四十話
八月のIS学園は遅めの夏休みを迎えていた。蝉の声が寮の周囲に響き渡り、容赦ない日差しが校舎の壁を白く照らしている。鈴音は、寮の廊下を歩いていた。冷房の効いた館内とはいえ、窓から差し込む陽射しは容赦なく、廊下の空気はどこかもったりとしていた。彼女は制服の襟元を軽く扇ぎながら、小さくため息をついた。
「暑い……」
誰に言うでもなく、そう呟く。こんな日は冷たいものでも飲んで部屋でのんびりしたいところだ。だが、今日はそうもいかない用事があった。と、廊下の角を曲がったところで鈴音は見覚えのある背中を見つけた。
「あれ? 一夏」
声をかけると一夏が振り返った。白鴉の腕輪をつけたままの彼は、どうやらどこかから戻ってきたところらしい。手にはタオルと、小型の端末ケースを提げている。その額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「おう、鈴。暑いな」
「ええ。もう、うんざりするくらいにね」
鈴音はそう言って、一夏の隣に並んだ。廊下を歩きながら、何気なく聞いてみる。
「何してたの? そんなに汗かいて」
「ああ。倉持技研の研究員が来ててさ。白鴉・熾天のデータを取ってたんだよ。VOBの運用データとか、パルスブレードの出力特性とか」
一夏は、そう言って手にした端末ケースを軽く持ち上げてみせた。鈴音は、その言葉に少しだけ興味を引かれた。
「へえ。そんなことになってるのね」
「うん。なんか、向こうも色々と大変みたいで」
一夏はそう言って少しだけ苦笑した。鈴音はその笑みの意味を聞きたいような、聞きたくないようなそんな複雑な気持ちになった。と、一夏が立ち止まった。
「なあ、鈴音。ここで話すのもなんだし、俺の部屋来るか? 冷たいものでも出すよ」
「え?」
鈴音は、一瞬だけ固まった。一夏の部屋。男子の部屋。心臓が、少しだけ早くなる。だがそれを悟られないように、鈴音は平静を装った。
「……そうね。この暑さじゃ、廊下で立ち話もなんだし。お邪魔しようかしら」
「おう。じゃあ、こっちだ」
一夏はそう言って、再び歩き出した。鈴音はその後ろを少しだけ間を置いてついていく。一夏の部屋は、寮の二階の端にあった。扉を開けて中に入ると、思ったよりも整頓された空間が広がっていた。ベッドに机、小さな冷蔵庫。窓からは青い空が見える。一夏は、鈴音に椅子を勧めると自分は冷蔵庫へと向かった。
「麦茶でいいか?」
「ええ。ありがとう」
鈴音は、椅子に座りながら内心で小さく息を吐いた。緊張している自分が、少しだけ恥ずかしい。それを紛らわせるために、鈴音は先ほどの話を振ることにした。
「それで? 研究員の人、白鴉・熾天のデータを見てどうだったの?」
「ああ。それがさ」
一夏は、冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出しながら、少しだけ困ったように笑った。
「かなり戸惑ってたよ。『え、これISなの?』って。まあ無理もないよな。あの機体、ISの常識からかなり外れてるし」
一夏の言葉に、鈴音は小さく頷いた。
「でしょうね」
鈴音は、白鴉・熾天の性能を思い出していた。あのVOBによるマッハ2の加速。物理装甲を前提とした機体構造。ISと違う設計思想で再構築されたシステム。ISの枠に収まらない、異形の機体。研究員が戸惑うのも、無理はない。
「向こうの人、なんて言ってた?」
「『データが既存のISのフォーマットに収まらない』って。計測機器の設定を何度もやり直してたよ」
一夏はそう言って、麦茶をグラスに注いだ。氷が涼しげな音を立てる。鈴音は、そのグラスを受け取った。
「ありがとう」
冷たいグラスが、火照った手のひらに心地よい。鈴音は、一口だけ麦茶を含んだ。とふと、テーブルの上に置かれたものに目が留まった。分厚い、革張りのアルバムだった。表紙には、金色で「MEMORIES」と刻まれている。鈴音は、そのアルバムを見て少しだけ懐かしい気持ちになった。
「まだ、記念写真を続けているの?」
鈴音の問いに、一夏は少しだけ照れたように笑った。
「ああ。一応な。千冬姉に言われて、続けてるんだ。『記録は、残しておくものだ』って」
そう言って、一夏は鈴音の前に麦茶を置いた。鈴音は、そのアルバムを指で軽く叩いた。
「見てもいい?」
「いいぞ。俺も、久しぶりに開くからな」
一夏がそう言ったので鈴音はアルバムを開いた。最初のページには、一枚の写真が貼られていた。中学生くらいの千冬と、小学生くらいの一夏。千冬は今と変わらない凛とした表情で、一夏の肩に手を置いている。一夏は、少しだけ照れくさそうにしかし確かに笑っていた。
「これが、一番最初なの?」
「ああ。これより前の写真は、無いんだ」
一夏の声は、静かだった。鈴音はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「これより前……」
鈴音は、写真をもう一度見つめた。小学生の一夏。その隣には、千冬がいる。だがそこには――親の姿がない。鈴音は、少しだけ躊躇してから口を開いた。
「これより前に……ご両親が、居たのかなって」
その言葉に、一夏は少しだけ目を細めた。そして、静かに次のページをめくった。
「ああ。でも、俺はあんまり覚えてないんだ。写真も残ってないし」
一夏の声は、どこか遠くを見ているようだった。鈴音は、それ以上は何も聞かなかった。聞いてはいけない気がした。一夏は、次のページを指で示した。そこには、千冬と一夏が並んで写っている写真があった。場所は、どこかの海岸のようだった。
「これは、千冬姉に連れて行ってもらった海水浴。俺、泳げなくてさ。千冬姉にひたすらしがみついてた」
「ふふ。想像がつくわ」
鈴音は、小さく笑った。一夏もつられたように笑う。
「この時、千冬姉に『男なら泣くな』って言われたんだ。でも、俺、泣きながらしがみついてた」
「千冬さんらしいわね」
鈴音は、写真の中の千冬を見つめた。若い。だが、その目は今と同じように強い。鈴音は、この人が一夏を育てたんだなと思った。そして、ふと気づく。一夏がこのアルバムを大切にしている理由を。それは、記録だからではない。それは一夏の、これまでの人生そのものだからだ。
「なあ、鈴音」
一夏が、ふいに言った。
「こうやって、昔の話をするのってなんかいいよな」
「そう?」
鈴音は、少しだけ顔を上げた。一夏は麦茶を一口含んで、柔らかく笑った。
「うん。なんか、こう……あったかい気持ちになる」
「……そうね。そういうものかもしれないわ」
鈴音は、アルバムのページをもう一度めくった。そこには、IS学園に入学してからの写真が、たくさん貼られていた。箒。セシリア。鈴音。シャルロット。ラウラ。みんなが、それぞれに笑っている。その中に、一夏もいる。鈴音はその写真を見て、なんだか少しだけ胸が熱くなった。この夏が、いつかこのアルバムの一ページになるのだろう。そう思うと、この暑さも悪くないような気がした。
アルバムを閉じた後鈴音はしばらくの間、麦茶のグラスを手の中で弄んでいた。冷たい雫が、指の間を伝っていく。一夏はアルバムを棚に戻すと、再び椅子に座った。窓の外では、蝉がまだ鳴いている。鈴音は意を決したように顔を上げた。
「ねえ、一夏」
「ん?」
一夏が、麦茶を一口含みながら応える。鈴音は、その何気ない仕草にも少しだけ鼓動が早くなるのを感じた。だが、それを悟られないようにできるだけ自然な声で言った。
「明日、どこかへ遊びに行かない?」
その言葉は、鈴音にしては珍しく少しだけ上ずっていた。一夏は、グラスをテーブルに置いた。
「ああ、いいな。じゃあ皆で行こうぜ」
その瞬間鈴音の表情が、かっと熱くなった。
「…………は?」
鈴音の声が、低く響いた。一夏は何が起こったのか分からないという顔で、首をかしげた。
「え? だから、皆で行こうって。箒たちも誘ってさ。夏休みだし、たまには皆で遊ぶのも――」
「一夏」
鈴音の声が、一夏の言葉を遮った。その声には、明らかな怒気が込められている。一夏は、思わず身を引いた。
「な、なんだよ。急に怒るなよ」
「怒ってません」
怒っている。誰がどう聞いても、怒っている。鈴音は膝の上で拳を握りしめた。せっかく、勇気を出して誘ったのに。二人で、遊びに行きたかったのに。なのにこの男は、よりにもよって「皆で行こう」だと。相変わらずの、唐変木。いや唐変木もここまで来ると一種の才能かもしれない。
「何で怒ってるのか、理由を聞いてもいいか?」
一夏が、本当に分からないという顔で聞いてきた。その顔を見て、鈴音は余計に腹が立った。だが、その怒りの裏には別の感情があることも、鈴音自身が一番よく分かっていた。言えない。言えるわけがない。「二人で行きたかった」なんて。そんなことを言ったら、この男はどんな顔をするだろう。きっと、きょとんとした顔で「え、なんで?」と聞き返すに違いない。そして鈴音は、その質問に答えられずさらに悶々とするのだ。そんな未来が、容易に想像できた。
「鈴音?」
一夏が、心配そうに鈴音の顔を覗き込んだ。鈴音は、言葉が詰まった。何か言わなければ。だが、何を言えばいい。頭の中を様々な言葉が巡っていく。しかし、どれもこれも口に出せそうにない。しばらくの沈黙の後、鈴音は大きく息を吐いた。
「……別に。何でもないわ」
その声は、どこか諦めにも似ていた。一夏は、まだ納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「そうか? ならいいけど」
「ええ。それで、明日は皆で行くのね?」
「ああ。せっかくだから、皆で賑やかに行こうぜ」
一夏は、そう言って明るく笑った。その笑顔が、鈴音には少しだけ恨めしかった。だが、それ以上に自分のヘタレ加減が情けなかった。心の中で、鈴音は自分自身に毒づいた。
(何やってるのよ、私。せっかくのチャンスだったのに……)
一夏は、そんな鈴音の内心を知る由もなく、明日の予定を楽しげに考え始めている。その横顔を、鈴音はじっと見つめていた。この男の、この鈍感さ。それが時には救いになり、時にはこんなにも腹立たしい。鈴音は、もう一度麦茶を一口含んだ。冷たい感触が、火照った体に染み渡っていく。
(まあ、いいわ。皆で行くのも楽しいかもしれないし)
そう自分に言い聞かせて鈴音は小さく息を吐いた。だが、その胸の奥底では小さな悔しさが燻り続けていた。その悔しさは、きっと明日まで尾を引くだろう。そう思いながら、鈴音は窓の外の青空を見上げた。蝉の声が、まだ鳴り止まない。