ラインハット王国にやって来たムコーダ御一行。
スライムナイトを助けたことらしいが?

1 / 1
ムコーダ、ラインハットに立つ ~カレーパンとシャリアピンの晩餐~

 

 

一、街道の行き倒れ

見渡す限りの草原だった。

遠くには青く霞む山並み、足元には踏み固められた細い街道が一本。

空は高く、風は柔らかく、草の匂いが鼻をくすぐる。

のどかと言えばこれ以上ないほどのどかな景色なのだが、ムコーダには一つだけ困ったことがあった。

「……ここ、どこだ?」

「知らん」

先頭を悠々と歩く白銀の巨狼、伝説の神獣フェンリルのフェルは、振り返りもせずに答えた。

「我は匂いのする方に走っただけだ。この辺りは、どうも知らん気配が混じっておるな」

「匂いって、お前なあ……。そのせいで知らない場所に来ちゃったんじゃないのか?」

「ふん、そんなことは些細な問題だ。それよりムコーダ、そろそろ休憩にせんか」

「さっき昼飯食べたばっかりだろ」

「あるじー、スイもおなかすいたー」

ムコーダの足元を、ぽよんぽよんと弾みながら付いてきていた水色のスライム、スイが無邪気な声を上げる。

「おいおい、お前までか」

「だってスイ、いっぱい動いたからー」

「そうだぜムコーダ。俺も腹ペコだ。なんか甘いもんねえのか、甘いもん」

肩の上から偉そうに口を挟んだのは、小さな竜の姿をしたピクシードラゴンのドラちゃんだ。

「甘いものって、さっきどら焼き食ったろ」

「あんなの、もう消化したに決まってんだろ」

「消化早すぎるだろ!」

ムコーダは頭を抱えた。この三匹と来たら、食べることにかけては一切の妥協がない。

仕方なく、どこか木陰で休憩を取ろうと街道脇に目をやったときだった。

「……ん? なんだあれ」

草むらの中に、青いものが倒れていた。

近づいてみると、それは奇妙な生き物だった。

ぷるんとした青い半透明の体は、スライムのようでいて、馬のように四本の足を持っている。

その背には、小さな兜をかぶった騎士が跨り、槍を握ったまま、くたりと前のめりになっていた。

「ま、魔物か!? フェル、こいつ大丈夫なのか?」

「スライムナイトだな。スライムと騎士が一つになった魔物だ。……だがこいつ、殺気がない。というより、力が尽きかけておるぞ」

「力が尽きかけてる?」

そのとき、兜の下から、か細い声が漏れた。

「……お、おなかが……」

「え?」

「……三日、何も……口にして、おりません……」

しばしの沈黙。ムコーダは、フェルたちと顔を見合わせた。

「……要するに、腹が減って倒れてるってことか」

「そのようだな」

「あるじー、このひと、かわいそうなのー」

スイが心配そうに、ぽよんとスライムナイトの足元に寄っていく。

ドラちゃんも肩から降りて、小さな前足で兜をつついた。

「おい、生きてるか? しっかりしろよ」

「…………」

ムコーダは息を吐き、観念したように言った。

「しょうがない。見捨てるわけにもいかないしな」

スキル『ネットスーパー』を開くと、目の前に、彼にしか見えない画面が浮かんだ。

弱っている相手に重たいものは食べさせられない。

かといって、あまり薄味でも元気が出ない。惣菜コーナーを指でなぞり、ムコーダは『カレーパン』の文字で指を止めた。

(食べやすくて、腹にたまって、香辛料の香りで食欲も湧く。これだな)

画面をタップすると、ぽんと現れた紙袋の中には、揚げたてのカレーパンが入っていた。

きつね色に揚がった衣の香ばしい匂いが、ふわりと立ち上る。

「ほら、これ食べな。熱いから気をつけてくれよ」

スライムナイトの口元に差し出すと、兜の奥の目が、ゆっくりと開いた。

「……こ、これは……?」

「カレーパンだ。パンの中にカレーが入ってる。いいから食べてみろ」

おそるおそる、といった様子でかじりついた次の瞬間、スライムナイトの体が、ぴくんと跳ねた。

「!! さ、さくさくの衣の中から、熱く……香り高い……! これは、これは一体……!?」

「うまいか?」

「う、うまい……!! こんな食べ物、生まれて初めてです!!」

ぷるぷると全身を震わせながら、スライムナイトはあっという間に一つ平らげてしまった。

「おかわり、いるか?」

「よ、よろしいのですか!?」

結局、スライムナイトは五つのカレーパンを食べ尽くし、ようやく人心地ついたように、深々と頭を下げた。

「命の恩人とお見受けします。私はスライムナイトのピエール。主君の使いでラインハットのお城へ向かう途中、道に迷ってしまい、三日も彷徨っておりました。このご恩は決して忘れません」

「いや、そんな大げさな……。俺はムコーダ。こっちはフェルと、スイと、ドラちゃん。みんな俺の従魔だ」

「じゅ、従魔!? ……伝説の神獣フェンリルに、ピクシードラゴン、それにこの愛らしいスライム……!? 貴方は、一体何者なのですか」

ピエールの目が丸くなる。

「ただの冒険者だって。ただ、ちょっと変わったスキルがあるだけで」

「それはぜひ、我が主君にもお会いいただきたい。ラインハットのお城までは、あと半日ほどの距離です。お礼のために、ぜひご案内させてください」

「いや、お礼なんて……」

「ふむ。城ということは、そこで旨い飯が出るのではないか?」

「フェル、お前は黙ってろ!」

「うまいごはんー!」

「おお、いいじゃねえか! 行ってみようぜ、ムコーダ」

(結局、この食いしん坊たちには逆らえないんだよな……)

ムコーダは肩を落としながらも、ピエールに向かって笑いかけた。

「じゃあ、お言葉に甘えて。案内、頼むよ」

「はい! お任せください!」

こうして一行は、青いスライムナイトの先導で、ラインハット城へと向かうことになったのだった。

二、青い旗の翻る城

半日後。丘を越えた先に、その城は姿を現した。

広い堀を巡らせた白い城壁、空に向かって伸びる幾つもの塔、そしてそのすべてに翻る、青を基調とした王国の旗。

城の足元には賑やかな城下町が広がり、商人たちの呼び声と、子供たちの笑い声が風に乗って届いてきた。

「おお……でかい城だな」

「ここが、ラインハット王国です。今の国王陛下が民のために尽くしておられる、良い国ですよ」

ピエールは誇らしげに胸を張った。

とはいえ、問題が一つある。

城下に近づくにつれ、行き交う人々が、揃ってこちらを見ては固まるのだ。

「ひっ……な、なんだあの大きな狼は!」

「魔物か!? いや、鎖も付いてないぞ!」

「衛兵を呼べ!」

「ちょ、ちょっと待ってください! 違うんです、この狼は俺の従魔で……」

慌てて弁明するムコーダの横で、フェルは小山のような体を揺らし、堂々と尻尾を振っている。

「ふん。人間どもが騒がしいな」

「お前が目立つのが悪いんだろ!」

そこへ、ピエールが前に出た。

「皆さん、ご安心ください! こちらの方々は私の命の恩人です。決して悪い方ではありません。これから城へご案内するのです」

城門の衛兵たちが、ぎょっとしたようにピエールを見た。

「ス、スライムナイト殿! お戻りでしたか!」

「ええ、ただいま戻りました。陛下にお目通りを願いたい。こちらの御一行を、お通しください」

どうやら、この魔物の騎士は、城の者たちから厚い信頼を得ているらしい。

衛兵たちは顔を見合わせたが、やがて槍を下ろし、道を開けてくれた。

「……承知しました。ただし城内では、その……狼殿には、どうか大人しくしていただきたい」

「分かりました。フェル、頼むから大人しくしててくれよ」

「我は元より大人しいが?」

「どの口が言うんだ……」

城下町を抜ける間も、人々の視線は釘付けだった。

それでも、スイがぽよんぽよんと愛想よく弾み、ドラちゃんが小さな翼でひらひらと飛んで見せるうちに、子供たちが歓声を上げて手を振り始めた。

「わあ、スライムだ!」

「ちっちゃいドラゴンもいる!」

「かわいいー!」

「へへん、どうだ、俺様の人気は」

「お前だけじゃないだろ、ドラちゃん」

「スイ、人気者なのー?」

「そうだぞスイ。みんなお前に手を振ってるんだ」

「えへへー、うれしいのー!」

スイが嬉しそうにぽよんと大きく跳ねると、子供たちの歓声がいっそう大きくなった。

そんな賑やかな列を引き連れて、一行はラインハット城の大きな門をくぐったのだった。

三、謁見の間

通されたのは、天井の高い謁見の間だった。

深い青の絨毯が玉座まで真っ直ぐに伸び、壁には歴代の王を描いた肖像画が並んでいる。

玉座には、がっしりとした体つきの男が腰掛けていた。

精悍な顔つきに、どこか悪戯っぽい光を湛えた目をしている。その隣には、気品のある穏やかな女性が寄り添い、反対側には、優しげな眼差しの青年が控えていた。

「陛下、ただいま戻りました」

ピエールが恭しく頭を垂れる。

「おう、ピエール! 戻ったか! 三日も帰らんから心配したぞ。……で、そっちの連中は?」

ヘンリー国王は身を乗り出し、ムコーダ一行を興味深そうに見回した。

「はい。道中、空腹で行き倒れていた私を救ってくださった恩人の方々です。こちらがムコーダ殿、そしてこちらの狼殿がフェンリルのフェル殿、スライムのスイ殿、ピクシードラゴンのドラちゃん殿です」

「フェンリル!?」

声を上げたのは、右大臣のデールだった。

「兄上、フェンリルといえば伝説の神獣ではありませんか。魔物の中でも最強と言われ、人に懐くことなど決してないはずです」

「ほう。それが、こいつの従魔だと?」

ヘンリーは、ムコーダの顔をまじまじと見た。

「え、ええと、その、はい……。ム、ムコーダと申します。突然お邪魔してしまい、申し訳ありません……!」

ムコーダはぎこちなく頭を下げた。

胸の鼓動がうるさい。

国王の前に立つのなんて、生まれて初めてだ。

「ふふ、そんなに緊張なさらないで」

マリア王妃が、柔らかく微笑んだ。

「ピエールを助けてくださったのですもの。私たちにとっても、大切なお客様です」

「そ、そう言っていただけると……」

そのとき、玉座の脇にいたもう一人の人物が、静かに口を開いた。

青いターバンを巻き、紫のマントを羽織った、一人の青年だった。

「ピエール、無事でよかった。……それにしても、フェンリルとはね」

「あ、あなたは……」

「ぼくも、魔物を仲間にして旅をしてきた人間なんだ。スライムも、ドラゴンも、たくさん知ってる。でも、神獣を従えている人には、初めて会ったよ」

青年はそう言って、屈託なく笑った。

その笑顔に、ムコーダは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

「あ、あなたも、魔物を……?」

「うん。ピエールは、ぼくの大切な仲間の一人なんだ」

「なるほど、ピエールさんのご主人さまって、あなたのことだったんですね」

「そうそう。こいつは真面目すぎて、ときどき迷子になるのが玉に瑕だけど」

「あ、あるじ殿……!」

ピエールが恥ずかしそうに兜を揺らした。

謁見の間に、小さな笑いが広がる。

ヘンリーが豪快に笑った。

「はっはっは! 気に入った! こういう連中は大歓迎だ。おいムコーダとやら、せっかくだ、しばらく城に滞在していけ」

「え、い、いいんですか?」

「当たり前だ。恩人を手ぶらで帰すなんて、ラインハットの名折れだからな。それに、おまえの従魔たちの話も、ゆっくり聞いてみたい」

「ほう、物分かりのいい王だな」

「フェル!」

ムコーダは慌てて口を押さえたが、フェルはどこ吹く風である。

「しゃ、喋った!?」

デールが目を丸くして、椅子から半分滑り落ちそうになった。

「フェンリルは人語を解するといわれていますが、まさか本当に……」

「当然だ。我は神獣だからな」

「ははは! こいつはいい! 聞いたか、マリア。喋るぞ、この狼」

「ええ、とても賢そうな方ですね」

「うむ。女性は見る目があるな」

「お前、調子に乗るな……」

ムコーダは冷や汗をかきながら、何度も頭を下げた。

すると、フェルの鼻先がひくりと動いた。

「……時にムコーダ。城中から、実に興味深い匂いがするぞ。肉を焼く匂いだ」

「ほう、鼻が利くな。ちょうど夕食の仕込みの時間だ。今夜は宴にしようと思っていたところだ」

ヘンリーはにやりと笑った。

「ムコーダ、おまえ、料理ができるそうだな? ピエールの話では、見たこともない食い物を出してくれたらしいじゃないか」

「あ、い、いえ、料理というほどのものでは……。さっきのは、ただのパンなんですが」

「パンの中に、カレーという香辛料の煮込みが入っているのです。外はさくさく、中は熱く、まるで夢のような食べ物でした」

ピエールが、熱を込めて語る。

「ほほう、そいつは興味深い。なあ、マリア、デール」

「ええ、ぜひ味わってみたいですわ」

「私も気になります。この城の料理人でも作れない料理なら、なおさら」

三人の視線が、ムコーダに集まった。

(うわ、これ、断れない流れだよな……)

ムコーダは観念して、頭をかいた。

「わ、分かりました。滞在させていただくお礼に、俺にできる範囲で、何か作らせてください」

「よし、決まりだ! デール、厨房に話を通しておけ」

「承知しました、兄上。……それにしても兄上、嬉しそうですね」

「ああ、嬉しいとも。久しぶりに、面白い客が来たんだからな」

ヘンリーは子供のように目を輝かせた。その隣で、マリアが小さく笑い、青いターバンの青年が、やれやれと肩をすくめる。

(なんだか、とんでもなく仲のいい人たちなんだな……)

ムコーダは、そんな三人のやりとりを眺めながら、不思議と胸の奥が温かくなるのを感じていた。

四、厨房にて

案内された城の厨房は、広くて清潔で、すでに夕食の支度に追われる料理人たちで活気に満ちていた。

大きな竈、壁にぶら下がる銅鍋、新鮮な野菜を山盛りにした籠。

そして、その中央で包丁を振るっていたのは、まだ若い、真面目そうな料理人だった。

「な、なんだ、この狼は!?」

「あ、ああ、すみません。俺の従魔なんです。厨房には入れないようにしますので……」

「いえ……陛下の客人なら、仕方ありません」

若い料理人は戸惑いながらも、きびきびと頷いた。

「ここをお使いください。ただ、その、どうやって料理されるのか、拝見してもよろしいでしょうか。私も、この城の料理人として、学ばせていただきたいので」

「ええ、もちろんです。そんな大層なものじゃないですけど」

ムコーダは調理台に向き合い、頭の中で献立を考え始めた。

(国王夫妻に、右大臣に、あの青年に、ピエール、それにこっちの三匹。さて、何を作るか……)

フェルの視線が、背中に痛いほど突き刺さっている。

「ムコーダ、肉だろう。肉にするのだろう」

「分かってるよ。だけど、国王様と王妃様と、右大臣様にも出すんだぞ。いつものようにガツンと豪快に、ってわけにもな……」

ムコーダは腕を組んで考え、ふと、ある料理を思いついた。

「そうだ。シャリアピンステーキにしよう」

「しゃりあぴん……?」

「俺の故郷の料理でさ。昔、有名な外国の歌手がいて、その人が歯を悪くしてたんだって。それで、柔らかく食べられるステーキをってことで、ホテルの料理人が考えたのが始まりらしい。玉ねぎの力で肉が柔らかくなって、しかも玉ねぎの甘みがそのままソースになる。肉の旨味は、そのままなんだ」

「ほう! 玉ねぎで、肉を柔らかくするのですか?」

若い料理人が、目を輝かせた。

「そう。しかも、ちょっとお上品で、見た目も華やかだろ? 国王様たちにも、きっと喜んでもらえるんじゃないかと思う」

「うむ。肉の質が良ければ、我はなんでもよいぞ」

「ぬかりはねえな、ムコーダ」

ドラちゃんがにやりと笑う。

「さあ、じゃあ材料を揃えよう。まずは、肉だ」

ムコーダがネットスーパーを開く。表示された画面には、ずらりと並んだ精肉コーナー。

その中から、ムコーダは迷いなく一つを選んだ。

「ここは、奮発するか。……タスマニアビーフ!」

画面をタップすると、調理台の上に、ずっしりと重たいパックが現れた。

厚みのある、きれいな赤身にほどよいサシの入った、極上のステーキ用の牛肉だった。

「こ、これは……」

若い料理人が、思わず息を呑む。

「な、何もない所から、肉が……!?」

「あ、あはは。俺のスキルです。詳しいことは、秘密ということで」

「す、すごい……」

フェルの目が、ぎらりと光った。

「ムコーダ。その肉は、特上だな」

「ああ。タスマニアの、草をたっぷり食べて育った牛だ。柔らかくて、旨味が濃い。これを、ちゃんとした手順で下ごしらえしてやる」

ムコーダは、不敵に笑った。

五、玉ねぎと、ほりにしと

まず必要なのは、玉ねぎだった。

ムコーダが再びネットスーパーを開くと、網に入った玉ねぎが現れた。

ついでに、バター、醤油、赤ワイン、粗挽きの黒胡椒、それから付け合わせの人参とじゃがいも、クレソンもカートに放り込む。

「よし。まず玉ねぎを半分、すりおろす。残りの半分は薄切りにして、ソース用だ」

「す、すりおろす、ですか? おろし金で、ということですか?」

「ええ。お城にありますか?」

「ございます。ですが、玉ねぎをすりおろしたことは、一度も……」

若い料理人は戸惑いながらも、棚から目の細かいおろし金を取り出してきた。

ムコーダが玉ねぎの皮をむき、ざりざりとおろし始めると、たちまち厨房中に、つんと鼻を刺す匂いが広がった。

「うっ……! め、目が……!」

「あ、これ、結構きますよね。無理しないで下がってください」

「い、いえ、これも修行ですから……! ぐすっ」

若い料理人は、涙をぼろぼろ流しながらも、おろし金から手を離そうとしない。

「ムコーダ、お前は平気なのか」

「いや、全然平気じゃないぞ。目が痛い……」

「あるじー、なみだでてるのー」

「ははは、情けねえなあ」

「うるさいぞ、ドラちゃん……!」

ひとしきり涙を流したのち、ボウルいっぱいの玉ねぎのすりおろしができあがった。

次は肉だ。

タスマニアビーフを大きな包丁で、人数分の厚めのステーキに切り分ける。

フェルとスイとドラちゃんの分は、人間の分とは別に、大きめのブロックで。ちなみにフェルの分は、人間用のおよそ三倍である。

「肉の筋を切って、フォークでまんべんなく刺す。そうすると、玉ねぎの成分がよくしみ込むんだ。それから、軽く叩く」

ムコーダは肉叩きで、とんとん、と肉を叩いていく。

「ふむふむ。なるほど……! 肉の繊維を、ほぐしているのですね」

若い料理人は真剣な顔で頷きながら、懐から取り出した小さな手帳に、ものすごい勢いで何かを書きつけている。

「ムコーダ、早くしろ。涎が止まらんぞ」

「フェル、お前、床に垂らすなよ!」

下ごしらえを終えたステーキ肉をバットに並べ、塩と粗挽き胡椒をふる。そして、ムコーダは、いつもの小瓶を収納から取り出した。

「そして、これが今回のポイントだ」

黒い蓋の、小さなスパイスの瓶。

ネットスーパーで見つけて以来、ムコーダ一行がすっかり気に入っている万能スパイス――ほりにし、である。

「こ、これは……?」

「スパイスです。俺の故郷の万能調味料で、肉にも魚にも野菜にも、なんにでも合うんですよ」

「スパイス……! その、黒い粉が……?」

「そう。まず、これを肉に軽くふる。それから、玉ねぎのすりおろしにも、少し混ぜておく」

ムコーダが瓶を軽く振ると、ふわっと、塩の香りとガーリック、それに数種類の香辛料の、深く複雑な香りが立ち上った。

「こ、この香りは……!」

若い料理人が、目を見開く。

「なんと芳醇な……。胡椒でも唐辛子でもない、様々な香辛料が、一つに溶け合っているような……。私は料理人になって十年になりますが、こんな香りは、初めてです……!」

「そんな大層なものじゃないですよ。ただ、これをふるだけで、驚くほど味が決まるんです」

「うむ。確かに、これは我も覚えのある匂いだ。ムコーダがこれを使った料理は、どれも旨かった」

「な? フェルのお墨付きだ」

肉の上に、たっぷりと玉ねぎのすりおろしを載せる。

肉を包み込むようにして、しっかりと塗り込んでいくと、ほりにしの黒い粒が、玉ねぎの中へ溶け込んでいった。

「このまま、一時間ほど寝かせる。その間に、付け合わせとソースの準備をしよう」

「い、一時間も待つのか……」

「そうだ、フェル。それだけ待つ価値はある」

フェルが、がくりと首を落とした。

一時間のあいだ、ムコーダは付け合わせの準備にとりかかった。

人参は、バターと少しの砂糖で甘く煮てグラッセに。

じゃがいもは、皮付きのままくし形に切って、ほりにしをほんの少しだけまぶし、こんがり焼く。

クレソンは冷水に放って、パリッとさせておく。

その間に、厨房の入り口には、いつの間にか人だかりができていた。

「なんだか、とんでもなくいい匂いがするぞ……」

「あの人が、スライムナイト殿の恩人だって?」

「あの黒い粉、なんだ……」

「こら、お前たち! 持ち場に戻れ!」

若い料理人が、慌てて追い払う。

そのとき、人垣をかき分けて、青いターバンの青年がひょいと顔を出した。

「やあ。見学してもいいかな」

「あ、あなたは……」

「ピエールを助けてくれたお礼に、ぼくも、何か手伝えることはないかと思って」

青年は腕まくりをして、にこりと笑った。

「ぼくは旅の途中でいろんなものを食べてきたけど、料理はあまり得意じゃなくてね。見るのは好きなんだ」

「それなら……ちょっと、人参の皮むきをお願いできますか?」

「了解」

青年は手際よく人参の皮を剥きながら、ふと、ムコーダに尋ねた。

「ムコーダさん。フェルとスイとドラちゃんは、どうやって仲間にしたの?」

「え? ああ、ええと……フェルとは、ちょっと成り行きで。スイは、森で出会って、一緒に旅をするようになって。ドラちゃんは、まあ……いろいろあって」

「ふふ。ぼくも、そんな感じだよ」

青年は、懐かしそうに目を細めた。

「ピエールとは、ぼくがまだ子供のころに、旅の途中で出会ったんだ。最初は、敵だった。でも、一緒に戦っているうちに、いつの間にか、一番の仲間になってた」

「へえ……」

「魔物だとか人間だとか、そんなの、あんまり関係ないよね」

「……そうですね」

ムコーダは、足元のスイを見下ろして、小さく微笑んだ。

「あるじー?」

「いや、なんでもない。ほら、スイ、ここ踏むなよ」

「はーい!」

青年はその様子を、優しい目で見つめていた。

一時間後。

ムコーダが肉の表面の玉ねぎを、へらで軽くこそげ落とすと、肉は、驚くほどしっとりと柔らかく変化していた。

「おお……肉が、こんなに……」

「ここからが勝負だ」

熱したフライパンに、サラダ油とバターをひとかけ。

ジュウッ! と小気味いい音を立てて、肉が焼かれていく。

たちまち厨房に、肉の焼ける香ばしい匂いと、バターの甘い香り、そして、ほりにしの香りが、一気に広がった。

「ごくり」

「ごくり」

「ごくり」

厨房の入り口で、また、喉を鳴らす音が増えた。

「こら! お前たち!」

「す、すみません!」

両面にきれいな焼き色をつけたら、火を弱めて、じっくりと中まで火を通す。

焼き上がった肉は皿に取り出し、少し休ませておく。

肉を休ませているあいだに、ソースだ。

同じフライパンにバターを足し、薄切りの玉ねぎを、じっくりと炒める。

あめ色になったところで、残しておいた漬け汁、赤ワイン少々、醤油、そして、ほりにしを、ほんのひとつまみ。

「ソースにも、入れるんですか?」

「そう。隠し味にな。下味とソースの両方に使うと、全体に味の筋が通るんだ」

とろりと煮詰めると、玉ねぎの甘み、醤油の香ばしさ、ワインの深み、そして、ほりにしの複雑な香りが、ひとつに溶け合った。

ムコーダが小皿にソースを少し取り、味見をする。

「……うん。いい。これはいける」

「わ、私にも、味見を……!」

「どうぞ」

若い料理人が、おそるおそるスプーンで一口すくって、口に運ぶ。

次の瞬間、彼の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。

「…………!!」

「どうですか?」

「な、なんですか、これは……! 玉ねぎの甘みの奥に、複雑で、深い香りが……! これが、あのスパイスの力ですか……!」

「ふふ。気に入ってもらえてよかった」

「あるじー! はやくたべたいのー!」

「ムコーダ。もう、辛抱ならんぞ」

「わかったわかった。もうすぐだから」

ムコーダは、休ませた肉を一枚ずつ丁寧に切り分け、皿に盛りつけていく。

肉の上に、あめ色の玉ねぎのソースをとろりとかけ、脇に、人参のグラッセ、こんがり焼いたじゃがいも、そして瑞々しいクレソンを添える。

「できた。シャリアピンステーキ、タスマニアビーフのほりにし風味、だ」

湯気を立てる皿の上には、見た目にも華やかなご馳走が並んでいた。

そのとき、厨房の扉が、勢いよく開いた。

「ムコーダ殿! 陛下が、お待ちかねです! 広間へお願いします!」

「は、はい! ただいま!」

ムコーダは、大きく息を吸い込んだ。

(よし。いくぞ)

そして、自分の三匹と、青年と、若い料理人に、小さく頷いた。

「みんな、運ぶのを手伝ってくれ。冷めないうちに」

「うむ、任せろ。我が運ぶぞ」

「お前は食べる専門だろ!」

六、晩餐

ラインハット城の大広間には、長いテーブルが据えられ、燭台の灯りが、磨かれた銀食器をきらきらと照らしていた。

上座には、ヘンリー国王とマリア王妃。

その隣にデール、向かいには青いターバンの青年とピエール。

そして、広間の隅には、フェルとスイとドラちゃんの席が、床に敷かれた大きな敷物の上に、特別にしつらえられていた。

「おお……これは!」

運ばれてきた皿を見た瞬間、ヘンリーが身を乗り出した。

肉の上から、あめ色のソースがとろりと流れ落ち、湯気とともに、スパイスと玉ねぎの甘い香りが、広間いっぱいに広がっていく。

「なんと、美しい料理ですこと」

「香りだけで、もう、たまりませんね」

マリアとデールが、感嘆の声を漏らす。

「お、お口に合うといいのですが……。シャリアピンステーキといいます。玉ねぎで柔らかくした牛肉に、玉ねぎのソースをかけた料理です」

「しゃりあぴん……? 変わった名前だな。よし、食うぞ」

ヘンリーは、ナイフを手に取った。

すっ、と。

ナイフが、まるで豆腐でも切るかのように、抵抗なく肉に沈んでいく。

「おっ……!?」

切り分けた一切れに、たっぷりとソースを絡めて、口へ運ぶ。

ヘンリーの動きが、ぴたりと止まった。

「…………」

「へ、陛下?」

「…………う」

「う?」

「うまーーーーーい!!」

広間中に、ヘンリーの大声が響き渡った。

「なんだこれは! 肉が、噛む前に、ほどけたぞ! それなのに、肉の旨味は、ちっとも逃げていない! しかも、このソースだ! 玉ねぎの甘みの奥から、なんとも言えない、複雑で、深い香りが……!」

「兄上、そんなに大声で……」

「デール、お前も食え! 早く食え!」

「は、はい……」

デールも、おそるおそる、一口。

次の瞬間、彼は、眼鏡の奥の目を、ぱちくりと瞬かせた。

「……これは、驚きました。肉が、こんなにも柔らかく……。そして、この香辛料。肉の旨味を、決して邪魔せず、むしろ引き立てている。これは、実に、見事な調和です」

「ええ、本当に」

マリアは、そっと頬に手を当てて、うっとりと目を細めた。

「玉ねぎの優しい甘さと、あとから追いかけてくる、このスパイスの香り……。口の中で、いろんな味が、ゆっくりと、重なっていくようですわ」

「ムコーダ殿……! 私の、この感動を、どうお伝えすれば……!」

ピエールは、すでに涙目である。

「カレーパンのときも、そうでしたが、あなたの料理には、人を幸せにする力があります……!」

「そ、そんな、大げさだって」

青年は、静かに、ゆっくりと、ステーキを味わっていた。

そして、一口、また一口と食べ進めるたびに、その表情が、穏やかに、柔らかくなっていく。

「……おいしいね」

「お、お口に合いましたか」

「うん。旅の途中で、いろんなものを食べてきたけど、こんなにおいしいステーキは、初めてかもしれない。……それに」

青年は、にこりと笑った。

「なんだか、懐かしい気持ちになる味だ」

一方、広間の隅では、別の戦いが繰り広げられていた。

「うまい! うまいぞ、ムコーダ!」

フェルが、巨大な肉塊を、かぶりつくように平らげていく。

「この柔らかさ、この香り。まさに、極上だ。……ムコーダ、おかわりだ」

「もうかよ! まだ一分も経ってないぞ!」

「あるじー! おいしいのー! ぷるぷるするのー!」

スイは、全身をぷるぷると震わせ、体の中で、肉を溶かしながら、大喜びである。

「うめえ! このソース、パンにつけて食いてえぜ!」

「あ、それ、いいな。ちょっと待ってろ」

ムコーダは、ネットスーパーから、焼きたてのバゲットを取り寄せた。

ちぎって、皿に残ったソースに浸すと、これが、また絶品である。

「な、なんだ、そのパンは!?」

ヘンリーが、目を丸くする。

「あ、これはその、ソースを拭うのにぴったりでして。よかったら、皆さんもどうぞ」

「おお、やるな! 気が利くじゃないか!」

ヘンリーは、豪快にバゲットをちぎって、ソースをたっぷり吸わせて、頬張った。

「……うまい! ええい、これは酒が欲しくなるな!」

「あ、赤ワインも、ご用意できますが」

「ほう! 頼む!」

ムコーダがネットスーパーから赤ワインを取り寄せると、デールが、ほう、と感心したように、瓶を眺めた。

「このガラスの瓶……なんと、透き通っていて、美しい。この栓も、見たことがない」

「あ、はい。ええと、俺の故郷のものでして……」

グラスに赤ワインが注がれ、ヘンリー、マリア、デール、青年が、ゆっくりと杯を掲げる。

「では、乾杯といこう。ピエールの無事と、新しい友との出会いに!」

「乾杯!」

チン、と、澄んだ音が、広間に響いた。

ひとしきり、料理を堪能したあと、ヘンリーが、ふと、ムコーダに尋ねた。

「なあ、ムコーダ。この、黒い粉……ソースにも、肉にも使っていたな」

「あ、はい。スパイスです」

「なんという名前なんだ?」

「えっと……ほりにし、といいます」

「ほりにし?」

ヘンリーが、ぽかんとした顔をする。

「なんだそれは。変わった名前だな。どういう意味だ?」

「い、いえ、その……実は、俺にもよく分からなくて。名前、みたいなものなんです」

「はっはっは! 意味も分からんのに、そんなうまいものを使っているのか、お前は!」

「す、すみません……」

「いや、いいぞ、いいぞ。うまけりゃ、名前の意味なんて、どうでもいい。なあ、マリア」

「ふふ。ええ、そうですわね」

ヘンリーは、杯を傾けながら、ふと、遠い目をした。

「……昔はな、うまい飯なんて、食える身分じゃなかった。毎日、汗と泥にまみれて、腹を空かせて、それでも、生きるために、必死だった。……そんな時期があったからこそ、思うんだ。うまい飯ってのは、人を、幸せにする。それが、どんな身分の人間にでも、な」

「兄上……」

「陛下……」

「しんみりしちまったな。すまん。ほら、ムコーダ、もっと食え! おかわりは、いくらでもあるんだろう?」

「あ、はい! もちろんです! みんなの分、まだまだありますよ!」

「ムコーダ、我は、あと五枚だ」

「お前は、遠慮ってもんを知れ!」

広間に、笑い声が弾けた。

ふと、ヘンリーが、広間の入り口の方に目をやった。

「……そこで、物陰から覗いているのは、誰だ」

「ひっ!?」

柱の陰から、あの若い料理人が、真っ青な顔で飛び出してきた。

「も、申し訳ございません、陛下! 勝手に、見物など……」

「ははは、怒ってなどおらん。お前、ムコーダの手伝いをしていた料理人だろう? 来い。お前も、食え」

「え、えっ!? わ、私が、ですか!?」

「当たり前だ。これは、お前が学んだ味なんだろう? 作り手が味を知らんでどうする」

若い料理人は、ぶるぶると震えながら、ムコーダの隣の席に腰を下ろし、ステーキを一口、口に運んだ。

そして、静かに、目を閉じた。

「…………」

長い、長い沈黙のあと。

「……私は、これまで、料理というものを、分かっているつもりでした」

若い料理人は、目を開けると、ぽつりと、そう言った。

「ですが、まだまだ、何も知らなかった。……この味を、決して、忘れません」

「大げさだなあ。ただの、ステーキですよ」

「いいえ。これは、ただのステーキなんかじゃ、ありません」

若い料理人の声は、涙で、少しだけ震えていた。

七、旅立ち、そして教会の本

翌朝。

城の門の前には、ヘンリーとマリア、デール、青年、ピエール、そして、見送りに来た大勢の城の者たちが、勢揃いしていた。

「ほんとに、世話になったな、ムコーダ。こんなに楽しい晩餐は、久しぶりだった」

「こちらこそ、お世話になりました。泊めていただいて、ありがとうございました」

「礼を言うのは、こっちだ。ほれ、これを持っていけ」

ヘンリーが差し出したのは、ずっしりと重たい、金貨の袋だった。

「い、いえ、いただけません! 俺は、泊めてもらったお礼に、料理を作っただけで……」

「馬鹿を言え。ピエールの命の恩人に、何も渡さないなんて、王の名折れだ。受け取れ」

「で、でも……」

「ムコーダ。受け取っておけ。人の好意を、断るものではない」

足元から、フェルが、珍しく真面目な声で言った。

「……分かったよ。それじゃあ、ありがたく」

ムコーダが袋を受け取ると、ヘンリーは、満足そうに、にやりと笑った。

「それでいい。ただし、また来いよ。次は、別の料理を食わせてくれ」

「ふふ。お待ちしておりますわ、ムコーダさん」

「お気をつけて、お帰りください」

マリアとデールも、笑顔で手を振る。

「ムコーダさん」

青年が、一歩、前に進み出た。

「今度は、ぼくも、料理を覚えておくよ。……あまり、期待はしないでほしいけど」

「いえ、楽しみにしてます。また、どこかで会えたら」

「うん。きっと、会えるよ」

青年は、そう言って、ムコーダと、固く握手を交わした。

「あの、ムコーダ殿……」

ピエールが、もじもじと、前に出てくる。

「その……カレーパン、は……」

「ああ、はいはい。忘れてないよ」

ムコーダは、ネットスーパーから、大きな紙袋いっぱいのカレーパンを取り寄せて、ピエールに手渡した。

「道中、腹が減ったら食べな。もう、迷子になっても、これがあれば、三日は持つだろ」

「ム、ムコーダ殿ーーっ! 一生、ついていきますーーっ!」

「いや、それはやめてくれ」

ピエールは、紙袋を抱きしめて、おいおいと泣いた。

その場にいた全員が、どっと笑った。

そして、最後に、ムコーダは、見送りの列の端に立っていた、あの若い料理人のもとへ、歩み寄った。

「これ、よかったら」

ムコーダが差し出したのは、予備のほりにしの小瓶だった。

「えっ……! い、いただけません! こんな貴重なもの……!」

「いいんですよ。昨日、すごく真剣に見てくれたから。それに、これを使って、あなたなりの料理を作ってもらえたら、俺も嬉しいです」

「ムコーダ殿……」

若い料理人は、小瓶を両手で、宝物のように包み込んだ。

「ありがとうございます。必ず、大切にいたします」

「あはは。使い切ったら、ごめんなさい。同じものは、もう、手に入らないかもしれないので」

「いえ……。この味は、一生、忘れません」

こうして、ムコーダ一行は、ラインハット城をあとにした。

街道を、しばらく歩いたころ。

フェルが、ふと、鼻をひくつかせて、足を止めた。

「……ムコーダ。匂いが、変わったぞ」

「え?」

「見慣れた、懐かしい匂いだ。道が、つながったようだな」

「本当か!?」

丘を越えた先に広がっていた景色は、確かに、ムコーダたちがよく知っている、いつもの街道だった。

「……戻ってきた、のか」

「あるじー、またあそびにいきたいのー」

「そうだな。いい人たちだったからな」

「俺は、またあのソースが食いてえぜ」

「次は、どんな国で、何を食わせてもらえるのであろうな」

「お前ら、食い気ばっかりだな……」

ムコーダは、苦笑しながら、空を見上げた。青い空は、どこまでも高く、澄んでいた。

* * *

――それから、しばらくのち。

ラインハット城の若い料理人は、毎日のように、あの黒い粉のことを思い出していた。

もらった小瓶は、少しずつ、少しずつ、大切に使った。

けれど、どれだけ、香辛料を調べても、どれだけ、配合を試しても、あの香りを、再び作り出すことは、ついにできなかった。

ある日、彼は、一人、教会を訪れた。

神父が、旅人や、この国に起こった様々な出来事を書き留めている、古い記録の本。

その、何も書かれていない、最後の頁を、そっとめくり、彼は、羽根ペンを手に取った。

――旅の者より賜りし、黒き粉あり。名を「ほりにし」という。

――塩に似て塩にあらず、胡椒に似て胡椒にあらず。肉を和らげ、香りを深め、食する者に、幸福をもたらす。

――我、これを未知の調味料と記す。願わくば、この味が、いつの日か、再び、この国の食卓に戻らんことを。

書き終えた若い料理人は、静かにペンを置き、祭壇の前で、深く、深く、頭を垂れた。

窓の外では、ラインハットの青い旗が、穏やかな風に、ゆらゆらと揺れていた。

(完)


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。