず息を呑んだ。
(……何だよ、あれ)
六眼が、異常を告げていた。
呪力ではない。
術式でもない。
それなのに、目の前の武器から放たれる気配は、周囲の空間そのものに影響を与えている。
まるで、この世界の根幹に触れるような――そんな、理屈を超えた力。
「……面白い」
宿儺が笑った。
だが、その笑みには、明らかな警戒が混じっていた。
「その剣……ただの武器ではないな」
「当然だ」
ギルはエアを構えた。
「これは、貴様らが知る武器の概念に収まるものではない」
刀身が回転を始める。
低い唸りが響き、周囲の空気が激しく震えた。
「これは、世界を切り分けるための剣」
黄金の光が、周囲を包み込む。
「せいぜい足掻け、雑種⋯」
ギルの真紅の瞳が、宿儺を捉えた。
「一掃せよ、エア」
次の瞬間。
世界が、裂けた。
***
それは、爆発という言葉では表現できなかった。
空間そのものが捻じれ、三つの円筒が回転するたびに、周囲の景色が歪んでいく。
地面が割れる。
空気が引き裂かれる。
瓦礫が粉々に砕け散り、巨大な建物の残骸が、まるで紙切れのように吹き飛ばされた。
そして――黄金の暴風が、宿儺へと襲いかかった。
「……ッ!!」
宿儺は即座に反応した。
呪力を最大限まで高め、迫り来る力に対抗する。
だが、エアが放つ力は、単純な斬撃ではない。
空間を断つ斬撃とも違う。
世界の構造そのものを揺さぶり、対象をその奔流に巻き込む、圧倒的な破壊の嵐。
宿儺は腕を交差させ、衝撃を受け止めようとした。
「ぐっ……おおおおおおッ!!」
轟音。
衝撃。
黄金の光。
宿儺の身体が、地面を削りながら後方へと吹き飛ばされる。
道路が陥没し、巨大な瓦礫が宙を舞った。
そのまま宿儺は、崩壊した建物の残骸へと叩きつけられた。
――沈黙。
数秒間、新宿には何の音も響かなかった。
やがて、粉塵の向こうから、ゆっくりと影が動いた。
「……くくっ」
宿儺だった。
身体のあちこちに傷を負いながらも、彼は立ち上がっていた。
その口元から、血が滴る。
だが、彼は笑っていた。
「……ははっ。なるほど。これほどの力か」
ギルは、エアを下ろした。
「ほう。まだ立つか」
「当然だ……!」
宿儺の瞳が、ぎらりと輝く。
「この程度で、俺が倒れると思うなよ!」
その言葉に、ギルは小さく息を吐いた。
「……しぶといな」
五条は、呆然と二人を見つめていた。
(……ちょっと待って)
彼は、自分の頬をつねった。
痛い。
夢ではない。
(今の、何?)
宿儺が吹き飛ばされた。
あの両面宿儺が。
しかも、相手は呪術師ですらない可能性が高い少女。
「……はは」
五条は乾いた笑いを漏らした。
「いやぁ……参ったな。僕、今日すごいものを見てる気がする」
だが、次の瞬間。
ギルが、ふと千璃の方を振り返った。
「千璃。無事か?」
「う、うん! 大丈夫だよ!」
黄金の結界の中から、千璃が大きく手を振る。
「すごかったよ、ギル! でも……ちょっとだけ、街が壊れちゃったね?」
「…………」
ギルの動きが止まった。
五条も、宿儺も、思わず彼女を見た。
「……ふむ」
ギルは、ゆっくりと周囲を見渡した。
崩壊した道路。
吹き飛んだビルの残骸。
粉々になったガラス。
そして、エアの一撃によって生じた、巨大な破壊の痕跡。
「……確かに」
ギルは真面目な顔で頷いた。
「少々、加減を誤ったか」
「少々!?」
五条が叫んだ。
「いやいやいや! 少々ってレベルじゃないでしょ!? 今の一撃で新宿がどれだけ吹っ飛んだと思ってるの!?」
「……何だ、白いの。騒がしいぞ」
「白いのじゃなくて五条悟!」
「そうだったな」
「絶対覚えてないでしょ、君!?」
千璃は、そんな二人のやり取りを見て、くすくすと笑った。
「ふふっ。ギル、五条さんと仲良くなれそうだね」
「……そうか?」
「うん!」
「……ならば、そういうことにしておこう」
ギルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その表情は、先ほどまで宿儺に向けていた冷酷なものとはまるで違う。
五条は、その変化を見逃さなかった。
(……ああ、なるほど)
彼は、ようやく理解した。
この少女は、誰に対してもあのような態度を取るわけではない。
あの青年――千璃に対してだけ、明らかに態度が違う。
まるで、彼だけが世界の中心であるかのように。
(……あの子が、この人の大事な人ってわけか)
五条の表情が、少しだけ真剣になる。
そして、その視線の先。
瓦礫の中から、宿儺がゆっくりと立ち上がった。
「……いいだろう」
宿儺の声が響く。
「貴様が何者であろうと、関係ない。俺の前に立つ者は、すべて斬り伏せる」
ギルは、静かにエアを構え直した。
「……そうか」
彼女の瞳に、再び冷たい光が宿る。
「ならば、もう一度教えてやろう」
黄金の門が、空間を埋め尽くす。
「王に逆らうということが、いかなる意味を持つのかをな」
その瞬間。
「――待った」
五条悟が、二人の間に割って入った。
「はい、ストップ! ちょっと待とうか!」
ギルが、露骨に眉をひそめる。
「……何だ、五条悟」
「おっ、名前覚えてくれてたんだ。嬉しいなぁ」
「次に邪魔をすれば、貴様も撃つ」
「怖っ! いや、怖いって!」
五条は両手を上げた。
「でもさ、君。宿儺を倒すつもりなんでしょ?」
「そのつもりだ」
「なら、ちょっと話をしようよ。君の力、僕も知っておきたいし」
「……何故だ?」
「何故って……」
五条は、ちらりと宿儺を見る。
そして、真剣な声で言った。
「こいつは、ただ強いだけの敵じゃない。油断すれば、君だって危ないかもしれないからね」
ギルは、数秒ほど五条を見つめた。
やがて。
「……ふむ」
小さく頷いた。
「貴様、思ったよりは話がわかるようだな」
「それ、褒めてる?」
「さあな」
「絶対褒めてないでしょ!」
千璃が、楽しそうに笑った。
「ふふっ……」
その笑い声を聞いた瞬間、ギルの表情が一瞬だけ柔らかくなる。
そして、彼女は静かに宣言した。
「よかろう。少しだけ話を聞いてやる」
黄金の門が、ゆっくりと閉じていく。
「だが、勘違いするな。私は貴様らの事情など知らぬし、興味もない」
ギルは、宿儺を見据えた。
「ただし――」
その瞳に、王者の威厳が宿る。
「我が夫に害をなす者は、何人たりとも許さぬ」
その言葉に、五条は小さく息を吐いた。
宿儺は笑った。
そして、千璃は。
「……ギル、かっこいいなぁ」
と、心の底から嬉しそうに呟いた。
――こうして。
五条悟と両面宿儺の決戦は、予想もしなかった第三者の介入によって、新たな局面を迎えることとなった。
呪術の理を超えた、黄金の王。
その隣に立つ、彼女が何よりも愛する夫。
そして、呪いの王と、現代最強の呪術師。
三つの異なる力が交錯する新宿で、戦いの行方は、誰にも予測できなくなっていた。
* * *
「……ところで、ギル」
千璃が、彼女の服の袖を引いた。
「ん?」
「さっきの剣、すごかったね。あれって、いつもの宝物庫の武器とは違うの?」
「ああ。あれは乖離剣エア。私の所有する宝具の中でも、特別な一振りだ」
「へぇ……」
千璃は目を輝かせた。
「じゃあ、あれって、すごく大事な剣なんだね!」
「当然だ。あれは天地の始まりに連なる力を秘めた剣。そう易々と振るうものではない」
「そっかぁ……」
千璃は、ふと周囲を見渡した。
「……でも、ギル」
「何だ?」
「やっぱり、ちょっと街が壊れすぎちゃったね……?」
「…………」
ギルは、今度こそ黙り込んだ。
数秒後。
「……善処しよう」
「えへへ。うん、お願いね?」
千璃がにっこりと笑う。
ギルは、その笑顔を見つめ、わずかに目を細めた。
「……ああ」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「お前が望むのならば、世界さえ作り直してみせよう」
――その言葉が、冗談ではないことを。
この場にいる誰一人として、まだ理解していなかった。
黄金の王は、呪術の世界を知らない。
そして、呪術の世界もまた、黄金の王を知らない。
だからこそ。
この出会いは、これから起こるすべての運命を、大きく変えていくことになるのだった。