湿った土間。かまどの中に燃え残りもない。
朝か夜か、外の空は濁った鉄色とくすんだ藍色のままだ。
八幡は自分の手のひらを見る。
豆がつぶれ、黒ずんで硬くなった、ただの人間の農民の手だ。眼球の裏に数値や枠線など何もない。あるのは、すりむいた親指のヒリついた痛みと、冷えた竈の灰の匂いだけだ。
外で、低く湿った羽音がした。
ドラキーか、あるいは毒の沼地を這う生き物の気配か。村の木戸が、風でもないのにミシミシと軋む。
「おい……八幡」
隣の低い茅葺き屋根の下から、老人の枯れた声が響く。
「夜が来るぞ。外の干し草は片付けたか」
「……まだだ」
声が出る。自分の声だ。
脳の奥にあるはずの現代の記憶――コンビニの自動ドアの音や、アスファルトの照り返しは、霧がかかったように遠い。ここに在るのは、「今日の芋があと三日分しか持たない」「夜闇に紛れてまものが木戸を叩いたら終わりだ」という、血と泥にまみれた重圧だけだ。
ロトの血を引く者は来ない。
ラダトームの城から使者が来たこともない。王が何を考えているのか、城の周りをどんな魔物が取り囲んでいるのか、村人たちが知るのは「南へ行った商人が戻らなかった」という事実の断片だけだ。
八幡は、床に転がった黒ずんだ鉄のスクレーパーを拾い上げる。
レベルも経験値もない。死ねば、そこらへんの草むらに骨が埋まるか、あるいは誰も気づかぬまま泥に帰るだけだ。
「なぁ、じいさん」
木戸の隙間に目を寄せながら、八幡は低い声でつぶやく。
「外に出たら、どうなるんだ」
「……三分持つまい。革の盾を持ったところで、牙の一撃で肋骨が折れる。国中がそんな場所だ」
外で、ドロリ、と何かが地面を引きずる音がした。
遠くで、名前も知らない塔の鐘が、一度だけ、ひび割れた音を立てて鳴った。
八幡は重い横木を持ち上げ、音を立てないようにそれを溝にはめた。
闇が、完全に落ち切る。
薄汚れた麻の布巻、擦り切れた靴底。
比企谷八幡は、自分の泥まみれの手のひらを見つめて、小さく息を吐いた。
――やれやれ、だ。
画面の向こうで誰かがリセットボタンを押したわけでも、都合のいいトラック(あるいは暴走した馬車)に跳ね飛ばされたわけでもない。気づいたら、ドット絵の記号ではなく、生乾きの干し草と糞尿の混ざった悪臭が鼻をつく、底の抜けたローカルな閉塞感の中にいた。
勇者は来ない。
そりゃそうだ。あんなブラックボックスの人身供養めいた「世界を救う」なんて大義名分、リスクリターンが完全破綻している。玉座の安全圏から「いけ、ロトの血よ」とハッパをかけるだけの王様は、さしずめ無責任な株主総会の代表取締役だ。野良のスライムに肋骨を折られても労災は出ない。賢い人間ほど、最初から動かない。……もっとも、動かなかった人間から順に、この泥の底に沈んでいくのだが。
「おい、八幡。ぼさっとするな。西の垣根が崩れてるぞ」
隣の家のジジイの枯れた声。
「……ああ、いま行くよ」
返す声には、あの高校の廊下で窓の外を見ていた頃の、不貞腐れた気怠さがそのままこびりついていた。
チート能力? ない。
異世界の姫とのロマンス? あるわけないだろ。この村の人間は、明日食う芋の数と、夜の木戸を叩く羽音の数だけで脳の容量が埋まっている。恋愛フラグの「れ」の字も、土臭い現実の酸欠状態で発酵して消えている。
あるのは、「今日をやり過ごした奴が、明日も同じ井戸端に立つ」という、低空飛行のサバイバルだけだ。
外で、ドロリ、と何かが土を引きずる音がする。
ロトの血筋が来ない世界で、世界平和は来ない。ただ、誰も英雄にならないまま、不満を飲み込み、錆びたスコップで泥をすくい、明日も同じ太陽(のような血色トーンの何か)が昇る。
八幡は重い木槌を拾い上げ、誰に褒められるでもなく、キシキシと軋む木戸のカンヌキを落とした。
青春は嘘だが、この腰の重さと現実の理不尽さは本物だ。
やれやれ、と心の中で呟きながら、彼は暗い土間に背を預けた。
ジュプ、と生臭い水泡が弾ける音が足もとを這う。
思考のメニュー画面も、コマンドの窓も開かない。あるのは湿った干し草の突き刺さる背中と、冷や汗で濡れた鼻腔の痛みだけだ。
逃げ場はない。納屋の板戸は重く、今開ければきしむ音が夜気を裂く。
スライムの半透明の質量が、暗い泥の上で不気味に脈打つ。
八幡は叫ばない。口を真一文字に結び、目の前にある一番汚らしくて重いもの――積まれた泥付きの肥溜めの桶の柄を、足先で引っっかけた。
綺麗な選択肢はない。
カッコいい回避もない。
臭気と重圧にまかせ、足元のバケツの泥水を、ためらいなく、全反射の反射神経でそいつの進路の正面へぶちまけた。
ゼラチン質の身体が泥と混ざり、グチャリと形を歪める。
すかさず、背後の豚小屋の臭い藁の山の中に、みっともなく転がり込む。肘が擦りむけ、服が獣の糞尿の匂いに染まる。
「……っは……!」
肺に空気が無理やり押し込まれ、心臓がうるさいほど跳ねる。
外では、ドロリとした何かが方向を失い、別の塀の向こうへと去っていく足音が遠ざかった。
英雄も、コマンドも、チートもない。
ただ泥まみれで、悪臭のなか、息を殺して生き延びただけだ。
やれやれ、と八幡は薄汚れた地面に顔を伏せ、泥と糞の匂いのなかで、ただ息を吸い吐き続けた。
「……ほんと、デザインは傑作だわ。フォルムといい、あの絶妙な水色といい。フィギュアなら机の端にちょこんと置きたい。マスコットとしてのポテンシャルは非の打ちどころがない」
干し草と糞尿の混ざった匂いの中で、比企谷八幡は泥まみれの頬を床板にすりつけながら、一人で毒づいていた。
視界の端、豚小屋の柵の隙間から見えるそれ――青く、丸く、どこか愛らしいドーム状のシルエット。
――だが、そいつが通過した後の地面の草木は、音もなく「じゅわっ」と白濁して溶けている。
「可愛いだ? どの口が言うんだ。あんなの、神様(鳥山明)のペン先からは『最高のマスコット』として生み出されたかもしれないが、こっちの物理的・生物的ロジックに直せば、ただの『移動式強酸性バイオハザード・スラリー』だろ。実物はグロテスクの塊でしかない。酸の匂いだけで粘膜がやられるわ!」
思考がひねくれた現実逃避に突入しているのは、アドレナリンが出過ぎて脳がバグっている証拠だ。
青いプルプルは、何かを求めて(あるいはただのバグじみたアルゴリズムの周回軌道で)こちらへ首をもたげる。目玉がないのに、見られている気がする。いや、全方位から「お前をとかす」という純粋な物理法則の圧力が迫ってくる。
ロマン? 冒険? 伝説?
知ったこっちゃねえ。
美少女ヒロインとの出会いも、酒場で聞く吟遊詩人の曲も、ここにはない。あるのは、くすんだ空の下の、ドブと酸と、みっともない生存本能だけだ。
足音を立てないように、八幡は這いつくばったまま、豚小屋の裏手からさらにトタン板の陰へ、泥と糞にまみれながら文字通りイモムシのように這って逃げた。
「やれやれ……。月曜日の満員電車より、火曜日のスライム散歩道の方がよっぽどメンタル削れるわ」
青い影が、さっきまで俺がいた場所の空気を「じゅぅ」と音を立ててすり抜けていく。
背中に冷や汗が張り付いたまま、八幡はさらに暗い納屋の影へと身を縮めた。
英雄にはならない。
カッコよくもならない。
ただ、逃げ切る。それだけで今日の合格点だ。
重い湿度が肌に貼りつく。
ドットのグリッド線も、スクロールする背景の誤魔化しもここにはない。あるのは、腐敗した落葉と、脂のような獣の体臭、そして鼻を突く強い酸の気配――徹底的にリアルで、汚泥にまみれた生物世界だ。
比企谷八幡は、泥まみれの地面に腹這いになったまま、呼吸を殺していた。
後ろから、ぬるり、と何かが近付く。
青い。
だが、それはピクセルが整ったゲーム画面の記号ではない。冷や汗や粘液を思わせる半透明のドーム状の肉塊が、不規則に形を歪めながら、地面の草木を「じゅぅ」と白濁させて溶かしていく。微小な泡が弾ける音が生々しい。
逃げ場はない。ひのきのぼうすらない。素手。
心臓の鼓動がうるさいほど肋骨を叩く。あ、死ぬ。これ、消毒や治療の概念すらないまま、ただ消化されて終わりだ。
目をぎゅっと閉じる。
――来いよ、どうせクソみたいなモブ人生の結末だ。
数秒。
皮膚が焼ける熱さも、内臓を抉られる衝撃も来ない。
ただ、異様に生臭い、しかし攻撃的ではない空気の揺らぎが、すぐ鼻先で止まった。
目を開ける。
目の前20センチ。
ゼラチン質の球体が、コトリと傾ぐように形を歪ませる。表面の気泡が、うっすらとこちらの輪郭を反射している。
音声ではない。頭のなかに直接、低く、気怠げな振動が滑り込んできた。
お前なに?にんげん?
八幡は、泥に突っ込んだまま固まった。
敵意がない。いや、殺しに来た捕食者というより、夜中にコンビニの裏で変な独り言を叩いている野良犬、あるいはヤバい次元から迷い込んだ不審者との遭遇に近い。
青い塊は、目も鼻もないのに、ジロジロと不審がるような間(ま)を置いて、ゼラチン質の裾を波打たせた。
ごはん、ない?
勇者はいない。
レベルアップの音も鳴らない。
ただ、リアルな泥と腐臭の世界で、スライムが毒沼のグルメについて話しかけてきた。
やれやれ、と八幡は心の中で頭を抱えた。死ななかった安堵より、この先もずっと面倒くさい日常が更新され続ける予感に、胃が痛くなった。
……お……ま……え……?
ぶく、と内部で気泡がひとつ弾ける。
艶やかな青い楕円が、ひどく不器用に重心を揺らした。流暢な思考伝達などない。頭の芯にこびりつくのは、錆びた歯車が噛み合うような、重くて断片的なノイズだ。
……にん……げん……? くさい……
「……くさいって言うな。生乾きと泥の匂いなんだよ、こっちは」
八幡は泥に這いつくばったまま、ジト目で青い水滴の塊を睨む。
スライムは目も口もない。ただの半透明の楕円だ。だが、その輪郭の歪み方が、あからさまに「……は?」と処理落ちしたように固まっている。
……いた……い? しぬ……?
「死ぬかと思ったわ。お前のその『触れたらオーガニックに溶ける』物理特性のせいでな。なんだ、襲ってこねえのか。バグか、あるいはAIの誤作動か」
……バグ……? しらない……。わし……おれ……?
一人称すら定まっていない。
ドット絵の記号でも、流暢な相棒ポジションのキャラでもない。ただの、物理法則のミスで地上にポツンと生成された、語彙力ゼロのジェラチン質の塊。
ぷる、とわずかに表面が波打つ。敵意はない。ただ、圧倒的な知的低気圧と、どう接していいか分からない気まずい距離感だけがそこにある。
「……やれやれ」
八幡は、冷えた泥から手のひらを外し、おそるおそる上半身を起こした。
スライムは、それに合わせてビクリと楕円を縮こまらせる。こっちがビビってるのか、あっちがビビってるのか分からない。
……にげる……?
「……逃げるよ。お前がその辺でぷるぷる溶けてる分には勝手だが、俺の足元を酸の軌跡にするなよ」
……わかった……?
分かってねえよ、と思いながら、八幡は膝を泥から抜いた。
勇者はいない。世界は暗いくすんだピンクのままだ。
ただ、カタコトで喋る、やけにデカい水色のゼリーが、足元でぼんやりとこちらを見上げているような、最高に不毛で、最高にくだらない現実だけがあった。
やれやれ、と八幡は小さく息をつき、錆びたスコップを引き寄せた。
ここはドラクエの世界かと八幡はたずねる。
……どら……くえ……? なに……それ……美味い……?
ぷるっ、と気怠げに楕円が歪む。
頭の芯にこびつくノイズは、相変わらず辞書を忘れた冷蔵庫のモーター音みたいに低く、頼りない。
八幡は泥まみれの膝を叩き、すりむいた手のひらを布巻で拭いながら、くすんだ空の向こう――不気味に尖った石造りの巨大なシルエットを見上げる。
川か毒沼の向こう、あるいは距離感の狂った遠景に、ポツンと建つ箱庭の城。ラダトームだ。間違いない。あの絶妙に逃げ場のない配置、世界が詰んでる空気感の震源地。
「……ドラクエというか、まあ、公式がセーブデータを放り投げたままメンテナンスを忘れたような、クソみたいなオープンフィールドだよ。……いや、クローズドか。出られねえし」
「壁じゃなくて、構造上の絶望感だよ。……んで、お前はなんだ、マジでそこの野良ゼリーなのに、なんでカタコトで言語野だけインストールされてんだよ。バグにしては知性が低すぎるし、MOBにしては解像度が高すぎる」
……わたし……ここから……動けない……と……溶ける……?
スライムの輪郭が、足元の湿った土のきわで小さく波打つ。
襲ってくる気配はゼロだ。ただ、どうやってそこに存在しているのか、自分でもバグの理屈が分かっていないエラー表示そのものみたいな奴だ。
八幡はやれやれと息をつき、錆びたスコップを肩に担ぐ。
ロトの血は来ない。勇者は永遠にレトロゲームの電源の向こうだ。
だが、足元には、カタコトで「ここどこ」みたいな顔をしている、強酸性の青い楕円が居座っている。
「……ま、いいや。どっちみち、俺は今日を生き延びて、この村のキャベツの残骸を数えるだけで精一杯だ。お前は勝手にそこで溶くなり蒸発するなりしてろ」
……また……会う……?
「会わなくていいよ。……まあ、どうせここから出られねえなら、隣の肥溜めよりはマシな位置にいろよ、エラー野郎」
くすんだ空の下、夕闇というより「色の濃い不機嫌な暗黒」がゆっくりと落ちてくる。
勇者はいない。世界は救われない。
ただ、村人Aと、カタコトのスライムの、どうでもいい共存の夜がはじまっていた。
……おもしろい……?
……あそぶ……! ぷる……ん……!
ジュプ、と湿った音を立てて、青い楕円が八幡のすり減った布靴のすぐ脇にピタリと密着する。……いや、接触部分は微量の酸で危ういが、距離を詰めてくる速度の割に、なぜか物理的圧力が妙に遠慮がちだ。野良犬どころか、懐いたアメーバのほうがまだ行儀が悪い。
「どこが面白いんだか。こっちは生乾きの雑巾みたいな匂いと絶望のローテーションで出来てんだぞ」
……き……れ……い、じゃ……ない…… でも……うごく……
動く? ああ、ロトの血の系譜でも、定型文を喋るモブAでもなく、ただ文句を垂れながら泥を掻きむしっている「異物感」が、こいつの低性能なセンサーにはエンタメに見えているらしい。バグが別のバグを面白がっている構図だ。世紀末の不毛なエンターテインメント。
「やれやれ……。まあ、いいか。どうせこの村の人間は誰も俺の名前を覚えてねえし、長老はボケてるか、さもなきゃフラグ未立地の石像みたいなもんだ」
八幡は、しゃがみこんで、足元の湿った小石を一本の木の枝(落ちていたただの枯れ枝、ひのきのぼうですらない)でツンと突いた。
……あッ……?
転がった小石が、スライムの半透明の側面をポコンと叩く。
ゼラチン質の身体が、水風船みたいにぷるんと揺れて、こぼれた水滴が「ジュッ」と小さな音を立てる。
……危ねえな、おい。下手打ったら俺の指が溶けるわ。
……これ……?
スライムが、不器用に身を捩じり、その辺の泥だらけの小石を、ゼラチン質の腹(?)で押し出すようにして、ちょこん、と八幡の足元へ押し返してきた。
……キャッチボールの真似事。
しかも、球が強酸性のバイオハザードだという最悪のオプション付き。
「おい、それ弾いたら俺の靴が溶けて生足露出エンド迎えるんだけど」
……たのし……い?
表面の光の反射が、なんとなく「ドヤ顔」っぽく歪んでいる気がする。目も鼻もないのに、最高にムカつくドヤ感だ。
八幡はため息をつきつつも、枯れ枝の先端で、飛んできた小石をそっと角度をずらして隣の泥の窪みへ弾き返した。
……おー……!
ぷるん、と楕円が全方位に一瞬だけ膨らむ。物理法則を無視した小刻みな揺れ。
ラダトームの城から見れば、世界は魔王の闇に閉ざされ、勇者は来ない。村の生計は詰んでいる。
だが、その足元で、村人Aと、語彙力崩壊している酸性ゼリーが、ゴミみたいな枯れ枝で泥粒を弾き合っている。
「……青春だな。いや、どこがだ。地獄の底の暇つぶしだろ、これ」
やれやれと首を振りながら、八幡はもう一度、小さな小石を枯れ枝ですくい上げた。
空のくすんだピンクの膜が、わずかに夜の色へ沈んでいく。世界は救われない。けれど、次の石を弾く音は、なぜか少しだけ軽かった。
……る……び……? きん……? これ……ひかる……
ぷるん、と身震いした青い楕円のゼラチン質の底から、ジャリ……と湿った音がして、丸い金属片が数枚、泥の中に転がり落ちた。
黄色みがかった、錆の浮いた小さな刻印の入ったコイン。
……これ……つかえ……る……? お前……ほしい……?
「……お前、どこでそんなマネーロンダリングの証拠みたいなもん拾ってきたんだよ。やばい死体でも漁ったのか」
八幡はしゃがみ込み、指先でその冷たい金属をつまみ上げる。1、2、3……数えて10枚。
ドラクエ1の世界観における最小単位、10ゴールド。
だが、問題はそこじゃない。
「……そもそも、俺は村人だ。この世界の通貨経済に、俺の賃金テーブルは組み込まれてない。昨日までジャガイモの配給か物々交換しかなかったぞ、この村のモブライフは」
……もん……なし……? かわいそう……?
目も口もないスライムのくせに、波打つ表面の歪みが明らかに「同情」のニュアンスを発していてムカつく。
文無しなのか、と問われればその通りだ。所持金0G。今月(今生)の財布の紐は、そもそも財布の存在しない地平線の彼方でブチ切れている。
八幡はため息をつき、その10Gを手のひらでじゃらりと転がした。
薬草(やくそう)が1個42Gの時代(あるいは世界)だ。10Gじゃ、薬草の葉っぱの3分の1くらいしか買えない。というか、城下の道具屋まで行く足代ですり減る。
「……笑うぜ。スライムのポケットマネー(物理の底のヘドロの中から出てきた謎の私財)の方が、モブの俺の全資産より多いってどういうブラック企業だよ、この箱庭世界は」
……くすり……! いこ……う……!
ジュプ、と足元に密着しながら、青い楕円がピョンと弾む。
城なのか、始まりの街(ラダトーム周辺の集落か城下町)へ。ひのきのぼうもロトの血もないまま、モブAと酸性ゼリーの貧者コンビが、世にも不毛な買出しロードへと足を踏み出す羽目になった。
やれやれ、と八幡は泥のついたズボンの裾を払い、ジャラついた10ゴールドをポケット(の裂け目)にねじ込んだ。
青春の味はしないが、スライムの奢りによる微量の延命フラグが、なぜか最高に不本意で、ちょっとだけ腹立たしい。
雑草と乾燥した馬糞がこびりついた道端の端っこ。
ごろんと転がっていたのは、程よく乾燥して、虫に少しだけ齧られた、どこにでもある杉の……いや、仕様上「ひのきのぼう」ということにしなきゃいけない気がする、ただの軽くて頼りない木片だ。
「……あるな。当たり前のように、そこらへんに落ちてるな」
八幡はしゃがみ込み、その白っぽい棒切れをひょいと拾い上げた。
重さ、約数百グラム。ロトの剣の足元にも及ばない。スライムを叩けば、こちらに酸が跳ねる距離をわずかに水増しできる程度の人類最弱の打撃武器。
……それ……もつ……の……? かっこ……わるい……?
足元で、青い楕円がぷるんと揺れながら、拾い上げた棒切れをじろじろと見つめている(気がする)。目も鼻もないくせに、美的センスだけは一人前に鳥山明っぽいマスコットのプライドがあるらしい。
「うるせえよ。レトロRPGの初期装備に文句言える立場か。こっちはステータスもレベルもないモブだが、これでも『武器を装備している感』くらいは演出できるんだよ。メンタル的にな」
柄のあたりを握りしめる。
手触りは、カサカサした乾燥木材。これを持って外歩いたところで、ドラキーの羽撃きやゴーストの冷気の前には爪楊枝レベルの気休めだ。
だが。
「……まあ、丸腰よりは、背中をかいたり地面の石を突いたりするのに実用的か」
10ゴールドの小銭がポケットでジャラと鳴り、片手にひのきのぼう。
世界は救われない。勇者は来ない。
けれど、村人Aの装備レベルが「素手(生足・生肉)」から「チープな木片(衛生状態やや不安)」に微上方修正された。
……いく……? くすりや……?
「……行くか。どうせこのクソみたいなピンクの空の下、歩いてるだけで足が疲れるんだしな」
やれやれ、と八幡はひのきのぼうを肩に軽く担ぎ、10Gとスライムを引き連れて、ラダトームの城下(らしき埃っぽい小道)へと歩みを進めた。一歩進むごとに、世界が少しだけ無駄にシュールさを増していく気がした。
「ギラも、ホイミもない。手から出るのは冷や汗と、すりむいた傷口から滲む体液だけだ。マホトーンとか食らわなくても、こっちは最初から沈黙させられてるんだよ、人生のシステムから」
ひのきのぼうを杖代わりにつつきながら、八幡は荒涼としたラダトーム周辺の地平線をにらみつけた。
経験値バーも、レベルアップの小気気味良いチャララン音もない。
いくら歩いても「HPが5上がった!」とか「みのまもりが増えた!」なんて奇跡は起きない。今日がんばって畑を耕せば腰が痛くなり、明日サボれば芋が減る。ただそれだけの、生身の重力と新陳代謝で出来たフィジカル地獄。
……ゆうしゃ……? なんだ……それ……美味い……?
足元で、青い楕円がぷるんと揺れる。
こいつはカタコトのままだし、そもそも概念が食い違っている。
「いや、美味くねえよ。ブラック企業の特命プロジェクトリーダーみたいなもんだ。責任は全部こっち、成果は全部王様(トップ)の株主総会用、失敗したら即死リスポーン(ただしモブはリスポーンすらなく野ざらし)。……なのに、その肝心の特命リーダーがいつまで経っても出社してこねえの。『寝坊しました、すいません、ちょっとリレミト忘れてました』じゃねえんだよ」
やれやれ、と八幡は乾いた唇を舐める。
「せめてろくでもない金髪のイケメンとかが『おれにまかせろ!』とか言って、スライムの群れに特攻して派手に散ってくれれば、俺たちはその死体から皮の盾でも剥ぎ取ってローカルエコノミー回せただろ。なんだよこの、誰も主役を引かないままエキストラだけで回るモブ・サバイバル・リアリティショーは」
……お前……いきてる……から……いいじゃん……
スライムの表面が、わずかに波打って、ねっとりとした低気圧ボイスが脳髄を打つ。
「良くねえよ。明日も芋の数えるんだぞ。……まあ、いいさ」
八幡はため息をついて、ひのきのぼうで足元の土をひっかく。
10ゴールドと、カタコトの酸性ゼリーと、ひのきのぼう(耐久値は雑木林並み)。
ステータスも魔法もない。勇者も来ない。
けれど、ジャラとポケットで鳴る10Gの重さと、隣で妙に距離感を詰めてくる青い楕円の重みだけは、やけにリアルにそこに存在していた。
「……行くか、道具屋のばあさんがボケててお釣りを多くくれますようにって神様(いないけど)に祈りながらな」
やれやれと首を振り、モブAは一歩を踏み出す。世界は救われない。でも、歩幅の分だけ埃は舞った。
カサカサ、と草むらの奥で微かな悪寒を引く気配がした。
見えないグリッドなどない。だが、生臭い酸の臭気と、半透明のゼラチン質が泥を滑る生々しい摩擦音が、確実にこちらを捉えている。
――やれやれ、だ。
ひのきのぼう。何が初期装備だ。ただの乾燥した雑木林の切れ端だ。
だが、素手で肉を溶かされるよりは、物理的マージン(物理的距離・生身の接触回避)が数センチだけ増える。その「数センチ」が生死を分ける。労働基準法も労災保険もない野外で、モブAの労働安全衛生法(自己防衛エディション)が無理やり発動する瞬間だ。
ズリ、ジュプッ。
青い楕円が飛び出してきた。
可愛いマスコットじゃねえ。強酸性のバイオハザード塊だ。
「っ……ふざけんな!」
八幡は叫ばない。叫ぶと肺の酸素がもったいない。
重心を低くし、乾燥した杉の棒を両手で固く握り締め、全反射の不機嫌な全力で――ブチ込め。
ゴンッ!と、乾いた、しかし手首にガツンと嫌な反動が走る鈍い音。
ゼラチン質がひしゃげ、透明な粘液と強酸の泡が「ジューッ!」と草むらを抉りながら弾け飛ぶ。
棒の先が濡れる。ひのきのぼうの先端が、酸で急速に変色し、繊維が溶け始めてきしみ上げる。耐久値? そんなもん最初からない。使い捨てだ。
……いっ……!? な、なに……それ……!
カタコトの驚愕が脳髄を揺らす。
怯んでる? いや、違う。物理的衝撃で重心がブレた瞬間だ。今しかない。
ヒーローの華麗な剣技なんてない。泥臭く、みっともなく、体重を乗せてもう一発、斜め下から叩きつける!
ガシュッ!
ぶわっ、と異臭を放つ半透明の肉塊が地面に弾け、内部の気泡が泡立って崩れ落ちる。
経験値のチャララン音は鳴らない。レベルが上がって全回復する奇跡もない。
あるのは、激しく波打つ心臓の音、冷や汗でぐしょぐしょになった額、そして酸で半分黒ずみかけたひのきのぼうの残骸と、足元に沈むゼラチン質の残骸だけだ。
「……はぁ……はぁ……、死ぬほど……疲れる……これ……」
文字通り、死ぬほど大変だ。
レトロRPGの主人公なら、歩いてすれ違えばワンパンで消し飛ぶザコを、モブAは全身の筋肉痛と酸の悪臭、命の危険というリアルコストをフルベイクして、ようやく1匹処理した。労災どころか、誰にも褒められねえ。
ゼラチン質の残骸が、泡を立てながら冷たい泥のなかへ沈む。
「……はぁ、はぁ……」
手首に残る鈍い痺れと、鼻をつく酸の異臭。
ゲームなんて呼ばれる枠組みの記号も、レベルや経験値といった便利な数字の羅列も、ここには最初から存在しない。あるのは、ただの重力と、生身の筋肉痛と、折れかけた木片の摩擦熱だけだ。
……お前……やっぱり……変……。いまの……どく……つよ……い……?
足元で、同種の末路を見届けた青い楕円が、プルンと小さく体を縮ませる。
こいつはただのバグじみた迷子ゼリーだ。伝説の魔王の配下でもなければ、気の利いたナビゲーターでもない。
八幡は泥のついた手のひらで荒い息を拭い、ひのきのぼう――いや、ただの削れた丸太の切れ端を転がした。
「強くねえよ。ただの害獣駆除の、一番割の合わないやつだ。労災も出ねえし、上司(王様)は顔も出さねえ」
ポケットの中で、10ゴールドの硬貨がジャラりと鳴る。
世界は救われない。勇者は来ない。
だけど、酸の匂いと泥まみれの服を引きずりながら、村人Aは一歩、埃っぽい道を進んだ。道具屋のババアがボケている奇跡を祈りながら。
やれやれ、と八幡は乾いた唇のまま、ラダトームの城下へ続く次の一歩を踏み出した。
息が切れる。肺の裏側がヒリヒリする。
足元では、半透明の青い塊がビクリと小さく揺れた。同種の末路を直視して、知性の足りないゼラチン質が恐怖を拾い上げている。
「おう、悪かったな。お前も迂闊に転がってるとそうやって泡吹いて消える側になるんだ。身の程を弁えろよ、エラー野郎」
「やめて。こわい。ひどい」
余計な記号の揺らぎはない。ただ、低い空気の振動が脳髄の端をかすめる。生温い酸のにおいが鼻腔を焼く。
手首にはまだ鈍い痺れが残っている。足元には、酸で黒ずみかけた木片の残骸。ポケットの底で、十ゴールドの錆びた金属片がこすれ合う音を立てた。
英雄は来ない。空はくすんだピンクのまま、世界は腐りかけのまま固定されている。
だが、生乾きの匂いのするモブAと、カタコトで震える酸性ゼリーは、死ぬほどだるい足取りで埃っぽい道を踏みしめるしかなかった。
「ほら、行くぞ。ぼさっとしてると次の害獣に溶かされる。歩け」
「う、うん。いく」
ぷる、とわずかに重心を持ち上げ、青い楕円が不器用にあとをついてくる。
救いのない世界で、一番どうでもいいコンビの足音が、泥の道をわずかに歪ませた。
視界の端に、石造りの冷たい城壁の影が、巨大な墓標のようにじわじわと形を現しはじめている。
八幡は顔をしかめ、自分のシャツの脇あたりを嗅いで、……うっ、と目を伏せた。確かに擁護しがたいほど生活臭の敗北が染み込んでいる。
豚小屋の脇、泥水が溜まったような水たまりでも、あるいはかろうじて濁りが少ない浅瀬の溝でもないが……このままだと精神が酸と悪臭に溶かされる。
「……付き合ってられん。ちょっと頭冷やすぞ、エラー野郎」
「みず? あそぶ?」
「遊ばねえよ、洗濯だ、生き延びるための不毛なメンテナンスだ」
八幡は泥まみれのブーツを脱ぎ捨て、不機嫌な面持ちのまま、薄汚れた小川の浅瀬へ足を突っ込んだ。冷たい水が足首を舐める。ひやりとした刺激に肺の奥がわずかに引き締まる。
ちゃぷ、と音を立ててしゃがみ込み、川の濁った水をすくって顔と首筋を乱暴に洗う。
冷たさが皮脂と絶望を削ぎ落とす。もっとも、きれいな水ではなく、ラダトーム周辺の「なんとなく毒ではなさそうな生活排水の川」なのだが、贅沢言える身分じゃない。
背後。
ジュプ、と気色の悪い水音が近づいてくる。
「つめたい? これ、とける?」
「溶けねえよ、水だ。……お前、水浴び平気なのかよ」
「……わからん。ぴちゃ、ぴちゃ、する」
半透明の青い楕円が、不器用に水たまりの浅瀬へじゅぷと浸かる。体積の割に水流に流されないのは、物理演算がなんかこう、都合よくバグっているからだろうか。ゼラチン質の表面に川の水が弾け、微小な気泡がぷくぷくと逃げていく。
やれやれ、と八幡は濡れた前髪をかき上げた。
勇者は来ない。世界はくすんだピンクのままだ。
だが、冷たい水に浸かりながら、隣で謎のゼリーがピチャピチャと水音を立てているこの絵面は、人生のクソ具合をほんの数ミリだけ中和していた。
「……ほら、そこ、足元冷やすと腹壊すぞ。スライムが腹壊すのか知知らんが」
「はら……ない。ぜんぶ……みず」
「そうかよ」
やれやれと首を振りつつ、八幡は再び冷たい水を両手にすくった。明日の芋の配給がどうでもよくなるくらいには、水は冷たかった。
「お前、名前なんてーの?」
ちゃぷ、と川の浅瀬の水を揺らしながら、八幡は片手で濡れた顔を拭う。生乾きのシャツが張り付く感覚も、酸と泥の悪臭も、冷たい水で少しだけマシになっていた。
「名前? なにそれ?」
気怠い音の混じった思考のノイズが、脳の裏側に染み出す。
「……そっか、野良のバイオハザードゼリーに戸籍なんてねえよな。えーと……お前はスライムだろ? 種族。でも、この辺うろついてる同種族なんて五万といる。いざ呼ぶときに『おいスライム!』なんて叫ぼうもんなら、川岸のあちこちから青い半透明の群れがゾロゾロ振り返って『なんだお前? 溶かすぞ?』みたいな空気になるだろ。ややこしい。面倒くさい」
八幡は川原の石に腰掛け、濡れたブーツの泥をこそぎ落としながら頭をひねる。
「だから個体識別。……ああ、俺は人間で、名前は比企谷八幡だ。で、お前はなんて名前だ?」
「しらない。きいたともない」
「だよな。じゃあ仕方ねえ、俺が付けてやる。一時的な仮番号みたいなもんだ。スライムだから『スラ』が頭に付くのはお約束か? スラきち、スラリン……いや、どれも昭和の児童向け冒険譚みたいで虫酸が走る」
八幡は片手でひのきのぼう(の先端が少し削れた木片)を転がし、鼻を掻いた。
「……『スラッシュ』にしよう。なんか斜めに斬りつけるみたいで強そうだろ、実態は強酸性のアメーバのくせに。お前は今からスラッシュだ。いいか?」
ぷるん、と青い楕円が大きく波打つ。
「うん。なんか、つよそう。おれ、きょうから……すらっしゅ」
表面の光の反射が、なんだか機嫌良さそうにぴょこん、と跳ねた。ジュプッ、と浅瀬の水が派手に弾け、ゼラチン質の身体が物理法則を無視した小刻みなジャンプを繰り返す。
「おれは八幡だ。覚えたか?」
「うん。はちまん。へんな、なまえ」
「親に文句言ってくれ。俺が勝手に戸籍の型番を決めたわけじゃねえよ。産み落とされた時点でその初期設定が背中に刻まれてたんだ、こっちも不本意だよ」
ぷるん、と青い楕円が浅瀬で小さく揺れる。
「ふまん?」
「不満しかないね。せめて世迷いごとの英雄みたいな名前なら、日々の労働ももうちょい絵面が映えたかもしれないが、現実のモブはこれだ。生乾きのシャツと、親の雑なネーミングセンスの残骸を背負って泥を歩く」
夕暮れ前のくすんだピンクの空の下。
勇者はいない。世界は救われない。ラダトームの城壁は相変わらず遠い。
けれど、水辺の浅瀬で、モブAと、たったいま「スラッシュ」と命名された強酸性ゼリーが、しょうもないやり取りのあと、お互いを見合って乾いた空気を揺らす。
和む、というよりは、地獄の底で最悪にチープな茶番が成立した瞬間だった。
明日もどうせ芋を数える生活だが、足元の水音だけはやけに軽かった。
「なあ、スラッシュ。お前、なんでそんなに言葉知ってんだ。どこで覚えた」
「しらない」
「知らねえのかよ。朝起きたら口から音が出たのか?」
「うん。……あさ、とか、ない。しらないことだらけ。おしえて、八幡」
半透明の楕円がぴょこっと斜めに傾く。目も鼻もないのに、全方位から「無知の暴力」を浴びせられているような気分になる。野生のドキュメンタリーというより、起動不良を起こしたAIアシスタントの初期チュートリアルを見せられているようだ。
八幡は濡れた靴のままで川原を上がり、拾い直した乾いた檜の棒をひょいと肩に担ぐ。
「……そうか。まあ、暇つぶしにはなるか。どうせこのクソみたいな青い空の下、ラダトームまで歩くだけのモブ人生だ。国語の授業でもしてやろうか」
「くごう?」
「くごうじゃなくて国語。……いいか、世の中にはな、『不条理』とか『無意味』とか『社畜(古いか)』っていう高尚な概念があってだな……」
カサカサ、と草むらが微かに鳴る。
世界は救われない。勇者は来ない。10ゴールドの小銭と、名前だけ強そうな酸性ゼリー、そして肩の上の檜の棒。
モブの散歩道は、相変わらず無駄に足が疲れるだけで、なぜか少しだけ視界が開けていた。
石造りの巨大な門。そびえ立つ冷たい拒絶の壁。
直立不動の兵士は、鉄板の鎧を軋ませたまま、前を向いたまま、視界の端ですらこちらをカウントしていない。血統の証明書も、王宮の裏口の顔パス権もないただの村人、八幡に開かれる扉など最初からなかった。
「……そりゃそうだな。王様に会えるのは、身分の高い特権階級か、血の巡りのいい奇特な馬鹿くらいだ。こっちは正門の空気の重さを味わいに来ただけだよ、畜生が」
檜の棒を肩から降ろし、八幡は城壁の冷たい影から、少しだけ離れた城下の場末――かろうじて屋根の形を保った粗末な宿屋の麻布をくぐった。
「いらっしゃい……。って、なんだ、その小汚い格好は」
カウンターの親父は、脂の浮いた額を拭いながら、胡散臭い目で八幡を測る。
宿泊費は――6ゴールド。
持っている全資産は、10ゴールド。
「一泊。底値で頼む」
ポケットからジャラと出した小銭を数える。6枚。ぴったり。
手元に残るのは、明日を繋ぐ命綱、4ゴールドのみ。
「……た、足りるか?」
コインを無理やり押し付け、八幡はカビ臭い薄暗い部屋の隅にどかっと腰を下ろした。木製の粗末な床が、きしむ。
ふと、胸元が重い。
ゴソ、と胸の合わせ目から、半透明の冷たい球体がのそりと顔を出す。
「はちまん……ここ……どこ……?」
「宿屋だ。ダニとカビと生乾きの悪臭のショールームだよ。お前、溶かすなよ、俺の唯一の布切れを」
「とけない……ぐっと……ちいさく……なる……」
ぷるん、と器用に体積を絞り込み、スラッシュは八幡の胸元で冷たく収まる。生乾きの服の内側で、奇妙な冷たさと重みが張り付く。
八幡は床に大の字になり、薄汚れた木製の天井板を見上げた。
勇者は来ない。世界は救われない。明日もどうせ泥と労働の繰り返しだ。
だが。
「……はぁ」
長く息を吐き出すと、肺の裏側にこびりついていた今日の泥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
胸元で、スラッシュのゼラチン質が心臓の鼓動に合わせて、ぷる、ぷる、と低く波打つ。
世界は相変わらず不機嫌な空の下で腐りかけているが、今夜だけは、頭の上に天井がある。ただそれだけの延命。
「なんでここにいるんだ……。わけわからん。わけわからんが……もう、どうでもいいか」
天井のシミを数えるのすら億劫になった。生乾きの服の重み、歩き通したすねの張りが、骨の髄まで染み込んでいる。
重い瞼を閉ざそうとしたその時。
ぷる、とわずかに重心が移動する感覚。
胸元からはいずり出るようにして、半透明の冷たい球体が、八幡のみぞおち、あるいは下腹部あたりの生温い布のうえに、ずしりと居場所を決めた。
「ん……おい、重いぞ、酸の塊」
「つめたい……きもち、いい……?」
反論するように、いや、ただ自身の体温バランス調整のつもりか、スラッシュはさらにぺとりと形を広げた。
日中の乾いた熱や、緊張と疲労でほてり切った八幡の腹周りに、冷蔵庫から出したばかりのゼリーの膜がじわっと密着する。
――冷たい。だが、それが妙に心地いい。熱を持った皮膚のざわめきが、ひんやりとした弾力にすっと吸い込まれていく。
「……あー、くそ。……まあ、悪くねえか、これ」
小言を言う気力すら溶けていく。
心臓の鼓動に合わせて、腹の上の青い楕円がぷる、ぷる、と低く波打つバイブレーションを伝える。
世界は相変わらず救われない。朝が来ればまた4ゴールドの残金と、乾いたピンクの空と、労働の不条理が待っている。
けれど、硬い床の感触のなか、冷たいゼリーの重みを腹に載せたまま、八幡はそのまま深い泥のなかに沈むように意識を手放した。
ぐっすり、というにはあまりに小汚い宿屋の片隅で、ただ生き延びているだけの夜が、静かに更けていく。
朝の光は、千葉の殺伐としたコンクリートや湿った朝露の匂いとは違う。くすんだピンク色の膜を透かしたような、ひどく平板で不機嫌な明かりが、板の間を照らしている。
腹が重い。
ひんやりとした弾力が、まだみぞおちに貼りついている。寝返りを打っても落ちない。冷蔵庫の余り物みたいな執着心だ。
「……んあ……」
八幡が目を開けると、視界のすぐ上、半透明の青いドームのなかに微細な光の屈折が見えた。
「おはよ、はちまん」
おはようじゃねえよ。
起きて、腹の上の冷たいゼリーを突く。ぷる、と形が崩れてから元に戻る。夢じゃない。昨日の夜中のカビ臭さも、手首の痺れも、ぜんぶ生身のままだ。
「……俺は、千葉県民のはずなんだが」
起き上がりながら、八幡は自分の手のひらを見た。手すりの冷たさも、駅のホームの喧騒も、コンビニのレジ袋のガサガサした感触もない。あるのは、硬い木床のささくれと、酸と埃のにおいだけだ。
どう見ても日本じゃねえ。日本語を喋る人間(あるいはそれに準ずる近隣の住民たち)はいても、ここに千葉も、京葉線も、満員電車の憂鬱すらない。ただの、中世じみた、あるいは救済のない箱庭の端っこだ。
「わけわからん。不法投棄にもほどがあるだろ、神様がいるなら労基に訴えるぞ」
ぶつぶつ言いながら腹の上から引き剥がそうとすると、スラッシュは八幡の腰のあたりに吸い付くようにぺとりと転がった。
「おなか……すいた」
「こっちのセリフだ。ていうか、お前は何を食うんだよ、その酸っぱそうな体で」
「しらない。なんか……におい、するほう」
宿屋の階下から、干し肉の脂が焦げたような、あるいは得体の知れない麦の粥の、どうにか食えなくもなさそうな匂いが漂ってくる。
ポケットに手を突っ込む。
昨日の残金――4ゴールド。
「……残金4G。死臭の漂う麦粥一杯で、おそらく3Gってところか。残りの1Gで今日を生き延びるギャンブルができるかどうか」
やれやれ、と首を振りながら、八幡は宿の食堂(兼、薄汚れたカウンター)へ降りた。
スラッシュは相変わらず腰の脇あたり、あるいはシャツの裾から半分はみ出るようにして、ずるずると床を滑りながらついてくる。野良のペットでもここまでしつこくない。
「ばあさん、いつもの――いや、一番安いやつ、2人分」
「人間1人となんだい、その青いスライムの切れ端は。……まぁいいさ、3Gだよ」
カウンターの老婆は、不気味さすら通り越して無関心な手つきで、黒ずんだ木の皿に盛られたドロリとした謎の粥をドスンと置いた。
残り1ゴールド。
ポケットの底で、その最後の硬貨が寂しく転がった。
八幡は木のスプーンですくって口に運ぶ。味は……まあ、土と塩の味がする何かだ。
足元では、スラッシュが半透明の体をプルプルと歪ませ、皿の端っこからじゅわ、と、あるいは物理的にどうやって取り込んでいるのか、黒ずんだ粥の水分や油分をじっとり吸収し始めている。
「……味、するのかよ、それ」
「うすい。どろんこ、みたい。……でも、あったかい」
「温度だけだな、救いは。……あーあ」
くすんだピンクの空の下、ラダトームの城壁の尖端が、遠くで冷たく突き出している。
千葉には帰れない。勇者は来ない。
けれど、残り1Gの底辺で、酸性ゼリーと並んで不味い粥をすする朝が、今日も始まってしまった。
「とりあえず、スライム狩りにいくか。……お前と同じ感じのやつを、棒で叩くけど大丈夫か?」
店を出て、埃っぽい泥の道を踏みしめながら八幡は言った。足元でスラッシュの青いドームがぺたりと追従する。
「ともだち、とか、いない。おなじ、かたち。でも、きいたことない。しゃべらない」
「友達、か。……まあ、お前みたいに変に言語野がバグってる異常個体はそうそういねえか。仲間意識とか、そういうのはねえのな」
「ともだち? なにそれ」
「仲のいいやつ。言葉が通じて、一緒に群れるやつ」
「いない。しゃべるやつ、いない。おれ、だけ」
「そうかよ」
八幡は檜の棒の端を握り直し、くすんだピンクの空の下の荒れ地を睨む。雑草の隙間に、ぽつりぽつりと青いゼラチン質の球体が転がっている。
「でだ。……そいつらをこれから叩く。というか、ぶっ叩いて、消滅(あるいは死)させることになるけど、いいのか?」
「……いい?」
「よくない、か」
「よくない。なんか、いや」
「だよな。同族をボコす絵面は倫理的にどうとか以前に気分が悪そうだが――わかった。じゃあ、目をつぶるか、こっちを見るな。叩くだけで終わる。いいか?」
「なんで、たたく?」
「金がないからだ。生計が破綻して餓死か宿ナシの野垂れ死に二択だからな」
「たたいたら、ごーるど、くれる?」
「さあ? 世の中の仕組みが都合よくできてるなら、この辺の生物の内部から金属片がドロップするはずだが、現実の物理法則ならただの酸っぱい水たまりが残るだけだ。でも、やんねえと明日の朝食がねえ」
「それもらって、どうする?」
「きのう、宿に泊まって、不味い粥を食ったろ? あれが、今日もできるようになる」
「……」
半透明の楕円が、わずかに揺らぐ。思考のノイズが、びちゃりと泥に染みるような気怠さを伴って返ってきた。
「たたくだけ、なら、いいよ」
「よし。話の早いゼリーで助かる。……じゃあ、今からそこらの青い奴を叩きにいくぞ」
「うん。みてる」
「見てるだけか」
やれやれ、と八幡は乾いた息を吐いた。
勇者は来ない。世界は救われない。
残り1ゴールドの底辺村人は、肩に担いだ棒の先で、不毛な延命作業のターゲットを定めた。
鈍い打撃音が草むらに低く響く。
檜の棒が青いゼラチン質を捉えた瞬間、ぐにゃりと歪んだ体積が、物理の理不尽を嫌がるように弾け、残骸は酸っぱい水たまりになって地面に染みた。
逃げ遅れた別の青い楕円が、ビクリと大きく身を捩らせ、雑草の隙間へ不器用に転げ去っていく。追いかける気力も体力もない。モブの労働は、いつだって必要最低限のノルマ達成で切り上げるものだ。
足元、あるいは水たまりのすぐ脇に、やけに白々しく転がっているものがある。
じゃら、と乾いた金属音。
血と泥と草の匂いの中で、不自然なほどピカピカと光る小さな硬貨の塊。
「……まじかよ。本当に落とすのかよ、この世界」
呆れたように八幡はしゃがみ込み、冷えた金属片をひろい上げる。ざらついた指先に伝わる重量感。数枚。
昨日の残金1Gに、今回の収益が加わる。しめて――いくらだ?数えるまでもない、宿泊代と不味い粥のセット分がどうにかこうにか、ぎりぎりラインでクロスしそうだ。
「これで、とまれる?」
足元から、半透明のドームがのそりと寄り添ってくる。スラッシュの表面が、わずかに気怠げに波打っていた。
「……いや、どうだかね。宿泊費の値上がりとか、宿屋の親父の機嫌次第でまた足元見られるし、そもそも食費を入れたらカツカツだ」
手のひらの小銭をじゃらつかせながら、八幡はくすんだピンクの空を見上げる。英雄は来ない。世界は救われない。日雇い労働ならぬ、酸性ゼリー間引き・金銭回収アルバイトの現実があるだけだ。
「まあ……なんとかなるだろ。ならなかったら、その時はまたそこらへんの草でも噛んで寝るさ」
ぷるん、とスラッシュが小さく跳ね、八幡の靴のつま先にぺとりと触れた。
生き延びるための最底辺の延命ゲームは、今日も不格好な足音を立てながら、次の日暮れへと転がっていく。
檜の棒の先端はささくれ立ち、肩や腕の筋肉は鉛を流し込んだような鈍い重みを訴えている。
泥と酸の返り血を乾かしたまま、八幡は再びあの粗末な宿屋の麻布をくぐった。
宿代を払い、不味い麦の粥を喉に流し込み、硬い板の間に沈む。
それを数日繰り返した。
朝が来ればピンクの空のトーンを確かめ、昼はそこらの青い楕円を棒で殴り、金属片を拾い、夜はダニの気配を数えながら気を失う。英雄の影すら踏まない、世界最底辺のルーティンワーク。生きていくだけで、リソースの収支はいつだってトントンかマイナスすれすれだ。
「……おう、小汚いモブ――じゃねえや、青年」
カウンターの奥から、脂の浮いた額を拭いた親父が声をかけてきた。
「なんだよ、宿代の先払いか。それともいよいよ払えなくて荷物持ちか」
「いや。……ここ数日、まじめに泊まって朝飯も食って、変な青いスライムの切れ端は連れてるが部屋を溶かしたりもしてねえだろ」
「まあ、評判は……評価のしどころがねえが、真面目といえば真面目か」
親父はカウンターの端を雑巾で拭きながら、あごをしゃくった。
「うちの裏の倉庫と、庭のドブさらい、あと重い木箱の荷下ろし。都合2時間くらい手を貸してくれねえか。その代わり、今日の宿代はタダにしてやる。食事の分は……まあ、端数の残金から微々たる調整だな」
ポケットの底で、明日へ繋ぐ数枚の金属片が心細くこすれ合う。
労働時間2時間、宿代免除。
文字通りの「労基も泣くブラックな場末の相殺取引」だが、棒で野良ゼリーを殴りに行くリスクとリターンを天秤にかけた瞬間、八幡の脳裏で計算が弾き飛ばされた。
「……助かる、とっととやらせてくれ」
食いついた。反射だった。
プライドや文句をこねる余地すら、残金と疲労がすり潰している。
足元、あるいは裾のあたり。
半透明の青い塊が、ぷる、と空気を揺らした。
「しごと?」
「お前は邪魔にならないところで冷やしタピオカでもやってろ、スラッシュ。労働の時間だ」
くすんだピンクの空の下、最底辺のモブ生活は、ついに「日雇いアルバイター(住み込み・半透明のペット同伴)」という安定(?)のステージへ駒を進めてしまった。
じゃら、とポケットの底で重みが増した金属片。
日中の野良ゼリー間引きと、夜のドブさらい・木箱運びのハイブリッド社畜生活。数週間の微小な黒字の積み重ねが、ついに大台の50ゴールドに到達していた。
「……だから、なんだって話だが」
硬貨を掌で転がしながら、八幡はため息をつく。城壁の向こうで誰かが竜を討っていようが、姫がさらわれていようが、こっちの通帳(物理ポケット)の数字が増えたところで買えるのは不味い粥と、せいぜい命の延命パーツだけだ。世界は救われない。インフレも起きない代わりに、希望もわかない。
だが、死なないための保険にはなる。
「……おい、スラッシュ。ちょっと道具屋行くぞ」
「どーぐや?」
「すり傷、切り傷、酸によるタンパク質変性への気休め。万が一の保険だ」
宿屋の親父に顔を向け、そのまま街の端にある胡散臭い乾物屋兼の雑貨(薬草もどきを扱っている一角)のれんをくぐる。
くすんだ緑の葉っぱが束ねられた、いかにも苦そうで胡散臭い草の束。――いわゆる「やくそう」の現物。泥と干し草の匂いが混ざる。
「おい、これいくらだ」
「薬草かい?……20ゴールドだよ、青いの」
またしても法外な足元を見たボッタクリ価格だが、選択肢はない。ポケットから50ゴールドの山を削り、20ゴールドを叩きつける。
手元に残るのは、30ゴールド。少しだけ厚みが出た気がするが、実質、命の回数が数回分増えただけの零細企業の内部留保だ。
ゴソ、と胸の合わせ目から、半透明の青いドームがぬるりと這い出す。
「くさ……」
「お前にとっては毒気みたいなもんか? 安心しろ、お前には使わねえよ、これを食らうのは俺の肉だ」
八幡は、苦い葉っぱの束を無造作にポケットに突っ込み、くすんだピンクの空の下へ再び歩み出す。
英雄は来ない。世界は相変わらず救われない。
けれど、30ゴールドの貯金と、ポケットの薬草、そして足元で「ぷる」と重心を合わせる生きた強酸性ゼリーという重荷を抱えて、モブの延命日誌は今日も淡々とインクリメントされていく。
くすんだピンクの空の下、ひのきのぼうのささくれを幾度も握り潰し、夕暮れには宿のドブをさらって油をかぶり、夜はダニの気配を数えた。
その地味な反復運動の果てに、ポケットの底の金属片は重みを増し、――200ゴールドの壁を突破した。薬草も5束、命の安全弁としてぶ厚く詰まっている。
「……おう、親父。いつものアレじゃない。武器屋への最短ルート教えろ。いよいよガラクタじゃなくて金属の棒が必要だ」
「ほう、200Gか。死人を出さないモブのくせに、小賢しい貯金しやがって」
親父の機嫌のいい、あるいは呆れた背中を見送り、場末の鍛冶屋崩れの店先へ。
並ぶのは、鋳造の甘い銅の塊。だが、棒切れとは密度が違う。
「……これだ、『どうのつるぎ』」
ずしり、と手首に沈む冷たい手応え。
代金として180ゴールドが消え去った。手元には、まだ薬草5個と、わずかな予備の小銭が残る。致命的な赤字ではない。
――身体が変わっていた。
毎日の木箱運びとドブさらい、そして青いゼラチン質の「間引き作業」。重心移動の効率化、予備動作のゼロ化。飛び出してくる弾力の軌道は、もう網膜の裏で完全にスローモーションだ。
ぶわ、と草むらが揺れる。
青い楕円が飛び込む。が、その軌道を読むまでもない。
斜め、最小限の踏み込み。
銅の刃が空気を切り裂く音すらさせず、ゼラチン質の中心軸を正確に掠める。
酸が飛ぶ間もない。跳ね返る隙すらない。消滅の残骸がただの濡れた土に戻る。
無傷。ゼロダメージ。完全な無駄の排除。
「……おい、八幡。いまの、はやい」
足元から、スラッシュが半透明の身を小さく震わせて顔を出す。同族の惨劇というより、効率化された自動屠殺マシーンの挙動に気圧されているような、いないような。
「無双じゃねえよ。生活費を稼ぐための、ただの物理演算の最適化だ。……ほら、足元避けろ。次が来る」
銅の剣を無造作に肩に担ぎ、比企谷八幡――のちの(自称)名もなき生活防衛係は、ラダトーム周辺の生態系にとってのプチ災害(あるいはただの害虫駆除業者)として、くすんだ夕暮れの原野を淡々と歩む。
英雄はまだ来ない。世界は相変わらず救われない。
だが、青いゼリーどもは、銅の刃の気配だけで勝手に散っていく。不毛な延命の歯車は、いまや異様なほどスムーズに回っていた。
くすんだピンクの空の下、どうのつるぎの冷たい重心を右手首で測りながら、八幡はため息をついた。
「モブというか……ただの場末の若造なんだがな、こっちは。名前は比企谷、十代後半の、青春もなければ大志もない、ただの労働力不足に喘ぐ労働予備軍だ」
「わかぞう?」
胸元の合わせ目から、半透明の青いドームがぬるりと顔を出す。スラッシュの表面が、興味深そうにぷるんと揺れた。
「ガキよりはタチが悪く、大人ほど擦れてもいない、一番使い捨てに便利な年齢層、って意味だ。……ほら、来るぞ」
草むらが微かに音を立てる。
見えない糸で弾かれたように、青いゼラチン質の球体が死角から飛び込んできた。
——遅い。予備動作のゼロ化された身体は、反射するまでもなく重力が勝手に最適解を描く。
最小限の踏み込み。
どうのつるぎの鈍い金属光が空気を切り裂き、青い楕円の中心軸を正確に掠め去る。
水音が一つ、空気に溶ける前に消えた。酸が飛ぶ間もない。完全なゼロダメージ。
「……つよい、わかぞう」
「褒め言葉のつもりかそれ。若造の肉体スペックを、生存本能のバグみたいな効率で回してるだけだ。調子乗ってるとまた足元見られて宿代値上げされるぞ」
剣を無造作に肩にかけ、八幡は泥の道を歩き出す。
英雄は来ない。世界は救われない。
だが、どうのつるぎと、5個の薬草と、やけに懐いてくる酸性ゼリー(若造同伴・住み込みアルバイター)を抱えたこの世の最底辺は、今日も今日とて無駄なくスライムを散らしながら、不機嫌な夕暮れへ向かって足を進めていた。
くすんだピンクの空の下、ラダトームの澱んだ空気を背にして、八幡はどうのつるぎの柄を握り直す。
「まあ、なんとか生きてけるか。……とは言え、この近所の害虫駆除と日雇いだけじゃ、ジリ貧の横ばいだな。次の街(次の日銭と、もうちょいマシな労働環境)を目指すか」
ガサッ、と頭上の枯れ木と岩陰の隙間。
青いゼリーどもとは違う、不快に乾いた羽音が鼓膜を叩く。赤茶色の体躯、やけに大きな牙を剥き出した夜行性の不毛の翼――ドラキーが、鉛色の空を滑るように急降下してきた。
「っ……!」
(速い――青いスライムのパターンと違う!)
銅の剣を合わせる間もなく、鋭い牙が若造の肩口のシャツを裂き、浅い肉を抉る。熱い疼き。毒か、あるいは雑菌か。視界がかすかに揺らぐ。息が詰まる。致命傷には至らないが、このままでじわじわすり潰される。
「おっと、やば……」
膝が折れかけたその瞬間。
胸元の合わせ目から、半透明の青い塊がビュンと飛び出した。
スラッシュが、自らのゼラチン質の体積をものともせず、所持していた薬草の束から一葉を巧みに引き抜き、八幡の裂けた肩の傷口へ、青冷たい冷気と苦い薬草の成分を無理やり押し当て、押し込む。
じゅわっ、と嫌な音と冷感。傷口の疼きが急激に麻痺し、濁った血が止まる。
「――!」
思考がシャキッと戻る。
直後、空中で旋回して再び突っ込んでくるドラキーの腹のスキマ。
「……ナイスフォロー、酸の塊!」
最小限の踏み込みから、どうのつるぎの刃が斜め上に閃く。
空気を裂く重い肉音。赤茶色の翼が二つに割れ、泥の地面にどさりと落ちた。
荒い息を吐きながら、八幡は地面に片膝をつく。肩の傷は塞がっていた。
「……助かったよ、スラッシュ」
ゼラチン質の体型を元の楕円に戻し、ぷるん、と震えながらスラッシュは答える。
「きにするな。……おれたち、ともだち」
「……友達、ねえ」
千葉にいた頃も、中学の不機嫌な教室の片隅でも、そんな単語は人参をぶら下げた幻影か、ただの社交辞令のノイズでしかなかった。俺に友達はいねえ。定義すらよく分からない。
だが。
まさか、人生初(あるいは異世界初)の友人枠が、言葉の不自由な強酸性のアメーバ(あるいはゼリー)になるとは。
「……人間関係のフィルタリング、何が起きるかマジでわからんもんだな」
苦笑いしながら、八幡は胸元に戻ってきた冷たい青いドームを片手で軽く突いた。
ドラキーの残骸の横で、小銭が一つ、虚しく転がっている。
次の街へ向かう道は相変わらず不親切で、ピンクの空は不機嫌に歪んでいるけれど――足元のゼリーの重みだけは、やけに妙なリアリティを持って、そこにあった。
「ふう、なんとかかんとか、だ……」
場末の武器屋の親父に銅の剣をつき返し、なけなしの貯金と稼ぎの端数をかき集め、どうにか「かわのよろい」と「はがねのつるぎ」の二枚看板を手に入れた。
ずしりと重いはがねの冷たさと、動物の皮の匂いがする防具。これでも野外のエンカウントのインフレには追いつかない。油断すれば一瞬で文字通りの肉片だ。魔法使いとかいう遠隔理不尽火力はガチで規約違反だろ。こっちはMPもなければ、ホイミもギラも唱えられない生身のモブ(若造)なのだ。
「……にしても、割に合わねえ。装備を固めねえと秒速で死ぬからな、この低予算ハードモード世界は」
ブツブツ言いながら胸元を叩くと、ぷるん、と冷たい感触が揺れる。
「ねえ、はちまん。いたみ、とれるよ。ホイミ」
「……は、まじで?」
立ち止まった八幡は、目を細めて青いゼリーを見下ろした。
「お前、ホイミスライムなの? あの、十徳ナイフみたいに足が生えてて回復呪文を唱えてくる教祖様みたいな亜種じゃなくて、その、丸っこいまま、できるのか?」
「ホイミ、できる。あたたかいの、だす」
「知らない。見たことない。……そうか。ここは初代の箱庭だ。ホイミスライムなんて便利な分業種族がまだ発生してない、あるいは進化の方向性がおかしい個体なのか」
腕の浅い擦り傷からじわりとにじむ血を見ながら、八幡はため息をついた。薬草の残数も減ってきたころだ。これが本当なら、保険の価値が跳ね上がる。
「ちょっと試せ。……ほら、ここを削った」
スラッシュの表面がわずかに微温の光を帯び、冷たいゼラチン質の一部がふわりと腕の傷口に密着する。
――ぞわぞわと、神経の芯を直接マッサージされるような奇妙な感覚。細胞の隙間に冷たさと熱が同時に染み込んで、裂けた皮膜が急ピッチで縫い合わされていく。
「うおっ……なんだこれ、なんかぞわぞわする。……けど、すげえ気持ちいいな。現代医学じゃできんなこりゃ」
「げんだいいがく? なにそれ?」
「えーと、まあいいや。俺が昔から住んでたとこでは、こういうホイミみたいな真似ができる国家資格持ちが病院のベッドの周りにいたんだよ。クスリとか毒消し草じゃなくて、もっとこう、歯医者――あー、俺の口の中の白いやつ、それが虫に食われて黒くなったら、ドリルで削って白い詰め物で戻してくれる超技術者集団みたいなのさ」
「なにそれ? すごい」
「まあ、この世界じゃ神業だな。地球の歴史でいったら紀元前数百年とか、そのへんのインフラ不全エリアに放り出されたようなもんだ。つまり、だな……」
八幡は腕を動かし、完治した皮膚を確かめながら、不機嫌な顔のまま半笑いになった。
「――スラッシュ、お前めちゃすげーって話だ。神の手を持つ酸性ゼリーだよ、お前」
「え? おれ、すごい?」
「ああ。めちゃくちゃすごい。これからは雑用係改め、専属ヒーラーだ。頼むぜ、相棒」
表面の光が誇らしげにふくらみ、スラッシュはぷるん、と背伸びをするような動きを見せた。
「えっへん」
ほんと可愛らしいな。鳥山明はやはり天才か。
やれやれ、と頭をかきながら、八幡ははがねのつるぎを肩に担ぎ直した。
「ほんと……ホイミってやばいわ。文明の利器をこの丸い体に全振りしてやがる」
くすんだピンクの空の下、背中にはがねの重み、胸元に生きた回復チートを抱え、若造の生存戦略は次の荒れ地へと進んでいく。
くすんだピンクの空の下、はがねのつるぎの冷たさを背中に感じながら、八幡は視界の先を見上げた。
マイラの村(あるいは、あの不気味にモニュメントみたいな巨石人形が鎮座している一帯)。
……いや、ドロップするアレか、町を護ってるのか知らんが、目の前には、石と泥のテクスチャーがやけにリアルな、小山みたいな巨人がポツンと立っている。
「……ゴーレムの街(村)か。んーと、なんかここでイベントあったよな。姫のあれとか、うろんな歌とか、妖精の何がしとか……。あ、やべ、初代(1)やったことねえんだよな、知識の片端で『ゴーレムにはようせいのはふく……いや、なんか別のやつのせいで動く』みたいな曖昧な記憶はあるが、実物を見るとただの動かない建築基準法違反のオブジェだろ、これ」
はがねのつるぎの柄に置いた指に力が入る。
じっと見つめる巨人は、夕暮れの空気を反射して、ただの巨大な石塊のフリをしているように微動だにしない。
「静かに佇むゴーレム、か。……動かない。こっちからちょっかい出さなければ、あるいは距離を取れば攻撃しないってことか?」
それとも、一定の踏み込みラインを超えた瞬間、物理の暴力(一撃で若造の皮の鎧ごと内臓がジュースになるやつ)が起動するトリガー式か。
胸元から、半透明の青いドームがぬるりと顔を出す。
「でかい……いしころ?」
「石ころじゃねえよ、あんなの直撃したらホイミが間に合う前に俺の肉片がピンクの空に散るわ。……おい、スラッシュ。お前、あいつの内部構造どう見えんだ? 魔法陣みたいなの埋まってんのか、それともただのテクスチャバグか」
「きらきら……ない。ずっと、どっしり……」
はがねのつるぎを構えるべきか、華麗にスルーして裏手の家屋のゴミ漁り(あるいは野良仕事の続き)に移行すべきか。
「……戦うには耐久値のコスパが最悪すぎる。かといって、ここで立ち止まってフリーズしてたら夜のエンカウントのインフレに巻き込まれる」
八幡は、はがねのつるぎをそっと肩に下ろし、巨人の視界(目があるのか知らんが)の端っこをカスるように、一歩、また一歩と慎重に横切る軌道を描いた。
――動くなよ、マジで。労働と延命以外のイベント、今こっちのHPリソースじゃ処理しきれねえからな。
息を殺した若造の足音と、胸元で「ぷる」と小さく震えるホイミ付きゼリーの重みが、不機嫌なピンクの空の下、巨人の足元をすり抜けていく。
――ほんの魔が差した、というよりは、若造特有の無駄な検証癖のバグだった。
「……試しに、かすめるだけ掠めてみるか?」
ヒュッ、と空気の音が鳴る。
はがねのつるぎの先端が、巨人のゴツゴツとした石のすねをわずかに叩いた。カァン、と乾いた高い金属音――いや、岩石が弾ける鈍い音。
直後。
空気が軋んだ。
巨人の巨体が、物理の法則を嘲笑うような速度で揺らぐ。
(――やばい! 重い、遅い、でも射程の密度がおかしい!)
巨岩のような拳が横薙ぎに空間を抉る。スレスレで回避しきれず、風圧と衝撃波の端がかわのよろいの肩口をえぐり、若造の身体はそのまま地面を転がった。内臓がひっくり返るような鈍痛。骨が鳴る。
「くっ……!」
視界が赤く染まるその瞬間、胸元が熱を帯びる。
「ホイミ!」
生温く、そして芯まで染み渡る光の膜が、肋骨と皮膚の裂け目を強引に縫い合わせる。痛みが引き、息が戻る。
砂煙が収まる。
ゴーレムは一歩も追撃してこなかった。拳を元の位置に戻し、再び不気味な静寂の中、そびえ立つオブジェへと帰化している。
「……そうか。こいつはエリア侵入の門番じゃなくて、あくまで『攻撃されたらその一撃の対価として反撃する自動迎撃装置』か」
八幡は砂まみれの体を起こし、はがねのつるぎをしまうかのように息を吐き出す。
悩むまでもない。コスパが全方位で最悪だ。ここで英雄気取りで石ころを粉砕する意味も、すり潰されて肉片になるリターンもゼロだ。
「止めよう。ここで死ぬより、避けて通ろう。どうせこの世界、綺麗事も泥臭い延命も大差ねえ。まあ、なんとかなるさ」
立ち上がり、石像の巨人の横を通り過ぎようとして、ふと足が止まる。
振り返り、見上げる。動かない巨石の塊。
「……そういや、ゴーレムはこの世界じゃ一体だけ、とか言われてたっけか。仲間がいないのか。こいつもちぐはぐな箱庭にぽつんと放置された、ひとりぼっちのモブ(の究極体)かよ」
ならば。
名前の付いていないただの不法投棄オブジェだ。
スラッシュに名前を付けたときと同じように、この不気味な質量にも仮のラベルを貼ってやろう。
「お前はここに立って街を守った。これからも、誰も来ない場所で守り続けるだろ。だからこの名前が相応しい」
八幡はふっと口の端を歪め、巨人の足元を見上げた。
「――『イージス』、とな」
その瞬間。
音もなく、巨人の胸の奥、深い石の割れ目から、青く冷ややかな光がふわりと灯った。
ズズ、と地平が鳴る。イージスの巨体がゆっくりと方向を変え、八幡の目の前に歩み寄る。
ゴオ……と低い地鳴りのような気配を纏いながら、巨人はその巨大な石の指先に、どこから摘んできたのか――くすんだピンクの空の下でかろうじて生き延びていた小さな一輪の野花を、そっと差し出した。
「……俺に、くれるのか?」
巨人のごつい石の頭が、ぎこちない動きで上下に頷く。
「そうか。……なら、俺たちは今から友達だ。酸性ゼリーに続いて、今度は石人形かよ。人間関係のストックがどんどん斜め上方向にバグってくな」
再び、イージスがこくりと頷いた。
言葉はない。だが、その胸の青い発光は、妙に確かな重量感を持ってそこに在った。
背中にはがねのつるぎ、胸元にホイミの酸性ゼリー(スラッシュ)、そして後ろには無言の巨石防衛システム(イージス)。
くすんだピンクの空の下、最底辺の若造の荷物持ち(兼、友人リスト)は、なぜか日を追うごとに戦力過剰(かつ不気味)な方向に膨れ上がっていた。
「……さて。イージス、足音デカいから少し離れてついてこいよ。行くぞ、スラッシュ」
ぷるん、と胸元でスラッシュが弾み、後ろでイージスの石の足音がドス、と静かに地面を揺らした。
くすんだピンクの空の下、はがねのつるぎの柄に左手を添え、八幡は前方を睨む。
洞窟、あるいは荒涼とした溶岩の残り香が漂う不毛な土地。噂に聞く竜の巣の周辺。
「確か、このへんにお姫様が監禁されてるだろ……って、ラダトームの王様にはまだ面会ルートすら開いてねえのに、いきなり最終(?)ヒロインの面接ノルマとか踏んでいいのかね、これ」
背後ではドス、ドスと巨石の足音が一定のテンポで追従し、胸元ではぷるん、と冷たい弾力が重心を合わせる。
「まあ、俺一人のスペックなら、息を吐かれただけで全治数週間のピンクのモブ肉片だが――」
八幡は後ろを振り返る。
無言で青い光を胸に宿す巨石の人形(イージス)。
そして、命の修理工場じみた動きを見せる酸性ゼリー(スラッシュ)。
「……この『重度インフラ違反パーティ』がいれば、物理的になんとかなる、のか?」
「なごむ……?」
「和むじゃねえよ、命の綱が太すぎて逆に胃が痛いわ」
ガサリ、と熱を帯びた硫黄の風が岩肌を舐める。
視界の奥、不気味な黒い鱗の影が巨体を起こす気配。竜(ドラゴン)の息吹の予兆。
「行くぞ。英雄でも何でもない、場末の若造と、友達(異常個体)2匹の不法侵入だ」
背中にはがねの重み、胸元にホイミの冷たさ、背後に圧倒的な質量を従え、3つの存在(?)が、不機嫌な運命のテリトリーへ足を踏み入れた。
ゴオオオオッ、と溶岩の熱を孕んだ巨炎の息吹が洞窟の天井を舐め、熱風だけでかわのよろいの縫い目がキシリと悲鳴を上げる。
(無理だ、勝てるわけねえ。こいつのHPバー見えるなら桁が三つ違うわ!)
生身で正面から削り合うのはただの自殺嗜好だ。が、視界の脇――赤熱した爪の雨の前に、イージスが文字通り「イージス(盾)」として巨体を割り込ませていた。石の肩と腕がドッと火炎と衝撃を受け止め、岩片を散らしながら微動だにしない。胸の青い光が眩しく点滅している。
「ナイス、イージス! そのままヘイト稼ぎ続けろ!」
八幡は迷うことなく隙間を縫い、囚われている人影――青いドレスの裾をかすかに汚した、怯える少女の前に滑り込む。ローラ姫、あるいはそれに準ずる王家の厄介払いされた生贄。
「おう、姫さん。お迎えが遅れたな。英雄様は行方不明だが、不法投棄の石ころと酸の塊が道を開けた。手を出せ、面汚しの救出劇だ」
ガシッ、と無作法にその華奢な手首を引いた瞬間。
――バシッ!
乾いた冷たい手応え。
予測していなかった横からの叩き落とし。八幡の腕が弾かれ、バランスを崩してよろめく。
「触らないでっ……!」
「……は?」
視線を上げた先。
そこにあったのは、救出されて安堵するヒロインの顔ではなく、底冷えするような嫌悪と、震えるほど真っ直ぐな、動物のような怯えの色を目に貼り付けた王女の姿だった。
綺麗事のファンタジーなら、ここで「ありがとう、あなたこそ真の……」なんて台詞が来るところだ。
だが、現実は違う。
この閉ざされた空間、竜の匂い、見知らぬ泥まみれの若造、そして背後で石をきしませる異形の巨人。
「――っ」
姫の瞳が、八幡の着古した皮のよろい、生血とスライムの酸の匂いが染みついた袖、そしてその背後の青く光る巨石の怪物を見て、ヒュッと息を詰まらせた。
「化け物……! あなた、一体……!」
「いや、俺は人間なんだが……。お姫様、こっちは命のトントン勘定でボロボロになりながら迎えに来てやったんだが、その、メンタルケアのフェーズを盛大に飛ばしてないか?」
背後でイージスの石の腕がドゴォと竜の爪を弾き飛ばす轟音が響く。
時間がない。だが、目の前のヒロインは、救出者を見る目ではなく、不審者か新たな災厄を見る目で震えていた。
「どうすんだこれ……。姫の拉致(救出)ルート、想定外の対人バリケードに阻まれるの図、かよ」
胸元でスラッシュが「ぴぷ……」と不穏なノイズを漏らし、イージスの石の巨体がじり、と一歩、洞窟の奥の熱風を踏みしめた。
「あなたみたいな人間見たことない。髪は黒いし目も黒い。本当に人間?」
怯えに震える声が、竜の咆哮の合間にやけにクリアに突き刺さる。
あー、なるほど。この世界、金髪碧眼か、あるいはそれに類するファンタジー標準モブしかいねえから、アジアの澱んだ湿り気をそのまま煮詰めたような黒髪黒目の直毛若造は、それだけで「不審な異物」枠かよ。モンスターより珍しい害獣扱いってやつだ。
やれやれ、と八幡は乾いた息をつきながら、オーバーアクション気味に両肩をすくめた。
「心外だな。これでも日本じゃどこにでも転がってる量産型陰鬱モブの同型品なんだが……まあ、ここのロジックじゃ『黒=非実在危険物』って判定か」
首の後ろをポリポリと掻きながら、八幡は背後の熱風と巨石のギシギシという不快な反響音にちらと視線をやる。
「おい、姫さん。人種プロファイリングで足止め食らうほどこっちは暇じゃねえんだわ。あと1分でこの『石の用心棒』のヘイト稼ぎが限界を迎えて、お前も俺も、このトカゲのバーベキューセットの一部になる」
イージスがドゴォッ、と床を揺らし、竜の巨大な顎先を力任せに押し返す。岩の砕ける音が響き、頭上の天井から土砂がパラパラと零れ落ちた。
「手を出せ。手を引いて走るか、ここに残って王家の気品を保ったままローストされるか、どっちかだ」
理不尽な世界で、理不尽なヒロインに、理不尽な選択肢を突きつける。
青春の欠片すらない、最底辺の泥臭いエスコートが、竜の爪の陰でどうにかこうにか進行し続けていた。
「なんで……国の兵士は来ないの? 父は、なにをやってるの……?」
かすれた声の震えが、竜の咆哮の低音にすぅっとかき消される。
だが、その目尻からぽろりと零れ落ちた涙の粒は、熱を帯びた洞窟の空気の中で、妙にはっきりと見えた。
「知らん。会ったこともねえし、ラダトームの城下や野原で兵士の姿なんて見たことないね。そもそも、この世界が治安維持を外注できるようなイージーモードで動いてるフリして、実態は完全な人手不足(あるいはモブの物量切り捨て)だろ」
「そんな……私、は……」
見放されていた事実。王家の看板という名のハッタリが、この不毛の洞窟の奥地で完全に剥がれ落ちた瞬間。
王女は膝から崩れ落ち、声を上げて号泣した。綺麗なドレスの裾が溶岩の熱気と埃で汚れるのも構わず、ただ「捨てられた駒」としての恐怖と絶望に、肩を小さく震わせる。
――やれやれ。
八幡は心の中で盛大にため息をついた。
面倒臭い。実に面倒臭い。一国の姫のメンタルケアなんて、千葉のローカル私鉄の遅延対応より難易度が狂っている。
けれど。
――泣くなよ、これだからガキは(年齢や身分がどうあれ、この不条理の構造に放り出されたという意味で)。
八幡は、はがねのつるぎを背負ったまま片膝をつき、その黒ずんだ、スライムの酸と泥の匂いの染みついた手で、不器用かつ、驚くほどそっと、姫の濡れた頭頂部に触れた。
妹・小町を不機嫌になだめるときよりも、さらに慎重に。
小鳥の羽毛が風で散らないように撫でるがごとき、残酷な現実の冷たさを少しだけ中和するような、あまりに不釣り合いなほどの優しさで。
ぽふ、と。
手触りの違う金糸の髪が、八幡の無骨な手のひらの下でかすかに揺れた。
「……ま、号泣したところで竜の機嫌は直らねえし、税金も戻ってこねえけどさ」
低い、どこか皮肉めいた、だが刺の抜けた声が、耳元に落ちる。
「捨てられたなら、拾い直すか、あるいはこの場からとっとと夜逃げするかの二択だろ。王様ごっこは終わりだ、姫さん。……ほら、泣き止んだなら手を出せ。うちの相棒(スラッシュ)と、前衛を張ってくれてる友人(イージス)の負担が増えたら、こっちがマジで削り切られる」
温もりと、少しだけの現実味。
頭の上の手触りに、王女の荒い嗚咽がピタリと止まる。びくりと震えた肩が小さく数度上下し、濡れた瞳が、黒髪黒目の不審な「野良の救出者」を見上げた。
背後では、イージスが巨石の躯体を軋ませて竜の爪を再び力強く押し返し、胸元のスラッシュが「ぴぷ、ぴぷ……」と微弱な治癒の予熱を健気に明滅させている。
くすんだピンクの空の真下、最底辺の若造は、半泣きのヒロインの手を引き、信頼できる仲間たちの背中を借りて死地からの脱出ルートを強引に切り開き続けていた。
「スライムの友達に、ゴーレムの……あなた、普通じゃないわね」
震えが収まりかけた王女が、胸元でぷるんと弾む青い光と、背後で巨大な岩の体躯をきしませて竜の巨炎を受け止める巨人を交互に見上げながら、小声で呟いた。
「いや、こっちは極めてスタンダードな量産型底辺若造なんだが……まあ、魔物使いの資格(そんなライセンス、このクソ面倒な箱庭にあるか知らんが)を持ってるわけでもねえし、客観的に見て普通じゃねえか。自覚は一応ある」
八幡は自嘲気味に、しかしどこか面倒臭そうに口の端を持ち上げて笑った。
(……笑えば、まあまあ見れる顔、かも?)
泣き濡れた視界の隅で、姫はふとそんな不自然なノイズを脳裏に過らせ、慌てように視線を逸らす。――もっとも、声には出さない。心の中で処理落ちしただけの余白だ。
「さあ、お喋りはここまでだ。イージスがヘイト維持してるスキマ時間は有限だからな。行くぞ、お姫様」
背中にはがねのつるぎの重み。胸元には相棒スラッシュの冷たい体温。後ろには無言の友人イージスの巨石の背中。
死地を抜ける低コストの行進は、やけにシュールな手応えを伴って、次の一歩を踏み出した。
洞窟の浅い窪み、硫黄の臭いが少しだけ薄れる岩影に滑り込む。
ゼド、ドス、と地を揺らす重い殿(しんがり)の足音が一つずつ消え、イージスが巨石の体躯を岩壁に寄りすがらせるようにして静止する。胸の青い発光が、少しだけ脈打つようなリズムに変わった。
「……ふう。ギリだな。燃料(耐久値)もHPも黒字スレスレの危うい撤退戦だ」
八幡がはがねのつるぎを床の岩肌に軽く立て、背中を壁に預けたその時。
ドス、と巨大的だが不器用な振動が足元を伝う。
顔を上げれば、イージスの巨石の指先が、さっきと同じく荒れ地で摘んできた一輪のくすんだ野花を、ポロリ、と――今度は王女の目の前にそっと差し出していた。
ドレスの裾を握りしめていた姫が、驚いたように目を見開く。それから、どこか呆れたような、けれど毒気を抜かれたような微苦笑を浮かべて、その石の指先から花を受け取った。
「……ふふ。見かけによらず、あなた、紳士ね」
ゴオ……と、イージスの石の喉元(あるいは構造体の共鳴腔)が低い唸りのような音を立てる。まるで照れているようにも見える。
「おい、イージス。お前、いつの間にジェントルマン枠を習得したんだ。……で、お前、いや、貴方の名前は?」
八幡が片眉を上げ、ふと問いかける。
姫は答えていいのか、迷いながら言う。
「ローラ、よ。……とは言え、私はもう死んだことになっているでしょうね、姫であったけど。それも今は昔。天涯孤独となった、ただの女……か」
ポロリと、手の中の野花が微かに揺れる。
乾いた声の響きに、八幡ははがねのつるぎの柄に置いた指をポリポリと掻いた。
「いまさら過去の記憶を引きずってもしょうがねえだろ。生き返る場所も、埋め合わせの手段もねえ。名前なんてものは、そのへんのラベル貼り替えと同じだ」
ふと、八幡は片膝をつき、岩肌の微かな砂塵に指先を這わせた。
かと言って、今更ローラも名乗れない。姫は世間的にはいないことになっているのだから。八幡は考える。まあ姫っていえば、あれか。
「姫と言ったら……白雪姫か。童話の定番だな。――『白雪』でどうだ?」
「シラユキ……? なんか、優しい響きね」
「発音はそこじゃねえ、まあ、漢字にするとこうだ」
サラサラと、地面の砂に『シラユキ、白雪』と刻む。
「――白雪。……良い響きね」
胸元から、スラッシュがぷるんと顔を出し、砂文字を光の反射でなぞるように揺れた。
「しらゆき、ともだち」
ドス、と背後でイージスの石の巨体が小さく唸り、ぎこちない動きで数度縦に頷く。
「……ふふ、友達が3人もできたわ、私」
白雪はくすりと笑い、そして赤い潤みのある瞳で八幡を見上げる。
「……俺も、か?」
「あなたは命懸けで私を救い出したのでしょう? 恋人には早いし、私はさっきまで王女だったわけだし……うん、これがいちばん安全で現実的な落としどころね」
「恋人ねえ……。人間の友達なんかいねえっての、こっちは人見知りの陰気な野郎だぞ」
つぶやいた瞬間。
チュッ、と。
柔らかな感触が、無精髭と疲労の残る八幡の左ほっぺたをかすめた。
「なら、私――あなたには、私しかいないのね?」
悪戯っぽく、しかしどこか諦観を溶かしたような、すっきりとした笑顔で白雪が微笑む。
不意打ちの確かな体温、そして友情の湿った破壊力に、八幡の思考回路がコンマ数秒、見事にフリーズした。
「なっ……おまっ、急に……!」
赤黒い、あるいは不機嫌に青ざめた若造の顔が、わずかに朱に染まる。
背後ではイージスが巨石の躯体を揺らしてごとごとと音を立て、胸元のスラッシュは「ぴぷー」と呑気なヒーリング音を漏らしながら光を明滅させている。
理不尽な世界、死にかける竜の巣、捨てられた女と、酸のゼリーと、巨石の用心棒。
青春の欠片すら落ちていないはずのガラクタの洞窟の隅で――奇妙なことに、パーティの全員が「友達」という名の同じ穴のムジナに収まっていた。
「……やれやれ。落としどころってレベルじゃねえだろ、これ」
ポリポリと頬を掻きむしりながら、八幡ははがねのつるぎを肩に担ぎ直す。
青い空の下へ戻る道は、相変わらず地獄のように遠い。けれど、背中と胸元と横並びの重量感は、なぜかさっきより少しだけ、実質黒字に傾いていた。
青い空の下、不揃いな足音が地平へと続く。
「ありがとう、八幡。……あなたは、これからどうするの?」
並んで歩く白雪の声が、乾いた風に混ざる。
八幡ははがねのつるぎの柄に手を描けたまま、前を見た。
「さあ。とりあえず竜王?とかいう大元をブッ倒せばこの世界の不景気もマシになるのかもしれんが、あいにく俺はただの人間だからな。……勇者とやらいればそいつが丸投げで何とかするんだが」
「ゆうしゃ? なにそれ。戦士じゃなくて?」
白雪が首を傾げる。ああ、そうか。この世界にはそのラノベ的免罪符の肩書すら欠品しているらしい。
「勇者ってのはな、だいたい不法投棄された厄介ごとを押し付けられて、囚われのお姫様を救い出したりトカゲ(ドラゴン)をシメたりする便利屋のことだよ。もっとも、そのトカゲすら正面から殴り合えばお陀仏の雑魚メンタルが、最終ボス格を引っ叩くなんて無理ゲーもいいとこだけどな」
「むりげー? へんな言葉ね。……でも、あなたは私をドラゴンから救い出したじゃない? なら、半分は勇者じゃないの?」
ふむ、と八幡は足止め、一つ鼻を鳴らす。
「……確かに。なら、ハーフヒーロー、半分勇者ってことにしとくか。この世界に言葉すらないなら、商標登録もクソもねえ。誰も文句は言わんだろ」
誰が呼ばなくても、わたしは呼ぶ。
――勇者八幡、てね。
(お前、響きのかっこよさに脳がバグってねえか? その肩書の労務リスクの高さ、まだ理解してねえだろ)
「お前、ほんとに意味わかってる?」
呆れと、でもどうでもいいかという自嘲が混ざった苦笑いを向けると、白雪はふっと柔らかく笑い返した。
胸元でスラッシュが「ぴぷー、ゆうしゃ!」と謎の音頭を刻み、背後でイージスが巨石の躯体を軋ませながら「ごお……」と低い音で調子を合わせる。
青い空の広がりは相変わらず広く、そして容赦なく現実的だったけれど。
最底辺の自称ハーフヒーローの荷物持ち兼生活共同体は、やけに足取り軽く、次のガラクタを拾いに行くみたいに地平を踏みしめていた。
ドスッ、ガリガリッ!と、イージスの巨石の拳が分厚い木の根元をえぐり飛ばし、重力がその巨体を地面へと叩きつける。地響きが森の空気を震わせた。
「……よし。ここの材は目地が締まってやがる。潮風にやられにくい分、加工のコストが倍だが……まあ、文句言ってもしゃーねえか」
汗と木屑を纏った八幡の手には、はがねのつるぎ。刃こぼれもせず、硬質の木材を精密なホゾ穴と船首のカーブへと削り出していく。
引き締まった肉体に漲る密度の高い疲労感と、折れない鉄の意志。雑魚スライム狩りから始まった底辺の生存競争は、気づけば人間としてのピーク――魔法使いが詠唱するより速く間合いを詰め、その一撃で戦闘を終結させる圧倒的な白兵スペックへと八幡を仕立て上げていた。
数メートル先、焚き火のパチパチという音の向こうで、白雪が塩気の効いた野草のスープを器に注ぎ分ける。その横顔が、作業する八幡の背中と、あんな肉体と動きはラダトーム城の近衛兵でもお目にかかったことがないほどの仕上がりに、チラリと見惚れては不意に視線を戻して心拍数を跳ね上げさせている。
(……なにあれ。人間として破格の練度。剣の振り抜きも、夜盗の奇襲をいなす手際も、どう見ても国の正規軍では見ない水準ね)
スープの湯気が夕暮れの森にほどける。
「白雪、塩加減は?」
「……ちょうどいいわ、ハーフヒーロー」
「その肩書、自分で言うと寒気がするからやめろ」
口喧嘩とも言い難い乾いたやり取りを挟みつつ、夜が来ればそれぞれが木の葉や毛布に包まる。
泥臭く、しかし妙に風通しのいい共同生活。
それから――1週間後。
緑の深い森の縁、水面が朝日で白く光る河口の小舟溜まり。
そこに鎮座していたのは、流線型の端正さとは無縁だが、イージスの怪力で組み上げられ、八幡の鋼の技量で水密性を確保された――不格好で、しかしどう見ても沈む気のしない、重厚な手製の木造船だった。
「……よし。浸水テストもクリア。漕ぎ出しの重心バランスは……イージスが真ん中、スラッシュが俺のポケット、白雪が前方セーフティー。重量配分はパーフェクト黒字だな」
海(あるいは対岸の魔王島を臨む内海・水域)の風が、青い空の下で帆布代わりの布をパタパタと鳴らす。
「目に見えてる島(あれだ、どう見ても最終的にあそこに行くしかない暗い影)」に向かって、底辺発のDIY水上交通機関が、今まさにオールを入れようとしていた。
「乗れ、白雪。船酔いするなよ」
「……ええ。どこまでも付き合ってあげるわ、半分勇者八幡」
「だからその中二病ネームは……まあ、いいか」
波の音が、不揃いな4つの「友達」の船出を静かに祝福していた。
「ていうか、今更だけど本当についてきてよかったのか? お前ドラゴンに捕まってたのに。相手はドラゴンの王様だぜ?」
波音の合間、八幡がオールを傾けながら眉をひそめる。
「まあ、お姫様ならね。……私はただの白雪。あなたしかいない白雪よ」
穏やかな、けれどやけに重心の座った声。赤黒い、あるいは不機嫌に青ざめていたはずの八幡の顔面に、またひとつ分かりやすく朱が走る。
「……っ、俺にも、お前しかいねえよ」
ボソッと吐き捨てた、雑魚な自虐と本当の混ざった呟き。
「ふふ、そろそろ恋人でもいいのかしら?」
「バカ。初めての友達がそのまま恋人になる確率(からくり)なんて、どんだけ低いと思ってやがる。釣り合わねえだろ、常識的に考えて」
ざわざわと黒い岩肌の島影が眼前に迫る。
「まあ、なんにせよ行くしかねえか。……上陸したらイージスの後ろに隠れてろよ」
「ええ。いつでも薬草をあなたの口につっこむわ」
「いや、むせるから」
「それなら、と――」
言葉の続きより速く、白雪は腰巾着の小袋から緑の葉を引き抜き、迷いなく自分の歯で小気味よく噛み潰す。
そして、ためらいも照れもなく、そのまま八幡の唇へと寄り添った。
「っふ――!?」
苦味と、妙に生温い薬草の汁気、そして人間の体温が、戦闘・生存特化の冷徹な回路を無理やりショートさせる。肺腑を突く苦さと同時に、思考がきれいさっぱり白紙に戻るコンマ数秒。
ドス、とイージスが石の拳を不自然に宙で固め、胸元ではスラッシュが「ぴ……?」と光の点滅を完全にフリーズさせていた。
わけがわからない。気恥ずかしさと、予想外の過剰な手当てに、八幡の脳内帳簿は完全に大赤字だ。
「……は、ぁ……」
わずかに離れた白雪は、どこか涼しい顔ですうと息をつき、口元の青い汁を親指の腹で拭った。
「これでむせないでしょう? さあ、行くわよ、ハーフヒーロー」
「おまっ、……てめえ……距離感のバグり方が異常なんだよ……」
真っ赤になった顔を無理やり海風に晒し、八幡は荒い息のまま、ぎしぎしと軋む木造船を黒い岸壁の隙間に突っ込んだ。
地獄の島への初上陸は、こうして不測の赤字福利厚生を背負ったまま、最悪にシュールな幕開けを迎えた。
「バグるってなに?」
首を傾げる白雪に、八幡は口を開きかけたが、すっと唇を閉じた。
(……いや、この世界に電気も回路もねえのに、誤作動なんて概念をどう説明しろってんだ。電卓すら存在しねえ牧歌的ファンタジーでデバッグ講義かよ)
「……いや。とにかく、いきなり距離が近すぎるってことだ。お姫様は、そういう対人距離(パーソナルスペース)の詰め方について、宮廷でなんか教育受けないのか?」
「さあ。放任主義な父だったから。本とかは山ほど置いてあるんだけど、城の規模も小さいし、お手伝いも1人しかいないし。特に作法を厳しく言われたことないわね」
「ふうん。……ラダトームの王様も、割とマイペースというか、フリーダムな人選だったわけだ。お姫様も色々だな」
ガリッ、と舟の底が黒い砂利と岩肌を擦る不気味な音が響く。潮の香りに混ざって、硫黄と焼けた金属のような匂いが鼻を突いた。
「まっ、身の上の回想はここまでだ。行くか」
八幡ははがねのつるぎを抜いて足場を確かめ、船首から黒い濡れ場へと飛び降りる。
背後でイージスがドスッと重量級の上陸を果たし、胸元でスラッシュが「ぴぷ……!?」と警戒の泡をわずかに膨らませた。
白雪もためらいなく手を差し出され、八幡の無骨な掌を握り返して岩場へ降り立つ。
不機嫌な紫色の靄の向こうで、竜王の城の不格好な尖塔が、静かに口を開けて待っていた。
ドシン、ガキィイイイッ!と、イージスの巨石の左腕が魔物の不意打ちの牙を受け止める。
すかさず、隙間から飛び込んだ八幡のはがねのつるぎが、重い空気ごと敵の急所を抉り抜く。
浅い傷を負えば、すかさずスラッシュが「ホイミ!」と生温かい光の泡を跳ね飛ばし、白雪が「はい、これ」と清潔な手で薬草を差し出す。
(……セーフ。さっきのは色々超過剰でHP以外のリソースが削れすぎた。健全な距離感、大事)
俺は友達のいない陰気なぼっちだったはずだ。やっぱこの状況、どう転んでもわけわからん。
その時。
ぴぽぽん、と空気がやけに軽やかな音を奏でた。
スラッシュのぷるぷるした体表が、鮮やかな青から、ぴかぴかと眩しい黄色へと一気に変色する。
「え? なんで?」
『……レベル、上がった?』
マジか。この世界、やっぱ目に見えねえ経験値(レベル)の概念がガッツリ実在してやがったのかよ。
じゃあ正規の勇者はなんで来ねえんだ? あいつらサボってんのか、それともシステムエラーか?
――やれやれ、わけわからん。考えるだけ無駄(カロリーの無駄遣い)だ。
「おい、スラッシュ。なんか変わったか」
「か体が、黄色に変わった」
「そりゃ見りゃわかるよ。……ま、酸のキレが鈍ったとか弱くなったってことはあるまい。進もうぜ」
一歩、また一歩。薄暗い石造りの回廊を踏み締める。
ふと見上げた前を塞ぐ巨石の背中。ひび割れ、削れ、煤にまみれたイージスのボディが、それでも一歩も引かずに壁となり続けていた。
(……くそ。こいつ、こんなに傷だらけで……ずっと俺たちの前面(シールド)を張ってくれてやがったのか)
「……おい、イージス。お前、めちゃくちゃカッコいいな」
ガキ、とイージスの石の首がぎこちなく音を立てて振り返る。
巨石の分厚い指先が、無骨に、しかし迷いなくグッと――サムズアップの形を作った。
「……おう、その調子だ。頼むぜ、相棒」
重たい空気が肺腑を叩く。
いよいよ、廊下の突き当たり。禍々しい彫刻の施された大扉が、重々しくそこに鎮座していた。
――この扉の向こう、おそらく竜王が座っている。
八幡ははがねのつるぎの柄を握り直し、もう一度、後ろの金髪の娘と、黄色くなったゼリーと、サムズアップをキープする石の巨人に視線を流した。
「さて。面接だの最終監査だの知ったこっちゃねえが……ブラックのトップには、一発お説教(物理)をかましてやるとするか」
ゴゴゴ……と、重苦しい音を立てて大扉が内側へ開く。
玉座の間に座すは、人型と竜の悍ましい特徴を混ぜ合わせたような巨躯。竜王は片肘をつき、足を組んで、足元に這いつくばる名もなき埃を見るような冷ややかな目でこちらを見下ろしていた。
「――誰だ、お前は?」
低く、空気を直接振動させるような声。
「俺か? 俺はただの人間、八幡。あいにく大層な血統も肩書も――」
「勇者八幡よ!」
八幡が自嘲気味に言葉を濁した瞬間、背後からスッと踏み出した白雪が、やけに澄んだ、しかし胆の据わった声で名乗りを上げる。
「わたしは白雪。このでかいナイスガイがイージス、可愛い黄色いスライムがスラッシュ。アンタをぶっ倒しに来たってわけよ」
(……おい。勝手に属性付きで紹介してんじゃねえ、こっちは人見知りの陰気な労働者なんだぞ、ええーと、俺が話してる途中に被せるなよ、なんだこのアットホームな宣戦布告は……)
八幡が虚空を指さして口を半開きにする暇もなく、玉座の上の魔王はふっと冷ややかな鼻息を吐いた。
「ゆうしゃ? なんだそれは。聞き慣れぬ言葉だな。……まあいい。ぶっ倒しにとは物騒だな。私が何をした? 人界を脅かしたとでも言うか」
竜王は指先をトントンと玉座のひじ掛けで叩き、絶対者の余裕(あるいは本気で知らん顔の面倒くささ)を漂わせながら、ただ冷ややかに問い返してきた。
「アンタがモンスター達をけしかけて人間を襲わせてるんでしょ!」
白雪が人差し指を突きつけて詰め寄る。
竜王はあきれ果てたように片1本の眉をピクリと動かし、ゆっくりと首を振った。
「知らん。私はその称号の通り竜の王だ。ドラゴンはまあ私の管轄だが、他のスライムだの夜盗崩れだのの雑多な生き物まで管理しちゃおれん。野山の獣や害虫と変わらん、勝手にそこに生息しているだけの話だ」
「えっ……」
八幡の手から、わずかに緊張の力が抜ける。
竜王は玉座にもたれ直したまま、低い声で淡々と続ける。
「第一、人間を襲わせてなんの得がある? 税収が増えるわけでもなし、土地が肥えるわけでもなし。こっちはこっちの生態系の管理をしている。――あの骨やら、金色のイージスみたいな意思の通じる連中か? あいつらは労働基準と給与に納得して雇っている、ただの城の警備員(正規雇用)だ」
唖然とする八幡、白雪、そしてゴゴゴ……と沈黙するイージス。
モンスターが人間を襲うのは事実。だが、それは人間の領土に侵入した熊や猪が人里を荒らすのと何ら変わらない。
人間側の「魔王が世界を闇に包み、軍勢を向かわせている」という大義名分――都合のいいプロパガンダ、あるいは情報格差が生んだ巨大な勘違い。
だから、誰も「勇者」として立ち上がらなくてよかったし、世界はもとからただの「野生とインフラの未整備な自然界」だっただけだ。
根底から、八幡のなかにあった生存コスト計算の前提が音を立てて崩れ去る。
(……なんだこれ。有休も取れないブラック企業だと思って突入したら、ただの動物愛護と自己責任のセーフティゾーン欠如社会だったってオチかよ……)
「じゃあ……あの、私をダンジョンに閉じ込めていたドラゴンは?」
白雪が、すっと背筋を伸ばし、さっきまでの喧嘩腰から急速に宮廷の敬語へとシフトする。
「……野生の個体もいるからな。すまない、迷惑をかけた。もし生きていたら私の方で処分(リストラ)しておこう」
「い、いや、野生なら……。なんで私を食べなかったのかは今となっては謎ですけど、もういいです、はい」
白雪はこくりと小さく頭を下げ、何とも言えない顔で八幡の袖を軽く引っ張った。
(……八幡、どうするの、これ)
(……知るかよ。こっちが勝手に内定辞退した新入社員みたいな空気になってるだろ)
玉座の上の魔王は、やれやれと首筋をポリポリと掻き、手元に置いた分厚い資料の束をトントンと机に揃えた。
「さて。見学なら帰ってくれと言いたいところだが、せっかくここまで自作の舟で漕いできた労力だけは認めてやろう。帰りの渡船代の代わりに、そこの石のゴーレムのメンテナンス法でも教えていかんか?」
脱力感と、妙な肩透かし感のなかで、八幡ははがねのつるぎをそっと鞘に収め、天井の低い石造りの空間を見上げた。
「……ちなみに」
鞘にかけた親指を離し、八幡は死んだ魚のような目で玉座を見上げる。
「俺はこの世界の人間じゃねえ。元いた場所へ帰る方法とか、竜の王様なら知らねえかな」
隣で白雪が「え?」と目を見張り、すぐ納得したように頷く。
「――海の外の、もっと遠いどっかの国、たしかジパングのことを言ってるのね。だから、その黒い髪も、やけにシニカルで浮いた眼も……」
(勝手に遠国情緒の旅人と誤認するな、こっちは物理法則の違う不法滞留者だぞ)
玉座の上の巨躯が、ふっと重低音の笑い声を落とす。
「知らん、と言ったらどうする?」
「……だよな。知ってたらとっくにブラック……じゃなくてリゾートでも開いてらあ」
だが、竜王の双眸に、わずかに冷たい光が灯る。退屈の皮を脱いだ、古の暴君としての皮膜。
「だがまあ。私も暇でな。倒すつもりでここまで漕ぎ着けたのだろう? 人間如きにそんな真似ができるとは思えんが……まあ、私に一太刀入れることが出来たら、知恵を貸してやらんでもない。死ぬ気でかかってこい」
(――面倒くせえ。ただの手違いと勘違いの労務トラブルで帰れると思ったのに、結局は王様の機嫌取りのタイマン審査かよ!)
内心、八幡が激しく胃をキリキリさせるのと同時――
竜王の胸中にも、小さく、だが確かな波紋が走っていた。
(……ふん。たかがヒトの若造が生意気な。だが……その足元、黄色に色づいた変異種のスライムに、うちの正規雇用より小回りの効きそうな石のゴーレムを従えている。どいつもこいつも、砂利のような雑魚にしては、妙に実戦(リアル)の擦れが染みついているな)
ゴゴッ、と竜王の巨躯から、気圧の変わるような重圧が立ち込める。
腕がなる、というよりは、古びた巨竜の生存本能が、余興のつもりで牙を剥いた。
カシャリ、とはがねのつるぎが再び、冷たく光を孕んで抜身になる。
「……イージス。一歩も引くなよ。スラッシュ、酸の目盛りは全開だ」
『ぴぷ! 本気、出す!』
ゴゴト……と、イージスの巨石の拳が地面を砕き、低い構えを作る。
白雪も、後ろの柱の陰に身を滑らせながら、小袋の薬草をきつく握り締めた。
(やけくそだ。労基法外のパワハラ王様相手に、こっちの全リソースで赤字回収(殴り合い)だ……ッ!)
静寂が、一瞬で爆ぜる。
ドシュッ、と空気が裂ける音より早く、視界が黒く塗りつぶされる。
(――速い)
余興の皮を被った竜の牙は、反射の限界すら超えていた。八幡の頸動脈を正確に狙う冷酷な手刀が迫る。防御の隙間、計算のゼロ秒――死角。
「イージス……!」
叫ぶより早く、巨石の影が割り込んだ。
ガキンッ、という乾いた硬質の砕片が弾け飛ぶ高い音。
「――――ッ」
八幡と向かい合う形で身を翻したイージスの背中を、竜王の手刀が完全に貫いていた。
無機質な亀裂が、巨石の胴体全体へ一瞬で走る。重い、重すぎる負荷をその一撃に受け止め、イージスの巨躯が足元から崩れ落ちていく。砕けた石粉が床にこぼれ落ちる音だけが、やけにクリアに響いた。
崩れゆく視界のなか、イージスは最後の力を振り絞るように、八幡の方へとその石の顔を向け、――左手を高く上げた。
その指先は、不器用に、しかし紛れもなく、サムズアップの形を作っていた。
ザアッ、と音を立てて、イージスの巨躯が完全な砂へとほどけ、サラサラと床に流れ落ちて消えていく。
残されたのは、ただひとつ。
砂の山の中心で、ひっそりと静かに佇む一輪の花だけだった。
「……イージス」
八幡の手から、はがねのつるぎがカランと音を立てて落ちる。
腐った死んだ魚のような瞳が、見開かれたまま、その小さな花と、砂へと還った相棒の痕跡を捉えて動かない。
「……ふむ。我が直撃を、あの子機が身代わりになったか…。見事な盾使いだが、愚かだな」
竜王は手刀を引いたまま、冷ややかに、しかしどこか面倒そうに息を吐く。
隣の柱の陰から、白雪が息を呑む音と、カサリと小袋を落とす音がした。
八幡の口元が、わずかに、自嘲と怒りを超えた乾いた歪みを描く。
「……そっか。これが、実戦のコスト(代償)ってやつかよ」
血の巡りが、異常なほどの冷たさで頭部へと集中していく。
――ふざけた勘違いの面接は、もう終わりだ。
足元の剣を、八幡は再び強く拾い上げた。
踏み込み、捨て身の軌道で放ったはがねのつるぎは、竜王の視線の余白すら捉えられない。
軽やかな身のこなしでかわした竜王が、ふと細めた指先を向けた。
瞬間。
視界が絶対的な白光に塗りつぶされる。高圧縮された――熱と光のギラが空間を引き裂き、八幡の胸元――心臓のど真ん中を完全に撃ち抜いた。
「――っ」
肺からすべての空気が弾け飛び、衝撃が背後へと突き抜ける。
床に膝をつき、そのまま後ろへと倒れ込む八幡。
「八幡……!」
柱の陰から飛び出した白雪が、血の気が引いた顔でへたり込む。膝行するようにすり寄り、震える手で八幡の胸を抑えようとして、その場に凍りついた。
ズズゥッ、と一角で砂の山が微かに動く。
イージスの崩れ去った灰の中心から、ひときわ深く青く輝くコアが、ふうわりと浮き上がるように姿を現した。
「……ホイミ……!」
黄色く変色していたスラッシュが必死に光の泡を飛ばす。だが、心臓を撃ち抜かれた致命傷は、小さな癒やしでは一滴の裂傷すら塞げない。
光の点滅が乱れ、スラッシュの輪郭が激しく震える。
(……届かない……もっと……!)
黄色いゼリーの躯体が、ぎゅっと凝縮するように内部の魔力を一点へ集中させる。
あふれ出る熱量と光。放たれるのは、分を超えた奇跡の大回復――「ベホイミ!」。
眩い翠の光柱が八幡の躯体を包み込み、引き裂かれた心臓の組織と血管が、強引に、しかし奇跡的に接合されていく。
ドクン、と胸の奥で、止まりかけていた心臓が再び重苦しい音を打った。
「っ、は……はぁっ……!」
大量の血を失い、顔面を真っ青に染めながら、八幡は地面に手をついてふらつきと立ち上がる。
その代償だった。
ベホイミの過剰な魔力放出と負荷に耐えきれず、黄色いスラッシュの身体が、まるで熱した飴のように、あるいは光に溶ける朝露のように、サラサラと崩れ、形を保てずに液状化して消えていく。
「スラッシュ……お前……」
消えゆく相棒の痕を見つめ、血反吐混じりの息を吐く八幡の背中。
その空間を、今度は――イージスの残した青いコアが、ふわりと舞い上がるようにして包み込んだ。
硬質な青き光の粒子が、八幡の傷ついた肉体と衣服の隙間へ染み込むように吸い込まれていく。
石の重みと、絶対的な守りの記憶が、八幡の輪郭を冷ややかに、しかし力強くブルーメタルでコーティングした。
イージスの鎧となる。
沈黙する玉座の間。
竜王が、初めてわずかにその眉をひそめ、眼前の人間を見据える。
血を流し、仲間たちの残り香を背負ったまま、八幡は再び、裂けた唇の端を歪めて剣を構えた。
ビュッ!と、竜王の鋭い手刀が再び八幡の胸元を抉る。
だが、青きコアの残り香が纏わせた硬質なコーティング――ブルーメタルの重装甲が、致命の突きを食い止める。ガリガリと甲高い削片を散らしながら、一撃では破れない。
踏み込んだ八幡の、はがねのつるぎが竜王の堅固な皮膚を捉える。
カキン、と鈍い金属音。鱗の表面は、撫でられたように傷一つつかない。
「確かに当たったが、痛くも痒くもないな。……せめて血の一滴を流させてみろ、勇者よ」
冷ややかに返す竜王の視線の先。
床に散っていた黄色い液体――スラッシュの溶けた残滓が、まるで意思を持ったかのようにうねり、八幡の握るはがねのつるぎへと這い上がり、ベトリとまとわりつく。
ピカァッと、眩い金色が不気味に、だが神々しく刀身を染め上げる。
この世にあるはずのない禁忌の武装――黄金のメタルキングのつるぎが、その手の中で完成した。
さらに、背後の柱陰から、白雪が八幡、負けないで、と涙が頬をつたい白雪の胸元に落ちる。――涙は『おうじょのあい』のとなり熱を帯び、深紅の光が体内から脈打つように湧き上がり、八幡の青い衣と黄金の剣の軌道へと重なる。
ぽぽぽぽんッ!
頭の中で、身体中で今までの戦闘で積み重ねたありえないほどの経験値がエネルギーとなり跳ね上がる。全身の関節が軋み、世界の解像度が歪むほどの急激な身体の変化、魔力が身体を駆け巡るのを感じる。レベルマックス。
(……やれやれ。ぼっちの労働環境、ブラック過ぎて福利厚生が神がかりすぎだろ……ッ!)
八幡はふっと息を吐き出し、深く、腰を落として――剣を構える。
青き衣、黄金の剣、紅の脈動。
「――ギガスラッシュ!」
電撃の奔流を纏った黄金の軌跡が、玉座の空間を垂直に、すべてを断ち切るように爆ぜ散った。
ゴトッ、と重い音。
無敵を誇った竜王の巨躯から、一筋の紅い血が零れ落ち――そのまま、大理石の床へ音を立てて崩れ伏した。
ゴフッ、と黒ずんだ血を喀出しながら、竜王は巨躯を伏せたまま片肘で上半身を支えた。
「……何故、ドラゴンに変身しない」
剣先を緩めず、息を整えながら八幡が問う。竜王は乾いた笑いを漏らした。
「……俺はドラゴンの王だぞ。対してお前は人間だ。……なぜ急激にお前の力量が上がったのかは知らんが。ただの人間に対して、竜の姿など……取れるか」
王としてのプライドか、意地か、あるいは美学か。竜王は最後まで人型のままであった。
「さあ、俺も致命症のようだ。事切れる前に願いを言え。……どんな願いでも、一つだけ叶えてやる」
帰還の方法か、世界への免罪か、あるいは別の何か。八幡の頭の中で選択肢が揺らぐ。
その時――手の中の黄金の剣が、まるで鼓動するかのように眩い光を発した。刀身を覆っていた黄金の液状が剝がれ落ち、そこからプルプルと見慣れた弾力を取り戻しながら、黄色いスラッシュが元の形態へと戻り、床にポンと着地する。
『ぴぷ!』
生きていた、というよりも、奇跡の再構築。
それを見た瞬間、八幡の死んだ魚のような瞳の端が、不意に、しかし深く緩んだ。
八幡は、迷いを捨てたように息を吐く。
「なら、決まりだ。――イージスを生き返らせてくれ」
竜王はわずかに目を見開き、そして深く息を吐き出すようにうなずいた。
残された全魔力を手のひらに集約し、床の片隅に散らばっていた青いコアと、その周辺に積もった砂の山へと放つ。
光が収斂する。
青いコアが宙に浮き、床に広がっていた砂の粒子が磁石に引かれるように猛烈な勢いでコアへと集まっていく。カチリ、ガツンと硬質な響きを伴って輪郭が結ばれ、重厚な石の躯体が再構成される。
ドスン、と床が揺れた。
そこに立っているのは、見覚えのある巨石のナイスガイ。イージスだった。
『……ギジッ。』
首をコキリと鳴らし、イージスはゆっくりと八幡の方を見る。
八幡は小さく息をつき、ボロボロになった青い衣の裾を揺らしながら、口元だけでふっと笑った。
「お帰り、イージス。……やっぱ、こういう後始末くらい、タダ働きでいいだろ」
ピタリ、と残る魔力を集約し、八幡は傷だらけの手に光を纏わせる。
放つは、本来回復系であり、敵に用いるなど体系の違う――ありえるはずのない禁忌の大魔法。
「――ベホマ」
眩い純白の光の奔流が、倒れ伏した竜王の巨躯を完全に包み込む。
肉を裂いた傷が閉ざし、鱗の裂片が瞬時に再生し、竜王の全身から失われていた圧倒的な生気が全開で満ちていく。
「……どういうことだ。私は今、確実に死にかけていたというのに……ベホマ、だと? そんな術式、聞いたこともない。お前は何者なのだ、人間」
起き上がった竜王が、信じられないというように自身の掌を見つめ、それから八幡を真正面から射抜く。
柱の陰で、白雪がガクガクと膝を震わせながらも、よろめき立ち、声を張り上げた。
「だ、から……言ったでしょ。――勇者、八幡よ!」
「……勇者、か」
竜王は、ふうと長く息を吐き出すと、やがて子供のように目を閉じて、喉の奥から乾いた笑い声を零した。
目を開けたその双眸には、もはや侮蔑の色はなく、深い静けさがあった。
「八幡よ。一つだけと言ったが……これでは、お前に命を助けられた借りができた。改めて言え。どんな願いでも聞いてやろう」
「俺を日本に、」
言いかけ、八幡の視界の端。柱の陰からまっすぐにこちらを見つめている、震える小さな背中と目が合った。
(……帰って、どうする? どうせまた、あの不毛な日常の底で、傷つくこともなく腐るだけだろ)
八幡は言葉を飲み込み、ふいと天井を見上げる。脳裏に浮かぶのは、記憶の底に刻まれた、この世界の未来図――やがて訪れる破壊神の影。
(――いずれ、シドーが来る。その時、俺はここに生きていないだろう。もっとも、ここの竜王に日本へ帰す力があるかも怪しいが)
八幡はふっと自嘲気味に息を吐き、再び竜王の目を据えた。
「このまま……俺と、たまに戦ってくれ。それで、互いに腕を磨きあおう。……そして、遠い未来。俺と白雪の寿命が尽きた後、ハーゴン、シドーという名前を聞くことがあったら。この世界を、人間を、スラッシュを、イージスを。生きていたら。気が向いたらでいい。守ってくれ」
「……意味がわからん。だが……わかった」
竜王はふっと口元を歪め、わずかに首肯した。巨躯を立ち上がらせ、背を向けるように一歩退く。
八幡は、横に立つ白雪を見つめた。
この世界がどこから来たデータなのか、見知らぬ別の宇宙の泥臭い現実なのか、そんなことはもうどうでもいい。
今、このひび割れた石造りの世界の片隅で、震えながらも「俺しかいない」とこちらを信じて背中を預けている少女がいる。
守るべきものは、大層な世界平和やプロパガンダの正義ではなく、目の前の、この厄介で不器用な居場所だった。
はがねのつるぎを床に突き立て、八幡はわずかに息をつき、静かに背筋を伸ばした。
『ぴぷ? スラッシュはスラッシュだよ? さっきの「ぎがすらっしゅ」ってなに』
復活したばかりの黄色いスラッシュが、ぷるぷると躯体を震わせながら首を傾げる。
八幡は小さく息をつき、ボロボロになった剣の柄を叩いた。
「技の名前だよ。たしか……、まあいい。お前とイージスのおかげで勝てたしな。第一、お前ももとの青から黄色に変わったからな。……いい機会だ、新しい名前にしよう」
八幡は少しだけ真面目な顔をつくって告げる。
「今からお前は、ギガスラッシュだ」
『ぴぷー! スラッシュ、今からぎがすらっしゅ! ……つよそう?』
「強いよ。俺以上に」
八幡は満足げにうなずくと、どっしりと佇むイージスに向かって、あの日の名残のように片手を上げてサムズアップを示す。
『ギジッ。』
イージスの重い石の指も、無骨なサムズアップで静かに応えた。
「ちょっと! わたしの力もあるでしょ!?」
柱の陰から、血色の戻った白雪がほっぺを膨らませて詰め寄る。
「……確かに。あの赤い光、お前からだったな」
(『おうじょのあい』とかいう光?だったとは。あれがレベルアップのきっかけだったのか?最後まで気づきもしなかったが)
白雪は言わなかった。あの時、八幡の心臓が貫かれた時、八幡を思って泣いたことを。八幡が傷付けば自分も手のひらから血が出るほどに歯痒く手を握りしめることを。八幡が死ねば、わたしも生きている意味が無いと思ったことを。その手で涙を拭った時、血と涙が胸元に落ちた時に白雪は八幡を愛していることに気づいた。元、王女白雪は、勇者八幡を愛している。
八幡はふっと自嘲を零すと、そのままスッと白雪の手を引き寄せ、迷いなくその唇へと重ねた。
「っ……ふえ!?」
白雪がカッと顔を真っ赤にして目を見開く。離れ際に、八幡が不敵に口角を上げた。
「……薬草の口移しじゃねえぜ?」
白雪は、うるうると潤んだ瞳で八幡を見つめ返し、ふっと愛おしそうに笑って、今度は自分から背伸びをして――わたしだけの勇者と呟くように、八幡へと再びキスを返した。
その瞬間。
世界の境界が、音もなく真っ白な光へと溶け崩れる。
――ジリジリジリ、ジリジリジリ!
耳を刺す、無機質な電子音。
まぶたの裏に焼きついた石造りの天井のひび割れが、淡いクロスの壁紙へと上書きされていく。
「……っ」
布団の感触。天井のシミ。スマホのアラーム音。
起き上がった八幡は、自分の部屋のデスクと、読みかけの文庫本が転がる現実の空気に囲まれていた。
手のひらに残る、金属と石と、温かな体温の残響。
八幡は死んだ魚のような目で天井を見上げ、低い声で独り言ちた。
「……俺も、まだまだ中二病が抜けてねえな」
けれど、枕元に置いたスマホの画面を切る指先は、なぜか少しだけ温かかった。
あれは、夢だったはずだ。
にしては、何もかもが鮮烈すぎる。冷やした鉄の感触、石粉の匂い、ベホマの眩しさ、そして唇に残った体温。普通、夢なんて朝の光に溶かされて零れ落ちるものなのに。
八幡の部屋の一角、安っぽいカラーボックスの上が、その日の戦利品(――あるいは、証拠品)で埋まっていた。
買ってきたミニチュアフィギュア。ゴーレム、スライム、ローラ姫、そして竜王。
「……全然似てねえな」
イージスの持つ無骨な重量感も、ギガスラッシュ(元スラッシュ)のプルプルした色気も、プラスチックの成型色には微塵も落とし込まれていない。ふと、ディスプレイの竜王を眺めながら、八幡は片眉を上げた。
そういえば、最後まであの王様の名前を聞きそびれていた。
「……まさか、シェンロン、とかだったりな」
自嘲気味に鼻で笑い、それから八幡は自分の腹筋あたりに落とした視線を戻す。
それからの日常は、劇的に変わったわけじゃない。クラスメイトが増えたわけでも、陰キャのアイデンティティが消滅したわけでもない。ただ、――中身が。八幡の世界を見る目が変わった。
現実のせいにして、布団の中でスマホを眺めて現実の世界は糞ゲーと腐っていた昨日までの自分はいない。あの日、石の冷たさを背負い、全速力で血を流した身体の記憶が、朝晩のランニングと自重トレーニングを当たり前の日課にしていた。八幡はロトの血はなくとも勇者となった。村人から。夢の中で。脳裏に焼きついて離れない、白雪の美しい笑顔、金髪。そして、薬草の苦い口移し。初めてのキス。俺もいつか現実であんな美人で優しくも気が強い、最高の女と。出会ってみたい。話してみたい。友達になりたい。叶うならば。恋人になりたい。
いつかまた、なんて、ガキの妄想だ。それに金髪で日本語ペラペラの女なんか、俺のために泣いてくれる女なんかいるかよ。八幡は気づいていた。自分のために白雪が泣いていたことを。もう二度と泣かせないと自分に、白雪に誓う。まあ、現実にはいないんだけどな。俺の初恋。俺だけのお姫様、いや元王女の白雪は。それに、スラッシュ、いやギガスラッシュ、イージスや竜王も。いない。あの世界が続いているなら。竜王とギガスラッシュ、イージス、それに白雪は無事なはずだ。少なくとも白雪の生きている間は。ロトの勇者は現れなかったからな。竜王がなんとかしてくれるはずだ。それにギガスラッシュ、イージス、白雪自身も。八幡は友達か、とつぶやく。
それでも、走る息の白さに、優しく降り頻る粉雪に、あいつらや白雪の不器用で真っ直ぐな瞳を思い出してしまう自分を、八幡はもう無理に否定しなかった。
そして、春。
桜のざわめきに満ちた、県立総武高校の入学式。
パイプ椅子が並ぶ体育館の空気を、八幡は死んだ魚のような、でもどこか据わった目で眺めていた。
「――続きまして、新入生代表宣誓。代表、雪ノ下雪乃」
アナウンスに促され、壇上のマイク前へ進み出た少女。
整った黒髪。氷のように澄んだ、冷ややかな美貌。髪の色こそ漆黒だが、――その顔のパーツ、輪郭の角度、何より世界を射抜くような眼差しは、あの洞窟で震えながら背中を預けた、赤い脈動を宿す元、姫のそれと寸分違わなかった。
(……んな、バカな)
思考が停止しかけたその瞬間。
壇上の雪ノ下雪乃が、聴衆の海をすっと見渡し、――まっすぐに、後方の一点、比企谷八幡の瞳を捉えた。
距離があるはずなのに、彼女の口元が、わずかに、しかし完璧な曲線を描くのを見た。
マイクが、ハウリングすれすれの低いノイズを孕みながら、クリアに響く。
「――やっと見つけたわ」
フロアのざわめきが凍りつく。
雪乃は微笑みながら、涙を一筋流す。マイクの前に身を寄せたまま、誰に向けるでもなく、しかし間違いなく一人の少年へと言い切った。
「わたしだけの勇者。八幡」
春の風が、体育館の窓を大きく揺らし、桜吹雪の残滓を足元へと運び込んだ。
(……マジかよ。ブラック企業どころか、人生の福利厚生、バグってんじゃねえか)
もうお前を泣かせないって誓ったんだが。とつぶやく八幡。
苦笑いしながら、八幡はポケットの中で、自分の硬くなった拳をもう一度ぎゅっと握り締めた。
FIN