午前四時。旅館の一室に静かな時が流れていた。窓の外はまだ闇に包まれている。海の向こうがわずかに白み始めているが、夜明けにはまだ早い。箒は布団の上に横たわる一夏の傍らに座っていた。あれから三時間。一夏は眠り続けている。その顔はまだ青白く、呼吸は浅い。聖天月華の反動が、彼の体をここまで消耗させてしまったのだ。
(私が、もっとしっかりしていれば)
箒は、自分の拳を握りしめた。あの時、遠距離型の無人機に気を取られていなければ。一夏が力を使い果たす前に、もっと早く敵を片付けていれば。後悔ばかりが胸をよぎる。紅椿の性能は、確かにすごかった。だがそれを活かしきれなかったのは自分だ。
「箒」
不意に、声がかけられた。箒が顔を上げると、部屋の入り口に鈴音が立っていた。腕を組み、どこか不機嫌そうな表情で箒を見下ろしている。
「いつまで落ち込んでるの」
「鈴音……」
「あんたがそんな顔してても、一夏は起きないわよ」
鈴音はそう言って箒の隣に腰を下ろした。その声はきついが、どこか心配するような響きを含んでいる。
「分かってる。分かっているが……」
「だったら、いつまでもそんな顔してないで。あんたにできること、あるんじゃないの?」
箒は、鈴音の言葉に黙り込んだ。鈴音は、そんな箒の様子を見て少しだけ声を和らげる。
「なあ、箒。リベンジしないか」
「リベンジ……?」
「そ。銀の福音、あれだけやられて黙ってるわけにはいかないでしょ」
箒は、鈴音の顔を見た。その目には確かな闘志が宿っている。箒は、少しだけ迷ってから口を開いた。
「戦いたい。だが、銀の福音の居場所が分からない。あれだけの機体だ。そう簡単に追跡できるとは……」
「大丈夫」
鈴音は、そう言って部屋の入り口に視線を向けた。ちょうど、そこにラウラが入ってきたところだった。
「ラウラ」
「ああ。報告がある」
ラウラは、真っ直ぐに箒の前まで歩み寄ると、背筋を伸ばして口を開いた。
「銀の福音の位置を特定した。ここから三十キロ離れた沖合上空。ステルスモードで静止している」
「三十キロ……」
箒は小さく呟いた。ラウラは続ける。
「軍用のレーダーを解析した。銀の福音は、あの後も同じ空域に留まっている。おそらく、次の行動に移る前に何らかの調整を行っているのだろう」
「そうか……」
箒は、拳を握りしめた。銀の福音はまだ近くにいる。そして、ラウラがその位置を特定してくれた。ならば、やることは一つだ。
「鈴音」
箒は、顔を上げた。その目には、もう迷いはない。
「やる。やらせてくれ」
「よし。その意気よ」
鈴音はそう言って、立ち上がった。その顔には少しだけ笑みが浮かんでいる。
「じゃあ、作戦会議よ。専用機持ち全員を集めるわ」
「ああ」
箒も立ち上がった。そして、もう一度だけ一夏の顔を見下ろす。
「一夏。今度こそ、私が決める。お前の力無駄にはしない」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。だが、その言葉には確かな決意が込められていた。箒は、鈴音とラウラと共に部屋を後にした。廊下は静まり返っている。まだ、他の生徒たちは眠っているようだった。箒は、自分たちの足音だけが響く廊下を歩きながら、改めて決意を胸に刻んでいた。
(今度は、負けない。一夏の分も私が戦う)
やがて、三人は専用機持ちたちが待つ部屋へと辿り着いた。扉を開けると、そこにはすでにセシリアシャルロットの姿があった。
―――
夢の中は、いつもと同じだった。
どこまでも続く灰色の空間。足元には何もなく、ただ虚無だけが広がっている。一夏は、その中に立っていた。声もなく、光もなくただ静寂だけが支配する世界。
(また、ここか)
一夏は、そう思った。何度も見た夢だ。かつて歴代のレイヴンたちが現れて、自分を苦しめた夢。その記憶が、まだ一夏の心の奥底にこびりついている。
(だが、今回は……)
一夏は、周囲を見回した。いつもならすぐにレイヴンたちの気配が現れる。だが、今回は違った。灰色の空間は静まり返り、何の気配も感じられない。まるで、この空間そのものが一夏を拒絶しているかのような、そんな静けさだった。
「——大丈夫」
不意に、声が聞こえた。一夏ははっと顔を上げる。灰色の空間の奥から、白い光が近づいてくる。その光は、ゆっくりとしかし確実に一夏の元へと歩み寄ってきた。やがて、光の中から一人の少女が現れる。白いワンピースを着た、白髪の少女。その目は血のように赤く、しかしどこか優しさを宿している。一夏は、その少女を知っていた。
「君は……」
かつて、この夢の中で出会った少女。歴代のレイヴンたちに苦しめられる一夏を助けてくれた存在。名前も、素性も分からない。だがその姿だけははっきりと覚えている。
「また、来てくれたんだ」
少女は、そう言って微笑んだ。その声は、鈴の音のように澄んでいた。
「君は……誰なんだ」
一夏は、そう聞かずにはいられなかった。少女は、少しだけ首を傾げる。
「それは、まだ教えられない。でも一つだけ言えることがある」
少女は、一夏の前に立った。白いワンピースの裾が、灰色の空間の中でふわりと揺れる。
「あなたは、一人じゃない。いつも誰かが見守っている」
「誰かって……」
「それは、あなた自身が決めること」
少女は、そう言って一夏の手を取った。その手は、驚くほど温かかった。灰色の空間に、ほんの少しだけ光が差したような気がした。
「あなたの機体。白鴉。あの子は、あなたのことを待っている」
「白鴉が……?」
「そう。あの子は、まだあなたに伝えたいことがある。だから、負けないで。あの子と一緒に生きて」
少女の言葉は不思議と一夏の胸に染み込んでいった。白鴉。自分の機体。その機体が、自分に何かを伝えたいとしている。そのことが、なぜか一夏には理解できた。少女は、そんな一夏の様子を見てもう一度微笑んだ。
その時だった。周囲の景色が、まるで水面に石を落としたかのように揺らぎ始めた。灰色の空間が歪み、色が滲みやがて別の光景へと変わりゆく。一夏は、思わず息を呑んだ。
荒廃した世界だった。見渡す限り、焼け焦げた大地が広がっている。崩れ落ちたビル。錆びついた鉄骨。そして空は、夕暮れのような赤黒い色に染まっていた。まるで、世界の終わりをそのまま切り取ったような光景。一夏は、自分の立っている場所がどこなのか分からず、ただ立ち尽くしていた。
「なんだ……ここは……」
隣で、白い少女が険しい表情を浮かべていた。彼女の赤い瞳が、まっすぐに前方の一点を見つめている。一夏は、その視線を追った。そして見つけた。荒廃した世界のただ中に、もう一人の自分が立っていた。
黒いコートを纏い炎を纏った黒い鳥を携えている。その鳥は、一夏が知っているどの鳥とも似ていなかった。翼は炎でできており、目はルビーのように赤く輝いている。もう一人の一夏は、こちらを見てゆっくりと笑みを浮かべた。
「よお」
その声は、紛れもなく一夏自身のものだった。だが、その響きにはどこか諦観のようなものが混じっている。一夏は、思わず一歩後ずさった。
「お前……誰だ」
「つれないなあ。ずっと話していたじゃないか」
もう一人の一夏は、そう言って肩をすくめた。一夏は、はっとした。頭の中に響く声。あの声の主が、この目の前の存在だというのか。
「頭に響く声のことか」
「まあ、そうだな。正確にはその一部にすぎないけどな」
もう一人の一夏はそう言って炎の鳥を肩に止まらせた。白い少女が、一夏を守るようにして前に立った。その背中は、どこか緊張しているように見える。もう一人の一夏は、そんな少女を見ても特に気にした様子はなかった。
「安心しろ。争いに来たわけじゃない」
「何しに来た」
白い少女が、低い声で聞いた。もう一人の一夏は、その声を聞いて少しだけ表情を引き締めた。
「これからの闘いに必要だからだ。お前が押さえつけている物を、一部開放しろ」
その言葉に、白い少女の体がびくりと震えた。一夏には、何のことを言っているのか分からない。だが、少女が何かを必死に押さえつけていることだけは、その表情から伝わってきた。
「拒否する」
白い少女は、短く答えた。その声には確かな拒絶の色が込められている。もう一人の一夏は、そんな少女を見て小さく息を吐いた。
「このままだと、そう遠くない未来にお前は死ぬことになる」
その言葉は、一夏に向けられたものだった。白い少女が、はっとしたように動揺する。一夏は、その言葉の意味を理解できずただもう一人の自分を見つめていた。
「どういうことだ」
一夏が聞くともう一人の一夏は、静かに口を開いた。
「お前が戦った無人機。あれは、俺たちの世界の知識と技術で作られたものだ」
「俺たちの世界……」
「ああ。そして、それを作ったものは……」
もう一人の一夏は、そこで一度言葉を切った。炎の鳥が、彼の肩の上で小さく羽ばたく。その炎が、荒廃した世界を一瞬だけ明るく照らした。
「俺たちと同じ存在だ」
その言葉が、一夏の胸に重く響いた。俺たちと同じ存在。つまり、この男もそして自分の中に眠る声の主たちも、同じところから来たということなのか。一夏は、自分の体の奥底で何かがざわめくのを感じた。それは恐怖ではない。だが、確かな違和感だった。
「お前は……何者なんだ」
一夏は、そう聞いた。もう一人の一夏は、その問いに少しだけ悲しそうな笑みを浮かべた。
「いつか分かる時が来る」
もう一人の一夏はそう言って炎の鳥を肩から降ろした。鳥は一夏の周りを一周すると、再び主の肩へと戻っていく。その炎が、荒廃した世界の赤黒い空を一瞬だけ明るく照らした。
「だが、その時は今じゃない。今必要なのは、お前が生き残ることだ」
もう一人の一夏の視線が、白い少女へと向けられる。
「早くしろ。時間がないんだ」
白い少女は、唇を噛みしめていた。その白い手が、胸の前で強く握りしめられている。何かを必死に押さえつけている。そんな仕草だった。
「駄目。今開放すれば、この子の精神が持たない」
「一部だけだ。全部じゃない。お前が制御しろ」
「だが……!」
「このまま何もしなければ、確実に死ぬ。それだけは避けたい」
白い少女の肩がわずかに震えた。一夏は、そんな少女の姿を見てそっとその肩に手を置いた。少女が、はっとしたように振り返る。その赤い瞳が、一夏の顔を映していた。
「大丈夫」
一夏は、そう言って笑いかけた。自分でも不思議なくらい、自然な笑みだった。
「お前が守ってくれるんだろ。なら、信じる」
少女は、一夏の顔をじっと見つめていた。その瞳に、迷いの色が浮かぶ。やがてその迷いは決意へと変わった。少女は、小さく頷いた。
「分かった。だが、一部だけ。絶対に無理はしないで」
一夏は頷いた。少女は深く息を吸い込む。そして、胸の前で組んでいた手をゆっくりと解いた。
その瞬間だった。
一夏の脳裏に膨大な情報が流れ込んできた。映像。音。感覚。知識。まるで、自分ではない誰かの人生を一気に流し込まれたかのような感覚。頭が割れるように痛む。視界が白く染まり、体のバランスが崩れかける。
「っ……!」
一夏は、歯を食いしばった。膝が震える。だが、倒れるわけにはいかない。少女が、必死に自分を守ってくれている。その思いが、一夏を踏みとどまらせた。流れ込んでくる情報は、膨大ではあったがかつて経験したものと比べれば、まだ少ない。一夏は必死にそれに耐えた。どれくらいの時間が経っただろうか。やがて、情報の奔流が収まり始めた。一夏は、荒い息をつきながらどうにか体を支えた。
「大丈夫?」
白い少女が、心配そうに声をかけてくる。一夏は、顔を上げて笑みを浮かべた。その顔には、脂汗が浮かんでいる。
「ああ……。何とか、な」
もう一人の一夏は、そんな一夏の様子を見て満足そうに頷いた。
「上出来だ。これで少しはマシになる」
「お前……。一体、何を……」
「言っただろう。いつか分かる時が来る。その時まで、生き残れ」
もう一人の一夏はそう言うと背を向けた。炎の鳥が、彼の周りを舞う。荒廃した世界が、再び揺らぎ始めた。夢が終わりに近づいている。
「待て!」
一夏が呼び止めるが、もう一人の一夏は振り返らない。
「お前の機体を大事にしろ。あの白鴉は、お前の相棒だ」
その声を最後にもう一人の一夏の姿が、炎の中へと消えていった。荒廃した世界が崩れ落ち、再び灰色の空間が広がる。一夏は、その場に立ち尽くしていた。頭の奥が、まだじんじんと痛む。だが不思議と心は落ち着いていた。白い少女が、一夏の隣に立っている。その顔には、まだ少しの不安が残っていた。
「ありがとう」
一夏は、そう言った。少女は少しだけ驚いたように一夏を見た。そして、ふわりと微笑んだ。
「あなたは、強い人。だからきっと大丈夫」
少女の姿が、少しずつ薄れていく。夢の終わりが近づいているのだ。一夏は、その姿を見つめながら小さく手を振った。
「またな」
少女は、最後に一度だけ頷いて光の中へと消えていった。一夏の意識が、ゆっくりと浮上していく。遠くで、誰かが自分の名前を呼んでいる声が聞こえた気がした。