それから数日、一夏は楯無に振り回され続けた。
朝は必ず楯無に起こされる。いや、正確には起こされるのではない。目が覚めるとすでに楯無が部屋にいて、なぜか一夏のベッドの脇で正座をして微笑んでいるのだ。「おはよう、一夏君。よく眠れた?」その声で目を覚ますと、まず視界に飛び込んでくるのがエプロン姿の楯無。しかも中身はだいたい水着か、あるいはそれに準ずる何かだ。一夏は毎朝、心臓に悪い思いをしながら起きることになった。
「先輩。せめて普通の服を着てください」
「あら。これじゃダメ?」
「ダメです」
「残念」
昼休みになれば楯無が教室までやってくる。「一夏君、お弁当食べましょう」と。周囲の視線が痛い。クラスメイトたちの好奇と羨望と若干の畏怖が混じった視線。一夏は居たたまれない気持ちで弁当を開けた。楯無はそんな視線を気にするでもなく、にこにこと一夏の弁当を眺めている。
「ねえ一夏君。あーんしてあげようか?」
「結構です」
「遠慮しなくていいのよ?」
「遠慮してます」
放課後は訓練。これも楯無が毎日のように顔を出す。専用機ミステリアス・レイディを纏い、一夏たちの訓練に参加するのだ。その実力は圧倒的で、一夏たちは毎回いいようにやられている。だが、そのおかげで一夏たちの連携は確実に磨かれていった。楯無は時に厳しく、時に優しく六人を導いてくれた。訓練が終われば楯無は決まって言う。「今日もお疲れ様。一夏君、一緒にお風呂入る?」「入りません」そのやり取りも、もはや日課になりつつあった。
——そして、ある日の夕食。
今日も楯無に振り回された一夏は、疲労により食堂のテーブルに突っ伏していた。そんな一夏を見て、箒、セシリア鈴音、シャルロット、ラウラの五人は苦笑いしながら夕食を食べていた。
「相当疲れてるみたいね」
「ああ。あの生徒会長が相手では無理もない」
「毎日あれではな……」
セシリアと鈴音とラウラがそんなことを言い合っている。シャルロットは一夏の隣に座り、そっと緑茶の湯呑みを差し出した。
「一夏君。ほら、お茶。少しは楽になるよ」
「……ありがとう、シャルロット」
一夏は顔を上げて緑茶を受け取ると、一口飲んだ。温かいお茶が体に染み渡る。少しだけ生き返った気がした。
「ふう……」
「今日は楯無先輩、来てないみたいだな」
ラウラがそう言って周囲を見渡した。すると近くのテーブルで夕食を食べていた布仏本音が、卵を入れた鮭茶漬けを口に運びながらのんびりと答えた。
「お嬢様はー、今日は生徒会の書類仕事でー忙しいんだよー」
「なるほど。それで今日は来ていないのか」
「うん。だから一夏君も今日はゆっくりできるねー」
「そうだな……」
一夏は本音の言葉に安堵の息を漏らした。今日は楯無はいない。ならば、早めに寝てしまおう。そう思い、一夏は立ち上がった。
「ごちそうさま。俺、もう寝るわ」
「あら、もう?」
「うん。今日は疲れたから……」
「おやすみ、一夏君」
「おやすみなさい」
「ゆっくり休めよ」
「おやすみー」
「おやすみなさいませ」
五人と本音に見送られながら、一夏は食堂を後にした。廊下を歩きながら、頭の中の声に話しかける。
(——今日は静かだな)
(ああ。まあ、あの人がいないだけでこうも違うとはな)
(だよな……)
一夏は苦笑しながら自室の前にたどり着いた。ドアを開ける。その瞬間——。
「お帰りなさい。ご飯にします? お風呂にします? それとも、わ・た・し?」
そこには、書類仕事で忙しいはずの楯無がいた。水着の上にエプロンという、もはや見慣れてしまった格好で、にこにこと微笑んでいる。一夏は天を仰いだ。
「……先輩。書類仕事は?」
「あら、終わったわよ。急いで片付けたの」
「急いで片付けたって……」
「一夏君と過ごす時間の方が大事だもの」
楯無はそう言って悪びれる様子もなく笑った。一夏はしばらく天井を見つめていた。天井には何の答えも書いていない。ただ、白く広がっているだけだ。
(——これは何を言っても無駄だな。もう諦めろ)
(諦めたくないんだが……)
一夏は深く、深くため息を吐いた。そして観念したように部屋の中へと入っていった。
「あら、素直に入ってくれるのね。嬉しいわ」
「もう好きにしてください……」
「じゃあ、遠慮なく」
楯無はそう言って嬉しそうに一夏の後を追った。その夜も、一夏は楯無に振り回され続けたのだった。
―――
暗い部屋の中複数の影が揺らめいていた。壁一面に広がるモニターには、IS学園の見取り図や警備体制のデータが映し出されている。それらの前で、いくつもの声が交わされていた。声はどれも一様ではない。低い声、高い声掠れた声、澄んだ声。男と女が入り混じったその声は、しかしどこか統一された意志を感じさせた。
「——我らの存在を知らせるいい機会だ」
男と女が入り混じった声がそう言った。その声は、部屋の空気を震わせるような重みを持っている。
「IS学園の学園祭当日。各国の軍事関係者、企業関係者が一堂に会する。彼らに我らの存在を——いや、我らの力を思い知らせる絶好の機会だ」
「アハハ! 良いんじゃ~ん、派手にやろうぜ!」
主任と呼ばれた男がそう叫んだ。陽気な声だった。だがその陽気さの奥には、冷たいものが潛んでいる。
「ねえ、キャロル」
キャロルと呼ばれた女性は静かに頷いた。その声は感情をあまり表に出さない。淡々と、しかし確かな意志を込めて彼女は言った。
「そうですね。我々の存在を世界に知らしめる。悪くない機会だと思います」
「面倒だが必要な事だな」
スティンガーと呼ばれた男がそう呟いた。その声には疲れのようなものが滲んでいたが、反対しているわけではない。むしろ、やるべきことはやるという覚悟のようなものが感じられた。
その時、部屋の隅から別の声が上がった。澄んだ、しかしどこか危険な響きを持つ女性の声だった。
「襲撃は我々にお任せください」
全員の視線がそちらへと集まる。主任がその女性を見て、面白そうに声を上げた。
「おや、オールちゃん。随分とやる気だねぇ」
オールと呼ばれた女性は一歩前に進み出た。その目には、燃えるような光が宿っている。
「当然です。あそこには——奴が居るのですから」
その言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。「奴」——その一言に、彼女の感情が凝縮されている。恨みか、執念かあるいは別の何かか。オールは続けた。
「あの狂犬も、やる気を出すでしょう」
その言葉に、何人かの影が小さく笑った。狂犬——その呼称が誰を指すのかは、この場の全員が理解しているようだった。
男と女が入り混じった声が静かに、しかし確かな威厳をもって告げた。
「オールマインド。作戦はお前に任せる」
「——承知しました」
オールマインドはそう答えて深く頭を下げた。その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。それは、獲物を前にした狩人の笑みにも似ていた。
モニターにはIS学園の正門が映し出されている。学園祭当日まで、あと数日。穏やかな日常の裏で、確実に何かが動き始めていた。
―――
場所は変わってどこかの会議室。窓の外には夕暮れの街並みが広がっているが、部屋の中は薄暗くテーブルの上だけがスポットライトのように照らされていた。三人の女性がそのテーブルを囲んでいる。
一人は長身で豊かな金髪を持つ美しい女性。その立ち姿は優雅で、しかしその瞳には鋭い光が宿っていた。彼女は静かに口を開く。
「奴らが動き出すとの情報を得たわ」
その声は落ち着いていてしかしどこか張り詰めたものを感じさせた。それを聞いたもう一人のロングヘアの女性が、眉をひそめて顔を上げる。
「まじなのか? スコール」
スコールと呼ばれた金髪の女性は、静かに頷いた。
「ええ、間違いないわオータム。学園祭の当日——各国の軍事関係者と企業関係者が集まるその日を狙って動く。あの連中のやりそうなことよ」
オータムは小さく舌打ちをした。その表情には苛立ちが滲んでいる。だが、その一方でどこか覚悟を決めたような色もあった。そこへ最後の一人、黒髪の少女が口を開く。年齢は他の二人より若く見えるが、その目は年齢不相応に冷静だった。
「動くのか?」
短い問い。スコールはその問いにまっすぐ答えた。
「上から奴らの機体を出来れば回収して欲しいと伝えられた。オータム、M、頼めるかしら?」
その言葉にオータムは即座に頷いた。
「了解」
短く、しかし力強い返事だった。Mと呼ばれた黒髪の少女も静かに頷く。
「分かった」
スコールは二人の返事を聞いて、わずかに表情を緩めた。だがすぐにその顔は引き締まる。
「二人とも、気をつけて。相手は未知数——何をしてくるか分からない連中よ」
その言葉にオータムは不敵に笑った。
「分かってるさ。向こうも必死だろうが、こっちだって負けるつもりはない」
Mは何も言わずにただ静かに頷いた。その目には、決意の光が宿っている。やがてオータムとMは席を立った。スコールもそれに続く。三人は会議室を後にする。廊下に出ると、オータムがふと足を止めてスコールの方を振り返った。
「スコール。あんたはどうするんだ?」
その問いにスコールは少しだけ目を伏せた。そして、静かに言った。
「私は——彼女のことが気にかかるだけよ」
その言葉にオータムは何も言わず、ただ小さく頷いた。Mもまた何かを理解したように静かに前を向いた。三人はそれぞれの方向へと歩き出した。廊下に響く靴音が、次第に遠ざかっていく。夕暮れの街並みが、窓の外でゆっくりと闇に沈んでいった。