月曜日。遂に始まった『一日ごとに各部活へ織斑一夏を派遣するキャンペーン』の初日。一夏はどんよりとした表情でテニス部のコートに立っていた。頭の中の声が、呆れたように呟く。
(ふむ。随分と盛大な歓迎だな)
(ああ。全然嬉しくないけどな)
コートの向こう側ではテニス部の女子たちがラケットを握りしめ、異様な熱気を放っていた。コート脇に掲げられた手書きの横断幕にはこうある——『織斑一夏のマッサージ権獲得トーナメント』。そう、これが今日のテニス部のイベントだ。優勝者は一夏からマッサージを受ける権利を得る。なんという馬鹿げた企画か。一夏は内心でため息をつきながら、それでも逃げ出すわけにもいかず、大人しく見守ることにした。
試合が始まると、その激しさは尋常ではなかった。女子たちは文字通り欲望全開で挑んでくる。普段の部活の練習試合とはまるで迫力が違う。ボールのスピード、コースの精度そして何より——勝ちたいという執念が、プレーそのものに現れていた。
「私が一夏君にマッサージしてもらうんだから!」
「いや、私よ!」
「二人とも退いて! 一夏君のマッサージは私が受けるの!」
悲鳴のような掛け声が飛び交う中、一人の女子が圧倒的な実力で勝ち進んでいた。セシリア・オルコット。彼女のプレーはまさに圧巻だった。正確なサーブ、鋭いストロークそして相手の隙を突く見事なネットプレー。他の追随を許さない強さで、次々と対戦相手を打ち負かしていく。
「セシリア、強すぎでしょ……」
「あれは反則だって……」
対戦した女子たちが呆然と呟く。そして、ついに決勝戦。セシリアは最後の相手を圧倒的なスコアで下し、優勝を勝ち取った。
「ふふん。当然の結果ですわ」
セシリアは汗を拭いながら、誇らしげに胸を張った。一夏は試合が終わった女子から順にタオルとスポーツドリンクを配っていく。敗れた女子たちは悔しそうにしながらも、一夏から直接タオルを受け取ると、その瞬間だけは満足そうな表情を浮かべていた。
「はい、お疲れ様」
「あ、ありがとう一夏君……」
最後に、一夏は優勝したセシリアの前に立った。
「お疲れ、セシリア。これタオルとスポーツドリンク」
「ありがとうございます、一夏さん」
セシリアはタオルを受け取ると、それを一夏に差し出した。
「一夏さん。汗、拭いてくださらない?」
「え?」
「優勝したんですもの。その権利くらいあるでしょう?」
セシリアはそう言って少しだけ頬を染めながら一夏を見上げた。一夏は一瞬戸惑ったが、断る理由もない。タオルを受け取って、セシリアの顔をそっと拭いてあげた。汗ばんだ額から頬、そして顎へと。セシリアは目を閉じて、その感触に身を委ねている。その様子を見ていた女子たちから、一斉にブーイングが巻き起こった。
「ずるい!」
「セシリアばっかり!」
「私たちだって一夏君に拭いてほしかった!」
セシリアはそんなブーイングを気にする様子もなく、満足げに微笑んだ。
「何をおっしゃいますの。これは勝者の特権ですわ」
「くそー……」
「でも、確かにセシリアが優勝したしなあ……」
女子たちは悔しがりながらもセシリアの実力を認めざるを得ないようだった。しかし、そこで一人の女子がふと閃いたように手を打った。
「ねえ、待って。着替えの時とかも、一夏君に背中拭いてもらえばいいんじゃない?」
「「「それだ!!」」」
「ちょっと待って!?」
女子たちの目が一斉に輝いた。一夏は慌てて両手を前に出した。
「いやいやいや! 流石にそれは駄目だって!」
「えー! なんでよ!」
「着替えの時に背中を拭いてもらうとか、それはおかしいって!」
一夏の必死の抗議も虚しく女子たちから再びブーイングが巻き起こる。コート中に不満の声が響き渡る中、一夏は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
(なんでこんなことに……)
(ふむ。なかなかに人気者だな、お前は)
(他人事だと思って……)
(いや、実に結構なことだ。しかし着替えの時に背中を拭く、か。それは確かに行き過ぎだな)
(だろ?)
(ああ。だが、断るのも一苦労しそうだぞ)
頭の中の声の言葉通り、女子たちのブーイングはしばらく収まりそうになかった。一夏はしばらくその場で耐えるしかなかった。
―――
試合が終わりセシリアはシャワーで汗を流した後、制服に着替えて一夏の部屋を訪れた。ノックの音に一夏がドアを開けると、そこには少しだけ髪の毛が湿ったセシリアが立っていた。シャワーの後の火照りがまだ頬に残っている。
「お邪魔しますわ」
「ああ、入れよ」
一夏に促されて部屋に入ったセシリアは、少しだけ落ち着かない様子で室内を見渡した。男子の部屋に入るのは初めてだ。清潔に整えられているが、やはりどこか無骨な空気がある。
「それで、マッサージだけど……どこがいいんだ?」
「脚と腰をお願いしますわ。試合で随分と酷使しましたから」
セシリアはそう言ってベッドに腰かけた。一夏は少し躊躇ってから、ベッドの脇に立った。
「じゃあ、そこに寝そべってくれるか。脚からやるよ」
「ええ」
セシリアはベッドに横になった。うつ伏せの姿勢で、脚をまっすぐに伸ばす。スカートが少し捲れ上がり、太ももが露わになった。一夏はその光景に一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直した。マッサージだ、マッサージ。そう自分に言い聞かせて、セシリアの脚に手を伸ばす。
「まずはふくらはぎからな」
「はい……あっ」
一夏の手がふくらはぎに触れた瞬間、セシリアが小さく声を漏らした。一夏は少しだけ力を加減しながら、ふくらはぎの筋肉をほぐしていく。試合で酷使したせいか、筋肉はかなり張っていた。
「痛くないか?」
「少し……でも、気持ちいいですわ」
「なら良かった」
一夏はそう言って、膝の裏から太ももへとマッサージを進めていった。手のひらで包み込むように、ゆっくりと。セシリアは目を閉じてその感触に身を委ねている。次第に彼女の呼吸が深く、ゆったりとしたものになっていった。
「一夏さん、手慣れてますわね」
「そうか? まあ、千冬姉が疲れた時とかに適当に揉んでやったりしてたんだよ」
「なるほど。織斑先生のおかげで私が気持ちよくなれているわけですのね」
「いや、そこまで大げさなもんじゃないって」
一夏は苦笑しながら今度は腰へとマッサージを移した。腰に手を当てると、セシリアの身体がぴくりと反応する。
「腰は特に張ってるな。ここ、重点的にやるよ」
「お願いしますわ……んっ」
一夏の指が腰のくびれに沿って動く。セシリアは思わずといった様子で声を漏らし、その声に自分で驚いて顔を赤らめた。
「ごめんなさい、変な声が……」
「気にしないでいいよ。力加減、大丈夫か?」
「ええ。とても……心地よいですわ」
セシリアはそう言って少しだけ顔を横に向けた。一夏の真剣な横顔が目に入る。マッサージに集中しているその表情は、いつもの彼とはまた違って見えた。
(こんなに真剣に、私のことを……)
セシリアの胸の奥がじんわりと温かくなる。試合に勝ったご褒美として得たこの時間。けれど今は、勝ち負けとは関係なくただこの時間が愛おしかった。
「セシリア?」
「え? あ、何でしょう?」
「いや、ぼーっとしてるから。痛いのかと思って」
「いいえ。とても気持ちよくて、少し夢心地でしたの」
セシリアはそう言ってうつ伏せのままくすりと笑った。一夏は少し照れくさそうにしながらも、再び手を動かし始めた。部屋の中には、静かな時間が流れていた。
(なかなかいい手つきじゃないか)
(やめろよ。集中できないだろ)
(ふむ。しかしこれはなかなか……おっと、これは口を閉じているべきだな)
(そうしてくれ)
一夏は頭の中の声を無視して、最後に腰の中心をゆっくりと押した。
「はい、これで終わり。お疲れさん」
「ありがとうございます、一夏さん。とても楽になりましたわ」
セシリアはゆっくりと身体を起こした。マッサージの効果か、先ほどよりも身体が軽い。だが、それ以上に心が軽くなったような気がしていた。
「また何かあったら言ってくれ。……って、またトーナメントやる気か?」
「さあ、どうでしょう。でもその時はまた私が優勝しますわ」
「たくましいなあ……」
一夏がそう言って笑うと、セシリアもつられて笑った。窓の外はもう夕暮れが近づいていた。
マッサージが終わりセシリアはベッドの端に腰かけたまま、ふと一夏の顔を見上げた。その表情が、先ほどまでの穏やかなものから、少しだけ真剣なものに変わっている。
「一夏さん。少し、聞いてもよろしいかしら」
「ん? どうした?」
「学園祭の時のことですわ。あの深緑のISと、あなたが交わした会話について」
一夏の動きが止まった。セシリアは続ける。
「あの時、一夏さんは『レイヴン』とか『眠る記憶』とか、そんなことを言われていましたわね。あれは、一体どういうことなのかしら」
一夏はしばらく黙った。頭の中の声も、何も言わない。彼は視線を落とし、それからゆっくりと口を開いた。
「ごめん。まだ、上手く説明できる自信がないんだ」
「そう……ですの」
「ああ。俺自身、まだ整理がついてないっていうか。何が本当で、何がそうじゃないのか。全部が分かるまで、軽々しく話すべきじゃないと思ってる」
一夏の声は、どこか苦しげだった。セシリアはそんな一夏を見て、無理に聞き出すべきではないと悟った。彼が話せないのではなく、話す準備ができていないのだ。それならば、待つべきだ。
「分かりましたわ。では、いつか話してくださいね。約束ですわよ」
「ああ。必ず」
「ええ。信じてますわ」
セシリアはそう言って立ち上がり、ドアの方へと歩いた。ドアを開ける前に一度振り返り、にっこりと微笑む。
「マッサージ、本当に気持ちよかったですわ。ありがとう」
「おう。お疲れさん」
「では、失礼しますわ」
セシリアは部屋を出た。ドアが閉まる音を聞きながら、一夏はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(話せなかったな)
(ああ。でも、いつか話すさ。あの人のためにも、自分のためにも)
(そうだな。それがいい)
一方、廊下に出たセシリアは自室へと向かって歩いていた。歩きながら、頭の中である言葉が繰り返し響いていた。深緑のISが言っていた言葉——『レイヴン』。『野良犬』。『お前の中に眠る記憶』。あの会話は明らかに一夏の中に何かがあることを示唆していた。それも、本人が知らない何かが。だが今のセシリアには情報が少なすぎた。あの深緑のISの正体も分からないし、『レイヴン』が何を意味するのかも分からない。一夏自身もまだ整理がついていない様子だった。
(今は、頭の隅に置いておくのが賢明ですわね)
セシリアはそう結論づけた。無闇に動いて混乱を招くより、情報を集めながら機を待つ。それが、自分にできる最善のことだと。だが——その上で、はっきりと分かっていることが一つある。一夏を狙う存在がいる。深緑のISも、学園祭の時の無人ISも。その脅威は、確実に一夏に迫っている。セシリアは立ち止まり、廊下の向こう——一夏の部屋の方角を見つめた。そして、右手を上げ指で銃の形を作った。その銃口を、一夏を狙う見えない敵に向けて、静かに構える。
「一夏さんは、私が守りますわ。誰にも指一本触れさせません」
誰に聞かせるでもなくセシリアはそう呟いた。その声には、代表候補生としての誇りと一人の少女としての決意が込められていた。廊下に夕暮れの光が差し込んでいる。セシリアは指の銃を下ろすと、再び歩き出した。その足取りは、先ほどよりも確かなものだった。