──次の瞬間。
脳の奥を、凍りついた極細の針で突き刺されたかのような、悍ましい不快感が貫く。
悟の意識が、一瞬で現実へ引き戻された。
──何かが変わった。
周囲の空間そのものに、目には見えない圧力が加わったような感覚。
(チッ! 気付かれたか……!?)
状況を確認している暇はない。
流石は我がギルドの誇る防衛網と言うべきか。
己の迂闊さを呪うと同時に、悟の判断は迅速だった。ここまでだ。
これ以上の深追いは、新生アインズ・ウール・ゴウンの仲間たちをも巻き込む最悪の結末を招きかねない。
即座に転移の魔法を発動させる。
「〈上位転移《グレーター・テレポーテーション》〉――!」
即座に撤退の呪文を唱え、空間を歪ませる。
次の瞬間には遥か彼方の安全圏へと転移している、はずであった。
──しかし。
バチバチと空間が軋む不吉な火花を散らし、広がりかけた転移の歪みが強制的に霧散した。
(何!? 〈次元封鎖《ディメンショナル・ロック》〉だと……!?)
心臓の無い胸の奥が、冷たい戦慄に凍りつく。直後、緑の光が視界の端を過り、強制的に感情が平坦な凪へと引き戻された。
だが、思考の端が焦げ付くような焦燥感までは消し去れない。
転移の阻害。それはすなわち、侵入者をこの場で確実に「圧殺」するという、ナザリック防衛システムの冷酷極まる意志の表明に他ならない。
逃げ道を塞ぎ、情報系魔法で位置を特定し、圧倒的な物量と高レベルの暴力で磨り潰す。
かつて自分たちが、数多のプレイヤーを絶望のどん底に叩き落とした悪辣な必勝パターンに、今度は自分がハメられたのだ。
刹那。
(──ッ!?)
その一撃は、まさしく肉眼の限界を超越していた。
ナザリック地下大墳墓が誇る最強の守護者。それが気配の全てを絶ち、完全な殺意をもって放った最悪の不意打ち。
〈超常直感《パラノーマル・イントゥイション》〉が、遅すぎる警鐘を脳裏に鳴らしたのは、まさにその瞬間であった。
音も、光も、大気の振動すらも置き去りにした『質量』が、爆発的な破壊力となって迫る。
(しまっ──)
振り返るどころか、首を僅かに傾げる猶予すら世界は与えない。
凄まじい衝撃が、悟の不壊の骨格を真後ろから文字通り粉砕せんばかりの勢いで貫いた。
地表の荒野が消し飛ぶほどの突撃。
事前に発動していた数々のバフによって、極限まで底上げされていたはずの防御パラメータを強引に圧し折り、深紅に輝く槍の穂先が、悟の背中を、そして胸殻を容赦なく穿っていた。
「が、は……っあ!?」
受け身の型すら取れず、悟の身体が荒れ果てた大地を何十メートルもバウンドしながら転がっていく。
〈完全不可知化《パーフェクト・アンノウアブル》〉の隠蔽効果は、これほどの直撃を喰らってなお維持されていた。
しかし、透明な質量が凄まじい勢いで地面を削り、激しい衝撃音を立てて転がっていく様は、その座標をこれ以上ないほど雄弁に物語っている。
(馬鹿な……反応、できなかった……! これほどの、突撃──!)
脳裏を焼き尽くす圧倒的なパニック。それをパッシブスキルによる強制鎮静の緑色の光が強引に掻き消していく。
(ま、まずい! 立て直さなくては!!)
だが、追撃までの猶予は一瞬すらも与えられなかった。
ただ、ナザリックの障害を排除する。その一点のみを遂行するため、彼女は無言のまま大地を蹴った。
姿は見えずとも、ニグレドから共有されている座標情報に狂いはない。
転がる透明な質量に向け、深紅の槍が容赦のない速度で再び突き出される。
(──ッ! 来るッ!!)
視認すらできない、大気を引き裂く神速の刺突。
地面に転がったままの悟の頭脳が、肉体の限界を超えた速度で魔法を選択する。
「〈骸骨壁《ウォール・オブ・スケルトン》〉ッ!」
直撃の寸前、悟と深紅の鎧を纏ったものとの間に割り込むように、無数の巨大な骨が不気味な音を立てて急速に競り上がり、深紅の槍が、その骨の壁へと容赦なく突き刺さる。
凄まじい破壊音が響き渡り、展開されたばかりの強固な骨の壁が、まるでガラス細工のように一撃で粉砕され、四散した。
だが、その僅かな数瞬。
骨の壁が稼いだ刹那の時間、粉砕される骨の破片の向こう側で、悟は必死に次の手を模索していた。
(どうする!? どうする、俺ッ!?)
〈次元封鎖《ディメンショナル・ロック》〉のせいで転移は使えない。
〈完全不可知化《パーフェクト・アンノウアブル》〉もニグレドの索敵リンクの前には意味を成していない。
かと言って、このまま戦っても、前衛に間合いを詰められた後衛の末路など、ユグドラシルの知識が残酷なまでに証明している。
──否。
本当に、打つ手は無いのか?
自身が取得している魔法の数々。自身が所有しているマジックアイテム、そして課金アイテム。
あるいは二百年の旅の果てに得た数々のマジックアイテム、それらを組み合わせれば、この場を切り抜ける確率はゼロではない。
砂煙の立ち上る中、薄っすらと深紅の鎧を纏ったモノの容姿が確認できた。
そして、その手に握られた、巨大で異様な形状の槍。
(──スポイトランス……!)
その名が脳裏をよぎった瞬間、悟の思考が加速する。
与えたダメージの数%を自らの生命力へと還元する、見た目と名前からは想像もできない効果を持つ神器級アイテム――スポイトランス。
そして、その武器を手にする者の正体にも、思い至る。
(──あれは、ペロロンチーノさんが作成したNPCの……シャルティア……!)
転移は封じられ、隠蔽も通用せず、正体を見極める間もなく先手を取られた。
しかも、相手は前衛との接近戦を避けたい悟にとって、相性が最悪とも言える存在だ。
その事実を理解したところで、状況が好転するわけではない。
(くそっ……! よりにもよって、シャルティアか……!)
目の前の、かつての仲間が遺したNPCが、本気で殺しに来ている。
相手がスポイトランスを持っているシャルティアである以上、前衛を召喚しても回復手段とされるだけだ。
(……これは、中途半端な手札で生き残れるほど甘くはないな……)
──ならば、全力を出してこの状況を打開するしかないのか。
ということは、ナザリックを本気で迎撃するということだ。
──悟は、葛藤しながら、決断した。
〈完全不可知化《パーフェクト・アンノウアブル》〉を解除する。
もはや、隠れ続ける意味など皆無であった。
位置は完全に把握されている。頼みの綱である転移による撤退すらも封じられた。
そして眼前に迫るは、記憶が確かならばナザリック最強の一角。
ならば──ここで中途半端な戦力を小出しにすることこそが、最も致命的な愚策であった。
悟は虚空へ手を伸ばす。
──本当に、これを出すのか。
二百年間、ただの一度として手放すことのなかったもの。
かつて至高の仲間たちと共に作り上げた、栄光の結晶。
アインズ・ウール・ゴウンというギルドが確かに存在したことを、何より雄弁に証明する至宝。
──それを。
他ならぬナザリックを相手に、武器として向けるというのか。
その冷酷な事実に、一瞬だけ魂の躊躇が生まれた。
目の前で槍を構えるのは、ペロロンチーノさんが魂を込めて創り上げたはずのNPC(こども)だ。
そしてこの背後には、かつて仲間たちと血と汗を流して築き上げたナザリックがある。
もし、すべてが本物であるならば。
これから己がしようとしている行為は、仲間たちが遺したものへ、仲間たちと作り上げた最強の武器を突き立てることに他ならない。
──それでも。
ここで無様に死ぬわけにはいかないのだ。
新生アインズ・ウール・ゴウンには、キーノたちがいる。
自分の帰りを待っている、新たな仲間たちがいる。
二百年前のあの日とは違う。今の悟には、絶対に帰らなければならない場所がある。
(……悪い)
誰に対する謝罪であったのか、悟自身にも分からなかった。
ペロロンチーノさんにか。
かつての仲間たちにか。
それとも、これからその手に収める杖に対してか。
──迷いを、切り捨てる。
虚空へ伸ばした骨の指先が、確かな重みを掴んだ。
次の瞬間、燦然たる黄金の杖が、我がギルドの証が、その手に収まる。
──スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。
七匹の蛇がのたうつその至高の杖を握り締め、悟は眼前の真紅の吸血鬼を真っ向から見据えた。それに呼応する様に、苦悶する人面を孕んだどす黒いオーラがゆらゆらと立ち上る。
もう、逃げるだけでは済まされない。
砂煙が徐々に晴れていくなか、深紅の鎧を纏った吸血鬼と、隠蔽を解いた骸骨の魔法詠唱者。
互いの姿が、初めて明瞭に視界へと映る。
悟はスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを構える。
しかし。
真紅の吸血鬼は、悟の予測に反して動かなかった。
突き出されようとしていたスポイトランスの穂先が、ぴたりと、不自然なほど完全に停止する。
大きく見開かれた、深紅の双眸。
先ほどまで狂犬の如き間断なき殺意を放っていた姿が、まるで世界そのものの時間を止められたかのように静止していた。
「──え?」
思考が、完全に凍結する。
ただ一つ、不可解な疑問だけが脳裏に浮かんだ。
自分は今、何をした?
シャルティアの唇が、震えている。
「──モ、モモンガ……様……?」
その呟きはあまりにも小さく、悟の耳には届かなかった。
(何…? …動きが、止まった?)
悟はスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを構えたまま、眼前の吸血鬼の動向を厳しく注視する。
なぜ止まった。
先ほどまで息をも吐かせぬ苛烈な連撃を仕掛けてきた相手が、何の前触れもなく、それこそ完全に彫像の如く動きを止めたのだ。
罠か。それとも。
(まさか──早々にアレを使ってくる気か!?)
あの悪夢のような固有能力が記憶の底から急速に浮上する。
特殊スキル──《エインヘリヤル》。
もしあの吸血鬼が、己の記憶にある存在と同じ性能を有しているならば、決して軽視していい能力ではない。
ただでさえ不利な魔法詠唱者の前に、自身と同等のステータスを持つ前衛の分身がもう一体増えるのだ。
しかも、こちらは退路を完全に封じられている。
(だとしたら、かなりまずいことになるぞ……。最初から全力で押し潰しにくる気か……!)
悟はスタッフを構えたまま、シャルティアの一挙手一投足を注視した。