東京。
かつて多くの人々が行き交い、笑い声と喧騒に満ちていたその街は、今や見る影もなかった。
崩壊したビル群。血に染まった道路。瓦礫の隙間から途切れ途切れに聞こえる、助けを求める悲鳴。
そして――街の至る所を徘徊する、異形の化け物たち。
『呪霊』
人間の負の感情から生まれるという、人ならざる存在。
それらが大量発生した東京は、もはや人間がまともに生きられる場所ではなかった。逃げ惑う人々は次々と呪霊に襲われ、喰われ、殺されていく。
誰もが自分の命を守ることで精一杯。他人を助ける余裕など、どこにも存在しなかった。
そんな地獄のような街の片隅で。
「ひっ……! や、やだ……!」
ボク――戦刃千璃《いくさばせんり》は、崩れかけた瓦礫に背中を押しつけながら、目の前の呪霊を見上げて震えていた。
ボクは成人男性だ。
……なのだが、自分の見た目はどうにもおかしい。
白く透き通るような肌。華奢な身体。長い睫毛に、潤んだ瞳。ちょっとした仕草ひとつで大和撫子を連想させる、妙に儚げな雰囲気。
どう見ても美少女。
どう考えても美少女。
戸籍上も身体構造上も間違いなく成人男性のはずなのに、どうしてこうなったんだろう。
ボクだって好きでこんな容姿をしているわけではない。そのせいで昔からトラブルに巻き込まれがちだったのだが、現在――その体質は、最悪の形で牙を剥いていた。
『ギギギギギ……』
目の前に立ちふさがるのは、巨大な腕を持った醜悪な呪霊。
全身がどす黒い肉塊で覆われ、顔らしき部分には無数の目玉が蠢いている。
その太い腕が、ゆっくりとボクに向かって伸びてくる。
「い、いや……こないで……」
情けない声が漏れた。
逃げなきゃいけない。頭では痛いほどわかっているのに、恐怖で足が竦んで動かない。
そもそもボクには戦闘能力がほとんどないのだ。呪術師でもなければ、術式を持っているわけでもない。こんな化け物を相手にできることなんて、何ひとつとしてなかった。
「た、助け……」
伸びてきた鉤爪が、ボクの肩に触れようとした――その瞬間。
「おい、ゴミクズども……」
空間を断ち切るように、冷徹な声が響き渡った。
「ソイツは私のものだ。その気色の悪い手で触れるな」
怒りに満ちた、あまりにも冷ややかな声。
聞く者の心臓を直接握り潰すかのような、絶対的な王の威圧感。
周囲にいた呪霊たちが一斉に動きを止めた。
空気が凍りつく。比喩ではなく、周囲の気温が一気に数度下がったのではないかと錯覚するほどの冷気が満ちる。
けれど――ボクだけは、その声を聞いて途方もない安堵を覚えていた。
だって。
「……ギル」
そこに立っていたのは、ボクの最愛の妻だったから。
黄金を糸に変えたかのような輝きを放つ、腰まで伸びた眩しい髪。
ルビーを思わせる真紅の双眸。
すらりとした肢体に宿る、洗練された女性らしい美しさ。
そして、世界のすべてを見下すような、揺るぎない王者の風格。
彼女の名は、戦刃ギル。
ボクの妻であり、この世で最も美しく、最も強く――そして、おそらく世界で一番ボクに甘い人だ。
「あぁ……」
緊張が抜け、思わずため息が漏れてしまう。
「やっぱり、ギルは可愛いなぁ……」
「……千璃?」
ぴくり、と彼女の美しい眉が動いた。
「……お前、今の状況を理解しているのか?」
「え? うん。呪霊に襲われて、死にそうだった」
「そうだな」
「でも、ギルが来てくれたから、もう大丈夫だよね?」
「……」
ギルは数秒ほど絶句し、額に手を当てて深々とため息をついた。
「……まったく。お前という奴は……」
だが、その隙から覗く耳の先端がほんのり朱に染まっているのを、ボクは見逃さなかった。
ふふ、照れてる。可愛い。
「千璃」
「なぁに?」
「そこから動くなよ」
「はぁい」
素直に頷く。ギルがそう言うときは、いつだってボクを守るためだから。
ギルの周囲に、黄金の波紋が次々と広がっていく。
空間そのものに金の裂け目が走ったかのような神秘的な光景。その波紋の奥から、無数の武具の切っ先が顔を覗かせた。
剣、槍、斧、見たこともない異彩を放つ古今東西の武具――。
そのどれもが、一目で桁外れの神気を纏っているとわかる。
『ゲート・オブ・バビロン』
英雄王ギルガメッシュが所有する、宝物庫へと繋がる王の財宝。
そして、ボクの妻が持つ力の一部だ。
ギルは転生者である。
それもただの転生者ではなく、『Fate』という作品に登場する英雄王ギルガメッシュの能力を完備してこの世界に生まれ変わった存在だ。しかも現代においては、あの可憐な姫君の姿――いわゆる『姫ギル』として。
宝物庫はもちろん、乖離剣エアをはじめとする伝説の宝具群を自在に扱いこなす。
呪術でもなければ、術式でもない。反転術式や領域展開といった呪術界の理屈とは一切無関係。ただ単に「彼女がその力を持っているから使える」――それだけのことだ。
ボクは彼女の正体を知っているし、前世の知識を交えて楽しそうに語る彼女の話をいつも「うんうん」と聞いてきた。
だからこそ、痛感するのだ。
この状況において、目の前にいる呪霊たちがどれほど不幸かということに。
……うーん、心の底から同情するよ。相手が悪すぎる。
「さて」
ギルがゆっくりと顔を上げた。真紅の瞳が、凍りつく呪霊たちを鋭く捉える。
「貴様ら」
背後の黄金の波紋が爆発的に増殖する。
十、二十、五十――数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどの宝具の群れが、彼女の後方に展開された。
「我が愛しき夫に、何をしようとした?」
『ギ……ギギ……』
呪霊たちが知性もなく後ずさる。本能的に理解したのだ。目の前にいる存在が、自分たちなど足元にも及ばない「天災」そのものであると。
『ギャアアアアアアアアッ!!』
恐怖に耐えきれなくなった一体の巨躯が、瓦礫を吹き飛ばしながらギルへ飛びかかった。
普通の人間なら認識すらできない速度。しかし――
「……汚らわしい」
ギルは指先ひとつ動かさなかった。
背後の波紋から一振りの宝具が瞬殺で射出される。
ドオンッ!
激しい衝撃音とともに、呪霊の巨体は空中で爆散した。
たった一撃。しかもギルは、その呪霊の姿すら見ていなかった。
「ふむ。雑魚にしては、多少の耐久力があるらしいな」
感心したように呟くギル。
いやいやいや! ギルさん?
今の一撃、余波で後ろのビルの外壁まで崩壊してますけど!?
呪霊の耐久力を測るために街を壊さないでほしい……いや、建物が勝手に巻き込まれただけかも。うん、そういうことにしておこう。
『ギィィィィッ!!』
仲間を散らされた呪霊たちが、一斉に襲いかかった。
正面、左右、上空。逃げ道を完全に塞ぐ全方位からの包囲攻撃。その数、十数体。
「……はぁ」
ギルは心底つまらなさそうに息を吐いた。
「羽虫が群れたところで、何になる?」
閃光。
黄金の雨が降った。
剣が穿ち、槍が貫き、斧が断ち切る。
それは戦闘などではなく、一方的な処刑劇。呪霊たちは叫ぶ間もなく撃ち抜かれ、地面へ叩きつけられ、存在ごと消滅していく。
わずか数秒。
周囲を埋め尽くしていた呪霊は、塵一つ残さず消え去っていた。
……すごい。圧倒的。まさに蹂躙。
これがボクの妻――戦刃ギルという存在なのだ。
「千璃」
「はいっ」
名前を呼ばれ、思わず背筋がピンと伸びる。
ギルがこちらへ歩いてきた。先ほどまでの冷酷な表情は綺麗に消え去り、ボクの前にしゃがみ込むと、壊れ物を扱うような繊細な手つきで頬に触れてくる。
「怪我はないか?」
「うん、大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「どこか痛むところは?」
「ないよ」
「息苦しさは?」
「ないってば」
「頭痛は?」
「ないよぉ……」
「……そうか」
ギルはようやく安堵の息を漏らすと、ぎゅっとボクを強く抱きしめた。
「わっ……ギル?」
「……よかった」
耳元で聞こえた声が、かすかに震えていた。
そっか。すごく心配してくれていたんだ。
ボクは彼女の夫で、彼女はボクの妻。当たり前のことだけど、愛されている実感が胸を満たす。
「えへへ、ありがとうギル。助けに来てくれて」
ボクも彼女の背中に手を回し、抱き返した。
「……当然だ」
ギルはボクの頭を愛おしそうに撫でる。
「お前に何かあれば、私はこの世界のすべてを敵に回してでもお前を守る。呪術師だろうが、呪霊だろうが、国家だろうが、世界そのものであろうが関係ない。貴様を傷つける者は、すべて私が滅ぼす」
「……ギル?」
「なんだ?」
「それはちょっと、やりすぎじゃないかなぁ……? ほら、悪い人もいるけど、普通の人もいるしさ」
ボクが苦笑すると、ギルは真面目な顔でじっと見つめてきた。
「……千璃。お前は優しすぎる」
「そうかな?」
「そうだ。だからこそ、私が守らねばならんのだ」
……ふふ。やっぱりギルは優しい。
ちょっと過保護が過ぎるけれど、ボクのことを誰よりも大切にしてくれる。そんな彼女がボクは大好きなのだ。
……ただし。
「さて、千璃。帰るぞ」
「えっ? でも、まだ他にも困ってる人がいるかもしれないよ?」
途端に、ギルの表情がぴたりと固まった。
「千璃」
「うん?」
「お前は先ほど、死にかけたのだぞ?」
「そ、そうだけど……」
「それなのに、まだ他人の心配をするのか?」
「だって……」
「『だって』ではない」
ぴしゃりと拒絶された。
「お前は私と帰る。今すぐだ。異論は認めん」
「えぇ……でもぉ……」
「千璃」
「……はい」
しゅん、と首をすくめる。怒られてしまった。
ギルが心配してくれているのはよく分かっている。分かってはいるのだけれど……。
「……あ、そうだ」
良いアイデアが浮かんだ。
「じゃあさ、ギル。ボクを安全な場所に連れていってから、一緒に助けに行くのはどうかな?」
「……」
ギルはしばらく黙り込み、じっとボクを見つめていたが、やがて「……ふむ」と小さく頷いた。
「それならば、考慮の余地はある」
「ほんと!?」
「ああ。ただし、条件がある」
「条件?」
「私の目の届く範囲から、一歩たりとも離れるな。私が許可するまで単独行動は禁止。呪霊に近づくことも禁止。見知らぬ人間についていくことも禁止。危険を感じたら、即座に私を呼べ」
「え、えっと……」
「それと、疲れたらすぐに言え。腹が減った場合も、喉が渇いた場合も、眠くなった場合もだ。少しでも体調に違和感があれば即刻申告しろ。あと、瓦礫の近くを歩くな。ガラス片や段差、地面の亀裂にも注意しろ。建物に入る際は必ず私が安全を確認してからだ」
「……ギル」
「なんだ?」
「ボク、赤ちゃんじゃないんだけど……」
「知っている」
即答だった。
「だが、お前は私の最愛の夫だ。……ゆえに、過保護で何が悪い?」
「……ふふっ」
本当に、ボクの奥さんは世界一可愛くて、世界一強くて、世界一過保護だ。
そんな彼女に愛されているボクは、きっと世界一幸せな夫なのだろう。
……たとえこの先、『死滅回游』という極限の地獄が待ち受けていようとも。
「よし。では、まずはお前の安全な拠点を確保する」
ギルが立ち上がると、背後に再び眩い黄金の波紋が広がっていく。
「それから――邪魔者をすべて排除する」
……うん。やっぱりちょっとだけ怖いかもしれない。
「ギ、ギル? その……ほどほどにね?」
「善処しよう」
優しく微笑む彼女の背後では、すでに数十もの宝具が出番を待って不気味に蠢いていた。
……絶対、善処する気ないよね? ボクはちょっぴり不安になるのだった。
* * *
その頃――東京のとある高層ビルの屋上。
「……今の、見えたか?」
望遠鏡を覗き込んでいた男が、戦慄した声で漏らした。隣にいた仲間も、顔面蒼白で頷く。
「見えた……。呪霊の群れが、一瞬で消し飛んだ……」
「術式か? いや、あんな術式が存在するのか!?」
「わからない……! そもそもあの武器群はどこから出てきたんだ……!?」
彼らは呪術師だった。
死滅回游の情勢を調べるため、東京の監視任務についていたのだ。
そして偶然にも目撃してしまった。
黄金の光を背負い、呪霊の群れを虫ケラのごとく殲滅する一人の少女を。
そしてその少女が、華奢な青年をまるで世界一の宝物でも扱うかのように愛おしそうに抱きしめる姿を。
「あの女……何者だ……?」
誰も答えられない。ただ一つ確かなのは、あれが既存の呪術師の概念に収まる存在ではないということだ。
「……待て」
望遠鏡の男が、ある異変に気づいて息を呑んだ。
「さっきあの女……青年に何か言われて攻撃の手を止めたぞ」
「は? 止めた?」
「いや、違う! 攻撃をやめたんじゃない……背後の青年を巻き込まないよう、射出の角度を瞬時に微調整していたんだ……!」
「……まさか」
男たちは顔を見合わせ、恐ろしい結論に至る。
「あの青年が……あの化け物の『弱点』なのか?」
――その瞬間。
遠く離れた街並みの中、黄金の髪を持つ少女が、ゆっくりと顔を上げた。
高層ビルの屋上。遮蔽物もあり、肉眼では到底視認できない距離。
それなのに――彼女の真紅の双眸は、寸分の狂いもなくこちらを直視していた。
「――――ひっ!?」
男の喉からひゅっと空気が漏れる。
少女は、にっこりと微笑んだ。
だがその笑みは、死を宣告する絶対者そのものの冷酷さに満ちていた。
『ほう』
脳裏に直接、鈴の鳴るような、けれど底なしに冷たい声が響く。
『我が夫を品定めするとは……随分と命が不要なようだな?』
次の瞬間。
男たちの目の前の空間が、眩い黄金の光に染まった。
「……あ」
彼らは理解した。
自分たちは、決して触れてはならない神の逆鱗に触れてしまったのだと。
そして同時に思い知る。
彼女にとって、この世界のあらゆる命や理よりも尊い存在が、ただ一人だけ存在することを。
――戦刃千璃に手を出すこと。
それは、黄金の王による『世界の滅亡』を意味するのだと。