第1話 「絶対の目標」
臨海支部の窓には、春の海から返ってくる光が淡く広がっていた。遠くから見れば青い水面も、通路を歩きながら目を向けると、波の傾きによって銀色の帯へ変わる。窓越しの陽射しは暖かく、足元を流れる空調の風には、まだ外気の冷たさが残っていた。
別の任務を終えて戻った、その日の午後だった。帰還後の確認を済ませた帆波は、エースに声をかけられ、並んで通路を歩いていた。身体に残る負担は落ち着き、仕事の間に結んでいた髪もほどいている。肩へ戻った髪を指で払うと、彼がこちらを見た。
「家では、ゆっくりできたか?」
「はい。三人でご飯も作れました。餃子を作ったんですけど、美帆が包むの、上手になってて」
思い出すと、自然に声が弾んだ。皿の上へ並んでいく形の違う餃子も、台所で隣り合った肩の近さも、まだよく覚えていた。電話なら聞ける声が、そのときは顔を向けるだけですぐそばにあった。
「私もちゃんとできるところを見せるつもりだったのに、妹に感心してばっかりでした」
「それで、どっちが多く作ったんだ?」
「そこは数えてないです。……数えておけばよかったかな」
「帰省してまで勝負にしなくてもいいだろ」
エースの口元がわずかに緩み、帆波も笑った。美帆なら、途中から数えるのはずるい、と言ったかもしれない。そういう返事まで思い浮かぶことが嬉しくて、話したいことが次から次へ出てきた。
母も以前のように、食卓で何度も疲れた目を伏せる様子はなかった。美帆の話を聞きながら箸を動かし、帆波が尋ねれば、自分の近況も教えてくれた。心配そうに仕事のことを聞かれる瞬間はあったけれど、家にいる間じゅう、その話ばかりしていたわけではない。冷蔵庫に何があるか、次は何を作ろうか。そんなことを相談する時間が、帆波にはたまらなく好きだった。
「二人とも元気そうで、よかったです。お金のことも、前ほど心配しなくてよくなったみたいで」
「ああ」
「これからも仕事を頑張れば、もっと安心して暮らしてもらえますよね。私、帰ったときに二人が笑ってるの、やっぱり嬉しくて」
エースはすぐには答えなかった。歩調は変わらなかったが、窓からこちらへ戻った眼差しを受け、帆波は続けかけた言葉を止めた。
「今の生活を支えてるものが、この先も残ってるとは限らないぞ」
「……どういうことですか?」
「金を稼ぐのは大事だ。ただ、それだけで家族の生活を守れるかというと、別の話になる」
通路の先で、誰かが扉を開けた。腕に資料を抱えた職員が出てきて、二人へ会釈して通り過ぎる。帆波も頭を下げたものの、目はすぐエースへ戻った。母の生活を支えるために働き、二人が以前より楽に暮らせるようになった。その先に何が足りないのか、今の言葉だけでは分からなかった。
「何か、あるんですか?」
「説明する。少し待て」
エースは会議室の前で足を止めた。先に扉を開け、帆波へ入るよう促す。その仕草に頷いて中へ入ると、卓を囲んでいた顔がこちらを向いた。
奥に座っていたのは、支部長の黒瀬だった。清潔な実務服の前に資料を揃え、帆波を見ると手元から目を上げる。真壁は作業しやすそうな丈夫な服の袖を整えながら椅子へ座り直し、その隣では、医務室で顔を合わせる石川理恵が柔らかく会釈した。落ち着いた色の実務服を着た彼女は、帆波の顔へ目を向けてから、空いている席を示した。
エースも入ってきたところで、臨海支部に常駐する黒札が全員揃った。普段なら別々の仕事をしている四人が同じ卓についている。そのことに、帆波の背筋が伸びた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。一之瀬さん、座ってください」
黒瀬に促され、帆波は椅子を引いた。エースがそばへ腰を下ろすと、そこでようやく、少しだけ肩の力が抜けた。
「本部から、今後の社会情勢について重要な通達が来ています。あなたにも、自分と家族の生活に関わる部分は、知っておいてもらった方がいいと思いまして」
黒瀬は卓の上の資料へ一度目を落とし、再び帆波を見た。何かの任務を説明されるときのように、帆波も顔を上げて言葉を待つ。
「現在の社会体制が維持できなくなるまで、三年以内。早ければ年内にも社会崩壊が起こり得る。それが、本部から伝えられた見通しです」
「……今年、ですか?」
声が思っていたより高くなった。帆波は黒瀬の顔を見て、それから隣のエースへ目を向けた。冗談を言っている表情ではなかった。他の二人を見ても、今の説明を大げさだと打ち消す言葉は返ってこない。
「ええ。発生する日付まで確定したわけではありません。ただ、本部からは、それを前提に備える必要があると伝えられています」
黒瀬は資料の端を揃えながら答えた。真壁が腕を組み、短く息を吐く。
「来ないで済むなら、それが一番なんだけどな。とうとう、そこまで来たか」
「来てほしくはありませんでしたけれど。備えていたことが、無駄だったと言える方がよかったですね」
石川も静かに言った。誰も慌てていなかった。帆波には、その落ち着きがかえって恐ろしかった。聞き違いではないかと尋ねれば、違う意味だったと笑ってもらえるような余地が、四人の間には見当たらなかった。
「社会が崩れるって……本当に、そんなことが起こるんですか」
「ガイア連合は、もともと世界の崩壊に対抗するために集まった組織だ。最初に説明しただろう」
エースに言われ、帆波は頷いた。確かに聞いていた。覚えてもいる。けれど、知っていたはずの言葉と、今聞かされた話が、頭の中でうまく重ならなかった。
「はい。でも、私……そういう方針なんだと、思っていて」
どう言えば伝わるのか分からず、帆波は膝の上で指を重ねた。悪魔がいることも、異界に人が巻き込まれることも、自分の経験として知っている。それなのに、その外側にある社会まで崩れていくことを、具体的な出来事として考えてはいなかった。
「警察が治安を守るとか、自衛隊が国を守るとか、そういう……必要なことをするための、大きな目的みたいに」
警察があるからといって、自分の家に必ず強盗が来ると思って暮らしていたわけではない。国を守る組織が必要だと分かっていても、日々の食卓を戦争と結びつけてはいなかった。世界の崩壊へ備えるという言葉も、帆波の中では、それに近い場所へ収まっていたのだと気づいた。
「本当に、母たちの生活がなくなるかもしれないとは、考えてませんでした」
声に出すと、初めてその意味が胸へ落ちてきた。仕事を終えて帰る家も、母が買い物へ行く店も、美帆が近況を話してくれる毎日も、自分が強くなっていく間、そこにあり続けるものだと思っていた。
「まず、戦えることと、生活を続けられることを分けて考えましょう」
黒瀬の声に、帆波は目を上げた。
「私がもっと強くなれば、二人を連れて逃げることは、できると思うんです。今より、できることを増やして……」
「それは必要だ。ただ、逃げた先で暮らす場所も要る」
エースの返事は、帆波の言葉を否定するものではなかった。それでも、続けて何を言えばいいのか分からなくなる。真壁が卓へ片手を置き、帆波へ顔を向けた。
「家の蛇口をひねれば、水が出るだろ。あれは、家まで管がつながってるだけじゃ足りない。水を集めて、使えるようにして、押し流してる設備がある。そこで働く人間も、動かすための電気も要る」
帆波は頷いた。実家の台所で手を洗ったとき、そんなことは考えなかった。母の横から皿を取り、汚れを落として、水を止める。それだけで済んでいた。
「電気が止まれば、明かりが消えるだけじゃない。水にも、連絡にも、食べ物を保たせることにも響く。道路が使えなくなったり、物を運ぶ人間がいなくなったりすれば、店にも品物は届かない。いくら強い人間が一人いたって、それで全部どうにかなるわけじゃないんだ」
「医療も同じです。回復魔法があるからといって、病院や薬を作る体制まで不要になるわけではありません」
石川が言葉を継いだ。帆波の目がそちらへ向くと、彼女は普段、身体の状態を確かめるときと同じように、急がず説明した。
「怪我をしたときに回復を受けられることと、病気の原因を調べ、必要な治療や薬を受け続けられることは別です。病院には診察や検査をする人がいて、設備があって、それを支える電力や物資があります。薬も、誰かが作り、運び、管理しているでしょう。そのつながりが途切れる危険まで、回復魔法だけでなくすことはできません」
母が倒れたときのことが、帆波の胸をよぎった。あのときは病院があり、店が開き、お金を払えば必要なものを買えた。それでも家の中は苦しくなった。その外側まで失われるとしたら、母と美帆のために何を用意しておけばいいのだろう。
「日本円も……使えなくなるんですか?」
「ほぼ間違いなく、そうなると考えた方がいい」
エースが答えた。帆波が顔を向けると、彼は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「日本政府が機能しなくなれば、日本円を信用して取引する土台も失われる。今までどおり金を払えば物が買える、とはいかなくなるだろうな。既にそういう傾向がある」
「銀行に、貯めていても……?」
「ああ。通貨の信用の話は、高校生には少し難しいか。今は、日本円が全部紙切れになるくらいのつもりで備えておけ。金額を増やしておけば、そのまま家族を守れるわけじゃない」
エースの言葉を聞きながら、帆波は膝の上で手を握った。送金したときに母が返してくれた言葉も、買い物で美帆が見せた顔も浮かぶ。ようやく二人が少し楽に暮らせるようになった。まだ一年も経っていないのに、その土台を、自分の手が届かないところから失うかもしれない。
「では、日本円で受け取っていたのは……」
言いかけて、喉が詰まった。黒瀬がこちらを見たまま、ゆっくり首を横へ振った。
「必要なことでした。お母さんも妹さんも、これまでの間、生活してきたでしょう。その生活を支えたのは日本円です」
「今の話は、おまえの今までが、無駄だったってことじゃないんだ」
隣からエースの声が続いた。
「次に何を備えるかって話だ。今、家族が元気に暮らせているのは、お前が成し遂げたことだろ」
帆波は唇を結び、頷いた。あの食卓まで消えるわけではない。三人で笑った時間は、これから何が起きても、なかったことにはならない。それでも、思い出にしておくだけでは足りなかった。また帰って、また一緒に食事をしたい。二人には、自分がいない日にも、安心して朝を迎えてほしかった。
けれど、自分には何が必要なのかも分からない。水も食べ物も、病院も、自分の手で二人のために揃えることなどできそうになかった。膝の上の手へ視線を落としかけ、帆波は顔を上げた。目の前には、ずっとその事態に備えてきた人たちがいる。知らないまま、一人で答えを出そうとしなくてもよかった。
「どうすればいいか、教えてください」
黒瀬がこちらへ身体を向けた。帆波は四人を見渡し、言葉を続けた。
「母と妹に、安心して暮らしてほしいんです。でも、今のお話を聞いたら、何から準備すればいいのか……お金を貯めるだけじゃ駄目なら、私に何ができるんでしょうか」
「ええ。一つずつ考えましょう」
黒瀬の表情が和らいだ。石川も小さく頷き、真壁は組んでいた腕をほどいた。急に不安を口にしてしまったことを気にしかけた帆波は、その反応を見て、息を深く吸い直した。
「まず、ご家族が生活を続けられる場所を確保することです。一之瀬さんが仕事で不在でも、必要な設備と、それを維持する人のいる場所を」
「ガイア連合の、施設ですか?」
「それが現実的でしょう。守りも含めて、先ほど話したことに備えていますから」
黒瀬の答えを聞いて、帆波はようやく、この支部の中へ意識を戻した。窓には明かりが差し、空調は動き、帰還した自分を確かめてくれる人がいた。そこにあるものを自分で一つずつ用意しなくても、暮らせる場所を探せばいいのだ。
「家の近くには、ガイア連合の支部はないんでしょうか。横浜の方なら、二人も引っ越しやすいと思うんですけど」
「あの周辺には、ありません。東京に近く、根源寺の援助が届いていた範囲ですから、地元の組織が残っています」
黒瀬は、ないものはないとはっきり答えた。ただ、それで相談を終わらせず、別の候補へ話を移す。
「安全性で考えるなら、候補に入る範囲では山梨第3支部でしょう。崩壊後も、普段の生活を大きく変えずに済む可能性が高い場所です」
「今みたいに、暮らせるんですか?」
「少なくとも、それを期待できるだけの備えがあります。ただ、その分、希望する人も非常に多くなるはずです」
帆波は頷きかけた顔を止めた。最も安全だと聞いた瞬間、そこへ二人を連れていきたいと思った。母が食事を作り、美帆が話す毎日を、大きく変えずに守れるのなら、それ以上に望ましいことはなかった。
「そこに入れるように、仕事をすれば……」
「あなたが努力すれば必ず枠を取れる、とは言えません。希望者が集まったときには、運にも左右されるでしょう。今、予想される避難者だけでも、枠が明らかに足りない。ご家族の計画の中心に据えるには、不確実なところが大きいですね」
どれだけ頑張っても最後に入れるか分からないのなら、その結果が出るまで待つことはできない。帆波は口を結び、他の方法を教えてもらうために顔を上げた。
「神奈川でいえば、小田原の近くにも、大きなシェルターはあったはずだが」
真壁が口を開いた。帆波がそちらを見ると、少し困ったように口元を曲げる。
「ただ、ガイア連合の配下じゃない。お前くらい戦えるなら、向こうは大歓迎だろうけどな」
「それなら、そこで働くのは……」
「勧めない」
今度はエースが答えた。短い言葉だったが、帆波の目を見て、理由も続ける。
「戦える人間として迎えるだけならいい。だが、女として、本人の望まない役割まで求めてくる相手だ。お前が我慢すれば済む話にもならない。おそらく、母親と妹にも求められる」
帆波は息を止めた。隣で石川の表情からも笑みが消えている。それ以上の細かな説明を聞かなくても、家族を連れていきたい場所ではないと分かった。
「……そこは、嫌です」
「ああ。それでいい」
エースは頷き、帆波も手の力を少し緩めた。大きな施設があり、戦える自分を必要としてくれる。それだけでは、母と美帆の居場所にはならない。迎えてもらえるかどうかばかり気にして、そこで何を求められるかを、考え損ねるところだった。
「守るために移って、そこで暮らすことが苦しくなっては困りますからね」
石川が静かに言った。帆波が頷くのを待ってから、黒瀬が新しい候補を口にした。
「木更津支部を考えてはどうでしょう。ガイア連合のシェルター居住権を、家族一世帯分、取得する方法があります」
「木更津……ですか」
「ええ。大規模な商業施設が撤退した後を、ガイアコーポレーションが周辺の土地ごと買い上げ、建設された支部になります。あなたが任務で不在でも、お母さんと妹さんが生活を続けられる場所です。居住権は長期で、原則として期限を設けません」
帆波は椅子へ座り直した。今の言葉を聞き落としたくなくて、黒瀬へ顔を向ける。
「避難するときに、空いていたら入れる、ということですか?」
「いいえ。取得したご家族の分は、確実な枠になります。空きがあれば優先する、という権利とは違います。支部の敷地内に家を買うようなイメージがわかりやすいでしょうか」
膝の上で握っていた手が、ようやく開いた。帆波はすぐに次のことを尋ねた。
「何が必要ですか?」
「実物のマッカと、ガイア連合への貢献実績です。日本円を用意すれば取得できるものではありません」
帆波は、自分の蓄えを思い返した。これまでは母と美帆の生活を楽にしたくて、日本円の報酬を優先してきた。マッカも受け取ってはいたけれど、十分に貯めているとは、とても言えない。ここで初めて、その少なさが具体的な焦りになった。
「私の分も、含めて一世帯ですか?」
「あなた自身の避難先は、黒札の紹介で加入した時点で確保されています。ただ、それがそのまま、お母さんと妹さんの居住を保証するわけではありません。お二人と家族で暮らす枠は、別に取得する必要があります」
自分だけなら、行く場所がある。そのことに安堵するより先に、母と美帆を置いて入る場面が浮かび、帆波は胸の奥が冷えるのを感じた。そこまで自分を迎えてくれる組織への感謝はあった。だからこそ、今度は自分が、二人の分を用意したかった。
「取れたら、母と美帆は、そこでずっと暮らせるんですね」
「原則として、そう考えて構いません。住居費や管理費、光熱費は居住権に含まれます。食費や日用品など、日々の暮らしに必要な支出は別です」
黒瀬の説明を聞きながら、帆波は新しい家の台所を想像しようとした。まだ見たこともない場所で、窓の形すら分からない。それでも、母が食器をしまい、美帆が今日あったことを話している姿なら、思い浮かべられた。
「そこを目指したいです」
言葉にすると、焦りの向かう先ができた。必要なのは、ただ漠然とお金を増やすことではない。母と美帆が暮らし続けられる、一世帯分の居住権だった。
「私、仕事を増やします。マッカも、これからはできるだけ残すようにして……」
そこまで言って、帆波は隣を見た。エースは続きを待っていた。その顔に背中を押され、頭に浮かんだ考えを口にする。
「学校を辞めて、仕事だけにした方が、早く取れますか?」
言ってからも、無茶な案だとは思わなかった。今の帆波にとって、Aクラスで卒業することは、母と美帆の生活より優先する目標ではない。授業や課題、試験に使う時間を仕事へ回せるなら、その方がいいのではないか。年内にも起こり得るという本部の通達を聞いたばかりで、次の学期が始まればまた仕事へ出られない時間が増えるのが、もどかしかった。
「たぶん、逆になる」
エースの返事に、帆波は目を上げた。
「退学したら、臨海支部の所属じゃなくなる。今と同じ条件で仕事を続けられるわけじゃないぞ」
「でも、ガイア連合では働けますよね?」
「ああ。ただ、お前の今の実力なら、家族を守ってもらう支部に所属して、そこの範囲で動く形になるだろうな。遠征は自重しろと言われるはずだ。家族を守ってもらう以上は、あまり好き勝手はできないだろうな」
帆波は口を閉じた。学校へ行く時間がなくなることばかり考え、仕事へ出るときの条件まで変わるとは思っていなかった。
「今は、こちらで依頼を仲介し、移動も手配しています。一之瀬さんが必要な支援を受けながら活動できるようにしている。その環境まで、退学後も同じ形で続くとは考えないでください」
黒瀬の説明を聞くうちに、これまで仕事へ向かった日のことが浮かんだ。自分が戦う前にも、帰ってきたあとにも、誰かの助けがあった。現地まで行けたのも、帰って身体を確認してもらえたのも、エースが隣にいてくれたのも、自分の時間を空けただけで揃ったものではない。
「受けられる依頼が減ったら、働ける時間が増えても……」
「収入が増えるとは限らない。おそらく減るだろうな」
エースが頷いた。真壁も帆波へ目を向ける。
「時間さえあれば、同じ仕事を好きなだけ増やせるわけじゃないからな。行ける場所が変われば、そこでできることも変わる。稼げる場所もあるかもしれないが、そういった場所は人が集まるからな。おまえが入り込む余地がるとはかぎらん」
「それに、強くなる方にも響く」
エースの言葉に、帆波は顔を向け直した。
「今まで順調に伸びてきたのは、お前がよくやったからだ。ただ、それに合う異界へ行けたことも大きい。同じ場所に潜り続ければ、これまでのように強くなることは不可能だろう」
新しくできることが増えた日の感覚が、腕の奥へ戻ってくる。次も試したいし、もっと上手く使いたい。そう思っていた。そのために、エースと一緒にいろいろな場所へ行けることが、どれほど恵まれた条件だったかも、今の話で少し分かった。
「今のように、関東のいろんな場所へ行ける方が、いいんですね」
「ああ。これからも強くなるなら、その方が有利だ。家族の居場所を取るまでにも、取ったあとにもな」
帆波は卓の上へ目を落とした。急がなければならない気持ちは変わらない。けれど、そのために今ある道を狭くしてしまえば、母と美帆のもとへたどり着くまで、余計に時間がかかるかもしれなかった。
「……学校にいる方が、仕事を続けやすいんですね」
「今のお前にはな」
少し考えてから、帆波は頷いた。学校へ通う意味を、クラスの目標から探し直す必要はなかった。ここで働き、教えてもらい、家族のために必要なものを用意する。その条件を守るために、在籍を続ければいい。
「辞めません。退学にならないように、授業も試験も、必要なことはちゃんとやります」
口にしてみると、迷いは思っていたより早く収まった。空いている時間まで、以前のようにクラス全体のためへ差し出すつもりはなかった。その時間を使って、自分の仕事をする。母と美帆の安全を確保し、もっと強くなるために。
「そのうえで、仕事に出たいです。居住権を取れるように、マッカと実績を貯めます」
「分かりました。目標が決まったなら、その前提で相談していきましょう」
黒瀬が頷いた。すぐに居住権を渡すとも、必ず間に合うとも言わなかった。その代わり、何を用意すればいいかは、もう分かっている。帆波には、それがありがたかった。
「急ぎたいときほど、身体の状態は隠さないでくださいね」
石川に声をかけられ、帆波はそちらを見た。
「仕事へ出たいから大丈夫、と答えてしまうと、こちらも必要な判断ができなくなります」
「はい。ちゃんと伝えます」
「使うものの不具合もな」
真壁が続けたので、帆波は思わず笑みをこぼした。さっきまで胸を塞いでいた話の中に、いつもの仕事の注意が戻ってきた気がした。
「分かりました。身体も、装備も」
「そこをまとめて返事するなよ。片方忘れるぞ」
「忘れませんって」
明るく返してから、帆波は四人へ頭を下げた。不安がなくなったわけではなかった。活動の目的として聞いていた危機が、自分と家族の毎日に起こり得ることへ変わってしまった。その怖さは、まだ胸の奥に残っている。それでも、何をしたらいいか分からないまま、一人で抱えて帰らずに済んだ。
会議室を出ると、通路の床に落ちる光が、来たときより細くなっていた。帆波は窓の向こうを見た。港には荷を運ぶ車両があり、人が歩き、海の上には船が見える。さっきまでは目に入っても通り過ぎていたものを、今は少し長く見てしまった。
「エースさん」
隣を歩く彼が顔を向ける。帆波は、胸の中に残っていたことを、確かめるように尋ねた。
「これからも、教えてもらえますか。もっと強くなりたいですし、仕事も、ちゃんとできるようになりたいです」
「ああ。分からないことがあれば聞け」
「はい」
短い返事に、帆波は大きく頷いた。彼がそばにいてくれることを、やはり頼もしいと思った。次に仕事へ出るときも、その次も、できるようになったことを見てもらいたかった。戦うときの楽しさまで、今日の話で消えたわけではない。その気持ちも抱えたまま、母と美帆のために働いていいのだと思えた。
窓から目を戻し、帆波は歩き出した。家では、帰れば三人分の箸が並ぶ。その当たり前を、これからも続けたい。まだ手にしていない居住権を目標に据えると、次に受け取る報酬から、何を残していくべきかがはっきりしていた。
母と美帆が暮らす場所を、今度は自分で用意する。そのために学校へ戻り、ここへ通い、仕事を続ける。帆波はエースの隣で歩調を揃えながら、二人の元へ帰る日を思った。