第八章 王子の本音
アグラバー王国から遠く離れた砂漠の上空。見渡す限りの砂の海が広がるその場所を、三つの人影が猛烈な勢いで飛んでいた。
「うわああああああああッ!?」
「ウキィィィィィッ!?」
絶叫しているのは、アラジンとアブーだった。もっとも、彼らが好き好んで空を飛んでいるわけではない。つい先ほど、アグラバー王国の国王サルタンが放った魔法によって、王宮から遥か彼方まで吹き飛ばされてしまったのである。
そして、そんな二人の傍らには、もう一人。
「……これは、少々まずいですね」
アグラバー王国の王子が、比較的落ち着いた様子で呟いているが、その表情には焦りが滲んでいる。何しろ、現在の彼らは地上から数百メートルもの高さを飛んでおり、しかも、徐々に高度を下げ始めているのだ。
「王子様ぁぁぁッ!? 何とかしてくれぇぇぇッ!!」
「分かっています! ですから、少し静かにしてください!」
「無茶言うなよぉぉぉッ!!」
アラジンの悲鳴を聞き流しながら、王子は眼下に広がる砂漠へと意識を集中させた。
……落ち着いて。まずは、砂を集めて、衝撃を吸収できるだけの厚みを確保する。いつもどおりにやれば、問題はないはずです。
王子は右手を突き出した。その瞬間、眼下の砂漠が大きく波打った。
「……え?」
王子は目を見開く。砂が動いた。それ自体は、何もおかしなことではない。問題は、その規模だった。普段ならば、せいぜい数十メートル程度の範囲から砂を集めるところを、今回は遥か遠方の砂までが反応していたのである。まるで、砂漠そのものが意思を持ったかのように。
……やっぱり、魔力の制御が……!
先ほど、ジャファーが自分へ放った魔法。その直後から、王子は自身の身体に異変を感じていた。今まで身体の奥底に存在していた、何か大きな蓋のようなもの。それが取り払われ、途方もない魔力が溢れ出している。
しかし、今は原因を考えている場合ではなかった。
「……仕方ありません!」
王子は両手を広げ、魔力を集中させた。
「……集まれッ!!」
その瞬間、砂漠の一角が大きく隆起した。大量の砂が渦を巻き、幾重にも重なり合いながら、巨大な半球状の構造物を形成していく。それは、まるで砂で作られた巨大なクッションだった。
「……アラジンさん! アブー! 身体を丸めてください!」
「え!? ちょ、ちょっと待て! あれに落ちるのか!?」
「大丈夫です! 多分!」
「多分って何だよぉぉぉッ!?」
アラジンの悲鳴と共に、三人は砂のクッションへと落下した。直後、巨大な砂の塊が大きく沈み込んだ。衝撃を受け止めた砂は、まるで水面のように波打ちながら、三人の身体を包み込む。王子は必死に魔力を調整し、落下の勢いを少しずつ殺していき、やがて砂の動きが収まった。
「「…………」」
「……ウキ?」
数秒の沈黙。そして、砂の中からアラジンが顔を出した。
「……い、生きてる……?」
「……はい。何とか」
王子も砂の中から起き上がった。
「……良かった。お二人とも、怪我はありませんか?」
「……怪我はないけどさ」
アラジンは周囲を見回した。見渡す限りの砂漠。人影はなく、建物もない。遠くに岩山らしきものが見える程度で、現在地すら分からなかった。
「……ここ、どこだよ?」
「……さあ?」
「さあって!?」
「少なくとも、アグラバーからは相当離れているでしょうね」
王子は困ったように笑った。
「……まあ、まずは落ち着いて、これからどうするか考えましょうか」
そう言って、砂の上に腰を下ろした。
「まず、父上の魔法についてですが……。あの規模の魔法を自由に使えるとなると、正面から対抗するのは難しいでしょう。それに、姉上とジャファーも催眠術をかけられていますから、まずは二人を助ける方法を考える必要がありますね」
「…………」
「幸い、ジーニーはまだ王宮にいるはずです。ランプの所有権が父上に移ってしまった以上、協力してもらえるかは分かりませんが……」
「なあ、王子様。……怒らないのか?」
「……え?」
王子は不思議そうに首を傾げた。
「……怒る、ですか?」
アラジンは真剣な表情で頷いた。
「ああ。だって、おかしいだろ?」
「……何がです?」
「何がって……全部だよ!」
アラジンは思わず声を荒らげた。
「お前、今までずっと頑張ってきたんだろ!? 王子として勉強して、国の仕事も手伝って、ジャファーと一緒に色々やってきたんだろ!?」
「……まあ、そうですね」
「それなのに、親父さんはお前のことを疑って、仲間を奪って、最後には魔法で吹き飛ばしたんだぞ!? 何で、そんなに冷静なんだよ!」
王子は少し困ったように眉を下げた。
「……いや、でも」
「でも?」
「僕は王子ですから。国のために頑張るのは当然ですし、父上は国王です。王として色々と考えなければならないこともあるでしょう。それに、今回のことだって、僕たちが父上に内緒で行動していたのが原因ですし……」
「…………」
「それに、父上は長年、魔法に憧れていたようですから。突然あれほどの力を手に入れて、少し興奮してしまっただけかもしれません。きっと、落ち着いて話せば……」
「……王子様」
「はい?」
アラジンは王子の目の前まで歩いてきた。
「……俺には、親父がいなかったからさ。親父ってのが、どういうものなのかは、正直よく分からないんだ」
アラジンは少しだけ視線を落とした。
「でもさ。例え家族でも、あれは怒っていいと思うぞ」
「……怒って、いい?」
「ああ。……いや、むしろ怒れよ!」
アラジンは王子の肩を掴んだ。
「お前、さっきから親父さんの事情ばっかり考えてるじゃないか! でも、お前自身はどうなんだよ!?」
「……僕、ですか?」
「そうだよ! お前は、嫌じゃなかったのか!?」
アラジンの問いに、王子は答えられなかった。アラジンは、そんな彼を見つめながら言葉を続けた。
「……俺とアブーが親友なのはさ、ずっと一緒にいるからなんだ。毎日一緒に飯を食って、寝て、盗みをして……まあ、盗みは褒められたことじゃないけどさ」
アラジンは苦笑し、足元にいるアブーへと視線を向けた。
「……でも、俺たちだって喧嘩するんだぜ? こいつが勝手に食い物を食べたり、俺が無茶をしたりしてさ」
「ウキッ!」
「何だよ! お前だって悪い時はあるだろ!」
「ウキキッ!」
「ハハッ。まあ、ほら、こういう感じでさ!」
アラジンは笑った。
「喧嘩して、仲直りして、また喧嘩して。その繰り返しなんだよ。でも、だからこそ親友なんだと思う」
アラジンは王子へと向き直った。
「お前だって、ジャファーやジャスミンと喧嘩したことくらいあるだろ?」
「……ありますね」
王子は小さく頷いた。
「ジャファーとは、何度も意見が衝突したことがあります。講義の内容とか、政策とか、公共事業の計画とか……」
「……何か、喧嘩の内容が難しくないか?」
「そうですか?」
「……まあ、いいや。ジャスミンとは?」
「姉上とも、昔はよく言い合いをしましたね」
王子は懐かしそうに目を細めた。
「最近は減りましたけど、幼い頃は本当に色々と」
……僕自身、幼い身体に精神が引っ張られていた部分もありましたから。
「……でも、父上とは、ありませんね」
王子は呟いた。
「一度も、本気で言い合いをしたことがないかもしれません」
父は国王で、自分は王子だった。父の判断に疑問を抱くことはあっても、最終的には国王としての決定を尊重してきた。意見が食い違えば、ジャファーを交えて話し合い、なるべく穏便に解決するよう努めていた。
……そういえば、僕は、父に対して真正面から怒ったことがあっただろうか?
そんな王子を見て、アラジンはにやりと笑った。
「……だったらさ、せっかくだ。親子喧嘩しろよ」
「……親子喧嘩?」
「ああ!」
アラジンは力強く頷いた。
「今まで言えなかったこと、全部言ってやればいいんだよ! 親父さんだって、お前が何を考えてるのか分からないから、変な勘違いをしたのかもしれないだろ?」
「…………」
「別に、親父さんを嫌いになれって言ってるわけじゃない。好きだからこそ、言わなきゃいけないことだってあると思うんだ」
「……ウキッ! ウキキッ!」
アブーも賛同するように鳴きながら、両拳を構え、空中へ向かって何度も拳を突き出す。
「……ほら。アブーもやれってさ」
「……あはは」
王子は思わず笑ってしまった。
「……親子喧嘩、ですか」
そんなこと、考えたこともなかった。しかし、自分の気持ちを遠慮なくぶつけることができる関係というのは、少しだけ羨ましくもある。それは、王子として生きてきた自分が、いつの間にか忘れてしまっていたものなのかもしれなかった。そんなことを考えていると、
「うわああああああああッ!! 止まれぇぇぇッ!!」
「……え?」
突然、上空から悲鳴が聞こえてきた。三人が顔を上げると、遠くの空から、一枚の絨毯が猛烈な勢いで飛んでくるのが見えた。そして、その上には、一羽の赤いオウムがしがみついていた。
「……イアーゴ?」
王子が目を瞬かせた。
「お、おい! 絨毯! もう少しゆっくり……いや、だから急に曲がるなってぇぇぇッ!?」
魔法の絨毯は、砂漠の上空で急旋回した。その勢いに耐えきれず、イアーゴの身体が大きく傾く。
「……うわああああッ!?」
次の瞬間、絨毯は急停止した。イアーゴだけが勢い余って前方へ投げ出され、砂の上へと転がった。
「……ぐえっ!」
「……イアーゴ!?」
王子は慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「……だ、大丈夫に……見えるか……?」
イアーゴは砂の上に仰向けになり、目を回していた。
「……あの野郎……本気出したら、あんなに速いなんて……聞いてねえぞ……」
少し遅れて、魔法の絨毯が申し訳なさそうに近づいてくる。
「……お前なぁ……もう少し、乗ってる奴のことを考えろよ……」
イアーゴは弱々しく羽を上げた。絨毯は、しゅんとした様子で端を垂らす。
「……まあ、助かったけどよ」
そう言って、イアーゴはゆっくりと身体を起こした。
「……それより、王子様。これ、渡しとくぜ」
イアーゴは羽の下から、一通の封筒を取り出した。
「……手紙?」
「ああ。ジャファーから預かってたんだ」
王子の表情が変わった。
「いつの間に……?」
「結構前からだよ。あいつ、何かあった時には、お前に渡せって言ってたんだ」
イアーゴは少しだけ真剣な表情になった。
「……まさか、本当に渡すことになるとは思わなかったけどな」
王子は封筒を受け取った。そこには、見慣れた筆跡で、自分の名前が記されていた。王子は慎重に封を切り、中に入っていた手紙を広げた。
『王子殿下へ』
『もし、この手紙をお読みになっているのであれば、私の身に何らかの不測の事態が生じたのでしょう。あるいは、私が殿下のお傍にいることができなくなったのかもしれません』
『まず、お伝えしておきたいことがございます』
『陛下が殿下を愛しておられることは、紛れもない事実でございます』
『陛下は、殿下がお生まれになった日、心の底から喜んでおられました。殿下が初めて歩かれた時も、初めて言葉を発せられた時も、誰よりも嬉しそうにしておられました』
『しかし、同時に、陛下が殿下に対して、少なからぬ嫉妬の感情を抱いておられることも、私は承知しております』
『王家に伝わる砂の力。優れた魔術の才能。そして、幼い頃から国政に関心を持ち、私の講義にも熱心に取り組まれる殿下の姿』
『それらは、陛下がかつて望みながらも、手に入れることのできなかったものでもございます』
『私は、いつかその感情が、陛下と殿下の間に溝を生むのではないかと危惧しておりました』
『もし、そのような事態に陥ったのであれば、どうか、ご自身を責めないでいただきたい』
『殿下は、これまで十分すぎるほど努力してこられました』
『王族としての責務を果たし、民のために尽くし、陛下を支え、王女殿下を気遣い、そして、私の期待にも応えようとしてくださいました』
『しかし、殿下。貴方様は、国のためだけに生まれてきたのではございません』
王子の指が、僅かに震えた。
『もし、アグラバー王国に留まることが、殿下にとって苦痛となるのであれば、どうか、国外へ出ることもお考えください』
『別の国で生きることも、旅に出ることも、決して恥ずべきことではございません。殿下ほどの知識と才能をお持ちであれば、どのような場所でも、必ずご活躍できることでしょう』
『私は、殿下が国王となられることを望んでおります。しかし、それ以上に、殿下ご自身が幸せに生きられることを願っております』
王子は、黙って手紙を読み進めていく。
『そして、もう一つ。殿下にお伝えしなければならないことがございます。殿下の砂の魔法についてです』
『殿下は、幼少の頃、あまりにも強大な魔力を暴走させ、王宮の一部を崩壊させたことがございました』
『その際、私は殿下の安全を守るため、催眠術と封印魔術を併用し、殿下の砂の魔法の大部分を封じました』
『殿下には、その事実をお伝えしておりませんでした。誠に申し訳ございません』
『その後、殿下の成長に合わせ、私は少しずつ封印を解除してまいりました。魔力の制御を学び、精神を鍛え、力を正しく扱えるようになられた段階で、全てをお返しするつもりでございました』
『しかし、万が一、私がその役目を果たせなくなった場合に備え、最後の封印を解除する術式を用意しております。それは、殿下が本来持っておられる力を取り戻すためのものです』
『殿下の砂の魔法は、私がこれまで目にしてきた、いかなる魔術とも異なります。本気でその力を振るわれたならば、きっと、想像を絶するほどの力となることでしょう』
『ですが、どうか、お忘れなきよう。力とは、ただ強ければ良いというものではございません。何のために使うのか。誰のために振るうのか。それを決めるのは、他の誰でもない、殿下ご自身です』
『私は、殿下がその力を正しく使ってくださることを、心より願っております。そして、最後に』
『これまで、殿下の教育係を務められたことを、私は誇りに思っております。どうか、お健やかに』
『ジャファー』
王子は手紙を最後まで読み終え、ゆっくりと目を閉じる。
……ジャファー。思い返せば、彼はいつも自分の傍にいた。魔法を教えてくれたのも、政治を教えてくれたのも、王族としての責務を説いてくれたのも、彼だった。
厳しい言葉を投げかけられることもあった。何度も議論し、時には意見が衝突することもあった。しかし、彼は決して、自分を見捨てなかった。
……そうですか。あなたは、そこまで考えてくれていたんですね。
王子は手紙を丁寧に折り畳み、懐へとしまった。
「……ありがとうございます、ジャファー」
その呟きを聞いて、イアーゴは小さく鼻を鳴らした。
「……まったく。あいつも、面倒くせえ奴だよな」
「……イアーゴ?」
「いや、何でもねえよ」
イアーゴは羽を組んだ。
「……それより、王子様。お前はさ、もっと好きにしていいんだぜ?」
「……好きに?」
「ああ!」
イアーゴは力強く頷いた。
「俺から見れば、お前は自分を押さえ込みすぎなんだよ!」
「……そうでしょうか?」
「そうだよ! あのアホ王も、姉ちゃんも、ジャファーだって、お前のことを全部分かってるわけじゃねえんだ! そりゃ、あいつらがお前を大事に思ってるのは分かるぜ? でもよ、それと、お前が我慢し続けなきゃいけねえってのは、別の話だろ?」
イアーゴは羽を伸ばし、王子を指差した。
「それこそ、今回のデート作戦を考えてた時のお前! すっげえ楽しそうだったぞ!」
王子は目を瞬かせた。
「……そう、でしたか?」
「ああ! ジャファーとアラジンが机に突っ伏してる横で、ジーニーと二人で盛り上がってたじゃねえか!」
「……あはは」
「ああいうのでいいんだよ! もっと笑って、もっと遊んで、もっと自分のやりたいことをやればいいんだ! お前は王子だけどよ、王子である前に、お前自身だろ?」
イアーゴは、少しだけ照れくさそうに顔を背けた。
「……まあ、俺様が言いたいのは、それだけだ」
王子は、しばらく黙っていた。アラジンの言葉、ジャファーの手紙、そして、イアーゴの言葉。それらが、ゆっくりと胸の奥へ染み込んでいく。
……好きにして、いい。今まで、自分が考えたこともなかった言葉だった。いや、正確には違う。考えないようにしていたのだ。王子として、王位継承者として、国の未来を担う者として。自分の感情よりも、責務を優先する。それが当然だと思っていた。でも、
「イアーゴ。……僕は、好きにしても、良いんでしょうか?」
イアーゴは、何を今さらという顔をした。
「当たり前だろ! 誰の人生だと思ってんだよ!」
イアーゴの返答に、王子は小さく笑った。そして、今度はアラジンへと視線を向ける。
「……アラジンさん。僕は、怒っても良いんでしょうか?」
アラジンは、迷うことなく頷いた。
「ああ。もちろん! 思いっきり怒ってやれよ!」
王子は、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました」
そして、静かに立ち上がった。
「……では、皆さん。少し、離れていただいても良いですか?」
アラジンが首を傾げた。
「離れるって、どのくらい?」
「……そうですね。できるだけ遠くへ」
「……分かった」
アラジンは頷き、アブーとイアーゴを連れて歩き始めた。しかし、
「……あ、すみません。できれば、魔法の絨毯に乗っていただけると助かります」
アラジンは足を止めた。
「……え?」
「……少々、規模が大きくなるかもしれませんので」
「……規模?」
アラジンは、王子の穏やかな笑顔を見つめた。そして、何故か背筋に冷たいものが走った。
「……お、おい。絨毯!」
魔法の絨毯が、すぐさま近づいてくる。
「……とりあえず、離れようぜ」
「お、おう。何か、嫌な予感がするな……」
イアーゴも慌てて飛び乗った。
「ウキッ!」
アブーも続く。そして、三人を乗せた絨毯は、砂漠の上空へと飛び立っていった。王子は、その姿が十分に遠ざかったことを確認した。
「…………」
周囲には、誰もいない。ただ、果てしない砂漠が広がっている。王子は、ゆっくりと空を見上げた。そして、
「……ああ、もうッ!!」
突然、大声を上げた。
「本当に! 何なんですか、あの人たちはッ!!」
その瞬間、足元の砂が大きく波打った。
「父上は父上で、勝手に勘違いして! 僕が王位を簒奪しようとしてる!? 何を言ってるんですかッ!!」
王子は両手を広げた。
「そもそも! 僕は最初から王位継承者でしょうがッ!! どうして、わざわざ自分の国の王位を簒奪しなきゃいけないんですかッ!!」
砂漠の一角が、激しく隆起した。
「それに! 魔法が羨ましかった!? そんなこと、言ってくれれば良かったじゃないですかッ!!」
王子は、堰を切ったように叫び続けた。
「僕だって、別に好き好んで魔法の才能を持って生まれたわけじゃありませんよ! むしろ、幼い頃は制御できなくて大変だったんですからねッ!!」
周囲の砂が、巨大な渦を形成し始めた。
「それなのに! 勝手に嫉妬して! 勝手に疑って! 最後には魔法で吹き飛ばすって、何なんですかッ!!」
王子は、思いきり地面を踏みつけた。
「しかも! 姉上まで催眠術にかけて! ジャファーまで操って! ……ああ、もう! 本当に腹が立つッ!!」
その叫びに呼応するように、砂漠全体が震え始めた。
「……それから、姉上ッ!!」
王子は、今度は別の方向へ向かって叫んだ。
「いつもいつも、自由が欲しいって言いますけどね! 僕だって自由が欲しいんですよッ!!」
大量の砂が、空へと舞い上がった。
「姉上が王宮を抜け出そうとするたびに、誰が警備の見直しをしてると思ってるんですか! 誰がラズールの報告を聞いてると思ってるんですかッ!!」
王子は、さらに声を張り上げた。
「しかも、姉上が結婚したくないって言うから、僕とジャファーで色々考えてたんですよ!? なのに、今度はアラジンさんと結婚したいって! ……いや、別に、それは良いんですけどねッ!!」
王子は、思いきり息を吸い込んだ。
「だったら! 最初から好きな人と結婚したいって言えば良かったじゃないですかぁぁぁッ!!」
巨大な砂の柱が、空へと伸びていった。
「……それから、ジャファーッ!!」
王子は、懐にしまった手紙へと視線を落とした。
「……あなたも、あなたですよ!」
その声には、怒りだけでなく、どこか寂しさも混じっていた。
「僕のことを心配してくれていたのは、分かっています! 封印のことだって、きっと僕のためだったんでしょう!」
王子は拳を握り締めた。
「でも! だったら、ちゃんと言ってくださいよッ!!」
砂が、激しく渦を巻いた。
「僕は、そんなに信用できませんか!? 僕が自分の力を知ったら、何か悪いことをするとでも思ってたんですかッ!?」
王子は、空へ向かって叫んだ。
「……それに!」
その声が、僅かに震えた。
「……僕に幸せに生きてほしいって思ってくれてるなら!」
王子は、手紙を握り締めた。
「……どうして、直接言ってくれなかったんですか……!」
しばらく沈黙が流れ、王子はゆっくりと息を吐いた。そして、再び顔を上げた。その表情には、先ほどまでの困惑も、迷いもなかった。
「……よーし!」
王子は、両手を大きく広げた。
「今日はもう、我慢しないぞ、この野郎ッ!!」
砂漠が、動いた。砂漠そのものが巨大な生き物のように蠢き始め、地平線の向こうまで広がる砂が、王子を中心に集まり始める。
最初に形成されたのは、巨大な船底だった。砂が幾重にも重なり、頑丈な船体を形作っていく。続いて、船首、船尾、何本もの巨大な帆柱、そして、風を受けるための帆。それら全てが、砂によって作り上げられていった。
その規模は、王子がこれまで操ってきた砂魔法とは、比較にならないものだった。やがて、砂漠の中央に、一隻の巨大な帆船が姿を現した。全長は、優に数十メートルを超えている。
何層にも重なった甲板。船体の両側に並ぶ砲門。高く聳える三本の帆柱。そして、船首には、精巧な装飾まで施されていた。その全てが、砂でできている。
王子は、目の前に完成した巨大な船を見上げた。
「……おお」
思わず、感嘆の声が漏れた。
「……これは、思った以上ですね。でも、悪くありません」
そして、ゆっくりと笑みを浮かべた。一方、その光景を遠くから眺めていたアラジンたちはというと。
「「…………」」
「……ウキ?」
三人とも、完全に固まっていたが、イアーゴは震える声で呟いた。
「……何だよ、あれ」
アラジンも、呆然と答えた。
「……俺に聞かれても、分からないよ」
「……あいつ、あんな魔法使えたのかよ!?」
「……知らないって!」
そんな二人の会話をよそに、王子は上空へ向かって手を振った。
「……皆さーん! もう大丈夫ですよー!」
「……大丈夫って……」
アラジンは、巨大な砂の船を見つめた。
「……いや、全然大丈夫に見えないんだけど……」
しかし、王子が笑顔で手招きしているため、仕方なく絨毯を近づける。やがて、三人は巨大な船の甲板へと降り立った。
「……す、すげえな……」
アラジンは、足元の甲板を踏み締めた。砂でできているはずなのに、まるで本物の木材のような感触だった。
「……これ、全部お前が作ったのか?」
「はい!」
王子は、何でもないことのように頷いた。
「……色々と試してみたくなりまして。ちょっと本音をぶちまけたら、魔法も少し上手くいきました」
「ちょっとって規模じゃねえだろ!?」
「……あはは」
王子は楽しそうに笑った。そして、三人へと向き直る。
「それで、皆さん。今から、王宮へ戻って、親子喧嘩をしようと思うのですが……協力していただいても、良いですか?」
王子は、にこりと微笑んだ。アラジンは、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑顔を浮かべる。
「……ああ! もちろん!」
「ウキッ!」
アブーも元気よく頷いた。
「……へっ! ようやく、その気になったか! いいぜ! 俺様も付き合ってやるよ!」
イアーゴは、嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
王子は、心から嬉しそうに微笑んだ。
「……では、行きましょうか」
そう言って、片手を振り上げる。すると、甲板のあちらこちらから、砂が盛り上がり始めた。
「……ん?」
アラジンが首を傾げる。砂は、人の形を作り始めた。一人、二人、三人。やがて、数十人もの人影が甲板に現れる。それらは、全て砂で作られた船員たちだった。
身体には船乗りの衣装。ある者は帆柱へ登り、ある者は舵を握り、またある者は甲板の整備を始めていた。
アラジンは、呆然とその光景を見つめた。
「……おいおい。今度は何だよ、これ」
イアーゴも、目を丸くした。
「……船員さんたちです」
王子は楽しそうに答えた。
「船を動かすなら、やっぱり船員が必要でしょう?」
「……いや、そういう問題か?」
王子は、少し考え込んだ。
「……あ、せっかくなので、もう少し、それらしくしてみましょうか」
王子は指を鳴らした。その瞬間、巨大な船全体が、淡い光に包まれた。
「……おお?」
アラジンが驚いたように声を上げる。砂でできていた船体が、ゆっくりと色を変え始めた。最初は淡い茶色、続いて濃い褐色。そして、最後には深い漆黒へ。船体は、まるで長い年月を経た黒い木材のような質感へと変化していった。
帆も同様だった。砂色だった巨大な帆が、漆黒に染まっていく。さらに、船体の装飾には、僅かに金色が加えられた。やがて、そこには、一隻の巨大な黒い帆船が完成していた。
アラジンは、しばらく船を眺めていた。
「……なあ、王子様。何で、黒なんだ?」
王子は楽しそうに笑う。
「……いやぁ、自由の象徴といえば、これかなと思いまして」
「……自由の象徴?」
「はい」
王子は、船首へと歩いていった。その足取りは、今までとは違っていた。王族としての礼儀も、国の未来への責任も、今だけは忘れている。ただ、自分がやりたいことを、やりたいようにする。そんな、年相応の少年のような笑顔を浮かべていた。
「……さて!」
王子は船首に立ち、片手を大きく掲げた。その瞬間、船員たちが一斉に動き始める。帆が張られ、舵が回され、巨大な船体がゆっくりと浮かび上がった。
「……うわっ!?」
アラジンが驚いて甲板にしがみつく。
「お、おい!? 船が浮いてるぞ!?」
「……当然でしょう?」
王子は、不思議そうに首を傾げた。
「砂の船なんですから、砂を操れば浮かせられますよ」
「……いや、そういう問題じゃ……!」
「……あはは!」
王子は楽しそうに笑う。そして、前方に広がる砂漠の地平線を見つめる。その先には、アグラバー王国がある。父が、姉が、ジャファーがいる。そして、自分がこれまで守ろうとしてきた、故郷がある。
……待っていてください、父上。今度は、遠慮しませんからね。王子は、大きく息を吸い込んだ。そして、満面の笑みを浮かべながら、宣言した。
「……では、行きましょう!」
巨大な黒い帆船が、ゆっくりと進み始める。砂でできた船員たちが、一斉に帆を張り、船体が空へと舞い上がった。王子は、船首から前方を指差した。
「……目指すは、アグラバー王国! 出航です! ブラック・パール号ッ!!」
その宣言と共に、漆黒の巨大帆船は、砂漠の上空を駆け抜けていった。
「……ブラック・パール?」
アラジンが、呆然と呟いた。
「……何だ、その名前?」
イアーゴも首を傾げた。
「……さあ? でもよ」
イアーゴは、船首に立つ王子の背中を見つめた。その姿は、いつもの礼儀正しく、穏やかな王子とは、まるで違っていた。自由気ままに笑い、自分の望むままに行動する。そんな、一人の少年の姿だった。
「……悪くねえじゃねえか」
イアーゴは小さく笑い、アラジンも笑みを浮かべた。
「……ああ。そうだな」
そして、漆黒の帆船は、アグラバー王国へ向かって進んでいく。
第九章 後悔と完璧な王様
その頃、アグラバー王国の王宮では、一人の老人が深い後悔に苛まれていた。
「……ワシは……何ということを……」
王宮の玉座の間。数時間前までは怒号と魔法が飛び交っていたその場所で、アグラバー王国の国王サルタンは、力なく玉座に腰を下ろしていた。
その表情には、先ほどまでの怒りも、王としての威厳もない。ただ、取り返しのつかない過ちを犯してしまった、一人の父親の姿があった。
「……息子を……ワシは、自分の息子を……」
サルタンは、震える両手を見つめた。その手には、今まで夢にまで見ていた魔法の力が宿っている。世界で最も偉大な魔法使い。ランプの魔人に願いを叶えてもらったことで、サルタンは、長年憧れ続けていた力を手に入れたのだ。
しかし、その結果はどうだ。自分の息子が王位を奪おうとしていると思い込み、長年仕えてくれた忠臣を疑い、愛する娘に催眠術をかけ、最後には、自らの魔法で息子を吹き飛ばしてしまった。
……いや、違う。魔法のせいではない。全て、自分が招いたことなのだ。
「……何故じゃ……」
サルタンは、両手で顔を覆った。
「……何故、ワシは……いつも、こうなのじゃ……」
国王として、国を治めてきた。民を愛し、争いを嫌い、誰もが幸せに暮らせる国を作ろうとしてきた。しかし、実際にはどうだっただろうか。難しい政務はジャファーに任せきり。国の将来については、まだ若い息子の方が遥かに深く考えている。
娘の結婚問題ですら、自分一人では満足に解決できなかった。そのくせ、自分が何かを決めようとすれば、いつも問題が起こる。
「……ジャファーは、あれほど上手く国を治めておるというのに……あの子も……まだ、若いというのに……」
息子の姿が、脳裏に浮かぶ。幼い頃から勉学に励み、ジャファーの厳しい教育にも耐え、国のために尽くしてきた息子。自分が難しい問題に頭を抱えていると、いつも穏やかな笑顔で助言してくれた。
……父上、こちらの件ですが、僕に一つ考えがあります。そんな言葉を、何度聞いただろう。そして、そのたびに自分は安心していた。この子がいれば、アグラバーの未来は安泰だと。しかし、同時に。
……どうして、ワシにはできないのじゃろうか。そんな、醜い感情を抱いていたことも事実だった。
「……ワシは……父親失格じゃ。いや……国王としても、失格なのかもしれん……」
その様子を、ランプの魔人、ジーニーが見つめていた。
「……あー、その……王様?」
ジーニーは、珍しく控えめな声をかけた。
「……何じゃ、ジーニー……」
「いや、その……何て言うかさ。確かに、さっきのはちょーっと、いや、かなりやりすぎだったと思うけど……」
ジーニーは、困ったように頭を掻いた。
「でもさ、王子様なら大丈夫なんじゃない? あの子、すっごい魔法を使えるみたいだったし。きっと、どこかで無事に……」
「……そうじゃな。あの子なら、きっと無事じゃろう……」
その声に力はなかった。息子が生きているかもしれない。それは、確かに希望だった。だが、仮に無事だったとして、自分はどのような顔で息子に会えばよいのだろう。王位を奪おうとしているなどと疑い、魔法で攻撃した父親を、あの子は許してくれるだろうか。
「……ワシが、もっと立派な王であったなら。もっと、冷静に物事を判断できる王であったなら……こんなことには……ん?」
不意に、その表情が変わり、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうじゃ! その手があった!」
ジーニーが首を傾げると、サルタンは、勢いよく玉座から立ち上がった。
「ジーニー!」
「は、はいっ! 何でしょう、ご主人様!」
「ワシを、完璧な王にしてくれ!」
ジーニーは、目を瞬かせた。
「……はい?」
「聞こえなかったのか? ワシを、完璧な王にしてほしいのじゃ!」
「……いやいやいや、ちょっと待って!」
ジーニーは、慌てて両手を振った。
「王様! アンタ、もう王様じゃん! 玉座もあるし、立派なお城だってある! これ以上、何が必要なのさ!?」
「違う! そういうことではない!」
サルタンは、強く首を振った。
「ワシが言っておるのは、立場の話ではない! 精神性の話じゃ! ワシは、あまりにも感情に流されすぎる! すぐに思い込み、判断を誤り、取り返しのつかない失敗をしてしまう!」
サルタンは、拳を握り締めた。
「だからこそ、ワシは変わらねばならん! 何事にも動じず、常に正しい判断を下し、決して過ちを犯さぬ王になるのじゃ!」
ジーニーは、何とも言えない表情を浮かべた。
「あー。……王様、最初にも言ったでしょ? オイラの魔法でも、人の心を自由に操ることはできないんだって」
ジーニーは、人差し指を立てた。
「人を無理やり好きにさせたり、心の底から何かを信じ込ませたり。そういうのは、オイラの魔法でもできないのよ」
サルタンは、少し考え込んだ。しかし、すぐに顔を上げる。
「……だが、それは他人の精神を操る場合の話じゃろう? 今回、ワシが頼んでおるのは、自分自身の精神を変えることじゃ。他人の意思を捻じ曲げるわけではない。ワシ自身が、自ら望んで変わろうとしておるのじゃ。ならば、問題はあるまい?」
ジーニーは、口を開き、閉じ、もう一度、開いた。
「……あー……いや、まあ……確かに、そう言われると……」
ジーニーは、腕を組んで考え込んだ。他人の心を強制的に変えることはできない。しかし、本人が望んで、自分の性格や精神の在り方を変えるのであれば、話は別だった。少なくとも、魔法そのものは可能である。しかし、ジーニーは、珍しく真剣な表情になり、
「……でもさ、王様。こういうのって、やめといた方がいいんじゃない?」
「……何故じゃ?」
「だってさ、人間って、失敗するもんでしょ? 怒ったり、泣いたり、間違えたりするのも、人間だからじゃない?」
ジーニーは、サルタンの顔を覗き込んだ。
「それに、王子様だって、アンタが完璧な王様になることなんて、望んでないと思うよ? 今のアンタが、ちゃんと謝って、ちゃんと話せば、それで……」
「……駄目なのじゃ」
サルタンは、静かに首を振った。
「……ワシは、もう二度と、あのような過ちを犯したくない」
「……王様……」
「頼む、ジーニー」
サルタンは、真剣な表情でジーニーを見つめた。
「ワシを、完璧な王にしてくれ」
ジーニーは、しばらく黙っていたが、深いため息をついた。
「……分かったよ」
ジーニーは、ゆっくりと両手を広げた。
「でも、最後にもう一回だけ聞くよ? 本当に、それでいいんだね?」
サルタンは、迷うことなく頷いた。
「……頼む」
「……オーケー。ご主人様の仰せのままに」
その瞬間、ジーニーの両手から、眩い青い光が放たれた。光はサルタンの身体を包み込み、頭上へと集まっていく。やがて、無数の光の粒子が王の身体へと吸い込まれ、彼の精神へと干渉し始めた。そして、
「……これで、完了っと」
ジーニーは、両手を下ろした。
「……どう? 王様。何か変わった?」
サルタンは、何も答えなかった。ただ、静かに目を閉じている。
「……王様?」
「…………なるほど」
やがて、サルタンは目を開いた。その表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。悲しみも、後悔も、焦りもない。ただ、恐ろしいほどに冷静な瞳が、玉座の間を見渡していた。
「……実に、素晴らしい。これまでのワシは、あまりにも愚かであった」
「……え?」
「感情に流され、判断を誤り、国の統治を他人に任せきりにしていた。王として、あまりにも不適格じゃった」
サルタンは、ゆっくりと玉座へと腰を下ろした。
「……だが、もう問題はない」
その声には、何の感情も込められていなかった。
「これより、ワシがアグラバーを正しく統治する」
ジーニーは、何故か嫌な予感を覚えた。そして、その予感は、残念ながら的中することになる。何しろ、ここで一つ、大きな誤算があったのだ。
もともとのサルタンは、温厚で、情に厚く、民を愛する国王だった。確かに、判断を誤ることもあった。感情に流され、失敗することもあった。しかし、それは、彼が人間らしい感情を持っていたからでもある。
だが今、サルタンが思い描いていた、完璧な王とは何だったのか。
それは、冷静で、冷酷で、決して感情に流されることなく、全てを合理的に判断する王だった。そして、ジーニーの魔法は、その願いを忠実に叶えてしまったのである。
「……まずは、国内の治安を改善せねばならんな」
サルタンは、片手を掲げた。その瞬間、玉座の間の床に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
「……え?」
ジーニーが目を瞬かせる。魔法陣からは、次々と人影が現れ始めた。一人、二人、十人、百人。鋼鉄の鎧を身に纏い、武器を携えた兵士たちが、際限なく生み出されていく。
「……ちょ、ちょっと王様!? 何やってんの!?」
ジーニーは、慌てて声を上げた。
「兵を増やしておる」
「いや、それは見れば分かるけど! 何でこんなに!?」
「国の治安を維持するためじゃ。これまでのアグラバーでは、窃盗、詐欺、暴力、虚偽の申告など、数多くの違法行為が見逃されてきた。これは、統治者として看過できぬ問題じゃ」
「……いや、まあ、それはそうかもしれないけど……」
「ならば、正すまで」
サルタンは、兵士たちへと視線を向けた。
「命じる。アグラバー全域に展開し、罪を犯した者を全て捕らえよ」
兵士たちは、一斉に頭を下げた。そして、整然とした足取りで、玉座の間から出ていく。ジーニーは、その背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……これ、絶対にまずいやつだ……」
そして、その数分後。アグラバー王国は、建国以来、類を見ない大混乱に陥ることになった。
「おい! そこの男! 止まれ!」
「……え?」
アグラバーの市場。いつもどおり、多くの人々で賑わっていたその場所に、突如として大量の兵士たちが現れた。
彼らは、王宮の警備兵とは明らかに異なる姿をしていた。全身を覆う鋼鉄の鎧。無表情な顔。そして、まるで一つの意思によって動いているかのような、統率された動き。そんな兵士の一人が、果物屋の主人を指差した。
「貴様、先ほど、この果物は本日収穫されたものだと客に説明したな?」
「……へ? あ、ああ。そうだけど……」
「事実か?」
「……いや、その……昨日のも、ちょっと混ざってるけど……」
「虚偽の申告を確認。拘束する」
「……は?」
次の瞬間、主人は両腕を掴まれた。
「ちょ、ちょっと待てよ!? そんなことで捕まるのか!?」
「虚偽の申告は、社会の秩序を乱す行為である」
「いやいやいや! そんな大袈裟な……!」
「抵抗を確認。罪状を追加する」
「何でだよぉぉぉッ!?」
主人の悲鳴が、市場に響き渡った。しかし、問題はそれだけではなかった。
「おい、そこの女!」
「は、はい!?」
「先ほど、知人に対して『今日は忙しい』と説明したな?」
「え、ええ……」
「しかし、実際には予定がないことを確認した。虚偽の申告である」
「ち、違うんです! ちょっと、誘いを断りたかっただけで……!」
「理由は問わぬ。拘束する」
「えええええッ!?」
さらに、
「そこの子供! 先ほど、母親に菓子を食べていないと答えたな?」
「……う、うん……」
「口元に菓子の欠片を確認。虚偽の申告である」
「……え?」
「拘束する」
「うわあああん! お母さぁぁぁんッ!!」
もはや、無茶苦茶だった。普段ならば見逃されるような小さな嘘。些細な口論。商売上の誇張。子供の悪戯。その全てが、罪として扱われ始めたのである。しかも、兵士たちには、事情を考慮するという概念が存在しなかった。
彼らに与えられた命令は、ただ一つ。罪を犯した者を捕らえること。それだけだった。結果として、街の至る所で人々が拘束され、連行され始めた。
「おい! 何をしている!」
異変に気づいた王宮の警備兵たちが、慌てて駆けつける。
「その者たちを放せ! 何の権限があって……!」
「国王陛下の命令である」
「……何?」
「我々は、陛下の命令に従い、国内の犯罪者を拘束している」
「犯罪者だと!? こんな子供まで捕らえる必要がどこにある!」
「虚偽の申告は犯罪行為である」
「そんな馬鹿な話があるか!」
警備兵は、怒鳴り返した。しかし、
「国王陛下の命令に対する妨害行為を確認」
「……は?」
「拘束する」
「なっ!? お、おい! 待て!」
今度は、警備兵たちまでもが捕らえられ始めた。当然、彼らも黙ってはいない。街の至る所で、国王の魔法によって生み出された兵士たちと、王宮の警備兵との衝突が発生した。
しかし、その戦力差は絶望的だった。何しろ、魔法の兵士たちは、倒しても倒しても、新たな兵士が現れるのである。やがて、市場は完全に混乱へと陥った。
商人たちは店を閉め、住民たちは家へと逃げ込み、子供たちは泣き叫ぶ。だが、魔法の兵士たちは、そんな事情など一切考慮しない。
逃走する者は、罪を認めた者。抵抗する者は、国家に反逆する者。そして、少しでも嘘をついた者は、犯罪者。
そんな理不尽な基準によって、次々と人々が捕らえられていった。もはや、アグラバーの民のほとんどが、拘束の対象となっていたのである。
そして、その異変が起こる少し前。アグラバー王国の城門を、一団の騎馬隊が通過していた。先頭に立っているのは、王宮警備隊長ラズールだった。
「……急げ! 王子殿下を、一刻も早くお探しするのだ!」
「「はっ!」」
ラズールは、険しい表情で馬を走らせていた。彼の脳裏には、つい先ほどの光景が、何度も繰り返し浮かんでいた。国王が放った、凄まじい魔法。その魔法から、ジャファー大臣とジャスミン王女を守ろうとした王子。そして、盗人……アラジンと共に、遥か彼方へと吹き飛ばされていった、その姿。
「……くそっ……!」
ラズールは、歯を食いしばった。
……何ということだ。自分は、王宮の警備隊長である。国王の命令に従い、王族を守り、王国の秩序を維持する。それが、自分に与えられた役目だった。しかし、その結果が、これだ。
王子とジャファー大臣から、今回の件については国王に報告しないようにと言われていた。それにもかかわらず、ラズールは、国王への報告こそが正しいと判断した。そして、その結果、王宮は大混乱に陥り、王子は行方不明になってしまった。
……全て、自分の判断が招いたことではないか。
「……殿下……どうか、ご無事で……!」
ラズールは、祈るように呟いた。その時、後方から、一人の兵士が声を上げた。
「……隊長! 王都の方角を!」
「……何だ!」
ラズールは振り返ると、目を見開いた。
「……何だ、あれは……!?」
王都の上空に、巨大な魔法陣が浮かび上がり、そこから、無数の光が街へと降り注いでいる。さらに、城壁の上や城門の周辺には、見覚えのない兵士たちが次々と現れ始めていた。
「……何が起こっている……?」
ラズールは、馬を止めた。やがて、遠くから悲鳴が聞こえてきた。街の至る所で、人々が逃げ惑っている。そして、それを追いかける、無数の兵士たち。
「……まさか……!」
ラズールは、顔を青ざめさせた。国王の魔法、それ以外に考えられなかった。
「……隊長! 街の人々が!」
「……分かっている!」
ラズールは、馬の手綱を強く握り締めた。王子を探しに行かなければならないが、目の前では民が襲われている。王宮の警備隊長として、見過ごすことなどできるはずがなかった。
ラズールは、部下たちへと命じた。
「……全員、王都へ戻るぞ! まずは、民の安全を……!」
しかし、その言葉を遮るように、一人の兵士が声を上げた。
「隊長は、そのまま王子殿下をお探しください」
「……何?」
兵士たちは、真剣な表情で彼を見つめていた。
「……我々は、王都へ戻ります」
「……馬鹿を言うな!」
ラズールは、声を荒らげた。
「見ろ! あの数を! あれほどの兵士を相手に、お前たちだけで何ができる!」
王都を埋め尽くすほどの魔法の兵士。その数は、王宮の警備兵全員を集めたところで、到底太刀打ちできるものではなかった。しかも、相手は魔法によって生み出された存在である。普通の兵士が戦ったところで、勝ち目などない。
だが、兵士の一人が、静かに答えた。
「……我々では、勝てないでしょう。ですが、民を逃がすことくらいはできます」
兵士は、穏やかに笑った。
「……それに、我々が王都へ戻ったところで、あの状況を根本から解決することはできません」
兵士は、遠くの空を見つめた。
「ですが、王子殿下なら、きっと何とかしてくださいます」
その言葉に、他の兵士たちも頷いた。
「隊長! 王子殿下をお願いします!」
「我々は、少しでも多くの民を助けます!」
「大丈夫ですよ! こう見えて、逃げ足には自信があるんです!」
「お前、いつも訓練で逃げ回ってるもんな!」
「うるせえ!」
兵士たちの間に、小さな笑いが起こった。しかし、ラズールには分かっていた。彼らは、恐怖を感じていないわけではない。
むしろ、誰よりも恐ろしいはずだった。それでも、彼らは笑っている。自分たちが守るべき民のために。ラズールは、拳を握り締めた。
「……お前たち、本当にそれで良いのか……?」
「はい! 隊長こそ、王子殿下を頼みます!」
兵士たちは、迷うことなく答えた。
「分かった。必ず、王子殿下をお連れする」
ラズールは部下たちを見渡した。
「……だから、お前たちも……必ず、生き延びろ」
兵士たちは、一斉に敬礼した。
「「はっ!!」」
そして、馬を翻した兵士たちは、笑いながら王都へと駆けていった。その背中を、ラズールは黙って見つめていた。
……すまない。自分が、もっと上手く立ち回っていれば。自分が、王子とジャファー大臣の言葉を信じていれば。こんな事態には、ならなかったかもしれない。
「……くそっ……!」
ラズールは、悔しそうに歯を食いしばった。しかし、立ち止まっている時間はない。今、自分にできることは、一つだけだった。
「……殿下……!」
ラズールは、馬の手綱を握り直した。
「……どうか、ご無事でいてください……!」
第十章 凸凹な仲間たち
数時間後。太陽は地平線の彼方へと沈み、砂漠には夜の帳が下りていた。昼間の灼熱が嘘のように、冷たい風が吹き抜けていく。そんな砂漠の中を、ラズールは馬を走らせていた。
「……はぁ……はぁ……」
王都を出発してから、既にかなりの時間が経過していた。王子が吹き飛ばされていった方角を頼りに、ひたすら馬を走らせてきたが、未だに手掛かりはない。
「……くそっ……!」
ラズールは、唇を噛んだ。
……このままでは、何も見つからない。しかし、諦めるわけにはいかなかった。部下たちは、自分を信じて王都へ戻ったのだ。
今頃、あの魔法の兵士たちを相手に、必死に民を守っていることだろう。自分だけが、諦めるわけにはいかない。
「……殿下……! どこにおられるのですか……!」
その時、遠くの地平線に、何かが見えた。最初は、岩山かと思ったが、違う。それは、ゆっくりと動いていた。
「……何だ……?」
ラズールは、目を細めた。夜の闇の中、月明かりに照らされた巨大な影。その上部には、何本もの柱のようなものが伸びている。そして、風を受けて広がる、巨大な黒い布。
「……船?」
思わず、呟いた。
……いや、待て。ここは砂漠である。海など、どこにもない。それなのに、目の前には、どう見ても巨大な帆船が存在していた。しかも、
「……浮いている……?」
その船は、砂漠の地面から僅かに浮かび上がっていた。巨大な船体が、まるで海の上を進むかのように、砂漠の上空を滑っているのである。
ラズールは、しばらく呆然としていた。
「……疲れているのか、私は……」
きっと、疲労による幻覚だ。ほとんど休まず馬を走らせている。砂漠の真ん中に巨大な船が浮いているなど、常識的に考えてあり得ない。
「……落ち着け、ラズール。まずは、水を……」
ラズールは、額を押さえた。しかし、船の上から声が聞こえてきた。
「……あれ? もしかして、ラズールですか?」
ラズールは、ゆっくりと顔を上げると、巨大な帆船の船首に、一人の少年が立っていた。
月明かりに照らされたのは、見間違えるはずのない顔だった。
「……王子、殿下……?」
「……やっぱり、ラズールですね! こんなところで、何をしているんですか?」
王子は、嬉しそうに手を振った。ラズールは、答えられなかった。何しろ、探し求めていた王子が、何故か巨大な黒い帆船に乗って、砂漠の上空を移動しているのである。理解が追いつくはずもなかった。
「……あ、ちょっと待っていてくださいね!」
王子は、片手を掲げた。すると、ラズールの足元の砂が、ゆっくりと盛り上がり始めた。
「……なっ!?」
ラズールは、慌てて馬の手綱を握る。しかし、砂は彼らを包み込むように持ち上がり、そのまま巨大な船へと向かって伸びていく。
「……う、おおおおッ!?」
次の瞬間、ラズールと馬は、砂で作られた巨大な足場に乗せられ、船の甲板へと運ばれていた。
「……はい、到着です! 大丈夫ですか?」
王子は、にこりと微笑んだ。ラズールは、しばらく固まっていた。目の前には、王子がいる。その背後には、アラジンと猿。さらに、赤いオウムと、宙に浮かぶ魔法の絨毯。
そして、甲板のあちらこちらでは、砂でできた船員たちが忙しそうに働いていた。
「…………」
……何だ、これは?
ラズールは、心の底からそう思ったが、次の瞬間には、
「……殿下ッ!!」
ラズールは、馬から飛び降り、王子の目の前で、両膝をついた。
「……ラズール?」
王子は、不思議そうに首を傾げるが、ラズールはそのまま、深く頭を下げた。
「……誠に……申し訳ございませんでした……! 全て、私の責任でございます……!」
ラズールの声は、震えていた。
「……私が……私が、王子殿下とジャファー大臣のご忠告に従わず、陛下に報告してしまったばかりに……!」
ラズールは、拳を握り締めた。
「……その結果、陛下は激怒され、王宮は混乱し、殿下をこのような危険な目に遭わせてしまいました……! 全て、私の軽率な判断が招いたことでございます……!」
ラズールは、さらに深く頭を下げた。
「……いかなる処罰も、甘んじてお受けいたします……! どうか……どうか、お許しください……!」
その言葉を聞いて、王子は少しだけ目を丸くしながらも、穏やかな声で、彼の名前を呼んだ。
「……ラズール。顔を上げてください。大丈夫です。あなたには怒っていませんから」
ラズールは、ゆっくりと顔を上げた。王子は、いつもどおりの穏やかな笑顔を浮かべていた。
「……あなたは、自分の仕事をしただけでしょう?」
「……殿下……?」
「王宮の警備隊長として、国王に報告するべきことを報告した。それ自体は、間違った行動ではありませんよ」
王子は、小さく肩を竦めた。
「……まあ、できれば、もう少し僕たちの事情も考慮してほしかったですけどね。でも、今回の件で、本当に問題だったのは、父上の判断です。あなた一人が責任を負う必要はありません」
王子は、ラズールへと手を差し伸べた。
「……ですから、もう謝らなくて大丈夫ですよ」
ラズールは、その手を見つめた。そして、
「……殿下……!」
その目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……申し訳……ございません……!」
ラズールは、再び深く頭を下げた。王宮警備隊長として、常に厳格であろうとしてきた男。部下の前では決して弱みを見せず、王族の前では常に礼節を守ってきた男。そんな彼が、泣いていた。
「……本当に……申し訳ございません……!」
「……もう。謝らなくていいと言ったでしょう?」
王子は、困ったように笑う。その様子を、少し離れた場所から眺めていたアラジンは、ぽつりと呟いた。
「……何か、すごいな」
「……何がだよ?」
イアーゴが首を傾げる。
「いや、だってさ。あの怖そうな警備隊長が、あんなに泣いてるんだぜ?」
「……まあ、そりゃな」
イアーゴは、王子の背中を見つめた。
「……あいつ、昔からああいうところがあるんだよ」
「……へえ」
「……まあ、だからこそ、面倒くせえんだけどな」
イアーゴは、少しだけ笑った。しかし、その穏やかな空気は、長くは続かなかった。王子が、ふと思い出したように、
「……ところで、ラズール。どうして、こんなところまで?」
ラズールは表情を一変させ、慌てて立ち上がった。
「……そうでした! 殿下! 大変なことが起こっております!」
「……大変なこと?」
「はい! アグラバー王国が……!」
ラズールは、息を整え、王都で起こっている出来事を、王子たちへと説明し始めた。
国王が、突如として大量の兵士を生み出したこと。その兵士たちが、街の至る所で民を捕らえ始めたこと。そして、些細な嘘や口論ですら罪と見なされ、ほとんどの国民が拘束の対象となっていること。
さらに、王宮の警備兵たちまでが、魔法の兵士に襲われていること。その全てを聞き終えた時、
「「…………」」
「……ウキ?」
王子とアラジンは、完全に固まっていた。
「……えーっと……」
王子は、ゆっくりと口を開いた。
「……すみません、ラズール。もう一度、確認しても良いですか?」
「……何でしょうか?」
「……父上が、魔法で大量の兵士を生み出して、その兵士たちが、国民を片っ端から捕まえている?」
「……はい」
「……しかも、嘘をついただけでも?」
「……はい」
王子は、ゆっくりと空を見上げた。
「……父上ぇ……」
その声には、何とも言えない疲労感が滲んでいた。
「……僕がいない間に、何をしてるんですか……」
「……いや、王子様。これ、笑い事じゃないよな?」
アラジンが引き攣った笑顔で口を開き、王子は深いため息をついた。
「……ええ。全くもって、そのとおりです。正直、ここまでの事態になっているとは思いませんでした」
当初の予定では、王宮へ戻り、父と真正面から話し合うつもりだった。必要ならば、少々派手な親子喧嘩になることも覚悟していた。
しかし、今の話を聞く限り、事態はそれどころではない。王都全体が、父の魔法によって制圧されかけているのである。
「……困りましたね。父上を説得するだけでは、解決しないかもしれません」
「……そうなのか?」
「ええ。魔法で生み出された兵士たちが、どのような命令で動いているのか分かりませんから。父上を止めたとしても、兵士たちが活動を続ける可能性があります」
「……なるほどな。じゃあ、どうするんだ?」
アラジンも、難しい顔で考え込んだ。
「……そうですね……」
王子は、しばらく考え込むが、今度はイアーゴが口を開いた。
「……なあ。俺様、ちょっと思ったんだけどよ」
「……何ですか、イアーゴ?」
イアーゴは、羽を組んだ。
「……そもそも、今回の騒動って、ほとんどランプの魔人の魔法が原因なんだろ?」
「……え?」
「だって、そうじゃねえか。そこの盗人が王子の格好になったり、王様が変な魔法を使えるようになったのも、ランプの魔人に願いを叶えてもらったからなんだろ?」
「……まあ、そうですね」
イアーゴは、にやりと笑った。
「……だったらよ、ランプの魔人の魔法で王様を元に戻せばいいんじゃねえの?」
王子は、目を瞬かせ、アラジンも同じように固まった。
「「…………あ、確かに」」
二人の声が、重なった。
「……その手がありましたね」
イアーゴは、得意げに胸を張った。
「へっ! 俺様にかかれば、こんなもんよ!」
アラジンが、首を傾げた。
「……いや、でも待てよ。ジーニーは、今、王様の命令に従ってるんだろ? だったら、俺たちが元に戻してくれって頼んでも、聞いてくれないんじゃないか?」
「……そうですね。ですが、方法はあります」
王子は頷き、笑みを浮かべた。
「……要するに、父上からランプを取り戻せば良いんですよ」
アラジンは、勢いよく手を叩いた。
「そうか! ランプを取り戻せば、ジーニーに命令できるようになるのか!」
「……ええ。ただし、現在の所有者が父上である以上、簡単にはいかないでしょうけど」
王子は、少しだけ真剣な表情になった。
「……それに、父上が今どういう状況なのかも確認する必要があります。単に魔法の力を手に入れただけなのか、それとも、何か別の願いを叶えてもらったのか……」
「……まあ、そこは行ってみなきゃ分からねえな」
イアーゴが、肩を竦めた。
「……そうですね」
王子は、静かに頷き、ラズールへと向き直った。
「……ラズール。王都に戻ったら、まずは民の安全を確保します。その後、王宮へ向かい、父上を止めます」
「……承知いたしました!」
王子は、少しだけ表情を和らげた。
「……今回は、あなたにも協力していただきますよ?」
「……もちろんでございます! この命に代えましても、殿下をお守りいたします!」
ラズールは、力強く頷いた。
「……いや、命に代えなくて結構ですからね?」
「……はっ!」
「……本当に、分かっています?」
「……はっ!」
「……不安ですね……」
王子は、困ったように笑った。その様子を見て、アラジンも笑みを浮かべる。
「……よし! じゃあ、決まりだな!」
「ウキッ!」
アブーも、元気よく拳を掲げた。
「……へっ! ようやく面白くなってきたじゃねえか!」
イアーゴも、楽しそうに笑った。魔法の絨毯は、そんな彼らの周囲をくるりと回り、船首の方角を指差すように端を伸ばした。王子は、その様子を見て、思わず笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます、皆さん」
そして、ゆっくりと船首へと歩いていった。イアーゴは当然のように王子の肩に止まり、アラジンとアブーがその後ろに立つ。傍らには、魔法の絨毯、そして、王宮警備隊長ラズール。
……何とも、奇妙な顔ぶれだった。
普通ならば、決して同じ陣営に立つことのない者たちである。何しろ、アラジンとラズールに至っては、つい最近まで、追う者と追われる者の関係だったのだ。
ラズールは、ふとアラジンへと視線を向けた。
「……おい、貴様」
「……ん?」
「……何故、貴様が殿下と一緒にいる?」
「……いや、今さら!?」
アラジンは、思わず声を上げた。
「さっきから、ずっといたじゃないか!」
「……それはそうだが……」
ラズールは、眉を顰めた。
「……そもそも、貴様は王女殿下を連れ出した不届き者であろう。しかも、王族を騙っていたと聞いているが?」
「……いや、それは……」
「……さらに、王女殿下の私室に侵入したとも……」
「……ちょ、ちょっと待てよ! 今、その話する!?」
アラジンは、慌てて両手を振った。
「今は、王国が大変なことになってるんだろ!? それどころじゃないじゃないか!」
ラズールは、少し考え込んだ。
「……確かに、そのとおりだな。では、今回の騒動が収まった後で、改めて事情を聴くとしよう」
「……えええええッ!?」
アラジンの悲鳴が、甲板に響き渡った。
「ウキキキッ!」
アブーは、そんな相棒を見て大笑いしている。
「……へっ! ざまあねえな!」
イアーゴも、楽しそうに笑った。
「お前ら! 笑ってないで助けろよ!」
「……あはは!」
王子も、思わず笑ってしまった。立場も、性格も、これまで歩んできた人生も、何もかも違う者たち。そんな彼らが、今は同じ目的のために集まっている。
……アグラバーを、取り戻す。そして、父上と、ちゃんと話をする。
王子は、ゆっくりと前方を見つめた。夜の砂漠。その遥か彼方には、アグラバー王国がある。自分が生まれ育った国。そして、今まさに、未曾有の危機に陥っている故郷。
「……さて」
王子は、静かに呟いた。
「……皆さん、準備は良いですか?」
「おう!」
「ウキッ!」
「へっ! いつでもいいぜ!」
魔法の絨毯も、元気よく端を持ち上げた。
「……はっ! 殿下のご命令とあらば!」
ラズールも、力強く敬礼した。王子は、満足そうに頷いた。
「……では、行きましょう」
そして、片手を掲げると、巨大な黒い帆船が、大きく加速した。漆黒の帆が夜風を受け、三本の帆柱が月明かりに照らされる。砂で作られた船員たちは、一斉に持ち場へと駆け出し、巨大な船体を操り始めた。
「……目指すは、アグラバー王国!」
その宣言と共に、漆黒の巨大帆船は、夜の砂漠を猛烈な勢いで駆け抜けていった。
……こうして、アグラバー王国の王子。元泥棒の少年と、その相棒の猿。口の悪いオウムと、空飛ぶ魔法の絨毯。そして、厳格な王宮警備隊長。
原作を知る者が見れば、思わず頭を抱えたくなるような、あまりにも異色の一団が結成されたのである。しかも、その目的は、国王が魔法で生み出した軍勢を突破し、王宮へ突入すること。そして、国王本人を相手に、前代未聞の親子喧嘩を繰り広げることだった。
……もっとも、この時の王子たちは、まだ知らなかった。王宮で待ち受けている父親が、既に自分たちの知る温厚なサルタンではなくなっていることを。
そして、彼が掲げる『完璧な統治』という理想が、アグラバー王国そのものを、恐ろしい方向へと変えようとしていることを。そんなことなど知る由もなく、王子は、船首に立って楽しそうに笑っていた。
……さあ、父上。今度こそ、ちゃんと話し合いましょう。ただし、
王子は、にやりと笑った。
……今度は、僕も遠慮しませんからね。
こうして、アグラバー王国の運命を左右する、前代未聞の親子喧嘩が、いよいよ始まろうとしていた。